日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

2003年のメッセージ

【クリスマス後のまつり】マタイ2章1節〜12節

日本のプロテスタント教会では教会暦は弱視されています。待降節(アドベント)は教会暦の第一日です。11月30日に一番近い主日から始まります。クリスマスの4回前の日曜日です。降誕節クリスマスを迎える為の準備の季節です。米国では収穫感謝祭(11月第4木曜日)の翌日から本格的に始まります。

イエス様がお生まれになった年月日は聖書には記されていませんが、修道僧ディオニシウス・エクシグゥスが6世紀にAD元年を提唱して用いられた。主の誕生日として12月25日に公認されたのはAD354年です。その日はその年の夜が一番長い冬至の日です。暗黒の世に光として主がおいでになった相応しい日だとしたのです。それまでは4・8月にも祝われた事があったとの事です。ギリシャ正教(東方教会)では1月6日が主の誕生日としていましたが、西方教会(ローマ教会)協議して現行の日をクリスマス、6日を三人の博士が来訪した顕現日とした。12月25日はローマで太陽の誕生日として冬至祭を祝っていたが、キリスト者がキリストこそわれらの太陽だと冬至の祭りを乗っ取ってしまった。それゆえかクリスマスに関係のない風習があります。

クリスマス・ツリーはドイツでは、悪魔払いの為に力あるとされた樅の木に飾り付けをし、赤ん坊を犠牲として捧げていたのをすでにイエス様が捧げられているのでと、宣教師が止めたので綺麗に飾り付けをしたことに起源があるとされた。クリスマス・ケーキは日本独特のもの、米国ではバウンド・ケーキ、仏はブッシュ・ド・ノエル、英国はクリスマス・ブディングなどです。

クリスマスには音楽はなくてならないものです。羊飼いに天使が主のご降誕を告げたときにたえなる天使の合唱の中でなされました。それは讃美歌・聖歌・クリスマスキャロル・オラトリオなどとなります。キャロルとはギリシャ語で歌ったり踊ったりするものです。民衆に歌い続けられてきたキャロルには「いざ歌え、いざ祝え」「荒野の果てに」など。クリスマス歌曲「聖しこの夜」「サンタが街にやってきた」など、「赤鼻のとなかい」「ジングルベル」はクリスマスに関係なし、「もみの木」は失恋の歌でした。クリスマスは独国ではワイナハット。仏国ではノエルです。又多くのオラトリオ(宗教音楽)があります。クリスマスは音楽の季節でもあります。

それではクリスマスとはどんな日でしょうか、私達の救い主・キリスト・メシヤとしてベツレヘムの寒村に幼子が来てくださった事を覚え、このキリストを心の中にお迎えする日です。私達がこのイエス様をキリスト(救い主)と信じ、お迎えする決心をしてなら12月25日でなくとも、いつでもクリスマスです。私達はそれをまとめて教会でクリスマス(キリスト礼拝)をするのです。あなたのクリスマスは何月何日ですか。

日本人は祭り好きといわれますが、祭儀(前の祭り)はともかくとして、風俗的行事、宴会等(後の祭り)のほうが楽しみにする人が多い、終われば生活を切り替えて普通のそれぞれの持ち場に立ち返ります。キリスト教の祭りには前後に準備と整理の数週間の期間があります。待降節は4週間クリスマスの準備、その後降誕節として約10週間、それから受難節が6週間次にイースターをはさんで7週間の復活節があります。ついでペンテコステ聖霊降臨祭、聖霊が私達に臨み、進むべき道を示され、それを実践する20週間が、アドベントにつながります。

日本では祭りが終わると通常の生活に戻りますが、キリスト者にとってはお祭りが出発点です。それは完成を目指すのです。それ故に準備を入念になして、祭りの後はその仕上げの為に時間をかけて力を尽くして完成を目指すのです。特に降誕節私達を神の宮となさってくださる約束を信じて毎日を送りたいものです。コリント第一6章19節・20節。

あなたのクリスマスは何日ですか、イエス様をキリストとして受け入れた日はいつですか、そしてその事を毎日の生活の中に自覚している日々ですか。

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【インマヌエル神共にいます】マタイ1章18節〜25節

日本と米国のクリスマスにはサンタクロースとツリーは欠くことのできないことになっています。赤い洋服、赤い帽子、白ひげの赤ら顔の老人が、トナカイに引かれた橇に乗って空を駆け煙突から入ってきて、子供達のベットの柱にかけられた靴下にプレゼントを入れて行く。これは19世紀の漫画家が描いた絵から来たイメージで、今は世界中に広がりましたが、ヨーロッパではXマストサンタクロースとは直接繋2?がりません。プレゼントを持ってくるのは24日にクリスト・キント幼子キリストです。サンタの日は12月6日セント・ニコラスの日です。ロバに引かれ小さな荷車にプレゼントを満載してくるのです。もみの小枝を編んで作った輪の4本のろうそくを立てたXマス・クランツが用いられ待降節の日曜日毎に、1本づつ灯し4本目がXマスです。ろうそくを点すごとに神の御子が人としてこの世においでになり、十字架によって万人を救われたこと、再びおいでになる事を覚え心ぞなえをするのです。そして待降節が終わり、喜びと感謝の降誕祭となるのです。

ピリピ2章6節〜13節これがキリスト礼拝(Xマス)の意味ですので、形式とは無関係の日です。この世では人が神となるのは優れた人であれば当然の事です。血統によっても神にもなります。天皇の即位式は現人神になる儀式でもあります。歴史上人が神になったという事は枚挙にことかきませんが、神が人となられたのはイエス様以外は皆無です。

Xマスは、天にいます全知全能の神が私達罪人を救い、新しい命を与えるために罪と穢れに満ちた地にまで完全な人となって降ってくださった。単に助けの手を伸べられたとか、同情を持って眺めているのではありません。ヨハネは言葉が肉体となって私達のうちに宿ったと述べます。これは仮に現れたのでも、ちょっと立ち寄ったものではなく、完全な人となり罪のほか人間存在のすべてを味わい経験された事です。

主イエス様がインマヌエル神ともにいますとは、仲のよい男女が楽しくいるような事ではなく別々のもの、一体となりえないものが、まったく同一となってしまったということなのです。それだからといってインマヌエルとは苦痛を訴える病人のそばで、おろおろしながら見守る家族が共にいるということでもありません。神が人間の手も届かない天のはるかかなたにただ神として君臨し、冷然と支配し、裁き、又恵みを与えるというのではなく、一人の人間として、ナザレのイエスとなって、私達の一切の苦労や悲しみ生きる悩みをそのまま経験し、背負ってくださるということです。ヘブル2章17・4章15には、イエスはあらゆる点において兄弟達と同じようになって、罪は犯されなかったが、すべての事について、私達と同じように試練にあわれたと述べられています。

神が共にいますことは、2千年前のベツレヘムの馬小屋でのXマスでただ一度だけ起こったのではありません。神の愛はあの日あのときだけ起こって、現在の社会の混乱の中で、又将来に不安を抱えて生活する私達と無関係な出来事であったとするなら、神共にいますは選挙公約のような絵空事になります。

インマヌエルとは私達が礼拝する時だけではなく、働く時、学ぶ時、遊ぶ時もいかなる時にも、いつも今、ここに、神が共にいてくださることです。このために主は人となられました。それゆえ私達はキリスト礼拝Xマスを守るのです。おのが幸を祝わざるやと讃美するのです。

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【時を定められる神】ヨハネ7章1節〜9節

伝道の書3章1節〜11節。・・・・・に時ありとくどいように29回も述べられています。続けて「神のなされる事は皆その時にかなって美しい、神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされる業を初めから終わりまで見きわめる事はできない」歴史は時の流れに従って刻まれていきます。また人間の一生は歴史の時の支配の下にあります。歴史は人の栄華盛衰を語ります。とき着たらばいかなる人も世を去らねばなりません。信仰生活も同じように神の定められた時の支配のもとにあります。神が定められた恵みの時、救いの日(コリント後書)があります。私達が熱心に祈り求めても、神様がなかなか応えて下さらないことがあります。忍耐して信じて待つとき、神の定められたその時、祈りに対する神様の応答を受ける事が出来ます。そこに信従があります。

宇宙また地球の自然などを見るとそこにはひとつの秩序法則があります。この秩序を定め司る存在として神のような存在を認めざるを得ないという合理主義者がいる理由でもあります。信仰の世界でもこの秩序法則を定められています。信仰者は神の定められた時を見定めて祈りつつ忍耐を持ってその時を待ち望む事が大切です。

ヨハネは主とその兄弟達との会話を述べています。多くの弟子達が主の言葉に躓いて去って行きました。そのとき弟達が主に近づいて3・4節と言った。まだ主を信じていない弟達は、ユダヤの田舎での活動を止め、都で働いて人に認められ有名人になったらどうだと言うのです。主はそれに私の時はまだ来ていない。あなた方は自由なの2?だから仮庵祭り行きなさい。私は行かない6節と答えられました。ところが10節祭りの半ばにひそかに都に上られ、宮で教え始められた。待ち望んでいた神の時が来たのです。主は神様がご自分の働きの為に時を定めておられる事を確信し、その時を見つめながら、祈りの中で待っておられたのです。それまで弟子達が勧められても主は何回も「私の時はまだ来ていない」と言われていますが、ゲッセマネでは13章1節。「時が来た。見よ、人の子は罪人の手に渡されるのだ。立て、さあ行こう」と神の時に応じて十字架に向かって立ち上がられた。

弟達は自分の意思で自由に時を使用していたが、主はただ一つの時、かけがえのない時を見つめて生活をなさっておられました。

ガラテヤ4章4節〜7節「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、お遣わしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、私達に子たる身分を授けるためであった」・・・・・・「あなた方の時はいつも備わっている」と主が言われたその時ではなく、神のなされる事は皆その時にかなって美しい、その唯一のその時を見失ってはならないのです。主のご降誕の時、宿屋の主人が主の宿泊を拒んだ二の舞をしては、後で以下に悔やんでもそれこそ後の祭りです。取り返しのつかないことにならぬように、祈りつつ、忍耐して神の時を見詰めて行きましょう。

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【あなたは何を献げますか】歴代志上17章1節〜15節

子供達はクリスマス季節に入りますと、サンタクロースや親しい人々からのプレゼントを楽しみにします。子供なら夢を見る事も許されますが、私はこの季節には特別な思いを持ちます。人間関係の中で親しい人には自分を含めて、最善を献げて、神様の為にはいと小さき次善のものしか献げない者。神様と自分との関係・信仰を知るには神に対する感謝のしるしとしての行為と、自分の贅沢な生活との比較でわかります。私は信仰を持ってから意識的に自分を満足させる贅沢が出来ませんでした。神様に申し訳がない気持ちが強かったからです。自分のためには多く支出しても至聖所である教会の為にはしみったれる者ではないかと心を痛めるのです。

ダビデは長い放浪生活を終えて都に定着し、立派な住み家を建てて安住した。彼は都の中心に神の箱をお迎えしたが、信仰深いダビデ王には気がかりというか、良心の呵責のようなものがあった。神の箱は未だに天幕の中にあるが、自分の住まいの方が立派であるという事でした。1節王は預言者ナタンに王宮はツロから輸入した高級な杉材で出来ているが、主の契約の箱は相変わらず粗末な幕屋にある。これは見過ごしの出来ない信仰的ではない現実です。それで彼は自分の住まいよりすばらしい神殿を立てようと思い立ちナタンに相談したのです。預言者は神の御心を取り次ぐ者です。彼は神に確かめる事をせず2節直ちに賛成した。神の為のよい計画は神の御心であると思ったわけです。

ところがその夜ナタンに彼らが神の為によいと考えた事とまったく反対の神の言葉が告げられたのです。3節。神はご自分を低くされ、彼達と同じ幕屋に住まわれイスラエルの民と同じようになって、その中に住まわれ、苦楽を共になされたお方です。部族長や指導者達に香栢で神の家を建てよと命じた事はないのです。天幕生活は大変です。私達も開拓時1年間の天幕教会を味わいました。厳しい暑さに音をあげ、長雨に足をとられ、寒さに震えました。しかしそこに主が共にいまして下さいました。私達は歌いつつ信仰を育てていただきました。

ダビデは私が神の家を建てようと志した。それを神様に伝えましたが、神はいや私が家を建てあげようと言われました。それは見える家ではなく、ダビデ王朝の繁栄のみではなく、彼の子孫から永遠の王の王が生まれ、永遠のみ国建設を確約なさった。ダビデは香栢で家を建てようといったが、神は人類全体祝福の計画を作られたのです。

ダビデは神の家を献げようとして素晴しい恵みにあずかりました。あなたは何を神様に献じようとなさっていますか。

最後に私の降誕節の期間のみ言葉を読みます。使徒20章35節「受けるよりは、与えるほうが、さいわいである」といわれた主イエスの言葉を記憶しているべきです。

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【あなた方は皆光の子昼の子です】1テサロニケ5章5節〜11節

クリスマスの期間は光と讃美と音楽に満ち溢れる時です。電気のない時代でもどのように貧しい家庭でも、最大限に明るく讃美に浸ったものだそうです。そのような気持ちからでしょうか、主イエス様の誕生日を決めようとしたとき聖書や歴史書にはその日が述べられていませんので、主は暗黒の世に光として人の容を取られておいでになられたのだから、一年の一番暗黒の長い日冬至こそその日に相応しいとてその年の冬至を主の誕生日としてお祝いした。その日が12月25日です。

使徒ポウロは主の再臨を語ってきまして、続けて彼はテサロニケの信徒に、あなた方は闇の中にいない、皆光の子であり、昼の子である。私達は夜の者でも闇のものでもない。・・・・・私達は皆光の者なのだから、信仰と愛との胸当てを身につけ、救いのかぶとをかぶって、慎んでいようと述べるのです。私は住まいの玄関の外灯は暗くなると自動的に点るようにしてあります。暗い夜道から我が家に近づくと光の中に草花が輝き、家に入り明かりを点すと、窓辺の緑の鉢植えが心を和ませます。暗闇から光の中に入ったときの心地よさは、心に焼き付いています。

使徒ヨハネは、すべての人を照らすまことの光と主のご誕生を指し、洗礼者ヨハネは暗黒と死の蔭に住むものを照らす光と主を描きました。また主イエス様はキリスト者に向かって「あなた方は世の光である」と言われました。がそれは私達が本来的に光ではなく、「以前は闇であったが、今は主にあって光となっている」エペソ5章8節と述べられます。

月はそれ自身では光を放つ事はありませんが、太陽の光を反射して暗い夜道を照らし、心おも明るくしてくれます。本来は罪人であり闇の子であった私達もキリストの光を反射するならば「曲がった邪悪な時代の只中にあって、・・・・・彼らの間で星のように輝いている」ピリピ2章15節。ことができて、ヨハネのようにキリストを正しく指し示し、暗黒と死の陰とに住む者を照らし導く光の子として歩めるのです。

肉体的には誰でも夜は眠りますが、ここで語るのはいかなるときにもキリストの光を反射する生活に目覚めていよと述べるのです。日本ではキリスト者は清い生活をする。日曜日には礼拝に行くと理解されています。日曜日に礼拝に行かずに遊びに共に行きますと、クリスチャンの癖に礼拝になぜ行かないか、クリスチャンなのになぜよい正しい事をしないのかと非難されたものです。現在はそのような事で詰問される事が少なくなった事は、いい加減なキリスト者の生活に偽善者を見ているのでしょう。まことに恥ずかしくかつ主に申し訳ないことです。

小さな愛の業、主日礼拝遵守のような単純な証がなされなければ、誰も聖書の話に興味は示しません。私たちキリスト者は強者の側ではなく、弱者の立場で行動すべきです。私達を通して人々は主イエス様を見ているのです。主イエス様の光を反射する生活を共に励みましょう。

【聖書の初めの言葉】創世記1章1節〜8節

歴史における神の業を語る聖書は、歴史そのものが神の業であることをいかなる人間の証言もあり得ない状況の下で、それがどのようにしてもたらせたかを説明しようとする。それもあくまでも筆者が現在を知るためであって、単に興味の対象として過去を知る為ではありません。ここは歴史の序論、神のご計画に従ってすべてのものが創造された事は、またすべてが神に依存してのみ存在しうる事を意味します。現在でも神のご意思によってどのようにもなりうる現実、歴史を示している。無から創造によって秩序が与えられた事は、又明日にでも形なき無に戻る事おも意味している。特に無よりの創造の業に強い意味を感じます。

ベレーシス初めに単なる時間的な初めではなく、すべての事象の出発点としての無からの神のみ業の出発で創造パーラーしたのです。初めは創造の行為からでした。その創造の業は現代人にとって宇宙そのものです。今見ている星の中には何億年前に発した光ですでに本体は消えているかもしれないほど、宇宙は広大で根源も限界も考え及ばないものです。

このようなとてつもないものを神は何から造られたのでしょうか、それは無からなのです。無とは何でしょう。私達人間にはあるものがないということが哲学的にもまた具体的に理解しうるに過ぎません。神は無から天地創造をなさってこの詩的な物語の最後は1章31節「神が造った全ての者を見られたところ、それは、はなはだ良かった」と述べられますが、書かれた当時の世界は甚だ良くなかった。国は滅ぼされ、残酷な征服者の国に移され甚だ良くなかったのです。それにもかかわらず天地創造の順序で見たのですそして良かったのです。イスラエルが2千年放浪しようやくイスラエル国を立てた原動力でもあります。

天地創造は、無よりの創造です。これは信じるべき事で理解すべき事ではありません。つまり人間には理解できない知性を超えているのです。何故か、無というと人にはないというときあったものがなくなった意味以外に無と言うことが考えられません。何もなかったということは、私が何かを知っていたから、無かったと言えるのです。無よりの創造という事は、人間の理解しうる事ではないと信じうるのみです。この意味の無ということは人間には考えられない事だからです。創造の神を信じる事は実に大変な事です。まず無ということを信じなければならないのです。この言葉を信じなければ聖書は理解しにくいものです。その言葉が聖書の冒頭に書かれているのです。イスラエルの優れた心を持ち頭脳明晰な人々は、常に信仰的挑戦を乗り切っているのです。ここにユダヤ人の卓越さがあります。指導者を生かしてきたのです。共産主義者、無神論者、あらゆる主義者を生み出してきたユダヤ民族は、にもかかわらず中心にこの神を信じ通してきたのです。残虐なホロコストで何百万と殺されてもその現実に触れても「神の造られたものはすべて良いのです」これが信仰です。現実の出来事に右往左往しないで、見えるところによらずして、見えざるところを信じて立つ。これは旧約聖書以来続いてきた信仰の生き方です。この絶対的信仰は合理的に科学的に考える唯物教育を受けた現代人には、初めに、神は天と地を創造されたとは絵空事でしょうが、キリスト教信仰の基盤である事を心に銘記してください。

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【木はその実で判る】マタイ12章30〜37

人の言葉とその行いは、その人の心と霊性を表すものです。それは丁度木と身との関係のようなものです。人々が悪霊に憑かれて(当時はそのよう信じられていた)目が見えず口のきけない人を連れてきたので主イエス様は彼を癒し、物を言い、又目が見えるようにされた。群集は皆驚いた。これを聞いたパリサイ人は、その奇跡はベルゼベル(悪魔のかしらサタン)によるのだと言うのです。それに対して聖霊の業である奇跡を否定する事は許されざる事であると主は言明されるのです。

このイエス様の奇跡に対する二種類の反応を見ます。第一はこのようなすばらしい業をなさるとは、メシヤ(救い主)ではないかと驚きいぶかって、とてもそうとは思えないが、そうではないかと思う群集と、群集のメシヤでないかと、かすかな希望を絶つように、主の業はサタンによると中傷するのです。そこで主はパリサイ人の論理の間違いを指摘されます。国でも町でも家でも、内乱や内部抗争で自滅する。その業がサタンによるとすると、部下との戦いでありありえない。結論として主は聖霊によって悪霊を追い出したのであり、その業が行われたのは神の国がここに来た証明であるのです。この神の国の到来にどのように応答するかは人間の側の事です。

