【神を信じて義とされた】 ガラテヤ3章1~14節

2017年6月18日

 ドイツのアウグスティヌス修道院の司祭でヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルチン・ルターは神の義を求めて、聖書を詳しく学び、院長の指導により修行に励んだが疑問が増すばかりでした。ガラテヤ書の講義が終った時、「義人は信仰によって生くべし」と旧約のハバククから引照されている御言葉によって今までの疑問が解決され「95箇条の提題」をヴィッテンベルグ城教会の扉に張り出して宗教改革の運動が1517年10月31日に始まりました。

 ヘブル語のセデクは旧約では正義、公義などと訳されていますが、神学的概念では、旧新約とも”義”です。神の義は旧約時代には、律法によって示されましたが、人間は誰一人、律法の遵守によって救われる者は全くないのです。新約における義は、旧約の”義“を前提とし、特にユダヤ教の〈律法による義〉に対して新しい展開を成しました。それは、イエス・キリストと十字架です。旧約の律法の行為による報いの義に対して、信仰による、神様の賜物としての義が強調されました。神様は義なるδικαοσディカイオス神様であって《神の義》は律法のうちに現れ、人間にその遵守を要求しました。もし律法を行なえば、神の恵みを頂き背反すれば罰を受けるところに神の義がありました。

 《義人》Hο δικαιοσホ・ディカイオスとは、神の意思に従って行為をする者であり、その結果救いが与えられる。それは神様の賜物として与えられるのであって、自分の功績として獲得したものではありません。人間の義は神意に沿った行為により、神様から受ける恵みです。又同時に人の心の中を見て裁く義です。神様は義の神、裁く神です。

 そこで神様は新しい方法、新しい義の啓示によって人を裁くのではなく、救おうとされた。それがイエス・キリストと十字架によって示された神の義です。それは人間の側の行為や功績ではなく、神の一方的な恵によって与えられるものです。キリストが人間の罪を負い、人間に代わって、自らを贖いの犠牲として献げることによって救いを成就されました。

 人間は唯キリストを私の救い主と信じる信仰を持って、恵を戴くことによって、神の義、神の願いが全うされます。義なるキリストを信じることによって、人は義とせられ信仰の義認となるのです。ガラテヤ3章6節《アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。》といわれているとおりです。)

 マルチン・ルターはローマ書、ガラテヤ書、預言者ハバククにより。《義人は信仰によりて生くべし》の御言葉で救われた自覚と義認を認めました。故に乱れた当時の宗教を改革すべく立ち上がったのです。彼はローマ教会を改革しようとしたのですが受け入れられず。プロテスタント教会を発展させたのです。彼の礼拝形式も殆どカトリックと同じです。

 私達一同聖書のみ言葉によって与えられる信仰を見直しましょう。そのため聖書通読を実行しましょう。ローマ1章16節~17節。『私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。《正しい者は(義人)信仰によって生きる》と書いてあるとおりです。』御言葉の力を信じましょう。