日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

メーセージを開かれる時は必ず旧新約聖書を見てください

2002年のメッセージ

【キリスト礼拝(クリスマス)】イザヤ53章1節〜12節Xマス礼拝

町中、また新聞を開いてもメリークリスマスの文字が溢れ、ツリーや電飾美しく光り輝き,デコレションケーキの箱を抱えた人が家路を急ぎます。それを包みこむかのようにクリスマスソングが降り注ぎます。昔はそれに反発を覚えましたが、マルコ9章40で主イエス様が「私たちに反対しない者は、私たちの味方である」のみ言葉の意味が理解できた時、私はイエス様の愛、日本に対する愛を知り改めて深く感謝しました。それでもイエスの誕生日おめでとうには抵抗を感じます。それはキリストの十字架の血潮によって救われた者の感謝の言葉だからです。この日がイエス様の誕生日と言うのは正しくありません。

聖書のどこにも誕生なされた日は記されてはいません。歴史的には4月・8月に祝われた記録もあります。ギリシャ正教(東方教会)では1月6日、ローマ教会は12月25日でしたが、西方・東方両教会の協議で25日がクリスマス、1月6日は3人の博士の主礼拝日(公現日)と調整した。25日は4世紀に冬至祭にキリスト者がキリストこそ暗黒の中に輝く私たちの太陽であると、ローマの冬至の祭りを乗っ取ってクリスマスとした。XマスのXは数学では未知のもの、わからないものを示す記号ですが、ギリシャ語(聖書の言語)でイエスの頭文字がX(ハリストウス)なのです。英語のChにあたります。訳のわからない祭りではなく、主が私たちの救い主としてベツレヘム村に幼子イエス様が来てくださったのです。このキリストを私の心の内にお迎えする日です。私たちがイエス様をキリスト(救い主)と信じ、私自身を神の宮として、決心して主をお迎えした日が私のクリスマスです。仏語でノエルこれはクリスマスおめでとうの意ですが、クリスマス キャロルも表します。賛美・音楽がなければクリスマスではないのです。

 イザヤ書を朗読して頂いたのは、イエス様のご誕生は、十字架の贖罪を予定したもので、人類にとっては喜ばしい福音です。この幼子が53章のご経験をなさって十字架で救いの業をなさる為であった事を心に深く銘記しなければならないのです。

 その犠牲の故に暗黒の世に光り輝く主を讃美して、クリスマスをキャンドル・ライト・サービスとして光の中で讃美するのですクリスマスの讃美歌はクリスマス・キャロルといいます。ギリシャ語輪になって踊る事を言います。教会内に作った馬ぶね(クリブ)の周りを踊りながら歌った事から始まりました。キャロルの特徴は、難しい教義ではなくキリストの不可思議な誕生に素朴に感動し、それを高らかに宗教的な喜びをこめて歌うものです。

 クリスマス キリストのマス(祭り・礼拝)には神を讃美する事は欠かせません。クリスマスを告げる天使は神を讃美して、それから救い主の誕生を羊飼いに告げられました。私たちも2002回目のこの日私を宮として誕生された主を讃美の内に礼拝しましょう。私は63年前の23日クリスマスにバプテスマを拝領、わがうちに誕生くださった主を礼拝し、讃美できるこの平和を感謝します。この平和が持続する事を祈ります。

【キリストの時あなたの時】ヨハネ7章1節〜9節

新約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語では時をカイロスとクロノス二つ表現があります。前者は正しい時・適切な時・好機を意味します。ここでは主イエス様が十字架につけられる為に定められた時を指します。その定められた時来り、世の行いの悪い事を明るみに出すお方に対する世の憎しみが最高潮に達するその時をヨハネは語るのです。後者は過ぎ行く時をあらわします。伝道の書3章923ページ。人間の生活は時の支配下に営まれています。スウインクスの謎そのものです。過ぎ去った時を残念に思い後悔しても取り返しがききません。時の流れに人は栄えたり枯れたり、時の経過で成長し衰えます。人の信仰生活もそのような時の下にあります。それが聖書の語る『恵みの時、救いの日』です。

 神様は自らのお働きの為に、人々のそれぞれの時を定めておられます。特に神を愛する者の為に最善を準備されておられます。その時が来ると、今まで祈りもとめても神様のお答えがないかと思っていたが、神に愛されている自分を見出し、信仰に目覚め主に全く従う者とされます。

 自然の世界に春夏秋冬や天体の運行など秩序があるように、信仰の世界にも摂理・恩寵の秩序があります。私たち最善をなして下さると確信を持って神の定めた時を見つめ、忍耐を持って祈りつつ待ち望まねばなりません。
ヨハネはキリストと弟たちの会話を述べます。弟達はイエス様に「あなたのしておられる業を弟子達に見せる為に、ここを去りユダヤに行ってはいかがですか、自分を公にはっきりと世に表しなさい」と勧めたが、主は「私の時はまだ来ていない。あなた方は祭りを楽しむ時だ」と答えられている。主イエス様は父なる神が自分の果たすべき働きの為に時を定めておられる事を確信して、その時が近づくのを見つめながら、祈りのうちに待っておられたのです。だからその時がやってくるまで、まだ私の時は来ていないと何回も言明なされたのです。二4。七6。八20。 七章8節「私はこの祭りには行かない。私の時はまだ満ちていないから」と言われている。そしてその時来り14節宮に登られ教え始められた。

13章1節イエス様は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来た事を知りと始めて述べられている。ゲッセマネにて3回のお祈りを終えられ、マルコ14章41節「時が来た。見よ。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。たて、さあ、行こう」神の定められた時、十字架に向かわれるのです。

 主の弟たちがいつか、いつでもと言った無正確な時間に生きているのに対し、主は唯一つの時、かけがいのない時を見つめながら生きておられた。ガラテヤ書4章4・5節「時の満ちるに及んで、神の御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがないだす為、わたしたちに子たる身分を授ける為であった」キリストの時は十字架の贖罪を果たす為でした。

 「あなた方の時はいつもそなわっている」と言われるような時に安住するのではなく、キリストの時を自身の時とする為に、絶えず目を覚まし備えして待たねばなりません。祈りながら、目前の仕事に真っ向から取り組む事から始まるのです。それを怠って明日の事を不安に思う時に、ベツレヘムの宿屋の主人や、ヘロデ王学者たちのように、主との出会いの時を逃してしまいます。

【小さき村ベツレヘムの夜】ミカ書5章1節〜4節

イスラエルでは宗教法が成立してキリスト教に圧力がかかっています。その時先日TVでイスラエル軍が戦車隊を先頭にベツレヘムに侵攻したとの報道に、二千年前のあの出来事との落差に衝撃を受けました。それでもさすがにテロ分子が逃げ込んだ生誕教会は砲撃せず包囲したままとの事、改めて聖書の歴史が連綿と続いていると福音書に述べられているベツレヘムを懐かしく思い出しました。それは旧約の預言者ミカが述べるメシヤがベツレヘムに誕生するとの予言を巡っての物語です。ミカ5章2節。

 マタイ2章東方の博士達が大きな珍しい星を見つけ偉大なる王の誕生の知らせであると、その王を探し求めてユダヤにたどり着き、ヘロデ王に2節『ユダヤ人の王として生まれた方は、どこにいますか、:::』 との問いに律法学者は直ちにミカの予言のベツレヘムと熟知している内容を述べている。この時のヘロデ王、学者達、博士たちの三者の反応態度は現在の我々にも似通ったものです。王は自分の地位に対する不安、民は暴君が何を仕出かすかとのおののき、祭司長や律法学者は星の事も誕生の場所も聖書を読んで知ってはいたが、信じてはいなかった。博士たちはおおきな犠牲を払い旅の危険を冒し時間をかけてキリスト礼拝(クリスマス)に来たのです。私はこの博士達のような真理追及純粋な求道心と信仰を維持したい。頭で理解していても信じず行動に移せない律法学者にはなりたくない。

ヘンデルがメサイヤの ハレルヤコーラスで『王の王、主の主』にハレルヤと賛美していますが、誰にもしられず小さな寒村ベツレヘムの馬小屋に誕生なさいました。彼はヘロデの宮殿でも大帝国ローマの大宮殿で多くの人々に待ち望まれ祝福の中での誕生ではなく、さびしい田舎町でひっそりとお生まれになりました。傲慢と虚偽に満ちた政治家の中にも、理屈と学閥の渦巻く学者の中でもなく、名もなく貧しい民の住むベツレヘムが、神の御一人子キリストの誕生地として選ばれた事は驚くべき事です。主は誰にも知られず、多くの人が昼間の疲れで眠り惚けている時に神の御独り子が私たちに与えられたのです。人知れずベツレヘムの飼葉桶に生まれ給いました。

ここに神の真理があり、人間の現実があります。どのように美しく飾り立て、楽しい集いを持ち、山海の珍味のクリスマス・デナーで満腹してもクリスマス(キリスト礼拝)ではありません。私のうちにキリストが生まれて下されねば、飼葉桶の御子は私の主キリストではあり得ません。確かにベツレヘムの誕生は一部の人たちにはマス(祭り)であったとしても、断じてクリスマス(キリスト礼拝)ではありえません。私たちキリスト者は聖霊の満たしを受け聖めていただき、キリストをお迎えできるキリストの宮とならなければなりません。そしてまことのクリスマスを守りましょう。第一コリント6章19節自分の体は、神から受けて自分のうちに宿っている聖霊の宮です。

【見よあなたの王が来られる】マタイ二一章一節〜十一節

激しい闇がイスラエルを覆っていた。それは神への畏れを投げ捨てた社会の闇であり、正義と慈しみを侮辱した社会の闇です。経済の取引にも不正な枡が用いられ、命を守るどころか逆に、命を奪ってでも自分の利益を計り、弱い立場の人々や、警戒心の薄い人々を騙し脅かし踏みにじる。人は人を信じる事が出来ない。役人も裁判官も権力者も報酬目的に振舞う。二千年前のイスラエルはそのような暗黒の時代でした。

戦いに敗れた後首都エルサレムを始として、主な都市は諸外国の軍隊に占領されていました。汚職が蔓延し民衆は重税に喘いでいました。政治と道徳は腐敗を極めていた時代でした。だから民衆は預言者が述べたメシヤの来臨を待ち望んでいました。そのメシヤとは、権威に満ち、占領軍を駆逐して、いにしえのダビデ王国の繁栄を再建する強い実力者を期待待ち望んだのです。現在でもこの乱れた日本、世界でもそのようなすばらしい救世主が現れ、平和な世界、豊かな日本を立て直してほしいと多くの人は望んでいますが、得てして期待し支持する人は独裁者として強力に国民の権利を踏みにじるものとなる事は、私達の目の前で展開されたばかりです。

 けれども、預言者ゼカリヤは(九9・10、P1317)来るべきメシヤを、王としての権威は持ちながらも、柔和で謙遜な方、平和の使命を負うものとして描きます。「見よ、あなたの王がおいでになる」確かに王の入城です。が、屈強な勇士を率いきらびやかな軍馬で、勇壮な軍楽隊に誘導されての行進ではなく、みすぼらしいロバの子に乗ってこれまた見栄えのしない十二名の弟子を従え、とぼとぼと入城です。かのドンキホーテそのものです。しかし、いかに滑稽に見えても我等のキリストはロバの子に乗ってこられます。このロバの子こそ「主がお入用なのです」
このロバの子は、ベテハゲから二人の弟子を遣わして連れて来るように命じられたものです。多分そこには主の支持者がいて、ロバの提供を申しい出ていたのだろうと言う人もいますが、主はただ理由を尋ねられたら「主がお入用なのです」とだけ答えなさいと命じられました。ずいぶん独断的な言葉です。

 しかしこのロバは王の王なる主の乗馬です。『主がお入用なのです』王の反抗を許さぬ徴用です。国民に絶対命令です。日本でも五十年前には、天皇の名を持って、赤紙の召集令状を受けて侵略戦争に駆り立てられました。拒否は死を意味しました。しかし今主は平和の為にもちいられます。だがともすると私達は遁辞をもうけ、弁解し素直に主の招きに応答しようとしないのです。 

 あのベツレヘムの夜、宿屋の主人も『主がお入用なのです』とのお召しの言葉に客間はありませんと、断りました。私達は『主がお入用なのです』との主のお召しの言葉をどのように受け取っているでしょうか。来たりたもう主の入城に上着を道に敷いてお迎えする準備ができているでしょうか。それとも主を馬小屋にしか通さないつもりでしょうか。

【救いのご計画】出エジプト2章1節〜10節

聖書は歴史書でも科学書でもありません。信仰の書です。宇宙・万物が神の手によって創造された事を、真理として信仰する人々によって書かれたのです。

 ヨセフがエジプトに移った正確な年代は聖書ではわかりません。またイスラエルの子孫がどのくらいエジプトに滞在したか正確な年数もわかりません。創世記15章には「あなたの子孫は他の国に旅人となって、その人々に仕え、その人々は彼らを4百年の間、悩ますでしょう」と。出12章にはその期間は4百30年とある。今日の旧約学では出エジプトして40年荒野をさすろい、約束の乳と蜜の流れる地カナンに入ったのはBC1250年頃とされる。ヨセフを知らない王が起こった。おそらくラメセス王でありましょう。

