日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

2005年のメッセージ

【みどりごが我々の為に生まれた】 イザヤ9章1〜7

 8章で闇の世界について、9章ではその闇の中に一条の光が差し込んでくることの預言が述べられています。特に6・7節はクリスマス、救い主の誕生を預言している有名な箇所です。3節の喜びの理由として、6節みどりごが私達の為に生まれ、我々に与えられると言っています。そこには(生まれた)(与えられた)(ある)(となえられる)と完了形の動詞が内容の確実性を示しています。
 その当時の北王国イスラエルは、アッシリヤ侵略を受け、サマリヤを中心としたわずかな山地のみが残され、多くの民は捕囚としてアッシリヤに曳かれて行きました。そのような危機状況の中で、社会秩序は乱れ、神に聞くことをせず人間の考えによって計画を立て行動しようとしましたが、それは頓挫しました。人々は口寄せ・占い・霊媒などに頼ろうとするオカルトという精神的にも暗黒の中にあったのです。
 そのような暗黒な中を歩んでいる民に対して、9章2・3節『大いなる光を見た』『光が暗黒の中に照った』とすでにイザヤは暗黒の中に差し込む大いなる光をはっきりと見ていて語るのです。
 6・7節神の一人ごが、人間の貌(かたち)をとられてみどりごとして人間社会に現れなさろうとするするそのとき、驚天動地の自然現象などを伴って起こったのではなく実に夜・静かに 人々に知られていないようなベツレヘムの、しかも馬小屋に誕生なさったのです。己を空しくなさってみどりごとして、私達の目で見ることの出来る光としてお生まれになったのです。闇の中に光が照るこの出来事は、神にのみなしうる業です。
 4節にあるミデアンの日とは士師ギデオンが神のために戦うと決意した3万2千人では多いといわれ、命令どおり3百の精鋭なる勇士を選んで、雲霞のごとく集まって野営をしているミデアンの軍勢を、武器を持たず、ラッパとたいまつとそれを隠す壺のみで敵を敗走させた記念日です士師記7章。人間の力によらず、神の力を信じより頼んだことによる勝利です。闇に勝つためには圧倒的な神の力がなければ不可能です。その為に神の御一人ごが、みどりごとして我々の為に誕生なさったのです。
 そのお方は単なる象徴ではなく、全ての統治者です。聖書が語る名とは、人格そのもの、人に備わった才能・職分などをさしています。彼は霊妙なる議士(不思議な助言者、ワンダフルカウンセラー)通常王は助言者を必要としたが、助言者を必要としない完璧な王をさす。みどりご自身が大能の神全ての創造者であるエール。とこしえの父歴史を超えた神の王国での民に対する父。憐れみに満ちた姿を表します。平和の君(シャローム健康であり、平安、健全さ、安全であり、完全無欠)。神との間にシャロームの関係が出来ると、人との関係、個人にもシャロームが成立するのです。
 7節、みどりごの働きが述べられます。まつりごと(政治)の及ぶ領域が広がり、平和が増し加わりダビデの王座が永遠に続きユダ王国とイスラエル王国がこのみどりごにおいて一つになされます。イスラエルの亡国を目の前にしたイザヤは、神によって新しく一つとなされた国は公平と正義が保たれることを見るのです。それは人間にとって不可能なことですが、万軍の神の熱意で実現なされます。その実現はみどりごなる救い主キリストにおいてなされるのです。クリスマスは神の子を我々の為に与えてくださったその恵みに感謝し自分自身の幸いを祝う日なのです。



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【愛する者と共に住まわれる神】 ヨハネ14章18〜24

 弟子達にはイエスさまと一緒に生活した3年余、愛されたという事実が心身ともに刻印されています。裏切り者を出し、又十字架上の主を捨てて逃げ出した弟子達ではありましたが、主は変わらずに愛を持って接しられました。そればかりかご自分の仕事である子羊を飼う仕事を一切お委ねになりました。その信頼してくださる主の愛が彼達の心に沁みこんだのではないかと思います。
 私達キリスト者は、私自身に対する問いかけでもありますが、初代教会の弟子達のように主の愛を経験したでしょうか。聖餐に与るとき流された血と裂かれたあの肉が私の為であったと、その愛に心の底から湧き出る感動に揺り動かされた事がありますか。十字架の言葉を聴いている時に主の愛が迫ってきた事がありますか。私達が今ここに礼拝に加えられていることが、多くの人々の中から選ばれたのだと実感して感謝していますか。
 喜びも悲しみも分かち合うことが出来ない、愛されている実感がない孤独は寂しいものです。そのようなときに祈りを共にする人がいない空しさを感じます。主はそのことをご存知ですので、18『私はあなた方を捨てて孤児とはしない』と遺言されました。『あなた方のところに帰ってくる』『私の戒めを心に抱いてこれを守る者は私を愛するのである』と述べられます。私達が主の戒め(聖書の言葉)を心に蓄えるため、聖書通読に励む理由の一つでもあります。 
 主イエス様は十字架の死、そして復活の後に23『・・・・父と、私達はその人のところに行って、その人と共に住むであろう』と、孤児とはしないとの約束の実現を強調されています。14章3節あなた方を迎えると同時に、あなた方のところへ行くと言われている事にも注目したいのです。
 時に兄弟姉妹の交わり、教会の欠点が目に付いて不満を感じたり、それに躓く事があります。原因はキリストの愛を深く体験し、感謝できないところにあります。私はそのとき自分自身にも、不満を感じている方にも語るのですが、裁く前にその事について祈ったか、とりなしの祈りをしたかと問います。主の体なる教会を愛しているのなら、兄弟姉妹を愛しているのであれば、自分自身の痛み、問題だと感じるはずだからです。
 不完全で不満ばかり感じやすい私のところに主イエス様は父と共にお出でになり共に住んでくださるとおっしゃるのです。不満を言っておれましょうか。他者を裁いておれましょうか。ほんとに神は愛のお方です。感謝するより外にはありません。
 不完全であり、欠点だらけの私、ほころびばかりが目立つ私達の交わり、その共同体の教会に主イエス様は共に住んでくださるのです。私達は裁くことよりも、主が共に住んでくださる約束を信じて互いに愛し合い、とりなしの祈りに力を入れるべきです。



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【あなたの為に貧しくなられた主】 コリント第二8章1〜15

 ピリピ2章4・5・6節『おのおの己のことのみを顧みず、人の事おも顧みよ。汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。即ち彼は神の貌(かたち)に居給いしが、神と等しくあることを保たんとは思わず、反って己をむなしゅうし僕の貌をとりて人の如くなれり。既に人の様にて現われ、己を卑(ひく)うして死に至るまで、十字架の死に至るまで従い給へり』主が貧しくなられたのは私達を豊かにするためです。イエス・キリストの救いは我々に対する恵みです。その恵みに与った者は神の一方的な好意の表れですからそれに応えて献身するのです。そしてその献身が聖霊の実としての信仰の行為があります。そのことをポウロは8章で教会発生の地であるエルサレム教会の貧しい信徒のための献金について語ります。
マケドニヤ諸教会とは、ピリピ、テサロニケ、ペレヤ諸教会を指しています。これらの教会はポウロの第2回伝道旅行のときに生まれた教会です。激しい迫害と困難の中に最初からあったが、彼らはその試練に打ちひしがれはしなかった。主の恵みに預かり、その満ち溢れる喜びは、どん底の貧しさの中でその喜びによって惜しみなく施す富となりました。
8章3・4・5節においてポウロは、マケドニヤ教会の5つの事をコリント教会に証ししています。彼らは力に応じてではなく力以上に施しをしました。それも強制されてはなく自ら進んでなしました。また聖徒達への奉仕の恵みに加わりたいと熱心に願い、ポウロ達の希望通りにしたばかりか、神の御心にしたがって先ず自分自身を神に捧げました。そして彼達は献身の恵みのわざとして献金をしました。愛の真実の姿として自発的献金をしたのです。彼達は極度の貧しさの中にあったので、献金の額はそれほど多くはなかったが、彼達の力以上でありました。
コリント教会もエルサレム教会の援助献金を始めていることでしたが、ポウロはマケドニヤ教会の人々が神の恵みの中喜びに満たされ献身を献金という形で表している証しを通してコリント教会の人々を励ましているのです。あなた方は信仰にも言葉にも知識にもまた愛についてもあらゆることに富んでようにこの恵みにも富んで欲しいと望んではいますが、命令するのではなく証しを通して愛の純真さに挑戦しているのです。あなた方は私達の主イエス・キリストの恵みを知っています。主は富んでおられたが(神の御独り子として)あなた方のために貧しくなられた(人となられ、十字架の贖罪の死を受けられた)それはあなた方が、彼の貧しさによって富むものとなるためである8勝9節。
クリスマスは、このような恵みを私達に与えなさるために、神が人となってこの地上に誕生されたのです。イエス様はインマヌエル(神我らとともにいます)と呼ばれました。主イエス様が貧しくなられそれを通して恵みを与えてくださったのです。
待降節の期間はこの恵みに対して主に献身するときとしたい。その具体的表現が奉仕であり献金なのです。主の恵みを十分過ぎるほどにいただいている私達キリスト者は、己が幸を祝わずやとこころから感謝の讃美をささげるのです。



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【私達に共感なさるイエス様】 イザヤ53章1〜12

 イザヤの預言の中心は4・5節です。主イエス様がこの地上に人の子としてお出でになったその目的はこのみ言葉が示しています。この目的を果たされる為に3節、軽蔑され、人に捨てられ、必要のないものとして遠くに退けられ、人の肉体的精神的な病の苦痛、人生の悩み、悲しみ等を身をもって経験されておられます。主は私達の経験する人生の全てを味わいなさいました。私達の生活上の問題点も十分に承知される体験をお持ちです。私達が悩み、苦痛、悲しみに打ちひしがれている時、同情するのではなくご自分のものとして共感してくださるのです。
 十字架上の主は人の目には耐えられないような姿になられました。みるべき容姿も威厳もない2節。カルバリーの刑場へ血まみれになって、よろよろと十字架を負って進まれるイエス様のお姿そのものです。そのような主を存在価値のないものとして人々は無視した。しかし主は私達の罪・咎を代わって受けてくださり私達の病まで負ってくださったにもかかわらず、神にたたかれ、苦しめられたのだと彼を侮辱し尊ばなかった。私達の身代わりとして苦しめられたのです。神の御子が僕の姿を取られ私達の病、痛みを負うて苦しめられたのですが、それを認めるどころか彼を侮辱無視してしまうのです。誰がそのようなことを聞いて信じたであろうか1節。
 5節主がそのような痛み苦痛の懲らしめを受けられたのは、われわれの咎と不義を身に受け止められて、私たち罪を認めた者に、平安(シャローム)与えてくださったのです。8節暴虐な裁きによって命を奪われ、この地から絶たれたのは私の罪故と告白せざるを得ません。
 私が神にそむいて神との断絶を招いてしまいました。この解決はポウロが言うように罪の払う値は死より外にはないのです。聖い神と穢れ果てた人類の間には大深淵があり、人間は神の前に立つことが出来ません。主の十字架が私達を洗い聖めその深淵の橋渡しをなしてくださったのです。そして私達の祈り願いを主ご自身の33年のご経験を通して父なる神に取り成して下さいます。
 主は十字架にお架かりになる前夜、弟子達にご遺言を語られました。ヨハネ14章14節・15章16節・16章24節『今までは私の名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そしてあなた方の喜びが満ち溢れるであろう』と約束なさいました。このみ言葉を信じて祈るときに、主は父なる神にとりなして言われます。今あの兄弟(姉妹)が味わっている苦痛は私が十字架の痛みに耐えたあのようなものです。物質的な不足、飢えたときに石がパンに見えたほどです。あの不足を満たして欲しいととりなしてくださり、祈りは受け容れられるのです。
 私達が主の名によって祈るときに、主イエス様はご自身のご経験をもとにして、私達の心に共感されてとりなして下さるのです。より深く共感してくださる主のご約束を信じて私達は主の名によって祈り、与えられて喜びに満たされましょう。



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【正しく愛情深いヨセフ】 マタイ1章18〜25

 主イエス様はBC4年頃にお生まれになりました。当時ユダヤの王ヘロデは、自分の血統や系図が良くなかった劣等感からでしょうか、ユダヤ人が大事にしていた家系図を焼き捨てるように命じたにも拘らず、公の記録に戸籍が保存されていました。ヨセフの家系図が残され、マタイはこれを福音書の最初に述べています。ルカも3章に系図を述べています。両者はイエス様がメシヤとして到来されたと、その誕生を伝えています。とくにマタイが系図のすぐ後に、主の誕生を伝えているのはイエス様をマリヤの不義の子だとそしるユダヤ人に語っているのです。マタイ福音書は旧約聖書を信じているユダヤ人に対してイエス様こそ旧約が指し示すメシヤでありキリストであることを語るよき訪れ(福音)なのです。
 ヨセフの家系が紹介されると、次に直ちにイエス・キリストの誕生の次第はこうであったと、人々には信じがたいことが書かれています。普通なら黙っている方が都合が良いはずの、主にとって不利な事実が述べられるのです。母マリヤは婚約中に身ごもったのです。ユダヤの婚約とは2人以上の証人立会いの上で神の前に夫婦の契りを結び、法律的に夫婦となります。しかし通常1年ほどしてから夫婦としての生活を始めます。婚約は結婚したという契約ですから夫ヨセフといわれ、婚約解消は当然離縁を意味します。
 ルカ1章マリヤは天使ガブリエルから、聖霊なる神の力によって男子を身ごもったことを知らされました。処女マリヤの受胎告知です。ユダヤ民族はメシヤの来臨を長い間待ち望んでいました。マリヤは戸惑いつつも、救い主の誕生の為自分が選ばれたことを知って、喜びと感謝をもって神を讃美(マグニフィカート)しています。
 夫ヨセフは天使の告知の事は知りませんでした。身重になったことを発見した彼は驚きを禁じ得なかったのです。法律的には夫婦です。愛していたので今時の人のように出来ちゃった結婚で同居してしまえば良いでしょうが、神の前に誠実で正しい彼にはできないことです。といってこのことが公になると母子ともども死刑台に送ることになります。彼は思い悩んだ末、密かに離縁しようとした時、マタイ1章20・21『・・・その胎内に宿っているものは聖霊によるのであり、・・・その子をイエス(主は救い)と名づけなさい。心配しないでマリヤを妻として迎え入れなさい』と夢の中で天使に告げられました。24節彼は目覚めると、主の使いが命じたとおり、マリヤを妻に迎え入れたと聖書は短く述べています。神はイエス様の保護者として神に忠実なヨセフを選ばれたことは実に素晴らしい事です。ヨセフの事はここに短く取り上げられたのみです、しかしヨセフは大工としての技を主に教え、ヨセフ亡き後、若くして母マリヤと弟妹を見守るように教育したヨセフの事は忘れられません。
 神は受胎告知をマリヤに告げると共に、時機を見てヨセフに事の次第を天使をして伝えなされました。偉大な深い神のご計画を彼に受け入れさせたこの神様に全てを委ねていこうと思いました。救いの業には、表面に立たなくとも神様のご計画に組み込まれる人も必要なのだなと、大いに励まされます。神に従う者が自分の思いで間違った方向に行こうとするとその行動に神は介入なさって、良い方向へと導きなさいます。私達が神の命じることはいかなる事でもなす信仰を持つとき、間違った事を訂正、全てを善きにして下さるお方が神様です。



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【いのちの水の川】 黙示録22章1〜5

 ヨハネは新しいエルサレムの外部の幻を見て21章に述べました。22章では御使いに内部の有様を見せられました。水晶のように輝いているいのちの水の川が、都の大通りの中央を流れ、その川は神と御子イエス様の御座から流れ出で、川の両側には、いのちの木があり、神の栄光の光があまねく、主を礼拝するしもべ達を照らし、夜もなく、呪われるものは何に一つない都を示しています。
 水は命をつなぐためには大事です。栓を捻ればざっと水が流れ出る便利さに、いつの間にか水の有難さを忘れてしまいます。私は60年前、小高い山のトンネル陣地でそのありがたさを痛感しました。昼間は空からの攻撃があるため、夜間に水牛が水を運んでくるのですから3百余の者には、絶対量が足りません。40度近い炎熱化の重労働に、一日2合の飲み水で堪えねばなりません。洗面や風呂などもっての外です。米は椅子代わりにするほど有り余るほどあるにも拘らず、いつも飢えていました。神の都の大通りの中央を水晶のようにかがやくいのち水が流れているさまは、これこそ天国だと頷かざるを得ませんでした。砂漠を放浪している渇ききった旅人が蜃気楼に希望を託しながら、ついにオアシスにたどり着いたあの感じがいのちの水に出会いこの世の天国にたどり着いたと思うことと同じでしょう。
 預言者エゼキエルが案内役の人に幻によって聖なる神殿を見ました。47章はその聖なる神殿から流れ出る清いいのちの水について語ります。最初はくるぶしまで、進むと膝に、腰に達し、やがて泳げるほどとなり、とうとうと流れる大河となりました。川の傍らには食物となる木が育ちその葉は薬となります。その潤った地で12部族はすごすことが出来ると述べています。
 エゼキエルは川の両側に多くの木が育っていると言いますが、ヨハネはいのちの木があって12種の実が毎月みのり、その木の葉は諸国民を癒します。神の民だけではなく全ての民族、全ての民族を癒すのです。敵対して戦っている者達おも癒すのです。赦しがあり、愛があり、平和があるのです。エデンの園にあったいのち木の傍で人類の始祖が罪を犯し、呪われた存在としてエデンの東に追放されましたが、新しい神の都のいのちの木の葉で癒されたのです。主の十字架の木のもとで罪赦され呪われるものは何一つなく、神とキリストを礼拝することが出来るのです。
 私達はこの世にあって思い悩み、心も体も病んで傷つき苦しんでいますが、いのちの木の葉によって癒され、21章3・4・・・・すでに過ぎ去ったものとして、涙を拭い去り悲しみも死も・・・なくなるのです。
 水晶より透き通ったいのちの水の源流は神と子羊キリストの御座から出ています(1節)。この水は聖霊です。その愛に満たされるものは皆まったく聖化されます。モーセでさえ神様を直接見ることが出来なかったが、キリストの救いに与り聖化されたキリスト者は神様のみ顔を仰ぎ見ることが出来ます。心の清いものは神を見るとマタイの言葉がここに成就したのです。光なる神の栄光が神のしもべたちを照らし、世々限りなく主と共に全てを支配する存在とされます。
 聖霊の水に潤されなければ私達の内に作られた花園は枯れてしまいます。聖霊の水が流れ来る花園は美しさとよき香が、人を力づけます。父なる神・子なる神の御座から流れ来る聖霊に身を任すとき私達は神の都、新しいエルサレムの住人になれるのです。