31節だから、人はその犯す罪も、神を汚す罪も、人の子即ち主イエス様に逆らう者も悔い改めれば赦されるが、聖霊に逆らう者は承知での行為ゆえに悔い改める事が出来ずに、この世でも未来でも赦される事はないのです。使徒ペテロは二回主に逆らったが、その一時的な惑いも悔い改めた事によって赦されている。それに対してイスカリオテのユダは外見上は忠実な弟子で、会計が任されているほどでしたが、本質では自己と悪魔に支配されていた。彼は悔い改めず滅びにいたっている。聖霊冒涜罪です。聖霊の働きが現れているのに、パリサイ人は主の奇跡をベルゼブルの力によると故意に否定する聖霊冒涜罪です。意識的な反逆です。それゆえに罪の意識はないので、赦される機会を失い、神との関係は永遠に断絶したのです。

人の心・霊は見えませんが、よい木を見分けるにはその実を見れば木の良否がわかるように、ひとの言葉、行動によって見えてくるのです。神との関係も主に対する奉仕で自分でもよくわかります。礼拝する事、自分の出来る事をする。喜んで感謝が出来る。感謝献金する。隣人を喜ばせる事など等。34節マムシの子らよと主からの言葉はいただきたくない。心からあふれてくるものが言葉であり行動なのです。心の蔵にしまわれているものが取り出されるのです。30あなたはわたしの味方なのか、それとも主に反抗するものなのか、最後の審判のとき、語った言葉、行為についてどのように言い開きをするのか、正しい者とされるか、罪に定められる者か。故意に神の御心、導かれる聖霊に逆らい赦せざる罪を犯さないように信仰生活をいたしましょう。

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【羊飼いの歌】詩篇23篇1節〜6節

昔から23篇は詩篇の真珠と呼ばれ多くの人に親しまれてきました。この詩は短いが、美しい神様への信頼が詠われています。描写は単純で美しいがそれは表現の巧みさではなく、ダビデの宗教経験の深さと豊かさによるものです。私は聖歌の389番「エホバはまことの牧者にませば」口ずさみつつ23編に詠われる主の恵みを感謝しながら信仰生活を送ってまいりました。

よき羊飼いは羊を導き、食を与え、危険から彼らを守ります。ほとんど砂漠のようなパレスチナにおいて、水と牧草を探すには優れた羊飼いのみになしうる事です。弱い羊の一切は牧者にかかっており、牧者なしには飢えと猛獣から守り得ません。そのような厳しい自然状況の中で牧者として神が見上げられています。それは暗黒のうちに奏でられる音楽であり、人生の闇夜の中での励ましと慰めの歌です。何が歌われているのでしょうか。

羊飼いと羊の関係は神とイスラエルの民のそれを表すに最も自然な表現です。彼らは半遊牧の民で、アブラハム、ヤコブ等先祖達も皆そうでした。モーセはエテロの羊を飼っていた時、その民をエジプトから救い出す羊飼いとして召された。

1節主は私の牧者です。ダビデは晩年になって少年の頃から今に至るまで顧み、まことにヤァウエーは私の牧者であったと感謝と感嘆の中から詠うのです。羊は弱く、獣に対して自己防衛力は皆無、近視眼で地理的展望は出来ず迷いやすい存在です。人間もそのような存在である事を長い人生経験から自覚して1節主は私の牧者なのですと詠うのです。

緑の牧場、憩いの水際に伴われます。食物にも休息にも、満ちたりるのです。主の恵みのあふれる中での生活です。主は私の心の乏しい時、神の活力あふれる食物の必要をご存知です。私の魂が疲れ果てている時主の甘露な憩いの必要である事を知っておられます。それは日ごとの糧であり、家庭での祈りと聖書の学びであり、教会での主日礼拝であり、そこから生まれる社会での奉仕です。社会運動にのめりこんで信仰を失う例を見たゆえか福音派の人々は一般に社会問題や政治に無関心です。これはこの世の生活をするものとして無責任です。それらに埋没しないためにもキリスト者は礼拝遵守し神に責任を持つものこそ、キリスト者として社会や国家に奉仕できるのです。

私の魂を生きかえされる。そして私を右にも左にも曲がらず正しい道へと導いてくださる。主は正しい道をはっきりとお示しになるばかりか、先立たれ歩まれる。ですから死の陰の谷を歩むとも災いを恐れないのです。間違った道に行こうとすれば羊飼いは鞭で道を示し杖が正しい道へと連れ戻して下さり災いから守ってくださいます。私の為に敵の前で宴を設けられる。主は私達の逆境の中でも、恵みのご馳走を備えてくださるのです。それだけではなく6節とこしえに主の宮殿に住まう者として下さる。その主の摂理(計画)を感謝のうちに謳いあげるのです。

神の恵みは昨日も今日も変わりなく伴ってくださいます。古いアダムの罪から解き放たれたキリスト者には災いも主にありて解決されるのです。心からの喜びを持って声高らかに賛美しましょう。主は私の牧者であって・・・・・・と。

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【永眠者と永遠の命】第一テサロニケ4章13〜18節

ご存知の通りキリスト教には3つの祝日があります。イースター{復活祭}ペンテコステ{聖霊降臨節}クリスマス{降誕祭}です。前の2つは歴史的に日にちがわかっています。クリスマスは日にちがはっきりしていませんが、天文学の研究等によって特定されつつあるようです。約2千年前の初代教会では誕生日には関心がなかったようです。主イエス様の復活が弟子達に強烈な影響を与え、それまでは安息日礼拝を守っていたが、キリストの復活日を主日礼拝日として守る事となった。その時の主の約束を信じてエルサレムで心をひとつにして祈っていると50日目に聖霊降臨があり、教会が誕生した。

やがて日曜礼拝と共に復活の記念日に、復活祭を祝う事となりました。それ以来人間の死を永眠と理解しました。永い眠りについても主イエス様が再びおいでになる(再臨)時に主による復活の恵みにより目覚めるのです。13節でポウロは眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。と強く言います。私達には望み(主の再臨による目覚め)ゆえに死者のために悲しむ事がないのです。永眠という事は旧約聖書のときも同じですが、特に新約聖書では復活を前提として用いられています。
死は永眠であるがゆえに目覚めるときがあり、再会が出来るので私達は悲しむことはないのです。その理由を14節は語ります。神様はイエス様が復活なさったのでイエス様によって死んだ人々おも一緒に導き出してくださると述べます。ですから死とは永遠の別れではありません。主イエス様の再臨の時までです。このとき目を覚ますのはイエスにあって死んだ人々です。そして主の前で再会するのです。その後すべての人が復活して最後の審判があるのです。羊とヤギを右と左に分けるように、裁きが行われます。裁き主は栄光の主です。弁護人は助けぬし聖霊です。

私のために十字架で罪の贖いの死を遂げてくださったキリストを信じる者は永遠の生をいただきます。私はキリストと共に死んでキリストと共に生きる(ガラテヤ2章20節)肉体に死んでも永い眠りにつくのですから、目覚める事を望んで眠りにつくので、お互いにしばしの別れです。ですから18節これらの言葉をもって慰めあうのです。

私たちは今朝教会で先に主のもとで憩われている兄弟姉妹のことを懐かしく偲びその方々と主の下における再会を楽しみにする者です。ヘブル12章1・2節お互いに励ましあいとりなしの祈りをなしつつ、主に従って進みたいものです。

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【愛を知った私達】前ヨハネ3章13節〜24節

聖め(ホーリネス)は具体的には完全なキリスト者になること、実践的には愛の人になる事です。ご存知の通りギリシャ語には私は愛するは、4つあります。㈰エラオー情念的に愛する。対象の価値を追求する。㈪ストルゴオー肉親の愛、本能的情愛。㈫フィレオー友情として愛する。真理を追究する。㈬アガパオー神との交わりにおいて霊と霊とを結合せしめる愛。他者本位の愛。聖書には㈫と㈬のみ見る事が出来ます。日本には本来愛という用語はありませんでした。明治になつて外国の文学書のラブに対する訳として、北村透谷が愛と男女間の愛を恋愛と造語しました。キリスト者であった彼は恋愛も愛も自分を愛するように他者を愛する事であり人間には不可能である事、愛は祈り求めざるを得ないことを知っていた。その後愛も恋愛も変質してしまい、エロス(自分にないものを求める)から我執、エゴイストは相手を自分と同じように愛し得ない肉体的な執着という我欲になった。愛するには自分の真実の姿を知って祈らねばならぬ事を忘れた結果です。特にアガペーはキリストの自己犠牲を模範として祈りもとめなければならないのです。

ヨハネは2章まで罪を中心に、神の子供と悪魔の子供を対比させる。彼は、兄弟を憎み続けるものは闇の中にいる者であると述べ光の中を歩む事を薦めます。憎み続ける人のうちには永遠の命はないからです。

3章16節には闇の中にいる者の持つ憎しみに対して愛が述べられます。憎しみは悪い自分をかばい、正しい兄弟を殺します。(創世記4章のカインとアベルの兄弟の人類最初の殺人)しかし愛は、正しくない者のためにも命を捨てる事が出来ます。このような愛はカルバリーの十字架で見る事が出来ます。その事によって私たちは愛という事を知ったのです。それゆえに私もその愛を求め、それに倣いたいのです。

ヨハネは知る(グノーシス)を何回も繰り返していますが、キリスト者が知識を持つ事は必要ですが、知的1/2?なもののみでなく、死から命に移ったという体験的な知識が必要です。キリスト者になったとは霊的死から甦えされ生かされることです。このことを知ることによって、新しい自分の命と存在が始まると知れば、意識的に知り、受け入れたいと願います。それが愛です。そのキリストの愛は私たちのために命を捨ててくださったのです。

これがキリスト教の出発点です。ここからすべてが始まるのです。この愛を知る事なしには何も始まらない。キリストを信じる事、キリストに倣うことなど、これが基です。その愛をイエス様自ら教え、そして与えてくださるのです。私たちもこの愛に生きる新しい命と存在を始めているのであり、私たちは血を流すような愛を持って兄弟姉妹を愛し、キリストの体なる元住吉教会のために、自分を犠牲として仕えるのです。

教会で兄弟姉妹方と共に主を礼拝し、み言葉に聴き入り、賛美し、祈り、聖書を読む時、私たちは真理を知ります。キリストの救いを知ります聖霊の導きを知ります。体験します。知った時あのカルバリーの愛が私に与えられた事を知ります。私たちはこのように主の愛を知り、体験して、隣人、兄弟姉妹、キリストの体なる教会のために犠牲を払ってでも愛しうるのです。

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【信仰とヨルダン川渡渉】ヨシュア3章7〜17

イスラエル人達がエジプトで奴隷の苦しみからの救出を神様に願ったところモーセを遣わして苦痛の地より引き出された。そして彼達に乳と蜜の流れる父祖の地カナンに導くとの約束に従ってやってきたイスラエル人たちの前にヨルダン川が立ちはだかっている。40年荒野を導き、脱出時、前には紅海、後には彼らを追ってきたパロの軍勢進退窮まった時モーセを介しての奇跡的救出があったが、そのモーセは召されていない、ヨルダン川は春の雨と雪解け水で溢れんばかりに滔々と流れている。モーセに代わって従者であったヨシュアが神と民の前に立っている。モーセのときと違うのは神の契約の箱が与えられている事です。

40年の荒野の旅が終わった今、川のかなたには高い城壁に囲まれたエリコの町攻略の困難さがある。しかし偵察から帰ってきた斥候の報告2章24の報告に勇気百倍の彼たちの前にあの紅海にも劣らぬヨルダン川がある。あの時の様な神様の救いの介入が必要であった。又心の準備も必要であった。3日川の側に止まった。渡河の準備は、川を渡るのは戦士の成人男子のみでなくすべての老若男女も共に渉るので周到な準備が必要です。神の人ヨシュアには神の不思議な業が示されていたのでしょう。彼は神の示される奇跡を信じた。現代人の私達は合理的とか科学的にと言ってその感覚を失ってしまったが、信仰によって取り戻したいものです。

時は過ぎ越しの準備に入った民は、この渡河が単なる敵前渡河ではなく宗教的行為である事が教えられた。主の契約の箱が祭司達に担がれて民の前を約9百米先に進む、信仰の戦いには常に主が先立たれます。その道は新しい道であり、私たちが通った事のない道ですので従ってゆけば迷う事はないのです。行くべき道を知る事ができるからです4節。明日。主があなた方のうちに不思議を行われるので身を清め(カーダシュ)なければならない。カーダシュは自分自身をこの世のすべてのものから切り離して神のものとすることを意味している。まず何よりも全身全霊をもって神を信頼する事です。その事が主の奇跡に預かる道です。

祭司達が主の箱をかき民に先立って進む事から渡河が始まるのです。神様はこの奇跡を通してモーセのような霊的権威をヨシュアに与えその事を民にも認めさせなさったのです。

9節以下で神様は今からなさろうとする事を民に告げるのです約束の乳と蜜の流れる地を与えるとの実行です。7種族を父祖の地から追い払われる。その第1歩は箱を書く祭司達が水の中に足を踏み入れそこに止まる事です。生ける神の命令に祭司達があふれる水の中に入りそこに止まるときに奇跡がおきた13節の言葉を信じ実行したときに15・16節の不思議が起きたのです。そして祭司たちが乾いた川底に止まっている間に老若男女すべての民がわたり終えたのです。17節。

神の奇跡不思議に預かるには、まず身を清めなければなりません。即ちこの世のすべてのものと自分を切り離して神様を全身全霊をもって信頼するのです。そして聖霊なる神の指し示す道を右にも左にも曲がらずに、先立つ聖霊に従って進むのです。信仰の道はいまだ通った事のない道です。4節従うと人生の道を知り迷わないのです。祈って聖霊の導きにより人生を送るヨルダン川を渉る事ができます。不可能も主にあって可能になります。そしてホー1/2?リネスの恵みに預かります。完全なキリスト者になれます。

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【私の平安をあなた方に与える】ヨハネ14章11〜31

私は機会ある毎に14章〜16章の主イエス様のご遺言と、17章の祈祷を読んできました。その度毎に新しい恵みをいただき感謝しています。普通エイリネーは平和と訳されますが日本語の平安は最もふさわしい訳だと思います。英訳では信仰による平和、心の平和、イエスの平和等としています。26・27の言葉を深くかみしめて味わってみましょう。

イエス様のやがて来るであろう苦難の予告に、弟子達に恐れと動揺があった。遺言の冒頭に「あなた方は、心を騒がせないがよい。神を信じ、私を信じなさい」また18節「私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる」と言われた。これは主が父のもとにお帰りになり、真理の御霊が遣わされる前に、栄光の復活体をもって弟子達に姿を現されることを意味し動揺しないことをすすめている。

やがておこる主の復活は、イエス様の十字架の死による別離から生まれた不安と悲しみを彼らから去らせてくれます。3年間主は弟子達に真理を語り教え実践されましたが、それはやがて遣わされる助け主・慰めぬし、即ち父なる神が、主の名によって遣わされる聖霊の霊感と照明によって思い起こされ、今まで思いもかけなかった深い意味を明らかにされます。26節この御霊の働きによって福音書を含む聖書全体を私たちが手にする事ができたのです。

この時弟子達はまだ主の孤児としないとのみ言葉よりも、主が世を去られる事で自分達が困難と苦しみの中に見捨てられるのではないかとの思いが強くあった。しかしそれはまったくの思い過ごしでした。27主が残される平安は世が与えるような平和ではなく、主にある平安です。そして遺言の最後は16章33節で閉じられています。信仰生活だけではなく、生きていく為に多くの激しい困難があります。しかしキリスト者はすでに世に勝利を得られた主キリストにつながっている事で、永遠の命に生きる勇気が湧きいで安らぎを得ている。それが主の平安です。

世が与える平和は外見上穏やかに見える。確かに見た目には争いはない。住む家もあり飢える心配もない。しかし世界には争いがあり、人命が毎日のように多く失われている。世が与える平和とはまず居・食・住の充足です。最低の衣食住の保障がないと人は平和とも平安とも思えません。しかし衣食住が足りても、そこから生きていく勇気も、生活に立ち向かっていく力も湧き出てはきません。自分を満足させるために生活や趣味に心を向けて、教会や神様を振り返る暇もなく、忙しくしている。信仰はお飾りで、自分により良いもの、より楽しいもの、便利なものによって神を忘れて自分の心を滅ぼしています。

イエス様はこの世から見える形では去っていかれました。だから主はこの世のものではない主の平安を弟子達に残されます。そして主の平安のうちに生きる者には、助け主なる主の御霊が導いてくださり、14章26節真理と主の語られたみ言葉、業を教えてくださいます。聖書は人間の知恵、経験では理解できません。

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【強くまた雄雄しくあれ】ヨシュア1章1節〜11節

サマー・ギャザリングの主題を決めるようにと役員会で要請された時9節が胸のうちに浮かびました。モーセは出エジプトの使命が終わった事を知ったとき、申命記31章7・8ヨシュアを呼び民の前で命じた。また23節で主ご自身が直接彼にイスラエルを導くため、強く勝つ勇ましくあれ、私はあなたと共にいるであろうと命じられた。

ヨシュア1章ではモーセが死んだ後、指導者として任命されはっきりと命令が主よりなされた。指導者たるものは弱く臆病であってはならない。強く、雄雄しくあれとの励ましはすでにモーセから与えられ、主からも与えられていた。ここで神が彼に任命・命令の中で3度も強くあれ、雄雄しくあれと繰り返される事で如何に勇気が必要かがわかります。その勇気は人間の中から生まれるものではなく、神が共にいてくださり見捨てる事がない5節に根拠があります。約束された乳と蜜の流れる地を自分たちの足で踏んで獲得する信仰に必要なのです。その信仰はモーセを通して与えられた律法を守り行い、これを離れて、右にも左にも曲がってはならないのです。これは律法主義とは違います。

7節は律法の内容面より捉え、8節は書という面より捉えている。ルターの「聖書のみ」の大原則と、「信仰1/2?のみ」「恩寵のみ」との大原則と離すことのできない有機的な統一性と同じです。ルターの時代は教会の伝統や法王の言葉が聖書と同格であり、一般の人々は聖書を直接読む事のできなく、大衆は教会で語られる言葉、薦められる宗教活動で救われると考えていた。印刷術の発見と宗教改革者たちの自国語での聖書翻訳でルターたちの目的が達せられた。

9節で再び信仰の励ましがくりかえされるのです。そうです。あなたがどこに行くにもあなたの神、主が共におられるゆえに、神の命じられる信仰生活に、恐れおののく必要はないのです。

この2節〜9節の言葉をいただいたヨシュアは、偉大なるモーセの後継者としての不安は完全に払拭され、10〜15節の行動ができたのです。渡れといわれるヨルダン川は雨季とヘルモン山の雪解け水で溢れんばかりにとうとうと流れている、その川を3日の準備で渡るのです。信仰にたったヨシュア・神に任命され命令を受けたヨシュア・モーセの従者として信頼され訓練を受けたヨシュアの言葉に民は応答するのです。16〜18節モーセに聞き従ったようにヨシュアに従う事を誓い、民たちもかれに、ただ、強く雄雄しくあってほしいと祈りのうちに励ますのです。これで不可能と思われるヨルダン川の渡渉ができるのです。できたのです。

私の76年の生涯、64年の信仰生活で荒野の困難、ヨルダン川の前での戸惑い絶望、しかし神は常に私と共にいてくださり、「強く、また雄雄しくあれ」と励ましてくださいました。ただただ感謝のことばがあるのみです。

【岩なるキリスト】前コリント10章1〜13

台風が近づくと港に停泊していた大型の船は碇を巻き上げ、その際碇の鎖を真水で洗い塩水での錆により切断されることを避け、港外に出て船首を風の方向に向けその碇で固定します。そのとき碇が海底の岩に食い込んでいれば船の安全性は高くなります。私達キリスト者はこの世の嵐から身を守るために岩なるキリストに碇を下ろしますが、鎖が切れてはなりません。我々は鎖の切断を避けるために主日礼拝で、聖霊によって穢れを洗い落として岩なるキリストに固着するのです。

旧約聖書には奴隷から救出され約束の乳と蜜の流れる地に向かう荒野において飲み水がなくなった時神によって岩から湧き出る水で養われた。その出来事が出エジプト17章1〜7に見えるマッサ(こころみ)。民数記20章2〜13メリバ(あらそう)の二箇所で神の命令により杖をもって岩から水を湧き出させている。この出来事を使徒ポーロが前記のコリント10章であの奇跡の出来事のイスラエル人達の不信仰は教会に対する警告だと彼は6節で述べます。イスラエルは紅海を渡る時、雲の中、海の中でモーセにつくバプテスマ(第一の救い)を受けその後、みな(短い節に5回述べる)ポーロはイスラエル人とコリント教会の兄弟姉妹を含めてみなと言っている。

