日本の大方では、クリスマスが済むとそれは全て払拭されて歳末・新年へと全てが衣替えします。教会暦では05年2月6日までが降誕節で翌週から受難節に入ります。私達にとって新しい年の入り口はクリスマスです。イエス様は8日目に割礼を施される時なったので、御使いがヨセフに告げたとおり、幼子をイエスと名づけた。それから40日後、幼児を聖別するため神殿で犠牲をささげようとエルサレムに、両親は幼子を連れて上ってきたルカ2章22〜24。そのときエルサレムに聖霊が宿っているシメオンがいた。彼は主の使わす救い主に会うまでは死ぬ事はないとの聖霊の示しを受けていた。
彼は御霊に感じて宮に入った。すると律法に定めてある事をおこなうため、両親もその子イエスを連れて入ってきたので、シメオンは幼子を腕に抱き神を褒め称えて、讃美と予言をした。また宮を離れず断食と祈りをもって神に仕えていた老女アンナという預言者がそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、この幼子の事を、エルサレムの救いを待ち望んでいる全ての人々に語り聞かせた。主の来臨を待ち望み祈っている者には、両親にも気がつかない救い主を認める事が出来た。待ち望む者に、喜びがあったのです。
主の来臨を喜んだキリスト者の日常生活のあり方がピリピ4章に述べられています。そして喜び、寛容な心、思い煩いをしないことを勧めている。私達には必ずしもいつも喜べない事があり、必ずしも全ての人に寛容の心を示せない。また思い煩わずにおれない事もあります。しかしそれでもキリスト者は喜び、寛容な心を持ち、何も思い煩ってはならないのです。
それでそれがどうして出来るかを続けて述べます。いつも喜べるのは主にあってです。それは主キリストとの人格的な結びつきにおいての意味です。寛容な心を全ての人に示せるのは主は近いからです。主の再臨が近い事を覚えての祈りの生活に必要です。思い煩いの生活は、事毎に感謝を持って祈りと願いをささげ、あなた方の求める事を神様に知っていただくのです。
私達は嬉しい事や、自分の利益になったこと、望みが実現した時には、喜びなさいと命令されなくとも喜べます。苦難の中にあるピリピ教会の信徒に、ポウロは喜びなさいと命じるのです。持続的な喜びにあるのは主にありて生きる事も死ぬ事も喜びなのです。
主は近いのです。時間的には主の再臨はもうすぐです。空間的には身近に来ておられるのです。この世の闇が暗ければ暗いほど光の主の来臨は、苦難や悩みが重ければ重いだけ、主によって与えられる喜びは大きく光り輝き持続されます。
主はヨハネ黙示録の最後に「しかり、私はすぐに来る」と宣言なさった。それは喜び、寛容な心をもち、思い煩いのない毎日を送るためにも、「主イエスよ来たりませ」と祈り讃美するのです。この一年を顧みる時にも、開拓50周年を迎えた教会の事など、全てを最善になされて主を讃美し、感謝するものです。
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キリスト教は喜びの宗教です。福音書は喜びの書です。神様からの便りが聖霊によって私達にもたらせたものです。主イエス様の誕生をめぐって著しい事は、聖霊の活動開始と主を讃美する事が盛んになったことです。主のみ使い、御使いガブリエルが遣わされ、御使いと共に天の軍勢が讃美し、また聖霊が、祭司ザカリヤ、その妻エリサベツ、マリヤ、シメオン、アンナ達は聖霊によって預言をなし、讃美をしています。
特に聖霊によって感動しての賛美歌がルカ福音書に見る事が出来ます。主は弟子達と詩篇を讃美されている事は知られていますが、旧約の預言の成就に対する即ち救い主のご誕生を喜び神様をたたえる讃美歌が歌われているのです。特にマリヤのマニフィカート(ルカ1章46〜55)では自分自身の全身全霊をもって主を崇め、神をたたえ讃美しています。卑しい女の私をさえ、心にかけてくださる神様を崇め感謝し讃美せざるを得ないのです。力ある方が、マリヤに大きな事をしてくださったからです。救い主の誕生にかかわる事が、人間には考えられない方法をもって自分の上に、神の業の大きな事が身に起こったと讃えているのです。
喜び感謝する者から讃美は溢れ出てくるのです。特にクリスマスには、おのが幸を祝わずやと、音楽が喜びを表しています。クリスマスを中心としてオラトリオ等通常以上に奏でられるのです。ルカ1・2章には4つの讃美があります。フランス語でクリスマスをノエルといいます。それはクリスマス・カロルと言う意味です。カロルは讃美にも使われますので、この期間は特別に讃美が溢れる時期だといっても良いほどです。
ヨハネが福音書の最初に全ての人を照らすまことの光が来たと述べます。洗礼者ヨハネも主を指し示し暗黒と死の世界に住む者に、光としての主を証ししています。クリスマスを決定しようとした時に、冬至がふさわしいものとしました。一年で一番夜が長い日であり、翌日から光の昼間が長くなり始める。暗黒の世にお出でになった救い主の誕生日にはふさわしい日だとしたのです。
主イエス様は「あなた方は世の光である」と言われましたが、私達が光を発するのではなく、月が太陽の光を反射して夜の暗闇を照らすように、私達はキリストのまことの光を反射して、周りを照らし、喜び暖かさを分かち合い続ける事なのです。この光を反射するにふさわしくない私が光とされたその喜びが讃美となるのです。
私達はどのような環境にあっても祈り感謝できる存在とされています。ヤコブの手紙5章13節「苦しんでいる者があるか、その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか、その人は、讃美するがよい」如何なる時にも祈る人は喜ぶ事を味わいます。讃美が溢れてくるのです。聖歌にも在りますように「歌いつつ歩まん(新聖歌325番)」です。すると次に「ハレルヤ」と実に楽しい人生が開けてきます。
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主の御使いがザカリヤに告げた言葉、御使ガブリエルが神から使わされてナザレ村の一処女の下に来て告げられた神のみ言葉は、人間の常識や理解の範疇にはありません。老祭司に告げられた「あなたの祈りが聞き入れられた。老妻エリサベツが男の子を産むであろう」祈り続けていた老祭司は「どうしてそんな事が、私にわかるでしょうか・・」と答えそのしるしを求めた。マリヤには「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう、その子をイエスと名づけなさい・・」と告げられた。彼女は「どうして、そんな事がありえましょうか、私にはまだ夫がありませんのに」とみ告げの経過と方法を詳しく知ろうと問うています。
ザカリヤの問答の結果は先週触れました。マリヤの問答は続きます。ユダヤでは婚約は結婚した事とみなされますが、彼女は正式にまだ結婚していない故に「私には夫がありませんのに」と反論します。神の言葉だからと無条件に神のご意志に服従しなければならない訳ではありません。納得できない事に抗議するのはマリヤのみではなく私達キリスト者にもあってよいのです。始めてから自分の立場を放棄して服従するのは、神への真実な服従ではありません。これは神へのへつらいです。ただマリヤのように自分の考えや理性に何時までもこだわり続けない事です。私達は神のみ言葉に疑問を持ち、理解できなくて「どうしてそんな事が・・」と神に文句の一つも云いたくなる事があります。私達が誠実に神に抗議するのであれば、神のご意志は御言葉をもって、私達に理解させてくださいます。それですので常日頃から聖書を通読していなければならないのです。
マリヤの「どうして、そんな事がありえましょうか・・・」の抗議に神はお答えになりました。「不妊の女と言われた親族のエリサベツが老年ながらはや6ヶ月になっています」彼女も奇跡的な出来事は知っていました。「神には,何でもできない事はありません」との、御言葉の前に「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」とお答えしています。
人間には起こりえない事がまさに実現しようとしている。婚約しているのに夫の子でない者を宿している当時は死をもって償わなければならなかったが、ヨセフは彼女のことを心配してひそかに離縁しようと決心していた。そこに天使が「・・胎内に宿っているものは聖霊によるのである・・・その男の子はインマヌエル(神共にいます)と呼ばれる・・」と告げられたので、神の言葉を信じてマリヤを妻として迎え入れたマタイ1章。この神のみ言葉を信じきった夫婦に神は独り子を人間として育てるべく託したのです。罪にまみれたダビデの家系に主が預言どおりお出でに成った。罪の中にあるいかなる男性もイエスの父になる資格はなく、聖霊の働きによらざるを得なかった。マリヤが処女だったからこの誕生があったのではなく、「神にはできない事はありません」の御言葉を信じた事からこの世の罪を除く為の恵み恩寵がこの世に来たのです。
マリヤが人間の知恵や常識に執着しないで御言葉を信じて、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と服従しました。このマリヤの神を信頼しきった。それでいて毅然とした人間性。これがキリスト者誰にでも必要な信仰の基本です。
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祈っていながらいつの間にか習慣的に祈り、確信を失っている事があります。ザカリヤがそうでした。彼達は神の前に正しく落ち度のない祭司夫妻でした。彼は聖所の香壇で香をたこうとしていた時、主のみ使いが現れ、彼ら夫婦の子供が欲しいとの祈りがきき入れられたと告げられた13〜17と男の子が与えられるとの神のみ言葉です。それに対して彼は18節と常識的に応えた。喜ばしい知らせに疑問を呈したので、「時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから、その時まで口がきけなくなる」20と告げられた。彼に対して信仰によって神のみ言葉に希望を託したエリサベツ。神の恩寵の選びを謙遜に受けて服従したマリヤ。直接神に仕える為に召された祭司でありながら、神の言葉を信じ得なかったザカリヤが対照的に述べられています。
人間的な常識・理性などで神の恵みの言葉を受け入れず。その事を祈っていたにも拘らず自分の考えに固執し、ヨハネの誕生などありえようかとの不遜に、「時が来れば成就する神の言葉を信じなかったから、ものが言えなくなる」口が利けなくなった彼が聖所から出てくると人々は幻を見たのだと悟った。これからの彼の期間は、神に祈っても神の応答のない独り言の祈りの連続です。彼はその苦痛の中で自分自身を見つめ、祈りながらも本質的に神を信頼していない事の悔い改めの日々でした。独り言の世界は交わりの基本である我と汝の世界から締め出された辛い10ヶ月でした。言葉を失い、主張の手段をも失った神の罰です。彼は言葉を失ったその間、静かな沈黙のうちに、天使の伝えた神の言葉を自分の内で反芻し、神の赦しを切に求め続ける時でした。
月が満ちて(神の時の成就)エリサベツに男の子が与えられた。8日目の命名時に、親しい人達は習慣によってザカリヤにしようとした。母親は「いいえ、ヨハネとしなければなりません」といった。ザカリヤは書き板に「その名はヨハネ」と書いた。すると彼は口が利けるようになって、聖霊に満たされ、預言し神を讃美した68〜79。
ルカは恐らくマリヤの保存していたアラム語やヘブル語の書いたものや、エルサレム教会員一同、主の弟ヤコブその他の弟子達との交わりの中で取材、入手したようです。
彼は天使の相継ぐ顕現、聖霊の活発な活動開始、奇跡と預言によって新しい救い主の時代へと旧約の預言を描き出しています。また絶望的であった老祭司夫妻、ナザレ村の娘、老シメオン、老アンナ等、当時の社会から忘れ去られたような人々の登場を見ることが出来ます。
ザカリヤは言葉を失ったその間にヨハネと名づけよと言われたその意味、ヤーウェーは救い、愛しみ深い等、神の言葉を聴く事に集中出来た恵みの時、救いの日でした。彼は知った事を実行に移したまさにその時言葉と神との交わりが回復できました。神と人達との対話の復活です。
神の言葉も聴かず、人の言葉も聞かず、ただ自己主張の生活は独り言の世界に閉じ込められます。対人関係でも真実なものは持てません。相手の言葉を聴いて、それに応答する対話の世界が人間には必要です。
信頼して祈るのであれば神様は受け入れてくださいます。マリヤに神の言葉を伝えた天使ガブリエルの「神には、何でもできない事はありません」の言葉に答えた「私は主のはしためです」の従順で神を信頼しているその信仰が主を宿すものとして選ばれたのではないでしょうか。私達もこのクリスマスを自分のうちに迎えるためにマリヤのような信仰を求めましょう。
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預言者エゼキエルの名は「神が強めて下さる」の意味です。彼が預言者として召された時は祭司として、民の代表として神に奉仕をしていた。その彼が預言者として召されて神の代言者となったのです。それもユダ王国の滅亡という中でした。エルサレムがバビロン帝国ネブカデネザル王の攻撃によって、街は荒らされユダは降伏し、国の指導者、技術者達多くの国民、彼も、ユダのエホヤキン王と共にバビロン捕囚として連れ去られた。その中で神にそむいたユダの罪によってエルサレム陥落が神の審判として預言されている。同じような預言をエレミヤがエルサレムで預言者として語っていた。
それらの預言が成就してBC587年エルサレムはネブカデネザル王の手中に神殿と共に完全に落ち、貧民の一部を残して国民は連れ去られたり、殺されたりした。先に捕囚になつた民は比較的自由があり、バビロンにおいて商業等を営み高度な文明に接していたが,礼拝の場としての神殿が破壊されたことに絶望感を持った。その捕囚民に神のご摂理を語り、捕囚の意義を述べ、やがて与えられる回復と繁栄を預言し、信仰により頼むことをエゼキエルは勧めるのです。
私達はTVや新聞の報道で悲惨な殺人を毎日のように見聞きしています。命が軽視されている風潮の広がりに恐ろしさを感じます。神様は宇宙を創造なさり、最後にご自分に似せて人を創造なさって満足なさいました。それが命の大事さの根拠です。あなたも隣人も殺してはならないのです。32節「私はなんびとの死をも喜ばない、それゆえあなた方は翻って生きよ」と主は命じられます。
生きるとはどういう事でしょう。単に生物的に生活を営むだけではありません。霊的にも生きよと言われるのです。人は生まれたときには人という生物ですが、父母・兄弟・愛してくださる人々の間での関係の中で愛され愛して人間となっていくのです。その中で自他を認め、社会の中で育つのです。人間はいかに素晴しい生活環境施設が整っていても、人間的に育たねば、生物的にも生きていく事のも困難です。独り言の世界に育ち対話がなければ人間としての魂は失はれて行きます。
貴方が生きている事は嬉しい、あなたと出会えて嬉しい。あなたと一緒にいるだけでも楽しく嬉しい。そうしたお互いの交わり、支えを求め自分が生きている喜びを満喫するのです。それは自分が役に立つ存在か否かにはかかわらない。欠点だらけでも存在を認められ、現在に生かされている事が嬉しい。誰かが私が生きている事を支持してくれている。しかしそれを死ぬべき存在の人間の間に求め続けられようか。
「私は何人の死をも喜ばない、あなた方は(人間)に立ち返って、生きよ」と主なる神はあなたに、私に語りかけてくださいます。神様をお父様と呼び、神さまはお前さんと呼びかけられる信頼関係・愛の関係の中で、共に生きていこうと主は呼びかけられておられるのです。
こんな自分でも生きていていいのかとつぶやく私に父なる神は、あなたが死ぬ事は喜ばない、お前さんは生きて欲しい、私のもとに立ち返り、生きなさい、生きて欲しいと語りかけて下さいます。ですから、生きる自信・希望が生まれてくるのです。全ての人間の生きる根拠がこの神様のみ言葉にあります。
