神のなされる不思議

  • 聖 書:マルコ福音書第12章1-12節
  • 説教題:神のなされる不思議
  • 説教者:上中栄

前回の権威をめぐる問答で、主イエスは祭司長らにお答えになりませんでした。対話
が打ち切られたかのように見えますが、そうではありませんでした。主は続けて語ら
れました。

それは、ぶどう園の仕事を託された農夫たちが、オーナーの使いをあしらい、最後に
はその息子も殺してしまったという譬えです。不思議に思える話ですが、聞いていた
祭司長らは、「ぶどう園」といえば、旧約聖書のイザヤ書を想起できたといいます。
それは、不毛なぶどう園に対する裁きの預言であり、それが《自分たちをさして語ら
れた》ことまで分かったのです。

だいぶ前、礼拝後に、「今日の説教は、私への当てつけか?」と聞かれたことがあり
ます。驚いて「当てつけてはいない。しかし、自分のことが語られたと感じたなら、
説教の聴き方としては正しい」と答えましたが、その人はやがて教会に来なくなりま
した。

主の言葉を聞き続けることの大切さを思います。私たちは、慰めや励ましなど、自分
が聞きたいことを選んで聞こうとします。それも大切なメッセージですが、自分に
とって都合の悪いことを聞けるでしょうか。

 《収穫の時》とあります。聖書には「時」を表す言葉が二つあります。時計が刻む
ような時間を「クロノス」、特別な時を表す「カイロス」です。例えば、味噌汁を毎
朝食べるのは「クロノス」、道を外した人がある時食べた味噌汁で母親のことを思い
出し、立ち直ったとすれば、それは「カイロス」です。

《収穫の時》とはカイロスです。単なる季節ではなく、「神の時」です。収穫は、
本来は喜びの「時」です。しかし、働きや生き方の結実が問われる「時」は、人間に
とって危機です。そしてこの譬えでは、その危機は、人間の罪が最も露になる「時」
だというのです。

「死」はまさに人間が恐れる危機です。今般のウィルス感染でも、人間は言い知れ
ぬ不安に襲われます。普段あまり考えない、死のリアリティがあるからです。まさに
カイロスです。

しかし、そうであれば、カイロスは神の恵みに目が開かれる「時」でもあります。
殺されて、ぶどう園の外に捨てられた《息子》は、キリストの十字架を指します。こ
のオーナーは寛容すぎる、この譬えを読む多くの人がそう感じるでしょう。しかし、
最後に神の正義は実現します。死や危機を他人事として聖書を読むなら、そこに神の
忍耐と恵みを見出すことはできません。

まさにキリストによる救いは、神のなされる《不思議》です。神とのは対話は打ち
切られていません。この危機の中でこそ、神の恵みを見出していきましょう。
(おわり)

コロナ感染の終息と、この危機に立ち向かう全ての人に、主の守りと支えを祈りま
す。今週もみなさんの心とからだが守られますように。受難週です。この危機の中で
神の恵みに生きることができますよう、心からお祈りいたします。