イスラエルの民が多くなり戦いの時内通する事を恐れ、重い労役を課したが、効果がないのでヘブルの助産婦に生まれた時男の子であれば殺せと命令したが、神を畏れる彼女達は実行しなかった。それで親に対して生まれた男の子はナイル川に投げ込む事を命じた。時にレビの家に男の子が生まれたが、母は殺すに忍びづパピリス(展ばして筆記する紙)を編んだかごに入れて岸のパピルスに繋ぎ隠し、姉のミリアムが見張っていた。行事の水浴びに来たパロの娘が見つけ自分の息子として育てる事とした。ミリアムの機転で乳母として母が報酬を受けて育てる事になった。

母と家族は申命記6章5節以下のようにヤァウエーの神を語り聞かせた事でしょう、その事が生涯彼のより所となった。乳離れして母の手から離れパロの娘のところに連れられてきた。彼女は「水の中から私が引き出したからモーセと名づけよう」これは神の側からすれば80年後エジプトから民を引き出す事を意味している。彼はそれから王子として40年当時の最高の教育と訓練を受けた。しかし40の時同族の民を助けようとして間違ってエジプト人を殺してしまう。法律によって死刑になる事を恐れた彼はのがれてミデアン地に至った、エテロの羊飼いとなりその娘を娶って孤独な荒野での生活を40年送った。モーセ80年の数奇な運命に翻弄された歩みは、神の使命の為のご計画であった事には驚きます。ちなみにヨセフが兄たちに奴隷として売り渡されて、エジプトに連れて来たのはミデアン人でした。

 神は乳児を救い生活費まで配慮され母の下で2年余り育み、その間に民族の自覚を植え付け、信仰も持たせられ、それから40年王子としての教育訓練を受けさせられ。出エジプトの準備をさせられました。 
モーセの出番です。3章9・10主なる神は民の苦難をご覧になり80年この事を見通してモーセを訓練せしめた彼をエジプトに遣わされた。神の選びまた訓練には間違いがなかった。彼は王子としての自信と傲慢さは失せて自分の弱さを自覚していた。神はご自分の働きのために訓練し弱さを自覚するものを用いなさる。神を信頼し祈るものを、即ち自分により頼む傲慢な者をさけ、ご自分の力を注ぎうるものを用いられる。痛める葦を強くしてそれを鉄の柱のようになさる。

 いたるところに苦難に満ちたエジプトがある。私たちの周りには、無知が生み出す悲惨さに目を覆いたくなる現実がある。その中にモーセを訓練され用いられた神が私達を遣わされ用いてくださる。遣わされる時には必要な装備をも添えて与えてくださいます。新約聖書357ページ。ヘブル12章10・11.267ページコリント第一10章13節「(略)試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである」ぜひ聖書を開いて精読ください。

【待ち望む者】ルカ12章35節〜40節

着物を着るとき帯をしなければ、前がはだけて動くのに不自由です。帯をすれば体にあって行動自由ですし美しく立ち居振る舞いが出来ます。きちんと帯を締めないとだらしないだけではなく、きちんとしないその性格は無定見で自身に危険を招きます。曖昧な思想を、しっかりした救いの確信に到着する真理の帯を腰にきちんと締めなければならない。夜の急場の為には明かりと油の用意も必要です。10人の乙女のたとえ話にも明かりをともして花婿を待つ賢い娘は油の準備の故に共に祝宴に臨んだ。火が消えた娘達は取り残された。その話は終末に対する警告として帯を締める事と、明かりを灯す事はともに主イエス様の再臨の備えをあらわす聖書の慣用語となった。

 ルカは、ペテロの41節の質問を境として再臨の備えを二分している。35〜40では一般キリスト者の、41〜48は管理役のキリスト者の用意を述べている。前者は目を覚ましている事に重点が置かれ、後者は忠実にあれと述べられ、続けて準備のない者に対する処罰が見られる。

 盛大な宴会はユダヤでは通常一週間も続きますので、主人がいつ帰着して戸をたたくか、わからない。目を覚ましているとは、寝ない、眠らない事ではない。いわゆる仮眠する事です。いつ戸がたたかれて主人が帰ってきても、直ちにあかりを灯し温かいお湯で足を洗いお茶でも給仕できるように備えている事です。主人は喜んでお土産を開きご馳走して留守の間の労をねぎらいなさるでしょう。再臨に備え寝入らぬようにいつでも目を覚ませるよう見張り、注目し努力する事がキリスト者の再臨に対する教えの熟語となりました。

 キリストの再臨のときを不穏当な泥棒侵入に譬えられたのは、盗賊は予告してやっては来ない、僕が主人を待つ際、油断・居眠りなどに対する不意打ちの警告です。目覚めている者には当てはまりません。主イエス様は約束どおりに帰って来られます。

 私たちキリスト者は再臨の主がいつお帰りになっても、服装を整えてお迎えできる準備をしていなければならない。預言者アモスは「イスラエル世、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」アモス書4章12節。と述べます。私達は恵みの油聖霊の満たしを受け、暗いこの世にあって細々でも油の補給を受けつつ、絶えず燃え続け、主の再臨を告げるラッパで飛び起き、備えられた油を持ってあかりを灯し、主を迎えるのです。あなたは目覚めていますか、準備は出来ていますか。

【第二の救いの恵み】ヨシュア3章七節〜17節

エジプトの奴隷で苦しんでいたイスラエルの民の叫びに、神様は答えられ救い出されそこから脱出したが、百万余の奴隷を失うことを残念に思ったパロは軍隊を率いて後を追った。民達は前には紅海、後ろはパロの軍勢と進退極ったその時強い東風が吹いて海を二つに分け乾いた地としその神の奇跡の業は民族全員を救い、パロの軍勢は全滅した。第一の救いはキリストの十字架の血を通って、水のバプテスマ洗礼を受け救われる象徴的な出来事です。第二の救いは極めて宗教的な出来事で、約束の乳と蜜の流れる地に渡った事は、第二の恵み聖霊のバプテスマ聖めの象徴です。

 40年の荒野での訓練を終えていよいよ約束の地の手前に到着した。時は4月約束の地はヨルダン川の彼岸にある。ヘルモン山あたりの雪解け水と、春の雨でヨルダン川は岸一面に溢れている。すでに過ぎ越しの祭り準備の週に入った民は、この渡河が単なる敵前渡河ではなく宗教的行為である事が教えられていた。

3章4あなた方は今までこの道を通った事がないので、神が先立たれると、人間の知恵からの動きでは無理だ。それで契約の箱がレビ人の祭司達によって担がれ民の前9百Mを進む、これは信仰の戦いであるから5節民自ら清め(カダシュ切り離すの意)ヨルダン渡河は宗教的行為であるから、彼達は自分自身をこの世のあらゆるものから切り離して、神の物とする。それにはレビ的規定があるが、何よりもまず全身全霊を持って神を全く信頼する事です。ヨシュアには翌日の神様の奇跡は予告されていた。神に近い人とは、神が奇跡をなさる事を信じる事の出来る人です。

12・13とヨシュアは予告されていた14・15とその命令に従った箱をかくレビ人が、足を水に浸すと同時に軌跡が起こった。神の奇跡は人の協力なしには起こりません。レビ人たちは信じて洪水の川に足を踏み入れたのです。直ちに15・16の奇跡がおき彼達が踏みとどまっている限りその状態は続き、18の命令で川から上がってきたと同時にヨルダン川は元の流れに戻った。

 神は聖なるお方ですので誰でも聖からざる者は神の前に立てません。人間はどのようなよい行いをなし、努力しても聖くはなれない。日本人は古い慣習、仏教の教え、特に儒教の影響などで、努力し学び修行すれば聖人君子になれると、道徳教育などを通して骨の髄まで叩き込まれている。しかしどこかでその無理さを感じているからか新興宗教の跋扈を許している。既成宗教の堕落に対する厳しい目を向けているからでしょうか。一方多くの人はキリスト教の良い点は認めているが、外国の宗教だと毛嫌いし、島原の乱以後の禁教と激しい迫害の故に受け入れがたい状況です。聖書以前の準備が必要です。そのような中で教会の門を入る事は、人間的に大変です。神の側から見ますとそれは、一億余の大勢の中からあなたを選び愛されている事です。

 1ヨハネ1章7私達は奇跡的聖めの業にあずかる事が出来ます。私達は救われそして聖められ、キリストの再臨によって全く救われ聖められるのです。信仰はその事を信じさせ、奇跡を味わいます。出エジプトとヨルダン渡河は救い・聖めが奇跡であることを象徴的に示しています。紅海渡渉による水のバプテスマ、ヨルダン川渡河にて聖霊のバプテスマに預かり、神の前に立つ者とされたいものです。

【天にある故郷】ヘブル11章13節〜16節 永眠者記念礼拝

欧米の人は、あなたの宗教はなんですかと質問をするそうですが、その際大方の日本人は無宗教と応えるので驚くそうです。それはどのような形でも人間は祈るもので祈る対象の宗教を持っていると考えるからです。一歩踏み込みますと仏教とか無神論と答えます。この人たちは押しなべて死んだら仏になって極楽か、天国に行くと答えます。仏国土・浄土は数多い仏の数だけあります。阿弥陀仏の浄土は極楽世界、ビルシャナ仏(奈良の大仏)は蓮華蔵世界。薬師仏は浄瑠璃世界等です。日本人は死んだら皆仏になって極楽浄土に押しかけたらパンクします。

 自称クリスチャンでも入れない天国には無理なことです。いわんや天国に結ぶ恋なんて日本人の想像力のたくましさです。それでも日本人には宗教心はあります。神道の習慣、自然崇拝、祖先崇拝です。江戸時代に儒教が盛んになり徳目を守れば現世において栄える。死後の来世は宗教に任せろと神仏混交となった。明治維新のとき神道中心の国家を作るため神仏分離が行われ、仏教は葬式のほうに流れた。キリスト教では旧約以来この世の生活は旅人であり、自分達の旅の終点は天の故郷であると確信して来ました。

11章8節アブラハムにとって故郷は神の命令によって出てきたハランではなくて、妻サラ、イサク、ヤコブの族長たちには9・10節神の建てた都を天の故郷として望んでいたので、幕屋に住んだのです。人間にとって昔から永遠の課題は、死ぬことと死後のことです。生きているものは必ず死にます。しかも生者は誰も経験していない一回限りの出来事です。多くの人がその解決を求めて修行したり、祈りの生活をして安心立命を求め続けました。

 旧約の族長達は、ヤァウエーの神の約束を信じ祈り求め実践的に旅の生活をなし、神の都天の故郷を望み見ていたのです。新約の民も族長たちと同じく天の故郷をめざしての旅であることを告白する。ピリピ3章17〜21節十字架に敵対してこの世の生活におぼれ滅びにいたる者が多い。しかし神の民としての私達は国籍が天にあることを知り、キリストの再臨を待ち望むのです。

ポウロはそのように歩いている自分たちを模範としてほしいと語る。これは傲慢さから出てはいない。私自身も信仰の先輩方にならい、牧師として天に故郷を求めるこの世が旅の生活であることを告白し実践しています。

 ヘブル12章1節十一章に述べられた信仰によった大先輩たちを含め、私たちの親しく交わりを持った兄弟姉妹たち、私たちより先に天の故郷に錦をかかげて凱旋された懐かしい人々が、雲のように私たちを囲んで、この世のもろもろの生活で苦闘し苦しむ者を応援し、喜びを共に喜んでおられるのです。私たちの信仰の導き手である主イエスさまを仰ぎ見つつ、訓練に耐えて2節〜11節キリストの聖さに預かり天の故郷を目指したいものです。今日ここに先に召された懐かしい信仰の先輩方を覚え記念礼拝を守ることが出来た事を感謝いたします。

【神様のご計画】創世記45章1節〜15節

45章のヨセフの証しは私には大きな助けになりました。苦しい時や、何でこのようなことがと神様に問いかけるような出来事に遭遇した時など、このヨセフを思い出して乗り切ることができたことなど忘れることができません。父ヤコブは両親の偏愛から苦しい半生を送りましたが、ヨセフも父ヤコブの偏愛から傲慢になりおもいやりのかける少年になった。それが兄たちの反感をかって奴隷に売り飛ばされてしまった。エジプト国パロのポテパルの奴隷となった。彼はヤァウエーの神がヨセフと共におられことと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせるのを見て、家を司らせた。彼は夫人の名誉を守り冤罪で投獄された。そこにても主が共におられて彼に慈しみを垂れ、獄屋番の恵みを受けさせられ、囚人はヨセフに委ねられた。その囚人の中に王の給仕役長と料理長がいた。

 一夜二人は意味のある夢を見た。悲しみに沈む二人から夢の内容を聞かせられた。ヨセフは「解くことは神によるのではありませんか」と二人の夢を解き明かした。それは給仕役に戻る。料理長は処刑される。二人共に3日後だと告げる。そして給仕役長に私は冤罪でここにいるので王に話してここから解放してくださいと頼んだが、嬉しさのあまりか王の給仕役に戻った彼はすっかりわすれてしまった。ヨセフはどんなに王の知らせを待ち望んだでしょうか、2年後王が夢を見た。それを解き明かすようにと国中の魔術師(現今の科学者)とすべての知者を集めて話したが誰も解き得なかった。その時給仕役長はパロに告げた。「私は今日、自分の過ちを思い出しました」と2年前の出来事を細かく言上した。王はヨセフを地下の獄屋から出し着物を着替えた彼は、王に「解き明かすのは私ではなく、神がパロに平安を告げられるでしょう」と7年の豊作がある、賢い人を立てそれを蓄えさせなさい。次に7年の飢饉がありますのでその蓄えで国は滅びないでしょうと夢の解答をした。王とすべての家来達の目にかなったので、王の次の位としエジプト全国の司とした。