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悪の国が行動を起こす前に打ち砕くべきだと。戦いを起こします。そこには自分の国は正しく善であるとの発想法からの戦争があります。神の国とサタンの国との対立を人間的な考えとして信仰の世界に置換えてしまいます。そのような事がついうっかり自分達は正義の戦いで十字軍であると発言してしまうのです。中世期の十字軍もエルサレム巡礼者が迫害を受けて妨げられているとの間違ったうわさに尾びれのついた事から始まったようです。聖書ほど誤解されたり、自己正当化のために使われた本は外には見当たりません。聖書はイエス様こそ救い主であると主張していますので、その線より見なければ誤って解釈されます。
確かに神の国とサタンの国は存在します。キリストとベルゼブルとは一つにはなれません。イエス様が悪霊に憑かれて物が言えなくなった人から悪霊を追い出され、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。その中のある人々が「彼は悪魔のかしらベルゼブルによっておこなった」15節。また天から(神)のしるしを求め迫ったのです。
主はそれらの悪意ある攻撃に答えなさった。第一 悪霊達が内輪もめすれば分裂自滅するから、かしらと手下が争いを起こすはずがない17・18節。第二 あなた方の仲間も悪霊を追い出しているが、それもベルゼブルというのか。第三 21・22節 強い人達が邸宅を守っている間は安全だが、もっと強いものが襲ってくれば全てを失ってしまう。{出エジプトのときパロの前で、モーセが王の魔術師と争った。奇跡をもって彼らを打ち負かしたときに彼達はこれを神の手がなしたと認めています}。それと同じく主のなさった癒しの業は神からの物であると認めざるを得ないわけです。
私達キリスト者は23節「私の味方でない者は、私に反対する者であり、私と共に集めない者は、散らす者である」との主のみ言葉に注目せねばならない。主に敵対する者だけではなく、主にあえて敵対しないけれども味方しない者はベルゼブルと同じ敵です。そして最後の審判で恐れおののくのです。主によって救われ喜びに満ちた者でその喜びを隣人に分け与えない者、主のみ言葉を伝えない者、個人伝道・主にある証しをなさない者はベルゼブルの仲間です。眠っているキリスト者は誰にも害を与えません、しかし誰も主に導かなくそして誰の躓きにもならないが、それも同じです。
個人伝道などをして隣人を主に導かない者は神の国の住人でなく、サタンの国民だと断言なさいます。キリストの内住しない家には悪の手下が大勢入ってきます。証しを立てない、隣人を主にお連れしない教会にはサタンの手下が入り込んできます。サタンから主の体なる教会を犯されないように、一人一人が個人伝道をする事が望まれます。主の味方として祝福された教会、キリスト者になりましょう。
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サムエルは年老いたので、その子らをさばきづかさにしたが、利に向かい、まいないを取って、さばきを曲げたりした。それで民の長老達はサムエルのところに来て、われわれをさばく王を与えよと要求した8章。「民はあなたを捨てたのではなく私を捨てたのだ。王は与えるが王の習わしを伝え、どのように負担が増えるかを伝えるよう」にと、神は命じた。イスラエルの王はヤゥエーだと信じているサムエルは、周りの諸国のような王政は望んでいなかったのだが、神の命によりサウルをイスラエルの王として油を注いだ。
主はサムエルを通してサウルにアマレク人(エサウの孫アマレクの子孫)を攻める事を命じた。彼達はイスラエルがエジプトから上った時、敵対した。その罰として全ての人など、滅ぼしつくし皆殺しにせよと厳命された。聖戦・聖絶は聖書でここだけに見えます。私は神またその使命を妨げるものに対する神の怒りに驚きます。
イスラエルは圧倒的に勝利しましたが、アマレク王アガク(強者・独裁者)を捕虜とし、民はことごとく滅ぼした。その事で神の命令に対する例外を作った。かくして神の命令は自分達の欲望に従い例外を拡大し、羊・牛の肥えた全て良いものを残し、値打ちのないつまらないものを滅ぼしつくした。
サムエルは15章10以下神のみ言葉をサウルに伝えたが、主にささげるために良いものを民が曳いてきたものです。そのほかは滅ぼしつくしたとサウルは言い訳をして自分が神のみ言葉を実行しなかった罪を認めようとはしなかった21節。
サムエルは23節「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」と告げました。
22・23節神の言葉を聞いてそれに従わずになされる形式的な礼拝・犠牲は意味がありません、先ず神のみ言葉に従い、ローマ12章1「あなた方の体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝である」私達が今、献金台に献金を献げるのは、自分自身を聖いささげものとするその犠牲の印です。ですから感謝献金ですし、感謝祈祷なのです。しかもこの感謝も主のみ言葉に従う人の者のみが、神に喜ばれるものとしての霊的礼拝となるのです。
神の言葉にそむく事は占いの罪に等しい。占いは神様の隠されたご計画御心を覗き見ようとするもので、神のあらわされたみ心である主のみ言葉に逆らう事です。偶像礼拝の罪と等しいものです。
サウルは主のことばを正しく聞かずに罪を犯した。彼と同じように神の言葉を捨てることは神を捨てることで言い訳は出来ません。22・23節は信仰生活にとって大事なみ言葉です。
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故郷は普通そこから出てきた場所を言います。懐かしく慕わしい思い出のあるところで時には帰りたくなる地です。アブラハムは8節神様の命令で、行く先を知らないで故郷を出て行った。苦しい辛い時には親族もいる故郷に帰る機会もあったであろう15節。しかし彼らの望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷であった16節。彼達は故郷即ち地上の故郷ウルに帰ろうとはせず、地上では旅人であり、寄留者である事を自ら告白し、まことの故郷を求めていたのです14節。
13これらの人はみな、とは8節以下に述べられた神の約束の担い手である3人の族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)とサラの4人を指します。彼達は信仰によりて生き、信仰を抱いて死んだ。彼達は神の約束の実現を信じていた。彼らは約束のものを地上において手に入れることは出来なかったが、神の約束の実現を信じ疑わなかった。アブラハムは忍耐強く待ったので約束の物を手に入れた(90歳サラ80歳の時約束の一人子イサクが与えられた)ばかりでなく、モリヤの山でイサクを生き返して渡された19節。しかし約束の完全な実現はキリストの日を待たなければならないのです。彼達は、はるかに天の都を望み見て喜び地上では旅人であり寄留者であることを告白していた。{アブラハム創23章4。ヤコブ創47章9}彼らにとって故郷は出てきた場所の事ではなく、天の故郷として憧れるところでした。神から新しく与えられたイスラエルの故郷カナンは地上のもので、天の故郷の模型です。
神を信じるものは神ご自身の命にあづかるのです。彼達の生涯は地上の事にも精通していた、この世的にも成功者でした。地上において神を信じる者の祝福の確信であり、神がかり的な特殊なものではありません。旧約・新約の信徒で神の約束契約を信じるもの全てに共通する事です。
ピリピ3章20節「私達の国籍は天にある」私達の敬愛し主にあって交わりを持った方々はまことの故郷に、主の懐に憩うておられます。そしてヘブル12章1節「私達は、このような多くの証人に雲のように囲まれているから、参加すべき人生の馳場を耐え忍んで信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではありませんか」わたし達の先に召された兄弟姉妹方が祈りのうちに励まし応援して下さっているのです。本日はその方々を覚え記念する感謝の日です。
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本日は宗教改革記念日です。1517年のこの日、ウィッテンベルク大学の掲示板代わりに使用されていた城教会の扉に、ラテン文の95箇条のテーゼ(論題)が張り出された。信仰によってカソリック教会に対する論戦が展開始めたのです。マルチン・ルターは宗教裁判の脅迫にもひるまず。聖書のみを聖典として信仰によって義とされる事を強調し宣言した。伝統や教皇のことばと聖書を同列に置きその上免罪符まで売り出されるにあたって改革に動かざるを得なかったのです。
ヘブル11・12章は聖書の中で信仰についてわかりやすく述べられたところです。先ず11章1節に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する事である」と信仰の定義を述べ、続いて旧約時代の信仰者が信仰にどのように生きたかを説明しています。32節以下ではまだまだ多くの信仰に生きた人々がいるが、それを語るには時間が足りないと記者は語ります。
11章は信仰によってと語り始めますが、旧約の人々の実例を述べる前に、世界創造のみ業を語ります。その神の宇宙創造のみ業についての目撃者はいないから、特定者の名をあげずに、私たちはといって信仰者の基礎的な共通のものとし、信仰とは、目に見えないものを確信するものであると示しています。神のみ言葉で世界創造がなされた事を信じなければ、旧約の信仰者、新約のキリスト者達の信仰による生き方は分からないのです。
私は緑の植物を見ること、それに包まれるのが大好きです。美しい花も愛でる楽しさもありますが、太陽に映える緑の葉は、心に安らぎを与えてくれます。私は神様の創造物の中で一番美しいものは人間であり、その次は緑の植物だと勝手に考えています。その最高の創造の人間をより美しくするものは心を洗われ生まれ変わった人の輝く顔です。私は50年の伝道、牧会の中で多くのそのような兄弟姉妹方と交わりを持てたことは、牧師の特権であると感謝しています。
旧約のそれらの人々の事が30節以下に短い文章で述べられます。深い信仰は初代の族長達にも劣らぬほどです。エリコは難攻不落と言われるほど堅固な城壁に囲まれた町です。それを攻撃する方法として神様の示された事はヨシュア記6章に見えます。
6日間十戒の箱を先頭にしてエリコの町を巡り、7日目は7度巡り祭司達の雄羊のラッパが吹かれた時に大声でときの声を上げ呼ばわりなさいとの命令です。常識的に考えればこんなばかげたことがと思われたが、ヨシュアたちは神の言葉を信じ実行してエリコの町を戦わずして陥落させた。その遺跡は考古学者によって掘り出され証明されています。
旧約初期の人々の事はここで詳しく語られていますが後期の人々の事は簡単に述べられただけです。それは旧約聖書に詳細に述べられていますから、聖書を読みなさいということでしょうか。
信仰とは前に述べましたが、ヘブル11章1節です。2節以下はその実践の証しです。ここにあなた自身の信仰の証しが書き加えられるように、祈るものです。
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イスラエルの民は捕囚より開放され帰国して、生活も安定して高価な飲料水も購入する事ができ、また食糧も手にいれ腹を満たす事が出来るようになった。しかし彼らの魂は餓え渇つえていた。肉体の必要は金を積めば満たす事が出来るが、神の賜物、魂の食物は人間の努力、善行や功績によっては得る事の出来ないものです。
1節を通して無償で与えられる必要を満たしなさいと勧められる。しかも6節では主が近くにおられるうちに主を呼び求め、尋ねよと招かれておられます。2節では一時的には満腹し飽きるほど食するためにお金を費やしても、神に聴き従うほうが豊かな食物で、自分を楽しませる事が出来るのです。3節では、私達の真実の食べるもの、それは神のみ言葉であり、それに聴き従う事によってのみ楽しむ事ができると言います。私達の魂が、生きて楽しむ事は金で買う事は出来ない。確かに金で買えるものは一時的に、私達を喜ばせ楽しませますが、それも束の間のもので更に次の満足を求めます。
神の言葉こそ良きものであり、最上の豊かな食べ物です。神はそのみ言葉に耳を傾け聴けと命じられます。傾聴するとは単に耳に入ってくる音全てを聞くのではありません。聴診器で心臓や肺の音を聞くように、他の音を遮断して、神のみ言葉に集中して聴くのです。私はカウンセリングをする時、何も考えず先入観も持たずただひたすらにクライエントの言葉に傾聴します。そして感情と意味を受容します。そのようなときに初めてクライエントは自分自身をありのまま、良いとか悪いとかではなくありのままの自己受容が出来ます。そして自分で解決の道を見出します。私達が聖書を通して神のみ言葉に傾聴するとき、先ず驚くべき事に自分の姿がわかります。昔から聖書は鏡だと言われたのはこの故でしょう。これが自分のほんとの姿、罪なのです。これを見た時、神のみ言葉が神の力として与えられます。前コリント1章19節「十字架の言葉は、滅び行くものには・・・・救われるわれらには神の力である」傾けるには、方向を変えると言う意味もあります。大事なときに私の目や耳がどこに向いているか、魂の糧にもならぬものに金を払うのか、それとも神が言われる様に神のみ言葉に傾聴して、そして生きるのか。
3節は続いて契約を述べる。旧約は神のみ言葉に聴いて従えば祝福を与える。その
根拠は神の愛です。その愛を持って神はアブラハムと契約を結ばれた。新約に私達はこれに加え、イエス様が十字架の犠牲で私達のキリスト(救い主)となられたと告白して神の子とするとの契約をバプテスマによってなした。キリストの十字架の血による署名で契約は有効になるのです。
神の愛の契約は永遠に代わらないものです。契約を結ぶとは契約を切るとも言います。創世記15章のアブラハム契約を神と結ばれた。その契約を破る事は犠牲の家畜を二つに裂いたように、その動物のように二つに裂かれるということです。
私達がキリスト者になった契約は主イエス様が十字架上に私の罪のために裂かれた神の愛によることによって切られたのです。受洗してキリスト者になったとはアブラハム契約とキリストの犠牲による愛による契約をしたのです。私は単純にこの契約を守ることは、動ける限り感謝の礼拝と、献身の印としての十一献金以上ささげることを基本としての奉仕でした。生かされる限り実行しようと決意しています。
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主イエス様は、律法学者やパリサイ人の義に勝る義をキリスト者は持たねばならぬことを述べられます。それは第一地上の富。第二他人を裁く事。第三福音の真理の宣教についてです。本日は第一の地上の宝、富を、特に神様を念頭において見ていきます。
人間の生活の大部分は、富により富のためです。それだけに富をいかに認識しそれにどのような態度を取るかは、キリスト者にとって大事な事です。この世で生き、富を意識生活すると、心配が付いて回ります。生きているとは、心配の連続に生きているようなものです。政治は国民から出来るだけ心配の要素を取る事だといいきつても良いほどです。主は富と思い煩わない道を、山上の説教で述べられているのです。