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【神に従う時】 申命記1章41〜46

 1章は出エジプトをして、40年の荒野の放浪の生活もようやく終え、約束に乳と蜜の流れる地を目前にして、モーセはその期間を回顧し全てのイスラエル人に語るのです。その中で彼は旅の中でのイスラエル共同体の不信仰を省みています。神への不信頼は幾度も繰り返されたが、カデシ・バルネアから約束の地への侵入を試みた際に見せた共同体の神への不服従は決定的であった。民数記13・14章。
 12部族のつかさたる者を選んで12人を約束の地へと探るために送りました。40日その地を探り、モーセと全会衆に復命しました。「われわれの神、主が賜る地は真に乳と蜜の流れ地です」と命令どおり直ちに侵入しましょうというカレブとヨシュアの言葉を受け容れず「しかし、まちまちは堅固で、住人もたくましいので、打ち負かされるでしょう」の言葉に申命記1章27・28と言い張り、出陣を拒否しました。彼らは、パロの前での奇跡など多くの主の恵みを見、経験してきました。また荒野では、父が子を背負ってくださったように、主は宿営する地を捜し、夜は火の柱、昼は雲の柱の内にあって、行くべき道を示されました。共同体は主の恵みにあずかりながらその事実を忘れてしまい、神の命令に従わなかった。主はこの共同体の不従順を憤られ、主に従うことを勧めたヨシュア達2人と幼子以外の世代の者は誰一人、約束の地に入ることが出来ないと宣言されました。34節〜そして、共同体の進む方向を変えられ、約束の地から遠ざけられて、再び荒野へ戻されました。
 すると彼達はあわてて41節と言い出しました。しかし、彼らの決断は遅すぎました。主は42節といわれ、彼らに戦いに出ることを禁じられました。しかしそのお言葉を聴かないで命令に背き、大敗北を受け、彼らは主の前に泣く羽目になりました。私はあなたがたのうちにいない主が言われたのにも拘らず、自分達の考えを押し通しました。主の命令に従わなければならない時に、行動に移さなければそれは主に対する反逆です。後で従おうとしても神の意に反した人間の決断です。決断すべき神の時を逸してしまえば、人生の戦いに勝利はありません。あなた方のうちに住むと言われる主、あなた方のうちにいないとも、いわれる主であることを深く銘記すべきです。
 主はこの不従順な民達を哀れんで42『敵に打ち破られる』と忠告なさったが傲慢な彼らは上って行って43〜の惨めな結果となりました。キリスト者は思い上がらず、謙遜に主の言葉に従って人生の勝利をうる者です。己が知恵、力を誇って行為すると人生の敗北に至ります。
神様のなさることは皆そのときにかなって美しいのです。伝道の書3章1〜11ここにはくどいほど神の時が述べられています。『神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた』天地創造から主の再臨まで、気の遠くなるようなその時は、今この瞬間の主の前における生活の積み重ねです。私は今、何ができるか、出来ないかを考え主に従って生きたいものです。



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【新しいエルサレム】 ヨハネ黙示録21章1〜4

 旧約聖書の預言の中心には、常に新しいエルサレムに対する夢がありました。この夢は絶えず人々の心にあったので、ヨハネはその夢を収録してその美を強調しています。エルサレムはローマ軍に徹底的に破壊され、地上からその姿を消したけれど、彼らは神がその都を再建されることを信じて疑いませんでした。そしてその希望を、金、宝石、富、繁栄という物質的な言葉で表し、これは神が忠実な民に、永遠の祝福を与えなさるという確信を表すものでした。
 1・2節新しい天と新しい地が再創造され、聖なる都、新しいエルサレムが神の元を離れ降ってくるのを見ました。続いて3,4節と“神の声、み言葉”が聞こえてきます。涙を流している教会で、嘆き悲しみの教会員の言葉を聞かねばならないところで、使徒また牧師であるヨハネは、黙示の中でこの主の“み言葉”をはじめて聴くのです。
 この1〜4節は聖書全体が告げるよき訪れ福音を凝集しています。このみ言葉を理解し信じることが出来れば、キリストの救いに与ることが出来ます。又聖書全体が凝集されていますので、ここを読むと次から次と聖書の言葉を思い起こすことが出来ます。創世記に始まり、預言者の言葉、歴史、主イエス様のお言葉と愛のみ業、十字架の恵みによって新生・聖化・栄化・神癒・再臨などに関する聖句が次々と浮かんできます。
 次に神様との交わりが約束されています。幕屋が人と共にあります。出エジプトの40年の荒野の生活の中で民達のテントの中心に張られた、幕屋こそ民と共にある印です。神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいます。この交わりの素晴しさが次の4節の御言葉に続くのです。
 1章9節『あなた方の兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐に与り、私ヨハネは神の言葉とイエスの証しとのゆえに、パトモス島にいる』とヨハネは自己紹介をしています。主が共にいてくださるゆえに、主の十字架の痛み、忍耐が、私たちに共感してくださるその主を信じて兄弟姉妹の交わりを持つのです。お互い主にあっての関係です。先に召された兄弟姉妹方、信仰の先輩達は新しいエルサレムにおいて、4節の地上の悩み、痛みから解放されて、天使と共に神を賛美礼拝をなし祝福された栄光の中におられるのです。
 私と家族は母が3年、妻好恵が3年寝たっきりでしたが、出来る限りの看病をすることが出来て感謝でした。そのとき私を慰め励ましてくれたみ言葉は、創世記25章8「アブラハムは高齢に達し、老人となり、歳が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた」新しいエルサレムに移されるのだと、大きな慰めを得ました。先日ある方と話をしていたとき、家族も本人にとっても周りの情況も一番よきときに召されましたね、と言われ本当にそうだと、改めて最善をなさる神様に感謝しました。
 先に召された兄弟姉妹もヘブル12章1・2にあるように私たちにエールをおくっておられる事を覚え、信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、私たちの参加すべきこの地上の競争を、耐え忍んで走りぬき、先輩達の信仰の証を受け継いで生きたいものです。



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【私の平安を与える】 ヨハネ14章25〜31

 聖書辞典のよると、平安は旧約が書かれたヘブル語ではシャローム、新約聖書はギリシャ語エイレーネーこれらは神が与える平和(平安)を指します。これは単に政治的意味の平和のみではなく、歴史的社会的に具体性を伴った福祉状態をも含めていると述べています。特に預言者は平和のない中で真剣にこの問題に取り組んでいます。この平和は人間のもたらすものではなく、メシヤ(救い主)の到来によって確立されるものです。
 弟子達は主が世を去られることが近いことを知り、困難の中で見捨てられる不安と恐れに捕われていました。しかしそれは彼らの杞憂に過ぎませんでした。『・・・私の平安をあなた方に与える・・・』どんな人でも平和平安を求めています。そしてよりいっそう安定した生活状態を追い求めています。しかし、それらはしばしの間不安困難からの自由を得るのみです。主が与える平安はこの世の平安とは異なり主の恵みの賜物です。イエス様だけが与えられるものです。自分の思うように振舞うことが出来て、現実逃避や快楽を追い、いやなことを忘れることが出来るのがこの世の泡沫の平和です。
 14章〜16章は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子達に残されたご遺言です。この締め括りの16章33『これらの事をあなた方に話したのは、私にあって平安を得るためである。あなた方は、この世にあって悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている』とお語りになっておられます。キリスト者になったからとて、苦難も困難もなくなったわけでもありません。すでに世に勝っておられる主にあるものは、永遠の命に生きる勇気が与えられ、平安を得るのです。
 世が与える平和とは、外面は穏やかで、争いがなく食にも住にも満足しているさまです。争いやテロ、飢え、災害なども、テレビで見ても実感が沸かないと言う情況です。世界のいたるところでこの瞬間にも餓死者があり、命が奪われています。何時このようなことが身近に起こるかわかりません。60年前には日本国中どこにいても安全だとは言えませんでした。今の平和な日本では想像も出来ません。衣食住に困窮し、生きるため苦心惨憺していたなんて、多くの日本人には絵空事です。私は再びあのような情況が日本に起こらないことをと祈っています。世の平和とは衣食住を満足させることで、最低の衣食住が保障されないと平和だとはいえないのです。ハリケーンが襲ってきたら、平和な生活もあっという間に水没しました。イラクでは多くの戦死者、戦災者が出ています。この世の平和は何時崩れるか分かりません。個人の平和も、リストラ、病などに脅かされています。衣食住に満足していても、そこからは勇気が出てきません。より良いものを求めて、右往左往する人生になります。
 イエス様は弟子達に言われたようにこの世を去っていかれました。しかし、この世のものではなく主の平安平和をお残しになりました。その残された平安が与えられ者は、この世の衣食住の満足のみではなく、『たすけぬし、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう』。イエス様の平安の内にある者達は、つかわされた慰め主である聖霊に導かれて、聖書の真理を教えていただき、主のみ言葉を理解し、その中から勇気が湧きいで、恐れることなく信仰の道を進むのです。



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【人は外の顔かたちを見、主は心を見る】 前サムエル16章1〜13

 イスラエルの最初の王はサウルでした。民の長老達が来て、他の民族の様に王が欲しいとサムエルに言いました。彼はイスラエルに君臨されるのはヤァウエーの神であると信じていたので反対しましたが、長老達の強い要請により、神におうかがいしました。神は民の中から誰よりも背丈が高く若くて麗しいサウルを選ばれサムエルは彼に油を注いで王としました。(8章4〜9章2)(10章17〜24)
 ペリシテ人が戦うために集まってきましたが、サムエルが来なかったので、イスラエルの民は王から離れ去りました。そこでサムエルを待たずに祭司が捧げる燔祭をサウルは捧げ神の命をりませんでした。(13章9)又『・・・アマレクを撃ち、その持ち物を滅ぼしつくせ、・・・・・』(15章2・3)とサムエルが神の命令を伝えましたが、サウル王は良いものを残し、値打ちのない、つまらないものを滅ぼし尽くしました。神はサウルを王としたことを悔いられた10節。かくしてサウルは神に捨てられました。
 そのことを悲しんでいるサムエルに新しい王となるべき者に油を注ぐことを命じられました。彼は神に巡回していないベツレヘムに向かえば、サウル王は私を殺すでしょう自分の心配していることを具体的に主に申し上げました。それに対して『一頭の子牛を引いて行き犠牲を捧げるために来ましたと、云いなさい。そしてエッサイを犠牲の場に呼びなさい。そのときあなたのすることを示します。・・・』と主は応えられました。
 サムエルはエリアブを見てこの人だと思いました。しかし主は言われた『・・・私はすでにその人を捨てた・・・人は外の顔かたちを見、主は心を見る』そこでエッサイは7人の子をサムエルに紹介しましたが、「主の選ばれたのはこの人たちではない。ほかに息子はいないのか」との問いに「羊を飼っている末の子がいます」と意外そうな答えです。呼ばれてきた少年は、姿の美しい人でした。神は彼に油を注ぐことを命じられました。油を注がれその日から主の霊がダビデ(愛すべき者)の上に激しく臨みました。
 私達は人を、外見や風貌、学歴や社会的地位、親族親戚まで加えて評価します。自分自身もこの規準で見て、優越感を持ったり、劣等感に苛まれたりします。その結果卑屈になるだけではなく、他者を色眼鏡で見たり、また歪んで見えたりします。『人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』共同訳。肩書きや身分、立場や能力など外面的なものに、目を奪われて他者の心を見失ってしまいます。
 サウル王は目に見える良いものに心奪われ、神の言葉に従わず捨てられました。表面だけ神に従い、本心は自分の体面と欲望の満足でした。われわれが抱いている人物評価、ひいては自分自身のあり方を見直し、心の底にあるもの見つめ自己受容することが、他者を受容して、愛することが出来るのです。自分を愛するように隣人を愛するのです。
 ダビデは愛される者の意です。自分に注がれる神の愛を信じ、その神を仰ぐことが出来た。彼は羊を飼っていても、王の位にあっても、自由でした。(現代的に言えばキリスト者の自由)それで彼は今、現在を精一杯生きることが出来たのです。私達も今何が出来るかできないか、今を真剣に生きるのです。神様はその心を見られるからです。



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【神のともしびはまだ消えず】 神のともしびはまだ消えず

 サムエルの最初の預言者としての召命と、幼児の時の神経験が述べられています。老練な祭司エリの前で、主に仕えていました。彼は多くのことをエリから学んだと思います。もしも(過ぎ去ったことには使えない)主が幼子に語りかけた時に、エリがそのことに気がつかなかったならば、神に対するサムエルの応答はなかったでしょう。サムエルがエリと共に神に仕えていたこと(1節)。エリは自室で寝ていたが、サムエルは燭台の傍、十戒を納めた箱の前で夜番をしながら仮眠をとっていたとあります。
 そのとき『サムエルよ、サムエルよ』と呼ぶ声にサムエルは返事をして、エリのもとに駆けつけました。エリは、しだいに目がかすんで見えなくなっていたので、幼子サムエルが世話を見ていたのでしょう。「私は呼ばない。帰って寝なさい」エリの言葉です。三度もサムエルよ呼びかけに幼子は老祭司の元に急いでいます。彼はまだ主との出会いを経験せず、神の言葉はまだ彼に表されなかったのです(7節)。三度も同じことが起きたとき、祭司エリはこれは主の呼びかけであることを悟りました。四度目に『サムエルよ、サムエルよ』と呼ばれたので、エリに教えられたとおりに「しもべは聞きます。(主よ)お話下さい」と言いました。“主よ”が省かれているのは、主が彼の前に立たれたからです(10節。)
 祭司エリは何ゆえ主は自分に語られずに、幼子に語られたのかは、問題が自分にあることを知りました。子らの悪事を聞いて「もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、誰が、そのとりなしをすることが出来ようか」しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった2章25節。子らの悪事をとめられなかったからです。
 サムエルが主の語りかけを聞きえたのは、エリの前で神に仕えていた(1節)。又神の箱が安置されていた神殿で寝ていた(3節)。祭司エリがサムエルに対する呼びかけを通して真実の信仰に立ち返ることが出来たからです。そうして、サムエルに神の言葉を聴くには、しもべは聞きますと言う準備できていないと、主の呼びかけが分からず、主の語られることへの応答ができないと言う事実を教えられたからです。
 次にサムエルが預言者として立つには、恐れを克服することでした。神が彼に告げられたことは、養父であり、彼を愛し教育した恩人のエリの家に対する裁きでした。彼が躊躇するのは当然の事です。エリはそのサムエルの気持ちを読んだのでしょう。17節「何事をお告げになったのか、隠さずに話してください。・・・・・」そこでサムエルは、そのことをことごとく話して何も彼に隠しませんでした。それを聞いて信仰に目覚めていたエリは「それは主である。どうぞ主が良いと思うことをおこなわれるように(18節)」と言った。幼子サムエルによって、老祭司エリは立ち直り、サムエルは恐れを乗り越えて預言者としての歩みが始まったのです。
 サムエルが預言者となるためには母ハンナの祈りと信仰、祭司エリの薫陶、サムエル自身の従順さ、純真な信仰があいまって神の召命を受けられたのです。しもべは聞きます。主よ、お話下さい。この準備と謙虚な信仰こそ神と出会い、神経験をすることが出来るのです。



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【自分の体は聖霊の宮です】 自分の体は聖霊の宮です

 使徒ポウロは前の章までキリスト者の自由について述べました。それは「何にも支配されず、自己抑制をなし、また他者との関係においてもその人たちの益になるように行動しなければならない。」ということです。コリント教会のなかには、神によって霊的に自由にされた者には、体がなした行為は自由になんらの影響がないので何をなしても差支えないと言って放縦に陥った者がいました。当時の教会を脅かしていたグノーシス派の自由に対する考え・態度です。ポウロはキリスト者の自由に対する間違いを取り上げ、それは神の救いの恵みに反することだと述べています。
 13節。何を食べて食欲を満足させても良いが、他者のつまずきになってはならない。市場で売られている肉は多くが偶像に捧げられたものであった。キリスト者にはなんら差し支えないが、捧げた肉を食することはその偶像と一体化されると信じている神人共食の下にある人にとっては、つまずきになる。私達にはなんら問題にならない、本来食物は腹(からだ)のためにあるが、その人たちに誤解を与えてはならないから、それらを食しない自由をも。
 私たちは主の恵みによって救われ、神の力によって主が復活されたその同じ力で、私達も復活させてくださいます。私たちはキリストの体なる教会を形作る一部なのです。私たちの体はみだらな行いをするためではなく、主のためにあり、主は体の為におられるのです。何でも食べることが赦されているように、娼婦との交わりで性欲を満足させても自由であるとの考えに、真っ向から反対するのです。
キリスト者は主キリストの体の一部分です。私たちはキリストの復活に与った体です。それは主と結びついて、一つの霊、一つの体になるのです。ですから、その体をみだらなことに用いてはならないのです。ロマ書12章1節『・・・・あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなた方のなすべき霊的礼拝です。』ポウロはこの体は主のためにあり、主はその体の為におられることを強調するのです。主と私たちの体は密接な関係にあるのです。確かに体は自分自身のものでありますが、実はキリストの体と一体化されたものですから、その体を性欲の赴くままに用いてはならないのです。人が犯す罪は全てからだの外にあります、しかし不品行な行為をなす者は、自分の体に対して行っているのです。
18節。不品行を避けなさい、積極的に自分の体をもって神の栄光をあらわしなさいと語ります。あなた方はもはや自分自身のものではなく、聖霊を宿す神殿なのだから、神礼拝をなすべき存在なのです。20節では、私達が聖霊の神殿とされたのは、キリストの十字架の犠牲という代価が払われて、この世の奴隷から買い取られた存在なのです。だから自由を曲解して放縦に陥ってはならない。そして自分の体をもって、神の栄光をあらわさなければならないのです。



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【私はこの子を主に委ねます】 上サムエル1章12〜28

 サムエルはシャム(聞く)とエル(神)の複合名で、神に祈りが聞かれたと言う意味と、神の名とも云われます。27節『この子を与えて下さいと、私は祈りましたが、主は私の求めた願いを聞きとどけられました』『それゆえ、私はこの子を主にささげます(委ねます)—共同訳聖書より』また20節には『私がこの子を主に求めたからだ』と言って、その名をサムエルと名づけたと述べられています。
 その祈りの様子が、10〜18にあり、真剣に祈るハンナを、祭司エリには酔っていると思った。15節『・・・・ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。・・・積もる憂いと悩みのゆえに、私は今まで物を言っていたのです』とハンナは言っています。神殿でなされていた祈りが形式化されていたので、祭司エリには彼女の心を注いでの真実の祈りが、酔っているように見えたのです。エリ本人の祈りもそうであったのでしょう。彼は15・6節の彼女の答えで本来の祭司に戻って、17節『安心して行きなさい・・・・』と言えた。この言葉を聞いたハンナは、もはや悲しげではありませんでした。サムエルは、母ハンナの祈り求めによって神から与えられた子供であると自覚してサムエルと名づけられたのです。
 ハンナの祈りは11節『男の子を賜りますなら、その子を主に委ね、かみそりをその頭にあてません(ナジル人にする民数記6章)』でした。それで乳離れ(ユダヤでは通常約3年間)した時に、犠牲の牛をたずさえ、エリの下へ行きました。28節『・・・あなたの前で、祈った女です。・・・・主は私の求めた願いを聞き届け、この子を授けて下さいました。それゆえ、私はこの子を主に委ねます』と主を礼拝しました。感謝と喜びの礼拝です。この礼拝での祈りが2章に述べられています。主の前に心を注ぎだしての祈りです。3歳で母からはなれ、又神にわが子を委ねる信仰に感銘を受けます。2章19母は彼のために小さい上着を作り、年毎に、それを渡すハンナの愛を見ます。
 ハンナは主に願い求めて、授けられた者だからもともと神の者(取り分けられた)だと思っていたので、神様にお返しする(委ねる)ことをなしたのです。私たちが献げものをする時に、このハンナの心を忘れてはなりません。神から預かり、また授けられたものを(取り分けて)お返しするのです。聖別して捧げることなのです。