そしてみなイスラエル人も教会人も同じ霊の食物(マナ)を食べ、そしてみな同じ霊の飲み物(聖餐式のぶどう酒)を飲んだ新しいイスラエル(教会人)だと言うのです。イスラエルと教会を結ぶのは聖餐式であることを示します。出エジプトのイスラエルは彼たちの望みどおりに奴隷から救出されたにも拘らず、その神の恵みに応答しなかった不信仰の故に荒野で滅ぼされた。それが6節に述べる私達に対する警告です。

イスラエルの罪は悪をむさぼったことです。エジプトの偶像礼拝と祝宴をしたって飲み食いをしたいと叫んだのです。そして不品行に陥り、主を試み、呟いたのです。ポーロはコリント教会にイスラエルの歩みを現実に見抜いていたのです。イスラエルに対する神の裁きはそのまま与えられた自由を乱用し、自分の思い通りに進むコリント教会に対する戒めであり、教訓であるとあると語ります。
現在の偶像とは何でしょう。知性ある人は誰も人の手で作ったものを神とはいたしません。物質的欲望に発し、己が腹を神とし、神中心の生活を避け、好き勝手の振る舞いという不品行です。それは主日礼拝遵守を避け、偶像礼拝に陥るからです。神によって立つものは倒れることはありません。厳しい警告とともにポーロは慰めと励ましの言葉を述べます。13節「・・・・・・・試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道を備えてくださるのです」世の終わりに再臨の主がおいでになる時に、岩なる主により頼まざる者は荒野で滅ぼされた民のように同じ道を歩みます。

第一ペテロ2章4〜10.「・・・見よ、私はシオンに、選ばれた尊い石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終わることがない」

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【み言葉の力】詩篇119篇129〜136

自分自身の信仰が恵みのうちに成長しているか、どうかは、み言葉を楽しむ程度によって図り知る事が出来ます。97〜104み言葉が耳に入らず、自分の楽しみのみに関心があるなら明らかに信仰の危機であり恵みから遠ざかっています。み言葉は蜜に勝って甘く、正しい知恵と道を指し示します。

私は58年前学徒兵として陣地構築中にロマ8章28節『神は、神を愛する者達、すなわち、ご計画に従って召された者達と共に働いて、万事を益となるようにして下さる事を、私達は知っている』とのみ言葉を通して神様との出会いを経験し、生きて帰れたら牧師になろうと決意しました。その後聖書を学ぶために必要なものを大学で学び、聖書学院で66巻を学びましたが、胸の再発で自主卒業をした者です。戦後学んでいた学校は中国に接収され全くの無学歴です。私は聖書を中心として知恵も知識も与えられました。それだけに人の話を良く聞いて伝道に役立てようと人一倍努めています。私は弁証法とフランクルのロゴセラピー、ブーバーの関係論(我と汝)を大きな手法として聖書を学んできました。また現実の生活に根ざしてみ言葉を学び続けています。私は自分の間違いを訂正するにやぶさかではありませんので、説教について、日常生活でも皆様の忠告を感謝して受けます。

学問の豊かさ故み言葉の素晴らしさが理解されずに、ただ語られているのを今までみてきました。現在は殆どの方が高い教育を受けられていますが、私の若い時にはふりがな付きの聖書をつっかえつつ読むような人がつつましく輝き証しをなさっている方を教会で見ることが出来ました。

神による証しは神からの特別な啓示によるものですからその不思議さに驚きます。「み言葉が開けると光を放って:::」原語の意味はあなたの言葉の戸口です。パレスチナの家はたいてい窓がないので戸口からのみ、光が差し込みます。そのように神のみ言葉という戸口から、人の心の中に言葉の光である神の知恵が入るというのです。

光の戸口であるみ言葉はいつも誰にでも開かれているわけではありません。多くは閉ざれています。読めても、その奥義は隠されています。いかに学があり、いかに知識に富んでいても、み言葉がその人に開かれていなければ墓を閉ざす石と同じです。

131光をあえぎ求めねばなりません、32愛するものに決めておられるように(権利)み言葉は誰に開かれているかわかりませんが、み言葉がご承知です。開かれたならば光となって命をおび、受け手のうちに生ける神のみ言葉となって宿ります。み言葉がそのように欲し、光となってその人の心に宿るのです。

イエス・キリストは一粒の麦の種として地に落ち、私たちのなかに宿って今も生きておられる。十字架のみ言葉は死んで甦り、人の心に宿って命あるものとなる。み言葉にはそれを理解される力を内包している。暗闇に光がさしこんでその中にあるものを照らし出すように、神のみ言葉は人の闇の中にあるものを明らかにします。み言葉が持っている神の智慧と闇の中にあるものを明らかにする力とによって、受ける者を知恵ある者とされます。

光は知恵でもある。その人の中に入って燃え立つ、それゆえに己を空しくして、貧しい者を好みます。即ち、無学な者に入って知恵を与えみ言葉の奥義を理解させるのです。み言葉は神の知恵の戸口となって闇の中にある者に差し込んで、その魂を生き返らせ、その真実が無学のものを賢くする。そのみ言葉は謙遜な者にのみ開かれます。

前コリント1章18「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いに預かる私達には、神の力である」

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【白い石を与えよう】ヨハネ黙示録2章12節〜17節

黙示録は将来が不安で将来が見えない混沌の時代に手にとられ、それについて語られて来ました。また危機に際会すると読みたくなるみ言葉ではありますが、読み方を間違えると危険な書物でもあります。統一協会やオウム真理教でも黙示録を利用しています。黙示録はこれからの世界の出来事を予言していると具体的に述べたくなる誘惑を受ける書物でもあります。これからどうなるのだろうとの不安に乗じて将来を予言して見せます。私達の神様は将来の出来事を予見させては下さらない。神様のみ心には将来の事がコンピュウターのプログラムにすべて決まったようにはされていません。それだけに黙示録を読む時にはこれからの出来事に緊張して備えなければならないのです。それでヨハネは何回も『目を覚ましていなさい』と語ります。

先主日預言者はその時代の社会、政治(宗教)外交、内政、経済に神様のみころに添って敏感に反応預言していると述べました。キリスト者も生きているこの世界に信仰の目を持って真実を敏感に見抜かなければならなのです。日本の教会、牧師、信徒は社会に対する無責任性を自覚すべきでしょう。当時の教会では礼拝の時黙示録全体が読まれ、礼拝者はそれを理解し、あの激しい弾圧を戦い抜くべく、礼拝と信仰を守る決意が生まれたのです。礼拝をするとは神の前にひざまずくことです。神を仰ぎ見ることです。そこで聞こえてくる事が、神からの語りかけです。自分の意思で礼拝を守らない人には神の言葉が聞こえず御心がわかりません。自分の都合の良いよう聖書を解釈する所に異端が起こります。『この預言の書を朗読する人と、これを聴いて、これを守る人は幸いである』と祝福の言葉が述べられるのです。

13節『あなたが住んでいるところを知っている』なんと感謝な事でしょう。私たちが偶像に囲まれキリスト者として生活するに困難な場所に置かれていることもご承知です。たとえば日曜礼拝を遵守しようと思っても、日本社会では諸行事は日曜が多いです。50数年前の場合は大げさでしょうが殉教覚悟でした。今は積極的に動けば解決できる時代です。

ペルガモはバッカスという酒の神にささげられた神殿を中心とし皇帝礼拝その他多くの神々が祭られた都市で、殉教者が出るほどキリスト者には住みにくい町でした。その上教会の内部には、異端を奉じるものもいた。そのような状況の中でも信仰を捨てなかったのです。そして異端に悔い改めを迫っています。

勝利を得た者には隠されたマナが与えられます。モーセたちは荒野で飢えたとき天から与えられたマナによって癒された。キリスト者は教会での神の言葉で証しされる聖餐を、同じようにマナと慕いそれによって生かされると信じて来た。その天来のマナは教会に集まる兄弟姉妹にあたえられるみ言葉です。
ペルガモ教会への贈り物は白い石です。白い新しいは黙示録独特なものです。太陽に輝くきらきら光り輝く白さは、神の国の色です。まばゆいばかりの純潔をあらわす天国の色です。白い石とは聖められた人、天国の純潔に輝く新しい人格です。新しい生命、新しい品格が与えられるのです。その人たちに新しい身分をあらわすための新しい名が白い石に書かれるのです。アブラムが信仰の父となった時アブラハム、ヤコブは新しい約束をいただきイスラエルと新しい名前が与えらたように、イエス・キリストに忠実なものに新しい名が与えられるのです。聖書では名は聖い人格そのものをあらわします。

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【平和と戦争】イザヤ書2章1節〜5節

暑い夏になると学寮で生活を共にし、戦死した先輩や友人の事とイザヤ書の言葉が思い出されます。58年前敗戦時、軍国主義の塊の人間達、指導者を含めすべての人が一夜にして平和主義者・民主主義者に変ったのには驚きました。教会も集まる人が急増し、弾圧を避けていた人達も加わり戦争中には想像もできない有様でした。喜びと感謝すると同時に変わり身の早い姿に恐ろしさを感じたほどで、当時私自身が救われた時献身するとの決意も感情に押し流されてのことかと深く反省した事を覚えています。そのような時にもこのみ言葉が私の内に響いていました。

北王国ヤロブアム、南王国ウジヤの時代は平和と繁栄の中にあった。しかし預言者イザヤはそれが見せかけで一時的なものであることを見抜いていた。彼は終わりの日が近いことを予測しつつ、イスラエルの伝統的な精神を神によって示され預言するのです。ユダヤ人は過去を水に流してしまうのではなく、過去は未来につながるものと受け取り過去に続く未来は重要だとした。イザヤにとって終わりの日が何時来るということは問題でなく、その内容、それが来るという確実性とそれに対する終末に生きる態度が重要でした。預言者はそのときの社会、政治、外交、内政等に神の御心に沿って敏感に反応預言しています。これは現代のキリスト者も、生活している世界を信仰の目を持って見抜いていかねばならぬことを示しています。

イスラエルの素晴らしさは霊的指導性です。現代のイスラエル・キリスト者は同じでなければなりません。イザヤはイスラエルのことだけを考える偏狭な排他性は持っていません。3節すべての民がヤコブの神を自分たちの神と認め、神のみ言葉が教えられる中心地エルサレムに来る終末の時を確信している。彼たちは教えを知的に捕らえるのではなく自分たちの歩む実践的道として受け取る。4節主ご自身が国々を裁き(おさめ)とりなしをなされる。かくして世界平和が来たり武器は破棄される。核抑止力や大量破壊兵器や大国エゴを持っての平和の保障ではありません。神の教えが強制でなく自発的に受け入れられる結果生じる平和です。戦争は起こらないだけではなく、武器は平和の道具に作り変え、再び戦いの事は学ばないのです。このような時は必ず来ると預言者は確信しているのです。
イザヤのときと現在の世界は規模が違うだけで、絶望的状況は変わりありません。人間は不可能だと見える時にも希望を捨ててはなりません。特にキリスト者は理想を見失ってはいけません。神の時は私たち人間にはわかりません。しかし最善をなさることは確実であるとの信仰は持つべきです。

11章を読むたび毎に預言者の信仰確信に頭が上がりません。そして6節〜9節の神の国の実現のため福音を伝えなければと励まされます。世界の心ある人々は日本の平和憲法がいかに守られ維持されるか注目しています。世界は必ず平和憲法の方向へと進みます。敗戦の時日本国民すべてが決意しました。イザヤ書2章四節「剣を打ちかえて、すきとし、その槍を打ちかえて、鎌とし、国は国に向かって、剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」。これは敗戦の年の9月に日本の内閣総理大臣の声明に述べられていました。夢を失い、理想を失った民・国は滅びます。

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【生きるために死ぬ】ローマ六章1−14木部安来牧師

2節「罪に死んだわたしたちが、どうして、なおその中に生きておれるだろうか」。
4節「わたしたちはその死にあずかるバプテスマによって彼と共に葬られたのである、わたしたちもまた、また新しいいのちに生きるためである」

キリストの死は死に対する勝利であつた。それは復活によってもたらされた。言い換えれば死とは人間のそれまでの関係が終り新しい関係が始まったのである。罪の支配から解放され、死はそのまま神の支配する新しい生に移行した。神はキリストにおいて死を死なしめた。

「私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは私自身受けたことであつた。すなわち葬られたこと聖書にかいてあるとおり三日目に甦ったたこと」1コリント15の3-4

1.神のあわれみを利用しようとすることは、おそるべきことである。神の憐れみを、罪を犯す口実とすることはおそるべきことである。
2.キリスト者の生活に入っている者は、異なった生活にみずからを委ねているのである。
3.キリストを受け入れる時に人間の生活には倫理的変化以上のものがある。

「死」とは、わたしたちが普通考える自然的な肉体の死ではない。キリストの死は一応肉体の死であるが、彼はそこで死を死なしめた。したがってそれは死の死である生としての復活、つまり「否定の死としての肯定」をもたらした。死は私たちにとって圧倒的不安や恐怖であるのに、肉体の死が聖書には他の宗教に比較して論じられるのが少ないのか、キリスト者は神による圧倒的な生の現実の中に生きているからではなかろうか。

ユンゲルは「からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるなーー」マタイ10の28.と書かれているとおりである。この死の根源的否定性を象徴するのが、「葬られた」テキストの4節であり、1コリンと15章4節。「死は勝利に呑まれてしまった、死よおまえの勝利はむどこにある」。それは否定の否定が肯定に転ずる回転を示している。

言い換えると、死とは人間のそれまでの関係が断たれること、終わらされることであり、それはそのまま新しい関係の始まりである。

罪の支配からの解放としての死は、そのまま神の支配すなわち生への移行にほかならない。8−11節。神はキリストにおいて死を死なしめたことにより、人を生への領域に置かれたのである。「1コリント15−55」キリストの十字架と復活とが切り離せないように、私たちの死と生も切り離せない。だから私たちは死の彼方に生を憧れるのでなく根根源的な生の事実から私たちの死を直視すべきである。

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【強い人から弱い人を守る救助者】出エジプト2章11〜25節

モーセは神様の不思議なお取り計らいにより、後の偉大なる女王ハトシェプストになったといわれる皇女にナイル川の水から引き出され(マーシャー)乳母として実の母ヨケペテが賃金を貰って、ヘブル人が弾圧されている中でおおっぴらに育てられた。ヘブル人の習慣通りに父アムラムと母からヤァウエー信仰が与えられヘブル民族の自覚を持っていた。10節成長したので皇女に引き取られ、彼は水から引き出された故にモーセと名づけられた。これは80才の時自分の民を神の命令によってエジプトから引き出すことをも意味している。

使徒行伝7章で最初の殉教者ステパノがモーセはエジプトのあらゆる学問を修め言葉にもわざにも力があった。そして40才の時の11〜14節までのことを述べている。神は偉大なる神の指導者にその準備をなされます。ソロモンネヘミヤダニエル、ポウロなど教育・訓練をされます。モーセはハムラム法典、ヒッタイトの契約などを学んだ、これらは律法作成に大いに役立っている。神の働きに加わるには基礎教養が必要であることを私も身にしみてわかりました。

11〜15同胞が重労働使役され、打たれるのを見た。彼は人目を避けてエジプト人を打ち殺した。争う同胞をいさめたところ昨日のことを非難されたばかりか、パロもモ〜セを殺人罪で殺そうとした。彼の激情が招いたのです。弱い者を助けようとして失敗した。彼はパロを恐れて荒野の彼方へと逃亡した。モーセは疲れ果てこれから何をするか、めども立たずに、ミデアンの井戸のそばでただ座っていた。羊飼いの娘達が羊に水を飲まそうと近づいたが後から現れた男たちが娘達を井戸から追い払った。モーセはエジプトそうであったように、ここでも理不尽な扱いに苦しむ人を見た彼は直ちに立ち上がって横暴な男たちを追い払い、女性の羊飼いを守り、その羊たちに水を飲ませた。井戸は深く階段を上下して地下水を運び上げる大仕事です。父で祭司リュエルに食卓に招かれた彼はここで羊飼いをすることになり、娘のチッポラ(小鳥)と結婚し再起出発した。理不尽に取り扱われる人を見て、モーセの心は奮えた。彼は弱い立場の女性達に味方して男達を追い払ったが、恐らく彼はこの男達の敵意にさらされたことでしょう。

強い人、財をもつ人、権力者は他の助けを必要とはしません。キリスト者でも自己の力に頼って神を必要としないで、人の賞賛を得ようとする人がいます。救助者は強い人々から弱い人を守るため立ち上がります。強い人々は救助者に、敵意、時には殺意、侮蔑を投げかけます。世界の憲法はできたときから権力者、強いものから弱者の権利を侵害してはならないと規定しています。ですから国民の義務は最小限にとどめるのが近代の民主国家の憲法です。しかしそれでも権力者はもっともらしい口実を作って憲法を無視する理不尽なことをします。

主イエス様は体を張って困難な状態で苦しんで人々の側にお立ちになり、有力者、権力者達の敵意、殺意、侮蔑を引き受けられた。主の十字架こそ罪を告白し、己の弱さを認めた者のためにあります。イエス様こそ私のあなたのキリスト救い主です。真の救助者です。

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【信仰に入った時に、聖霊を受けたか】使徒19章1節〜10節

三位一体の神様が人間の歴史に現れなさったのは、主として父なる神(ヤァウエー)が創造の時から旧約時代。人類を救い神の子となさる為人間の形を取られこの世においでになられた子なる神イエス様の33年間。イエス様が父のもとにお帰りになった後、ご約束の通りに父なる神と子なるイエス様の霊である聖霊が臨まれた現在、そして主の来臨に至るまでご活躍なさいます。

聖霊について第二次戦争が終わるまでは私達の教団を中心とする所謂純福音信仰者以外は神学的にはある程度の理解を示していたが、無視に近く軽視されていた。戦後米国の影響で関心をもたれたが、カリスマ派の故か、聖霊派と敬遠されがちです。

パウロはエペソに到着すると12人の信徒に出会った。彼は直ちに彼達の信仰上の欠陥を見抜いた。キリストへの信仰は持っているが、信仰の根源的な内容を与える聖霊をまだ受けていなかった。この人々は聖霊について全く無知であった。彼らはヨハネのバプテスマを受けただけであったが、聖霊のバプテスマについては耳にしていたと思われます。ヨハネの預言が実現したペンテコステの出来事と、それ以後の聖霊の働きは知りませんでした。それ故に神様の恵みを実際に味わっていないキリスト者でした。彼たちはヨハネの弟子なのです。ポウロは彼達にヨハネとキリスト・イエスとの違いを説明するのです。ヨハネのバプテスマは来るべき方キリストを指し示し、内容は悔い改めの洗礼であった。ヨハネの予告したキリストはすでに到来し、その受難と復活によって救いは完成して、主は神の右に上げられ、聖霊を我らに送ってくださった。ポウロの解き明かす福音を受け入れた彼らは、イエスの名によるバプテスマを受けた。

そしてポウロが彼らの上に手を置くと聖霊が彼らに下り、彼たちは異言を語り預言をした。当時は聖霊を受けたしるしとしてそれらを語ることによって確認された。ペンテコステの聖霊降臨時には十数カ国の言葉で福音を語った。聞いていた人々が無学な弟子たちが神の大きな働きを述べるのを聞いて驚いたのです。会衆にわからない言葉で神がかり的に語ることはポウロも禁じています。バプテスマにあずかった者は、聖霊を受け、聖霊によって、イエスは私の主であり、キリスト(救い主)と告白できるのです。聖霊を受けるとは外形的にわかる力とか業ではありません。心の内なるきよめホーリネスです。その上で聖霊の賜物を頂くのです。私は人為的でなくほんとに神から来る異言・預言を語りたい。特に預言の賜物を切に求めます。なぜなら神の栄光に預かるからです。

コリント前12章3節主はキリストである。キュリオスイエスース(イエスは主です)の二語が告白できることこそ聖霊を受けたことです。聖霊の賜物については機会を改めて述べます。