 その時30才のヨセフは豊作の穀物を海の砂のように多く町々に蓄えさせた。飢饉が来ると、諸国の人もヨセフのところに穀物を買うために来たのでエジプトは非常に豊かな国になった。
宰相としてのヨセフの前に飢饉で困って父の命令で穀物を求める兄達が現れた2回目の時色々の経緯があって弟ベニヤミンの身代わりになろうとする兄達の切々の訴えに、ヨセフは父と弟、家族に対するユダたちの真情を感じ取った。奴隷の孤独の日々、売られた者、兄弟達に拒まれた者としての苦痛は消え去ることはなかった。しかし今その苦しみの間に、神が家族の間になして下さったことを理解した時、最早見知らぬ者としての演技は続けられず。激情の流れに自らを委ね、喜んで和解し、長く離れていた肉親への感動があった。

5章3節宰相がヨセフと名のった時兄達は意外な展開に困惑しそして復讐を恐れた。4節〜8節神は命を救うため、あなた方より先に私を使わされたのです。聖書の示す神のみ業の本質は命を救うことで、ヨセフ物語の中心メーセージでもあります。兄達のヨセフへの憎悪、その結果としてのヨセフの苦悩、人間の目には忌まわしい肉親相克からの出発が、神の側からはヨセフが神に遣わされるための出発です。人間の罪が不問にされたわけでもないのに、神は恵みによって、罪の故に苦しむ者の救いをなされる。

 「あなた方は私を売ったが、神は命を救う為に、あなた方より先に私を遣わされたのです」神さまの摂理的支配ははっきりと二つの面で聖書的な現実主義を見せている。父が息絶えた時50章15節〜21節兄達は復讐を恐れたが、20節「あなた方は私に対して悪をたくらんだが、神はそれをよきに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」。特に20節はヨセフの信仰告白です。わたしはキリスト者である限りこのヨセフの告白、ロマ書8章28節を経験し、かつ告白するものと確信しています。

【主よ信じます】ヨハネ11章17節〜44節

人間は必ず死ぬ存在であると知ってはいましたが、自分には関係のないような生活をしていました。20才の時飛行場守備のためにトンネル陣地構築をしながら訓練の毎日を送っていました。いろいろの出来事を通して日々死の淵を覗き込むような経験の中におかれました。天皇のため祖国の為死ぬんだとの教育で、納得したわけではないのですがその題目に向かって死を肯定せざるを得ませんでした。このまま野垂れ死にする事の悔しい思いをしている時に、ロマ8章28節「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている」に出会いました。

 この人生のどん底でなければ生と死に正面から向かえない自分を知り、死を見つめる中で復活の主を知り死の向こうに真実の生がある事を信じました。マルタの「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子であると信じます」信仰告白と同じことを経験しました。私の75年の生涯、64年の信仰生活の原点はここにあります。あの人生のどん底、心身共に最低の生活が今では懐かしく感謝の思い出です。

 ロマ8章28節との出会いは、目からうろこが落ちたキリストの死と復活を信じた瞬間でした。思わず生きて帰ることができたらこのことを若人に伝える牧師になりますと誓いました。これが今まで生きてこられた秘訣です。主から与えられた命、人生ですので、健康を守るのは、私の神に対する義務だと心得て生活しています。27節主よ、信じます——と告白できるよう導かれたからです。マルタは25・26の主のお言葉に27と告白したが、21・22「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。

 しかし、あなたがどんなことお願いになっても、神がかなえて下さることを、私は今でも存じています」と問題意識を持って主に迫っています。私たちは漠然とした言葉で求めて得られないのです。主が「求めよ、そうすれば与えられる」と語られました。問題意識を持って、神のみ言葉聖書を、根気よく心を集中させ毎日読むことを続ける時に、あなたのうちにすばらしい働きがおきてきます。そして聖書を通読し、心に響く時は精読するのです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という山上の説教の意味は与えられるまで求め続けることなのです。

 ヨハネ16章23・24「よくよく(アーメン、アーメン)あなたがたに言っておく、あなたが父にもとめるものはなんでも、私の名によって下さるであろう。今までは、あなた方は私の名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう」このような信仰生活で楽しい充実した人生を送ってください。

【約束を守られる神】出エジプト2章24・25節 3章7節〜10節

契約は聖書にとって基本的な考えです。聖書を聖典とするユダヤ教、キリスト教はこの契約の理解なくしては正しく解釈できません。契約は人格と人格の間における特別な関係です。人間間の契約は成人間において成立するものです。神は人格的存在ですが、その神が私達を人格的存在として契約関係を作ってくださった。

 聖書に示される神と人とのそれは人間同士の相互関係のようなものではなく、神の側から一方的に差し伸べられた恩恵的なものです。人間側では、恵みとしての契約を受け入れるか否かの決断をゆだねられている。契約をやさしく言えば相互間の約束です。神が一方的に恵みの約束をなさることは、人間に対する神の愛に基づいています。契約を神の愛と受け止めることが聖書の特徴です。神の約束を自分に向けられた神の愛として受け取ることがキリスト信仰者です。神の愛を受け入れるか否かはまったく人間の自由に任せられています。強制するのは聖書信仰ではありません。

 7より10節神ご自身を、またモーセにご自身のご計画を明らかにされモーセの役割を告げられた。約束において大切なことは、約束したことは必ず実現させることです。どのように良い約束をしても、それを一片の紙くずとして反古にしては信頼を失う。その関係にはその裏切りの不安がともなう。しかし神は真実なお方です。人間に立てて下さった契約は必ず実現して下さいます。

 カナン(後の乳と蜜の流れる地)の飢饉を逃れたヤコブの子ら70人はエジプトで年を重ねるうちに、国中に満ちるに及んで、ヨセフを知らない王がおこった。イスラエルに脅威を感じた人々は戦いの時敵に内通すると恐れ奴隷として重い労役を課した。2章23彼らのうめきは神に届いた。神はアブラハム等との契約を覚え、ホレブの山にて燃える芝の中でモーセに現れて3章7以下で、イスラエルを脱出させ約束の地へと導かれることを約された。これは神の約束です。イスラエルをエジプトの奴隷の苦難から救い出して、乳と蜜の流れる地カナンに必ず帰還させるとの約束をモーセに告げられるのです。

 出エジプト記は、神様がイスラエル人に対する約束をどのように実現なさったかを記録したものです。この報告に見るように世の常のように事柄が順調に取り運ぶわけではないことを語る。契約には人間の側にも従い守らねばならない条件が示されている。それはモーセを通して与えられた十戒に従うという約束です。これに従うことによって神は約束を履行なさるのです。

 民は契約に従うことによって約束の地に定着できるのです。その地は羊を養う牧草が豊富であり、蜜蜂(人は働かないで滋養の高い蜜をうることが出来る)が好む樹木や草花が繁茂する地の表現として神は乳と蜜の流れる地と言われた。後には農産物が豊かな地おも意味するようになる。これは後にカナンの地に偵察に言った12名の報告に「そこは真に乳と蜜の流れる地です。これはその果物です」と見えるとおりです。この実現の為神はモーセに「さあ、今、あなたをパロに遣わしてイスラエルを導き出そう」これは指導者として預言者としての任命です。しかもそれはパロの娘の子として当時の最高の教育と指導者としての訓練の40年と、荒野で羊飼いとして孤独の中で神との交わりの40年の神の訓練の後の今です。今や40年前、パロを恐れて逃げ出したモーセではなかった。神の人モーセとして献身、神の約束を実現すべく立ち上がりました。
私達も新しい契約、キリストを救い主として受け入れるか否か、今、問われています。

【主イエスのとりなしの祈り】ヨハネ17章1節〜26節

主イエス様は14章〜16章までのご遺言で、まじかに迫ったご自分の死の意味についてまたその後の約束を述べられました。これで弟子達に対する教えの地上における大任を果たされたのであるが、なお大祭司としての務めが残されていた。主は遺言としての最後の説教が終わると静かに祈りの姿勢に入られた。こうして最後の晩餐は祈りをもって終わった。主は天に目をむけられた。弟子達から御父に向けられると、主イエス様の大祭司としての最も長いお祈りを始められた。この祈りの姿勢はユダヤ人の一般的なものです。この祈りでまず一・ご自分の使命を果たせるようにと、「父よ」との呼びかけをなさり、父との深い人格的交わりのうちに信頼をこめてのお祈りです。そして父とイエス キリストを知ることによって、すべての人が永遠の生命を得られるように私の栄光を輝かせて下さいと。二・ご自分が地上を去られた後の弟子達のために祈り。三・最後に弟子達の宣教によって信徒となる人々のために祈られました。

 長いお祈りですが、注意してみますと殆どとりなしのお祈りです。1節〜5節までもご自分についてのお祈りのようですが、ご自分の栄光を現すことが信じる者に永遠の生命を授ける為と述べられています。

 6節〜19節御父がご自分に下さった弟子達のために祈られる。主は新しいイスラエル教会の為に祈りを集中される。彼らは特別にこの世から選ばれたものであり、9・10節御父と御子が目的と意図、所有の関係において相互的、一体的である、それ故に新しいイスラエルである弟子達は神の教会であると同時にキリストの教会です。彼らはイエス様の人格の感化を受け、主イエスが愛されることを愛し、主が憎まれることを憎むことを学んできた。教会は特別な目的と使命のために創造された社会です。

11節教会に属するものは互いに愛し合うことによって御父と御子の間にある一致を映し出すことができる。教会の存在理由はイエス様によってもたらされた啓示をこの世に伝達し、十字架の主によって表された自己犠牲的な愛を反映させることです。この世が悪の支配下にある限り神の真理に照らされた新しい教会・社会は永久に敵対関係におかれ迫害にさらされる為に彼らをお守りくださいと訴えられる。あなたが私を遣わされたように、彼達を聖別し、使徒として召命されるようにと祈られる。彼達を聖別して、使徒とせしめ、主はご自分に代わって弟子達を世に遣わし十字架によって成し遂げられた和解の福音を述べ伝え、彼ら自身の言葉と行為によって神の愛を映し出す為に、イエス・キリストにあって世に使わされている。キリスト者は全員祭司であるゆえに、使徒としての召命、献身を求められます。牧師は選任祭司として聖書を学び神の御言葉を伝え、とりなしの祈りの使命が与えられているのみです。

 きかれる祈りの模範は17章のイエス様の祈りに示されています。聞かれる祈りはまずとりなしの祈りがなされ、そして自分の希望を付け足すことです。祈りがきかれないとの嘆きを聞くことがありますが、とりなしの祈りを中心として祈ってごらんなさい。私の必要をご存知の御父は、私に害にならない限り与えてくださいます。

【夫と妻(女と男)の】列王記上21章20節〜29節

尻に敷かれるとは、妻に頭の上がらない夫のことを言います。悪知恵の働く妻を持ったアハブ王はその知恵によって自分の望みを達成させたが、その悪計の故に神の怒りを招いてしまう。(1節〜16節)その悪計は后イゼベルはアハブ王の名で手紙を書き王の印をおして、長老達に送った。その内容は一・断食の布告により、非常に重い犯罪であったと人々に信じさせる。二・ナポテを人々の前に引き出し公判にかける。三・二人の偽証人を雇用する。(二人の証人により刑は確定)偽証の内容も神と王をのろうとし、神を祝福するを、のろうに置き換え、ユダヤ敬虔主義の伝統の神と対等に王を並べた、四・最終的にナポテを石打で処刑して、彼のブドウ畑(7節)を王にあげることにした。イゼベルはその報告を聞くとすぐアハブに報告した。彼はそれを聞くとすぐ、立ってブドウ畑を取りに出かけた。男性中心の時代ですので后であろうとこのような悪辣な行動は{すぐ}に行われます。

その時、主の言葉がエリヤに臨んだ。后のイゼベルがアハブをそそのかして,偶像に従い憎むべきことを行ったので彼達の処罰が伝えられた。アハブはそれを聞いて27節と悔い改めた故に、29節アハブがへりくだったので神は赦された。
神様はご自分のかたちに人を創造された。すなはち,神のかたちに創造し、男と女に創造された。お互いに助け手とする為に、女と男を創られました。ところが人間は力をもってその関係を破壊し、男性中心の社会を作ってしまった。そこから人間社会の悲劇が始まった。社会の秩序は力によって保ち、力ある者に権力が集中し、その前に弱者は人権を侵害された。それを防ぐ為に近代国家は憲法を制定して、権力を制限し、弱者を保護する義務を課し、弱者の権利擁護を規定しなければならようになった。

女性と男性は感じ方も、考え方もまた多くのことで異なるように創造されお互いに長所短所を補うように即ち助け手として創られている。アハブとイゼベルの関係がそのようであったとするなら、間違いを犯さなかったことでしょう。
独裁者の陥る危険性は、権力と力が集中し、助け手の不在から起こりやすいものです。そのようなことが起こらないように、憲法で権力者に義務を課し逸脱を抑えように定めています。それと同じように、男と女の間、妻と夫の関係が力関係でないように、神はお互いを助け手として創造されたのです。女性・男性の関係を定める憲法はこれです。この神の創造の御心を実行するところに、男女不平等とかDV(力あるものが愛するものに対する暴力)なんてことは起こりませんし、女賢しくて牛売り損なうことや、イゼベルとアハブ王のような失敗は起こり得ません。