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【十字架の言葉は神の力である】 コリント前1章18〜31

 『十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私達には、神の力である』続いてイザヤ29章14は『私は知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを空しいものにする』と預言者の言葉を述べています。
 「主イエス様は神の御独り子で豊かであられたが、私たちのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、私達を豊かにするためであって、そのことによって私たちは主イエスキリストの恵みを知っている」と、ポウロは語っています。
 この主の恵みを知らない人達は、十字架上でイエス様が6時間余の間、苦痛に耐えられ、午後3時頃に『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)と叫んで息を引き取られた出来事は弱虫の泣き言だとあざ笑います。しかし、救いにあずかる者には、私の身代わりとしてあの言葉を叫ばれたことを感謝の内に知ることが出来ます。この死に至るまでの主のご生涯を見ますと、主ご自身が『きつねには穴が有り、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕する所がない』ルカ9章58。と語られたように私たちの救いの為に貧しくなられたのです。この世の栄光・繁栄の道を選ばれず神の御心に沿った道を、私達の十字架を負ってカルバリーへと進まれた。この十字架こそが神の子が、人となられてこの世にお出でになった目的です。私たちを救われるために父なる神から見捨てられる苦痛を味わわれたのです。この世の賢い人々とってこのような馬鹿げた道を神に従って歩まれた主を愚か者と呼ぶことは当然の事です。自分は正しく神の前に自己の力を誇って轟然と立つ人には自分のほんとの姿、罪に敗れる人生を認めることは出来ません。しかし、十字架による救い、きよめを経験したものには自分の力ではない大きな神の力が自分のうち満たされていることを経験することが出来ます。
 コリント後12章1〜10。使徒ポウロは当時の最高の教育を受け、家柄も申し分なく、ローマの市民権を生まれたときから所有し、多くの人から尊敬され、自他共に認める賢い人でした。その彼には非常に辛い肉体の弱さ(肉体のとげ)が与えられていた。このとげは高慢にならないためだと自覚はしていたが、三度も(何回も)主に祈った。主は彼に答えられた『私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる』それだから、キリストの力が私に宿るようにむしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう(9節)と証ししています。
 「だから、キリストのためならば・・・・・・に甘んじよう。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからである(10節)」多くの場合、自分の欠点、弱さなどから目を逸らしています。キリスト者は聖書を自身のほんとの姿を映す鏡としているので、欠点も弱さも認めます。そしてそれを神様にお委ねするところに神の力が与えられることを知るのです。自分の欠点弱さを売り物にするのは信仰者のとる道ではありません。むしろ小さなものでも神から与えられた賜物として大いに用いていただこうとするところに神の力が現われ、積極的人生へと変えられて行きます。
 私は戦争に翻弄され、戦後改めて希望の生活をと志したとき、不治の病と言われた結核に冒され、22年の生涯はこれで終わりかと悔しい思いをしました。医学的にも環境的にも手の打ちようのない中から奇跡的に癒されました。それ以来胸の弱さを抱えてきましたが、神から与えられた命・体を大事にすることが神様に対する義務だと生きてきました。自分の力でここまで奉仕をしながら生きてきたのではないことが良く分かります。神の力によって生かされていることを自覚する毎日です。



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【常にあなたを導く神】 イザヤ58章1〜14

 まず、共同訳聖書と58章を併読し、み言葉を理解するには違った聖書を読むと良いことを実感していただきました。
 57章では姦淫と偶像礼拝の罪が述べられました。58章は偽善の断食と祈りについて、預言者イザヤは、ヤコブの家(イスラエル)の咎と罪を告げ示せと神の命令を受けました(1節)。彼らの罪とは偽善です。いつの間にか信仰は形式化され、表面的に信仰的な行為をしているうちに、これが信仰だと思い込んで自分達の偽善が見えなくなってしまいます。
 断食の形式は荒布と灰を敷き広げそこに座して断食をし、祈ることです。この断食が形骸化されたときに起こることは、奴隷や弱者や貧しいものに対する不正な行為をなします。愛のない社会的な不公平などを指摘し、自分の肉親と同じように接すべきことを説いています。神の喜ばれる断食は愛に有り、信仰の具体的なわざと神との関係が述べられています。
 あなた方が人を非難したり(呪ったり)悪いことを語らず、飢えた者にパンを与え、苦しむ者の願いを受け容れるならば、あなたが祈り求める時、『私はここにいる』とあなたの傍に立たれ、応えてくださる神です(9節)。
 11節共同約聖書には「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きを癒し、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水のかれない泉となる」と書かれています。教会から一歩外に出れば、職場も学び舎も厳しい競争社会です。心は乾き、荒れてきます。そのような焼けた乾ききった荒野に、教会というオアシスの存在があるのです。そして教会を通してよきものを持って心の願いを満ち足らたらせるのです(癒す)。私たちは心身に傷を持ち欠けたところがあります。それゆえに心に渇きを覚えます。それはこの世の何物をもっても癒すことの出来ないものです。
 しかし神様が癒してくださいます。私たちの全ての不足を満ち足らせてくださいます。出エジプトの民が40年間、厳しい砂漠生活の中で常に不足が満たされていたことを忘れてはなりません。彼達は昼は雲の柱、夜は火の柱が常に傍にあって導かれました。私たちも祈りの内に常に傍にある方の導きのまにまに身を委ね、神の癒しを信じて祈りつつ前進するのです。神は私たちの願いを満ち足らせてくださいます。それだけではなく、骨も強くしてくださいます。どのような情況の中でも力強く立つことが出来るのです。問題が大きく、又病に倒れたときなど、膝がガクガクして体から力が抜ける感じを持つことがあります。私は60数年前結核と診断されたときがそうでした。薬もなく食料もない時代は死の宣告と同じです。主によって立つ事が出来ました。
 主はそれだけではなく、人を潤す、水の耐えない泉を与えて下さると言われるのです。神の癒しは完全です。神の力が満ち足れるのです。
 ヨハネ4章14節『私が与える水を飲む者は、何時までも、乾くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠にいたる水が、湧き上がるであろう』と主はサマリヤの女にお語りになりましたが、今もこの業がなされ続けられています。



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【私を愛する者は私の言葉を守る】 ヨハネ14章18〜24

 教会に対する誤解は、教会に対する幻想から生まれてくるように思われます。それは一般の人々だけではなく、教会の方々にもそのようなものを抱いておられる方がおられます。牧師に教会員に教会に躓いたとよく聞かされます。なぜしょうか、それは聖と俗の関係に対する誤解に根ざしています。教会はキリストの体ですから聖です。その体を形作っている者は世俗の人々です。この世は自分の利益には聡く、汚くて、信頼が出来ない。それに対して教会は聖らかで、教会員は善意に満ち、信頼して安心できるところだと思われています。賛美歌を歌い心が静まり心豊かになった感じを抱きます。しかしやがて自分の描いていた教会の理想像と、現実の教会の違いに目が向けられ失望して教会を去ります。去った人が悪いのではなく、教会の側もいつの間にか真の教会建設に向かう信仰がおざなりになっているのではないでしょうか。
 主イエス様は、十字架の死の前夜、弟子達に遺言をお残しになりました。ヨハネ14・15・16章。主イエス様は十字架の死によってこの世を去っていくが『私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる(復活する)』と約束なさいました。そのことを通して弟子達も主の復活に預かることを確信できる。主が父なる神と一体の関係であるように、弟子達も主イエス様と親密な関係であることを信じ認めます。そのとき彼達は父なる神様に愛されている存在であることを知るのです。
 22節でタダイと言われるユダが、「あなたご自身を私たちにあらわそうとして、世にあらわそうとされないのはなぜですか」と疑問を主に投げかけています。私も同じように感じたことがありました。しかし考えてみますと、3年間主の愛の業、奇跡を見ていて信じることが出来なく、受難週の最初の日には、ホザナ、ホザナ(救い給え)と棕櫚の葉を振ってエルサレム入場を喜んだその同じ口が数日後には、十字架につけよと叫んだ民が主の復活に接しても信じ得なかったでしょう。主はユダに答えなさった『もし誰でも私を愛するならば、私の言葉を守るであろう。そして、私の父はその人を愛し、又、私たち(三位一体の神)はその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。私を愛さない者は私の言葉を守らない(信じない)あなた方の聴いている言葉は、私の言葉ではなく、私を遣わされた父の言葉である』23節。不信仰な世の人はたとえ復活の主の姿を見せても無関心で信じないでしょう。父のみ言葉への服従で示される主を愛しない者は、主も父も聖霊も信じることは出来ないのです。旧約聖書に示される預言、神の約束を成就された主の言葉を守らねばならないのです。主に対する愛こそが真実の信仰を産み、主の復活を信じ、その信仰こそ復活の恵みに与ることが出来るのです。
私たちキリスト者は神の宮です(前コリント3章16)私たちはこの世にあって主のご臨在を経験しているものです。聖霊の内住を経験するには、主を愛しみ言葉を守ることです。このキリスト者の共同体が教会です。主のご遺言をしかと受け止め、俗なるものを聖と変えなければならないのです。



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【旧き(ふるき)を尋ねよ】 ダニエル6章1〜2

 ダニエル書を読んでいて、若いときに見た論語為政篇にある温故知新(おんこちしん、旧い物事を極め、新しい知識や見解を開く)を思い出しました。カルデヤ人の王ペルシャザルは父王ネブカデネザルが金の像を作って拝むことを強要し、命令に反した者は火の燃える炉の中に投げ込むこととした。音楽に合わせて礼拝せよとの事でしたが、ユダから捕虜として連れられてきたシャデラク達三人は礼拝をしなかった。王は怒りに満ち、炉を平常より7倍熱くせよと命じた。メシャク達は『・・・私たちの仕えている神は、その燃える炉から救い出すことが出来ます。・・・・・・、たといそうでなくても、・・・・・、あなたの立てた像は拝みません』三人を外套、下着、帽子のまま縛られて3人の兵士が炉に投げ込んだ。兵士はその火炎に焼き殺されるほどでしたが、王は4人の者がなわめなしに、火の中を歩いているのを見た。王の命令でその中から出てきたが3人は何の害も受けなかった。王は3章29と彼達を誉めている。彼はその後傲慢にも神を冒涜し、その夜の内に殺され、62才のメデア人ダリヨスが王になった。
 王は120人の総督を立て、その上にダニエルを含めた三人の総監を立てた。王はすぐれているダニエルに国を治めさせようとした。嫉んだ総督達はダニエルを陥れる口実を探したが、忠実な彼に見つけることが出来なかった。それで彼の信仰についての悪計に思い至った。権力者の欠点を突き、権力者の驕りを利用した。彼達の勧めで王以外に願い事をする者は、飢えた獅子の穴に投げ込むとの命令書に署名させて、変更できない法律だと王に確認する念の入れ方です。前王が権力の盲点で失敗したことを知りながらの同じ失敗をしたのです。私たちも歴史に学び、又自分自身の失敗を繰り返さないように注意すべきです。
 ダリヨスはダニエル達が自分達の神の為に自分達の身を捨てる事を厭わなかったことを知っていたのです。「ユダから引いてきた捕虜の一人ダニエルが、あなたの署名された禁令をも顧みず。一日に三度、祈りを捧げています」これを聞いた王は大いに憂え、救出に努めた。陥れんとした者達に、王の禁令、おきては変更できないことを、ご承知下さいと釘を刺されるに及んで、王は命令を下さざるを得ませんでした。
ダニエルは飢えた獅子の穴に投げ込まれ石の蓋は、王と大臣の印とで封印された。王はダニエルに「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」と言い、その夜は食事も摂らず、寝ることもしなかった。朝まだき、獅子の穴に急ぎ、悲しげに『生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕える神はあなたを救って、獅子の害を免れることが出来たか』と呼びかけた。『・・・これは私に罪のないことが、神の前に認められたのです』と答え、彼は穴から引き上げられたが、その身には何の害も受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからです。6章23
私達日本人は60年間戦争をせず、一人の戦死者も出さなかったことが平和と繁栄をもたらしたことに思いを致さねばなりません。ダリヨス王、ダニエルのことも忘れてはなりません。私たちは旧約に学び、新約の恵みを十分に頂かねばなりません。明治27・8年の戦争以来約10年毎に戦い、昭和6年の満州事変、中支事変(戦争ではない)太平洋戦争にいたる気の遠くなるような悲惨な戦い、その歴史を無視又都合よく改変しては、新しい知識も見解も開かれません。近代の歴史にあまりにも疎い人々を散見しますが、歴史に学ばねば国は孤立して滅びます。温故知新が大事です。
私たち自身も過去を振り返って、悔いるべきものは悔い改め、新しい心で生きていかねばなりません。



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【私はあなたの為に祈った】 ルカ22章24〜34

 主は十字架刑の前夜。弟子達の足を洗われ、最後の晩餐を終え、弟子達にご遺言を語られた(ヨハネ14章〜16章)その直後、自分達の中で一番偉いのは誰だろうとの弟子達の争論が起きた。そのとき主は『あなた方の中でいちばん偉い人はいちばん若い人のように、指導する人は仕える者のようにあるべきである』とさとされた後、ペテロのほうに向きを変え、『ペテロよ、サタンがあなた方を試みるために麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、私はあなた(方)の信仰がなくならないように祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟達を力づけてやりなさい』この主の言葉に、彼は死ぬまで従おうとの自分の気持ちを知っちゃいないと、不満でした33節。しかし数時間も経ないうちにそのことが証明されました。振り向いて見つめられる主の優しい眼差しに、外へ出て、激しく泣いた54節〜62節。
 32節『私はあなたの為に祈った』主が弟子の為に祈ったとこの文章は始まります。
2千年後の今でもいと小さな弟子達を愛して祈っておられることを信じ感謝します。どのような者でも、主に従って行こうする者はこの主が祈られる中にあります。特にペテロにあなたはと語られる。弟子達の指導者である彼が、主イエス様こそ私の救い主であるとの信仰を失わないようにと祈られるのです。ペテロは鶏が鳴く前に三度主を否んだ。又主を捨てて逃げ去った弟子達も主によって祈り支えられました。ペテロや弟子達も自分の信仰が、自分の力によるものでなく主から与えられたものであることを実感したのです。ペテロは自分の身におきた事で心から悔いて涙したのです。そして祈られたように信仰を失わず立ち直れたのです。このことが彼の生活の転機となりました。
 それ故に、ペテロも弟子達も、兄弟達を力づけることが出来るのです。たとえ兄弟姉妹が信仰の道から外れても、自分が主に祈られて立ち直れたのですから、兄姉のためにとりなしの祈りを持って助けることが出来るのです。私の50年間、元住吉で奉仕をさせていただけたのも、信仰的に弱い私のために主は祈ってくださり、又教会の全ての働きのためとりなしの祈りと共に、兄弟姉妹方のご奉仕の積み重ねだと、記念誌の原稿を書きつつ感謝の限りでした。
 三度主を否定したペテロは、復活の主に『私を愛しているか』と三度尋ねられ、それに三度私が主を愛していることはご存知ですと答えしめた。彼のために祈られた主の愛のみ姿です。ヨハネ21章。ペテロは立ち直りました。そして迫害の中にある兄姉を力づけ、主の体なる教会の基を据えました。この元住吉教会も天幕教会からここに至るまで主の暖かい祈りに支えられてきたことを実感します。これからも主の再臨に至るまで、主の愛の目が、元住吉教会に注がれておられると、感謝のうちに信じます。兄弟姉妹方よ、とりなしの祈りをお互いに致しましょう。そして主に喜ばれる道を、手を携えて、祈りつつ、讃美しつつ信仰生活を送りましょう。



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【繁栄と平和】 イザヤ2章1〜5

 日本は1894年(明治27年)の日清戦争以来、10年おきぐらいに戦争をしました。国は富国強兵政策の下に発展してきました。1945年ボッタム宣言を受け容れて無条件降伏し敗戦となりまして、8月15日が60年目になります。その間日本は戦争をしなかったので、廃墟の中から現在の繁栄を見ることが出来るようになりました。平和がいかほど国民を幸せにすることか戦中・敗戦直後の辛さを経験したものには痛いほど感じます。敗戦の年、内閣声明にイザヤの2章4節『・・・剣を打ち変えて、すきとし、そのやりを打ち変えて、かまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、かれらはもはや戦いの事を学ばない』が引照された平和宣言がなされました。国民は悲惨な戦争を経験していたのでこの声明を歓迎して迎えました。
 一方占領政策を決定する機関として連合国は、極東委員会によって徹底的な軍事力を排除せよと占領軍に指令しました。日本側は職業軍人まで公職に就くことを禁止しました。数年後朝鮮戦争が始まって、占領軍が朝鮮に移動し、日本にも参戦を米国は求めてきましたが、吉田首相が先の指令を下にこれを阻んだ。米軍の移動した後の治安維持のため警察予備隊(後の自衛隊)が創設された。その後日本も軍隊が必要だとしたが、冷戦が終わったところでしたので米国は改憲再軍備には首を縦に振りませんでした。代わりに日米安保条約が強化された。このような中で経済主義に立ち、繁栄と平和が継続されてきました。簡単に戦後の歴史の流れを説明しましたが、これで得た平和は、あのパクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれた古代ローマの軍事力で周辺諸国を押さえ込み、奴隷と兵士とし、その自由と人権を奪っての武力で押さえ込んだ平和と対照的に見えます。
 イザヤが述べる神のみ言葉預言に見る平和とは、これと異なるものです。人々は言います。そんな理想的なことは現実にはありえないと。そうです、これは再び主がお出でになる未来の日の出来事です。平和の君がお出でにならなければ、真実の平和はないのだとイザヤは預言するのです。人間の平和はときとしてヒットラーのような理不尽な独裁者が現れ自由・人権も踏みにじられる時代になる恐れがあります。
 このイザヤの未来の予言は続いて、5節『さあ』と呼びかけます。将来の主の家、神の国の姿に見とれていた者達に、未来から現実の足元を見るようにと促されるのです。ヤコブの家よ、キリスト者よ、理想から現実へと覚醒された者は、現実があまりにも神の国に離れすぎているので、行動せざるを得ません。行動する責任があります。
 それは主の光に向かって歩むことです。60章1・2起きよ、覚めよ、悔い改めよ、そしてあなたの上に主の栄光が昇ったのだから、反射して、光を放てとイザヤは神のみ言葉を語るのです。私達はキリストの十字架の血によって得たキリスト者の自由の旗を高く立てて、平和の光を、シャロームを実現できるように進まねばなりません。