あなたは信仰に入った時に、聖霊を受けましたか。イエスは主であり私の救い主キリストと告白できることが聖霊を受けたことです。異言を語ることではありません。


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【このような時の為だった】エステル4章1節〜17節

私はエステル記を読む度に神様のご計画の緻密で時期に適ったもので、至れり尽くせりである事に感嘆します。自分自身の小さな経験でもあの時なぜこの様な事がと思ったことが、この為だったのかと表現できない驚きと感謝がありました。

モルデカイは伯父夫婦がエステルを残して死亡した時、彼女を引き取って養女とし将来結婚しようと考えていた。一方アハシュエロス王は王妃ワシテを退けたので、新しい王妃を立てることとなり全国から若い美しい処女を集めハーレムに入れることとなり、その中から王のお気に入りを王妃にすることとなった。エステルはその選に入り王宮に連れて行かれた。モルデカイは神様がなぜそのようなことをなされるか理不尽さを感じていた。エステルが王妃になったのは主の年前479年でした。

モルデカイはある時王の暗殺計画を知り、エステルにそのことを告げた。彼女はモルデカイの名を持って王に告げ、事前にそれは阻止された。その事は王の前で日誌に書きとめられたのみでした。最高の大臣で王の信任厚いハマンは門衛のモルデカイが自分に対して他の人たちと違って土下座をしない事に腹を立て3章6節の計画を立て、ユダヤ人を滅ぼし銀1万タラントを国庫に納めさせる法律を王に発布させた。モルデカイはその事を知り、衣を裂き荒布をまとい、神の前に祈った。エステルはその事を聞いて彼に質問した。モルデカイは彼女を説得する。ユダヤ人であることを隠すようにすすめていたが、あなたも同じ運命だと語るのです。問答がハタクを介して続けられます。4章4〜8.それに対して11節のエステルの言葉、13〜14のモルデカイは「このような時に黙っているならば、他の所から救いが起こる。あなたが王妃になったのは、このような時の為ではなかったのか」と迫ります。この強い言葉に彼女は16節とこたえます。『そのために、私がもし死なねばならないのなら、死にます。3日の間すべてのユダヤ人は断食して祈ってください、私も侍女達も祈りますから』と、決意し伝えている。(モルデカイとエステルの祈りは旧約外典ギリシャ語エステル記に述べられております。救いを求める模範になる祈祷です)

モルデカイは祈っているうちにハッキリと理解できた。エステルが王宮に迎えられたのはこの時の為だったのだ。なぜだか今までわからなかったことがこの時のためだと今わかった。王に彼女を奪われて3年余たった。王妃を選ぶために全国から何百人の処女が連行され一夜の慰め者となり次々と品定めをし、一生ハーレムに閉じ込めてしまう。やきもきしてモルデカイは後宮の庭を歩き回っている。異教徒の王に、彼女は如何に扱われるか、そしてついにエステルは王妃になった。異郷の神に礼拝せざるを得ないだろう。神はなぜ見過ごされるのだろう。その頃王は寝そびれて日誌を読ませていた。暗殺計画のくだりで王はどのような報酬を与えたかの質問に答は何もないということでした。ハマンの悪巧みを知ったエステルが祈りのうちに神から知恵と勇気、行動力が与えられ、死を覚悟してハマンの悪計を砕いた。神彼女をこの時の為に王宮に送られたのだ。彼女は死を決して行動する。神の時を人は知らない。不可解なことが続いては神のみ旨が分からない事がある。しかしキリスト者にはこの時のためであった事を知る時がきます。モルデカイはハマンに変わって最高の地位にたった。

この出来事をユダヤ人は今でもプリムの祭りとして毎年守っています。4章13・14私たちも神のときが満ちた時心の底から感謝の言葉と喜びがあります。

【黄金の律法】マタイ7章1節〜14節

山上の説教の総まとめといってもよいお言葉が12節です『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である』これは黄金律ゴールデンルールと知られ、山上の説教(垂訓)の御言葉で最も有名です。この黄金律はキリスト教倫理の最高峰です。消極的に日本でも人にされたくないことは人にするなと修身道徳で教え、日本人の対人関係の基本になっています。

7節以下、求めるものは与えられ、捜すものは見いだし、門を叩くものはあけてもらえます。悪いものでも自分の子がパンを求めるに、石を与えるものはないし、魚を求めるのに、へび(おそらくうなぎのようなもの)を与えて子供をがっかりさせたりはしない、天の父はなおのこと愛をもって祈りに応えてよいもの(アガサ)を下さらないことはない。ルカは良いものを聖霊に置き換えている。アガサは複数ですので神が聖霊を通して与えてくださるいろいろの良い贈り物をさします。祈ったものが注文通りの時と場所で与えられるというよりも私たちに何が良いものであるかをご承知の父なる神が、愛のご配慮で実情にかなった良いものを、適切な時と場所で与えてくださるのです。

12節『だから』求め、探し、門を叩く者に、良いもの{アガサ}を与えて下さる父の神の父性愛を知った者は、即ち神の子とされた者、対人関係の中で愛の行為として積極的に黄金律を実践するのです。この黄金律のように積極的な表現は他に見られません。消極的なものは常識的、律法的で、人に迷惑をかけなくてすむものですが、黄金律は神からのもの、神から与えられた恩寵です。隣人の必要に対して積極的にかかわりを持つのです。神の善は対人関係において善を要求する。天に宝を蓄える積極的な実践です。旧約全体(律法、預言者)が黄金律に要約されると主は語られておられるのです。

この黄金律が実践されるためには、マルコ12章18節〜34節『イスラエルよ、聞け、私達の神はただ独りの主である。心を尽くし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』旧約申命記6章4節〜9節参照。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』これより大事ないましめは、ほかにない。レビ19章18節。

申命記6章6「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心を留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。・・・・・・」主はイスラエルに、これから離れないように言明されています。私たちキリスト者は現代のイスラエルですので、昔と同じく私たちにも主は命じられているのです。

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【主にささげられた者】前サムエル1章12節〜28節

息子の献身に大きな信仰的な働きをした3人の母親がおりました。共通するのは祈りの人であったということです。初期教会の最大の神学者アウグスティヌスの母モニカです。彼は乱れた生活をしていた。16才の時からカルタゴで修辞学を修め。19才で母の同意を得ず同棲して2人の子供をもうけました。常に襲いくるい来る肉の誘惑と自分の理想の姿との狭間で苦しむ彼は善悪二元論のマニ教に帰依した。母モニカは常に会堂で涙を流して祈り続けていた。その姿を見た主教アンブロシウスは「安心して帰りなさい、涙の子は決して滅びることはない」と励ました。そして天に召される1年前にモニカの祈りは聞かれ、32歳にアンブロシウスより受洗した。次にスザンナー・ウエスレー、英国の牧師の家の末っ子として生まれ彼女は、5才ぐらいになると、「もし一時間を自分の楽しみのために使ったら、それと同じ時間を神様のためにと使います」と神様に約束して、聖書を読み、祈る時間を大切にした。20才でサムエル・ウエスレーと結婚した。貧しさの中で1日中家事と子供の世話に追われていた。その中で信仰の下落を感じていた彼女は、毎日2時間を祈りと聖書の学びに当てることにした。彼女が19人目の子供を身ごもっている時、牧師館が火事になり、5歳のジョンが二階に取り残されました。彼女は助けてくださいと祈っている時、二人の農夫が火の中に飛び込み助け出して外に出てきた時、屋根が崩れ落ちた。彼女は神様がジョンの為に特別な計画をしておられると感じ、子供たちと朝は旧約1章、夜は新約1章、毎日2回、詩篇を一緒に読み祈った。メソジストを確立したジョン、また牧師で賛美歌を6千余作詞したチャールズも母の祈りの子でした。他の独りはサムエルの母ハンナです。

9節以下、ハンナは涙を流して主の前に祈った。短い祈りの中に彼女は三回も自分は主のはしためと言い、はしために男の子を賜りますなら一生の間ナジル人として主にささげると祈るのです。頭にかみそりを当てないとは、自分の好みで髪を刈り整えない事で、自分の考えで行動しないとのしるしです。彼女は心のうちで物を言っていたので唇が動くだけで声は聞こえなかった。祭司エリは酔っているのだと思ったが、彼女は主の前に心を注ぎだしていたのです。神殿には形式的な祈りが満ちていた。エリもその流れの中にあった。大きな声で美辞麗句を連ね人々から賞賛されようとの祈りばかりでした。集会の祈りは会衆を代表して祈るので皆さんに聞こえなければならないが、個人の祈りは大声の必要はない。唇が動いていることに注目すべきです。祈りは唇の必要があります。何も大声を上げたり、手を叩いたりすべきでないことを示します。心を注ぎだすことが肝心です。神殿になかった祈りがハンナの心の中に生きていたのです。こころから罪を悔いて水を注ぐように心を注ぎだしていたのです。祈りは懺悔と献身でなされるのです。エリは祭司でありながら酒に酔って礼拝堂にいる悪い女と、真剣に祈る女を見分けることが出来なかったが、この祈る女によってエリは祭司に戻って17とハンナを祝福した。彼女は18慈しみを得させてくださいと答えています。(ハンナの意味はいつくしみ)17節のエリの言葉が主イエス様でしたら続けてあなたの信仰があなたを救ったといわれたことでしょう。事実、ハンナの心を注ぎだす祈りは成就しました。

その祈りが成就するとは、男の子が与えられ、一生主にささげナジル人とする事です。両親はその子をサムエル神に聴かれると名付けた。乳離れするのを待ってハンナはサムエルをエリのもとに連れて行き26・27・28といった。ここの祈る・願う・ささげるの語源は同じシャーアルこれはゆだねるという意味でもあります。ゆだねるとは、自分の努力や意志を放棄するのではない。神様は私たちに自由意志を与え自分で計画を立て、自分の意思で努力し実行できるようにと祈りつつ、人間の限界を知り神の御心に従うことが委ねる事です。すべてを神様に委ねた時にエルカナ・ハンナ・サムエル・祭司エリはそこで礼拝をしたのです。28節

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【祈り求める者に賜る聖霊】木部安来牧師

インドのサト・タルでスタンレー・ジョーンズがヒンズー教の退修会方法を参考にしてクリスチャン・アシュラムを始めました。

私は2000年11月に「70周年国際クリスチャン・アシュラム」に連盟の理事長大石嗣郎牧師一行とインドのサト・タルのアシュラムに参加しました。

クリスチャン・アシュラムの精神「イエスは主である」のテーマのもとに生命の開拓者であり、神の思いに満ちたキリストの真理を求め、静聴、開心、充満、献身、奉仕を求め、神の敬虔と、キリストの愛とその思いに充満されることを願う祈祷運動です。世界最高の哲学と、混合主義的傾向の宗教を持つインドに対してキリストのみが保持するイエスの十字架の贖罪は世界に古今無比であることを知りました。

祈りにこそクリスチャン・アシュラムの呼吸があります。真理の御霊なる主への信頼が絶対必要であることを示され確信します。

スタンレー・ジョーンズがある時に賀川豊彦に「祈りは何ですか」と質問しました。賀川先生は「一言で言えば明け渡しです」と答えました。これはキリストの御人格と支配する神の国への明け渡しです。即ち、キリストが父なる神に対すると同じ態度を取ることです。と言うのです。
主イエスの敷設した路線に、祈りを合わせることによって、わたしたちは主の全知全能の愛の能力に結ばれることです。なぜなら、それは、わたしたちが祈っている時に、何を求めるかを教えています。

聖霊は救いのために、充満、献身、奉仕のために働く鋭利な刃で、最も必要なところに贖いのため働き、また、生活の衝動を制御し。喜びと感謝をもつための働きです。聖霊は、潔い聖なるホーリィ・スピリットでありますが、助け主、真理の導き手慰め主、弁護者、カウンセラーであります。聖霊は私達の承諾と協力の下に、自我(恣意的、放縦の自由)を聖別してくださり、キリストにある自由を与えます。

「・・捕らえようと追い求め・・目標を目指して走り・・神の賞与を得ようと努めている」(ピリピ3章13−14)聖潔のニードを与え行動への動力を与えます。

聖霊に満たされた生活は興奮や、大得意になったり、異常な感情的経験や状態ではない。御霊の賜物(カリスマ)は知恵、知識、信仰、癒し、力、預言、識別、異言、異言を解く力が与えられる(1コリント12章7〜1128)使徒ポウロは誰よりも異言を語れるが、異言よりも、預言を語り、証しなさい、更に奨励している。みんなが使徒、預言者、教師、力があり、癒し、異言の賜物を持っているのだろうか。

「だが、あなた方は、更に大いなる賜物(カリスマ)を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最も優れた道をあなた方に示そう」1コリント12章と教えている。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と、希望と愛と、この三つである。このうち最も大いなるものは、愛である」1コリント13章13節。

主イエスは熱心に祈り求める者に似約束なさいました。「・・・自分の子供にはよい物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」ルカによる福音書11章13節

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【過ぎ越しと十字架】出エジプト2章1節〜13節

ご存知の通りキリスト教の最大のお祭りは、クリスマスではなく、イースター復活祭です。クリスマスはAD354年にローマで守られたという記事が残っています。4世紀には広く守られるようになりました。復活祭はキリスト者が主の日として礼拝を日曜日に守るようになったと同じくらい古く、1世紀の半ばごろから守られました。

日本のお祭りと違って、教会のお祭りには準備と感謝の期間が前後あわせて十数週間あります。キリストの十字架を挟んで受難週(パッション・ウィーク)の最後の晩餐まで40日、復活の感謝と主のご約束の聖霊を待ち望む期間がダブって40日です。旧約、またユダヤ教では過ぎ越しの祭りは最大のものです。

モーセは神の命令により、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救うべくパロの前に立ち、十の災害を示したが王は頑なで拒否しました。十番目は王家から、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、またすべての家畜のういごを撃たれるとの宣言ですが、これを無視した。それでモーセはイスラエル全会衆ヘブル語で(コル・エーダー)エーダーは神の命によって集まった集合体これが新約のエクレシヤ教会となった。この会衆に告げた。12章2節この月を正月として、3節〜20節のことをなすべく行動を勧めた。傷のない子羊か子ヤギをとり4日間手元に置き、夕方にこれをほふり、ひと束のヒソプでその血を入り口の二つの柱と鴨居につけなければならない。エジプト人が撃たれる時、塗られた血を見て主はその入り口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなた方の家に入って、撃つのを許さない。通り越すであろう。これをヘブル語でパサハ、ギリシャ語でパスカ飛び越す、救い出す、保護するなどの意味にも使われる。

ルカ22章7節以下。受難週のピーク過ぎ越しのほふられる夕方、モーセが定めた過ぎ越しの食事が二階の広間に準備された。そして過ぎ越しの感謝と神の愛を覚える最後の晩餐です。主以外誰も数時間後にある受難・十字架の死は予想もしていない時に、遺言を述べられると共に十字架の救い・復活の恵みを記念し覚える為に、聖餐の儀式を定められた。弟子たちはその深い意味は理解できなかったが、復活の主との出会い、聖霊の満たしを受けたその時身をもって理解し、礼拝・聖餐・愛餐を厳守するようになった。

過ぎ越しにヒソプの束で、入り口の柱に塗られた子羊の血は、十字架上に流された神の子羊イエス様の流された血です。ヒソプをもってその子羊の血が神の国の入り口に塗られその門をくぐる者は永遠の生命に預かります。滅ぼすものが過ぎ去り、幸いな神の子とされます。

モーセから血を塗ることを告げられたイスラエルの民は直ちに実行しました。そして救われ、奴隷から自由にされたのです。出エジプト12章33〜42

古のイスラエルのように、神の子羊主イエス様の流された血によって聖められ救われて神の子とされましょう。あの過ぎ越しは今のあなたの私の救いの象徴であり、幸いな人生の出発であると心から感謝して受け取ることが出来ます。

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【私の霊をみ手にゆだねます】ルカ23章32節〜49節

主イエス様の十字架上のみ言葉はご存知の通り七つです。その第六番目は「すべてが終わった」テテロスタイ成し遂げられたとの意味でもあります。その瞬間神殿の聖所を仕切る12枚の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。これは年に一回聖めの業をなした大祭司が入ることができたが、これ以来主の十字架の血によって聖められた者は誰でも入ることが出来るようになった。第七番目のみ言葉は『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』十字架上の最後の言葉です。

日本では聖書の語る霊に相当する意味では使われていませんでした。幽霊とか霊気、死者の霊等と余り良い雰囲気では使用しません。聖書の創世記2章7節『主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。』この命の息が霊の語源です。

神は被造物の中で人間のみに御霊を授けられた。人は神より少し劣るだけの者として創造された。それゆえに人間は万物の霊長なのです。聖書は人間を、霊と心(魂)と体からなる分かちがたくあることが生きているとしています。古代から古今東西、宗教・哲学等は魂と身体の二元論です。魂は永遠性・不死性の故に神聖視し、身体は感覚・官能性の故にこれを低くし、神聖なる魂を肉体の牢獄に閉じ込めている。魂を肉体の牢獄から開放自由にするのが、善行・修養・理性の支配などとしていて、肉体のみが穢れていて魂は聖らかだと信じています。これに対して聖書は、人は罪を犯した罪人として霊も魂も肉体も堕落して滅びてしまい。しかし穢れた理性も欲望に支配された体も、罪を悔い改め罪からの救いをなして、清める力を与えるのが聖なる霊・聖霊です。この聖霊は神が与えてくださるのです。

主は十字架の死の瞬間『成し遂げられた』『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』と言われました。十字架の罪の贖いを、ご自身の死を神の聖霊に支えられて成し遂げられたのです。そうして与えられた聖霊を献げ返されたのです。主は人間生活の最良の隣人愛を超えて犠牲愛を貫徹されました。この神の子の犠牲愛によって、罪を自覚するどのような人にも完全な赦しがなされるのです。神の御霊の力によって人間イエスのご行為がなされたのです。

十字架は人間の側の悪意と陰謀でなされましたが、主の命は罪人達の手にあったのではなく、一切父のみ手の中にあったのです。『我が神、我が神、なんぞ見捨てたもうや』と叫ばれた時も三位一体の神であり、蜜接不離です。罪人に代わって十字架刑を受け、父なる神から見捨てられたようですが、この十字架上で神のみ旨を成就し、完成し成し遂げられた。その時も完全に一体でした。十字架刑では三位一体の神の間の隔絶とまったき一致が実現されています。だから主は平安の中であの時『成し遂げた』『私の霊をみ手にゆだねます』といわれたのです。

私たちも全身全霊を父なる神にゆだねて行きたいものです。苦しいときも、いくら祈っても受け入れられない、病の床にも、いかなる時にも復活の主、父なる神・聖霊が共に居てくださるのです。キリスト者の幸いは全身全霊を父のみ手にゆだねることが出来ることです。この世を去る時、与えられた霊を感謝のうちにお返しするのです。

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【我救われん為に何をなすべきか】使徒16章25節〜34節

この箇所を読むたびに旧約聖書を学んだ米田豊教授を懐かしく思い出します。70過ぎた老牧師がこの高壇で話されたことです。太平洋戦争が始まって2年目の1942年6月26日早朝私達の教団の牧師達が全国一斉に逮捕、教会は閉鎖され集会は禁止されました。天皇を現人神として礼拝を拒否する事が不敬罪にあたり治安維持法違反だということです。敗戦の10月GHQの指令で釈放されるまで警察の留置場、未決の拘置所での生活の時です。聖書も読めないのと、運動不足を補うため独房の部屋をぐるぐる歩き回りながら覚えている聖書の言葉を、そして聖歌を小さな声で口ずさみ1日を過ごしたが天国のここちすとはあの時の事です。キリストを捨てて天皇を拝め、人を神とは出来ぬの押し問答のあげく、殴る蹴るの暴行の毎日です。60過ぎた牧師には辛い日々ですが、み言葉に浸り讃美できる事は感謝であるというのです。