神様は富を創造し、これを恵みとしておのおのに与えられました。そして宝を宝として蓄えてはならないと主は言われます。恵みの授かりものですから生活の安定、より良きものとして使わねばならないのです。創造主である神が、被造物の富より大切なものである事は当然の事です。しかしキリスト者でも目に見えない神よりも目に見え自分を喜ばせるように感じる、その見える富・宝に頼りがちです。富は人を迷わせ、神から離します。そして将来に対する不安を醸しだします。これを律法的に解釈すると「貧は善、富は悪」となってしまいます。
宗教改革者マルチン・ルターの職業に召明観を示し万人祭司説が述べられ、カルバンは職業を通して神の栄光を表すという積極的実践性がプロテスタントに大きな影響を与えた。ジョン・ウエスレーはOX大学の教授時代から収入が増えても生涯2ポンドで生活し、あまった資金は伝道・弱者のために使用し、メソジストを立て上げ、乱れていた英国を立て直した。ウエーバーの「プロテスタンチズムと資本主義」が産業革命に影響を与え繁栄をもたらした。しかし資本主義がキリスト教離れを起した為、世界に不平等が蔓延した。主のご警告を無視した故でしょう。
イスラム諸国は、近代化する西洋文化を排除した結末が、貧しさから抜けきれず原理主義の温床と化した。トルコはいち早く西洋文化を取り入れて発展した。歴史的に見ても主イエス様のこの言葉の真意を汲み取られなかった。そして「貧は善、富は悪」という事がまかり通って、富を得る事にも、宝を遣う事にも消極的になったのです。明治時代には福音が知識人に受け入れられキリスト者の働きが、女子教育や社会事業など日本社会改革に目を見張るような働きをしたが、現在は福音宣教も弱者を助ける働きも足踏み状態です。なぜ富を得る事が悪なのでしょうか、悪いのは宝の使用法を誤っているからです。
ピリピ4章12節「私は貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」とポウロは言います。私達日本人は豊かな国に住んでいます。全ての国民が富んでいるといっても良いほどです。今私達は富んでいる道を知らなければならないのです。
私達は神様のため、主の喜びたもう働きのため、もっと大胆に積極的に富を得て、これをよき働きのため大いに使うのです。申命記8章18「あなたの先祖達に誓われた契約をおこなうために、あなたに富を得る力を与えられたからである」神との契約(旧契約、新契約聖書)に従う時、富を得る力が与えられるのです。
富を富として蓄えてはならない、よきことのために投資するのです。それが天に宝を蓄える道です。宝を宝として蓄えようとすると、そこに心身共に破れが起こります。しなくてもよい心配、思いわずらいが起こるのです。
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バビロン王ネブカデネザルは、自分の偉大さ威光を誇示しようと金の像を造ったそれは巨なものでした。これに総督をはじめ高僧、諸州の官吏達は像の落成式に臨み合図でそれにひれ伏して拝まねばならなかった。また伝令者が大声で「諸民、諸族、諸国語の者よ、角笛などの合図で拝まなければならない、拝まない者は火の炉に投げ込む」呼ばわった。
ところがダニエルの三人の友は、これを拒否した。それを聞いた王は激怒して、炉を7倍(出来る限り)熱くすることを命じた。王は「・・・・いったい、どの神が、私の手からあなた方を救う事が出来ようか」言いますが、三人は16〜18「私の仕える神は、火の燃える炉から、私達を救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知下さい。私達はあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」と宣言します。彼達を投げ入れた軍人達は皆、火炎で焼き殺された。しかし彼達は頭の毛も焼けず、火のにおいも付いていなかった。王は、28〜29ヤーゥエーの神をののしる者があれば滅ぼす。このような救いを施す神は外にないからだ。と命じた。
私は教会学校でも礼拝説教でも何回も聴いていました。また60年ほど前、戦時中の教団に対する弾圧の後でここを読み、身震いするほど感激した事は忘れる事が出来ません。それまでは神社参拝・宮城の方に向かっての天皇礼拝の強制に対して、頭を下げずに済む信号ラッパを吹いていましたが、学徒兵として召集された時どうしたものかと案じましたが、陣地構築その守備で、神社参拝も宮城遥拝もなく、ほっとしました。私にはシャデラク達のような信仰はありませんので助かりましたが、その不信仰のしこりは長い事残りました。
孫引きですが、韓国の前大統領金大中氏は、三度大統領選に挑戦し、少なくとも三度命を狙われ、二度投獄され、一度は死刑の判決を受けた。そして三度主に見えたという。彼の生き方を貫いているのは「十字架を背負って主に従う」という事です。彼が本当に主を切実に求め主にすがったのは、73年日本のホテルから韓国の秘密機関に拉致され海に投げ込まれようとした前後からだといいます。その事を主にささげる祈祷文の中で「ああ、もし私に主がいらっしゃらなかったらなら、私がどうして今日のようにありえたでしょうか。主は暗い監房でも、苦痛の法廷でも、どこでも私の教師として、友として、相談相手として、共にいてくださり、時には一緒に悲しんでくださいました」そして「自由と正義と平和の実現を通じてこの世を救い、私達の信仰を高め、全ての人を霊的に救おうとなさる主のみ業に、私のあらゆる情熱と努力をことごとく注ぎ、余生を捧げるつもりです」と告白するのです。
ダニエルの友達は17節もし神の御意志がよしとするなら救い出されます。もし神が救い出される事を良しとされないのであれば、(たといそうでなくても)救い出されなくてもあなたの神々には仕えず、金の像は拝みませんと信仰告白しました。
今すごい勢いで60数年前の姿に逆戻りしています。ダニエル書にあるような事が自由な民主主義の国にありえないといいますが、一握りの人が、国民の不安不満を実に巧みに繰っています。愛国心教育という名目で同じ過ちを犯さんとしています。私はこの日本が大好きです。この国のためなら命を捧げるに吝かではありません。そのためにはなんとしてでもキリストの御意志に反しない国にしなければならないのです。
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マルコは使徒ペテロの通訳をしていた。そばにいて彼の思い出すことを正確にみな書きましたが、そのため主イエス様の語られた事、行われた事どもを順序よく書かれてはいません。思い起こすままに個々の事をマルコは聞いたとおり書き漏らすことなく、何一つ間違った記述をしないようにと気配りをしている。母マリヤの家は大きな家でしたので初代教会の集会に用いられていました。彼は幼い時から使徒達を通して福音に接していたのです。
1〜8主は弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、そこでモーセとエリヤと言葉を交わされた。二人は今から起こる主イエス様の受難と復活について予告されたのでしょう。そのとき主は変貌され、衣も光り輝いていた。
その同じ時山ノ下では、残された弟子達と律法学者達が論じ合っていた。悪霊によって突然引き倒され、泡を吹き、歯を食いしばり、体をこわばらせている息子と、息子を癒してもらおうとの父親を、取り囲んで癒す事が出来ない弟子達との間で悪霊の種類や、悪魔祓いの方法などについて論争していたのです。彼達は病める息子を対象化し途方にくれる父親はさておいて、議論し観察するのです。主はそれに対して19節何時までも主は共におられない。不信仰の時代だと嘆かれ、弟子達が過去の経験で癒す事が出来ると自信を持って臨み癒せなかったその子を主のもとに連れてくるようにと命じられた。主はこの世を去らねばならない、これからは主に代わってなさなければならないと弟子達に警告なさるのです。
主とこの父親との会話は具体的です。父親は息子の病状を述べ、22節「できますれば、私どもを哀れんでお助け下さい」と訴えるのです。私どもは二人だけでなく母親も兄弟姉妹も息子を愛している者全部をさしているように自分自身の経験で思います。出来ますればお助け下さいと主に懇願します。
主はそれに「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」と父の不信仰を指摘されました。人に期待していつも裏切られる。そのようなことで彼は失望していたのでしょう、しかし主のお言葉によってほんとに信頼すべき人を知りその前に立つのです。「信じます。不信仰な私をお救い下さいください」と叫びます。主のことばを信じたのです。
不信仰な私をお助け下さい。私は私の可能な限りの不完全な信仰で神を信じるのです。神の前には不完全・不信仰であっても、神様はそのまま受け入れてくださる。ローマ7章24節「私は、なんと惨めな人間なのだろう、だれが、この死の体から救ってくださるのだろう」この心からの叫びに、私達の主によって感謝すべきかな、この告白がなされ主を心から讃美できます。
この癒されたご本人も家族もいかほど喜び感謝し、主を讃美、献身したでしょうか。
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私達が日々の生活で苦闘し、苦悩し、涙を流し、迫害を受け、心に深い傷を受けた時、どれほど神のみ言葉に力づけられ慰められるでしょうか、60年前の戦争中も、戦後もそのような困難の中で御言葉によってそれらを乗り切った経験をしました。その経験の中で希望を抱く事が出来ました。そして心の底から、主なる神を讃美しました。
この詩篇119篇は、各節の最初がヘブル語のアルファベットで書かれた。日本のいろは歌のようなものです。各節は8節で区切られた詩篇最大の作品であり、聖書中最長の章です。全篇を通して主の律法への賛歌です。技巧を凝らした詩ですので、思想的展開よりもむしろ瞑想の中で深く味おうべきものです。
神の言葉に従わないで人を陥れようと悪事を働く者が、わなを仕掛けてきたり。地位ある者が理由もなく迫害し、欺くものが存在する。これらは主に従うがゆえに起こされた困難であり、この詩には随所に、このようなことからの十字架の重荷が歌われています。
この苦闘、迫害などによる十字架の重荷を負う日々の生活の中で、詩人が唯一のよりどころとしたのは主の御言葉です。主の御言葉は、主の御意志です。それゆえに御言葉は空しいものではなく、これを拠り所としているのです。現実の生活の中において主の御名かかわる戦いにおける十字架の重荷、痛み、苦闘の中で、主の御言葉こそが、自分を照らし自分は何者なのかを知らしめるともし火であり、進むべき道を照らす光であると告白し讃美するのです。
主イエス様は、御言葉、即ち神の御意思を33年間のご生涯で十字架の死に至るまで実践なさいました。また使徒達を初め2千年の教会生活の中で多くのキリスト者が、神の御言葉を、即ち主イエス・キリストの福音を人々に伝え、主の御言葉に生きました。聖書を通して御言葉をひたすら求め、愛し、従って、闘い、伝え、教え、キリストの恵みを経験しました。主イエス様の体なる教会にとって、キリストは、神の御言葉であり、先導者達には、み言葉が進むべき道を示す光であり、歩みを照らすともし火でした。
私達もこの世の知恵、豊かさに頼るのではなく、神の御言葉聖書こそ、十字架の力であり、希望であることを自覚してこの世の生活をおくらねばなりません。
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私は8月になると「あなたはどこにいるのか」とのみ言葉が特別に心に響いてきます。敗戦の日の夜眼下に昨夜までの暗黒の世界が、今夜は数年ぶりに灯火管制が解かれちかちかと多くの灯火が見られ平和を実感し,生きたとホッとしました。そしてどのような理由があろうとも、戦争は絶対してならないと願いました。これは日本人一億の決意でもありました。しかしこれも59年前の昔の事、その人達もその決意も薄まり、戦争を知らない、聞いたこともない人々が大部分になりました。私もともすると世界の状況の変化について行く為、憲法に反しても、軍備はやむをえないかなと、そのような時、このみ言葉が響くのです。神の御意志に反してこの世の安逸さの中に隠れている私に対する神様の問いかけです。
人(アダム)と その妻(エバ)は、神の命令 言葉に従わず。根源的な罪(原罪)を犯し、その為彼達は、不安と恐れと希望を失いました。いつものように神の歩まれる音を聞いた。昨日までは喜んで神様に挨拶をするため飛んできた彼達は、今は神の顔を避けて、エデンの園の木の間に身を隠しました。そのとき主なる神は「あなたはどこにいるのか」と人に呼びかけられた。主なる神と人との出会いは,この神からの問いかけから始まります。神に背き身を隠す人への呼びかけです。そこで神は、罪を犯した人と向かい合い弁明や説明ではなく、責任ある答えを求められます。それも神のご指摘ではなく,自分自身で罪を告白する事なのです。そのとき神は人の罪を受け止め、救いへの道、祝福の道へと導かれます。
私達は忙しい仕事・生活に追われ、神を忘れてしまい易い。疲れ果て祈ることもつい失念,何日もみ言葉から離れていても気にならず。日曜の朝になって聖書の埃を払って、礼拝に出かけてくるような生活が、キリスト者として許されることでしょうか、もはや「あなたはどこにいるか」との主の問いかけも聞こえなくなっているので応答もしようがないのです。私は自分の興味あることに溺れてしまい,み言葉から離れやすい性分です。それで食卓に聖書と聖句カレンダー、祈祷表を置いてあります。肉の必要と霊の必要を撮ること忘れると、自分のいる場所と、神との関係・距離がいい加減になるからです。
私の生涯は戦争の影響から切り離す事が出来ません。未だにそれが色濃く残っています。にも拘らず、戦争から受けた諸々のものを、忘れがちであることに危機感を感じます。私はどこにいるのだろうか、私は中国におけるサッカー試合の時、中国人のブーイングに半世紀前に日本人がなしたおぞましい出来事を忘れられない彼らと、事実を知らない若い日本人と、何時までも正式に非を認めない政府のあり方と共に、私自身の戦争と平和が問われている事を考えさせられました。主の平和ならしめる者は幸いなるかなのみ言葉の前に粛然たる気持ちです。
「あなたはどこにいるのか」の主の問いかけの前に神様と自分との関係を見なければなりません。呼びかけに対してあるがままの姿で主の前に立たねばならないのです。モーセは燃える芝の中から「モーセよ、モーセよ」と神に呼びかけられました。モーセは「ここにいます」答え、また「サムエルよ、サムエルよ」と主に呼ばれたならば、エリに教えられて通り、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた時「しもべは聞きます。お話下さい」と応えたことにより長い間絶えていた預言が回復しました。私も「あなたはどこにいるか」との主の呼びかけに応答する者となり自分の姿、主との関係、罪、傲慢、怠惰、堕落を自覚して主の恵みのみ手を差し伸べていただければ、神の赦しのないまま希望のない藪の中に隠れて主を避ける生活になってしまいます。主のみ言葉に従って主の恵みのうちに信仰生活をなしたいものです。
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FEBCから「私を生かした言葉」を2回にわたって放送した事があります。それはガラテヤ2章19・20とローマ8章20節です。これは私の信仰の原点です。59年前の水に渇えた赤土のトンネル陣地のドン底生活の中で,これらの言葉を通して主との出合を経験しました。死より他に考えられない状況の時に主と共に生きる事を体験しました。