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【主を喜ぶことはあなた方の力】 ネヘミヤ8章1〜12

 今月6日広島、9日は原爆が投下され、15日は日本国の敗北の日です。私にはこのことがユダ王国と重ねて見えます。ネヘミヤはペルシャの侵攻によってユダ王国が滅ぼされ捕囚となってペルシャに連行されました。しかし彼の能力と勤勉さによって、ペルシャ国の高官になっていた。その彼のもとに兄弟のハナニが数人の者とユダの報告を携えてきた。「捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、辱めのうちにあり、エルサレムの城壁は崩され、その門は焼かれたままであります」これを聞いた彼は嘆き悲しみ断食して神に祈った1章。アルタシャスタ王の許可を得、その援助によって、エルサレムの城壁を築きなおし、門を修復、扉をつけた2章。
 7月1日、民(4万2360人)は皆一人のようになって水の門前の広場に集まった。祭司エズラが朗読しモーセの律法の書の講解を、曙から正午まで耳を傾けた。この律法の講解は7時間近くになった。この時、民は初めて成文化された律法とその解釈を聞いたのです。これは又律法公布の正式な集会となった。
 民はエズラの朗読するモーセの律法とその講解とを聞いて内容を理解し、自分達の罪を知って泣いた八章9。今までの彼達の生活は神様の御心に従うものでなかったからです。経済的な不平等、貧富の格差、同胞の子女の奴隷売買、高い金利の金貸し、偶像礼拝等。実に殺伐とした同胞関係をなんとも思っていなかった。エズラの朗読とその解釈を聞く彼らは良心を痛めた。律法の真意が解るように講解されたからです8節。民は13人のレビ達が現代で言う『連続講解説教』の学びをしたのです。説教をする方も、聞く方も非常な忍耐を必要とするものです。
 彼達は学者の話を聞いたのではなく、神のみ言葉を聞いたのです。民は律法の解き明かしを聞いた。そこには民の心を打ち砕く力がありました。そのためにその日が主を喜ぶ聖なる日にも拘らず、自分の罪に打ちひさがれ泣いたのです。教えるレビ人は『この日は、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない』『肥えた肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。その備えのない者には分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です』そして『憂えてはならない。主を喜ぶことはあなた方の力です』主の日は先ず主が喜ばれる日です。それ故に主の日の礼拝は私たちの喜びでもあるのです。主なる神が主を礼拝するわれわれを喜んで下さることが、困難の中にあったり悲しみにある者を支える私たちの力となるのです。
 説教の準備をしていて苦しみます。人間の言葉を羅列しそうになってはそれを打ち消し、み言葉によって力ずけられ、そして主の喜びに満ちたみ言葉の前に喜ぶ自分自身の姿を証しすればよいのだと、いつも高壇に立たせられます。感謝です。



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【キリストの内に隠された宝】 コロサイ2章1〜5

 使徒ポウロはローマで囚われの身となり、かってローマ皇帝に提出していた上訴の判決を待っていた。ローマの市民権を持っていた彼は家を借り、兵士の監視の下にあった。外出は出来なかったが、友人達と自家で会う事も、聖書の講解も許されていた。コロサイからエパフラスが遠路訪ねてきた。その報告は良いものも多かったが、教会に異端思想が入ってきた危険が伝えられた。パウロはそれに対して福音理解に立った信仰生活と、その上に教会生活をなすようにとコロサイ教会の兄弟姉妹に便りをした。この便りの内容は私達にも、神のみ言葉を自分に都合の良いところのみを拾って解釈するとそこに異端が派生することを教えています。
 1節ポウロはラオデキヤの兄姉達やまだ会ったことはない信徒達のために心を砕いて祈りの苦闘をしている。2節それは彼らが愛によって結び合わされ、与えられた豊かな理解力を十分に使って、神の奥義であるキリストを知るに至る為なのです。それは誰にも巧みな言葉で迷わされないようにあって欲しいのです。キリストの内には、知恵と知識との宝が、いっさい隠されているからです。キリストの体である教会、キリスト者が巧みな言葉に支配されたり、キリストに従わない科学や哲学などの奴隷にされないで、神のみ旨を知り、神の奥義なるキリストの知恵と知識とを知るために、その宝を見出さねばならないのです。
 キリスト不在の思想・哲学・宗教・学問・学説・主義・主張・情報など多く集めその知識が膨大になったとしても、神のみ言葉の前には空しいものなのです。聖書は聖書をして語らしめよと言われているのはうべなるかなです。どれほどの人間の理性の限りを尽くし、賢い人の言葉を借りても、キリスト不在、神の言葉がなければキリストの教会は存在しません。それは単なる講演がなされる講堂にしかすぎず、キリストの体なる教会ではありません。キリストが不在であれば、キリスト者の魂は養われず、神の栄光を表すことは出来ません。私たちは隠された宝をもたれる主と共に前進するのです。頑固に自己に留まらず、前に進まれる主キリストを見つめるのです。
 このキリストの内にこそ真実の知恵と知識の宝が隠されているのです。このキリストの内にあるものは、観念・哲学・思想・学問や神秘主義ではないことは前に述べました。学問や人間の思想などに支配されるキリストではありません。この方はそれらのものを支配なさるお方です。それゆえにプロテスタントは、高貴な人の言葉をも排除して、神の言葉、聖書こそキリストの知恵・知識として信じる聖書中心主義なのです。
 私は主との出会いを体験して以来何かに行動を移すとき、主キリストならばどのようになさるかなと考えます。言葉を変えると聖書はなんと語るかを目標にとしてきました。多くの本を読んできました。しかしそれは聖書をより深く理解しようとしたまでの事です。
 ご一緒に『キリストの内には、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている』とポウロが述べるみ言葉を信じて、隠された宝をキリストの内に、キリストの体なる教会のうちに、又宝の山である聖書の中に見つけましょう。



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【彼らは必ず死ぬであろう】 民数記26章52〜65

 出エジプトしてシナイ山にてモーセを介し神から律法が与えられ、イスラエルは契約に基づく神の民となった。烏合の衆である彼達を組織するため、神は第一回の人口調査を命じられた。20歳以上の軍務につけるものを全て、部族ごとに数えよとの命令です。この大きな仕事をなすためにモーセとアロンは各部族から部族内の問題を正しい判断と権威を持って解決できる代表者一名を協力者となして命令を遂行した。人口調査の結果は60万3550人でした。主の契約の箱を各部族の中心の幕屋に安置し、レビ人を幕屋に対する光栄ある職につけ、調査の登録を禁じられた。約束の乳と蜜の流れる地に入る前に、神は第二回目の人口調査を命じられた。26章。
 彼達は契約による選民となり、多くの奇跡によって救われたにも拘らず。神に呟き、指導者に反抗し、神の命令に従うことをしなかった。彼達が約束の地に入ることを妨害するミデアン人達を攻撃する前に、調査した。40年前の人口調査に登録された者はヨシュアとカレブを残して神罰で全部死に絶えたからです1節。調査をした場所は、エリコを臨むモアブの草原でした。それは約束の土地の分配(嗣業の土地)を決めるにも必要なことでした。なぜ一回も二回もレビ人の登録をしなかったのか、神に仕える事が彼達の仕事であるゆえに登録を禁じられたのです。二回目は同じ理由で土地の分配の必要がなかったからです。祭司は神にのみ頼り、神によって養われる信仰に立つことを民に示さなければなりません。神に直接仕える祭司は不動産を持つことが許されなかったのです。今でも牧師は教会や事業などを自分の財産としてはならないのです。財産は信仰の堕落を生み、財産を生かす道を牧師は示し証しをしなければなりません。
 64節出エジプトをした20歳以上の登録された者達はカレブとヨシュアを残して(14章1〜10に彼達の信仰告白を見る)誰一人カナンの地に入ることが出来なかった。彼達は困難が起こると、奴隷生活のエジプトへの帰国と懐かしさを訴え、不信仰ゆえに、神の命に従う指導者に反逆した。65節『必ず荒野で死ぬであろう』と(ユダ5節)神が言われたのです。モーセも例外ではありませんでした(民数20章)
 荒野で出エジプトした人々が死んだのは、過酷な生活ではありません。神は契約に従って彼達を滅ぼしたのです。神は愛のお方です。イスラエルが平安に生活を続けるようにと彼達に律法を与えられたのです。しかし、自分達の手で偶像を作り、自分達のやり方で約2百万の民を導こうとしたり、自分達の力で敵に勝とうとしました。そして全て失敗しました。神と律法を無視した不信仰が自分達を滅ぼしたのです。



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【まことの祈り】 マタイ6章5〜15

 主の祈りはマタイ6章に述べられています。どのような文脈の中で教えられたかその前後の文章も学びます。これまで教会が大事にしてきたものでよく覚えられてきたのは、十戒・使徒信条・主の祈りの三つです。特に主の祈りは教会学校、キリスト主義の幼・小・中・高・大学で多くの人が学び知られています。それらの方々は意味を考えなくてもすらすらと口から出ることでしょう。これは実にすばらしいことです。それだけに集会や大勢の人々と共に祈る言葉だと勘違いされているむきがあります。主が言われますように祈りは、先ず戸を閉じて隠れたところで祈り、たった一人で神の前に跪く事が原則です。
 当時のユダヤ教の人達は、自他共に信仰生活が成り立つものとして、立派な言葉で長々とくどくどと祈りました。それは異邦人(偶像を拝む者)のなす偽善的な祈りだと主は戒められています。主の祈りはもともと偽善を戒める言葉に続いて教えられたのです。施し、祈り、断食等を、厳守すれば信仰深い生活が出来ると思っていたので、信仰を人に見せようとしての偽善が起こったのです。綺麗な言葉を羅列し長い祈りが信仰の証しとして人に認められると感じていたのです。時に長い祈りの中で説教をしたり、飾り言葉の多い祈りが人の前でなされ、素晴しい祈りだと褒められて悦に浸っている人も起きてきます。主はそれらのことを禁じられて祈りの要諦として主の祈りを弟子達に示されたのです。決して長い祈りが悪いと言われたのではありません。表現が良くないかもしれませんが主の祈りは祈りの原型です。時にどう祈ってよいか分からないと質問されますが、主の祈りをすればよいのです。
 旧約では祈ることを主を呼ぶと表現する場合が多いですが、祈りは先ず天にまします我らの父よと呼びかけるのです。そして祈りの最後はヨハネ16章23・24「あなた方が父に求めるものは何でも、私の名によって下さるであろう。今までは、あなた方は私の名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう」14章〜16章は十字架の死の前夜の晩餐後、最後に弟子達に与えられた遺言ですが、三度もこの中で言及されて私の名によって求めよ(祈れ)必ず喜びに満ち溢れると約束なさいました。父よと呼びかけ、主の名前で閉じます。それではこの二つの間はどうすればよいのでしょう。
 ルカ22章23節にゲッセマネの祈りで主は『父よ御心ならば、どうぞ、この苦い杯を私から取り去ってください。しかし、私の思いではなく、御心がなるようにして下さい』と十字架刑が迫っていることをご存知の主は苦しみもだえて、ますます切に祈られた。その汗が血の滴りのように地に落ちたと医者のルカは述べています。この短いお祈りの中に二つの重要なことがあります。第一具体的にご自分のご希望を率直に述べられた。第二は神の御心ならばそれがなるようにとの事です。私たちは自分の切実な希望を具体的に祈ってよいのです。それもヤコブ4章15にあるように、主の御心であれば、あのことこのこともしようと、云うべきです。神様は私たちを愛して全ての事を共に働いて万事を善にして下さいます(ロマ8章28)。
 私たちは朝に夕に、一度でもよい、真剣に主の祈りを祈りましょう。他人の目に、耳に入る祈りではなく、先ず一人で祈るのです。そうして二・三人私(キリスト)の名によって集まるところには私もその中にいると約束された主の名によって兄弟姉妹・主と共に祈るのです。キリストの十字架は私のためであったと信じる者は、イエス様の聖名によって求め、それが与えられ喜びに満ち溢れるのです。

【創造されたものは讃美せよ】 詩篇148編1〜14

 詩篇は146篇から150篇までのハレル詩篇で締め括られます。この最後の5篇の各篇はハレルヤで始まりハレルヤ(讃美せよ)で終わっています。148篇の内容は、天への讃美の誘い1〜6、地への讃美の誘い7〜10、諸国の人類への讃美の誘い11〜13、主の民イスラエルへの讃美を歌う選民賛歌です。
 もし天と万物が地上の生活のためであり、地上の被造物の冠が人間であるとするならば、人間のうちの長子であるイスラエルの救いは、全人類も天地万物も喜ぶ神の祝福だと歌うのです。選民イスラエルがエジプトにおける奴隷から救出された出来事は、人類全体の救いの業の雛形です。またその救出の業をイスラエル(キリストの贖われた者)は覚え感謝を忘れてはならないのです。その感謝がハレルヤとの讃美になるのです。
 ローマ8章18〜25堕落と救済を人間の事柄としてのみ捉えず、神の創造物全てに対する壮大なものとして述べております。人類はキリストの贖いにより、神の相続人とされキリストと共に「アバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。人類の始祖の堕落により、今、被造物大宇宙が虚無の中に呻いています。キリスト者がキリストと共に共同相続人となったときに、被造物も腐敗と破壊の戒めの中に閉じ込められていたとしても、神の子たちが栄光の自由に入れられたとき、被造物も開放され共に栄光の自由の中に入れられるのです。人類はこれ以上宇宙・自然を破壊することはしてなりません。現在世界の自然体系は人間の勝手な行動ゆえに乱され人類も危機状況の中に置かれています。創世記1章には神は万物を創造されて、はなはだ良かったと満足なさっておられます。
 この神が満足なさった大宇宙に対する讃美の誘いが、この詩篇148篇です。詩人は全宇宙の被造物よ、皆声を一つにして神を讃美せよと呼びかけています。神の目的は、宇宙全体が美しいハーモニーを響かせることです。人の性格が自然と調和し、人が語り讃美する声が、小鳥の囀り、風の流れの音、谷川のせせらぎの音と渾然一体となって溶け込むことが神様の御心です。人類は残念なことですが、木を倒し、温暖化をすすめ、海水水位を上昇させ、世界の気候の変動・災害を頻発させています。自然のうめきは悲鳴となっています。人類の罪のなせる有様です。
 先ず私たちが救われて主を讃美することから始めなければなりません。人間が破壊した自然を修復するほかありません。神の創造された美しい宇宙を取り戻さなければなりません。そのためには神の相続人とされた私たちが自然と共に讃美して、ハーモニーを奏でなければなりません。私たちが感謝と讃美を持って自然に接しますと、木も花も小鳥も小川も手拍子をもって主を褒め称えます。



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【心が内に燃えたではないか】 ルカ24章13〜36

 ジョン・ウエスレーの日記によると、第一回の回心は、ハイ・チャーチ・アングリカニズムです。それは、礼典を極端に重んじ、礼典を通して注ぎ込まれる恵みによってわれわれの魂の中に注入された恵みと協力してよい行為に励み、その良い行為によって神の救いを獲得するという考えでした。その考えにもとづき大きな仕事として、植民地ジョージアに宣教師として行ったが、完全な失敗でした。失敗の理由の第一は彼の生活の高貴さと教養の高さが、粗野な植民地の人々に理解されなかった。第二は彼の高教会主義がジョージアの人々に毛嫌いされた。第三ソフィア嬢との失恋問題、これが裁判問題となり、彼は失望のうちに帰国した。それらの事からウエスレーの知った自分自身の罪深さの認識と共に、人間に対する楽天主義が許されないということでした。
 牧師として教会での説教を差し止められていた彼は1738年5月24日アルダスゲイトの小さな教会の祈祷会に出席していたとき、9時45分頃、ある人がマルチン・ルターの「ロマ書の序文」を読んでいた。信仰とは何であり、そして信仰のみが人を義とすると読み進められたとき、第二の回心(聖め)を経験した。その日の日記に「私は私の心が不思議に温まるのを覚えた。私は救われるためにキリストに、ただキリストのみに信頼した。と感じた。そして、この私の罪をキリストが取り去ってくださり、罪と死の律法から私を救ってくださったという確信が与えられた。・・・・・そこで、私は、初めて今の私の心の中に感じた事柄を、公にそこにいる全ての人々に証しをしたのである」
 ウエスレーの第二の回心の経験をかいつまんでご紹介しました。エマオ途上の二人の弟子達の体験と重ねて見えたからです。私自身の経験とも重なります。エルサレムの西に位置するエマオ村に帰宅するクレオパと弟子の一人は,聞いたばかり主の復活について話し合っていた。彼達はキリストの十字架の死に失望落胆し、復活は信じられないとあれこれ声高に論じ合っていたのです。十字架と復活はキリスト教の福音の中心ですが、キリスト者でもこれに疑問を感じている人が多い有様です。彼達は議論と自分達の関心事に夢中でしたので復活の主が近づかれ一緒に歩かれておられたのに、この世を見ている彼らの目は遮られて主を認めることは出来なかった。そのうえ主の横顔を夕日を背にしてぼんやり見ています。主は聖書によってその事実であることを解き明かされたが彼達は理解できなかった。信じなかったからです。それでも何か感じることがあったのでしょう。主は通り過ぎようとされたが、しいて引きとめお泊りになることを勧めた。主は家に入られ一緒に食卓につかれた。主がパンを取り祝福され裂かれて彼達に渡されたとき初めて主を真正面から主を仰ぎ見て気がつきました。主の姿が見えなくなったとき、32節「道々お話になったとき、また聖書を解き明かしてくださったとき、お互いの心の内に燃えたではないか」と回想し、その喜びを他の弟子達に伝えようと、危険な夜道を急いで帰った。弟子達に復活の主にお会いした喜びを伝えているその場所に主が立たれ「安かれ」といわれた。そして44節以下の命令と約束を彼達に与えられました。
 信仰があるかないかは人には証明できませんが、心が温まるような経験をされたことを覚えておられるでしょう。そしてキリスト者の完全としての恵みとして与えられます。自分には良く分かります。今まで自分になかったアガペーの愛の片鱗が与えられていることに驚くはずです。
 キリスト者の完全とは、聖霊の導きにより、聖められ、愛の人に変えられることです。第一の回心救い、その完成が第二の回心であり、この二つの大完成は再臨の主の前に立つことが出来たときに成就します。
 私たちが自分の好み、関心事にとらわれて恵みを携えられて一緒に歩まれる主を見失わないように注意したい。そして主のみ顔を仰ぎ見て(祈って)み言葉を頂きましょう。