使徒行伝16章ポウロのピリピ伝道で最初の改心者のキリスト者は、神(ヤアウエー)を敬う上流階級の婦人のルデヤ、彼女がヨーロッパ大陸の最初の回心者です。婦人も家族全員もバプテスマを受け、その家庭を解放したのでポウロ達はこの町の伝道の拠点とした。ある時川の辺の祈り場に行く途中気のふれた女奴隷ににあった。占い師(バイト)でしたが、ポウロ達の伝道とそれに伴う神のみ業により正気に戻ったので女奴隷の主人は生活の基盤を失った。主人達はポウロとシラスを広場に連行し、長官に訴えた。20・21節ユダヤ人にかかわらず、町をかき乱しロマの宗教、慣習に反する宣伝をしているというわけです。それで鞭(金属が埋め込まれている)打ちの刑に処し、足かせをして投獄した。真夜中ごろ、二人は神に祈り、聖歌を歌い続けた。囚人達は耳を澄まして聞き入っていた。突然大地震が起こって獄の戸が開きみんなの鎖が解けてしまった。獄吏は目を覚まし、囚人達が逃げ出したものと思い、責任を問われ処刑されるよりはと、剣で自殺しようとした。28節ポウロは自殺をとどめ、囚人は一人残らずいる事を告げた。二人の、囚人を鎮め導く力によって誰一人逃亡していない。看守は生と死の狭間で自分の限界を知った。自殺を決意してそれを止められた彼は、二人に人間の救いの根源的な力を尋ね今や真剣に求めて30「先生方、私は救われるために、何をすべきでしょうか」と生きることの厳粛な場面に出会って、慄きながら、その前にひれ伏して、言った。二人はこたえて「主イエスをキリスト(救い主)と信じなさい、そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」その場で看守も家族全員バプテスマを受けた。

私は台湾の台中近くの山にあると特攻基地そばのトンネル陣地での水の不足のどん底生活の中で、死の隣り合わせのところで、聖書を通して生きる意味を知り、主との出会いを経験しました。イエス様こそ私のキリスト救い主だと信じて50年余感謝のうちに76歳の現在、生かされています。生きている限り主に従い奉仕させていただきたく願っています。

あなたは何のため生きておられますか、あなたの人生を豊かにするため、今、何をなすべきでしょうか。

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【義人は信仰によって生くべし】ハバクク2章1節〜5節

BC605年前後ユダヤ王国エホヤキムの治世は末期的症状が目立ってきた。律法を重んじる気風も宗教的道徳的状態も低下し、国内では対立抗争、北はバビロン、南からはエジプトの圧力干渉があります。預言者ハバククにとって、神に選ばれた選民が罪深い民族が神の道具として裁かれることの疑問を神に問いかけるのです。

なぜこのようなひどい状況を見逃すのか預言者は、ヤウエーの神に迫ります。それに対して神はイスラエルの罪は決して見過ごしにせず、カルデヤ人(バビロン)を起こしてユダを罰すると言われます。預言者は神に背く者の受ける災いを宣告されていた。選民は神に護られるという単純な信仰とは反対に、現実の歴史が展開されている。だからこそ、現実の状況がどうであろうと、ただ神にのみ信頼を置き、いかに困難と試練に満ちた時代であろうと、神を信頼する必要があった。このような信頼と誠実によって、神に従う信仰に立つもの者のみがまことに生きるのだと。神の言葉を2章4節「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」といただいたのです。神のこたえは彼の疑問に対して直接解決するには余り役に立たなく人間ハバククには納得できない事かも知れない。それは丁度ヨブの困難時の神の答のようなものです。彼は理解したわけではないが、神の顕現に接してヨブは全く満足した。預言者も同じであったことでしょう。

使徒パウロは当時各地の教会で起こっていた混乱、問題と、疑問などに対する具体的な解答を与えるために手紙を数多く書きました。ローマ書はまだ会った事のない人々に、経験してきた事等から重要なことを纏めて書いたものです。特に律法厳守こそ救いだとするユダヤ教的自称クリスチャンが各教会を混乱させていた。それに対してポウロはイエスはキリスト(救い主)十字架信仰こそまことの信仰だと各書簡で特にローマ書・ガラテヤ書で強調している。

ルターが律法主義的道徳主義から真の救いを経験したのは、ローマ書1章17「義人は信仰によりて生くべし」のハバククの預言の言葉でした。現在の新約聖書にある旧約からの引照は70人訳というギリシャ語聖書からです。パウロは前の部分で彼はすべて信じる者に救いを得させるのは神の力であると述べますが、神の福音の内容はただ神の力にあるのみではなく、神の義でもある。神の義とは神の正義であり神との正しい関係でもある。ハバククの原典へブル語によると「彼のエムナーによって・・」神にエムナーは真実と訳すが、これは人の場合は信仰と訳します。信仰より信仰に至りとポウロは信仰を強調する。ハバククは「見よ。心の真っ直ぐでない者は衰える(心高ぶる)」しかし、正しい人はその信仰によりて生きる」と。預言者は、カルデヤ人の侵略という国家的危機の中で、神に対する確固不動の信仰に生きる者が究極的な勝利をうるのです。

人間が神の真実に対して信仰を持って応答するのです。神の真実を神の真実として受け容れることが人間の信仰です。プレスタントは神の言葉によって神の顕現に接し生きることが信仰によるキリスト者の生涯であることを確信します。

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【しもべの足を洗う主】ヨハネ13章1節〜17節

受難週の木曜日ローマ法王は集められた12名の人々の足を金盥で洗う行事が毎年行われています。英国聖公会のカンタベリー寺院の大僧正も同じような行事が行われます。偉い人が主イエス様を模範とされることは非常に良いことですが、イエス様の洗足のみ業を誤解させるのではないかと思います。これは十字架刑の前夜の出来事です。13〜17章の告別説教(遺言)は最後の晩餐時、イエス様が12弟子の足を洗うという劇的な状況で開幕した。弟子たちの間で誰が一番偉いかとの議論が起こった時,主が仕えるということを実践なさったのです。

過ぎ越しの祭りは、ユダヤ人にはエジプトの奴隷からの救出を覚え感謝する特別の日です。この祭りに洗足がなされたのは罪を潔めるイエス様の死の力を示し、また晩餐時に聖餐を制定なさったと同じように、主の死の意味を印象的に語られたものです。

1節.「過ぎ越しの祭りの前に」出エジプトの際、イスラエルの家の入り口の二つの柱とかもいに子羊の血を塗られその家の長子の死は過ぎ去った。まことの神の子羊イエス様は、まだ自分のときでないと何回もおっしゃっておられたがこの日、主は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。この過ぎ越しの際、子羊がほうふられる。この最後の晩餐の背後に過ぎ越しがあったことを理解し注目してください。
私の時はまだ来ていないといっておられた主が、今時が来たことを知られ、もう一度、ご自分の生涯の意味を弟子たちに教えなさったのが足を洗う、仕えることです。主が謙遜の手本としてなされたのではありません。僕としての主としてこの世にお出でになった神の子が、自分の時を知って「世にいる・・・・・」その無限の愛の行為の一端です。

主の死にあずかるバプテスマと同じ意味を持ちます。それはペテロに言われたように、足だけではなく、その人の全存在がキリストの十字架の血によって、贖われ救われ、洗い潔められていることを語ります。福音を謙遜という形に道徳化してはなりません。洗足の主の業は、神の無限の愛の行為、神が私たちに仕えてくださる事実なのです。

4・5節、洗うばかりか手ぬぐい足を拭き始められた。ペテロは恐縮してご厚意を辞退したが、後でわかるといわれる主に、手も頭おも洗ってほしいとペテロらしいお調子に乗った表現に対して足のほか洗う必要はない、あなた方はきれいなのだと答えられた。神の御意志に全面的に従うことが信仰です。自分の意思自分の考えで行動することは信仰者の取らぬことです。感謝して主の愛のうちにあることです。バプテスマのヨハネがわたしはかがんで、その靴のひもを解く値打ちもないといいますがそれ以上に自分の罪を意識している私の足おも洗ってくださるのです。ピリピ2章6節以下神が人となられ、十字架の死に至るまで従順に従われた主が、人間の最も低いところを洗われて深い愛をお示しになられたのです。

一切を主にゆだねて足を洗っていただきましょう。十字架の血で洗い潔めていただきましょう。そしてご遺言の15章12節「あなた方互いに愛し合いなさい」の命令に従い。仕えあいましょう。

【黄金の律法】マタイ7章1節〜14節

山上の説教の総まとめといってもよいお言葉が12節です『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である』これは黄金律ゴールデンルールと知られ、山上の説教(垂訓)の御言葉で最も有名です。この黄金律はキリスト教倫理の最高峰です。消極的に日本でも人にされたくないことは人にするなと修身道徳で教え、日本人の対人関係の基本になっています。

7節以下、求めるものは与えられ、捜すものは見いだし、門を叩くものはあけてもらえます。悪いものでも自分の子がパンを求めるに、石を与えるものはないし、魚を求めるのに、へび(おそらくうなぎのようなもの)を与えて子供をがっかりさせたりはしない、天の父はなおのこと愛をもって祈りに応えてよいもの(アガサ)を下さらないことはない。ルカは良いものを聖霊に置き換えている。アガサは複数ですので神が聖霊を通して与えてくださるいろいろの良い贈り物をさします。祈ったものが注文通りの時と場所で与えられるというよりも私たちに何が良いものであるかをご承知の父なる神が、愛のご配慮で実情にかなった良いものを、適切な時と場所で与えてくださるのです。

12節『だから』求め、探し、門を叩く者に、良いもの{アガサ}を与えて下さる父の神の父性愛を知った者は、即ち神の子とされた者、対人関係の中で愛の行為として積極的に黄金律を実践するのです。この黄金律のように積極的な表現は他に見られません。消極的なものは常識的、律法的で、人に迷惑をかけなくてすむものですが、黄金律は神からのもの、神から与えられた恩寵です。隣人の必要に対して積極的にかかわりを持つのです。神の善は対人関係において善を要求する。天に宝を蓄える積極的な実践です。旧約全体(律法、預言者)が黄金律に要約されると主は語られておられるのです。

この黄金律が実践されるためには、マルコ12章18節〜34節『イスラエルよ、聞け、私達の神はただ独りの主である。心を尽くし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』旧約申命記6章4節〜9節参照。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』これより大事ないましめは、ほかにない。レビ19章18節。

申命記6章6「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心を留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。・・・・・・」主はイスラエルに、これから離れないように言明されています。私たちキリスト者は現代のイスラエルですので、昔と同じく私たちにも主は命じられているのです。

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【主にささげられた者】前サムエル1章12節〜28節

息子の献身に大きな信仰的な働きをした3人の母親がおりました。共通するのは祈りの人であったということです。初期教会の最大の神学者アウグスティヌスの母モニカです。彼は乱れた生活をしていた。16才の時からカルタゴで修辞学を修め。19才で母の同意を得ず同棲して2人の子供をもうけました。常に襲いくるい来る肉の誘惑と自分の理想の姿との狭間で苦しむ彼は善悪二元論のマニ教に帰依した。母モニカは常に会堂で涙を流して祈り続けていた。その姿を見た主教アンブロシウスは「安心して帰りなさい、涙の子は決して滅びることはない」と励ました。そして天に召される1年前にモニカの祈りは聞かれ、32歳にアンブロシウスより受洗した。次にスザンナー・ウエスレー、英国の牧師の家の末っ子として生まれ彼女は、5才ぐらいになると、「もし一時間を自分の楽しみのために使ったら、それと同じ時間を神様のためにと使います」と神様に約束して、聖書を読み、祈る時間を大切にした。20才でサムエル・ウエスレーと結婚した。貧しさの中で1日中家事と子供の世話に追われていた。その中で信仰の下落を感じていた彼女は、毎日2時間を祈りと聖書の学びに当てることにした。彼女が19人目の子供を身ごもっている時、牧師館が火事になり、5歳のジョンが二階に取り残されました。彼女は助けてくださいと祈っている時、二人の農夫が火の中に飛び込み助け出して外に出てきた時、屋根が崩れ落ちた。彼女は神様がジョンの為に特別な計画をしておられると感じ、子供たちと朝は旧約1章、夜は新約1章、毎日2回、詩篇を一緒に読み祈った。メソジストを確立したジョン、また牧師で賛美歌を6千余作詞したチャールズも母の祈りの子でした。他の独りはサムエルの母ハンナです。

9節以下、ハンナは涙を流して主の前に祈った。短い祈りの中に彼女は三回も自分は主のはしためと言い、はしために男の子を賜りますなら一生の間ナジル人として主にささげると祈るのです。頭にかみそりを当てないとは、自分の好みで髪を刈り整えない事で、自分の考えで行動しないとのしるしです。彼女は心のうちで物を言っていたので唇が動くだけで声は聞こえなかった。祭司エリは酔っているのだと思ったが、彼女は主の前に心を注ぎだしていたのです。神殿には形式的な祈りが満ちていた。エリもその流れの中にあった。大きな声で美辞麗句を連ね人々から賞賛されようとの祈りばかりでした。集会の祈りは会衆を代表して祈るので皆さんに聞こえなければならないが、個人の祈りは大声の必要はない。唇が動いていることに注目すべきです。祈りは唇の必要があります。何も大声を上げたり、手を叩いたりすべきでないことを示します。心を注ぎだすことが肝心です。神殿になかった祈りがハンナの心の中に生きていたのです。こころから罪を悔いて水を注ぐように心を注ぎだしていたのです。祈りは懺悔と献身でなされるのです。エリは祭司でありながら酒に酔って礼拝堂にいる悪い女と、真剣に祈る女を見分けることが出来なかったが、この祈る女によってエリは祭司に戻って17とハンナを祝福した。彼女は18慈しみを得させてくださいと答えています。(ハンナの意味はいつくしみ)17節のエリの言葉が主イエス様でしたら続けてあなたの信仰があなたを救ったといわれたことでしょう。事実、ハンナの心を注ぎだす祈りは成就しました。

その祈りが成就するとは、男の子が与えられ、一生主にささげナジル人とする事です。両親はその子をサムエル神に聴かれると名付けた。乳離れするのを待ってハンナはサムエルをエリのもとに連れて行き26・27・28といった。ここの祈る・願う・ささげるの語源は同じシャーアルこれはゆだねるという意味でもあります。ゆだねるとは、自分の努力や意志を放棄するのではない。神様は私たちに自由意志を与え自分で計画を立て、自分の意思で努力し実行できるようにと祈りつつ、人間の限界を知り神の御心に従うことが委ねる事です。すべてを神様に委ねた時にエルカナ・ハンナ・サムエル・祭司エリはそこで礼拝をしたのです。28節

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【祈り求める者に賜る聖霊】木部安来牧師

インドのサト・タルでスタンレー・ジョーンズがヒンズー教の退修会方法を参考にしてクリスチャン・アシュラムを始めました。

私は2000年11月に「70周年国際クリスチャン・アシュラム」に連盟の理事長大石嗣郎牧師一行とインドのサト・タルのアシュラムに参加しました。

クリスチャン・アシュラムの精神「イエスは主である」のテーマのもとに生命の開拓者であり、神の思いに満ちたキリストの真理を求め、静聴、開心、充満、献身、奉仕を求め、神の敬虔と、キリストの愛とその思いに充満されることを願う祈祷運動です。世界最高の哲学と、混合主義的傾向の宗教を持つインドに対してキリストのみが保持するイエスの十字架の贖罪は世界に古今無比であることを知りました。

祈りにこそクリスチャン・アシュラムの呼吸があります。真理の御霊なる主への信頼が絶対必要であることを示され確信します。

スタンレー・ジョーンズがある時に賀川豊彦に「祈りは何ですか」と質問しました。賀川先生は「一言で言えば明け渡しです」と答えました。これはキリストの御人格と支配する神の国への明け渡しです。即ち、キリストが父なる神に対すると同じ態度を取ることです。と言うのです。
主イエスの敷設した路線に、祈りを合わせることによって、わたしたちは主の全知全能の愛の能力に結ばれることです。なぜなら、それは、わたしたちが祈っている時に、何を求めるかを教えています。

聖霊は救いのために、充満、献身、奉仕のために働く鋭利な刃で、最も必要なところに贖いのため働き、また、生活の衝動を制御し。喜びと感謝をもつための働きです。聖霊は、潔い聖なるホーリィ・スピリットでありますが、助け主、真理の導き手慰め主、弁護者、カウンセラーであります。聖霊は私達の承諾と協力の下に、自我(恣意的、放縦の自由)を聖別してくださり、キリストにある自由を与えます。

「・・捕らえようと追い求め・・目標を目指して走り・・神の賞与を得ようと努めている」(ピリピ3章13−14)聖潔のニードを与え行動への動力を与えます。

聖霊に満たされた生活は興奮や、大得意になったり、異常な感情的経験や状態ではない。御霊の賜物(カリスマ)は知恵、知識、信仰、癒し、力、預言、識別、異言、異言を解く力が与えられる(1コリント12章7〜1128)使徒ポウロは誰よりも異言を語れるが、異言よりも、預言を語り、証しなさい、更に奨励している。みんなが使徒、預言者、教師、力があり、癒し、異言の賜物を持っているのだろうか。

「だが、あなた方は、更に大いなる賜物(カリスマ)を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最も優れた道をあなた方に示そう」1コリント12章と教えている。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と、希望と愛と、この三つである。このうち最も大いなるものは、愛である」1コリント13章13節。

主イエスは熱心に祈り求める者に似約束なさいました。「・・・自分の子供にはよい物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」ルカによる福音書11章13節

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【過ぎ越しと十字架】出エジプト2章1節〜13節

ご存知の通りキリスト教の最大のお祭りは、クリスマスではなく、イースター復活祭です。クリスマスはAD354年にローマで守られたという記事が残っています。4世紀には広く守られるようになりました。復活祭はキリスト者が主の日として礼拝を日曜日に守るようになったと同じくらい古く、1世紀の半ばごろから守られました。

日本のお祭りと違って、教会のお祭りには準備と感謝の期間が前後あわせて十数週間あります。キリストの十字架を挟んで受難週(パッション・ウィーク)の最後の晩餐まで40日、復活の感謝と主のご約束の聖霊を待ち望む期間がダブって40日です。旧約、またユダヤ教では過ぎ越しの祭りは最大のものです。

モーセは神の命令により、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救うべくパロの前に立ち、十の災害を示したが王は頑なで拒否しました。十番目は王家から、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、またすべての家畜のういごを撃たれるとの宣言ですが、これを無視した。それでモーセはイスラエル全会衆ヘブル語で(コル・エーダー)エーダーは神の命によって集まった集合体これが新約のエクレシヤ教会となった。この会衆に告げた。12章2節この月を正月として、3節〜20節のことをなすべく行動を勧めた。傷のない子羊か子ヤギをとり4日間手元に置き、夕方にこれをほふり、ひと束のヒソプでその血を入り口の二つの柱と鴨居につけなければならない。エジプト人が撃たれる時、塗られた血を見て主はその入り口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなた方の家に入って、撃つのを許さない。通り越すであろう。これをヘブル語でパサハ、ギリシャ語でパスカ飛び越す、救い出す、保護するなどの意味にも使われる。

ルカ22章7節以下。受難週のピーク過ぎ越しのほふられる夕方、モーセが定めた過ぎ越しの食事が二階の広間に準備された。そして過ぎ越しの感謝と神の愛を覚える最後の晩餐です。主以外誰も数時間後にある受難・十字架の死は予想もしていない時に、遺言を述べられると共に十字架の救い・復活の恵みを記念し覚える為に、聖餐の儀式を定められた。弟子たちはその深い意味は理解できなかったが、復活の主との出会い、聖霊の満たしを受けたその時身をもって理解し、礼拝・聖餐・愛餐を厳守するようになった。

過ぎ越しにヒソプの束で、入り口の柱に塗られた子羊の血は、十字架上に流された神の子羊イエス様の流された血です。ヒソプをもってその子羊の血が神の国の入り口に塗られその門をくぐる者は永遠の生命に預かります。滅ぼすものが過ぎ去り、幸いな神の子とされます。

モーセから血を塗ることを告げられたイスラエルの民は直ちに実行しました。そして救われ、奴隷から自由にされたのです。出エジプト12章33〜42

古のイスラエルのように、神の子羊主イエス様の流された血によって聖められ救われて神の子とされましょう。あの過ぎ越しは今のあなたの私の救いの象徴であり、幸いな人生の出発であると心から感謝して受け取ることが出来ます。

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【私の霊をみ手にゆだねます】ルカ23章32節〜49節

主イエス様の十字架上のみ言葉はご存知の通り七つです。その第六番目は「すべてが終わった」テテロスタイ成し遂げられたとの意味でもあります。その瞬間神殿の聖所を仕切る12枚の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。これは年に一回聖めの業をなした大祭司が入ることができたが、これ以来主の十字架の血によって聖められた者は誰でも入ることが出来るようになった。第七番目のみ言葉は『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』十字架上の最後の言葉です。