【主はすでに世に勝っている】ヨハネ16章25節〜33節

過ぎ越しの食事、最後の晩餐後主イエス様は、告別説教でご遺言を語られました{14章〜16章}。3年間いろいろの機会に多くのことを述べられましたが、その間胸の中に秘められた思いをここで吐露されています。そしてそれは33節「:::わたしはすでに世に勝っている」と劇的に結ばれた。

 弟子達は、この不信仰の世にキリスト者としてある限り、信仰生活、証しの生涯において多くの困難に会うことでしょう。その彼達に「勇気を持ちなさい」と述べられた。弟子達が主イエス様に信仰的に結びついているのであれば、主イエス様が十字架で、罪と死とに決定的に勝利を得られた事実の確信から生まれる平安と勇気を豊かに味わうことができる。それは主イエス様が彼らの為に成し遂げられたみ業の故です。明日に迫っている十字架の贖罪の死と、それに伴うもろもろの苦しみは、父の神のご計画の成就であると、「私はすでに世に勝っている」宣言されたのです。弟子達もこのすべてに勝利された主イエスさまを信じ続ける限り、罪と死に打ち勝ち、平安と勇気が与えられるのです。しかし、まだ弟子達には救いと復活の信仰による喜びに満たされる経験はない。彼達は今それを信じても、その信仰もただちに激しい試練にさらされている。信じてはいるが32節です。しかし33節と続くのです。

 目前に迫り来る主の受難と死は、その意味が今わからなくとも、聖霊が来る時に、十分な霊的理解が与えられるのです。御霊によってもっと直接的に御父についての明白な教えを受け、主の御名によって御父に祈るようになって、23・24節もはや主イエス様が彼らに代わって祈る必要はなくなる。

このように弟子達が直接神に近づく道はキリスト教的な祈りにある。主イエスを信頼する者を御父は愛して下さると確信して、はばからずして聖なる御父の恵み御前に近づくことができるのです。弟子達が近づく恵みのみ座には,御父とともにキリスト御自身もおられる。私はそれゆえ23・24節とイエス様の御名によって祈るのです。私達にはマリヤとか聖人の仲介で祈る必要はないのです。主イエスさまの御名によって祈るものの祈りにお答えくださり33・34節と勇気が与えられ罪と死に打ち勝ち、主の勝利を我が物として平安が与えられるのです。

【あなたはここで何をしているのか】列王記上19章1節〜18節

アハブ王は后イゼベルにエリヤのしたすべての事を話した。中心はカルメル山の出来事、また17章の奇跡人を助けた事、18章のカルメル山でのバールの預言者とのたたかいでエリヤが勝利を得、彼が彼女の預言者450人を殺したことを告げられた時、イゼベルは激怒して使者を遣わして命を奪うと脅迫した。暗殺しなかったことは、人々が関心を寄せていたので言外に国外退去を求めたのでしょう。エリヤは恐れイゼベルの思惑通り、ヨシャパテ王のユダ国ベエルシバに逃れた。彼は自分独りで神と交わり訴えをする為、一日路荒野に入った。神に死を求めた。

現代のように自殺が軽々しく考えられている背景ではない中での祈りです。カルメル山での勝利の後、イゼベルの迫害を恐れ逃避する自分の弱さに失望した彼の心境を率直に表現した。先祖達に勝っていないと彼自身に対する失望の言葉を述べている。彼が自分自身に失望し、自分の弱さを徹底的に知る時こそ、信仰生活に一段の飛躍、前進があったのです。5節天の使いが疲れきって眠り込んでいる彼にパンと水を与え力ずけて40日40夜の神の山ホレブに出発させた。ホレブ別名シナイ山はイスラエルの民にとって霊的覚醒、霊感という感動が与えられる場所と理解されていた。

ホレブについて休息していると「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と主のお言葉があった。これは創世記3章アダムが神の命令を破った時、恐れて神の臨在を避けようとしたその時に与えられた警告の言葉と同じです。エリヤは恐怖と期待の複雑な感情のさ中で自分の弱さを知らされていた時でしたので、神の問いかけに対して、アダムは自己防衛のため「私と一緒にして下さったあの女の言う通りにしたのだ」と、エリヤも自分の過去の信仰生活の熱心さを自己防衛的に述べるのです。450人のバールの預言者とただ一人で戦った。その残されたただ一人の私を、イゼベルは殺そうとしているのです。逃げて隠れるのはやむをえない事です。と言い張るのですが、神の答えは「バールに腰をかがめぬ者を7千人残すであろう」でした。

 9節の問いかけに、過去の神に対する熱心さを語るが、神は今の彼に話しかけられる。「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」と、その時主は通り過ぎられた。大きな風が、山を裂き、岩を砕いた。その力の中に神が存在されると、しかし風の中にはおられなかった。次に地震があった。そこにも主はおられない。すべてを焼き尽くす火があったが、そこにも主はおられなかった。その後主の静かなか細い声が13節「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」彼はまたも14節と答えている。「エリヤよ」とのその声はエリヤに対する審判でした。二回とも自分の過去を拠り所として自分の弱さを神の前にさらしてはいない。その結果予言職はエリヤからエリシャに移されたのです。

エリヤはエリシャに予言職の神の召命を伝える。豊かなエリシャはこれに応えくびきを薪として犠牲をささげ、自分に属するすべてのものを捨てて新しい生活に入るのです。予言職を確立したエリヤ、エリシャの二人の預言者の信仰生活の成功と失敗の原因を見極めましょう。

【キリストが私の内で生きる】ガラテヤ2章15節〜21節

ガラテヤ書は約2千年前から今日に至るまで、いつも教会を導く光でした。それは、教会が常に保持しなければならない主の教えがはっきりと示されているからです。生まれながら罪の子である人間が聖なる神様と交わりをどうして保つことができるか、旧約聖書が示す神の律法を守ることによって罪びとが聖なる者となり聖なる神と交わることはできない。救いの回復の道は神の恵みに頼るより他にはありません。信仰は、神の恵みであるキリストの救いを受ける唯一の手段です。

 19・20節には『生きる』が5回使われていて、どれだけ生きるが重要であるかがわかります。そして生きているのは、もはや、私ではないことが強調されている。ローマ書6章4節「死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られた。キリストと共に甦り、新しい命に生きる為である」だから、私が生きているのではない私はイエス キリストに結ばれて、キリストの復活の命が私の内に生きている。もはや、罪と死に支配されていない。私の内に生きておられるのはキリストであるとすると、私はどこに行ったのか、キリストと共に十字架に死に葬られてしまった。私の死と葬式が洗礼によって、十字架上でキリストと共に終わってしまった。ここでキリスト者の生活が終わってはならない。キリストは復活して、新しい命に生きておられる。古い私の死と葬式が洗礼によって十字架で終わってしまったのだから、新しい私はまた、洗礼によってキリストの復活で始まった。

キリスト者の人生は洗礼によって十字架から出発するのです。
私が今肉にあって生きている現実は、信仰によって生きる為です。信仰による人生・生活が実現する為には、肉において、信仰によって生きる他には方法はないのです。肉において生き、信仰が実現していく生き方を見られることは神様の喜びたもう事です。その信仰の確かさは「私を愛し、私の為にご自身をささげられた神の子にたいする信仰」です。同時にこれは神の子が何をなされたかという信仰の内容、福音を指し示すものです。

ガラテヤ書はキリスト者の自由を明らかに宣言し、福音信仰の憲法といってもよいものです。マルチン ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク大学でガラテヤ書の第一回の講義の直後、95か条の論題を張り出した。それで16世紀以後の欧州の宗教改革を推進する原動力となった。私個人もガラテヤ書とローマ書8章によって救いと聖めに導かれたことをいつも感謝しています。

【エリヤと偶像バール預言者との対決】列王上18章20節〜29節

エリヤは神様のご命令にはどのように条件が悪かろうと徹底的に従った預言者でした。アハブ王は后のイゼベルの勧めによって、偶像バールを信じ、ヤァウエー信仰者を弾圧した。神様はそれ故に3年余雨が降らないことをエリヤを通して警告なさった。神様の弾圧を避けさせる為にエリヤにケリテ川のほとりに身を隠し、川の水を飲み、カラスが運ぶ食料を食べなさいとの命令に従って身を隠した。川の水が涸れた時ザレパテのやもめ女に養わせようとの言葉にも従った。常識ではありえない神の命令に従うエリヤの信仰と神様に対する絶対的な服従心は私もエリヤに習って実践に勤めましたが聖霊の助けなしには実行不可能です。

 アハブ王は后と取り巻きに責められ、神の預言者を次々と殺したがその時宮内大臣で神を信じるオバデヤは、百人の預言者を洞穴に隠してパンと水をもって養った。家畜を養う草を探す為王とオバデヤは二手に別れて行った。オバデヤは進んでゆく道でエリヤに会い、アハブに伝言を頼まれる。王の持つ生殺与奪の権と残虐さを知る彼は恐れたが、エリヤの言葉を信じアハブに告げた。ここでアハブとエリヤの面談の仲介者の神に対する表の奉仕は終わった。

 アハブの第一声は17節です。それに対して18節エリヤは主の命令を捨てバールに従ったあなたの為です。そして450人のバール預言者とエリヤ一人との対決をカルメル山でなすことを提案するのです。カルメル山は異教宗教のシンボル的な場所で言わば敵地を指定したのです。またヤァウエ信仰の勝利を明示する為か、準備も自分に有利だと思われない為に、意図的に避けてバール側に先に準備させバールを呼ばせた。エリヤは民の指導者達に21節、バールと主の間をどっちつかずにいる彼達の自主的な選択を迫ったが、民はそれに一言も答えなかったその態度に彼達の確信のない迷える状態を見て取ったようです。

(20〜29節)エリヤは先手権を与え公平性をきしている。バール側は準備を整え朝から昼間で呼ばわったが応えられなかった。30節その時エリヤは祭壇をモーセの命じたとおりに築き、薪を並べ、犠牲の牛をその上に載せ四つのかめに満ちた水を注ぎ、神に祈った。エリヤはこの対決を、水請いをする魔術的な行為ではなく、主こそまことの神であることを示すヤァウエーの業であることを明示しょうとしたのです。族長の神、イスラエルの神に彼は祈るのです。

 火が下っての奇跡に、民は「主は神である」と叫ばざるを得なくなったのです。3年余の旱魃の後の雨はおまけです。晴天雲ひとつない空の下でエリヤは神様の約束を信じるのです。6回しもべが見に行っても雲ひとつ見出せなくともエリヤは信じて祈るのです。(41〜46節)7回目の「小さな雲を見た」の報告を受けた時やがて大雨になることを確信した。私達は祈るときにエリヤのように信じて確信ができるまで、忍耐して祈るその姿をここに見るのです。

【あらゆる真理に導く聖霊】ヨハネ16章7節〜15節

導くとは、先にたって先導するとか、共に歩みながら思いを補強したり間違いを指摘したりすることです。単なる教訓は非常に霊感に乏しいものですし、単なる戒めは非常に冷たいものです。神のみ言葉である聖書は実行不可能な要求をし、理解できない書の筆頭にあげる人もいますが、先導者がおられ、いかなる時にも私達から離れない同伴者なる助け主であり慰め主である聖霊が私達をあらゆる真理に導かれます。

14章26「聖霊はあなた方にすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」私たちはそれゆえに66巻の膨大にして難しく、硬い書全部を一字一句全部通読しなければならないのです。12弟子達は主の語られるみ言葉を完全には理解できなかったようです。真剣に聴きいり理解しようと勤めたがその時は真理がわからなかった。また3年弱では伝えることは不十分でした。主の御霊が来る時すべてが教えられ、ことごとく思い起こさせるのです。ですから私達も聖書を読み理解できないことがあっても、時間がないとこれを敬遠するのではなく、創世記から黙示録まで通読するのです。何年礼拝を守っても信仰がもてない、いくらお祈りしても聞いてもらえないと他に楽しみを求めたりします。難しいメーセイジでも、聖書でも真剣に知ろうと求めるならば、聖霊が導き、与え、理解させてくださいます。

 御霊は私達を先導し。洞察力・深い理解力を与えてくださいます。御霊は私たちの魂を精錬し不純物を除き、神聖なるものと、真理を冒涜するものをはっきりと識別することができるようにされます。人間性に支配される私達の道徳的判断は時に非常に鈍く、感受性を欠き、霊的決断は活気と洞察力を欠く、だから先導者聖霊は、私達に聖書を通して教え、聖い生活をするに当たって深い洞察力を持つように、私達の魂を聖別してくださるのです。
聖霊はまた先見の目を与えられる。私達は現在の境遇を解釈しすべてを善きにされる主を理解し信じることができるように導いてくださる。聖霊は気まぐれとわがままに支配されている私達の生涯から救い出して、神の知恵をもって賢明な正しい者としてくださるのです。

16章12節「あらゆる真理に導いてくれる」の真理はギリシャ語では定冠詞がついていますので、これは主イエス様のペルソナ人格と言葉と業の意義についての真理を指しています。聖霊は神の語られることを聞いて語り、来るべきことを伝えられる。それは目前に迫っているイエス様の十字架の死と復活の出来事です。このキリスト教の中心的出来事の意義について、ペンテコステ(聖霊降臨祭)以後、使徒達は御霊の照明を受けてそのことどもを証し始めた。新約聖書はこの真理の御霊の導き霊感によっての弟子達の証が文章化されたものです。