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【数えよ主の恵み】 詩篇105編1〜15

 詩篇105編〜107編は冒頭と末尾にハレルヤがあつてハレルヤ(ヤーハを褒め称えよ)この用語は詩篇にのみ使われています。また続いてホードゥ(感謝せよ)これは冒頭にある。この二語はネヘミヤ記などにおける神殿聖歌隊レビ隊がたびたび用いた組み合わせの句です。この詩篇の内容はアブラハム・ヤコブ等族長契約に忠実な神の恵みを、出エジプトから約束の乳と蜜の流れる地カナン定住までの信仰告白文にしたがつて語る教訓的歌です。
 1節〜6節讃美への招き、7〜15、族長契約、16〜24、エジプト下り、25〜38、出エジプト、39〜45、荒野生活とカナン入国となっています。古代のシナゴーグ(ユダヤ会堂)では歌唱なしで、詩篇は賛美歌としてではなく祈祷と聖書朗読としてミクラ(朗読者)によって朗読された。
 主を讃美し感謝する者はその神のみ業を諸々の民全世界に主の名を宣言せよとイスラエルの使命が述べられる。主を訪ね求める者に全てのくすしきみ業を知らせて喜ばせよ。その主のみ名を誇れ(主のみ力に与ったことを誇れ)そして常にそのみ顔を尋ねよ(神を礼拝、神に祈る)5・6選ばれ救われた者達は主のなされたくすしき奇跡と裁きを忘れてはならない。神は契約を守る者には奇跡的業を行われるがこれを破る者には厳しい裁きがあると心に留めよ。 
 出エジプト、その後の荒野の生活の中で彼らはそれらのことをつぶさに経験した。乳と蜜の流れる約束の地を与えると約された神は,カナンに飢饉が起こる前にヨセフを奴隷としてエジプトに遣わし、彼を通して一族は飢餓から救い出され大いなる民とならしめた、ヨセフを知らないパロは彼達を奴隷として酷使した。イスラエルの民は神にその中からの救いを願った。26節主はモーセとアロンを遣わして、主のしるしと奇跡をおこなって37節出エジプトの民は一人も倒れた者はなかった。
 これらは主の民に起こったくすしき主のみ業ですが、私達キリスト者もこの素晴しいみ業の下に置かれています。あなたの中になされた祝福された恵みを数えて下さい。あなたの毎日は感謝と讃美ホードゥとハレルヤの生活なのです。私は60数年前赤土の荒涼たる山のトンネル陣地いました。灼熱の中何もかも真っ赤な、頭の中まで赤く染められる感じの中で主イエス様との出会いを経験しました。その時驚くべきことに今まで気がつかなかった緑の中に可憐な紫の花に気がつきました。また雀のさえずりが心にしみこみ天来の楽の音として心身を慰めてくれました。このようなちいさな神のみ業・恵みも霊の目が開かれるまでは見逃していたのです。私の78年の生涯を省みますと、数え切れないほどの主の恵みがあります。呟く事など出来ません。
 イスラエルの民はエジプトで主の命令を伝えるモーセに従って、子羊の血をヒソプの束に浸して家のかもいと入り口の柱につけた。神の使いはそれらの家を過ぎ越して血塗られていないパロの家から民に至るまで長子と家畜の初子が打たれた。イスラエルの民は子羊の血によって救われたのです。荒野にては昼は主の雲が彼らを覆い、夜は火の柱となり常に神は彼らと共におられました。恵みを数えることの少なかった彼らは主の裁きを受けることとなり、40年の荒野放浪をせざるを得なかったのです。
 私達はキリストの十字架によって救われ神の民とされました。主の流された血によって洗われ聖い者とされ数々の恵みに与っています。マイナス面のみをみていると辛く、呟きが口から出ます。恵みに目を向けますと不思議と感謝と讃美が心から噴出します。感謝のうちに恵みを数え歌いつつ歩まんとの日々が送れます。



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【誰を捜しているのか】 ヨハネ18章1〜11

 主イエス様がエルサレム滞在中に弟子達と祈るために常に出かけられたオリブ山のゲッセマネの園で起きた出来事です。祈りの園、神聖なる場所で、邪悪な計画が実行されました。12弟子の一人・主のご信任の深いイスカリオテのユダが親愛の情を示す接吻を持って、不潔な行為をしました。これは私達キリスト者にも起こりうるものとして自分自身の心に深く留めておく事です。主に一番近い者、清い交わりの中にサタンの手が入ることを物語っています。主に対する親しさが愛になれて誘惑に変化するのです。この箇所から霊的意味を汲み取らねばなりません。
 ユダはイエス様の事を良く知っていました。ユダヤの指導者達の要求は、民衆のイエス様に対する熱狂的な支持を避けて、民衆のいないところで主を逮捕することでした。ユダは主の事を熟知していまして、選んだ場所は祈りの霊の満ちた聖所でした報酬として銀貨30枚を受け取った。ユダは兵卒どもや祭司長達の下役を引き連れ、暗闇の中、たいまつやあかりや武器を持って聖なるところに踏み込んできました。4節、主はご自分の身に起ころうとしていることを悉く承知しておられ、進み出て云われた「誰を捜しているのか」ユダたちは主を逮捕するため、暗闇を照らすたいまつを掲げて来たのですが、目の前に立たれる主を罪ゆえに見ることが出来ないのです。彼達は「ナザレのイエスを」と応えた主は彼達に「私がそれである」と言われた。
 私たちは、真理であり、世を照らすまことの光を見出すため、哲学・科学・学問・常識などのたいまつや明かり武器まで持ち出しても主を求めても見出すことは出来ません。この世の強大な勢力も灯火も武器も、主の十字架の前には無力です。ポウロがコリント前1章18[十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私達には神の力である]と言います。
 救い主キリストを求め、出会うためには人間の側の探究心や理性によるのではありません。キリストご自身が[私がそれである(あなたの求めるイエス)]と進み出て云われなければ[啓示される]キリストは見出せないのです。私たちが求めて主を発見するのではなく主が進み出てくださってお会いするのです。十字架の救いを信じる信仰は主ご自身が「私が主キリストです」と示される啓示を受け入れ、主の呼びかけに応答することが信仰です。
 私達はまことの光である主のみ前に出て、自分ほんとの姿、希望のない暗黒を彷徨う哀れな自分自身を露わにされそれを自覚して光の主に従うのです。主の啓示の前に6節「彼らは後ろに引き下がって倒れた」この世の光ではイエスを求めても見出せず倒れ崩れます。 
 私たちはイスカリオテのユダの間違いとようにこの世の光・武器などに頼ってキリストを捕らえようなどとせずに、キリストの啓示される十字架の言葉、聖書の光の下に信仰生活を致しましょう。



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【トマスとイエス様と私】 ヨハネ二十章19〜31

 マリヤの知らせでペテロとヨハネが墓に駆けつけて、主の復活を信じたその日の夕方。弟子達は主を十字架につけて殺したユダヤ人達を恐れて自分達のおる所の戸をしめて閉じこもっていると、戸や壁に遮られずに主が突然入ってこられ、「安かれ」と挨拶なさった。主の復活体は霊の体であって、物理的空間に遮られず行動できた。しかしそれは超人的な、人間性と全く無縁なものではない。受肉されて人間となられた主は、私たちの罪[的外れの生き方]の為に十字架上で刺し貫かれた傷を負ったまま、人間性を保持されていました。復活の主はご自身の贖いの死によって彼らの罪を赦し、約束どおり神との和解による平安を与えられた。彼達は主にお会いできた喜びと与えられた平安によって、眠っていた使徒の使命に目覚めたのです。しかし残念なことに弟子の一人トマスはみんなと共にいませんでした。
 後で十人の弟子達から復活の主にお目にかかったと告げられたトマスは見ることだけではなく触ることをも求めました。彼が特別に疑い深かったわけではありません。現代人に多い実証主義者だったのです。目で見るだけでは信じられなかったのです。批判的で・合理的で、客観的に考える人物であったようです。私は十字架による救いは理解できましたが、復活が分からず、信仰の前進が出来ない時がありました。しかし頭で理解する事と、聖霊に導かれて自分の全存在で(実存?)理屈ぬきに信じる世界があることを知った時の驚きは今でも鮮明に覚えています。
 私は弟子達が羨ましく感じていたのです。それは復活の主にお目にかかったので、復活を信じることが出来たのだと思ったからです。しかし十人の弟子達は誰一人主の傷に触ろうとしていません。私だったら恐る恐る手を伸ばしてみ傷に触ろうとした事でしょう。その私に強烈に響いたのが「あなたは私を見たので信じたのか、見ないで信ずる者は、さいわいである」のニ九節の主のみ言葉です。
 聖書には考えても[不十分な知識と承知していても]解らない事ばかりです。若い時、高名な先生達に質問しましたが、結論は、信仰とは単純にみ言葉を受け容れるか否かでした。自分で理解できたことはそれで良し、解らない事は祈って御霊の導きによって信じることだと知ったとき目からうろこのようなものが落ちるとはこの事だと経験しました。それ以来聖書の通読が重荷ではなく、楽しくなりました。それと共にトマスが弟子達と共にいなかったその時、交わりを持っていなかった時復活の主にお会い出来なかった事、一週間ののち、トマスが弟子達と一緒にいた時、復活の主にお会いでき、「わが主よ、わが神よ」信仰告白ができましたその事です。
 弟子達は土曜日(安息日)礼拝を日曜日に主日礼拝として守るようになりました。私たちは礼拝のときに、トマスのことを覚えていなければなりません。なぜ主日礼拝がキリスト者にとって大事であるか、復活された主を礼拝、そしてお会いするからであることを忘れてはならないのです。



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【主の裁きの中での聖め】 イザヤ四章1節〜6節

 2章〜4章には終末の裁きと同じ主による救いと祝福が述べられます。三24〜26主の裁きは、外国の軍隊による侵略によって、男達は剣に倒れ、勇士たちは戦いに倒れる。美しいシオンの娘らの顔には奴隷の印の焼印がなされる。エルサレムの門は人々が集まるところであったが、出入りする人もまばらで、門自体がその空虚さを嘆くようでした。この預言は150年後に成就しています。
 四1(四章1節)男が殺されてあまりにも少なくなったので、7人の女がひとりの男にすがりつく、(旧約の時代の女性にとって結婚できない事と、子供のない事は恥ずべき事と考えられていた)それで、7人の女が一人の男にすがりつく事も、女が言い寄る事も異常な事です。また当時、夫は妻に対して食べ物と着物を供することは当然の義務でした。しかし7人の女は食べ物と着物を辞退しても、ただ、女達の切実な願いは、あなたの名によって呼ばれることを許して、私達の恥を取り除いて下さいと誇りを捨て虚栄を求める裁きが描かれています。
 しかし主は裁き罰するだけではなく、終わりの日に人の高慢さを(神を無視した生き方)裁き罰せられたその主が一方的な恩寵と祝福の手を伸べられるのです。主の裁きの預言の中に突如として、エルサレムの将来の栄光の預言が挿入されます。2節主の枝が若々しくまた麗しくイスラエルの栄光となると、裁きの中からメシヤ預言がなされてくるのです。
 その時、不毛の地は彼らの、[誇り][光栄]の実を結び、シオンの娘らの穢れを洗い古いエルサレムの血は取り除かれ、新しいエルサレムに留まるシオンの残りの者は[聖なる者]と呼ばれ[永遠の命を得る者として命の書に記される] とメシヤによる救いが述べられます。
 主の厳しい裁きの言葉が続くその時、それから解き放つ将来の救いの預言は、主がその民を裁き罰するのは救うためであり、裁きと救い、死と命、その間には主の苦難がある。神のみ業にはこの苦難が厳然としてあります。
 主の救いは悪い行いによる穢れを洗い、心からの悔い改めではないその捧げるかたちだけの犠牲の血にまみれた手を洗い清めるのは、主の審判の霊と滅亡の霊(焼き尽くす霊)の聖なる霊によってなされます。このようにして聖められたエルサレムには、40年の荒野におけるイスラエルの生活が、昼は雲の柱夜は火の柱としての主のご臨在の中を歩んだように、再び5節、シオンの山の全ての場所、集会(教会)に現れてくださる主のご臨在です。裁きと苦難を受けなければならない者の希望は主のみです。裁くお方が救うお方だからです。
 私達は希望であり、命である主キリストの十字架の血によって救われ、聖められ、復活の主と共に生きて行くのです。ガラテヤ二20「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。しかし、私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」



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【あなた方の労苦が無駄になることはない】 ヨハネ21章1〜8

 昨年荒地に木を植える環境運動と、それを通して女性向上運動によってノーベル平和賞を受賞したアフリカの女性が日本に招かれて講演しました。その中で日本語のもったいないという言葉に感銘を受けてと述べていました。日本語独特の言葉で他国語には翻訳できないとの事です。考えると分かるのですがうまく説明できないので辞書を見ました。[そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい]文例として[捨てては惜しい][おしゃべりは時間が惜しい]とありました。私はこの言葉で反射的に主に従う行動にはいかなることでも惜しいという気持ちは起きないなと思い、主の為に費やす時間も奉仕も、もったいないなとは感じないと改めて思いました。
 ペテロたちはエルサレムで復活の主に二回お目にかかりました。主が先にガリラヤに行かれと言われたので彼たちは急いで故郷のガリラヤに帰りました。おそらく食料が尽きたのでしょう、ペテロの「私は漁に行くのだ」との言葉で、他の弟子達6人も一緒に行く事になった。
 彼達は一晩漁をしたが、その夜は何の獲物もなかった。得たものは疲労と不満ばかりでした。彼達は気落ちしてカペナウムに帰ってきた。岸に立っていた人が(4〜6)「船の右の方に網を下ろして見なさい。・・・・」と言われたので、網をおろすと、魚が多くてそれを引き上げることが出来ないほどでした。彼達は弟子として主に招かれた3年前のあの出来事(ルカ五1〜11)を思い出したことでしょう。いずれも、彼らの職業的経験による努力が失敗した。これまでの常識では考えられないその時、威厳ある主の言葉に従って大豊魚を得たのです。主だと最初に気づいたのはヨハネです。「あれは主だ」それを聞いたペテロは、直ちに裸だったので上着をまとって、海に飛び込み泳いで誰よりも先に主の元に行こうとした。距離は50間ほどであった。この出来事は15節以下の主との会話の中で彼達に新しい使命が与えられた重大な出来事でした。
 主がいらっしゃれば人間の能力・経験で不可能なことでも出来る。特に弟子たちには宣教・新しい弟子達を牧する困難をも可能にすることを示されたのです。常識や専門的な経験などで出来ないと思うその時、キリストの言葉だけで行動に移すことです。私たちの生活するこの社会は私たちの経験や学歴や知識、真剣な努力等の苦労がみな無駄になることが殆どといっても良いほどです。
 しかし、復活のキリストの言葉に従うときには、その苦労が徒労に終わることはありません。コリント第一十五58「・・・・主にあっては、あなた方の労苦が無駄になることはないと、あなた方は知っているからである」復活の主は人間全てのものの最大の問題である死に勝利を得られたのです。この勝利のゆえに、私達に与えられたその故に、私たちの労苦が無駄にならないのです。これが私たちの経験や努力よりも確実なことです。キリストの言葉に従うことがペテロ達のように大豊魚を得、人生の勝利を自分のものにする秘訣です。



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【ペテロ主を三度否む】 マタイ26章26〜35

 ルカ21章31〜35.十字架に殺される前の晩餐が終わったあと弟子達に遺言を残されました(ヨハネ14章〜16章)そして17章弟子達の為にお祈りになりました。その直後ペテロに呼びかけられた(ルカ22章31・32)「・・・・私はあなたの信仰がなくならないように、あなたの為に祈った。それであなたが立直った時には、兄弟達を力づけてやりなさい」シモンは「主よ、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」といった。するとイエスは「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないというだろう」と言われた。33のペテロの言葉は本心から出ています。イエス様がイスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられたとき、弟子達は逃げ去ったが剣を振り回して抵抗したのはペテロのみです(50・51)
 ペテロは引っ張られてゆく主の後を遠くからついて行き、大祭司邸宅の中庭に入り人々と火にあたっていた。女中が「この人もイエスと一緒にいました」と言ったところ、彼はそれを打ち消し「私はその人を知らない」57節。しばらくして、ほかの人が「あなたもあの仲間の一人だ」と。ペテロは「いや、それは違う」58節と言った。約一時間たってから、ほかの人が言い張った「・・・この人もガリラヤ人なのだから」ペテロは「あなたの言っていることは、私には分からない」まだ云い終わらないうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。彼は主のお言葉を主の暖かい眼差しで思い出した61節。彼は外に出て激しく泣いた。
 弟子達はガリラヤでお会いになるとのことで、故郷に帰り、テベリヤ(ガリラヤ湖)で7・8名と漁をしたが一晩中網を打っても、何の獲物もなかった。岸辺からの「船の右の方に網をおろしてみなさい。・・・」引き上げることの出来ないほど獲れた。ヨハネがペテロに「あれは主だ」言った。ペテロは裸であったので、上着を着て海に飛び込んだ。弟子達が船に乗ったまま、魚の入った網を引いて、上陸すると火の上に魚がのせられていてパンもあった。彼達はその方が復活の主であることは分かっていた。これで弟子達に現れたのは三度目でした。バーベキュウの朝食が済まされたとき主イエスはシモン・ペテロに、云われました。
 「シモンよ、あなたはこの人たちが愛する(アガペー命と代えられるような)以上に、私を愛するか」ペテロは答えて「主よ、そうです。私があなたを愛する(フイリア友情のような)事はご存知です」もう一度言われた「シモンよ、私を愛するか(フイリア)ペテロは15節と同じように答えた。主は三度目に言われた「シモンよ、私を愛するか(フイリア)」三度も云われたので彼は心を痛め「主よ、あなたは全てご存知です。私があなたを愛していることは、おわかりになっています」。三度主を否んだペテロに対して主の側から、ペテロから主を愛すると言わしめて、ペテロがイスカリオテのユダと同じように主を裏切ったと落ち込んでいるペテロを励まし、自分が去った後、代わりに信徒の先頭に立って導くよう使命をお与えになった。
 もし主イエスが十字架で生涯を終わられたとすれば、ペテロは大祭司の中庭で、三度主を知らないと言ったことは生涯心を痛め続けたことでしょう。主が復活されたそのとき、彼は如何ばかり自分を責めたことでしょう。その彼に復活の主は火にあたりながら(あの祭司の中庭でのように)あの時三度否認して同じだけ、「私を愛するか」と三度尋ねられ、ペテロに三度愛すると答えさせて、主に対する忠誠と服従を確認する機会を与えられました。その上で「私の羊を養いなさい」と。いつも群れの先頭に立たれたキリスト、羊のために命を捨てられた良い羊飼いキリスト、今や、ペテロがその良い羊飼いとしての尊い責任を主から委ねられ、群れの先頭を歩み、命を捨てよと命じられたのです。
 つまずいても、裏切っても、何度失敗しても、悔い改めるとき、主はどこまでも愛し赦し、尊い証し人としての使命を与えて下さいます。それぞれに与えられた才能、賜物を用い、私は主を愛しますと告白して主に従って行きましょう。