小学校に入った時には、満州事変が始まり徐々に戦時体制へと移って行きました。万葉集の防人の歌「海行かば、水くかばね、山行かば草むすかばね、大君のへにこそ死なめ、顧みはせじ」意味も分からないうちから、覚えさせられ歌わされました。天皇の為に死ぬ事が国民の義務であると洗脳され、青年期に入りました。多感な青年期に、建前は現人神である天皇と国の為に命を捧げる。本音は生きて自分の夢を追いたい死にたくない。ただ卑怯者・非国民扱いされる事の恐ろしさから、仮面を被っての生活を余儀なくされました。その延長上におけるみ言葉による主との出会いで、生きる意味を知り、生きて帰ることが出来たならば神のみ言葉を若い人に伝える者になると誓いました。
19・20節には生きるとの言葉が5回あります。死の淵を覗く毎日の生活の中で生きるという事は大きな希望の光です。そこには生きているのは私でないことが強調されています。ローマ6章3・4節にはキリスト者になったのは、古い罪の体は死に、キリストの新しい命に生きたのであり、それがバプテスマ洗礼であると述べられています。
だから、もはや私が生きているのではない。私がイエス キリストに結ばれて、キリストの復活の命が私のうちに生きている。すでに罪と死に支配されていない。私のうちに生きておられるのはキリストなのです。では私はどこにいるのでしょう。キリストと共に十字架につけられ死に、キリストと共に葬られてしまった。私の古い人生は十字架上でキリストと共に終わってしまった。そしてキリストは復活なさって、新しい命に生きておられる。私は聖霊によって罪の身は水に流され洗礼によって死に、新しい命に生きるため水の中(墓の中)から洗礼によって新しい命に生きているのです。キリスト者の信仰生活は、バプテスマによってキリストと共に十字架に死に、キリスト復活の新しい命で始まるのです。
今現実に、肉にあって生きているのは、信仰によって生きているのです。私を愛して、私の為にご自身を贖いとして私の身代わりとしてささげられた神のみ子を信じる。イエス様を私のキリスト(救い主)と信じる信仰によって生きているのです。信仰による人生・生活が実現するには、肉においてキリスト信仰に生きるしか方法はないのです。肉においてキリスト者として生きその信仰が実現して行く事が私の喜びであり,神様も喜んで下さるのです。その信仰の確かさは私を愛し、私の為にご自身をささげられた御子を感謝し喜びのうちに信じる信仰によるのです。
主イエス様が何をなさったか、その内容が福音であり、その福音を信じること、私が今肉にあって生きている事なのです。この福音を多くの方々に、伝える事がキリスト者、教会の役目です。福音を証しつつ生活するのです。
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9章14・15・16節「彼らは強情に自分の心に従い、また先祖の教えたようにバアルに従った。イスラエルの神はこういわれる。・・・・・・その先祖達も知らなかった国人のうちに彼らを散らし、また彼らを滅ぼし尽くすまで、その後ろに、つるぎをつかわす」それに対して26節迫りくる大バビロン帝国の脅威に際して、ユダ王国はエジプトなどと同盟して対抗しようとしていた。その時預言者エレミヤは神の言葉を民に伝えたのです。それが10章です。1節〜16節は偶像を論じ、後半はそれに対する悔い改めを求める神の罰として8・9章に述べられる国土の荒廃を述べます。
10章2節主は言われる「異邦の宗教の習慣はむなしい、偶像を礼拝する道に習ってはならない。異邦の神々は、本質的には霊的存在であるけれども、人間に自己を現すときには、木や金銀でもって人が道具を使っての産物としてのみしか表現の道がない。3・4像の形成が述べられ、きゅうり畑の案山子のように、ものも言えず歩く事も出来なくて、人に運んでもらわなくてはならない。それは恐れに及ばない」
偶像のむなしさから必然的に10〜16節の、ヤゥーエーの神に対する信仰告白がなされる。まことの神がむなしい偶像と対比され恵みとまことの神は、契約における真実を示し、神と人、人と人との関係の誠実な忠実さを表し、お互いの信頼関係をも示します。
12節以下、創造の神のご計画が示されます。イスラエルは偶像礼拝の故に投げ捨てられ、悩みを忍ばねばならない。これも全て神の摂理の中にあることです。続けて23節多くの人は自分の道を自ら見出し、決断して行く事が最善の道だとしています。23〜25エレミヤの祈りですが、民の代わりに彼が祈ったのかもしれません。人の歩むべき道を決定する力は人にはない、またその歩みを確かにする力も人にはない、これは神なるヤァウエーにあるのだとの信仰告白が前提です。そんな馬鹿な事がと言われますが、これはエレミヤのように長い苦難の道を体験した者のみが言えることです。エレミヤは神こそ人の道の主であり、イスラエルの歩みの確かさあることを知って、その前に寄る辺なき者として、助けを求めるのです。
ある事柄を信仰によって確信したという場合、主の御心を知って確信したのでしょうか、確信のない信仰や祈りには力強さは感じません。ただお願いを並べるのみでしょう、祈って確信したという時、確かに強い願望を主張していて、御心でない場合が多く在ります。主イエス様のゲッセマネでの苦い杯を取ってくださいとの祈りは聞かれませんでしたが,御心のなされる事をとの祈りは聞かれました。人間イエス様の祈りは聞かれませんでしたが、聞かれない事で神の御心がなされた(後半の祈りは聞かれた)強い願望が聞かれたと思うとき、それが神の御心か、否か、点検しないと危険です。
人は自分の行くべき道を定め、確かめは出来ない。どのように強い願いであっても、その祈りが聞かれないというかたちで、御心が行われることが真実です。その真実を、苦悩し苦痛のうちに受け止め、定められた荒野の道を歩むのが信仰です。
エレミヤは負いたくない道を負わねばならなかった。滅び行く民の悲しみを負って神の定めた道を歩まねばならなかった。私たちは目に見える安易な道、異邦人のむなしい習慣(偶像礼拝)に習うような道を歩んではならないのです。
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日本が59年前の廃墟の中から、世界有数の発展をなしえたのは平和憲法の下、戦争をしなかったことであることは世界の有識者の知るところです。敗戦の翌年3月私は台湾からの船路で瀬戸内海に入って、雪の積もった緑の美しい景色を目にしました。国敗れて山河ありの言葉を思い出して全てを失ったって、この美しい自然があるではないかと打ちひしがれた心を慰めつつ、かつての軍港広島の大竹港に上陸しました。基隆出港時、荷物を運ぶ使役をしていたので薄着でした。その間荷物が見えなくなったので、その状態で破れ靴のまま雪の中で震え上がりました。客車の窓は破れ板で仮止めしてある有様で、寒さに閉口しました。広島で占領軍の汽車の通行待ちその間に顔を洗ったりトイレに行ったり、特に見渡す限りの瓦礫の世界に声もありませんでした。そこを暖房の効いた占領軍の客車が湯気を立てて通過です。改めて無条件降伏の恥辱を感じました。これからの生活の困難さを考えながら、戦争は金輪際いやだ、どんな事があっても平和は守らねばと決意しました。現在、常に軍備反対、憲法厳守を語ります。時代遅れだ世界の情勢を知らない時代遅れだと言われても、あの悲惨な出来事を知らない人に伝える事が戦争経験者の義務だと思うからです。
15節「キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい、あなた方が召されて一体となったのはこの為である。いつも感謝しなさい」11節までに古い人に属する悪習に関する警告がなされ、新しい人即ちキリストと共に甦らされた人は善い徳を身につけることが出来る。それは律法主義のように苦行が伴うものではなく。12「あなた方は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい・・・・15節」契約の恵みによって神に選ばれた者が着たものです10節。それは律法主義的戒律として強制され与えられたものでは在りません。これらの徳を愛の帯で、全てを完全に結びなさいと薦めます。愛はキリスト者の最高の徳であり、律法の要約でそれを全うするものであり、愛がなければ、全ての道徳的徳は義務的になる。愛が徳を美しく調和させその徳は神に喜ばれるものになります。
人の心には悪習と愛による徳とがせめぎあう事を防ぐために私達に与えられているキリストの平和があります。平和の君である主キリストの平和は、十字架におかかりになる前夜、弟子たちに残されたご遺言で平和(シャローム)を与えると約束なさった。そのキリストの平和があなたの心を支配するのです。あなた方が召されてコリント教会として一体になる為なのだ。全体の平和は個人の内面の平安が先ず必要です。ここでは、この平和が人間関係を良くるように支配する事が、混乱を収めると言われているのです。
支配するプラビューオーは、競技で勝敗の決定を下す審判員をも意味します。その審判員が平和の行動を決定するのです。私達のうちに混乱や対立がおきても、キリストの平和が審判員となり、主の教会は一致を保ちよき働きを進めて行く事が出来ます。
私達はキリストの平和を持ち全ての人間関係を整えるために主に召されたのです。そして16・17節が感謝のうちになされる事を祈ります。
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旧新約聖書を読む時、特に預言書を読む時に、預言者はその時代を背景にして、神のみ言葉を預かって語りますので、現代の私達がそれを誤りなく理解するために、当時の歴史状況を正しく知らなければなりません。
エレミヤの預言した時代は、アッシリヤ帝国が老衰期に在った為、ユダ王国は比較的自由と独立を保っていた。やがてエジプトが、ついでバビロン帝国が現れ、預言者エレミヤは悲劇的な祖国の最後を目撃し、それについて語らねばならなかった。私は59年前学徒兵として日本の敗戦を、目撃経験したので無意味な戦争について語らずを得ません。エレミヤの心の痛みに同感します。
エレミヤが神様より預言者としてBC627年に召されました。ユダの王ヨシヤの時に、神の言葉が彼に臨んだ。1章5節「私はあなたがまだ母の胎につくられないさきに、あなたを知り(ヤーダ選ぶ)あなたがまだ生まれない先に、あなたを聖別しあなたを立てて万国の預言者とした(ナータン定めた)」預言者の召命は神の言葉の啓示により、その人の内面の声によるのではありません。神のご計画の中で定まっています。神はキリスト者を永遠の命に予定されているだけではなく、神の国におけるその人の職務を予め定められている。私は信仰生活の節目節目で、導かれた水口牧師からこのみ言葉を示され厳粛な気持ちで受け取り感謝しました。
28章エルサレムに近隣諸国の王達が集まり、反バビロンの動きがあり、偽預言者ハナニヤが2年のうちにバビロンのくびきが砕かれると言うので、捕囚の人々にも早期帰国の政治的活動が起きていた。そのような時にエレミヤの書かれた手紙が29章です。バビロン捕囚は恒久的なものではなく、大帝国バビロンも神によってその期間は定められている。10節によるとバビロンで70年過ぎると約束どおりエルサレム帰還させる。それで5〜10節に偽預言者や占い師に惑わされずに家を建て、通常の生活をしなさいと勧めるのです。
捕囚の民の目には、異郷の地における労苦は果てしもなく続くように見えるが、11節神は彼らのためのご計画は、私が知っている。それは災いを与えるものではなく、平安を与えようとするものであり、その将来は希望に満ちたものを与えようとするものなのだ。人生の苦難は切っても切れないものがある。愛の神様がいらっしゃるのに、なぜ、こんな苦しみ悲しみ絶望があるのだろうか、なぜ切に祈り、奉仕もしているのに、神は耳を閉ざされるのだろうか。それは神の裁きなのだろうか、それでも神は愛のお方なのだろうか。
苦しみに会う時、果てしない問いに悩まされます。それは旧約の昔から神を信じる者の間の悩みです。異郷の地で奴隷の身分で、お前達の神はどこにいるのだと嘲られ辱められ、苦しみと、なぜという惑いの中にある捕囚の民に、神の時は必ず来る、慌てたり騒いだりせず、落ち着いて日ごとのなすべき事をなせと忠告するのです。彼らが今苦悩の中にあるのは、ヤァウエーの神を捨て、この世の勢力や、偶像に頼る罪を犯したその結果であるが、神は彼らを愛して、彼らに悔い改めさせようとなさった。決して無駄な涙を流させはしない。その不幸を足台として、より高いところに飛躍するようにと招いておられるのです。どのようなときにも希望を持って、主を見上げ祈りつつ進むのです。
捕囚の時は暗い日々であってはならない。彼達の疑問は、エルサレムの神殿なしに神様を正しく礼拝できるか、正式の儀式なしに罪が赦されるだろうかでしたが、祈りと信仰の生活は異郷に地にあつても、12〜14あなた方に会い、必ず回復すると約束なさいます。私達はどのような状況にあっても、エレミヤの手紙にあるように、平安と将来が与えられ、希望の中に生きるのです。
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49年前当教会の最初の受洗者は、中田牧師・高山兄弟・三沢兄弟です。高山兄弟は、岡山教会の中心役員として活躍しています。三沢兄弟は23の時、ダイオードの研究中全身火傷で召され、よき証しを同僚達に残されました。中田牧師は大酒のみから救われ福音十字軍の奉仕をなされ、主に関西方面で天幕伝道をなし聖書学院を卒業、元住吉教会の副牧師金城純子師と結婚、伊東教会で伝道・牧会に当たられましたが健康を害されて当教会堂二階の二間に家族4人で住まわれ、療養されながら私と共に奉仕に当たりました。私よりも3歳年上ですが、私を指導者として立ててくださいました。ある時私に遠慮がちにしかし毅然として忠告と教訓を与えて下さいました。それが今日の主題です。私は中田牧師を思い出すたびにローマ書のこのみ言葉を思い出します。18日の弘前教会での記念礼拝で、彼が信仰を持ったときの話と、彼の愛と厳しさについて話しました。思い出を語る記念会で皆さんが具体的に語られそれが実際に生きて働いている事を見まして感謝しました。
ローマ書によると、異邦人の使徒と召されたポウロは、イスラエル民族は神の選民でありながら、不信仰のゆえに元木の神から切り去られ、異邦人のあなたが信仰の故に、野生のオリブの枝であるがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっている。あなたはそれにふさわしいものではないので、高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさいといいます。20節「彼らは不信仰故に切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っている。高ぶった思いを持たないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむような事はないであろう。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたが慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたは切り取られるであろう」
野生のオリブの枝が、聖い選民の切り取られた枝の跡につがれ、根に支えられている。イスラエルは不信仰のゆえに切り取られ、あなたは信仰によって立っている。それ故に高ぶらないで恐れなさいと忠告するのです。
このように神の慈しみは信仰による異邦人に向けられ、神の厳しさは不信仰なイスラエル人に向けられている。この現実に現れている神様のこの両面を良く考え見なさい。神様は不信仰のゆえにつまづき倒れているイスラエルの上に峻厳が、神の慈しみは信仰の故に神によって立っている異邦人のキリスト者の上に注がれている。しかしあなたが信仰によって神の慈しみのうちに留まらず不信仰に陥るならば、あなたも切り捨てられるとポウロは警告するのです。異邦人はイスラエルのような神の民・選民ではない、そのような神の特権を持たないキリスト者ですので、神様に対する信仰だけが神様の恵みに預かれる道なのです。それを失うと神様から切り捨てられるのです。真実の神信仰を祈り求めましょう。