 聖霊は主イエスがキリスト(救い主)なることを私たちに指し示し、主に救われたものが聖書を通して、そして深い洞察力が与えられることによってキリスト者はいかに生きるべきかを具体的に教えてくださいます。聖霊の導き御霊に満たされるよう祈りもとめましょう。

【かめの粉は尽きず】びんの油は絶えない王上17章1〜16

ここでは天災がもたらす生活の困窮に対抗する預言者の働きが述べられる。時代はアハブ王の治世です。彼の治世は極めて不安定で、悪と罪に満ち偶像礼拝が表面に出た悪政の時代でした。先王オムリも悪王でしたが、アハブ王、その后イゼベルはそれに輪をかけたような悪でした。そのような時代に預言者の職分をエリヤ・エリシャによって確立せしめた神の民が、そのような時代にどのように扱われるか、世俗と異教文化の中での神様と民の働きの記録でもあります。

 預言者エリヤガ、アハブ王に会って神よりの旱魃の予告警告を告げる。それは神の使者としての予言です(1節) 神はアハブの怒りを避けさせるため2節〜3節ケリテ川のほとりで烏に命じて養わせようといわれる。常識では考えられないようなことですが、エリヤは神の言葉にしたがって川のほとりに住んだ。神に従うとはこのように神の命令は人間の常識、特に理性では否定することもあるが、信じる者を失望させるようなことはなさらないのです。最善をなさるお方にキリスト者は従います。

神は烏に命じてあなたを養わせようとの言葉に従うのです。カラスはパンと肉を朝と夕にかれのもとに運んできた。やがて雨が降らないので川はついに涸れた。不思議な出来事が恵み深い摂理によって準備された神の言葉が彼に臨んだ。エリヤは再び主の言葉に従順に従った。彼は町の門で貧しいやもめ女を見ながらこの貧しい婦人に養われることに矛盾を覚えてのでしょう、ためしに欠乏している。水を求めたところこの婦人は水を取りに行こうとしたので、彼は神の云われたのはやはりこの婦人であると確信して、あらためてパンを求めた。一握りの粉しか持たない寡婦に神は施しを求めている。いかにも不思議な命令です。この一握りの粉でパンを焼いて子供と最後の食事をしようとしている時です。不可能なことが寡婦の前におかれている。預言者が有り余る富豪の食卓で養われのも不釣合いですが、それだからといって、殆どなにもない食卓で預言者が養われとは、これが神の驚くべきご計画のなさりかたです。

12節婦人の言葉に対して、13・14節「恐れるな、・・・・」とエリヤは言う、自分が云っていることは不合理・不人情であり、婦人が途惑い、恐れていることを承知の上予定通りなすことを勧めている。エリヤの求めたものは彼女の持つ最後のための小さなパンであった。婦人にとって艱難(または試練)を感じさせられるものであっても、求められるままに少しでも与えようとする意志と勇気をもたらせるものでした。エリヤはそれに加えて託宣として飢饉が終わるまで彼女の家に飢えのないことを伝えるのです。神様の約束は異邦人の上にも、信頼して従うものに祝福が与えられる。貧しい異邦人の寡婦は、たった一握りの粉を犠牲にすることで尽きない恵みに預かったこれが神様のなされる方法です。この後一度死んだ子供も生き返らせられている。

何事でも主にお貸しすることは、想像以上の恵みのお返しがあります。困難な時、恐怖を感じるとき、不合理だと思っても、神様のお言葉に聴従することによって、計り知れない恵みと祝福にあずかります。

【新しく創造されたキリスト者㈼】コリント5章11節〜19節

毎年いただく年賀状に記されている御言葉の多くはこの17節ですが、いつも何か違和感を感じてしまいます。(古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである)に新しい年をかけたのでしょうが、この古いとかは時間的経過を表すものではなく質的な変化を意味しているからです。

16節 それだから、キリスト者がもはや自分のために生きるのではなく、死んでよみがえったキリストのために生きるのです。その結果として人間的な標準で何おも知ろうとはしない。すなはち生まれながらの人間の考え方、この世の価値観で、キリストや人を知るまいというのです。かっては肉によってキリストを知っていたが、今は霊的に新しく知ろうではないかと勧めるのです。

肉によらずして、信仰によって、キリストに結ばれる人は誰でも神によって新しく創造されたものです。これは奇跡といっても良い出来事です。単なる理想の出来事の説明ではありません。天地創造に続く、キリストによる新しい創造の業が現実に確かに始まったのです。それは古い罪過に満ちた人間は滅び、新しい義にして聖なる存在として創造されたのです。二千年前の歴史の中の十字架の出来事によってです。19節、父なる神は罪のまったくないキリストを大罪人として罪ある私たちの身代わりとしての死を通して神ご自身と和解させられ私たちを義なるものとされました。だから誰でもイエス様はキリスト(救い主)であり、十字架の救いを信じたものは、すべて新しく創造された神の子、義なるものとなることが出来るのです。

和解するとはもう一人の異なったものに変えるとの意味から派生している。神様は贖いの業によってイエスをキリストと信じるものを罪の存在より義の存在へと変えてくださったのです。しかもそれはキリストとの交換でおきたのです。使途ポーロは創造論より和解論にすすめ自分をキリストにある和解の使者と位置づけている。またこの務めはコリントの教会にも委ねられているので、分離対立をやめ和解しなさいと勧めている。兄弟姉妹との和解なしには神様との和解はありえないのです。教会内において和解がなされないのはキリストにあってなされた新しい創造の業をこぼつ者となるのです。父なる神様は罪を知らない一人子を私たちの身代わりとして私たちの罪を負わせ、罪人そのものとされ、罪を受けさせられ、私たちを新創造され神の子義なる者として下さった。それにふさわしい生活をしましょう。

【神の国と序列】マルコ10章13〜16

なぜ主は憤られたのでしょう、新約聖書で主が憤られたと述べるのはここだけです。主は病をお癒しになるために病人に手を置かれた。病人が大勢主の下に押しかけ非常にいそがしくしておられた。そのとき主イエス様に祝福して頂きたく人々が幼子らをみもとに近づいてきた。弟子たちは主があまりにも忙しくしておられるのでこれ以上イエス様を煩わせたくないとの配慮があったのでしょうか、あるいは子供や女性に対する人権軽視があったのでしょうし、また弟子達に弟子であるという特権意識がなかったとはいえません。この前の節で当時軽視されていた女性の権利を擁護なさっている事と対照的に見るべきでしょう。弟子達が多忙な主を守ろうとして大事なこと小さきものに対する態度に憤りをもたれたのでしょう。

 弟子達にとっては、主イエスは言葉を媒介としてみちびくきょうしであった。その教えを身近に聞く関係において弟子であった。話はそれますが聖書の語る弟子の資格とは、{主をまじかに拝し、直接なまじわりに預かった人々です}弟子達は言葉を通して導かれると確信していたが(間違いのない事)しかし多くの人々は触れる、触れられるという人間全体に関ることとして主イエスとの出会いを求め理解していた。弟子達はイエス様と人々の間に常識的な価値観による序列を作っていた。主はそのような弟子達の発想をお嫌いになったのでしょう。人間は集団を形成するとすぐに序列を作りやすい。主は当時数にもいれない子供達に御自分の精力と時間を費やすことを喜ばれ子供達を呼び寄せられ、抱き上げ手を置いて祝福なされた。

14・15節神の国は幼子のようなものの国である。子供は純粋無垢であるとか罪がなく単純とか、絶対的信頼性を持つが故といわれるが、弱く、一人で生きていくことができない、なきに等しい者、自分には愛される功績も誇るものもないことを自覚している。ヨハネ福音書3章で、新しく生まれることが神の国に入る条件であると言われたニコデモは宗教・民の指導者であり、教養ある老教師であったが、そのままでは神の国に入ることができない。自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさなどを認め、神に信頼する者のみが神の国に入ることができるのです。主イエス傍にいることもあるが、離れた人垣の後ろにいる場合もある。お話になっていることがわかる時もあるが、少しもわからない時の方づっと多い。ただ主に触れていただくのは心地よく平安です。こんな信仰でも神の国の門は開かれている。
しかられた弟子たちには申し訳ないが、神の国の門の辺りで、ウロウロしている者にとっては、この主の憤りは福音です。

 神の国はこのような者の国であるとの主のみ言葉は、私たちに対する福音でありますが、それは幼子のようになるということです。新しく生まれることです。自分の本当の姿、正しいことをしようと望んでもその反対の悪をしている自分を認めることです。ロマ7章15〜25  「わたしは、なんと言うみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってkれるだ廊下」(24節)「わたしたちのイエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」(25)

【下には永遠の腕がある】申命記33章26〜29

聖書には有名な四つの遺言があります。それはヤコブ、モーせ、ヨシュア、主イエス様のものです。普通の遺言は財産の相続についてですが彼達のものは、財産分与については述べず。神の恵を述べそれに感謝することと神に従うことを奨め、神に選ばれた選民イスラエルの祝福を祈るのです。

1節、モ−セは神のもとに行くにあたって遺言を述べるがそれ自体が祝福の言葉です。この遺言の前に32章に神を讃美する言葉を語り聞かせている。モ−セはうなじの硬い頑固な民を出エジプト以来なだめすかしながら漸く神の約束された乳と密の流れる父祖の地に入る前日、ネボ山に上りその約束の地ヨルダンのかなた与えられる地を見る事が出来たが、メリバテの水のほとりでのモーセの不信の行為によってヨルダン川を渡る事が出来ない事となった(31章2)彼は32章で今までの神の恵みを語り、感謝した上で33章の祝福の言葉を述べるのです。それゆえに32・33章はセットとして見て下さい。長い故に祝福の結び26〜29までを拝読します。

29節「あなた方は幸せだ。イスラエルよ」これは古の民のみではなく現在の選民キリスト者をも指し示しています。私達はどのような環境・境遇に有ろうとも主にあがなわれ神の子とされた幸いを知らねばなりません。主は悪の攻撃を防ぐ盾であり、私の威光(勝利とも訳す)の剣です。28節イスラエルでは雨季には泉の水の豊かさに農作物は豊作で、乾季で乾ききった時にも露の滴りによって豊かなぶどうの収穫ができた。

あなたは幸せだとの事は、27節だからです。「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕が有る」エシュルンはイスラエルに対する詩的な呼び名であり、正しい者との意味もある。イスラエルの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、今あなたの神でもあります。そしてこの力有る他に並ぶもののないお方がイスラエルのすむ永遠に住む家です。だから私達も、この神の身元で安らぎを得、くつろぐ事が出来る。この世の旅人であり、さ迷い歩くヘブル人にとって安定したとこしえの神の住まいが私の住むところとして保証されているのです。私達の人生を支える腕は全能であり、ご支配は全地に及んでいる。その腕は私達を強くして下さりすべての事に勝利させて下さる。その腕は私達の現実的、日常的な助けです。しかもその腕は恵みからもれ、零れ落ちそうな者おも下から支えて下さっておられる。その為にも神は私達の前から敵を追い払われるのです。

それで敵を滅ぼす力を与え滅ぼせと命じられる。神は私達を敵から守る盾となり、勝利の威光の剣となって下さる。キリスト者にはとこしえにいます神が憩の家で安らかに住む事が出来るばかりか、全能の神、力ある神が私達を支える腕であり、祈る者に力・勇気・知恵を与え、人生に勝利させて下さるのです。27節(とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある)なんと幸いな事でしょう。目に見える現実はいかに厳しかろうと、われらにはとこしえのすまいと、支えて下さるお方がおられるのです。

【わたしはアルパでありオメガである】ヨハネ黙示録1章4節〜8節

神様はエジプトの奴隷からの救出を願うイスラエルの民に応えて、救出者としてモーセを派遣なさるしるしとして、私が必ずあなたと共にいると言われた。私達と痛みや重荷を共に負って下さる神であるとの宣言です。通常考えられる神は私達と無関係で動かざる存在です。

ギリシャ語のアルファーベットは アルファ−が最初でありオメガーが最後です。これは絶対的な完全を意味する。ヘブル語のそれもアレフからタウまでという。ラビ(ユダヤの教師)が神はイスラエルをアレフからタウまで祝福された。またアダムは律法を犯し アブラハムは律法をアレフからタウまで守ったといい、神には欠けたところがなく、神の中ではすべてのものが存在の意義を持つ。これが我々の信じる神だと述べている。

出エジプト3章彼等が主の名は何と言いますかとの問に「わたしは有って有る者」とヤァウエーの神は答えられる。ヤァウエーの神は初めからおられた。確かにおられます。あなたと共に今も。今共におられるお方は、かってから(初めから)私達と共におられたが、やがてからお出でになるお方、未来からお出でにお方です。初めからそして今も未来からもお出でになって我々と共におられるのです。旧約聖書の初めに有りて有るものと宣言された神は、新約の最後黙示録二二13「わたしはアルパであり、オメがである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである」始めと終わりの二極で全体を表している。

神は完全であり、無限の生命を持ち給うお方であり、全能のお方です。エジプトにあって気ままに生活していた奴隷根性に満ちた民、バラバラだった人々を集められた時に、神様が先ず口を開かれて語られた言葉は「わたしは初めから終わりまで必ずあなたと共にいる」でした。旧約の時代から新約まで神様はお変わりにならないのです。
(イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることはない)ヘブル13章8節