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【我何をなすべきか】 使徒二章36〜47

 イスラエル三大祭は1)過越しの祭(除酵祭)大麦の収穫の束を捧げる。2)5旬節(7週の祭り)刈入れの祭。3)仮庵の祭(取り入れの祭)5旬節ペンテコステは一日のみ他の二大祭は7日続きます。AD33年の5旬節(2章1)の祭りの日に最初の教会が設立されました。イエス様が復活なさって、40日間度々弟子達に現れて彼らの見ているところで神の元へとお帰りになりました。その時、彼達に「エルサレムから離れないで・・・・聖霊のバプテスマを待て」と命じられた。それからの弟子達の仕事は待つ事でした。信仰生活では『待つ』事は非常に大事です。
 弟子達は主の約束を信じて、心を合わせてひたすら祈りをしていた。5旬節の日突然(2章2)激しい風が吹いてきたような音が、家いっぱいに響き渡った。また舌のようなものが、炎のように分れて現われ、一人人りの上に留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、・・・・・。聖霊は今でも風のように私達に臨み、荒野にサフランの花が咲き輝くような者とされ、水で洗い落とせない穢れ咎を焼き捨てて下さいます。そしてそれに変えて?い愛を私達のうちに創造して下さいます。
 弟子達は聖霊の注ぎを受けると直ちに、諸国から祭りに来ていた敬虔な人々の前に恐れずキリストの証人として立った。信仰厚い人達は,風が吹くような物音で大勢集まってきていたのです。聖霊はこの時聴覚・視覚に現実的に響き見えるものでした。学のない弟子達が聖霊の注ぎを受けたとき多くの国語で、イエスはキリストであると十字架の救いと、主の復活を証ししたのです。彼達は異言を語るという聖霊の賜物が与えられたのです。賜物の異言とはわけの分からない言葉を語る事ではなく、ペテロのように十字架の救い、キリストを語る事です。聖霊の賜物はそれぞれに分け与えられます。                      (二36は二章36節の事です)
 聖霊を受ける過程は昔も現在も誰においても変わりありません。二36「・・・しかとこのことを知っておくがよい。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになった」彼達はそのペテロ達の証言に強く心刺され、使徒達に私達はどうしたらよいのでしょうかと言った。ペテロはそれに答えた。38節第一悔い改めよ、人間中心の考え方から方向転換して、神の側に立つことです。意思をもって神の方向に進む精神の変化です。第二はキリストを第一と選択して私の主でありキリストであると宣言して主の名による洗礼を受けて救われるのです。第三そうすれば聖霊の賜物を受ける霊的な体験をするのです。舌のようなものが炎のように留まりその人の内なる罪(原罪)を焼き聖めて下さるのです。
 ガラテヤ五章19・20の肉の働きを聖霊が焼き捨てて下さいます。そうすると聖霊の実22・23が与えられます。悔い改めて、罪の赦しをうる為に、イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける事は五24「・・自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった」のです。そうして聖いキリスト者の生き方が出来ます。
二20「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。しかし、私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」と御霊に導かれて聖いキリスト者生活が出来るのです。



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【心を合わせてひたすら祈っていた】 使徒一章1〜14

 主イエス様は十字架にかけられる前の晩餐会において遺言を弟子達に語られました。(ヨハネ十四章〜十六章)そして彼達のためにお祈りになり十七章。ゲッセマネの園へ向かわれました。弟子達は十字架につけられた主との関係での処罰を恐れて逃げ出した。その弟子達も四十日の間たびたび復活の主にお会いするうちに、「エルサレムを離れないで・・・聞いていた父の約束を待て・・・」との命令どおりに、彼らが宿泊していた屋上の部屋で、イエスの母マリヤと婦人達およびイエスの兄弟達と、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。
 私は機会ある毎に主のご遺言を読んで励まされ感謝しています。十四章1「心を騒がせないがよい。神を信じ、私を信じなさい」現実の生活に、健康に、経済的など、特に将来に対す見通しがなく不安な感じを持つ者に思いやりのある主のみ言葉です。26「助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全ての事を教え、また私が話しておいた事を、ことごとく思い起こさせるであろう」と言われるように、人間の経験や知識で理解できない神の言葉・聖書を聖霊が理解させて下さるのです。真理の御霊が来る時、あらゆる真理に導いてくださるのです十六章13
 旧約聖書の時代には父なる神ヤァウエーが臨在なさり人々と語られ(特に預言者を通して)預言に従って子なる神イエス様が人間の形をとられ地上で33年間人間の歴史の中を歩まれ十字架において、人類の罪の贖いのため血を流し、甦って神の右に座しておられ、助けぬしなる聖霊をお遣わしになりました。今は直接聖霊が私達に面しておられるのです。三位一体の神は、その時代によって人間また歴史にそれぞれに対面なさっているのです。 
 三位一体の神の聖霊が新約の時代・教会時代は、人間と直接に接触して下さいます。遺言に示されているように助け主であり、弁護者であり、真理を教え、私達の心を焼き聖め、新しい存在(神の子)として下さるのです。「私が去っていく事は、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう」十六章7.
 遺言を信じ特に使徒一章9聖霊が下る時・力を受けて・地のはてまで証人となるとのお言葉を信じて、心を合わせて、ひたすら祈っていたのです。通常、人が何かしようとする時野心とか野望等が原動力になりますが、霊的な力は人間的なものではなく聖霊によるものです。イエス様が公生涯に入られる際バプテスマを受けられ、聖霊が注がれたように、彼らも同じ聖霊によって主の証人となり奉仕に当たるのです。
 彼達は危険を冒してまで集まって祈る必要はないのではないか、敵の目を逃れて独りで密やかに祈っておればよいのではないか。一緒に集まるは食事を共にするとも訳せます。戦時中弾圧で教会が解散させられた時、母達は3・4人お茶の時間として集まって祈っていたそうです、(私は学寮生活中)私が信仰を失わなかったのはこの祈りのとりなしであったと感謝しています。弟子達も食べ物を持参して集まり心を合わせ一つとなって祈ったのです。主はマタイ十八章20「二人また三人が、私の名によって集まっている所には私もその中にいるのである」
 私達は一人で静かに祈る事も必要ですが、キリスト者が集まって祈る事は大事です。特にその中でとりなしの祈りがなされる事は、主の喜びたもう事です。私はあのどん底のトンネル陣地で主との出会い救いを経験できたのも、母を中心とした姉妹方のとりなしの祈りであると感謝しています。それによって与えられた信仰の原動力が今に至るまで私を支えてくれたのです。



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【我死ぬべくば死ぬべし】 エステル四章1節〜17節

 聖書に取り上げるときにも問題になったとの事ですが、エステル記には神の名が一度も登場しません。何故神の言葉がないのか不思議でしたが、注意して読んでみますと神の深い摂理が述べられている事に驚かされました。また男性中心の時代に他の書物に見られないほどに、すぐれた女性が聖書には取り上げられています。モーセの姉ミリアム、エリコ町のラハブ、女性士師デボラ、モアブの女ルツ、サムエルの母ハンナ、女預言者デボラとホルダ、ユダヤ民族をホロコストより救ったエステルなど、特に新約・初代教会は女性抜きでは語れません。エステル以来ユダヤで現在も守られているプリムの祭り(九章)の由来も述べられています。私達の日常生活の中では劇的に信仰体験する事は殆ど在りませんが、自分自身の人生を見ると神のご摂理が働いている事に気がつくはずです。
 エステルはワシテに代わって王妃となりました。アハシュエロス王がマラソンの戦いで敗れた父王ダリヨスの遺志を受けギリシャと戦う為、帝国全土より有力者を集め協力を求め宴会を開いた席で、上機嫌の王は王妃ワシテの美しさを自慢しようとて、宴席に召したが、出席を拒否され面目を失した。それでワシテは退けられ(一章後半)エステルが王妃として登場する(ニ章十四)そしてユダヤ人に襲ってくるであろう危機に対して神様の摂理(ご計画)による備えが次々と展開されます。その時点ではなぜこのような苦しみ困難に会うのだろう、こんな不条理な事を神は許されるのだろうと思った事でしょう。モルデカイは王の信頼厚いハマンに跪かなかった。ハマンは怒り彼だけではなくユダヤ人を滅ぼしその財産を王に差し上げようとの悪計が王に受け容れられた。モルデカイはその事を悲しみ荒布をまとい、灰を被って激しく叫んだ(神に祈った)それを聞いたエステルは、着物を贈って荒布を脱がせようとしたが受けなかった。使いの者にハマンの企てを彼女に伝えさせて曰く「あなたがもし、このような時に黙っているならば、(神は)他に助けと救いを起こすでしょう。・・・・あなたがこの国に迎えられたのは、このような為ではないでしょうか」エステルは「・・・すぐ王のところに行きます。私がもし死なねばならないのなら、死にます」と答え実行します(四章・五章)
 私は48年前一年間の天幕教会から、小さな二階建ての教会堂与えられ、献堂式を喜び楽しみにしていましたが、突然喀血し、医師より再起不能と宣言され、失意の中臥せっていながら聖書を読んでいた時です。この「我死ぬべくば死ぬべし」のみ言葉で私の自我は完全に打ちひしがれ、私になかった牧会者として必要な忍耐と言い訳はしないという賜物のを頂くと共に、奇跡的に癒され献堂式に出席でき感謝しました。私はそのとき以来神のご計画摂理に逆らわないように祈りつつ従ってきました。
 エステルに対する神のご摂理は次々と露になります。六章王が眠られないので日々の記録を読ませている時、モルデカイが王の暗殺を未然に防いだ事、褒賞が与えられていなかった事、そして翌日早速ハマンに命じて褒章を与えられた。(六章)
 一方おそらく祈っていて与えられたであろうエステルの計画によって、ハマンの計画は破れモルデカイをかけて殺そうとしたその木につるされて死んだ。神様の摂理の下にあって御心に従ったエステルとモルデカイの故に、ユダヤ人の皆殺し(ホロコスト)が阻止された。このことは神の民を救われる事に、感謝してのプリムの祭りはユダヤ人のみではなく、神の子とされた私達も忘れてはならない祭りです。



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【振り向くと主が立っておられた】 ヨハネ20章1〜18

 聖書の記者は、主が復活したか否か、復活された主は、肉体を持っていたのかそれとも霊体だったのか、復活の意味は何か等、議論もせず殆ど関心すら見られません。彼達はキリストの復活に接した人々の経験を中心とし、復活の主によってこれらの人々がどのように変化したか、キリスト信仰が理屈でなく、生活そのものであることを語っています。
 ヨハネはその福音書の最後の二章で、マグダラのマリヤ、デドモと呼ばれているトマス、シモン・ペテロの三人を取り上げています。これらは三人三様の性格の人物です。マリヤは直感間的で純情です。トマスは懐疑的・理知的です。ペテロは感情的な行動派です。この三人の違った人物のそれぞれに、復活の主は等しく信仰による力と希望を与えられました。
 最初に復活の主にお会いしたのはマリヤです。彼女は種々の問題を抱え、精神的に悩み苦しみ、打ちひしがれ絶望的な情況の中で主イエス様と出会い、生活も性格も一変しました。この変化は姉のマルタ、弟のラザロが信仰生活に入った事でも分かります。マリヤの変化は生活を共にしていて一番身近にいた家族を動かしたのです。
 このラザロが死んで4・5日たったそのとき主は墓の前にお立ちになって、「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばれた。すると、死人は手足を布で巻かれ、顔も顔覆いで包まれたまま、出てきた。(ヨハネ11章35以下)そのことを見た多くのユダヤ人は、イエスを信じたので、祭司長達は主を殺す計画を立て十字架に殺した。マリヤは愛するラザロおも甦らせて下さった主が十字架で死んで墓に葬られたのです。彼女は折角経験した喜びと希望の芽は押し潰されたのです。悲しみに満たされた彼女は墓に行ったところ墓の蓋の大きな石が取り除かれているのです。驚いて走っていってペテロとヨハネに「誰かが、主を墓から取り去った・・・・」若いヨハネが先に着いたが、墓を覗くのみで後から来たペテロが先に墓に入った。ヨハネは後から入ってきて見て信じた。それはマリヤのことばを信じたのでしょう。彼達が帰った後やってきたマリヤが泣いていた時、20章11節以下復活の主に誰よりも先にお会いしました。
 彼女は墓の方を向いて泣いていました。そこには思い出のみで希望も生きる力はありませんでした。キリストの声も園の番人だと思うほどでした。14聖書注解者は涙に遮られて主を見ることが出来なかったと、それもありますが私は彼女が墓から盗まれたと確信していたので悲しみで見えていても真実が見えなかったと思います。私達も自分の関心事その思いに捕らわれていると、共に歩まれる主に気がつきません。しかし主を信じて主に愛されている者には最善がなされます。愛する者の全てをご承知の主は、「マリヤよ」と親しく呼ばれるのですあなたの名も、マリヤはその瞬間主が見えました。墓の事も、失望して泣き崩れた事も忘れたと言うよりも消え失せたのです。マリヤの後ろに主は立たれて彼女を見守っておられ、ご自分の方から「マリヤよ」と呼びかけて下さいました。彼女は立ち直った。そして主のお言いつけを弟子達に伝える大役を果たせました。弟子達に主の復活の喜びと希望を伝える事が出来ました。
 私達は不信仰やペテロのような失敗に恐れる事はありません。背後にあって見守って下さる主イエス・キリストが親しく私達の名を呼ばれ私達と交わりをもって下さるのです。私達は葬られた主の墓から捨てるべき視点・自分の関心事・思いから離れて、共に歩まれている主、背後にあっても常に見守られるイエス・キリストに信仰の目を向けましょう。



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【十字架を負って私に従え】 ルカ9章18〜27

 十字架のみ言葉は、人間の意志と判断を、良い意思も悪い意志なども全て打ち砕きます。十字架は人間イエス様の悲願や情熱から起きたものではありません。十字架に掛けられる前の晩、ゲッセマネの園で汗が血のしたたりのように地に落ちるほど切に「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を私から取り除けてください。しかし、私の思いでなく、みこころが成るようにしてください」と祈られた。ここに主のご生涯が凝集され十字架が実現されたのです。
 イエス様は山に野に町に海など常に父との交わりお祈りをなさっておられます。このときもお一人で祈っておられた。弟子達が近くにいたので、「群集は私を誰といっているか」と尋ねられた。彼達は口々に「バプテスマのヨハネだ、エリヤ、預言者の一人などが復活したのだといっています」と答えた。主は弟子達に「それでは、あなた方は私を誰と言うか」と言われた。ペテロが代表して「神のキリスト(救い主)です」と答えた。他の人々が主の事を何と言っても、書物で読んで知ってもそれは取るに足りない知識にしか過ぎない、私達はイエス様と個人的にお会いしなければなりません。キリスト者は受け売りの話を知ったのではありません。確かに人の信仰体験は参考にはなりますが、肝心な事は、私があなたが個人としてイエス・キリストを受け容れる事のみがまことの信仰であり、キリスト者なのです。イエスは神であり、私のキリストとの信仰告白は21節に主が命じられたように心の中で確信を持たねば次のみ言葉22節「人の子は多くの苦しみを受け・・・・捨てられ、また殺され・・・ネバならない、それは義務なのだ(原語直訳)」と言明された事は理解できません。主はご自身のなさなければならない事を知っておられた。神のご意志はキリストのご意志でもあった。私達を罪から贖う為に、十字架の死はご自分の義務だと実行されたのです。そうであるからキリストに従おうとする弟子も十字架を負う事は当然の事であり義務です。しかもこれは「誰でも私(キリスト)についてきたいと思うなら」自発的に自由な自己決断で従うのです。キリストに従う意志があるか、主の苦しみ十字架が人(他人)ではなく私の為だと信じているか、誰でも問われています。日々に毎朝・毎夕問い直されています。
 続いて従う者の奉仕の条件が規定されます。1)自己否定する。私達は世界で最も大事な事は自分であると行動しているが、神に無条件降伏をした者として、神の命令に絶対的に従うのです。それは禁欲主義とか良い行為ではなく神の恵みによるのです。2)自分の十字架を負ってとは、イエス様の命じられる事に真正面から取り組むことです。神に誠実であろうとすると十字架があることを自覚してこれに立ち向かうのです。3)キリストが全てで第一とする。苦難の道を行く事がキリスト者の道ではありません。何をする事が安全かではなくて、何をする事が神の御心であり、正しい事かを知り1,2をもってキリストに従い行くのです。
 24・25節の価値ある命を自覚する者は誰か、主に従う者に対するご褒美は永遠の命であり、神の国の住人としての国籍を頂く事です。感謝です。



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【急ぎ行き伝えよ、イエスは甦られた】 マタイ28章1〜15

 安息日が終って、主の初めの日の明け方に、起こった出来事が教会の二千年の教会の歴史にとって画期的な週の初めになりました。その出来事はイエス・キリストの復活です。このときより主の復活を記念して主の日とし、週の初めに礼拝を守るようになりました。それまでは十戒の定めどおり安息日(土曜日)に弟子達もシナゴーグ(会堂)で礼拝をしていました。この日は日曜日礼拝ではなく主の日礼拝です。
 一節マグダラのマリヤと数名の女性達は、アリマタヤのヨセフとニコデモ達が、安息日を控えて急いで主を十字架から下ろして墓に葬るのを確認して、大急ぎで香料と香油を買い求め、律法に従って日没から始まる安息日の土曜日を守りました。日曜日の明け方墓に急いだのですが、安息日にサンへドリンの人達が、墓に封印、番兵までつけた事は知る良しもありません。気がかりは墓の大きな石の蓋をいかにするか心配し話しながら、足を速めていたのです。すると大きな地震があり、蓋は転がされその石の上に天使が座っていた。見張りをしていた者達は震え上がって逃げ去った。女達に御使いが五〜七節と言った。墓に着いたとき重い石が取り除かれていたように、彼女達の心からも不安と恐れの重い石が取り去られていました。
 御使いは不安と恐れの中にある者達に「恐れる事はない・・・・かねて言われとおりに、甦られたのです。・・・急いで行って弟子達に伝えなさい・・・」キリスト教は喜びと平安の宗教です。主はシャローム心を騒がすなと何回も語っておられます。
 イエスは死人の中から甦られた。人間の不安と恐れの根源は罪とその結果の死です。主は十字架に私達の罪の身代わりとして死をもって償われ罪を取り去ってくださいました。そればかりか復活によって死を打ち負かし、その恵みを私達に与えてくださるのです。恐れはなくなります。キリスト者は十字架によって救われ、復活によって新しい命に生きる者です。神を信じるという事は、キリストにありて罪が赦され死人を生かす神を信じ、その復活に触れる事で新しい命に預かることです。キリスト教は復活の宗教です。希望に満ちて歓喜の歌を歌うものです。
 「急いでいって・・・伝えなさい」希望や喜びを自分一人のものとはせずに、分け与えます。私達は神から与えられた恵みを人々に伝えるのです。弟子達は復活の力をいただき、聖霊に導かれ主にある喜び希望に満たされ、主のご命令に従い全ての国民に福音を伝える伝導に奔走しました。私達もその業によって、救いと復活の恵みをいただいたのです。
 コリント前十五章でパウロは復活の証人を多数あげ、大多数のものは今なお生存していると述べています六節。四福音書は独自の立場から証人を選び復活の事実を語ります。墓に行った女達、その知らせで墓に駆けつけたペテロ達、復活を疑うトマスに見ずして信ずるものは幸いだと語られる主、エマオ途上でのクレオパともう一人の弟子との会話、ガリラヤ湖畔で七名の弟子達に主は語りかけ共に食事をなさり、四十日にわたってたびたび弟子達に現われて、神の国について語られておられます。
 初代教会の信徒は自分達を常に主の復活の証人と呼んでいます。私達も時を隔てていますが主の復活の証人です。主は疑っていたトマスに「あなたは私を見たので信じたのか、見ないで信ずる者はさいわいである」ヨハネ二十章29。とおっしゃいました。私は六十六年前にバプテスマの恵みに預かりましたが、最大の難問は復活でした。直接復活の主に会った弟子達が羨ましかった私自身がトマスだったからです。見ないで信ずる者は幸いであるのみ言葉を感謝して受け取りました。その喜び感謝を忘れる事が出来ません。この喜びと感謝を味わった者は初代教会の信徒と同じように私は主の復活の証人ですと人々に語るはずです。