日本では聖書の語る霊に相当する意味では使われていませんでした。幽霊とか霊気、死者の霊等と余り良い雰囲気では使用しません。聖書の創世記2章7節『主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。』この命の息が霊の語源です。

神は被造物の中で人間のみに御霊を授けられた。人は神より少し劣るだけの者として創造された。それゆえに人間は万物の霊長なのです。聖書は人間を、霊と心(魂)と体からなる分かちがたくあることが生きているとしています。古代から古今東西、宗教・哲学等は魂と身体の二元論です。魂は永遠性・不死性の故に神聖視し、身体は感覚・官能性の故にこれを低くし、神聖なる魂を肉体の牢獄に閉じ込めている。魂を肉体の牢獄から開放自由にするのが、善行・修養・理性の支配などとしていて、肉体のみが穢れていて魂は聖らかだと信じています。これに対して聖書は、人は罪を犯した罪人として霊も魂も肉体も堕落して滅びてしまい。しかし穢れた理性も欲望に支配された体も、罪を悔い改め罪からの救いをなして、清める力を与えるのが聖なる霊・聖霊です。この聖霊は神が与えてくださるのです。

主は十字架の死の瞬間『成し遂げられた』『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』と言われました。十字架の罪の贖いを、ご自身の死を神の聖霊に支えられて成し遂げられたのです。そうして与えられた聖霊を献げ返されたのです。主は人間生活の最良の隣人愛を超えて犠牲愛を貫徹されました。この神の子の犠牲愛によって、罪を自覚するどのような人にも完全な赦しがなされるのです。神の御霊の力によって人間イエスのご行為がなされたのです。

十字架は人間の側の悪意と陰謀でなされましたが、主の命は罪人達の手にあったのではなく、一切父のみ手の中にあったのです。『我が神、我が神、なんぞ見捨てたもうや』と叫ばれた時も三位一体の神であり、蜜接不離です。罪人に代わって十字架刑を受け、父なる神から見捨てられたようですが、この十字架上で神のみ旨を成就し、完成し成し遂げられた。その時も完全に一体でした。十字架刑では三位一体の神の間の隔絶とまったき一致が実現されています。だから主は平安の中であの時『成し遂げた』『私の霊をみ手にゆだねます』といわれたのです。

私たちも全身全霊を父なる神にゆだねて行きたいものです。苦しいときも、いくら祈っても受け入れられない、病の床にも、いかなる時にも復活の主、父なる神・聖霊が共に居てくださるのです。キリスト者の幸いは全身全霊を父のみ手にゆだねることが出来ることです。この世を去る時、与えられた霊を感謝のうちにお返しするのです。

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【我救われん為に何をなすべきか】使徒16章25節〜34節

この箇所を読むたびに旧約聖書を学んだ米田豊教授を懐かしく思い出します。70過ぎた老牧師がこの高壇で話されたことです。太平洋戦争が始まって2年目の1942年6月26日早朝私達の教団の牧師達が全国一斉に逮捕、教会は閉鎖され集会は禁止されました。天皇を現人神として礼拝を拒否する事が不敬罪にあたり治安維持法違反だということです。敗戦の10月GHQの指令で釈放されるまで警察の留置場、未決の拘置所での生活の時です。聖書も読めないのと、運動不足を補うため独房の部屋をぐるぐる歩き回りながら覚えている聖書の言葉を、そして聖歌を小さな声で口ずさみ1日を過ごしたが天国のここちすとはあの時の事です。キリストを捨てて天皇を拝め、人を神とは出来ぬの押し問答のあげく、殴る蹴るの暴行の毎日です。60過ぎた牧師には辛い日々ですが、み言葉に浸り讃美できる事は感謝であるというのです。

使徒行伝16章ポウロのピリピ伝道で最初の改心者のキリスト者は、神(ヤアウエー)を敬う上流階級の婦人のルデヤ、彼女がヨーロッパ大陸の最初の回心者です。婦人も家族全員もバプテスマを受け、その家庭を解放したのでポウロ達はこの町の伝道の拠点とした。ある時川の辺の祈り場に行く途中気のふれた女奴隷ににあった。占い師(バイト)でしたが、ポウロ達の伝道とそれに伴う神のみ業により正気に戻ったので女奴隷の主人は生活の基盤を失った。主人達はポウロとシラスを広場に連行し、長官に訴えた。20・21節ユダヤ人にかかわらず、町をかき乱しロマの宗教、慣習に反する宣伝をしているというわけです。それで鞭(金属が埋め込まれている)打ちの刑に処し、足かせをして投獄した。真夜中ごろ、二人は神に祈り、聖歌を歌い続けた。囚人達は耳を澄まして聞き入っていた。突然大地震が起こって獄の戸が開きみんなの鎖が解けてしまった。獄吏は目を覚まし、囚人達が逃げ出したものと思い、責任を問われ処刑されるよりはと、剣で自殺しようとした。28節ポウロは自殺をとどめ、囚人は一人残らずいる事を告げた。二人の、囚人を鎮め導く力によって誰一人逃亡していない。看守は生と死の狭間で自分の限界を知った。自殺を決意してそれを止められた彼は、二人に人間の救いの根源的な力を尋ね今や真剣に求めて30「先生方、私は救われるために、何をすべきでしょうか」と生きることの厳粛な場面に出会って、慄きながら、その前にひれ伏して、言った。二人はこたえて「主イエスをキリスト(救い主)と信じなさい、そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」その場で看守も家族全員バプテスマを受けた。

私は台湾の台中近くの山にあると特攻基地そばのトンネル陣地での水の不足のどん底生活の中で、死の隣り合わせのところで、聖書を通して生きる意味を知り、主との出会いを経験しました。イエス様こそ私のキリスト救い主だと信じて50年余感謝のうちに76歳の現在、生かされています。生きている限り主に従い奉仕させていただきたく願っています。

あなたは何のため生きておられますか、あなたの人生を豊かにするため、今、何をなすべきでしょうか。

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【義人は信仰によって生くべし】ハバクク2章1節〜5節

BC605年前後ユダヤ王国エホヤキムの治世は末期的症状が目立ってきた。律法を重んじる気風も宗教的道徳的状態も低下し、国内では対立抗争、北はバビロン、南からはエジプトの圧力干渉があります。預言者ハバククにとって、神に選ばれた選民が罪深い民族が神の道具として裁かれることの疑問を神に問いかけるのです。

なぜこのようなひどい状況を見逃すのか預言者は、ヤウエーの神に迫ります。それに対して神はイスラエルの罪は決して見過ごしにせず、カルデヤ人(バビロン)を起こしてユダを罰すると言われます。預言者は神に背く者の受ける災いを宣告されていた。選民は神に護られるという単純な信仰とは反対に、現実の歴史が展開されている。だからこそ、現実の状況がどうであろうと、ただ神にのみ信頼を置き、いかに困難と試練に満ちた時代であろうと、神を信頼する必要があった。このような信頼と誠実によって、神に従う信仰に立つもの者のみがまことに生きるのだと。神の言葉を2章4節「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」といただいたのです。神のこたえは彼の疑問に対して直接解決するには余り役に立たなく人間ハバククには納得できない事かも知れない。それは丁度ヨブの困難時の神の答のようなものです。彼は理解したわけではないが、神の顕現に接してヨブは全く満足した。預言者も同じであったことでしょう。

使徒パウロは当時各地の教会で起こっていた混乱、問題と、疑問などに対する具体的な解答を与えるために手紙を数多く書きました。ローマ書はまだ会った事のない人々に、経験してきた事等から重要なことを纏めて書いたものです。特に律法厳守こそ救いだとするユダヤ教的自称クリスチャンが各教会を混乱させていた。それに対してポウロはイエスはキリスト(救い主)十字架信仰こそまことの信仰だと各書簡で特にローマ書・ガラテヤ書で強調している。

ルターが律法主義的道徳主義から真の救いを経験したのは、ローマ書1章17「義人は信仰によりて生くべし」のハバククの預言の言葉でした。現在の新約聖書にある旧約からの引照は70人訳というギリシャ語聖書からです。パウロは前の部分で彼はすべて信じる者に救いを得させるのは神の力であると述べますが、神の福音の内容はただ神の力にあるのみではなく、神の義でもある。神の義とは神の正義であり神との正しい関係でもある。ハバククの原典へブル語によると「彼のエムナーによって・・」神にエムナーは真実と訳すが、これは人の場合は信仰と訳します。信仰より信仰に至りとポウロは信仰を強調する。ハバククは「見よ。心の真っ直ぐでない者は衰える(心高ぶる)」しかし、正しい人はその信仰によりて生きる」と。預言者は、カルデヤ人の侵略という国家的危機の中で、神に対する確固不動の信仰に生きる者が究極的な勝利をうるのです。

人間が神の真実に対して信仰を持って応答するのです。神の真実を神の真実として受け容れることが人間の信仰です。プレスタントは神の言葉によって神の顕現に接し生きることが信仰によるキリスト者の生涯であることを確信します。

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【しもべの足を洗う主】ヨハネ13章1節〜17節

受難週の木曜日ローマ法王は集められた12名の人々の足を金盥で洗う行事が毎年行われています。英国聖公会のカンタベリー寺院の大僧正も同じような行事が行われます。偉い人が主イエス様を模範とされることは非常に良いことですが、イエス様の洗足のみ業を誤解させるのではないかと思います。これは十字架刑の前夜の出来事です。13〜17章の告別説教(遺言)は最後の晩餐時、イエス様が12弟子の足を洗うという劇的な状況で開幕した。弟子たちの間で誰が一番偉いかとの議論が起こった時,主が仕えるということを実践なさったのです。

過ぎ越しの祭りは、ユダヤ人にはエジプトの奴隷からの救出を覚え感謝する特別の日です。この祭りに洗足がなされたのは罪を潔めるイエス様の死の力を示し、また晩餐時に聖餐を制定なさったと同じように、主の死の意味を印象的に語られたものです。

1節.「過ぎ越しの祭りの前に」出エジプトの際、イスラエルの家の入り口の二つの柱とかもいに子羊の血を塗られその家の長子の死は過ぎ去った。まことの神の子羊イエス様は、まだ自分のときでないと何回もおっしゃっておられたがこの日、主は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。この過ぎ越しの際、子羊がほうふられる。この最後の晩餐の背後に過ぎ越しがあったことを理解し注目してください。
私の時はまだ来ていないといっておられた主が、今時が来たことを知られ、もう一度、ご自分の生涯の意味を弟子たちに教えなさったのが足を洗う、仕えることです。主が謙遜の手本としてなされたのではありません。僕としての主としてこの世にお出でになった神の子が、自分の時を知って「世にいる・・・・・」その無限の愛の行為の一端です。

主の死にあずかるバプテスマと同じ意味を持ちます。それはペテロに言われたように、足だけではなく、その人の全存在がキリストの十字架の血によって、贖われ救われ、洗い潔められていることを語ります。福音を謙遜という形に道徳化してはなりません。洗足の主の業は、神の無限の愛の行為、神が私たちに仕えてくださる事実なのです。

4・5節、洗うばかりか手ぬぐい足を拭き始められた。ペテロは恐縮してご厚意を辞退したが、後でわかるといわれる主に、手も頭おも洗ってほしいとペテロらしいお調子に乗った表現に対して足のほか洗う必要はない、あなた方はきれいなのだと答えられた。神の御意志に全面的に従うことが信仰です。自分の意思自分の考えで行動することは信仰者の取らぬことです。感謝して主の愛のうちにあることです。バプテスマのヨハネがわたしはかがんで、その靴のひもを解く値打ちもないといいますがそれ以上に自分の罪を意識している私の足おも洗ってくださるのです。ピリピ2章6節以下神が人となられ、十字架の死に至るまで従順に従われた主が、人間の最も低いところを洗われて深い愛をお示しになられたのです。

一切を主にゆだねて足を洗っていただきましょう。十字架の血で洗い潔めていただきましょう。そしてご遺言の15章12節「あなた方互いに愛し合いなさい」の命令に従い。仕えあいましょう。

【律法の実践者イエス様】出エジプト20章1節〜17節

ヤァウエーの神はモーセを通して十戒を守るべく、イスラエルに与えられた。前の4戒は神と人間の関係が述べられ、あとの6戒は人間間の関係についてのものです。人間関係の戒めの最初に『あなたの父と母を敬え』とありまして、人間関係の基本であることを示します。その実践がヨハネ19章23節〜27節に記されています。主は『私が律法や預言者を廃するために来たのではなく、・・・成就するために来た』マタイ5章17.とおっしゃった通りに実行なさいました。

十字架につけた4人の兵士は予言の通りに、主の上着と下着をわけくじ引きにした。十字架のそばには、主の母マリヤと他に3人の女性が佇んでいた。母は多くの場合その子の理解者です。又母は愛情を持って子の将来に幸せな夢を描きます。しかし子はしばしば母の理解と常識を超えてその手より遠くへと飛び去ります。マリヤにとって子としてのイエスの生涯は理解外のことだったでしょう。

誕生のとき天使は『恵まれた女よ』と呼びかけられ、素晴らしい約束を続けた。羊飼いや博士達がお祝いに来た時、主のなされる奇跡や説教を人づてに聞いたとき、おそらく自分こそは神に恵まれた者だと感謝したことでしょう。しかし今、ゴルゴダの丘に佇む彼女には夢の中の出来事のように感じたことでしょう。シメオンが幼子イエスを抱いて、マリヤにあなた自身も剣で胸を刺し貫かれると告げましたが、そのように息子イエスの手と体と同様に、心は釘や槍で傷ついていました。

マリヤには想像もつかぬ高潔な十字架上の主の姿です。敵を愛し、悔い改めた十字架の犯罪者罪人に、今宵われと共にパラダイスにあると約束された主は、今度は新しい救いの道を示されるのです。

母に対する思いが、愛する弟子ヨハネに目を留められた。そして『グナイ(貴婦人)御覧なさい、これがあなたの子です』弟子ヨハネに『ごらんなさい、これはあなたの母です』と短いが心のこもった愛の言葉を苦痛の中から語りかけられます。愛弟子ヨハネは直ちにマリヤを手元に引き取りました。

マリヤは本能的な母性愛から開放されなければならなかった。イエスを自分が生んだ肉の子としてみている限り、十字架による真の救いはなく、父なる神との出会いも起こらないのです。これからマリヤは、ヨハネの家で、弟子達の間で、彼達の母として仕えるべき霊的家族関係、兄弟姉妹となるのです。そしてまことの教会の基礎を造るのです。

マリヤは崇められ礼拝される存在ではありません。キリストに従う信徒たちに奉仕する道を、主は十字架上から示されているのです。『ごらんなさい』とマリヤとヨハネに対しての主のご命令です。来主日は復活祭と母の日です。子としての親との関係、母として子に対する愛の関係を見直すことを主は又語りかけておられます。ほんとの意味の霊的家族関係、交わりを確立しなければなりません。それが主イエス様のご御心です。

【とりなしの祈り】ルカ23章32節〜38節

イエス様の十字架の状況の中に、無数の旧約聖書の成就を見ます。二人の犯罪人の中央にイエスは磔にされた。くじでイエスの着物を分けた。民衆はそばに立って眺め、指導者たちはあざ笑って「彼は他人を救った。もし彼がキリスト選ばれたものであるなら、自分自身を救うがよい」と、兵卒どもも酸いぶどう酒を差し出し「あなたがユダヤ人の王なら自分自身を救いなさい」と言った。ルカはこのような人々や十字架に釘付ける人々に対するイエス様の赦しと、とりなしなしの祈りをのべるのです。
イエスに対し敵対するものに対するとりなしの『父よ、彼らを。御赦し下さい。

何をしているのか、わからずにいるのです』との祈りは、彼らの残酷さは一つも主を苦しめていないことを語っている。主の善意を悪意に、平安な恵みを野性的復讐に取り替えるなど、何ものをもってしても主を惨敗させることは出来なかった。私達の敵は肉体を苦しめるように、魂を傷つけることが出来るだろうか、十字架上のような苦痛の中で敵に愛を持つことが出来るだろうか、苦痛の中から父よと呼びかけられるでしょうか、苦い杯最後の一滴まで飲めるでしょうか、父なる神への信頼と服従を失うことなく、いかなる時にも父よと呼びかけられましょうか、主は子と呼ばれる資格のない放蕩息子に「アバ父よ」と呼びかけることを許してくださり、われらの父よと祈ることを教えてくださった。この呼びかけには聖いお方が罪人に対し愛を持って接して下さる姿をみるのです。主がとりなされた彼らとは誰でしょう、謀議を凝らし、直接十字架に釘付けた者のみでしょうか、何人もキリストの十字架の前で私には関係ない、罪がないとは言い切ることが出来ません。私もあなたもそうです。

キリストがとりなされたのは、ゴルゴダの丘にいた人のみではなく、今ここに立つ私自身のためです。罪とは借財のようなもので、必ず返さねばなりません。しかし人格の負債は私たち人間には償い弁償することは出来ません。ただ債権者の神様のみが痛みを背負って、一方的に赦すことができるのです。この債権者の十字架の痛みによってのみ赦され罪は十字架によってのみ消滅するのです。法律は数多く存在し、知らなかったでは罰を逃れることは出来ません。まして神様に対して弁解の余地も、言い逃れることは出来ません。それでも自己認罪するものの罪主は何の功しなしに十字架上で赦して下さいます。私達の愚かさ、故意に、あるいは悪意で、十字架の主をあざ笑い、賛成しても、主キリストは悔いる者を七度を七十倍どころか、七十万倍も赦してくださるのです。

教会最初の殉教者ステパノはそのとき「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と主の教えられた通り「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」を実行し、主の十字架上の第一のみ言葉に応答しました。とりなしの祈りは十字架を負わねば出来ないものです。愛の行為が伴うのです。

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【主は心の痛みと病を負われた】イザヤ53章1節〜12節

主は習慣的といってもよいほどゲッセネマネの園で祈りのときをもたれました。その事を熟知していたユダに導かれて祭司長に送られた大勢の群衆は、剣と棒を持って主を捕らえにきました。主を知らせる合図はユダの接吻でした。彼たちはその後主の顔につばきし、こぶしで打ち、侮辱して手のひらで叩きました。ピラトは主を鞭打たせ、兵士は茨で編んだ冠をかぶらせ、葦の棒をシャクのように持たせ、つばきし、棒を取り上げて頭を叩いて嘲弄した。そして十字架に釘付け、わき腹を槍で突き刺した。キリストは頭から足の先まで血を流し血だらけでした。しかし誰一人助ける者はありませんでした。

このことを前ペテロ2章22〜24「ののしられても、ののしり返さず、苦しまれてもおびやかすことをせず・・・・・」と語っています。どのようにして私達が罪に死に救われて義に生き、魂と体との病から癒されたのでしょうか、なぜその為に主は傷つけられ血を流さねばならなかったのでしょうか、その事は約740余年前頃イザヤが預言しました。特に神の僕についての53章です。

1節誰が・・信じたか、誰に主の力腕が現れたかと疑問詞で始まっていますが、感嘆詞でしょう。われわれが伝えられる言葉を信じることは自分の力でなく、驚嘆すべき主のみ腕の力による。宣べ伝えられる事を信じることは主の血の力を信じることです。エジプトの奴隷からの救い出したその力です。信仰は神様からの賜物です。頼りにならない人の力で信仰を獲得したのではありません。神様がこの力を現さない限り人の回心はありえないのです。

2節〜5節はイザヤ書の中心です。主は私達の身代わりとして懲らしめを受けられましたが、それは報復的刑罰の意味ではありません。矯正と快復の為です。私達の平安の為の懲らしめが彼の上にあった。本来なら私の受けるべき懲らしめが主の僕の上にかかり、私に平安が与えられた。平安とはヘブル語のシャローム神と人との断絶の回復により心の安きをうる事です。

「その打たれた傷によって癒された」人間の貧困・傷病・罪悪がキリストの十字架による恵みと愛によって、真の愛・健康・救いに移された事は実に喜ばしいことです。しかしその喜びの為の主の犠牲は26章47〜68と27章1〜54十字架とそれに至るまでの苦痛受難があった。また鞭打たれ(鞭には三角錐の金属が埋め込まれている)