【神を信じ感謝せよ】歴代志下20章11節〜23節

私達は神様に多くの願い事をお頼みします。祈りが聞かれると喜び感謝しますが、願いが聞かれないとなぜと問い時には不満、不平、愚痴をこぼす事があります。それは願い事がかなえられないのはその事を妨げるものがあるからです。願い事が受け入れていただく為にはそれだけの心備えが必要です。その備えは、讃美・感謝の心です。それが神様の恵みを頂く心の準備です。

讃美・感謝のないところでは、神様はお働きになりません。また祈りが聞かれるとその事ばかりに目をむけ、感謝讃美を忘れ易く信仰生活にひびが入ります。この時の態度は神様を無意識のうちに自分の奴隷のように命令するのです。それは祈りの形を取っているだけで願望を押し付けているのです。祈りの根底には讃美と感謝が必要なのです。讃美と感謝が心に満ちてくると、妨げが取り除かれ、祈りに応えられる神様の恵み、力が私達に臨みます。第一テサロニケ五18(すべての事について感謝しなさい)良い事については感謝し、悪い事には神様に愚痴を言いなさいとは、述べられてはいない。良きも悪しきも感謝し喜び讃美するそこに将来に対する希望が芽生え祈りとなります。

ユダの王ヨシャパテはイスラエル王アハブの娘と自分の息子との結婚で縁戚関係を結んだ。ヨシャパテは主に忠実であったがイゼベルの娘と結婚したヨラムは悪王で妻の偶像に走った。ヨシャパテはアハブに誘われてシリヤと戦ったが敗れ、アハブは戦死。その後シリヤ,アンモン人の連合軍がユダを攻め包囲した。優れた武器を持った圧倒的な敵の大軍の前に南王国ユダは震えおののいた。ヨシャパテ王は途方にくれ、神様に困難な現状を訴え祈った。4節〜12節。困りましたこの困難は私達には乗り越えられません。ただあなたにを仰ぎ望むのみですと、民と共に断食して祈りました。

困難の時に有りの侭祈れる人は幸いです。神を知らざる人は、自分だけで困難の前に悩まねばなりません。私達はありのまま神様に申し上げれば良いのです。彼達は断食をして、ただ助けを求めて仰ぎ望んだのです。その時神の霊が彼達の中で預言者に臨んだのです。ヤハジエルは15節〜17節、主はあなたがたと共におられるとの預言に王と民は主の前に地にひれ伏した。そしてレビ人が立ちあがり大声をあげてイスラエルの神、主を讃美した。彼達は翌朝主の命令に従ってテコアの野に下って行った。王は20節と語り、21節目に見える状況は変わらず依然として最悪でしたが、主のみ手を信じて聖なる飾りをつけた聖歌隊を先頭に讃美させつつ敵陣へと前進した。その瞬間主のみ手が動いて敵は打ち負かせられた。主の言葉を信じ感謝し讃美した彼等の心は、神様のみ業を受け入れる準備が整えられたのです。祈りが聞かれる為の妨げが取り払われたのです。ヘブル十一1(信仰とは望んでいる事を確信し、まだ見ていない事実を確認する事)です。私達は困難、試練、苦しみ、悲しみ、意に反した事などに囲まれ圧倒的な敵の大軍の前に立たせられた時、ありのまま主に訴えお頼みするのです。その時喜び感謝し受け入れられる祈りがなされるのです。

良い事は神様に感謝し悪い事はサタンのせいにしていると問題は解決しません。聖書はすべての事について感謝せよと語ります。私達は小さなかぎられた事で善し悪しを判断しますが、神様は宏大さ永遠の時をもって判断なさいます。現状のまま、あるがままの状態で感謝讃美しますと、神様の計り知れない、すべてを最善になさるみ手が私達に差し伸べられるのです。私は「ああ」あの時の困難苦しみはこの喜び感謝の為だったのかと、多くの経験をしました。
ローマ八章28節(神は 愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者達と共に働いて、万事を益にして下さることを、私達は知っている)

【創造における聖霊の働き】創世記一章1節〜25節

聖書は科学書でも哲学書などのようなものではありません。神様のみ言葉事実を述べた本(バイブル)です。人間の知識経験では、理解し難く誤解して受け取ります。それ故に主イエス様のご遺言の「助け主、即ち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」とのお言葉を心に銘記して下さい。

この世界では、三位一体の神の位格には、特別の機能と働きがあります。無から有を創造されたのは父なる神であり、十字架の上に死なれたのは御子キリストです。私達の聖化と救いの達成の働きは聖霊ですし、私達の心の内に住んで下さるのは同じ聖霊です。このような事を心得ていないと、不安や悩みのときに、慰め主なる聖霊のところに行かず父や子のところに行く間違いをおかします。しかし同時に三つの位格を分けるべきではない。創造の業で創造者としての父なる神を認めるが、また三位一体として関与している。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」また言葉(ロゴス)を用いて、「光あれ」と言われた。一般的に聖書が示すのは。三位一体の働きは父から子を経て聖霊に至り、父が生み出し子が実行し聖霊が完成するとしている。

天文学では宇宙は初めから存在し進化発展してきたと信じられていたが、天体望遠鏡・電波望遠鏡などの観察機具の発達によりその精密さで、宇宙の膨張がわかり、無の世界でエネルギなどが凝集され想像を絶する高温となりビックバーン(大爆発)により宇宙が誕生、今も膨張している事がわかり、無から始まり有の創造を認めざるを得なくなった。
科学界の事はされおき、一章を見ると聖霊の働きは、無から世界の諸物質を創る働きではなく、その後に来る働きである事に気付く、父が三位一体のうちにあって、無から有を創造される事で、子と聖霊の供給源であり生命線です。創造の完成後、聖霊は水のおもてに働き、すでに創られたものから秩序を導き出し、創られたものから様々な潜在力を引き出し命の種を植え付けた。

詩篇33篇6節「もろもろの天は主のみことばによって創られ、天の万軍(恒星・太陽・月・衛星など)は主の口の息によって創られた」息は霊を意味し、聖霊は父と子によって吹き出し。聖霊が天の万軍を生み出す活動をした事を意味している。また詩篇104篇は聖霊の創造の業として、すべての生き物に命を与える事でした。神の摂理についてこの美しい詩篇は、あらゆる自然現象を神に帰し、神がすべてを支配し、万事を神に根拠を置いている。そして、創造の働きの頂点は、神にかたどった人の創造です。

聖霊は土と土の塵で創られた人の中に命の息を吹き込んで生きるものとした。人を人間たらしめる創造の業の責任は聖霊にある。単なる動き回る生物ではありません。聖霊は人に命だけではなく神に似た理性・道徳なども付与された。即ち知性・意志・感情などを所有するものとされた。

人間は善良で、高潔、聖く、正しいものに聖霊は創られた。私達は聖霊に導かれている限り、真の人間とし、聖い人間として生きて行けるのです。

【キリストの裂かれた肉と流された血】マルコ14章12節〜25節

過越の祭りは出エジプト12章1〜12に述べられる。イスラエルの民がエジプトの奴隷から、乳と密の流れる約束の父祖の地へと脱出救い出された記念日です。現代のキリスト者にはサタンの奴隷から神の子とされた記念日でもあります。ニサンの月14日、午前中から家の中からパン種を取り除き、午後に羊をほふり、夜15日(ユダヤでは日没より始まり日没までが一日)に過越の食事(晩餐)をした。現在でもユダヤ人は厳重に守っているとの事です。

18節席については、原語でアナケイマイ体を横たえてとなる。正式の晩餐には左ひじで体を支え横になって食事をした。イスカリオテのユダはこの席から去っていた。エルサレムの二階座敷で、主が弟子の足を洗う事で始められた過越の祭りの晩餐は、キリストが自らの命のパンを裂き、契約の血を分かち与えられた最後の晩餐で頂点に達し、ゲッセマネの祈りまで続きます。この日から過越の食事が新しい意味の聖餐として主から与えられました。

第一にエジプト王パロの奴隷の鎖から解放され、エジプトよりの脱出と自由を覚える日が、今やキリスト者には罪の縄目からの解放を記念する日となりました。かってエジプトにあって長子をを殺す天使を過去らせる為、モーセの命に従ってイスラエル人が家の門に塗られた子羊の血によって災害が過去ったその血は、今は神の子羊イエス・キリストの血に取って代られ、罪が過去り、救いが与えられました。そして聖餐が新しい神の民キリスト者に恵みとしてあたえられました。

第二に聖餐は主の死を記念し、告げ知らしめるものです。主はイザヤの預言の「彼は 私達の患いを身に受け、私達の病を負うた」の通りにキリストの釘つけられた傷とその痛みとに、キリスト者が触れるときです。

第三に聖餐式は過去の出来事の記念として守るのみではなく、復活の主が生きて、神とその民との間の交わりが与えられる恩寵の恵みの通路です。信仰を持って聖餐に預かるキリスト者は聖霊の助けと導きにより、キリストと一体にされるのです。実が稔る為に枝がぶどうの幹なる主に繋がっている事保証するのです。それが 新しい命の源泉です。
第四に聖餐式でキリストの体に預かる事は、他の枝との交わりに入る事です。どのキリスト者もキリストの体である教会につながり一つである事実が示される。そしてお互い主にありて兄弟姉妹となるのです。

 人は生まれたときは他の生物と変わらない存在ですが、両親家族、多くの人と接触しながら人間性(じんかんせい)が身について人間になります。人間は人と創造され、周りの人間との関係、特に神に似せて作られた神様との交わりにおいて完全な人間となるのです。ヨハネは手紙でコイオニアとして交わりをのべます。コイノニアは先ず神様との個人的な関係の交わりが確立した同士が兄弟姉妹として交わりを持ちます。キリスト教はコイノニアの宗教です。しかし罪は私を神からも兄姉からも隔離します。キリストは十字架で、肉を裂き血を流してこの罪の鎖を打ち砕き、隔ての中垣をを取り除き、救いの業をなさり、神と人のコイノニア、兄姉のコイノニアを回復して下さったあの最後の晩餐は、この十字架を指し示しています。この素晴らしい神様の恵みに触れ、これを味わい体験できる様にと主は聖餐式を定められたのです。

【生めよ増えよ 地に満ちよ】創世記1章26節〜31節

神様は天地創造の冠として、神のかたちに人を創造され甚だ良かったと満足された。そして祝福され被造物の一つ一つが、本来の目的を果たしうるように人が治めすべてが最善の関係に生かされるようにと述べられた。それで人は地に満たされ量的、質的な、殆ど無限の成長がその祝福に暗示されています。

地上の動物の創造に続いて同じ六日目に人間を創造されて、他の被造物との関わりにおいて語られる。人間は自然界の一部ですがそれを超える存在です。26節「ここに我々のかたちに、我々にかたどって人を造り」父なる神、子なる神キリスト、御子の霊なる聖霊の三位一体のかたちとしての人間が存在するようになった。父の神は、言葉{ロゴス即ちキリスト}によって天地を創造され、土と塵で人を造り、命の息{聖霊}を鼻に吹き込まれ生きた人を、神のかたちに男と女を創造された。神のかたちとしての人は、肉体と霊の統一体です。それは物質世界を支配される霊なる神の臨在の反映です。人は人である限り神のかたちです。この人に被造物を支配させようと神様は言われるのです。

神のかたちに男と女に創造されたのは内容機能の違いです。神性にはマルチン ブーバーの述べる「われ」と「なんじ」に区別される立場が内在している。人の男・女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」と「なんじ」に相当し、神のかたちとは人間の相互関係です。永遠の「なんじ」神をなんじと呼びかける男・女は対等の立場として、神の前に立ちお互いは向かい合う関係です。

28節生めよ、ふえよは男と女に造られた第二の目的です。人間が地上に増える事は祝福の結果です。地は神様が人間の為に最善に備えられたものです。多くの人が創造の秩序のなかで幸せに共存する祝福を見ますが、それは神との関係を前提とした相互関係の祝福です。現代社会の人口過剰は、罪がもたらした共存不能の限界です。地に満ちよは、地を治めよと関連する。人間に与えられている自然環境は、神のかたちとしての存在を「かなめ」として調和されるべきものですし、治めよのご命令は被造物の一つ一つが、本来の創造の目的を果たしうるように努める事です。人が被造物をご命令通り治めるとすべての関係が最善となります。

人間が創造され、生み、増える事が神様の御心であるとすると、キリストの恵みと神の愛に応答する者たちがさらに全世界、全地、あらゆる民族が国境を超えて造られ、増えて行く事が、神の祝福への業であり、神のご意志です。それは特定の宗教・思想信条を絶対化したり、宗教支配を意味しない。共に交わり、関わりながら神の恵みを共に経験するのです。

