人を生かす権威

  • 聖 書:マルコ福音書第11章27-33節
  • 説教題:人を生かす権威
  • 説教者:上中栄

今般の新型コロナウィルスの感染拡大に際し、世界中で都市封鎖や外出禁止の措置が
とられています。日本は、まだその状況ではないと判断されているようですが、予断
を許さない状況であると思います。こうした強硬措置で問われるのは、為政者の「権
威」です。

為政者の権力行使が容認されるために必要なのは、為政者と市民との間の信頼関係で
す。今の日本にそれがあるか心許ないところですが、それだけに私たちの意識や責任
も大切になります。

さて、この場面で問われているのも《権威》です。祭司長、律法学者らが主イエス
に、《何の権威で、このようなことをしているのか》と詰問しました。場所は神殿で
す。《このようなこと》とは、前回読んだ主イエスによる「宮きよめ」を指します。
彼らは、このことによって主イエスに殺意を抱きました。

それは、自分たちのいわば「しきり」である神殿で、主イエスが勝手な行動をしてい
ると思ったからです。だれでも、人から侵されてはならない領域を持っています。最
近では、バウンダリー(境界線)など、人間関係における距離感の大切さが説かれま
す。それは、自分自身や相手の尊厳を尊重するために必要なことです。しかし、ここ
での祭司長らの主張は、自分たちの明らかにされたくない心、神に背く思いを指摘さ
れることを防御し、逆に主イエスの行動が不当だと非難するものでした。それは、前
回の実のないいちじくのように、見た目は装われているのに、その内実が伴っていな
い姿です。

それに対して主は、直接お答えにならず、ヨハネの洗礼は天からのものか、人からの
ものかと、問い返されました。祭司長らは論じ、「天から」と言えばなぜ信じなかっ
たのか、「人から」と言えば、洗礼者ヨハネを預言者と思っている群衆がどう反応す
るかを恐れ、《分からない》と答えました。答えは分かっているのです。しかし、答
えないところに人間の罪があります。

主イエスの問いは、そんな彼らに決断を迫るものでした。今般の自粛要請といった状
況でも、判断が丸投げされるようなことが起きています。教会の礼拝についても同様
です。誰も先を見通せず、どう責任をとっていいか分からないからです。

しかし、主イエスが迫る決断は、無責任なものではありません。主ご自身がいわば責
任を負ってくださったのです。それが十字架の死と復活であり、そこに神の権威が現
れているのです。

このように、主イエスの《権威》は、人を救い、生かすものです。世界中が困難な状
況にある今、主の権威に信頼し、憐みを求め続けていきましょう。
(おわり)

コロナ感染の終息と、みなさんの心とからだが守られ、今週の歩みが支えられるよ
う、心からお祈りいたします。