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人間世界は、夫婦関係に親子関係が加わり、さらに兄弟姉妹の関係がそれに加わり拡大して行きました。それに伴い個々人の罪が人間関係の中で複雑化し、それによって作り上げられたある方向へと文明も発達して行きました。そして個人と神様の関係にも距離が出来てきました。必然的に敬虔なき神礼拝が殺人にまで至りました。人間の歴史の開幕に起きた出来事ではありますが、現在の私達の礼拝のあり方が問われているようです。
当時はまだ、安息日礼拝は行われてはいませんでしたが、ある時期が来たので(おそらく収穫時)兄カインと弟アベルはそれぞれの捧げ物を携えて、礼拝のために神様の前に立った。人類にとって最初から農耕と牧畜は切り離す事の出来ないものでしたが、効率化の為か、カインは農耕、アベルは牧畜をそれぞれ主としていた。兄は地の産物を、最善のものでもなく最悪のものでもないそこにあるものを神にささげた。一方弟は、群れの最良の家畜を主に持ってきた。ささげものは神様が要求されるものではなく、その人が神に感謝するしるしとして、自発的にささげるものです。その量とか質は問われません。アベルはささげものに良きものを選ぶために心を用い、心の底から感謝を持って神様に近づきました。カインは神様との関係を維持する事のみの為にささげているのです。私達の礼拝も、感謝のゆえにささげる礼拝は喜びですので、なにものおも犠牲にして礼拝するのです。健康を害し、仕事などで休む事はやむをえない事ですが、礼拝しない事を正当化することは神様のお嫌いになるカインの業です。礼拝の中の献金は、自分を救い聖められたことを感謝して自分自身を神様にささげる感謝の代わりなのです。感謝の心が礼拝をせざるを得なくなり、その感謝を感謝献金として、自発的に喜んでするのです。
カインは自分のささげ物・礼拝が顧みられなかった事に、憤り、6・7節と神様から戒められたのですが、怒りをアベルに向け、殺し埋めて自分の罪まで隠してしまった。その罪の恐ろしさが彼の重荷であったのでしょう、それも土の中に埋めてしまおうとしたのです。
それでも彼を愛しておられる神様は彼の重荷を取り除けようと「弟アベルはどこにいますか」と問われ彼の悔い改めを求められたのですが、それに対して彼は「知りません、私が弟の番人でしょうか」と反論している。彼は自分の負うべき罪の重荷を地中に消し去って、「知らない」と神に嘯くのです。英語でAm I my brother‘s Keeper?が今でも責任逃れのことばとなっています。
私達の主イエス様は十字架の上に全ての重荷を負って取り去って下さったのです。人の罪とか重荷を見たとき私達は攻撃はしますが、とりなしもしないのです。カインに主は「あなたは何したのです」と自分自身を見つめる事を要求されました。罪におののくカインに救いの道を示されたのです。
私は先主日、弘前教会の中田牧師追悼礼拝の説教をしました。教会員の交わりの中で厳しかったけれど、思いやりのある牧会の思い出話を聞きつつ、この教会開拓第一号の受洗者中田牧師を思い出しながら、性格の弱い私に対する忠告を実行できるほんとの牧師にならなければならないと、責任を逃れようとする自分を強く戒めました。神様の問いかけに私達は言い逃れをしたり、言い訳の人生を送ってはならないのです。7節顔を上げての生活をしましょう
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40年ほど前の事ですがこの箇所のお話が終わった時。中学生の姉妹が、私は一生キリストの手紙として清い生活をします。祈って下さいと言われ、共に祈ったことがありました。今でも毎日の祈りの中で彼女の事を祈る時、この言葉を思い出します。2・3節「生ける神の霊によって、私達の心に記されたキリストの手紙であって、全ての人に知られ、且読まれているのです」
サウロ(後のパウロ)は突出したキリスト者に対する迫害者でした。パリサイ人で学者でもあった彼はキリスト者を、聖書(現在の旧約聖書)に示されている主なる神に反逆するものとして、迫害する事が神に対しての忠実な行為であると確信していた。新たな迫害のため、大祭司の許可によってダマスコに向かったが、その途上復活の主キリストと出会い回心し、異邦人の使徒パウロとなった。彼の異邦人への伝道は、ペテロ・ヤコブ達に主キリストによるパウロの異邦人の使徒としての任命は追認された。しかし、律法主義を頑なに固守する一派は、パウロの福音、キリストの十字架にのみ救いがあるとする伝道に反対して、その伝道を妨害し、彼の使徒職を否定する運動を各地で行った。それに対する弁明がなされた。自己推薦も、十二使徒の推薦状も必要ない。私が導いた人々が推薦状であり、その人達の心に記されているものが、霊によってかかれたキリストの手紙だというのです。
推薦状はいかに素晴しいものであっても、所詮は人が書いたものです。石に刻みつけてもそれだけのことですが、神は霊をもって心に書かれたものです。パウロはコリントの人々の心に伝えた福音の真理が、人に命を与え、人をまったく新しく造りかえ、それがあなた方兄弟姉妹で、伝道者達の奉仕によるものですが、生ける神の霊の働きなのですと彼は言います。伝道者が福音を的確に伝え主に導いたかは、導かれた信徒自身の生活が語っています。
元住吉教会の最初のバプテスマ受領者は中田牧師です。彼は主によってまったく変えられたキリスト者です。私のような弱い、牧師としては能力に欠けた人間でも主に用いていただければ、牧師が務まるんだということを開拓伝道の最初に主が教えてくださり、兄弟として与えてくださいました。それ以来二百人余の方が受洗されました。それぞれの教会でよき働きをしておられます。上京の際は礼拝出席や私を訪ねてくださいます。手紙だけでなく会って問安されるためです。母教会に対する愛からでしょうが、救われたときの感謝からでもあると思います。
私の50年の伝道における感謝は、素晴しい兄弟姉妹が与えられ交わりに与れた事です。この兄弟姉妹方と教会生活・信仰生活をおくることが、神様からの最大の贈り物と感謝しています。
3章1節〜3節 私達の生活そのものが人々に読まれるキリストの手紙であることに、光栄を覚え、共に励ましあい祈りあって、キリストの手紙にふさわしい生活をしたいものです。
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私達の人生には、多くの困難と試練があります。特に困難に乗じてのサタンの誘惑は格別に激しいものです。そのときキリスト者はみ言葉と祈りをもって、神からの力が与えられて艱難を乗り越えられます。その為に常日頃から聖書に親しみ、主との交わりがなければ、困難を前にしてうろたえるだけです。
39節主イエス様は、いつもの通り、いつもの場所に行かれ弟子達に言われた「誘惑に陥らないように祈りなさい」そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れた所へ退き、ひざまずいて、祈られた。静かなこの園は、主がエルサレムにご滞在中にたびたび祈りに訪ねられた所でした。私達も主のみもとに静かにひざまずいて祈ることは大事な事です。常日頃から主との交わりを欠かさないように心がけておれば、いかなる時にも、慌てずうろたえず、祈りのうちに解決の方法と力が与えられます。
マルコ・マタイはゲッセマネの園における祈りを3度に分けていますが、ルカは1度に凝集しています。このことは誘惑に陥らないようにとのお言葉から離れる事はできません。ルカは主の祈りで、誘惑に陥らないようにとの祈りを省いていますが、主の祈りをこの危機的状況の中で、このように祈るようにと示されたのです。「御心ならば、どうぞ、この苦い杯(十字架の死)を私から取り除けてください。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにして下さい」この祈りを、弟子達が誘惑に陥らないために、ささげる主の祈りとしてなすべく勧められるのです。43・44節は苦しみの中で主の心身を絞っての祈りの有様が述べられます。このときにイエス様の体験は3年前の、荒野の誘惑と同種の霊的戦いであった。メシヤとして、天使の助けを得ての(二三人主の名によりて祈る強さ)サタンと対決した霊の世界の大激闘です。マタイ達が3度表現したが、内容から1度で表したのです。ヘブル5章7節大きな叫び声、涙とを持って、祈りと願いをささげたとはこの表現です。
苦しみもだえて、ひざまずいてしまうほどの霊的格闘で祈られます。十字架刑の場合の苦痛の表現に対して、実に克明な描写です。福音書の著者達の贖罪理解が、十字架の肉体的苦痛よりも、精神的霊的を重視している事が強調されています。
弟子達は誘惑に対して、サタンの手に陥らないためこの主の祈りをしました。私たちキリスト者もこの祈りをもって、サタンに勝利するのです。「御心の通りにして下さい」と全てを主のみ旨に委ねるほかありません。人はサタンに身を渡すか、神のみ手に身を委ねるか、しかないのです。ゲッセマネの主に見られるように苦闘して神に全てを委ねねる事が主と同じように、神の力に支えられて艱難を乗り越えられるのです。その苦い杯を取り除くのではなく、杯を飲み干す事のできる力が与えられます。
汗が血の滴りのように、父よと呼びかけたる祈り、杯など聖餐式を定められた最後の晩餐を知れば、深い意味を知る事ができます。園の祈りでご自分の思いでなくみ旨がなされると確信なさった時、十字架の贖罪が成就したといっても良いのではないでしょうか。
救われキリスト者とされて感謝する一つは、人生の苦しみ艱難の時に祈れる事です。そしてみ旨がなされ全ての事を乗り越え、最善を信じ、平安である事です。いかなる状況下でも「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯を私から取り除いてください。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにしてください」、と祈りいかなる誘惑にもうちかてるものとされたことは感謝です。
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ペルシャ王クロスは「神の民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である」との勅令(エズラ1章3節)が下された。エズラはバビロン捕囚時に捕獲品の神殿器具を返され、第二の出エジプトといわれた選民の出発がなされた。ネヘミヤは王の命により、崩れた城壁をサンバラテらの妨害を排除して52日で修復した。総督のネヘミヤと祭司であり、学者のエズラは民を集め、律法を教え、エズラは2日目に9章の告白の祈りをした1節〜37節 その中で7節アブラムが忠信(アーメン)なのを見られて、契約を結び彼にアブラハム(わが父は気高く尊いの意)の名を与えられた。アブラハムを選んで契約を結んだ事はその子孫も選民とされたことを語ります。
一方新約を見ますと主イエス様は十字架の前夜の晩餐時に、遺言を弟子達に残された(ヨハネ14章〜16章)15章16節「あなた方が私を選んだのではない、私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた。それは、あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり・・・・・」と語られた。アブラハムが選ばれたのは、イスラエル民族であり、延長上に出エジプト、出バビロンがあります。主の選びはイエス様をキリスト(救い主)と信じた個人を神の子とし永遠の命に預からしめるためです。
エズラは告白の祈りで、神はアブラハムの子孫をエジプトの奴隷から救いだし、12節「昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱でもってその行くべきみちをてらされました」しかし、先祖は傲慢に振舞いかたくなになって戒めを守らず、神に従わなかった。しかし罪を赦し、恵み深く、哀れみ在り怒る事遅く、慈しみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした。よき御霊を賜って彼らを教え、マナと湧き出る水で彼らを養われたので、なんの欠けるところもなかった。そして約束の地では食べ飽き、肥え太り、大いなる恵みによって楽しんだが、それにもかかわらず26節不従順の故にバビロン捕囚の身となったが70年後の今、エルサレム帰還を果たし、城壁の修復の完成も主の恵みでありあわれみの神でいらせられるからである。それゆえに今日より神の宮をなおざりにせず。神の法を守りますと、民を代表して祈るのです。
主イエス様は遺言の最初に恐れる事はないといわれ、私が去っても助けぬし聖霊があなた方を導き守られる事、お互いが愛し合うことでその中におられること、主の名によって求めるものは、与えられ、喜びが満ち溢れるであろうと約束くださり。17章でこの地上における最後のとりなしの祈りをなさいました。6節「私は、あなたが世から選んで私に賜った人々に、み名をあらわしました(キリスト救い主を経験させた)彼らはあなたのものでしたが、私に下さいました。そしてかれらはあなたの言葉を守りました。彼らが滅びず永遠の命を与え、万民を支配する権威を与えて下さった。主が聖別されたように彼らを聖別してくださいと祈られるのです。
旧約時代の選民の歴史は、新約時代のキリスト者生活の雛形です。ルターは聖書主義で宗教改革をしました。旧新約聖書はすべてキリストを指し、十字架が貫いている事を告白している。私にとって旧約は新約の側から見ることと、旧約は私の信仰生活における実践の書です。イスラエルの選民に与えられたアブラハムとの契約は、私達キリスト者にとってイエスはキリストであるとの信仰告白によって、より充実した恵みの契約へと飛躍するものです。
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36節「神のみ旨を行って約束のものを受けるため、あなた方に必要なものは忍耐である」忍耐を忍従のように消極受け取られる事があります。残念ながら従順さの故かキリスト者でも忍従が徳の一つのように考えている人がおります。東洋の道徳は共同社会的生活様式の影響が強く、個人意識を抑圧して社会全体の秩序に従う事が忍耐であると解釈されてきた。仏教思想は欲望を否定していますし、君主に対して家臣の献身、家の権威に対する家族の服従が要求されます。天皇に対する国民は、臣民として絶対服従から忍耐が忍従に置き換えられています。自由になった戦後にも多くの人は無意識のうちに忍従しています。
忍耐とは不快・苦痛・屈辱・不幸といった人生の苦難を、甘受する意志的人生態度をいいます。忍耐と見えるものには、ある目的のために苦難を甘受する場合と、人生そのものを苦難として耐え忍ぶ場合とがあります。後者はあきらめて状況に流されていきますが、前者は目的を成就するために信仰を持って苦難に耐え忍び、乗り切って行く姿勢となります。
この手紙を受け取った群れは、救われたときの喜びと力を失っていた。彼らは、主の光に照らされていた時は、苦しい大きな戦いによく耐え、苦しめられ、嘲られ、見せ物にされ、財産を失った事もあり、捕らえられた人々と苦しみ共にした事もあった。それができたのは、確信を持ち、その確信は大きな約束の報いを信じいつまでも残るものを知っていたからです。それゆえに全てに耐え忍び喜んでいたのです。しかし今はその逆で、苦しめられている人々の仲間にもならず。戦いもせず。捕らえられている人たちの苦しみを思い遣る事もできず。自分がより豊かになる事を第一とする生活。それゆえに光の中におらず闇の中におり、福音はつまらないものであり、信仰による生き方は苦痛であり、教会は楽しくない、喜びがないと不平を呟くのです。