私達は神の人類創造時のみことばに従い、主に委託された業,務め、使命を、身近な生活、仕事、研究の中で展開しなければならないのです。

【風と火】使徒行伝2章1節〜13節 聖霊降臨祭

風は旧約聖書では、神の霊を表します。また炎は燃える芝の出来事。また洗礼者ヨハネがやがて聖霊と火によるバプテスマを授ける方が来られると預言したように主なる神様のご臨在を表すしるしです。象徴は宗教における特徴的表現です。聖書も象徴的表現に富んでいます。
イスカリオテのユダが主を裏切って脱落したので、マッテヤ(神の賜物の意)を使徒に加え、12使徒を中心とした人的構成は完成した。彼らが主イエス様の復活の証人であり続けるには人間の意志や願望で出来る事ではない。主の御霊が彼らに望み、彼らが見届けた復活の主の真実性を、いつでも、どこでも生き生きと臨在の主と共に生きるものとなる事によってのみ可能です。五旬節ペンテコステは過ぎ越しの祭りから五十日の祭りの意。大麦の収穫の初穂を奉げる過ぎ越しの祭りと、借庵と共に三大祭りです。五旬節は後にシナイ山で律法が与えられた記念日となった。
この日に一同は一つ所に集まっていた。ユダヤ人と共に喜ぶ意味もあったようですが、一章4・5節主の命令によって15節120人余の弟子達が集まっていたのです。その時聖霊が彼達に臨んだ。この風の響きと炎のような舌がどのような光景を展開したか再現は難しいが、この出来事は神様が彼らに対する約束の成就としてお与えになった奇跡です。人間の視覚にも聴覚にも、現実に響き渡り目にする確実な事でした。今、確かに聖霊は弟子達に臨んだ。そして主の復活の証人としての使命に燃えて活動を始めた。
弟子の群れは聖霊の力により、主キリストを証しする者となり、他国の言葉で話し始めた。異言は聖霊の賜物です。彼らの話し出した言葉はそこに居合わせた人々に、キリストを証しする言葉として理解された事に注意して下さい。聖霊の満たしによる異言において留意すべきは、周りの人々に理解し難い言葉を発しているかどうかよりも、キリストを告白しているか否かです。ヨハネ第一4章一「すべての霊を信じることをしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、試しなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」
2章15節以下が多くの国の異言で弟子達によって語られ、それで37節心刺され「兄弟達よ、私達はどうしたら良いでしょうか」との問に、ペテロは「悔い改めなさい。そして、あなたがた一人一人が罪のゆるしを得る為に、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」そして主を救い主キリストと告白した3千人が仲間に加わりキリストの教会が誕生した。
聖霊は風のように私達に臨み、生命のうちに、あらゆる善にして麗しいものが、成長する雰囲気を創造して下さる。かっては芽生えなかった恩寵の恵みは、美しい容姿を現し、荒野は喜びてサフランの花のように咲き輝くのです。
聖霊は火のように我らに臨む。火は私達の醜い罪を全く焼き聖める。火は水が不可能な場合でも聖める力を発揮する。この方は火によってバプテスマをお授けになる。主は私達のうちに聖い熱誠真剣な愛を創造して、邪悪な侵入者を焼き尽くされ、すべての善なる美しいものを育み育てられる。私達のような小さな者の上に聖い愛の炎、御霊を燃やし続けられるのです。聖霊を待ち望み心を一つにして祈りましょう。

【神と燃えさし】ゼカリヤ3章1節〜10節ルカ

BC587年7月 バビロン軍の包囲攻撃に対して籠城していたエルサレムは落城し、神殿は焼かれ上層階級はバビロンに捕囚として移され、南王国ユダは滅びた。残された民は細々と礼拝を続けていたが、イスラエルの将来 宗教面でも捕囚の民の肩にかかっていた。BC539年ペルシャのクロス王がバビロンを滅ぼし、翌年ユダヤ人に帰国を許し、神殿の再建を許可その費用も補助する命令を出した。この勅令に応えてクロスから総督任命されたダビデ王家のシェシュバツァルに率いられて約5万人が喜びと感謝をもって出発した。しかしバビロンでの生活が安定していたので、帰還したのは神殿再建に喜びを持って献身した人々と、それに混じって生活がうまくいっていないからこの機会にという人達もいた。このような者は計画が順調に進まぬ時不平をくすぶらせる火種となった。

再建工事に妨害が入り、クロスの意向も無視され、帰還民も貧しく生活に追われ18年間再建工事は中断した。ハガイ続いてゼカリヤが預言活動を開始、特にハガイは主が新しい時代を到来させようとしておられるから、神殿工事を速やかに完成させよと民を励ました。奮い立ったゼルバベルとヨシュアに指導されて515年3月神殿を完成させた。これ以後王家の子孫は政治の表から消え去り、大祭司が政治的指導おも兼ねる時代へと移る。
そのような状況でゼカリヤの預言がなされた。ハガイと両者は強力関係にあった。ハガイは神殿再建の一点に絞って語った。ゼカリヤは先輩のいい足りなかった事、触れなかった事を預言した。

ハガイより2ヶ月後、彼はハガイよりも長期にわたる預言活動を始めた。彼の第一声は私に帰れという悔い改めの神の勧告でした。彼は預言者的洞察で問題を掘り下げ、神殿建設遅滞の底にある捕囚前の罪と根が繋がっている事を見抜き、この故に工事に携わっている民に悔い改めよと命じるのです。
6章まで彼が見た8つの幻が述べられる。テキストは第四の幻で主の前での会議の情景です。中心点はヨシュアが神の前で大祭司としての職務回復です。

ここでは彼自身というよりもエルサレム共同体の代表とも言える。3章の天上の会議はヨシュアを被告とする法廷です。訴えられている理由は汚れた服を着ている事です。サタンの告訴は神の前に立つ大祭司が汚れた服を着ている理論的には正しい告訴です。しかし神の御心に反しているとサタンは叱責される。理由の第一は神がエルサレムに住む住民を熱愛をもって選んだから第二は火から取り出した燃えさしという事、バビロン捕囚の経験を指し、焼け焦げと灰で汚れているのは無理からぬ事と弁護しつづけられる。弁護の余地のない者たちを弁護しうる根拠は、神様の側による贖いの事実を離れてはありえない。ヨシュアはみずから弁護する材料は何もない。

4節主が前に立つ者たちに彼の汚れた服を脱がせ、聖い礼服を着させた。この主の聖めの業においてヨシュアのなすべきことは主のなさる事を受けるだけです。祭司の式服に続き聖い帽子をかぶらせられたヨシュアは主に受け入れられ、主の前に立ちその職務を果たすにふさわしい者とされた。エルサレムを選ばれた主がご自分の民を火の中から取り出した燃えさしと見て、民への批判攻撃を退け、これに聖めの恵みを与えられたのです。ゼカリヤは民の指導者を批判していたが主の業を見て自分から進んで聖い帽子をかぶらせた。人間の正義感と燃えさしを大事にされる神様の恵みとの対象を見ます。

【我らの心の内に燃えしならずや】ルカ24章13節〜32節

同じ伝承がマルコは短く2節違う形で述べている。ルカの文学的手腕は、この出来事をスリルとサスペンスに富んだ物語として展開している。見知らぬ道ずれとの長い会話、2人の弟子達の聖書解釈は、見知らぬ旅人に次々と覆された。そしてついにパン裂きにおいて旅人の正体がわかるが、その途端に彼の姿が見えなくなったと言うように進められる。

朝早くマグダラのマリヤ達3人によって、キリストの復活が告げられた日曜の午後の事です。エルサレムの西十キロ余り離れたエマオ村に帰宅すべく2人の旅人がいた。この2人は熱心に何事か語り合い論じあっていた。そこに復活の主御自身が加わって旅を続けられた。キリスト者はこの世を旅する存在だと信じ、孤独でさまよっているのではなく、キリストと共に同行2人神の国に向かっての巡礼だと確信しています。マルコはこの2人に近づかれた主は違った姿であったので気がつかなかったと述べている。彼達は自分達の関心事に夢中になっていて、共に歩まれる復活のキリストを見る事が出来なかった。

私達もしばしば復活の主を見失ってしまいます。日常生活の中に埋没し、忙しくして心を滅ぼしてしまいます。この2人の旅人は13節〜18節と論じ合っていた為、目が遮られて 主をみる事ができなかった。彼らは主イエス様の十字架の死に失望落胆し 主の復活が信じられない 自分達の期待が裏切られたと、興奮して論じ合っていた為に共に歩まれる主が見えなかったのです。福音は十字架による贖罪と 救われた者に永遠の命を与えるご使命の為の復活ですが、今も昔もその事を信じる事に疑惑を持ち躊躇します。しかしこの2人の真理を知りたいと熱心に求めるその気持が 導きにより不思議なキリスト体験をしたのです。32節の体験です。

メソジスト運動の開祖ジョン ウエスレーが 1737年5月モラヴィア兄弟派の集会で、ルターの序文が読まれ、それを聞いている時、キリストによって義とされ、聖霊によって聖められる第二の回心を経験した。その日の日記に水曜日の祈祷会で9時15分前 心の内に燃えるものを感じたと述べ、聖霊による聖めの教理を確立した。

2人の旅人が人間の議論を止めて、キリストの語られるみ言葉に耳を傾け聴きいる事を通して、キリスト体験をした。第二に、主がパンを裂かれた。聖餐に預かったことが生けるキリストを体験する恵みの道でした。信仰を持って聖餐に預かる者は聖霊の助けにより、キリストと一体にされそこで霊目が開かれる飛躍を経験するのです。あの2人の弟子が、日常の夕食でパンを裂く時主を認めたように 私達の食卓と,愛餐に主がおられるのです。第三にエマオ途上の弟子達は熱心に議論しても復活は解りませんでしたが、キリストのみことばを聴いていた時、パンを受けた時、始めて主の復活を体験する事ができました。

私達も29節強いて引き止めたあの熱心さで求めましょう。主よ常に 共に宿って下さい。共にしもべ しもめと共にいて下さいと願いつつ、旅を続けましょう。

【中途半端な信仰】イザヤ53章1節〜12節

今の世の中はまじめに生きて行こうとすれば、イライラが高じてすべてに目を閉じていたくなります。多くの指導者達は将来の祖国の事、国民の幸せはそっちのけで自分の縄張り争いに血道を上げている体たらくです。 主イエス様がこの地上で生活なさった頃も、保守的・便宜的に行動する上層の人々は現在と変わる事なく自分達の権力を維持する為、汲々としていた。その人達にとってイエス キリストはいらだたしい存在でした。なぜなら、人間の作りだした正義と伝統を主は真っ向から否定し、神の義と神の国を求め、神のみ言葉によって生きる事を要求しそこにこそ真実に生きる道と、救いがあるとしたからです。その意味では今日でもイエス キリストは多くの人にとっても、いらだたしい存在です。また中途半端な教会生活をする者には、時代を認識しない要求をする者として、自分の生活を否定される感じでこれまた実にうっとうしい存在です。

なぜならば、多くの人にとってキリストの福音をまともに聞いて従う事は、不可能だからです。私達は福音を前にして、主と語ったあの豊かな金持ちの青年が、実行不可能だと首を振りつつキリストのもとを悲しみながら去った人のようなキリスト者も、残念ながらおります。その人達はキリストの福音を中途半端に受け取り、中途半端な主に対する服従の体裁をとるより他信仰の道がなかったのです。

神様の提供された十字架の救いは無条件で奪い取ってはいるが、その神様の恵みに応答としての服従は、中途の適当なところで止めておかなければならない。そうしなければ苦心惨澹汗水流して営々と築き上げた現在の快適な生活をエンジョイ持続できない。しかしキリストは全面的な服従を求めて止まない。自分の十字架を負うまで、隣人の救いの為に自己の命まで捨てる愛を求め続ける。この信仰に近付こうとすると、快適な生活を保とうとする思いとが心の中で合い戦ってそこに苛立ちを覚え、相互いに裁き合い、それが偽善となり、信仰の敗北をもたらせます。

このようなところからキリストのからだなる教会を裁き攻撃する。ついにはキリストまで裁き攻撃するに至るのです。教会の中においても、そのようにしてイエス キリストは信仰者自身からも取り去られてしまう。人間の神への背きの罪は、このようにキリストの前にあらわにされる。現代に至るまでこの罪はキリストを苦しめてきたものです。イエス様は我が罪の為に神に打たれ、その命を絶たれた。8・9・10節。思いもしなかった事ですが、主イエスの精神的・肉体的苦痛は、確かに私達の贖いの業であった事を知り、信じ、救われ、感謝のうちに、応答としての主のみことばに対して服従したいものです。

【神のみを神とせよ】マルコ12章13節〜17節

*1950年代は青年達の間にマルクス主義が大流行でした。教会の青年達は観念主義などと攻撃されていました。マルクスは社会の構造の可笑しさ間違いをずばりと指摘している事は全くその通りですが、それを解決する革命を正しいと錯覚した事がもんだいでした。それを指摘すると改良主義だ、日和見主義だ、社会民主主義の堕落主義だと人民裁判のような目に会いました。

その時賀川豊彦牧師の「愛の科学」と出会い私は自分の考えは正しいと確信しました。病気の原因をハッキリさせる病理学はマルクスの指摘する階級社会の不正義さであり、臨床の唯物史観に基づく革命理論まで正とはしないのです。日本人の多数は無神論、物質中心主義者ですので、正義感の強い青年がマルクスに引かれるのは当然な事です。これらの問題について聖書は何と語るか学びます。

この個所はカイザルに納める税金をめぐって語られています。14節ヘロデ党やパリサイ人達もイエス様が真実公平で、真理に基づき旧約聖書を通して人間が守るべき神の道を教えなさるお方であると認めている。この税金とは人頭税です。人頭税とは広辞苑によると「原始的租税形態の一つ、各個人に対してすべて同額を課する租税、人民の納税能力の差を考慮しない納税であるから、16世紀頃には殆ど廃止せられた。但し生活必需品に対する消費税は人頭税と同じ作用を持つ」この人頭税に対してユダヤ人はローマに納めることはローマに服従するしるしだと、嫌悪していた。パリサイ人は納税反対、ヘロデ党は賛成。普段仲の悪い彼達が、手を組んで、主の答えの言葉じりを捕らえようと言うわけです。