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【主を十字架につけた者は誰か】 マタイ26章14節〜25節

 主を裏切ったといわれるイスカリオテのユダのみがイエス様の十字架に責任があるのでしょうか、ユダだけが罪人でキリストを十字架につけたのでしょうか、ヘロデ・ピラト、それとも十字架につけよと叫んだ民衆でしょうか、十字架に直接釘づけたローマの兵隊でしょうか。私は厳粛な気持ちで主の前に立ち尽くします。
 サンヒドリンの議員達が、大祭司の中庭に集まり4節・5節。策略をもってイエスを捕らえようと相談した。しかし騒ぎが民衆の中で起きるかもしれないので祭りの間はいけないと実行は祭り以後と決めた。その時にユダが提供した機会は民衆のいない所で引き渡そうとの申し出でした。それで銀貨30枚(男奴隷の値)を彼らは支払った。弟子であり会計を任せられるほど主に認められた彼がなぜ主を裏切ったのでしょう。ベタニヤ村で女が主に香油を注いだ直後に彼の貪欲と悪意イエスに対する期待はずれが彼を裏切り者にしたのでしょう。小額の銀で、史上最悪の取引がなされたとは何と言ってよいか分かりません。しかも2節「・・・・2日の後・・・十字架につけられるためにひきわたされる」と語られたそれを聞いていたのにです。
 20節夕方過越しの食事を12弟子達摂られた席上主は「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」と忠告をなさった。弟子達の反応はつぎつぎと「主よ、まさか私ではないでしょうね」と言い出した事です。ユダも他の弟子達にまねて「先生、まさか、私ではないでしょうね」と答えた。主は「スゥ・エイバス」(直訳するとあなたが言った)ユダは極秘裏に悪辣な計画を進めているので、他の弟子達に気づかれないように、愛の訴えをもって彼の計画を止めさせようとなさっておられる。力を持ってユダの計画を挫く事が出来るのですが、主の唯一の武器は愛の訴えです。主は強制的に何事も阻止はなされません。
 12弟子達は「・・同じ鉢に手を入れている者が裏切ろうとしている。・・・・・」23・24節、どきりとしたでしょう。心のどこかに潜む恐れを感じた事でしょう。いかに信仰深い存在でも弱さゆえに主のみ心に反する事をしてしまいます。主は時に私達に対決なさいます。主の愛の目が注がれている事に気づきます。その主の目であの大祭司の庭にてのペテロの罪への自覚の涙。私達もその主の目によって自分のほんとの姿、罪を見るのです。ユダはその愛に触れながら罪の方向に直進してしまいました。恐ろしい事は罪を承知の上で無視してしまう事です。
 主を十字架につけた者は2千年前の人々だけではありません。キリストの前に立てば、自分自身であることが解かります。主の愛の目が私達に注がれています。主のみ顔を見つめて下さい。ペテロと同じ経験ができます。そしてキリストだけを十字架につけるのではなく、自分自身もキリストと共に死んで、キリストの甦りと共に永遠に私達もキリストとともに生きていくのです。ガラテヤ2章19・20節。



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【主がお入用です】 マルコ11章1節〜11節

 受難週は棕櫚の主日から始まります。その日主イエス様が平和の王としてエルサレムに入城なさいました。民衆は自分達の上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして棕櫚の葉を振りかざしてホサナ(今救い給え、どうぞ救って下さい)叫びつつ王としての主をお迎えした9・10.彼達はダビデ王国の繁栄をもたらし、ローマの属国よりの救いをなしてくれる王として期待していたのですが、ピラトやヘロデの前で裁かれ、沈黙される主に期待はずれして失望しました。ホサナと叫んだ民衆の同じ口が十字架につけよと叫ぶに至った事は無理からぬ事です。
 通常王が首都に入城するにはきらびやかに飾った軍馬にまたがり、馬に乗った部下を引き連れ厳しく鳴り物入りで堂々と民衆の歓呼の声の中、入るのですが、主は子ロバに乗って精彩を欠く12名の弟子と共にトボトボと城門を潜って来たのです。
 預言者ゼカリヤが9章9節「子ロバに乗ってあなたの王があなたの所に来る」と預言した通りです。この事について主は2・3節「・・まだ誰も乗った事のないロバの子を引いて来なさい・・・・主がお入用なのです。またすぐ、ここへ返して下さいますといいなさい」と二人の弟子に言われました。ロバでも馬でも最初は背中に物を載せると大暴れする事を人々は知っていました。このわかりきった人々にまだ誰も乗った事のないロバの子と主は言われたのです。イエス様は比較的大柄のお方だったようですので足がまさに地に付くようで様にならない姿だったと思われます。
 なぜ馬でなく、ロバにしても親ロバではなかったのか、それは主ご自身がお入用だったからです。ご自身を主と言われたのはこの場面だけです。主がお入用だったのは否今も必要としておられるのは、ロバの子なのです。私は非常に嬉しくなりました。知恵も財産も地位もあり、人望厚き、見栄えの優れた人ではなく、貧相で地位も財産もなく誰からも注目されないような人を主はお入用だと言われるのです。私もそのようにお入用だと指名されたと、嬉しく感謝しています。
 マルコは主が三度まで、エルサレムで苦難を受け死を予告なさったと述べます。そのことを引き止めようとしたペテロに「サタンよ、引き下がれ、私の邪魔をする者だ、神の事を思わず、人の事を思っている」と叱責なさっての、エルサレム入城だったのです。人間的な愛が神様のご計画に反する事もあるとの警告です。
 人々はダビデ王国の再来だと喜んでホサナと叫びましたが、キリストの王国は、ホサナ、ホサナと口先だけで、かっての繁栄した王国の再現だと思っていては入れません。キリストをホサナとその王国の城門で叫ぶには、悔い改めが必要です。悔い改めとは前非を後悔する事では在りません。キリストと共に死んでキリストと共に生きる事です(ガラテヤ2章19・20節)即ち生まれ変わる事です(新生)。自分の希望だけを祈るご利益宗教の信心ではありません。自己弁護をしたり、自己主張をせずに、自己を捨てて主の前にひれ伏すのです。そして立ち上がって主の神の国で その城門で、ホサナ、ホサナと主をお迎えし、讃美しましょう。



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【信仰に立つ者は誰か】 民数記14章一節〜十節

 父なる神はイスラエルの民が、エジプトの奴隷から救い出して欲しいとの祈りに応えて、モーセとアロンを用い、奇跡的業を持ってかの地を脱出させられた。彼達は昼は雲の柱、夜は火の柱に従って前進した。神の約束の乳と蜜の流れる父祖の地を目前にしたとき、モーセは神の命令に従い、各部族ごとから12名のつかさ(精鋭の勇士)をカナンの地に遣わしその地を探らせた。
 彼達は命令13章17節〜29節どおりカナンの全土を探り、一房の葡萄の枝を切り取り二人で担ぎ、他の果物と共に持ち帰った。そして斥候たちは40日の成果をモーセに報告した27〜29。彼達の復命を聞いた民は果物を見て約束のとおり乳と蜜の流れる地であることを知ったが、しかしその地に住む人達の強さに、その夜、泣き明かしたほどでした。それはカレブが神の命令どおり攻め取りましょう、必ず勝つ事が出来るとの言葉に、彼達は強くて負けるからだと、彼達(モーセ・アロン・カレブ・ヨシュア)を石で撃ち殺そうとした14章10節。
 そのとき主の栄光がイスラエルの全ての人に現われ、モーセに言われた「・・・疫病を持ってうち滅ぼす・・・」モーセは13〜19節ととりなしの祈りを主は受け容れられた。
 確かに斥候の10人の判断は人間的には正しく、あのゴリアテを見たときのイスラエル軍が戦意を失ったように、彼らの大きな声と民の失意が勝ち呟いたのです。しかし不信仰は神のご計画に逆行します。神に従う事を勧めたカレブとヨシュアが年老いた指導者を越えてそこに立つのです。神は斥候の期間の40日を40年として民を荒野で生活することとされた。そしてその時の成人のすべてはヨシュア達二人以外を除いて誰一人約束の地に入る事が出来ないと告げられました。
現代の教会はどうでしょうか、キリスト者といっても自分を喜ばせ、自分の思いを第一とし、神に仕え、神に喜ばれる生き方は二の次とする人が多い有様です。カレブたちの前に大声をあげる10人と群集達と同じ事をしているのではないでしょうか、しかも気がついても悔い改めようとはしないのです。教会が寂しいのも、キリスト者の信仰がいい加減なのも当然な事です。教会を囲むこの世の壁が、いかに高くともヨシュア達と共に「やりましょう、攻め上りましょう」と、立ち上がる勇士を求めておられます。この元住吉教会にはこの勇士が満ちています。一人一人がギデオンの勇士の一人です。われらの武器は剣ではありません。命令に絶対的に従う信仰です。
 私は伝道パンフレットに教会の集会案内を印しながら読む人が信仰に導かれるように祈りながらなします。手紙の場合も手紙に手を置いて祈る事としています。
 奉仕の第一歩は主を信じて先ず命令どおり動き始める事です。



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【愛のゆえにお願いする】 ピレモン1節〜25節

 パウロがピレモンに、今は彼に導かれてキリスト者になった逃亡奴隷のオネシモを、愛する兄弟として受け容れて欲しいと懇願するような内容の手紙を持たせて送り返しました。
 パウロは手紙を書く場合、挨拶を述べ続いて感謝と祝福とお恵みを祈り、信仰が深められるようにとの配慮が見られます。彼の祈りには、信者・同労者・教会に心引かれ感謝の気持ちが溢れています。ピレモンのイエス・キリストに対し、また、全ての聖徒に対する愛と信仰とについて神に感謝しています。自分のことをイエスキリストの囚人と自己紹介をしていますが、キリストに奉仕し、宣教した為にローマの囚人として、また単に人間の囚人ではなくキリスト・イエスの囚人(しもべ)としての誇りと謙遜を表すと共にキリスト者の自由をも語っています。
八節手紙をパウロが書いたのは、奴隷のオネシモが主人の家から脱走してきて、パウロのところに身を寄せてきた事についてです。老年になって囚われの身で導いた私の霊の子供オネシモ(役に立つものとの意)についてお願いするためであり、彼は以前は、あなたにとって無益なものであったが、今は、あなたにも、私にも有益な者になった。年老いて監禁の身であるパウロのお世話をし仕えてもらっている。私は彼を身近に置いて、あなたに代わって仕えてもらいたかったのです。だから彼を兄弟として受け容れて欲しい。あなたが強制されてよい行いをするのではなく、自発的にすることを願います。彼をあなたの元に送り返す。彼は私の心ですと述べるのです。
ピレモンにオネシモを送り返すから、奴隷としてではなく、それ以上の愛する兄弟として受け容れて欲しい、もし私をあなたの信仰の友と思ってくれるなら、私同様に彼を受け容れて欲しい、かれがあなたに不都合なことをしたか、負債があれば私の借りにして欲しいと目の悪い彼が手ずからこの手紙を書いているのです。
パウロはピレモンとオネシモの関係をこのままにしておいては良くないと、主人の元に送るのだから主にある兄弟として受け入れ、福音のためとらわれている私のためにあなたの身代わりとして仕えるため留めて置きたかった(これからもおきたい)。
この短い手紙の中にパウロの深い兄弟愛(主にある)と、その愛に押し出されるとりなしの心があふれ出ている感じです。愛の実践、愛の広がり、兄弟姉妹の交わりなど学ばされます。生殺与奪の権を持つ厳しかった主人ピレモンの前に立つ逃亡奴隷オネシモは如何程の不安の中にあったことでしょう。しかし、彼には手紙による弁護者としてのパウロがそばに立っているのです。心励まされてオネシモは許しを請い、赦されたのです。
私達も神様の前に立って言い開きをしなければならない時が来ます。その時オネシモの傍に弁護してくれるパウロの手紙があったように、否、それ以上のイエス・キリストという強力な弁護者が私達の傍に共に立ってくださるのです。キリストはこの人は私の愛する兄弟、私の愛する姉妹であり、彼女、彼が被害を与えたのであれば私の借りにして欲しいと申し述べてくださいます。そうして、十字架の流された血を持って私達の払うべき全てのものを贖って(買い戻して)下さいます。オネシモも感謝したでしょうが、私はイエス・キリストにより以上の感謝をささげます。



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【ヨブとキリストの受難】 ヨブ1章1節〜12節

 神様がお認めになさったように、ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者はないとサタンに言明なさった。彼の挑戦を受けられてサタンにヨブを試みなさしめたのか、疑問を抱いて導かれた水口牧師に尋ねました。聖書は一・ニ箇所で理解しょうとするのではなく、最後まで読まなくてはならないと答え、聖書全体の通読を勧められました。読み進むうちにヨブの苦難の意味が解けてきました。フランクルが人の人生の出来事にはどのような事にも意味があると語っている事も理解できました。
 始祖アダムたちの堕罪ゆえに、エデンの園から追放された人類を求めてきたりたもう神の行為は、人類を愛して遣わし給う父なる神と、遣わされ給う子なる神と、この出来事を示し給う聖霊の三位一体の神によってなされました。父のご意志によりキリストの十字架において、祭司としての自己犠牲を見る事が出来ます。聖霊は一つの愛の共同体を形成する神との和解が与えられた人間として目覚めさせ、これを集わしめ給い。この共同体なるエクレシア(教会)の中での信仰が三位一体の神に対する個々人の応答となるのです。
 ヨブはアブラハムの5代目に当たるエソウの子孫でエドムを支配する王であったといわれます。彼は全く(神の律法を右にも左にもそれない完全さ)まっすぐな神を信じる非イスラエル人でしたが、宗教心においては全きイスラエル人でした。ヨブ1・2章に神から全く見捨てられ祈りも受け容れられない彼の姿は、十字架上で「わが神、わが神なんぞわれを見捨て給うや、エリ、エリ、レマ、サバクタニ」マタイ27章46節と叫ばれた時の神からの遺棄と、彼の激しい試練とは重ねて見られます。主は十字架の苦痛の中もとめても神のみ言葉をも聞けませんでした。ヨブは10人の子を瞬時に失い全ての家畜も侵略者に持ち去られた。彼のサタンのたくらみに対する回答は・・・・主が与え主が取られたのだ・・・でした。陶器の破片でかきむしるほどの腫れ物の苦しみの中、妻の神をのろって死んだ方が・・には・・神から幸いを受けるのだから災いをもうけるべきではないか。私は若いとき、ヨブはなんら非難されるべきではないのになぜと思ったのは当然な事だとしました。
 友人達が彼の苦難を聞いて遠くから訪ねてきましたが、あまりにもひどい情況に7日7夜彼の前に共に塵の中に座して口も聞けずにいたが、3章〜37章まで友人は罪を悔い改めよその苦しみは罪の故だと、彼に迫ります。彼には自分の完全さに自信があるのでそれに反論します。しかしその対話の中で気づきました。19章25・26・27節。人間その存在自体が神の前に立てない存在なのだ。私をあがなう私の味方が、何時の日にか、この地の上に立たれると、あがない主キリストを求める心に成ったのです。罪の因果応報ではなく苦しみの意味を洞察したのです。会話を聞いておられた主は38章口を開かれました。 
 つむじ風の中から語られる主の言葉38章〜41章に42章5・6節ヨブは耳で聞いていたが今この目であなたを拝見して・・みずからを恨み・・悔いますとざんげと信仰告白をしています。彼の苦難はあがない主を認めるためだったのです。苦難の意味がそこにありました。主イエス様がそのあがない主です。十字架の苦しみは主との出会いの中で神との断絶の中に置かれている我々の贖いのためなのです。



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【あなたこそ生ける神の子キリストです】 マタイ16章13節〜20節

 主イエスは弟子達に尋ねて言われた《人々は人の子(イエス)をだれといっているか》弟子達は口々にある人々はバプテスマノヨハネ,ある人はエリヤ・エレミヤまた預言者だといっています。とお答えしました。そこで主イエス様は「それではあなた方は私を誰と言うか」と言われた。シモン・ペテロ「あなたこそ、生ける神の子キリスト救い主」ですと応えています。この信仰告白はキリスト者全員を代表してなされた事だと思います。
 その信仰告白に主はそれを代表するペテロに17節〜19節と言われました。漁師ヨナの子(バルヨナ・シモン)この事を啓示されたのは神であって決して両親やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)などでは教えられたのではありません、血肉ではなく、天にいます私の父が示されたので、ほんとにあなたは幸いですと語られ、そしてあなたはペテロ(ペトロスへぶる語では岩の意)私はこの岩(ペトラ)の上に私の教会(エクレシア同じ目的をもって呼び集められた集い)を立てよう。死の力も勝つ事が出来ない。そして天国の鍵を(クレイダス複数)与える。これは私達が人々を神の下にお連れする役目を与えられた事で決して、ローマ法王や神父が罪を赦す権限を与えられたのではありません。彼達は天国に入る鍵をペテロが与えられ歴代の法王が首位権を受け継いだと解釈したのはペテロ個人の上に教会を建てると誤解したことによります。主は生ける神の子キリストという信仰告白が岩(ペトラ)とペテロ(ペトロス)の間違いです。法王は天国に出入りの決定権の鍵を持ち、その首位権で罪を赦す権限があるとついに免罪符まで売り出すまでになり、ルターの宗教改革に至りました。私達の信仰に入るときまた常に懺悔は必要です。牧師としてそれに立ち会う事が多々ありますが私は執り成しのお祈りはいたしますが許す事は出来ません。その方が神から直接許しを得て感謝を信仰生活に生かす事です。人間が如何にすぐれ清い者でも、咎も罪(神との断絶)を許す事は不可能です。キリストの十字架のみ可能です。
 キリスト者とはイエス様こそ私のキリストですと信仰告白が聖霊に啓示され信じた人を言います。この信仰を持った人々が呼び集められた集いがキリストのエクレシア(きょうかい)なのです。何かが教えられひも解かれるところではありません。信仰告白の上に教会が立てられそこで礼拝がなされるのです。その礼拝に集まるところが聖なる礼拝堂です。ドイツ語のキルへ(教会)とゲマインデ(共同体)の関係でしょうか。