茨の冠をかぶらされ、唾され、侮辱、十字架に釘付けられ、孤独と絶望の中に「エリエリレマ、サバクタニ」我が神、我が神、何ぞ、われを見捨てたもうやと叫ばれ、ついに槍で突き刺され傷つけられ贖いの死を遂げられた。私達の罪の為に、大きな代価を払われた。十字架の流された血と、裂かれた傷との物々交換で、あなたと私は救われ生命が与えられたのです。

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【神のもののみをもって神に仕えよ】ヨハネ黙示録3章14節〜22節

ラオデキヤの町は経済的に繁栄していた。一方信者達の信仰はキリストに対する無関心から堕落しきっていた。七つの教会中で何一つ褒めるべきものを見出すことが出来ず。この教会に対する復活の主の叱責はものすごい迫力を持っている。彼達はノックされる主を締め出しているのが彼たちの信仰生活です。

ラオデキヤは東西を結ぶ要衝の地で、商業都市として富裕を誇っていた。当時の世界の商業中心地として金融業・毛織物・目薬は眼病の特効薬として当時の全世界に輸出されていた。豊かさの為心の貧しさに気がつかず、外面を着飾り、自分の本当の姿を見ない盲目さがあった。
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アーメンたる者復活の主は言われる。アーメンとは厳粛な言明、宣言の後、その真実性を保証し強調するとの意味です。アーメンの神は信頼でき、その言葉は安心して受け入れられ、約束は確実に果たされるお方です。財政的な富は、彼達に財力の蓄積の故に他に何ものおも必要としなかった。これに対して復活の主は、火で精錬された金を求めるよう勧められた。火で精錬された金、ペテロは信仰を表すと述べる。富は多くの事を可能にするが、富を蓄積しても幸福を買う事が出来ず、心身の健康も獲得する事も出来ない。もし金だけで人生を送ろうとする人は真に貧しい人です。しかし試練に耐え抜き、鍛えられた信仰があるならば、どんな事態にも対処できます。

ラオデキヤの毛織物は黒い艶のある羊毛で出来た贅沢な物です。彼達は自分の貧困と盲目にきづかず外面を飾っているが、その恥をさらさぬために神に清められた白い衣を身に着けるため買うのです。私達は自分について的確な判断をする為には本当の姿を知らねばなりません。目薬はものを見る点では効果があるが、真理を見極め自分の本当の姿を見るにはキリストの光のみ必要です。

そのことをなさせるために19節、厳しい叱責は愛する者に対する愛ゆえです。彼たちは熱心になって、きっぱりと悔い改めるようにと主は諭されます。主はすべての人の心の戸をたたかれます。それに応えて戸を開き主を迎え入れるのは個々人の決断に任されます。キリストは戸を自ら開く心にのみ入いられて食を共にされ交わりに招かれるのです。そしてこの世の戦いに勝利を得た祝福の晩餐に、再臨の主と栄誉を受けるのです。
その祝宴に侍る為には自分の力・富・見せ掛けでは再臨の主に見えられません。自分のものでは神に仕えることは出来ません。主が準備され与えてくださる火で精錬された金即ち信仰と、ぜいたく品の毛織物ではなく、キリストの義の衣をまとって主の前に立つのです。そのことが可能とするキリストの光にてらされて自分の本当の姿を霊の眼で見えるよう神の目薬を塗りなさいと勧められます。神に仕えるに神のもののみをもってなさるべきなのです。

神様は愛するものを懲らしめて間違いにきづかせますが、神の愛を拒絶する者には自由にしたいようにさせます。その行く先は滅びです。神様の信仰によって、熱心になって悔い改め、霊の眼を開いていただき、主と共に晩餐の祝宴に連なりましょう。

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【イスカリオテのユダの誤解】マタイ26章47〜56節

1節〜5節、主イエス様は2日後の過越しの祭りが始まると敵の手に引き渡され十字架につけられることを予告なさった。同じ頃一方ではサンヘドリン(国会と最高裁判所)の臨時会議が開かれ二つの決議がなされた。第一は策略によってイエスを騙して逮捕し殺そうと相談した。それは論争に負けて主の言行に罪を見出すことが出来なかった故。第二は5節祭りの間はいけない。民衆の中に騒ぎが起こるかもしれないと、逮捕は祭り後に行うこととした。そこにユダが現れ主を銀貨30枚で主をひそかに引き渡すことになった。ここで主の予告どおりのことが起こることになった。

なぜユダは12弟子の一人でありながら主を裏切ったのか、ナゼ、ユダは救われなかったのか等。そこにはユダの誤解、私達の疑問があります。確かにサンヘドリンの議決に反して、イエス様の予告どおり実現したのは、ユダの裏切りにありました。

ユダの裏切りの理由は幾つか指摘されてきたが、ユダの悲劇の真の原因は、同じく私達にも起こりうることですガ、キリストの御心に従って歩むのではなく、自分の描くメシヤ(救い主)・キリスト像にイエスを当てはめて解釈したためです。

ユダはメシヤ救い主を、旧約聖書の詩人や預言者たちの一部が考えていたように、すべての外国支配を排除して、イスラエル王国を回復し、世界的権威を獲得政治的・民族的指導者と考えていたのです。それは公生涯の出発時のサタンの試みの第三の誘惑と同じです。サタンはこの世の国々その栄華を見せ、ひれ伏して私を拝むならこれらのものをみなあげましょう。主はそれに「サタンよ退け、『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と拒否なさったそのものです。

イスカリオテとはカリオテのイス(人)という意味です。福音書の記者達は、十字架の直後であっただけにユダを人でなしのように言っていますが、彼だけが生まれつき貪欲・不正直・悪人・恩知らずであったわけではありません。彼も他の弟子達と同じ様に家族・財産などを捨てて主に従ったのです。しかも他の弟子達は北方ガリラヤの出身者ばかり、彼はただ一人南方ユダヤのカリオテ出身でした。彼は会計の要職を委ねられる程の能力を持った人です。狐にはすむ穴があるが私には住む家がないと言われる主イエス様の財布から掠めるほどのものではなく、金の為に主を裏切ったとしても銀30枚(数万円)ではあまりにも小額です。

6節〜13節マリヤが主の頭に香油を注いで葬りの準備をしたのだと主が言われた時、マリヤを非難した弟子達の中にユダもいたことでしょう。そして誰よりもイエスの予告した死を確信していたのでしょう。その彼にサタンが忍び寄り15節「彼をあなた方に引き渡せば、いくらくださいますか」と言わしめた。私は今ユダが貪欲の故にイエス様を裏切ったとは思いません。おそらく主もそのようには考えてはおられなかったと思います。最後の晩餐で他の弟子達にきずかれない様に20〜25彼になすべきことをなせとのみ言葉で、裏切りを止めさせようとなさっている。

偏狭な愛国心や自己流のキリスト解釈はいつも信仰を誤ませます。最後の晩餐での主のお気持ちに反して去ったときは夜であった。希望に閃きもない暗夜です。ユダの魂は暗夜です。

しかし、ユダの裏切り、人間の反逆はキリストからの破門ではありません。そむいても裏切っても3度否んでも、主から逃げても、主は決して見捨てられません。主は裏切り者ユダに対しても友よと呼ばれる。(50節)主は人を呼ぶ時、敵に対してさえ兄弟と言われる。

主を十字架につけ、あるいは自称キリスト者といいながら、主を非難中傷する者にも、十字架の上から、友よ、兄弟よと、悔い改めることを待ちたもうそして救いの業をなされます。

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【メシヤ(救い主)とモーセ(引き出す)】出エジプト2章15節〜25節

父なる神は、イスラエルの救いのためにモーセを、人類の贖いのために主キリストを送られた。贖いとはヘブル語では身代金を意味する。奴隷を買い戻す際に用い聖書ではこの動詞を救うと訳します。主イエス様は人類の贖いの為この世に遣わされ、モーセはイスラエルを奴隷から救う為に80年の訓練を経てエジプトに送り返された。送るとは自分の代わりに誰かを、或いは何かを送ることです。それは自分の本質と変わらぬものを派遣することでもあります。父なる神はご自分の民(イスラエルと信じる人類)にそれぞれにモーセと主イエス様を救い或いは贖う方として送られました。

旧約の人物はイエス様の模型として示されている場合が多くあります。モーセの奴隷救出が主の十字架による人類の贖いによる救いの予表であり、彼の若い時のエジプト人に虐待される同胞に対する同情、今日のテキストにあるミデアンの祭司リウエルの娘たちを他の羊飼いから守り助けた事等、弱い者に対して強者の横暴を許せぬ性格等等イエス様に見られるものです。

歴史的に見ると、モーセの指導による救いは、奴隷の地エジプトから脱出して約束の乳と蜜の流れる地カナンの定住でした。この贖い救いによってイスラエルの歴史が始まり、ヤァウエーとの契約がとこしえのものと定められた。これは主に救われ新生したキリスト者に対する新しい契約(新約)を語ります。

第2の贖いは、バビロン捕囚からの帰還と国土の回復です。イスラエルは神様が最初から変わらず契約に堅くたっておられることを知り、自分たちが不信仰・不忠実であることを知らされた。現在の私達の認罪です。

第3の贖いは、キリストは人類の救いのために、ご自身の命を身代金として献げ罪の赦しを得られるようなさった。

第4の贖い。キリストは、神の子羊であり、私達が神と和解し神の養子と成すために死んで下さった。そのことを信じ告白することによって救いが行われます。

旧約聖書から新約聖書を見る。又新約から旧約を見る時、神様のご計画・愛・三位一体の神、真理等のすべてを知ることが出来ます。このような見方をしなければ間違った信仰に陥り或いは信仰から脱落します。モーセのエジプト脱出、イエスキリストの十字架の贖い・救い。そこに真実の信仰を見るのです。

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【あなたの信じた通りになるように】マタイ8章1節〜17節

山上の説教を終えられて、山から下りてこられた主の下におびただしい大勢の人々が主に従ってきた。その中にハンセンシ病を患ていた人がいた。2節彼はひれ伏して主に言った「御心でしたら、清めていただけるのですが」この病は当時穢れたものとして人々から離れて生活していた。主は手を伸ばして彼にさわり(誰も体にさわることをしない)清められた。旧約聖書に定められたように、祭司に見せ癒されたことを認めてもらい、モーセの命じた供え物をして全快の証明をなし社会生活に戻ることを命じられた。続いて百卒長の癒し、ペテロの姑の癒しが述べられ、これらはイザヤ53章の『彼は、私達のわずらいを身に受け、私達の病を負うた』の予言の成就だと述べる。三年後の十字架で人類の罪・わずらい・病を負われ、肉を裂き、血を流された贖いの先行的業なのです。

前と後の癒しは旧約を信じたユダヤ人の癒しですが、2番目の癒しはユダヤ人と違った主イエス様の異邦人に対するご姿勢が理解できます。百卒長はローマ軍団の中枢で最優秀軍人であった。軍団は60の百人部隊から構成されていた。
新約に見る百卒長の多くは尊敬すべき人物達です。十字架上のイエス様を神の子と認めた隊長(二七54)カイザリヤの最初の異邦人の改心者コルネリオ(使徒十1〜48)

ポーロを鞭打ちの拷問から救った百卒長(使二二26)ポーロ殺害陰謀から守った隊長達(使二三23)ポーロのローマ行きに同行した百卒長(使二七43)などです。主の身元に来た百卒長は息子のように愛していたしもべが、ルカによると死にかけていた。ローマ法では生殺与奪の権を持っていた主人が奴隷に対してこのような愛を持っていることに、その人柄がわかります。ルカはこの隊長はユダヤ人が穢れているとする異邦人ゆえに、長老たちを遣わせて頼んでいる。彼たちは隊長の願いを聞いてくださるように哀願し、彼は私達の国民を愛し私達のために会堂を立ててくださった人ですと述べている。マタイは主が『私が行って直してあげよう』と言われたことに対して隊長は「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただお言葉を下さい。そうすればしもべはなおります」ここは謙遜であり、自分の置かれている立場を知り職業を通して信仰の真髄を理解させています。私達の傲慢はいつでも主の道を妨げ、謙遜はいつでも神に通じさせます。心の貧しい者はすでに神の国にいる、そして、神の恵み深い力は、彼らの求めに従って与えられる。

この隊長は隣人の苦痛を深く感じている。単なる同情ではなく、彼の痛み苦痛に共感している。私達は哀れみ深い愛の深い感受性をお持ちになっている主と同じように隣人、人類の痛み・苦しみ・悩みの叫びに共鳴したいものです。

この百卒長に信仰による徳を見ることが出来る。ただみことばを下さいと、彼は主のみ言葉をあたかも兵卒を自由に動かす上官の命令のように思った。その命令は下されると同時に実行される。彼が硬く信じるように主が『あなたの信じたとおりになるように』と言われたその時、離れたところいた僕は癒された。主のみ言葉は命の源です。主のみ言葉は力の導火線です。愛のみことばが語られると、信じた通り奇跡はいつでも行われます。み言葉がうち開かれるとき光が放たれるのです。

主は百卒長に言われた『行け、あなたの信じた通りになるように』そうです信じた通りに中風は癒されました。私たちが祈るとき確信を持って祈るとき主は受け入れてくださいます。考え信じた以上のことは起こりません。今も主は『行け、あなたの信じた通りになるように』と同じ言葉をお語りになります。

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【くすしきみわざを語れ】詩篇105篇1節〜15節

本篇はハレルヤ讃美・ホードゥ感謝の詩篇です。イスラエルの民にとってエジプトの奴隷から救われ、出エジプトは民族として忘れられない奇跡的みわざとして常に感謝の出来事でして数千年来過ぎ越しの祝いとして古式そのまま毎年守り続けています。

1節この出来事は大いなる救出の証し故に呼ばわり宣布せよと異邦人伝道の使命が命じられる。聖書の語る証しは神と人との関係を体験しそれを言葉で言い表して神の愛・恵みをご紹介することです。イスラエル民族には忘れられない事であることがあの十戒の前文に『私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである』と述べ『あなたは私のほかに、なにものをも神としてはならない。』と続く。イスラエル民族にあった主にあるこの証は、私たちキリスト者一人一人にも同じような証しが必ずあります。主との出会いによって救われた体験をしています。それは実に神のなされたくすしきみ業であり奇跡であるその経験を語り感謝し、讃美することが証しなのです。

語るときには先ず第一に、コリント第一14章15知性で讃美し語るのです。信仰には感性も非常に大事です。しかしそれだけではここに述べられますように自己満足に陥って隣人を躓かせます。それに知性の裏付けがあれば主を紹介する証しにもなります。

ここでポーロが異言問題を取り上げたのは集会において意味のわからないことばを語って新しい人々をとまどわせ教会・キリスト教を誤解させないためです。主イエス様は病の癒しなど多くの奇跡をなさいましたが、愛のゆえに苦しみを取り去られたのであって、人を集めたり個人宣伝をなさるためではありませんでした。そのことを他の人に知らせるなと念を押しておられます。

そもそも異言とはペンテコステの聖霊降臨により聖霊に満たされた弟子達が集まっている多くの国の人々にわかることばで語ったことが起源です。それがやがて意味のないことばで祈ったり語ったりするようになったある意味における異端です。ポーロは神と語る異言、理解できる異言は認めます。又御霊による癒しも私も認めますがこれは神の賜物カリスマです。これは宣伝伝道に使うべきではありません。人の徳を高めることにはなりません

第二にポーロの書簡は、福音書、キリスト体験を具体的生活の中でいかに生きるかを証したものと解釈しています。それがテモテ第二3章15・16にある意味です。歴史に現れた三位一体の神は、旧約聖書の時代は父なる神が、人間となられた主イエス様の時代、主イエス様が父のみもとに帰られその代わりに聖霊がこの世に遣わされ私達を導かれています。それゆえに私たちの証しは自分の徳を立てるためだけではなく、聖霊の導きにより人の徳も高めるのです。

あなたに与えられた主の恵みを数えてみましょう、個人個人の生活の隅々まで捜し求めましょう、私たちの人生の暗い断片のうちに、失敗と絶望の中に、じっと見入りますと、そのようなところにも神が育てられた美しい花を数多く発見します。私たちの人生には驚くべき神の恵みを数多く見出し感謝(ホードゥ)し神をほめたたえる(ハレルヤ)
を讃美するのです。数えてみよ主の恵み。ハレルヤ

【サタン(悪魔)との戦い】マタイ4章1節〜11節

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にバプテスマを受けられた後主イエス様は悪魔の誘惑を受けたと、御自らの口から自伝的物語として弟子達は直接聞いたように述べられています。1節に御霊によってとあるがこの誘惑は神のみ旨です。バプテスマによって神の子・神のしもべとして任職された勤めを拒ませようとの誘惑でした。

誘惑には外的、内的両面があります。聖書は誘惑する者の実在者として悪魔を示しています。悪魔はギリシャ語でディアポロス中傷誹謗する者、神を人に誹謗し、人を神に訴え責めるものです。辞書には日本語の悪魔は梵語マラの略で人の善事を妨げる悪神、人の心を惑わし悩まし乱す悪霊仏教的です。イエス様は誘惑を受けられた。誘惑にはそれに陥って失敗するかどうかを試す側面もあります。
イエス様が受けた誘惑は受洗したキリスト者にも同じくあります。キリスト者として神のみ旨にかなった生活には主のようにサタンに勝たなければならない。

第一の誘惑は、もし神の子なら・・・はずだ、もしあなたがキリスト者なら祈りが聞かれるはずだ。もし聖霊に満たされているなら力に満たされ、異言を語り、神癒の業がある筈だ。もし・・はずだと信仰もどきを持ち出すと異端になる恐れがあります。40日40夜断食されたイエス様の空腹でのその弱さにつけこむ誘惑者が来たりあなたは神の子なのだから飢えていないでそこの石をパンに変えなさい、当然あなたには出来る筈だ。もしあなたが神の子なら・・のはずだ、に対して、申命記8省2節『人はパンだけで生きるのではない・・・・』と撃退された。パンの問題は命のパンをいただくまで本当の解決はない。神への従順こそ真の唯一の生きる道です。第二の誘惑は聖句を用いてなされる。サタンの誘惑の道具は、神のことば・信心深さ・文化・宗教的・奇跡など表面的に良きものです。詩篇91篇を引証して迫る。しかしこの引用には『すべての道で』が落とされている。自分で勝手に都合よく聖書を用いるのです。マルクスが『働かざるものは食うべからず』の聖句を利用したので、マルキストにどれだけ大勢の人が虐殺されたでしょうか。主は申命記6章16出エジプト時の荒野のマッサで水が尽きたときに神を試みたようにしてはならないとこれまた撃退なさった。

主はすべての道で誘惑を退け十字架へと従順に歩まれるのです。第三の誘惑は主のイエス様の心の中の戦いが展開される。政治的支配・権力によって支配権を確立シ、ローマの栄華に君臨し、カイザルのように主なる神となり、しもべの道を拒否させようとするその条件は悪魔の前にひざまずき拝するということです。悪魔と妥協してその力を借りてこの世に君臨せよとの誘惑です。主は申命記6章13節でサタンを退けなさるがイスラエルは荒野において戒めを忘れて罪を犯した。イエス様はこの戒めを持って勝利を得られた。主は三度をみことばをもって誘惑を撃退された。
エペソ6章10節以下。みことばをもって悪との妥協に対して断固と絶対的拒否を主はなされました私たちも信仰の武具で身を固め、みことばの剣でサタンの誘惑を撃退し、勝利を得ましょう。

【我が神我が神なんぞ】詩篇22章1節〜11節

エリエリレマサバクタニは、キリスト者にとっては忘れられない言葉です。本篇はメシヤの受難の詩として2千年来教会が認めてきたものです。前半の1〜21は苦悩の嘆き、22〜31は感謝の讃美と区分されます。
苦難の中で神に祈っても神が沈黙を守られるので自分は神に見捨てられた絶望状態を詩人は感じたが、それでもなお信頼をよせ、うめきの中から『我が神』と叫ぶ、「どうして」神との断絶の意味がわからない、理由の不明な苦痛ほど耐え難いものはない。ヨブのように、捨てられる理由が身に覚えのない時に感じる矛盾、それを何とか乗り越えたいという訴えあまりの驚きと悩みの故に言葉もうめきとなる。内村鑑三はうめきとは言いがたき感情の発露である。人の発するもののうち最も深きものは雄弁ではない。うめきである。生きる場合死の場合等、すべて言語に移しえざる場合、即ち口に言い尽くされぬ場合にうめきがでるという。このうめきは私が発すべきものなのです。『我が神我が神何ゆえ私を捨てられるのですか』の神への訴えはそのうめきの中から叫ばれた祈りです。
キリストの十字架によって私達の罪が贖われたと聖書は繰り返し繰り返し述べます。罪とは負債のようなものです。借金は返済しなければなりません。私たちの負債をキリストが代わりに払って下さったことを贖われたといいます。