私は雲仙の硫黄くさい湯気の満ちた地に立った事があります。3百年程前この地でキリシタンが拷問を受けた所です。寒いさなか傷つけられた背中に硫黄の熱湯を注ぎ転ぶ(信仰を捨てる)事を強いられても、信仰を捨てず殉教した地です。又60年前に私達の教団が天皇を現人神として礼拝する事を拒んで、弾圧を受けた。先輩達は、永遠の命が与えられる約束を確信して、殉教した者、投獄され拷問に耐えた者もいた。彼達は自分の持っている確信を放棄しなかったのです。35節
ヘブルの群れが失われたものを取り返す解決の道は、「神のみ旨を行って約束のものを受けるため、救いの完成への希望を持ち続けるには、忍耐が必要である」36節と述べられます。それは、戦いを恐れず、苦しむものと共に苦しみ、自己保身や名誉と賞賛自分を喜ばせるような事は望まず。忍耐してこの世の生活を乗り切る事です。
ロマ5章3〜5恐れおののくものは滅びですが、信じるものは命を保ち、信仰によって義とされる者は永遠の命を得るのです。この信仰の中に希望があるのです。
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栄光の主イエス様は「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」6・7節。そのなんとも表現のできないやさしい人格に近づくことで、現在の複雑な社会生活で傷つき病んだ心に、癒しの業を経験し、平安な心を持つ事ができるのです。
私はキリスト者になって驚いた事は、私のような人間に謙遜なへりくだった徳が神様が与えられた事でした。たいした能力もないのに、高慢にも、自信だけは人一倍で行動をし、人からも認められていると、のぼせていた姿を教えていただいたのは、この2章のお言葉です。人が神になる事は身近に神道や神社で見るところです。50数年前までは天皇を現人神として礼拝する事が強制されそれを拒んだ私達の教団は厳しい弾圧を受けました。多くの宗教、歴史、思想哲学を見ても、皇帝礼拝や、優れた傑出した人を神としていますが、神が人間にまで下られた例は、主イエス様以外には見られません。それは神の愛の具体的な現われだからです。
ポウロはそのようなことを念頭において、3・4節「へりくだった心を持って互いに人を自分より優れた者としなさい。各々、自分の事ばかりでなく、他人のことも考えなさい」と勧めます。道徳教育でも同じように教えますが、表面的にできても心の底からそのようにはできません。5節(文語訳聖書)「イエス キリストの心を心とせよ」としなければ実行不可能です。その事をポウロは続けて語ります。彼はイエスのように己を低くすること、十字架の死に至るまでの従順さに、その謙虚さを見ています。即ち他人のことを考えておのれをむなしくされたキリストのご行為に根拠ありとするのです。イエスは全てを捨てて、むなしくなられ、私の境遇、あなたの悩み苦しみおも、人間として味わいつくされ、十字架にまで負っていかれました。それで私達のすべてを経験されたそのイエス様の名によって祈るのです(ヨハネ16章24節)
そのイエスの心を、あなたの心とする。それだからあなたも私も、一層弱い、困難と痛み、苦しみにある兄弟姉妹方に自分のなしうる事をなすそれが奉仕であり、仕える事です。それがへりくだりであり、謙遜です。傲慢さ、人を押しのけても成功しようとの野心、健康を誇っての無鉄砲さ、人に与える不愉快さ、無遠慮な行為を、自分の中から排除して、弱いもの、苦難の中にある人に手を差し伸べる事が奉仕し仕えることです。
イエス キリストの心を私達のうちに常に蓄えるには、絶えず常にイエス様との交わりを欠かせない事です。愛に満ち溢れた主イエス様に常に接しますと、私達は主の愛に感化されて愛の人になれます。私の行動基準は今ここに主イエス様がいらっしゃれば、何をなさり、私にどのように命じられるかです。それが実行不可能であろうとも、祈りながら実行しようと思います。私はそのことがイエス キリストの心であると確信するからです。
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私達が主日に教会でささげる礼拝が、敬虔な信仰から離れたものは偽りの罪となり、殺人にまで結びつく冷厳な事実であることを、このカインの献げものの礼拝が語っている事を、一人一人また教会も強く認識しなければなりません。教会で主日に礼拝をして、週日は神から離れた生活をし易いものですが、短くとも毎日個人個人がそれぞれの場で礼拝を守れば主日にも真の霊的礼拝として神に受け入れて頂けます。人類は、はじめ個として創造され、男と女の夫婦関係が成立し、これに親子関係が加わり、さらに兄弟関係ができ、人間関係は拡大複雑化して行きました。そしてそれぞれの関係の中に罪が忍び込み、恐ろしい犯罪となり、関係が分裂してしまいます。
1節信仰は神を知る事から始まります。人間関係もお互いを知る事から始まります。夫婦関係の愛もお互いを知る事から深まります。ヘブル語で、知るはダース・ヤーダなどですが、愛するとはお互いを十分に了解する、理解してその知識の上にあり、そこでまったく完全に一つになる事です。アダムとエバはその愛によって、カインを生み主によって一人の人を得たと言っている。主の恵みのうちに生きる事を許されたエバにとって、子供の誕生は全くの驚きあると共に、自分の業ではなく神の業であると了解したのです。次にアベル(ヘブル語でハベル息)むなしいという意味もある。これは全てを知られる神による暗示でありましょう。彼は羊を飼うものとなった。土を耕すは共に生活に必要な仕事で、おそらくアダムの農耕・牧畜の分担であったのでしょう。職業の貴賎には関係はありません。
日がたって、カインは地の産物から、最善のものではないもの、最悪でもないもの、これはアベルの最良のものとの区別の下に述べられたのです。アベルは良いものを撰ぶ為に細心の注意を払った。また彼は家畜が増えた事は神の祝福であると感謝していた。恐らくカインは地の産物は自分の労働の結果と考えていたようです。アベルは心の底よりの感謝を持って献じたのです。二人は神の要求で犠牲を準備したのではありません。カインは神との関係を維持する為にのみ犠牲を献じ礼拝をしたが、アベルは神の愛に感謝の表現として聖い犠牲によって礼拝をしたのです。
カインは自分の献じたものが神に受けられなかった事は説明されなくともわかったことでしょう、又そのことを反省できなかったわけでもないでしょう。彼は自らの罪故に神の態度が納得できず、彼には神は隠された怒りの神となったのです。
カインは自分の行為、態度等反省することなく、弟に嫉妬のあまり殺害した。その彼に神は悔い改めるべく声をかけられるが彼はその機会を失ってしまう。第一は献じたものについて、第二の機会は、弟アベルはどこにいますか9節の問いかけです。開き直った彼は又も改心の機会を逃します。「あなたは何をしたのです」の問い第三の機会です10節。ここでも悔い改めず、結果の恐ろしさのみを神に訴えるのです。
自業自得の事とは故恐れおののく彼に、神はすくい手を伸べられます。ひとつの印をつけて救いの約束をなさいます。愛の眼がその印を付けたカインに注がれているのです。神ははじめから彼を愛しておられたのです。彼が罪を犯してもなお愛しておられたのです。
私たちキリスト者も愛のしるしを頂き、いつも愛のまなざしが注がれています。私達はまことの霊的礼拝をささげるために自分自身体を神に喜ばれる、生きた、供え物としてささげましょう(ロマ12章1節)そのしるしが献身であり、感謝献金です。聖い手で献じ、神に喜ばれる礼拝を致しましょう。
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徳川幕府の長い鎖国が解かれて、明治になり開国した日本は、富国強兵の大方針を掲げました。そして、欧米諸国と肩を並べる近代化を図りました。その為に和魂洋才を基本として西洋文明を取り入れ追いつく事に力を注ぎました。
和魂とは、大和魂であり、それを基本として洋才をその上に築こうと言うわけです。洋才とは当時の先進国の文明として、文化、学問、技術などを指しています。文明開化を果たしたと思った時から、敗戦に至るまで、大和魂さえあればという、国粋主義からいわゆる洋才なるものが軽視され滅びに至った。洋才を取り入れるために欧米のバックボーンのキリスト教を歓迎して、新しい才として吸収受け入れ用として、キリスト教禁教を解いた。それで多くの人が洗礼を受けましたが、殆どの人はキリスト教文化に憧れての事であったのでしょう、棄教しています。日本人には未だに文明文化という言葉だけでも憧れの言葉です。
鬼畜米英とか、打ちてし止まんなどと叫んでいた指導者を含めて、一夜にして平和主義者・民主主義者になりました。そしてアメリカ一辺倒となり、マッカーサーや占領軍(政府は進駐軍とする)の後押しもあって、戦争で去った宣教師が伝道のため大挙してきたり、それに呼応して息を潜めていた日本の教会も、日本をキリストにと伝道が開始された。キリスト教の集会・教会には人が溢れ、日本もキリスト教化されるとて、共産主義者や右翼が妨害するほどでした。教会の指導者もそのように考え、教会に大勢集める事に狂奔しそれが伝道だと推し進めた。その結果は戦前と変わらず国民の1%弱であった。なぜでしょうか?
キリスト教の伝道は人を多く集める事のみではないのです。19節パウロは「ああ、私の幼子達よ。あなた方の内にキリストの形ができるまでは、私は、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と述べている。キリスト教伝道とは人の内なる魂の中にキリストの形・姿を刻みつける事です。大和魂の上に、洋才キリスト教文明を築き上げるのではなく、人間存在そのものを新しく創りかえる事が教会のなすべき伝道の業です。その為に大勢人を集める事は大事でよいことです。しかしいつの間にか伝道が履き違えられたのではないでしょうか、魂の問題が、才の問題から抜け出せないのです。
イエス・キリストとの人格関係ができるまでは、いかにキリスト教を理解し、神学理論で武装し、古今東西の賢人の言葉に傾倒しても、キリスト者にはなれないのです。私達はこの世の常識習慣にどっぷりとつかり過ぎています。この日本人の魂にキリストの形を刻み込むのは、人間には不可能です。何事でもなし得る神様により頼む他はありません。先ず私そしてあなたが、キリストの姿を刻みつけていただき、私達の存在そのものがキリストの存在を示す証しとならねばならないのです。それが伝道の基本です。伝道は個人伝道から始まり、個人伝道で完成します。
本日は礼拝後、教会総会がもたれます。もう一度自分自身を見つめなおして、私のうちにキリストの姿が刻まれているか否か。この教会が御霊に導かれて、右にも左にも曲がらず主の道を歩み続けるためには、お互い内なるものが創りかえられたキリスト者の集団、エクレシアまことの教会にならねばならないのです。
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人は、富・栄え、神様から祝福されている時は自己中心になりやすく、周りの人に対する配慮、神への感謝を忘れ、自己の判断力に頼る傾向に陥ります。ロトは神に忠実な叔父アブラムと行動を共にした事自体が豊かさの最大の理由でした。信仰者は神の祝福の基となります。信仰者の祝福は周りの人にもそれを預からしめます。祝福の結果をどのようにするかは、信仰者にとって時には試練であり、更に新しい神の祝福の機会でもあります。
アブラムはエジプトの危険からの救いを経て(創12章)再び約束の地に帰ってきた。先ず彼は前に築いた祭壇に行き、主の名を呼んだ(4節礼拝し、感謝祈祷をなした)そして信仰を新たにされた。
ロトとアブラムは、神による金銀と家畜が多かったために、共にすむ事ができなくなるという困難がおきた。それでアブラムの提案で別れて住む事となった。大いなる財産は、貧と同じように暖かい気持ち、思いやりを失いがちです。アブラムとロトの人格の相違と信仰のあり方を、住む地の選択に見る事が出来ます。
ロトは自分の財産を増やそうと努力していた。その事が、若いときから親代わりとして養育された恩人であり、ここまで豊かにしてくれた叔父と争ってまで、欲望を増大させていった。一方アブラムは、主がこの地で豊かに祝福してくださるとの約束を信じて神のなさる事を最善としているので、醜い争いを避けて、8節・9節と先ずロトに好きな所を選ばせた。とかく所有物の誘惑は判断を狂わせ、一時的な欲望感情に流され過去の出来事、将来を見る目を誤らせてしまいます。
ロトが目を上げて見ると、10節、下に見えるヨルダンの地は、主のエデンの園のように、又エジプトのナイル川流域のように隅々まで潤っているように彼の目には映った。家畜を飼う牧畜にも、農作業にも豊かになるには慕わしく見えたのです。神に祈って判断するでもなく、アブラムに対する配慮もなく自分の目で選んだのです。彼はソドム・ゴモラの腐敗堕落、罪にまみれた住民の事はすっかり見落としている。実はそれが非常に重要なことでした。それがために彼達家族は、零落の運命をたどり、その無遠慮な利己心も、粉砕され、財産も主の命令を破った妻も失った。人間の目による選択の悲惨さを見ます。
アブラムは主が与えられる丘の上の荒地のようなその地が与えられ、子孫が地の塵のように多くするとのお言葉を信じて、ヘブロンのマムレに天幕を移し、そのところに先ず祭壇を築いて感謝の礼拝をしています。私達も自分の住む家にて、毎日聖書を読み、祈り、神を讃美する信仰生活をアブラムのように、日常的に礼拝をなしたいものです。
神様を忘れての生活は、ロトの失敗を招く事ですが、目先だけ見ているとそれがよい選択だとしやすいのです。アブラムの信仰生活は、人間の目には愚か者のすることだと見えます。この世の長い生活では、それが勝利の生活です。神を仰ぎ見て、礼拝し、祈ることは、人の目には時間つぶしであり、それよりも自分の好み、自分の楽しみこそ何にも代えがたいとします。それこそロトの選択なのです。
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1日に新年礼拝を守りました。一般に行われる初詣と似て非なるものです。確かにキリスト者も新しい年における神の恵みを祈りますが、新年礼拝は御独り子イエス様を私達の罪を贖うために十字架で血を流させ給うた、父なる神の愛に感謝をささげる事です。が、神社仏閣の初詣においては、家内安全、商売繁盛、病気平癒、受験合格、恋愛・結婚成就などの、祈願のために初詣のはしごまでする人々もいるほどです。私達の感謝礼拝との相違点です。
私達は、礼拝においてこの感謝を、感謝献金や十一献金として表します。その献金も感謝として自分自身を献げるしるしとして献げるのです。1節「兄弟達よ、そういうわけで、神のあわれみによってあなた方に勧める。あなた方の体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたのなすべき霊的な礼拝である。」私達は礼拝において、神の愛、キリストの慈しみに心から感謝・讃美をささげるのです。11章までに神の恵みが懇切に述べられています。それでそういうわけで、神のあわれみの故に勧める(懇願する、お願いする、の意)のです。神に喜ばれる、神に受け入れられるささげもの、アベルの献げものようなもの(創世記4章)パウロによると、あなた方のからだ、それも生きた、聖別された献げものなのです。
その献げ方の第一、生きたものを献げなければなりません。旧約時代に犠牲を献げる時には、死んだもの、傷ついた不完全な動物を献ずることは堅く禁じられていた。それは神に対する信仰と、誠実の問題です。キリスト者も信仰と誠実さをもって、自らを神に献げるのです。第二、神のために多くの中から一番よいものを特別にわけて献げるのです。第三、神様に喜んで受け入れていただけるように、神の御心に従って献げるのです。このような献げかたをして礼拝する事が、霊的礼拝です。霊的礼拝はギリシャ語からの直訳では、合理的礼拝です。人間として当然なすべき神に対する礼拝です。形式や儀式を超えた内的で、霊的な礼拝なのです。礼拝は奉仕とも訳せます。英語では礼拝を、サービスともいいます。キリスト者は全存在を持って神に仕え生きる事から、礼拝を守るところからすべての奉仕信仰生活が始まります。そして真実の献身こそ、私達の真実の信仰生活であり、真実の礼拝です。
