日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

戦争のトラウマ

イエス様と共に歩んだ日々の生活

元住吉キリスト教会名誉牧師 深佐隆英牧師

日本ホーリネス教団の機関紙「りばいばる」 2015年9月号に掲載されました
当教会の深佐隆英名誉牧師による記事の完全版です。

深佐 隆英 牧師私は1927年(昭和2年2月)生まれです。幼稚園の時満州事変(宣戦布告をしていないので戦争ではない)がありました。1932年5月15日五・一五事件があり陸海青年将校が犬養首相を殺害した。1936年2月26日陸軍の一部青年将校らが急激な国粋的変革を目指して当時の顕官・大臣を襲撃し反乱を起こした二・二六事件がありました。1937年7月7日蘆溝橋事件を契機として日中事変が起こり、長期化するうちに1941年12月8日太平洋戦争へと発展しました。このように私の少年・青年期は軍国主義の中で過ごし、88歳になっても戦争のトラウマから解放されていません。

私達は学校卒業までは徴兵猶予でした。しかし予科本科約450名に対して配属将校は中佐、大尉、中尉、各一名、少尉2名という配置で非常に厳しい軍事訓練がなされました。彼達はお前達は将来軍の中核になるのだからと言い、当然のごとく軍隊と同じ実技と座学がなされました。

通常では徴兵年齢は12月31日時20歳でしたが、1944年9月頃だったと思いますが、徴兵年齢が18歳に引き下げられ、徴兵猶予も取り消されました。私は2月生まれなので徴兵は来年だと少し安心しました。仲間の大部分は10月に徴兵検査を受け、私たち8名を残して入隊しました。母は私と共に台湾台中にいました。その母から徴兵検査の通知が来ていると電話がありビックリしました。検査当日は「公学校」(台湾人の子弟達が通う学校)の講堂で痔の検査等を受け、徴兵官から「甲種合格」の宣告を受けました。

1945年2月初旬、予科の4年・5年生約70名が繰り上げ卒業になりましたと私達の前に来ました。ところが2月下旬全員に臨時召集令状が届き、私達が一中隊、高等農林が二中隊で大隊を編成して、当時沖縄から転進してきた命(みこと)兵団(日本陸軍第71師団)に編入され、他の師団が突貫工事で築いたトンネル陣地を補強守備する任務が与えられました。支給された武器は「三八銃」(日露戦争で使用された銃で、当時の日本軍の主兵器)と銃弾120発と手榴弾2個のみで、上官から「手りゅう弾の一つは最後まで残せ、今後一切補給はないものと思え」言われました。

私達は公学校の教室に宿営していましたが、赤土の水の全くない丘の上で真っ赤に泥だらけになって40度余の暑さの中、つるはしやシャベルを使っての作業をしていました。水は敵の戦闘機を避けて夜中に水牛が運び上げるのがすべてですから、一日の飲み水はわずか2合でした。風呂は夕方のスコールでした。その後は気持ちが悪いのですが、汗と泥まみれよりましでした。

ある日地図に戦車爆雷攻撃の蛸壺壕の位置を書き込んでいるとき突然谷から二つ胴のP38戦闘機が機銃掃射をしながら超低空で飛んできました。私の周りは機関砲の弾でものすごい砂埃が舞い上がりました。私は機銃の死角にいたので助かりました。後続の戦闘機にやられる前にと近くの壕に飛び込んで難を避けました。

まだ多くの大変なことがありましたが、敗戦を迎えました。9月頃の台湾新聞、表面は華文、裏面が日本文でした。そこに内閣の声明として戦争に対する国民の総懺悔と共に敗戦の談話がありました。華文の方は「敗戦」、となっていましたが、日本文の方は「終戦」となっており当時、悔しさを抑えながら銃の菊の紋章を鑢で削った私には解せないことでした。ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたはずが、戦争に負けたことを言葉のあやでぼかしていることが気になりました。同じ文章に「彼等は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国国に向って剣を上げず。もはや戦うことを学ばない」イザヤ書2章4節の言葉を見て嬉しく思いました。戦争をしない国になるとの宣言です。ようやく一億玉砕の命令が解除されました。私達が70年間守ってきた平和な姿がそこに見られます。

今年はマグナカルタ(大憲章)が明文化されて800年になります。貴族やロンドン市民が団結して、国王の権力を制限し、専制から個人の権利を守る根拠となりました。それが各国の憲法となり律法主義の民主義国家が次々と成立しました。現在世界の中で日本の現憲法は理想に一番近づいています。強いもの(権力を持つ政府)がら弱者(国民)を守る義務が政府に負わせるものであること、政府には国民の自由・人権などを守る義務があることなど忘れては成りません。解釈改憲等させてはなりません。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。イザヤ9章4節。戦うことを私たちの愛する日本国はやめたのです。この決意を忘れないことが、私達が経験した戦争を若い人達に味わせない事だと信じます。