罪は父なる神と私を隔てる淵のようなもの、立ちはだかる壁です。それ故罪人の私は罪のゆえに神から遠ざかり、見捨てられるのです。だからキリストが私のような罪人に代わって十字架にかかられたとは、私たちに代わって神に見捨てられたという経験をなされたということです。十字架での主イエス様のお言葉は七つです。四番目の言葉は、神から捨てられねばならない罪ある人間の絶望と戦慄の叫びです。十字架には神の愛と赦しを示す面と、正義と裁きを示す面が表裏一体となっています。この第四言は神の裁きの厳しさをあらわしています。

ローマ6章23『罪の支払う報酬は死である』神様は罪に対して非常に厳しく臨まれます。神が罪によって見捨てられた時、人間の立つところは崩れ去り、倒されてしまう。キリストが十字架上で叫ばれた『エロイエロイラマサバクタニ』(マルコ15章34、イエス様たちが通常会話されたアラマイク語)の日用語には現実の中で神に見捨てられることの厳しさを見ます。
しかし人が神に見捨てられ、一切の手段と地盤を失い、自分にはなんらの功績のないことに全く絶望した時、そこに神の奇跡が生まれるのです。神に見捨てられることにより、キリストにあって神との交わりが回復します。絶望のむこうに光りが見られます。キリストの贖いによってだけの奇跡です。律法と人間の義によるのではなく、ただ神の恵みによってのみ私達は救われ聖めが与えられます。(ガラテヤ2章19・20・21)

エロイエロイラマサバクタニ。主の寂寞の中での叫びが天に達するまで、主の十字架の傍に立っていたい。あの悩める叫びによって、私は贖罪の恵みに導かれるからです。救い主キリストは愛するものが一人で立つことのできない場所に、毅然として立たれた。人の思いもよらぬ捨て身の死です。私の身代わりとしての死です、私たちが永遠の生命を与えて下さる為です。私達は確かに短い眠りにつきます。しかし主の再臨のとき栄光のうちに目覚めさせられます。
キリストが神に見捨てられ、私たちを神から離す罪ののろいを受けて下さった事により、いかなるものもキリストにおける神の愛から私たちを離すことのない存在とされたのです。感謝です。

【互いに愛し合いなさい】ヨハネ15章12節〜17節

キリスト教はご承知の通り愛の宗教であるとともに交わり(コイノニア)の宗教でもあります。神との関係ができていたとしましても兄弟姉妹と共に礼拝を中心としての交わりがなされぬと信仰は薄れるばかりか失ってしまう。主日礼拝を守ってもなんら利益はないしストレスが増えるだけだと、趣味や自分の好みに主日を送る自称キリスト者がいますが、主イエス様のご遺言をしかと心に留めるべきです。キリスト教は愛と交わりの宗教です。

キリストに繋がっている信徒は多くの実を結びますが、その為には主イエス様の愛の中に留まり続けねばならない、そのことはイエス様の戒めを守り服従することにおいて成り立つ。その戒めを守ることは苦痛ではなく喜びです。戒めを守る事によって弟子達は、主との生ける交わりを保ち、まことの生命と満足が与えられ、その喜びは父の業を成し遂げられた主の喜びと同じです。それは尽きることのない完全な喜びです。

真の信徒のキリスト内住体験は、一人一人をキリストの中に留まらせるだけでなく、信徒相互をキリストにありて固く結び合わせる。人がキリストの中に留まることは、キリストの体なる教会の中において、信徒の交わりの中に生きることを意味する。イエス様によって示された神の愛を、互いに愛し合う愛の中に生かすのです。13・14互いに愛し合えとの命令を私の友であると述べられその友のために命を捨てると言明される。それによって弟子達は友と呼ばれ、主人である父なる神のご計画を信頼するものとして伝えられた。16私達は主に選ばれて弟子となり、否主の友とされたのです。神から遣わされて友の為に命を捨てられた方によって使徒として、信徒として任命されたのです。その召命の尊さを自覚し、主が示されたと同じ犠牲的な愛の奉仕の中に喜びを見出して行くのです。

この愛で愛し合うとき主の名によって求めるものは、害のないものはすべて与えられるのです。このことはこのご遺言の中で三度言明されています。なかなか祈りが聞かれないことがあります。その時はヤコブのヤボクのように祈りに真剣に取り組むのです。(創世記32章)神様は最善をなさいます。私はそれゆえに生きている限り主イエス様の名によって祈り続けます。主は私によきものなら与えてくださいますし、悪しきものなら拒否なさいます。私は主に愛されています。主は私達の為に十字架で血を流されました。私は主の教会を愛し、兄弟姉妹を心から愛し、ともに奉仕を続けるのです。主の名によって祈ってください。そして喜びに満たされ、交わりの中で主を礼拝し、愛し合い、主に従って行きましょう。

【くすしきみわざを語れ】詩篇105篇1節〜15節

ユダヤ教の会堂シナゴーグでの古代の礼拝においては、歌唱は行われないでので詩篇は讃美歌としてではなく祈祷と聖書朗読として朗読者によって朗誦された。1節〜6節讃美への招き、7節〜45節は讃美、7節〜15節族長契約に示されている恵みが讃美されている。

最後の45節にハレルヤとあり、70人訳(旧約聖書のギリシャ語訳)では104の最後のハレルヤ(讃美せよ)が105篇の冒頭に来て、ハレルヤで始まってハレルヤで閉じられている。1節ハレルヤに続いて感謝せよ(ホードォ)となる。ハレルヤ(ほめたたえよ)と感謝せよの二語はエズラ・ネヘミヤによる神殿聖歌隊レビ人たちが讃美に用いた。これが後代の讃美歌の原型といわれます。
1節はイスラエルに対して全世界への宣教の使命を感謝のうちに知らせよ2節では神様のなされたくすしきみ業を語り、聖なるみ名をほめたたえ(ハレルヤ)主を求める者を喜ばせよ。語るくすしきみ業の内容は、族長(アブラハム・イサク・ヤコブ)と主なる神が結ばれた契約が具体的に実行されたことです。8節〜41節に述べられる。この族長との契約に心とめるもの、そのさだめを守りそのおきてを行うものがハレルヤと主をほめ歌うことができます。

7〜15族長たちと父なる神との契約による関係が語られ。16〜22飢饉からイスラエル一族を救うために、ヨセフを前もってエジプトに遣わされた。(創世記37章〜50章)24節〜44節エジプトはヨセフを忘れ、多くの民となったイスラエルを恐れ奴隷として労苦させた。神はモーセとアロンをパロの元に遣わせ、数々の奇跡しるしを行わしめエジプトから脱出した。主は昼は雲の柱夜は火の柱を持って彼らを導き守られた。水がなくなれば岩が裂けて湧きいで、肉を求めればうずらを、パンにはマナを豊かに与えられた。かくして彼らは喜びつつエジプトを出でて、約束の乳と蜜の流れるカナンの地に歌いつつ入っていった。アブラハムに主なる神は約束なさったこの地を与え、あなたを祝福の基とし、子孫を星の数のように増え栄えさせると。(創世記12章〜24章)

私たちキリスト者は主イエス様の十字架の贖いにより、サタンの奴隷から神の子とされ、喜び歌いつつ神の民としての生活に入って行くのです。この神の国で我らは満ち溢れた45節の生活をします。それゆえにハレルヤなのです。心のそこからハレル讃美しましょう。

【出口が備えられている】コリント前10章1節〜13節

コリント教会の信徒の一部は自信過剰であった。我々は洗礼を受け、キリストと一つになりまた聖餐でキリストの血と身体にあずかり、われらはキリストの中にあり、主は我々の中におられる。だから我々は自由で、何をしても危険はないとキリスト者の自由と放縦を履き違えておかしな自信となっていたのです。それに対してポーロは出エジプトの歴史的事実を指して警告するのです。イスラエルは昼は雲の柱夜は火の柱が彼達を導きさらに紅海を歩いて渡り、パロの軍隊から救われ指導者律法の実現者モーセと完全に一心同体たらしめ、ちょうどキリスト者がキリストにつく先例を受けたように、モーセにつく洗礼を受けたといってもよい。

また荒野で岩から水を飲み、天からのマナで養われいわば聖餐を経験していたが、多くの誘惑に負け偶像に走り神の意思の自由を放縦に変えてしまった。その罰で成人は二人を除いて約束の乳と蜜の流れる地に入れなかった。その事実は主がおいでになった現在のコリントに対する警告であり訓戒です。神の民選民としての特権が与えられていても、誘惑の危険から安全ではないというのです。誘惑が襲ってきたとき特別の恵みも安全の保証にはならないと彼は言明します。

しかし厳しい警告とともに、深い慰めの言葉も語ります。彼らのあった試練、誘惑はよく承知している。偶像礼拝から開放され、全く新しい生活に移された時、彼たちの生活に多くの葛藤があったことは想像できる。私自身の小さな戦争中の経験でもたたかいでした。13誘惑試練は多く通常の出来事です。人間的な試練以外の試練があなた方を捕らえることはない。神は真実です。脱出の道(逃れる道)エクバシス細い山道を備えておられる。

四百余年前関が3/4靴原の戦いで、豊臣の負けが見えたとき島津義弘が数百の家臣と共に徳川の大群の真っ只中を突破、薩摩まで脱出帰還したが、祖父忠良が「無勢とて敵を侮るな、多勢と見ても恐るべからず」と教えられた歌で多勢の敵の前にひるまない精神を実行したのです。人が現実の困難に直面して窮鼠猫を噛む状態に陥るのは神を忘れ神に敵対するからです。神は愛のお方です。人間をこよなく愛しておられます。人はその事に気づかず神と無関係に自分の力で乗り切ろうとする。それで試練に会うと力尽き、燃え尽き、絶望し、自暴自棄に陥り、八方塞隣自力で生き残ろうとする。そして窮鼠猫を噛んで自滅する。神に祈るとき神が試練と同時に出口も備えておられることに気がつくのです。自力に頼って行き詰まるところが神に立ち返る機会です。試練というものは避けることができません。私達は祈りによって試練に真っ向から突破するのです。そこに主の備えられた出口を発見するのです。試練の真っ只中を祈りによって与えられた信仰の力で、試練に直面し、挫けず、たじろかず、こちらから挑戦的に突き進まねば閉塞状態に閉じ込められ身動きできなくなります。

誘惑や試練に会った時、13節を思い出して下さい。人生の勝利は、このみ言葉を信じて逃げ出さないことです。祈りによって与えられる信仰の力で、主の備えられた出口を探すのです。祈るもう一つの力は、サタンが待ち構えて出てくるものを捕らえようとしているからです。祈りましょうそして信仰の力をいただきましょう。

【信仰の結果なる魂の救い】ペテロ第一1章1節〜12節

3・4・5節『神はその豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなた方の為に天に蓄えてある、朽ちず汚れず、しぼむ事のない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなた方は、終わりの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られている』私達は終わりの時即ち再びおいでになる再臨の時に、完成する全き救い・聖めにあづかるために、今その救い・聖めを信仰を持って確認できるように神の御力に守られている。そしてその救いによって神の子とされ、しぼむことのない天の宝資産を受け継ぐ者とされた。それは9節『信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである』と述べられています。

Wバークレーは人間のキリスト理解を四段階に区別しています。1)希望と願いの段階、人生の閉塞感から救いを待ち望み、預言を信じてメシヤの来訪を希望を持って待ち望む。2)肉体を持ってキリストを知った人々で、主と一緒に生活をした。私たちがイエス様の生涯と御言葉を知ったのは、その方々の証しによります。3)信仰の目でイエス様を見る人達であらゆる国と時代にいる。トマスに主は(ヨハネ20章29)『トマスよ、あなたは私を見たので信じたが、見ないで信ずる者は幸いである』と告げられたイエス様は過去において生き、死なれた方ですが、永久に生きておられるお方でもある。そして主は単なる思い出の存在ではない。主は現在の存在を体験し、出会う事の出来る方です。4)最後に幸いな幻がある。何時の日か、私達はまことのイエス様の姿を見ることが出来る。前コリント13章12『私達は、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とをあわせて見るであろう』という。信仰を持って忍耐するならば、再臨の主を実際に目で見ることが出来る。私たちが主に知られているように、私達も主を知る事が出来るのです。

10〜12説教とは救いの告知福音(良き訪れ)を伝える事が出来る。説教は時代、国民性、社会状況によって、それぞれ異なった雰囲気と様相を呈するが、福音の宣教です。時には警告し、脅し、叱責しなければならない、これらを越えて説教者は救いの告知をするのです。2番目に、説教は聖霊に導かれていなければならない。自己の見解や思想を発表するのではなく、祈りのうちにさえ聖霊に導かれている者として真理を語るのです。預言者と同様に探し求め、努めて学ばねばならない。しかし、あくまでも聖霊の導きを待ち望むのです。三番目、説教者の語るメッセージはみ使いもみたいと望むそれは神の救いです。み使い達ですら,見たいと望んだものその素晴らしいものは十字架による救いです。10〜12節。説教をするものは預言者のように調べ、探し、学び、この主の十字架の救いにあずかり、キリストの御霊の霊感を必要としています。それ故に説教を受け取る側も、説教者が御霊に満たされ、御霊に導3/4靴かれ、自己も御霊に導かれることを祈りつつ、耳を傾けなければならない。耳を傾けてください。

【来るべき開放者】イザヤ書61章1節〜3節

時々年賀状に、1月元旦と書かれたものを見ることがありますが間違いです。元旦とは1月1日、旦は朝の事、神社では元旦祭を朝早く行います。通常はそれに会せて初詣をするのです。そして多くの人はお寺や他の神社詣での梯子をするのです。日本人はある面から言えば宗教心が深いといえる。使徒行伝時代に使徒ポウロがアテネで17章22「あなた方はすこぶる宗教心に富んでおられる。道を通りながら、あなた方の拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇に気がついた」と同じようなものでしょう。特に日本人の宗教心はお祭り好きと結びついているといってもよいそれも本来的なお祭り儀式よりも、山車やお神輿担ぎ、振舞い酒に頬を染め、後の祭りの宴会に胸膨らませ楽しむのです。そして祭神に捧げたお神酒に酔う事で祭神と一つとなり仲間意識を持つのです。

ですからお酒を断る事は仲間になりたくないとの意思表示と取られこのような事は忘れられた今でもそれは自分まで拒否されたととるのです。酒は本来自分一人で楽しみ他人にすすめるべき物ではない筈です。婚礼でも儀式にはごく親しい人のみ出席、祝宴には招待者全員が出るのです。葬式でも宴会もどきが供養という名のもとに行われます。そして祭りが終わると頭を切り替えて祭りと関係のない通常の生活に戻ります。

キリスト教にも三つのお祭りがあります。『独り子を人類の救いの為に給う神の愛』『罪と死からキリストの十字架によっての新生と復活』『聖霊降臨による教会の誕生と聖霊に導かれての生活』を具体的に想起し感謝と喜びを新たにする。これがクリスマス(キリスト礼拝)、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)これが教会のお祭りです。その祝祭日が終われば忘れ去るのではなしに、祭りが示す最初の歴史的事実、ご降誕、十字架の贖罪、聖霊降臨に接した人が全く新しくされ(新生され)古い肉の生活が過ぎ去った(コリント第二・5章17)ことを感謝と喜びをもって生活するのです。

イザヤ61章1〜3。ルカ4章16〜21主イエス様がご自身のご使命を貧者・囚人・体の不具合の人・被圧迫者など、社会的・肉体的政治的に束縛を受けている人々に自由ともたらす為である事を語っておられる。奴隷からの自由。キリスト者の自由を改めて思い感謝せざるを得ません。ルターのキリスト者の自由を若い時に読んだ感激を今でも鮮やかに思いだします。私達は欲望やその他もろもろの束縛から解放され自由になっているでしょうか、新しくされたといっても、新年になったというような、時間の経過による新しさとか、外見的なものではありません。私達は聖霊の宮として、全く新しい聖い者として新生したキリスト者自由な者とされ、キリストの遺言にあるように、お互い愛しあい、励ましあい共にとりなしのお祈りのうちに、聖霊に導かれる一年でありますようお祈りいたします。

【エジプトに逃げよ】マタイ2章7節〜15節

古来から長い間、夢による神よりのお告げがあると信じられていました。後代に至るとフロイトが夢によって人間の深層心理を解釈して精神分析学を確立し心の病気の治療が非常に進みました。夢は人間生活に大きな影響を与えてきました。当時は夢の世界に神が現れた時代なのです。

神が預言者を通して偶像崇拝を辞めないと捕囚の辱めを受けると警告なさったが、無視した為に、BC587年にバビロニアに捕囚民として移された。その人たちは主として指導者階級と技術者たちでユダの中核となつている人々でした。この東方の地にも聖書が伝えられ、見た事のない大きな星を見出した6百年後の現地の博士達は預言に語られている救世主の表れだと、確信した。真理を確かめたいとの熱心さは大変な犠牲を払って遠くユダヤの国を目ざしてキャラバンを編成し旅に出た。時はBC7年木星と土星の接近、合があり、強烈な光彩を放つ出来事があつた事が、天文学でも文書でも証明されています。その星に導かれて救世主を尋ねてはるばる旅をしてきた博士達の、その質問に恐れ惑うヘロデ王、また王の残虐な処置におびえる市民達、誕生の地を知っていながらの学者達の無関心。博士達は「見つかったら知らせて欲しい、私も拝みに行く」との王の言葉を背に、ベツレヘムへと、黄金、乳香、没薬をささげて主を礼拝した。ヘロデはこの幼子を殺そうと目論んでいたが。神は愛する者、ご計画によって召された者の為に最善をなさるお方で、直接ご介入なさり助けられます。

かつてイスラエル民族が、パロの手から救われたように、主の使いが再び夢でヨセフに注意を与えマリヤと主イエス様を連れてエジプトに逃げよと告げられるのです。それに先立って博士たちにもヘロデのところに寄らないようにと夢で告げられたので、彼達は別の道を通って帰国した。

ヨセフは学問も地位もない田舎の大工でしたが、信仰の勇者であり、実に愛の人でした。いいなずけの上に起こる人間には理解不可能な重大事を、聖霊のみ業と夢の中で告げられるみ使いの言葉を疑うことなく信じて直ちにマリヤを妻として迎え入れた。羊飼いが天使の讃美の歌に導かれての主を礼拝する為の訪れ、異邦の博士達の高価な捧げもの。ヨセフの当惑は大変なものだったでしょう。そしてやっと一息ついた時、またもや主の使いが夢に現れ「エジプトに逃げよ」と命じるのです。生まれて間もない乳児と産後日の浅い妻を連れて、行った事もないエジプトへ寒暖の差の激しい荒れ果てた砂漠の何週間かかるか知れぬ旅、考えるだけで気の遠くなるような命令です。しかし彼は直ちに立ってしかも夜の間に出立するのです。朝まで待ちませんでした。旅装が整うまでとも、なぜですかとも問わないのです。神の言葉が告げられると、直ちに行動するのです。何がなんだか判らない中に、神の命令にすぐに従ったのです。

もしあの時ヨセフが疑問を感じて「なぜ旅が必要なのですか」旅の準備が出来るまで少し待ってください」「エジプトよりもっと近間で間に合いませんか」などと反問したり、つぶやいたりしていたら、ヘロデの虐殺から逃げられていたでしょうか。

ヨセフ達は、昔モーセが先祖達とたどったあの困難な道を逆に進みました。コレが信仰の道であり、服従・主に忠実な道です。私に従って来なさいと主の招きがあったなら直ちに、口実を設けないで、後ろを振り向く事なしに、直ちに、すぐに、行動を起こすのです。その時私達は神様のみ業に参加できるのです。