献身はキリストにあっての自己変革です。神に反逆するこの世に同調しないように、聖霊によって本質的に、根源的に創りかえられ、何が神の御心であるか、現実の生活の中で私が主体的に判断して信仰生活をするためには、神によって造りかえられていないと、実行不可能です。
神の御心は、第一に何が良い事で、人のために何が善であり益であるかを知る事です。第二、何が神に喜ばれるか知る事です。そして第三、何が完全であるか、何がキリスト者の完全かを知る事です。それには献身が必要です。
私達は、この二千四年、この新しい年を、自分自身を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として、感謝のうちに礼拝し、神に奉仕をなし、聖霊によって古い心を焼き聖められ、聖別され改革された心で生活をなす事を決意し、実行に移して行きたいものです。
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8節「私が きょう、あなた方に命じる戒めを、ことごとく守らねばならない。そうすればあなた方は・・・乳と蜜の流れる国において、長く生きることが出来るであろう」イスラエル民族が永世できるであろうといわれるのです。きょう、今、明日では手遅れになるのです。神様の命令は今、きょう、直ちに実行に移されなければならないのです。
神様の命じられた戒めは十戒(出エジプト20章)を中心とした。貧民救済法、社会的弱者保護法、外国人保護法、奴隷虐待禁止法、安息法、裁判公正維持法、逃れの町法などと実に暖かい法律です。これらを冷たい解釈の律法に変えたのは神の命令を軽視した人間の罪の故でしょう。神様の暖かい戒めを守る時、奴隷の地エジプトを脱出したときに約束された乳と蜜の流れる地での、長い生活が保障されるのです。
10節、エジプトにおいては、ナイル川より引かれた潅漑や運河から、足踏み水車で水を畑に注いだが、ヨルダン川を渡ったカナンの地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
12節「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」主の温かい目が彼達を見守っているのです。その具体的な神の愛のみ手が、14・15節に述べられている。そのためには、13節「もし、きょう、神の戒めによく聞き従って、あなた方の神、主を愛し、心を尽くし、精神をつくして仕えるならば」との前提のもとに語られた約束です。
それには、十戒の第一の戒めあなた方は私のほかに、何者をも神としてはならない。を実行しなければならない。ところが16節「あなた方は心が迷い、離れさって、他の神々に仕え、それを拝む事のないよう、慎まなければならない。おそらく主は怒りを発して天を閉ざされるであろう。・・・・・主が賜るよい地からすみやかに滅びうせるであろうと警告されています。
新約マルコ12章28節以下。主イエス様は十戒を中心とした多くの戒めは、この二つにまとめられると宣言なさいました。律法学者達は細かい解釈をなして、人々に冷たいそして実行の困難な律法を教えていた。膨大な律法解釈について議論するのではなく、この二つの愛する事を実践すれば、神の子とせられ、神の国を継ぐ事が出来るのだと、律法学者を諭されたのです。
私達は、きょう、今、神の戒めを守るべき事が要請されています。神様の約束された乳と蜜の流れるカナンの地、それは私達の生活のうえに、常に主の暖かい見守りの目が、年の初めより年の終わりまで、注がれている事です。そのことを覚え、二千四年の一年間を感謝と喜びのうちに歌いつつ、手を携えて参りましょう。
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6節「信仰がなくては、神に喜ばれる事は出来ない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さる事とを、必ず信じるはずだからである」と信仰がなくては神に喜ばれる事はないと述べまして、へブル人への手紙11章には信仰とはどのようなものであるかと1節で定義し、旧約時代にこの信仰が与えられた人々の、信仰の働き、その生涯が神に祝福された実に素晴らしい人生であるかを物語っている書です。
人間の一生には多くの困難がありますが、12章10・11節「たましいの父は、私達の益のため、そのきよさにあずからせるために、訓練されるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」信仰の生涯は、試練おも神の訓練としてとして、私達を最善に導くものです。
11章には『信仰によって』と20回出てきます。旧約時代の信仰の先輩達は、神の約束が与えられただけであり、生きている間はそれが実現してはいなく、神を信頼してその約束を信じたのみでしたが、喜んでその生活をこの約束への信仰に従わせた。約束は当然、未来の出来事です。が、彼等信仰の先輩達は、神の約束された事は必ず実現させてくださると信じたので、未来の事を現在すでに事実として実現しているかのように行動し生活したのです。
3節、旧約の信仰者も、新約時代のキリスト者の私達も、基礎的な共通の信仰として、空間的面と、時間的面を含めた世界が、神の言葉によって無から創造された事を信じています。この創造信仰は神よりの啓示にもとずくものです。1節〜3節を信じることが、神様に喜ばれる第一歩です。
神に喜ばれる信仰の人物としてまず、洪水以前の人々を取り上げています。アベルは最初の殺人犠牲者であるが、神を信じ、神に望みをおいたかれの生と死は真の人間のあるべき姿を、見る事が出来る。エノクは信仰によって、神に喜ばれる者として、死を見ずして、天に移された。このエノクを通して神に近づくことと、神がおられる事を私達は信じます。三番目のノアの信仰は、アベルのように義人であるとともに、エノクのように神とともに歩む信仰者であったことです。
神に喜ばれる者になるには、無から万物を創造された創造信仰が第一歩です。そして、アベルのように神を信じ、義人の生活を送り、エノクのように神とともに歩み生きる事です。そしてノアのような信仰を神からいただく事です。
この三人の信仰の具体的な信仰生活が8節以下に説明されています。その信仰の先輩達が12章1節この地上の馳せ場で歩む私達を雲のように囲んで応援しているのです。2節信仰の導き手であり、又その完成者である主イエスを仰ぎ見つつ、私達は忍耐して走りぬくその信仰が、神様に喜ばれる者となれるのです。
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1章2・3節は伝道の書の主題を述べています。神から離れた人間存在は空しく、満たされる事はない。この主題の実証が、4節〜2書26節まで記されています。本日は11節までの自然現象の単純さとそれに似た人生をマラキの時代に語られた事を学びます。神のない人生は終わりのない無意味な繰り返しにか過ぎない。人の労苦は何一つとして永久に残るものはない。地だけがいつまでも変わらないのです。
自然現象が、単調な、意味のない繰り返しの過ぎないのと同じように、神なき人生もまた目的のない退屈至極な代物にしか過ぎないのです。4節以下、去る、来るは限りなき連続を語り、人の世は次から次へと移り行く。人は地より造られ、生まれては死に、移ろい行く、その地はいつまでも変わらない、日は出で、没し、これも無限な無意味の繰り返しにか過ぎない。その出たところに急ぎ帰る(シャーアフあえぐ)。あえぎつつ行くのです。野山に吹く風も、山から流れ来たり海へと無意味な反復にしか過ぎない。伝道者の目は自然界から人間界のむなしさに注がれます。目の下には新しいものはない。伝道者がむなしさを感じた第二のことです。人間は新しい発見や発明をするが、それはすでにあったものに過ぎない。人の目に新しく見えるものも昔からあったもので、人の記憶に残っていないので新しく見えたに過ぎないのです。
大晦日と元旦は同じ日の隣りあわせでなんら変わりのない日ですが、大晦日が明けると新しい年となり、お互いがおめでとうと挨拶を交わすのでしょうか、一休禅師の有名な「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠んでいますが、うなずかせるものがあります。
コリント第二・5章17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」正月には今年こそはと一大決心をして、自分自身にも宣言します。よし今年は旧新約聖書を通読するぞ、体重を6キロ減量するなどと決意して工夫をしますが、今日一日はいいだろうなどと言っているうちに新しい決心はつぶれ、古い習慣にどっぷりと漬かってしまいます。新しい事は非常に魅力あることですが、新しいものはすぐ古くなってしまう流行の類です。ニュースもメディアの発達で数時間もたたずに旧聞になります。この新しさはギリシャ語ではネオスですニュースの語源です。ネオスの新はすぐに古くなり始めます。変わりやすい一時的な新しさを示す言葉です。これに対してこの聖句で述べられているカイノスといわれる、「いつまでも変わらない新しさ」を示すものです。キリストに在るならば、キリストと結ばれた人はだれでも、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった。この新しさです。私達は時間の経過で古くなる形式的な外側の新しさネオスではなくて、真実な新しさカイノスを維持し続けたいものです。新約聖書はイエス様を通しての神様の新しい約束です。キリストと完全に結ばれていないとキリスト者といっても一時的なネオスの新しさ故に脱落するものが起きます。
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私達の教団は、メソジストに属していた中田重治牧師とカウマンが組織した東洋宣教会を母体として、1917年に創立されました。新生・聖化・神癒・再臨の四重の福音の下に大いに教勢を伸ばした。戦時中政府によってキリスト教は日本基督教団にまとめられた。ホーリネス派は天皇を現人神として礼拝する事を拒んだので治安維持法違反を口実に弾圧解散させられた。戦後日本キリスト教団から離脱ホーリネス教団を再建した。ホーリネスはきよめと言う意味です。
1720年ごろジョン・ウエスレー チャルス兄弟が、オックスフォード大学で、聖化された生活に励み、断食、祈祷、訪問伝道(刑務所も含む)などに力を尽くした。彼らは規則に厳しい生活をしたのでメソジスト(堅苦しい)と呼ばれ、けむたがれた。私達はこのウエスレー兄弟達の完全(聖化)論を受け継いでいます。
主イエス様は「天の父が完全であられたように、あなた方も完全な者になりなさい」と山上の説教の最後に述べられました。私は若いときこの言葉で、人間が完全に成ることが出来るのだろうか、いったい完全にどのようにしたらなれるのだろうか、不完全な自分に絶望し、完全な自分になるよう努力し、完全を目指す修業者がキリスト者の信仰生活なのだろうかと、すると自由のない信仰生活はなんだろうと思いました。カトリック教会では、諸徳目の実践により到着すべき目標は完徳とし、この完徳は神からの恵みよって受けられる。実際は修道院においてのみ可能としています。
それに対して、宗教改革者ルターは信仰によって義とされるとこれで否定した。ついで英国において、完全主義はみ言葉によって罪の力と戦い潔めていくという禁欲主義となり、終末にキリストから命の冠を受ける事を望んで信仰の馳場を走る事が強調された。そしてウエスレーによる聖霊による体験というメソジストの体験主義となった。罪と戦うというよりは、体験的に罪に打ち勝つ聖霊を受け取るというみ言葉によっているのです。
43〜48敵を愛しなさいは、旧約にはありません。律法学者達によれば隣人はイスラエル人のことで、異邦人は敵とみなしていた。主が言われる敵を愛せよは同胞のイスラエルも異邦人も等しく隣人とする、差別を除く事です。ある人々は敵など愛する事なんて不可能を要求するなんて無理だとあざ笑いますが。
前の箇所では、個人的敵対関係が扱われています。ここでは民族的敵対関係に触れられています。迫害する者44節、悪い人、正しくない人45節、取税人(ローマ政府の代理人)46節と異邦人と同列に並べている。ユダヤ人にとってこれらの人は愛する事が出来ない。情として愛せない。キリストがうちに宿ってくださらねば出来ない。愛は迫害する者たちのために祈ります。祈ると相手を憎む事は出来ない。祈りは祈る者を変化させます。
愛と祈りによって初めて天の父の子供になれます。そして神の性格に預かりそれを持つ者とされます。旧約では完全な者として、ノアとヨブに例を見ます。主のおっしゃった完全は彼等のように完徳ではなく、人を差別することなく愛する事を意味します。父なる神はその恵み・愛を全ての人に与える事において完全です。愛の対象として隣人は誰か、人の差別をやめる人のことです。この完全は愛に基づいて全ての人に接するのです。天の父がそうであったように。
私達は注意しないと、誰かに好意を持ってもらいたい、笑われたくないとそれぞれに変身して見てもらおうとする。隣人を出来るだけ増やし、敵を限りなく減らそうとして変身し過ぎて疲れ果ててしまう。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせてくださる。その神の前に愛されるために変身する必要はない。私は私のありのままみ言葉に従い、祈ることによって完全に導かれます。そのために難行苦行をしたり、修道院に入って生活する必要は毛頭ありません。祈ってみ言葉に従う事がきよめの極意です。
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キリスト者でありながら、何故神を避けるのでしょうか、礼拝をささげることが出来るのに、自分を楽しませるために自分の意志で礼拝をささげないのでしょうか、「あなたはどこにいるのか」との愛の呼びかけを無視するのです。それも神様の声と承知してもです。このような事がどうして起こるのでしょう。
人とその妻は、2章16・17節神様の命令、お言葉に従わず、目先の自分達の好みによって神様との関係を自ら壊してしまった。それが聖書の語る罪です。神様との断絶を来たらせるものが罪です。アダム達はそのことに気づいて愕然とし、不安と恐れの中で希望まで失ってしまった。3章8節園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。常日頃でしたら喜び駆けつけるところですが、彼達は罪の恐ろしさゆえに、園の木の間に身を隠した。まさにその時、主なる神様は人に呼びかけられた。断絶を解消すべく愛の声が優しくよびかけるのです。「あなたはどこにいるのか」と。
彼達にささやきかけたサタンの声は、主の言葉に疑問をもたせることで実に巧みに持ちかけます。1節〜5節「神のようになることを、神は知っておられるのです。あなた方は、決して死ぬ事はないでしょう」それを聞いて木を見ると食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実をとって食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人は目が開け、自分たちが裸である事が分かったので、(彼達は醜さを感じたのでしょう)イチジクの葉を、腰に巻いたのです。