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【私とキリストの関係】 ヨハネ黙示録3章14節〜22節

 私のものの見方、言葉を変えると哲学的立場は、関係論から見た実存主義です。その手法は弁証法です。
黙示録の最初に述べられた7つの教会に宛てられたヨハネの手紙は、彼が何回も巡回伝道・牧会をした教会で、それぞれの教会の内情を深く理解していたようです。
 教会における説教(メッセージ)は生けるキリストをご紹介する事です。それゆえに人の言葉ではなく神から託されたそれを語るのです。ヨハネは手紙の冒頭で主イエス様を喜びのうちにそれぞれの教会に紹介しています。
おそらく彼はそれらの教会での説教においても、先ず復活の主と自分との関係を証ししながら主をご紹介した事と推測できます。3章14節のラオデキヤ教会への手紙に「アァメンたる者(神)」と主を呼んでいる。イザヤが「この地で祝福される人は、真実の神(アァメンたる神)をさして誓う」65章16節。アァメンという名の神を指しています。アァメンは、人が語る言葉を真実な言葉として受け止め、またそのように語る事です。真実の神とは真実の言葉を語られるお方、そしてご自身でご自身の言葉の真実を、証しなさるお方、その方こそイエス・キリストでアァメンなのです。
 続けて17節「神に造られたものの根源である方」が忠実な、まことの証人、神様の造られた万物、被造物全ての存在の源であるお方なのです。
 エペソ・スミルナ・ペルガモ・テアテラ・サルデス・ヒラデルヒヤの諸教会の冒頭に復活の主を証し紹介した後、褒める言葉が続きますが、ラオデキヤ教会は主が紹介されると、他の教会と違って15・16節「・・・・・・・・生ぬるいので、あなたを口から吐き出そう」と厳しい言葉が述べられます。それは17節「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」この言葉はあたかも現在のキリスト者、教会に宛てられた警告でもあります。私の主は19節「全て私の愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」愛してくださる主が悔い改めを迫られるのです。
 その主が私のそしてあなたの心の扉を外から、たたいておられます20節。私達は直ちに扉を開けなければなりません。主と出会を経験すれば自分の真実の姿が分かります。今までは自分の力で富み、豊かになっていたと、錯覚していた醜い自己を見、認めざるを得ません。だから熱心になって悔い改める事が出来るのです。
 本日礼拝後教会総会がもたれます。まことの教会をたてるべく、深佐牧師が設立された元住吉教会に任命されて50年目の節目の総会です。ラオデキヤ教会のように主キリストから叱責されるのみではなく。お褒めしていただける元住吉教会を、祈りつつ、ハレルヤを歌いつつ、手を携えてこの地に確立いたしましょう。自分の真実の姿を知らず、豊かさ(おろかな自分の目)ゆえに生ぬるい生活を悔い改め、心して主に喜んでいただける信仰による生活を致しましょう。



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【三位一体の神】 創世記1章1節〜5節

 三位一体の用語は、聖書には一回も使われていません。神学用語として用いられているのみです。それでも聖書は創世記の最初にその働きを述べています。特に主イエス・キリストによって啓示されています。聖書に証しされている神は唯一のお方であり、父なる神・子なる神・聖霊なる神という、三位格(ペルソナ)である事を示しています。三位一体はキリスト教の基本的な信仰告白を言い表す言葉です。
 旧約には、信仰の父アブラハムを訪れた三人の人の話創世記18章。知恵文学ヨブ・箴言・伝道の書、詩篇の一部に神の知恵と神の霊が、常に共に呼ばれ、預言書にも見られます。特に新約の時代に入ると聖霊の活動が著しくなり、父と子と聖霊との三位一体が多く述べられます。ギリシャ語では三位を結ぶ「と」はエイスが使われ、一体感を強めて使われています。新約には三位一体論が展開されていますが、旧約の冒頭に取り上げられている事は注目すべき事です。
 歴史において神の業を語ろうとする聖書は、先ず歴史そのものが神の業であると述べます。聖書は創造の出来事を歴史の最初と位置づけています。その創造は人間の証言がえられるものではなく、また筆者が単なる好奇心によっているのではなく、神ご自身の計画によっている事を示しています。現在でも神のご意志によりどのようにもなりうる現実の世界。形なきものが形あるものとなり、宇宙の秩序として神によって与えられたものです。2節神の霊が水の面を覆っているところの父なる神のご計画が始まったのです。即ち歴史の始まりです。3〜8父なる神が光あれと言葉を発せられた時、光が創造された。ここに神と子なる神の共同の創造が述べられています。それ以前に聖霊が水のおもてを覆っている。そして6日目に、26節神は「われわれにかたどって人を創られ」満足されはなはだ良かったと述べられました。
 三位一体の神がご自分の創造に満足されました。旧約の時代は、父なる神が歴史の表面にお立ちになりました。その時代は神が直接、あるいは預言者を通して人々にお語りになり、時には直接干渉なさいました。そして人類を愛するが故に、一人子を人の子としてこの世にくださりました。ヨハネ3章16節「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛し下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」そして十字架におかかりになる前夜、弟子達にご遺言(ヨハネ14章〜16章)で約束なさったように、聖霊を送ってくださり、真理を教えてくださり導きをなさったのです。
 人間には知りえない神の真実を聖霊が私達に理解させてくださいます。キリストの十字架が私の為であったことを信じしめ、霊の実(ガラテヤ5章22〜25)を与えてくださいます。三位一体の神の働き、その神ににせて創造されたあの良しとされた姿に再創造されて下さいます。これがきよめの業です。



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【自由を得るためにあなたは召された】 ガラテヤ5章13〜25

 私の信仰の原点はローマ8章28節です。戦争中の陣地構築・守備のどん底の中で全てが善に変えられるなんて考えられない情況でした。次に示されたのがガラテヤ2章20節と5章24節です。イエス様との出会いを経験したのはローマ書です。ガラテヤ書と共に救いと、聖めの恵みにあずかりました。その恵みを頂いて味わったのが、御霊によれる自由即ちキリスト者の自由でした。その後ルターの「キリスト者の自由」を読んでその意味を確実にしました。欲望からの自由のみと理解していましたので、目からうろこが落ちるとは、パウロと同じような経験でした。
 私は60年余年前の戦時中、軍国主義・天皇制の厳しい統制中で、自由を求めました。自由主義は敵性国家の思想であり口にするだけで利敵行為であると禁じられていた時代でした。私は聖書を通して自由を知っていたのです。心のそこから自由を求めていましたが、思想警察(特別高等警察)や憲兵の監視が厳しく表現は出来ませんでした。それだけに敗戦後、統制から自由にされて改めてパウロの語る律法からの自由の意味が身にしみて理解でき、そのための主イエス様の十字架の恵みも分かりました。二度と律法主義の奴隷になるなとの勧告もうけいれました。またルターの、信仰においてキリストに、愛において隣人に、生きる自由を求むべきとも教えられました。
 パウロは5章、キリストから与えられた自由を堅持し、再び律法の奴隷に逆戻りしないようにと勧告します。1節キリストは私達が自由に生きるため十字架によって罪と奴隷から開放してくださった。だから・・・二度と奴隷のくびきに繋がれてはならんのです。しかしキリスト者も、うっかりすると律法のわなにかかり奴隷の女の子供のように自由を失う、だから堅くたって、それも自分の意思と力からではなく、自由を与えてくださったキリストを信じる信仰によって立つのです。2節割礼(律法)かキリストか律法による義か、信仰による義か、この二者択一を示して、信仰によって義と認められ、キリストにある自由に歩むようにと迫ります。反対者達は律法とキリスト信仰を抱き合わし主張するのです。ユダヤ人達が割礼を主張する事はキリストの十字架の贖いが不十分だと言うことと同じです。
 ルターは宗教改革時に義とされるのは信仰によると主張しました。法王側が行いによる義を強調している事に十字架の贖いを完全と認めていない、それ故に彼は命をかけてこれと対決したのです。キリストの奴隷に自ら進んでなる自由を持ち、また与えられた自由で隣人を愛するのです。私はこの自由を与えられているから、50年前に牧師になりました。その自由な選択は間違いではおりませんでした。自ら主の奴隷になったことは守ろうにも守りえなかった主のご命令を、自分の思うように自由に行動していても、それから外れていない自分を見出し、これが主にある自由だと驚いています。 
 私はこの世の欲望などから自由になろうと足掻いていた時にはできなかった事が、キリストの僕となったことで実現できた事を心から感謝しています。愛する兄弟姉妹方もぜひ、このキリストにある自由を味わってください。全ての束縛から解放されます。



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【イエス・キリストの系図】 マタイ1章1〜19

 マタイ福音書はユダヤ人にあてて書かれたものです。彼達が伝記を書く時に系図を先ず書く事は自然なことです。また旧約聖書の預言が成就された事も多く引照されています。この系図から数名の人が落ちていますが、旧約をよく知っていた人々ですので疑いは持ちませんでした。それは旧約の各所に系図が出ているので彼らには自明の事でした。17節を見ますとこの系図は3つに分けられていますが全て14代になっています。7は彼達にとって完全数です。その倍も完全数です。完全数にあわせて述べられている事は、彼達は当然の事としているのでしょう。
アブラハムの子孫でありダビデ王の子孫と言う書き出しにも彼達はうなづきます。父なる神様がアブラハムに約束された彼の子孫を人類の祝福の基とする。その実現がキリスト(救い主)といわれるイエスがお生まれなった16節と系図は語ります。
ユダヤ人は系図を誇りとして大切にいたしました。ところが当時のユダヤ王ヘロデは、エドム人の血統で、その劣等感からか、ユダヤ全国の家系図を焼き捨てさせた。しかし旧約聖書から何時でも家系図は書き改められるものです。このイエス様の系図は客観的な私達の戸籍謄本のようなもので、歴史上の実在した人々なのです。
この無味乾燥な名前の羅列に、英語を学ぶつもりで取組んだ時、その発音・綴りに日本語の聖書になれた私は手を焼きました。そしてなぜ新約聖書の最初に退屈な系図があるんだと不審な感じを持ちました。しかし後に内容の詳細を知った時には、その深い意味ゆえに新約の最初に持ってくるに相応しいものだと感心させられました。
ユダヤでは男性のみが系図に書かれることが通常ですが、イエス様の系図には婦人の名が4人記されています。しかも彼女達はユダヤ人には、恥ずべき立場の人達です。タマルは義父ユダとの関係でパレスとザラを産んだ3節(創世記38章)ラハブ5節遊女でしたヨシュア2章。ルツは絶対にユダヤ教に入れないモアブ女性です申命記23章ルツ記。ウリヤの妻バテシバは、夫が前線に出て戦っている留守中にダビデ王と姦通して子供まで儲けましたサムエル下11章。この系図は、血統的に恥と穢れと罪に満ちています。しかし神様だけは誠実で恵み深いお方です。アブラハムと約束なさった事をこの中で実行なさいました。イエス様が救い主(キリスト)となられたのは、血統・毛並みが良く・先祖が立派だったからではありません。神様が歴史を支配されておられるからこそ、罪人、悪人をも御手の中に握り締められ、救い主を人類に与えられたのです。
神様はアブラハムそしてダビデの子孫から救い主を起こすと、預言者を通して述べられました。しかも穢れに穢れきったその果てに、約束を成就なさいました。神の御心とそのご支配を、この系図が証明しています。
私は父のアルコール依存症の遺伝で、心身ともに虚弱な人間でしたが、若いときに聖書との出会い、キリストの救いによって自分の力ではどうしようもない生活から脱却できました。この系図が語る素晴しいよき訪れを、語りつくせない神の恵みを、感謝のうちに頂かねばと、自分自身に言い聞かせています。



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【暗黒に輝く光を見た】 イザヤ9章1〜12

 イザヤはイエス様の誕生からそのご一生、再臨後の様子まで預言しています。特に7章14節(マタイ1章23インマヌエルと呼ばれる)9章6・7は平和の君、万軍の主、ダビデの位に座する王の王である事等が預言として述べられています。
 8章22「また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみの闇とがあり、彼らは暗黒に追いやられる」1節は8章22を受けてしかしから始まり。そして暗黒を歩む者は大いなる光を見ると彼達に希望を告げます。暗ければ暗いほど光の輝きは一層ますものです。天体望遠鏡で天体を見る場合地上の明かりが非常に邪魔になり星の光が妨げられます。天文台は地上の暗さを求めて、ハワイの山頂に日本のものが作られるほどです。国内では長野県の野辺山の暗さゆえに大きなそれがあります。
 確かに暗闇が深いほど光が輝きます。自分の心の深みにある暗黒、聖書は認罪の深さと説明します。神の愛、神の御心を自ら避けて神との関係が断絶されている事を自覚そこからの暗黒の人生、暗黒の中を歩んでいる事を知った人は、上から輝く大きな光を見ることが出来て自分の上に光が照っている事で喜びに満たされ歓喜の人生へと変えられます。
 新約の語る福音は暗黒に輝く光、イエス・キリストを指し示しますが、イザヤはそれを9章6・7に描いています。一人のみどり子(インマヌエル神われらと共にいますマタイ1章23)が我々の為に生まれた。預言で過去形にて表すときは強意です。彼はわれらの王として臨まれ、同時に彼は王の相談役(カウンセラー)であり、全知全能の三位一体の神、平和の君主であります。ダビデの位に座して、公平と正義をもってなされ、神の国のまつりごとは、限りなき平和(シャローム)を保つのです。
 イエス様の誕生日を闇の夜の一番長い日冬至に決めた事は、実に素晴しい事です。闇に輝く光の誕生、そしてその日を境として、昼の明るさが増してゆくのです。世界に真の光が来たった人類の喜びの日です。
 私達はこの光に照らされて自分の罪をはっきりと見なければなりません。そうすればイザヤの預言どおりに大いなる光を見ることが出来ます。部分日食ではありません。暗黒にあるあなたの上に光り輝く光が照り満ちるのです。そうしてその光を反射して、暗い社会を照らすのです。太陽を反射する月のように。



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【ヘロデ王と王の王キリスト】 マタイ2章1〜1

 若いとき、キング・オブ・キングスの映画を見ました。日本語には王の王と訳されていました。聖書を読んだお方なら王の王、主の主と言えばキリストを指していると知っていますが、多くの人は見ているうちにそれに気がついたようでした。
マタイ福音書の記者は単に出来事を羅列しているのではなく、その前後に、意図的にあるものを選んでいます。特に旧約聖書に親しみを持っている人々に、イエス様のご生涯がキリストである事を述べています。それを旧約聖書の預言の成就であると確信を持って語っています。イエス様の誕生に関わる事で、ヘロデ王の時代であった事、特別な大きな星が見えた事、ベツレヘムとその付近の2才以下の男の子がヘロデによって皆殺しにされた事、その難を逃れるため天使の告げる言葉でエジプトに行きヘロデが死ぬまでそこに留まっていた事等が預言とともに述べられています。ヘロデはBC4年に没しています。近代の天文学者の研究によるとBC7年に三度、土星と金星の合が起きています。ベツレヘムの虐殺は預言書エレミヤに見え。博士達の来訪、ささげものを持っての礼拝も東方の王達の礼拝としてイザヤが預言しています。主の誕生されたベツレヘムは「パンの家」を意味します。主はご自分を神のパン・命のパンと呼ばれた。またダビデ王の生まれた所でダビデの町とも呼ばれていた。主はダビデの子と人々から言われこれは人の子とともにキリストをさす言葉です。
 博士はマゴスの訳で、おそらくユダヤ教の影響を受けた占星学者でなかったかと思われます。彼達はユダヤの王は首都エルサレムであろうと、ヘロデにその誕生を聞いている。それを聞いた王は、自分の地位を脅かすのではないかと恐れ不安を感じた。エルサレムの人々は、王の疑い深い性格で親族でも疑って殺したほどの人間ですから恐ろしい王が何をしですかと不安を感じました。確かに王の頭に悪計が閃いた。彼は祭司長や学者を呼び集めて問いただしたところ、彼達は即座にミカの預言にベツレヘムとあると答えた。それで博士達に帰りに報告するよう私も拝みに行くからとひそかに命じた。博士達は幼子を拝したが、夢のお告げによって他の道をとおって自分の国へと帰って行った。 
 学者達はメシヤの誕生の場所も、星のお告げ知っていました。ヘロデも知りましたがそれを信じる事はしませんでした。日本の知識人は聖書を知っていますが、信じないのです。これは日本人の殆どが無宗教ですので当然の事です。疑い深いヘロデはベツレヘム周囲の2才以下の男の子を皆殺しするのには、自分の身の保全のため躊躇しませんでした。この残虐な王と平和の君を比較するなんてとんでもない事ですが、自分を守る為には、罪のない子達を虐殺し、親兄弟の嘆きなど思い遣る気持ちなどはありません。主は泣く者と共に泣き、苦しみを負われ、病む者の痛みなどを十字架の上で解決なさいました。神の子として全宇宙の支配者として私達おも召してくださったお方です。その為には主イエス様こそ私のキリスト救い主と告白しなければなりません。その時支配者キリストの兄弟姉妹としてこの世の表現では一人一人が王であり女王なのです。キリストは私達の王であり主の主なのです。
 それ故に私達はこの世のヘロデ王に従うよりは王の王、主の主に従うのです。私は受洗の折り如何なる時にも主に従います。この命をささげますと主に申し上げたことには後悔もありません。若いときに主に出会えた事を感謝しています。私は倒れるまで主に従えることを光栄としています。またそのように導かれる事を信じ感謝します。



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【私の目が今あなたの救いを見た】 ルカ2章21〜35

 クリスマスが終わると、クリスマスセール等が一夜にして歳末売り出し新年を迎える準備へと衣替えしてしまいます。教会暦によると降誕節は2月6日までで次の週から受難節に入ります。神の御一人子イエス様が人の子として降誕なさったのは、十字架の死をもって人類をお救いになる為でした。降誕が受難に至る事をキリスト者は忘れてはなりません。クリスマスは救いに至るまで続くのです。
 幼子イエス様は神殿で二人の信仰深い老人のシメオンとアンナに歓迎されました。モーセの律法による聖別の犠牲を捧げる為に神殿に昇られました。お迎えしたのは指導者階級のサドカイ派やパリサイ派のいずれでもなく、正しい信仰深い人でイスラエルが慰められる(救い主)を待ち望んでいて聖霊が宿っていた老人や、夜も昼も断食と祈りとをもって神に仕えていた老女でした。
 シメオンは主のつかわす救い主に会うまでは死ぬ事はないと聖霊に示されていた。この人が御霊に感じて宮に入った。すると律法に定めてあることを行う為、両親がその子イエスを伴って入ってきた。彼は待ち望んでいた方と出会えたので、幼子を腕に抱き預言と喜び讃美をした。彼は3つの聖霊の働きをその讃美の中で述べています。29節み言葉どおりに、救い主にお会いしたので安らかにこの世を去らせてください。30節み救いそのものを今この目で見る事が出来た。34・35祝福と預言が述べられます。救い主が誕生なさった事を今、自分の目でしかと見た。やがてこの子の救いにあずかり加わる人々の彼は先取りです。この幼子キリストについて霊感を受け、預言をなし、説明をし、讃美の形をとり、祝福しながら未来の暗い警告をしています。
 これらの事は信仰深く、慰められる事を待ち望み、神に奉仕をしている人々だけに知らされ見せられたものです。シメオンは「私の目が今あなたの救いを見たのですから、今こそ、あなたのみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせて下さいます」と歌った。祈り待ち望んだ者の喜び感謝の讃美です。
 私は老シメオンの確信をもつての祈り、老女アンナの誠実な神への奉仕に両親でさえ気づかなかった事、幼子イエス様のうちにキリストを見たそれに、祈りの真髄、奉仕のあり方を見ます。自分自身の祈り奉仕と比較して慙愧の念に耐えられません。しかし主は必ず私をもこの人々のようになして下さることを信じています。あなたは如何ですか、老シメオンと共に目を開き、幼子を腕に抱き、キリストを見出し、彼が、私の希望、喜び、慰め、命を受け取っていますか。クリスマスはまだ続いています。この幼子が救い主であると言う信仰が、私達のうちにしっかりと根を広げているのであれば、心に喜びが満ち、罪も死も恐れる事はありません。シメオンのように聖霊が宿るものとされるからです。