どちらの答えをなさっても、ローマに対する反逆か、もしくは大衆の失望を招かせるかの悪計です。しかし主は15節彼らの偽善を見抜かれて、税金の銀貨を見せよと言われ、この肖像は誰かとの質問をされた。銀貨の表面には皇帝ティベリウスの胸像、裏にはその母リヴィアの像が刻まれていた。彼達はカイザルのものだと応えた。貨幣の所有者はカイザルだから、納めるよりもより積極的に返すべきだとされた。主は納税の義務を果たすべき事を明らかにされる。と同時に神のものは神に返すべきであった。

これは生活の物質的・政治面は為政者に属し、精神的・信仰的と二面的な領域ではなく、たとえカイザルと言えども神の支配に服さねばならない。神様はこの地上において、人間生活に秩序をもたらす為に、人間を立て支配する制度を許された。キリスト者も支配者が取り決め[現在では憲法]を逸脱しない限り服従すべきです。ロマ13章1法律によって定められた納税等は当然なすべきです。地上における為政者は絶対的存在ではなく、神あるいは憲法によって限定された枠の中での支配が委託されています。それゆえカイザルが不当な権限を行使し、神に反する場合、人に従うより、神に従うべきです使徒五29節。個々の具体的問題について、カイザルにどこまで従うか、各自の信仰の判断によります。

主は山上の説教でマタイ六33 まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば、これらのもの[この世の物質など]は、すべて添えて与えられるであろうと言われます。 私達の父なる神様は日常生活を大切にされるお方です。私達はどれだけの物質を日常生活に必要だと思っているのでしょう。それに対して神様はどのくらい必要だと用意なさっておられるのでしょうか、あなたがたの日常の必要は知っているし、準備していると神様は言われる。もっとあればと言う私に、主は十分だと言われる。 私達はまず神の国と神の義とを求め、人に従うより神に従うべきべきであるとのキリスト者の大原則のもと、この地上の歩みを続けたいものです。その上でこの世の経済・政治に無関心であってはなりません。

【あなたの為に祈った主キリスト】ルカ22章24節〜34節

シモン ペテロは十二使徒の中で最年長者、唯一の家庭持ちで、彼達の代表者でした。主はそのペテロとヨハネに、過ぎ越しの食事準備を命じられた。彼達はご指示の通りにエルサレムの二階の間にその準備をした。その最後の晩餐の席で 主はぶどう酒を分け与えパンを裂いて、流される血と裂かれる主の肉体を忘れない様にと聖餐を定められた。主はやがておこるイスカリオテのユダの裏切り、ペテロが三度主を否む事など心を痛めておられる事など気もつかず。自分達の関心事たる誰れが一番偉いだろうかとの議論に熱心であった。

主はそれに対して仕える者になる事が良い指導者になれる事を告げられた直後31節と語りかけられた「シモン シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかける事を願って許された。しかし、私はあなたの信仰がなくならない様に、あなたの為に祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟達を力づけてやりなさい」ペテロは即座に「主よ、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と自分の真実な気持を吐露している。

主はユダを賓客をもてなす主人のようにパンをぶどう酒に浸して与え他の弟子達に悟られぬ様に、悪の計画をやめよと彼にのみ通じる言葉でなすべき事を成しなさいと優しくたしなめておられる。聞いた弟子達は会計係のユダに施しを命じられたと思ったほどです。35節以下、平和主義者のイエス様が、上着を売って剣を買いなさいとは、やがて金持ちも貧乏人も、剣が絶対的に必要な時が来るので心備えをとの警告でしたが、具体的な剣を活用しようと、ここに二振りありますとトンチンカンな答えをしている。主は過ぎ越しの子羊を屠るナイフ十分だと、比喩的警告を読み取れない弟子達に悲しみあきれて言われたほど、ユダも弟子達も愛のお心が理解できなかったのです。 ペテロには数時間後にサタンの企みに落ちて、心ならずも主を拒否して、絶望に陥るであろう彼の為に、信仰がなくならない様に取り成しの祈りをなされた主のお言葉と祈りが殉教に至るまで主にしたがったペテロを立ち上がらせたのです。

そして、主の命令通り、立ち直った時、信仰の破船に落ちいらんとする兄弟姉妹方を力づけてのです。時には息苦しいと感じる信仰生活を乗り切り、自分の思い通りにならない苛立ちも、取り成しの祈りで解決そして主の恵みに預かるのです。 危険を冒して大祭司の裁きの庭に忍び込んだペテロ、主の仲間だと断定される事を三度拒否した彼を、主は振り返って暖かい愛の眼差しを注がれました。外に出てペテロが激しく泣いたのは、赦しと愛の眼差しでした。

主の咎め叱責ではありません。躓き、倒れ、心もずたずたにくだかれたペテロが立ち直り、ただの漁師のおじさんが信仰の最大の証し人となり、二千年間の教会の歴史で右に出るものがないほどの祝福に預かったのも、主の愛であり、32の取り成しの祈りです。 ペテロの弱さを負い、彼の罪をみずからの罪として、十字架にくずけられたキリストの愛が彼の再起の秘訣です。ヘブル書が語る、はばかる事なく、神の恵みの座にあなたも私も近づき、哀れみ不快大祭司イエス様の取り成しのすがり頼って、祝福と恵みをいただきましょう。

【永遠に生きるキリスト】ヨハネ黙示録一章九節〜十八節

聖書は六十六巻の膨大な書物です。羊皮紙に書れたものですが、グ−テンベルクが活版印刷術を発明する事によって、マルチン ルタ−によるドイツ語聖書が一冊にまとめられ出版され、民衆が聖書を手にする事が出来た。それ以来多くの人に影響を与えてきた。初めから終わりまで 読み通す事は困難なほど膨大かつ多くの理解の困難さを抱えています。しかし聖霊に導かれて注意深く読みますと、イエス様が甦ったという短純さに、歴史・預言・教訓などの説明が一冊の本に纏められたと言っても過言ではありません。キリスト教の中心も主の復活です。

ルカ24章によると、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ達が、香料を携えて墓に出かけた。心配していた墓のふたの石が転がしてあったので中に入ってみると、主の体が見当たらなかった。途方にくれていると二人の者が、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか、その方は甦られたのだ。彼女たちは急ぎ帰り十一弟子達に伝えた。ところが使徒達はそれが愚かな事と信じなかった。私達の躓きもまずここにある。真理を求め、理性的に批判的に聖書を読み、聖霊の導きを受けずして、信仰の破船に会う人がいるのは残念です。

マリヤ達の知らせを聞いたペテロは墓に走って行き、亜麻布だけがそこにあって主がそこにいまし給まわない事を知った彼は幸いでした。そこに布のみをみることこそ大事です。生ける主を見出す為にまず墓に行った。彼は死にし者の中にいける者を探すような愚かなものではなかったのです。 黙示録1章17〜19節彼は死んだ事はあるが世々限りなく生きている。死に勝利を得て、復活しいつまでも生きておられるのです。当時キリスト者を迫害する者は肉体しか殺し得なかったが、主は死と黄泉{よみ}に権威を持たれ霊をも滅ぼす事が出来るお方である事を知ったヨハネを始め、迫害苦難にあっている人々には大きな慰めでした。私達は本来的に滅びる命です。

どのようにしても、自分で自分を救うことはできない。しかし、今も後の世も共にいて下さるとの約束のお言葉で満足です。復活の主は、ガリラヤ湖畔で弟子達と共に食事をされました。そして永遠の命を保証されたのですから、その恵みの前にただひれ伏し、トマスと共にああ主よ我が神よと主を拝するする光栄にあずかる事は幸いの極みです。

【すべてを赦す主イエス】 イザヤ53章1節〜12節

主イエス様のご降誕受肉は十字架上に 贖罪の死をとげられる為でした。主がどのように人類の贖いとなられるかを預言したのがイザヤのこの章です。預言のように主は神の子としての栄光と歓喜とを捨てて、ナザレの貧しい大工の子としてお生まれになりました。謙遜と柔和、恵みと真実に満ちて 常にまずしいもの、虐げられた者と共にいまし、これらの最も小さい者を愛しぬいていかれました。こうして悲しむ者は慰めを、悩む者は希望を、心弱った者は力があたえ与えられました。自らは僕の道を歩まれながら主は栄光を愛の奉仕の中に、歓喜は献身の生活を通して実践なさいました。
 7〜9節は主の僕が示す死に至るまでの従順と、それに対する人々の誤解と侮辱について述べられ、10〜12節では、神様の側から見た主の僕のご生涯と死とその働きが述べられる。主が十字架上で砕かれ身代わりの代価を払う事は、神のみ旨です。主御自身がとがの供え物とされる時、主は復活して救われたご自分の民を見られる。主の僕はご自分の命を罪過の為に生け贄としてささげ、苦しみ死ぬ事によって、イスラエルを新しく生まれ変わらせるだけではなく、ご自分も生まれ変わられてそれを見られる。神の御心は主の僕を砕く事と、永遠に生かす事の両方にかかっている。主は罪を告白し救いを求める者の為には血を流されるが、罪意識のない者にその業はありません。神に打ち明けられない罪は赦されない罪です。

主は主の祈りにおいて、われらに罪を侵す者をわれらが赦すごとく赦したまえと祈るように教えられているにもかかわらず。私達には私に対する悪意を赦すと言う事が重くのしかかっています。 あれほどの迷惑をかけられたのに、あれほどの侮辱を受け、あれほどの痛み苦しみを与えられたのに、どうして被害者である私が、加害者であるあの人達を赦さねばならないのか、この自問自答の暗闇が私の心の奥底に存在する事は否定できません。そしてこの暗闇を隠し通し、喜びと希望が離れ去り、暗闇の中に沈み込む自分をみるのです。

このような私の心の暗闇にキリストの十字架が浮び上がってくる。まことの人であるが故に苦しまれたキリスト、その無残に引き裂かれた体と命。憎しみの対象に向かっていたのですが、実はキリストに向かっているのです。私の放った憎しみの矢は、何とキリストを射抜いていた。私はキリストの十字架により、憎しみの罪、赦さない罪の報いが死である事を、知りました。そしてその時主の死は取り成しの死である事を確信しました。誰にも打ち明けられなかった、神にも告白できなかった私の罪を、あなたの罪を十字架上のキリストの前に申しあげる時、主は許しを与えて下さいます。私達の心の奥底にある罪・原罪は神様から離れている私達の現在です。

【痛みと病を負われた主】イザヤ53章1節〜12節

私達の罪の為に苦しみ死なれる主イエス様についての預言です。誰がという疑問調で始まるが、疑問と言うより強い感動を表します。主のみ腕、主の力は頑なでうなじの硬い自己中心の民に現れた。神を頑なに拒む者達が一転した。誰が信じられそのみ腕が誰に伸べられたのかと感動の中に述べられる。主イエスは神の前に若木のように生きぬかれたが、人の前には砂漠の地から出る無価値な根のように見えた。神の前に生きる神の子でありながら、見たところは普通の人と全く変わりない姿であった。

預言の成就した福音書によると、祭司長、民の長老達から送られた大勢の群集は,剣と棒を持ちイスカリオテのユダについて イエス様を捕らえようとやって来た。この人達は 5日前、イエス様のエルサレム入場の時、ダビデの子にホサナ、主の御名によって来る者に、祝福あれ。いと高きところにホサナと歓呼の声で、自分達の上着を道に敷き、棕櫚の枝葉迎えた民です。

ロマの支配から解放する王だとの思い込みが外れた時、扇動者に煽られて来たのです。人々は主の顔に唾し、こぶしで打ち、いばらの冠をあんで主にかぶらせ、十字架に釘ずけ、嘲り、槍で脇腹を突き刺した。彼は 軽蔑され、見捨てられ必要ない者として人の目から遠ざけられ、肉体的病に伴う苦痛、悩み、悲しみを、この僕{しもべ}自らも身に負うておられる。人が顔を覆いたくなるような醜い者、苦難の僕は人の目には耐えられない様な姿になられ、2節後半、十字架を負って悲しみの道をゴルゴダへと疲れきってヨタヨタと歩まれる主を見る。

その彼を我々も貴ばず、無視した。その存在価値を認めなかった。私達は私の罪の裁きを代わって負い苦しんで下さったお方を認めない。彼が担ったのは私達の病、私達の痛みであったのに、私達は思った。神の手にかかり、うたれたから、苦しんでいるのだと。しかし苦難の僕は私達の身代わりとして苦しまれたのです。主の僕は私達の病苦、私達の罪を負われたのです。

経済的な破綻なら金をあげなくとも貸すだけで回復します。疲労やストレスには レクレイションがあります。病気で苦しむ人には薬や、発達した医療があります。おぼれる人には飛び込まなくても浮き輪を投げれば足ります。しかし、聖書の語る愛や救いはそんなものではない。そのうたれた傷によって、我々は癒された。人間の弱さ・傷病・罪悪がキリストの十字架上の恵み、愛によって真の富・健康・救いに移される喜ばしい交換となる。確かに我々にとっては喜ばしい事に違いないのですが、単純にづうづうしく喜べないほどに、キリストはこの交換の為に、鞭打たれ、釘づけられ、いばらの冠をかぶせられ、つばきされ、槍で突き刺され、傷つけられました。

贖うとは代価を払うとか、物物交換をすることです。私達の罪の為にこれほど大きな傷と主の命が代価として支払われた事を、生活の中で覚えましょう。
十字架の痛みは我が為でした。感謝です。