【木にかけられた者】 ガラテヤ3章10~14節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年3月4日

 パウロは”信仰によって”を強調する為、律法の誤りを厳しく指摘します。10節以下で律法の行ないでは、義と認められないことを述べています。9節「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」10節「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています。(申命記27章26この律法の言葉を守り行わない者は呪われる)と書いてあるからです。」

 十戒を中心とした律法があります。私達は律法をすべて守っているとはいえません一つは守っていても他は犯しています。結局は全てを多少とも犯しています。その意味でも私達は皆呪いの下にあります。神様は私達をのろいの下に置くために律法を与えなさったのでしょうか、愛の神様が私達をのろいの下に置かれるはずではありません、11節「律法によっては誰も神の御前で義とされない事は、明らかです。なぜなら、ハバクク2章4節(正しい者は{信仰によってエク ピステオースεκ πισεωσ}生きる)からです。信仰が義人を生かすのですからです。

 12節「律法は、信仰を拠り所としていません。(律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる)のです。レビ18章5節(私の掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることが出来る)」旧約聖書では、罪が呪いをもたらせて不幸にするという信仰があります。創世記3章、エデンの園物語ではへびが罪を犯させたために呪われ、アダムの罪のため地は呪われました。前記の申命記27章には違反者に呪いをもたらせる罪が列記されています。しかし呪いは神様が人々に与えようとする恵に相対するものでして、人は神に従うべきか否かを自ら決定するのです。自らの意思決定して、神様からの祝福を受けるべきです(申命11章26~28節と30章1,15節~と比較する)

 新約聖書でも、のろいは罪を犯した者の裁きに関して述べられます。イチジクの呪い(マルコ11章12~14,20~)実の成らない時期であることをご存じのイエス様がなぜイチジクの木を呪われたのか不思議でしたが、神様への不従順から自分の上に不幸を招くユダヤ人について述べられた事を知り神様のさばきの厳しさを知りました。

 パウロはキリストを愛さない者は呪われる。また福音と偽った教えを説くものは呪われると言っています。申命記27章26節『この律法のことばを守り行わない者は呪われる』コリント前6章22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。[呪われよ]」イエスは主ですと告白して主イエスを愛することが、主イエス・キリストとの交わりに入れられている証拠です。主を愛さない者は自らをキリストとの交わりから切り離すことになります。

 律法による救いは不可能であり、信仰によらねば救いはありません。律法によって生きるものは、律法の支配下に生きる事であってそれは呪いのもとに生きることを意味します。

 13節ここで私達を律法の呪いから贖い出してくださるキリストの犠牲が取り上げられます。信仰により義人の道は人間が自由に選び取れる道ではなく、神様がキリストの死を通して与えてくださる恵の賜物です。キリストは私達の為に、呪われた者となって十字架の死をもって私達を救ってくださったのです。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。その死が、私たちを呪いから贖い出してくださったのです「贖いだす]エクサゴラゾーεξηγοραζωは代価を払って人を奴隷の身分から自由にする事です。

 神様の御独り子罪のないお方を罪人の呪いの身代わりとして十字架の贖いの死をなさしめ、死の代価を払わなければならない私達を、律法の呪いから解放して下さり、罪から救い、神様の子としてくださったことを心に銘記してください。