神のように完全になることは悪い事では在りません。新約聖書は神の御心は、あなた方が神のように聖く(完全)なること(1テサロニケ4章3節)と述べています。彼達は神様の命令に逆らってでもなろうとした事です。行いでは救われない、キリストの十字架のあがないを受入れ信じたもののみに与えられる恵みだと福音は語るのですが、頑固に律法を守る者のみが救われ完全になるのだと主張するのと同じです。自分の力、能力、修養などによって神の完全に到着するというのです。まさにその時です。「あなたはどこにいるのか」神のみ声が聞こえるのです。罪を認め神との断絶に恐れおののいている耳に聞こえるのです。彼は恐れおののきつつも応答するのです。そそのかされ神に背を向けた道を歩み始めて、身を隠し罪をイチジクの葉で隠そうとするあなたに、呼びかけなさるのです。あなたはどこにと。
主は身を隠した人がどこにいるか、知らないはずはありません。神の言葉ではなくサタンの言葉に従って、その罪ゆえに、不安と恐れによって動いている者の存在場所を知らないはずはありません。主はサタンに従い罪の道を選びその奴隷となった者に対し、無視したり、放置されはしない。問いかける事で神の園における良好であった関係を思いださせようとなさったのです。私もそのご愛に、自分の罪の愚かさに気がついて神に帰りました。神様はみ言葉とみ業を持って呼びかけてくださいます。義なる神は同時に恵みと愛に満ちているお方です。罪の支配の下に身を隠してしまう存在に対しても手を差し伸べ、新しい関係を構築なさろうとされます。ここに神様の一方的な恵みがあります。
私達は今どこにいるのだろう。神から離れ、罪の支配のもと、不遜、傲慢、自分の楽しみ、自分のみを喜ばせ、神を無視、背を向ける者に、神様の手が差し伸べられなかったら、神様のみ声み赦しがなかったらとしたら希望もなく滅びのみです。どこにいるのかとの呼びかけに神様と自分のあり方に目を向ける者は、主キリストの十字架が私のためであることに気がつくのです。
ガラテヤ2章19・20節への人生へと歩み入るのです。あなたはどこにいるのか、その神様のみ言葉にあなたはどのように応答しますか。
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洗礼式において、最後に額に水で十字を記す事にしています。バプテスマを、聖書は印を押すという言葉で表現されてきたからです。旧約聖書では、印の重要性が多く語られています。エジプトのパロがヨセフをエジプトの司として権限の委譲を指輪の印を与えてなされている。商人は商品を入れた箱に印を押して自分のものであるとし、ぶどう園の主人はぶどう酒を入れた器に印をし、内容を保障した。神の印を押された者は、神に所属する者であり、神の力・権威の下にある者であると証明される。黙示録は終末が予言され、死の嵐が吹き荒び、多くの人が悲惨な運命をたどる様が描かれています。この7章は台風の目のように嵐がうそのように去り時には青空さえのぞきます。一時の安らぎです。やがて再び嵐が吹きすさみます。
黙示録はこの世の終末が予言されますので、あくまでも神の激しい裁きがとかれます。しかしキリスト者はそれに脅かされる者ではありません。嵐は死を呼び起こすような激しいものです。その死に耐えて、どのように生きる事が出来るのか、生きる力をどこから得る事が出来るのか、それらに対する慰めが語られています。今私達はこの世の嵐の中で礼拝しています。当時の人は、世界は平らなものと考えていました。そして四隅から起きてくる風が、災害をもたらすものと考え、東西南北よりの風は快い良いものと解釈していました。1人の天使が生ける神の印を持って日の出る方から上ってきます。大地にとって東は、命の方向、希望の方向でした。3・4節嵐が吹き始め死の来る前に東からの天使は、一仕事しなければなりません。私達の額にこの人は神のしもべ、この人は神に仕えている僕だと生きた神の印を刻むのです。
私達の生きている様はさまざまです。体験もまったく違います。それでも私達は神に仕える同じ志を持つ同士です。兄弟姉妹です。私達はどこにいてもこの人は神のしもべであるとの印、いける神の刻印を持ちます。神生きておられる。その人を見ると神様が生きておられる事が分かる生き方をするのです。それがあなたご自身です。私たちは神が生きておられる事を証しするために生かされているのです。
62年前26日早朝、私達の全ホーリネス教会は治安維持法違反という罪名で弾圧され、牧師は逮捕、教会は閉鎖、信徒は解散させられました。私のうちも家宅捜索されキリスト教関係のものは皆没収されました。教会堂がらんどうでした。神社参拝と天皇を現人神として礼拝する事を拒否したからです。私達は神の印をいただいたものとして、偶像礼拝を断固として拒否しました。戦後知った事ですが殉教者まで出ていたのです。今の情勢はまさに同じような状況として展開されつつあります。神の印を受けた者として信仰を確立しましょう。
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バベルの混乱の出来事は、それ以来人類に混乱が続いて、現代はその混乱の極みです。最初の混乱は言葉の乱れから起こりました。主はそこから彼達を全地に散らされたのです。また後年ペンテコステのとき主のご約束を信じて祈りつつ待っていた弟子たちに、聖霊が与えられた。同時に聖霊によって与えられた言語で語られたイエスこそキリスト(救い主)であると信じて多くの国語を語る3千人ほどの人々が仲間に加わり、キリストの体なる教会が出来て一つの愛の共同体が成立した。言葉が乱され散らされた民が、聖霊によって与えられた言語でひとつの民とされたのです。
神様が人を創造されて「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ。・・・・」創世1章28節といわれた。しかし人間の知恵技術の発展ゆえに、天(神)に頂が届く町と塔を建てることとした。しかし7節我々(三位一体の神)は下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、たがいに言葉(意思が)通じないようにしよう」こうして主が彼らをそこから全地のおもてにバラリと散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。彼達はこのとき窯でレンガを焼き石の代わりとして重量を支え大きな建物を建て、しっくいの代わりにアスファルトを得たのでした。そうして自分たちの知恵と技術に自信を持っていて、全地に散らされないように、天に至る塔を建てる事にしたのです。それは神に挑戦する事を意味している。
人間は言葉によって考え、思い、意志を伝える事が出来ます。彼達は傲慢にも相談して、天に至るまでの塔を建てる事にした。神は人類を祝福して全地に満ちるようにとなさったが、人間は与えられた自由意志を持って全地に散る事をやめようとした。神はこの人間の企てを、言葉を乱して、言葉が通じないようにされた。各氏族が互いに意思の疎通が出来なくなり、断絶関係がおき、不信、疑惑、対立それで敵対関係が生じた。それまでは主の下に一つの言葉で一つとなっていた人々の間に亀裂が走ったのです。結果として全地に散らざるを得なくなった。神は地に満ちることを望まれたが、彼らの傲慢の罪のゆえに全地に離散する結果となった。
ペンテコステの恵みは言葉が乱され散らされた民が、御霊によって語る言葉(理解できる異言)によって、主に在って一つにされた事です。バベルで離散した民が御霊によって語る弟子たちの言葉によって、イエスはキリストであるとの告白で神の子とせられ、兄弟姉妹として、民族・国を超えて一つのキリストの体の教会に連なるものとされたのです。感謝あるのみです。
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6章1〜15最初の教会で仲間が非常に増えたので、愛のお世話をするために信仰と御霊と知恵に満ちた7人の信徒を選び出した。筆頭はステパノでした。そして12使徒達は、もっぱら祈りとみ言葉のご用に当たることと成りました。これで教会活動の三本柱の伝道・教育・愛の奉仕(社会事業)が始まった。
9節ユダヤ人のシュナゴーゲーといわれる会堂は、神殿に代わるものとして建てた礼拝と教育の場所です。そこに奴隷から自由になった者、異邦人から改宗したヘレニスム(ギリシャ文化)の影響を受けた人々が、ステパノに論戦を挑んだが、対抗できなかった。それで彼達は人々をそそのかして、彼を捕えサンヒドリン(議会と裁判所を兼ねる)に引き出した。7章大祭司が彼達の言う通りかと質問した事に対する弁明が2節以下です。
彼の福音宣教はユダヤ人には容認できないものです。彼達には神殿と律法の二つは捨てられない大事なものです。これに対するステパノのキリスト教信仰による解釈はヤァウエーの神に対する冒涜と受け取られた。出エジプトまでは怒りを抑えて聞いていたが、神は幕屋を必要として神殿には住まわれない、キリスト来臨を預言した者たちを殺し、預言された正しい方を裏切り、殺す者となった。これを聞いて、歯軋りして激しく怒ったところ、聖霊に満たされ、神の右に立たれる栄光の主を証ししたので、おそらくソウロの扇動でエルサレム市外に引き出して石で彼を撃ち殺した。その際人々は扇動者サウロの足元に上着を脱いでおいた。ステパノは祈り続けていった59節「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」そしてひざまずいて、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」といって眠りについた。サウロは神の冒涜者に律法通りの処罰を与えた事に満足したでありましょう。がこの出来事の一部始終を当然の罰だと見ていたのですが、彼の心の奥を見られる神は彼を愛しておられた。
22章20・21節ローマ市民として裁判を受けるべく囚人として護送されるとき、ヘブル語で民衆に話した。私はキリストの迫害者であり、ステパノの殉教に立会い扇動者であった。21節すると、主が私に言われた。「行きなさい。私が、あなたを遠く異邦の民に遣わすのだ」と証ししています。
9章に述べられたサウロの復活の主との出会い、そうして異邦人への使徒としての任命、殉教に至るまでの彼の伝道生活の根底には、この光り輝くステパノのあの場面が下敷きなっているのではないでしょうか。サウロがポウロに生まれ変わって、狭いユダヤから世界に飛躍したのも神様のご計画なの中に在り、ステパノの殉教の証しがあったからこそです。
今私達はステパノのような証しは出来ませんが、イエス様こそ私のキリスト(救い主)です。このお方のためなら何でもしますと、決意し生活するのであれば、ステパノの証しが出来ます。あなたの証しがパウロを生み出します。私達は生涯で一人でもよい本当のキリスト者を導きたいものです。あなたは何人の方に主をお伝えしましたか。
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15章〜17章はアブラムに対して神様は、多くの国民とするとの約束を、具体的にそれが契約としてなされた事を述べられている。彼は90歳になる老夫婦に実子が与えられる事など、不可能な事だと思っていたが、5節と告げられる主の言葉を信じた。主はこれを彼の義と認められた。このアブラハムの信仰による義について、パウロとヤコブはこの節を引用して信仰について語っています。
主の言葉が1節と彼に臨んだ。あなたの受ける報いははなはだ大きいとのお言葉に、彼は私には子がいないので、奴隷頭が跡継ぎとなります。あなたが私に子を賜らないので、と不満を述べている。神はそれにお答えになり4節、「あなたの実子が跡継ぎになるべきです」そして外に連れ出して「天を仰いで、星を数える事が出来るなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのように数えられないくらい大いなる民になる」と言われた。人工的な明かりで空の星はほとんど数えるほどしか見えない現代と違って、満天星といえるようなその空を仰ぎ見て、6節アブラムは主を信じた(主の言葉に信頼した)主はこれを彼の義と認められた。神が義と認めたということは、彼が道徳的な完全性を獲得したというのではありません。神とのあるべき関係になったことです。事実この後信仰の弱い面が次々と出てきます。アブラムのとった態度が良しと認められたのです。主の言葉以外に何も信じ得ない状況での神への全き信頼です。信仰によって義と認められたとは完成では在りません。救い、聖めも神に認めていただいたことでこれも完成であり、聖人になつたのでもありません。アブラムの子孫の誕生は彼個人の問題ではなく神のご計画であり、その祝福は世界に及ぶものです。この延長上に契約の象徴的儀式が描かれています。
カルデヤのウルから彼を導かれた主は、この地を与えると約束された。その約束を裂かれた犠牲によって契約なされたのです。その前に8節と信じるが故に更に確かめようと主に求めたときに、牝牛と雌ヤギと雄羊を二つに裂いて互いに向かい合わせて置き山鳩と家鳩の雛は裂かなかった。17節18節その裂かれた間を炎の出るたいまつが通り過ぎる事によってアブラムと契約を結んだ(契約を切った)契約を破るときには裂かれた犠牲と同じ状態になることを承認したのです。犠牲と偶像の供え物は全く違うものです。
新約聖書は、この古い契約に対して新しい契約の書です。主イエス様が十字架の上で裂かれ、血を流された事を通して、それは私を罪から救い、神様との正しい関係に修復なさったのです。イエス様はキリスト(救い主)であると信仰告白をして、契約を結んだのが新契約聖書、略して新約です。アブラムが神との間で結んだ契約は、自分自身を二つに裂かれても良しと信頼した事です。私は主ご自身が犠牲として、身代わりになられた主を信頼して、信じるところに私の人生があります。ガラテヤ5章24節。2章19・20節。
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ルカ福音書が第一巻であり、使徒の書は第二巻です。二巻ともテオピロに献じられました。福音書はイエス様の言行録を詳述し、キリスト教信仰の中核と原理を明らかにしています。第二巻は主イエス様によって示された御言葉とみ業で啓示された福音の真理が、具体的に教会の歴史の中で世界中に実を結んだ事が述べられた。その発展の原動力は聖霊であり、その下に使徒達の働きを見ます。新約聖書27巻の著者でルカのみが異邦人です。彼は知識人であり医者でして、当時の社会、政治、法律、歴史にも明るい人でした。
聖書を理解するためには、旧約聖書は新約の光で、新約聖書は旧約を通して見ますと、イエスはキリスト(救い主)であると貫かれている事を知る事が出来ます。
1章5節で主が約束なされた通りに2章4節聖霊のバプテスマが授けられ、聖霊の語らせるまま、いろいろの他国の言葉で語りだした。14節ペテロが11人の弟子たちと共に立ち上がり、声を上げて多くの国の言葉で、それぞれ手分けして語り始めた。その内容は、旧約の預言を通して36節「あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と結論づけています。このペテロ達の語る異言は、7〜11に見える多くの国々の国語でして、それぞれの生まれ故郷の言葉でした。神の大きな働きを聞くとはと、驚き惑ったと言い合ったそして弟子達は酒に酔っているのだと言うほどでした。
詳しい内容は次の機会に譲る事として、旧約が何を示しているか、二三述べます。その一、22〜24殺された主を神は甦らされた。その二31〜33私達は皆よみがえられた主の証人です。そしてその主が聖霊を授けられた。その三バプテスマを受けて仲間に加わり信徒の交わりをした者が3千人ほどであった。エクレシア教会の誕生です。まことのエクレシアはイエスを私のキリストと信仰告白をして、38節を実践した人々の集団です。聖霊に導かれ礼拝に集まる場所が教会堂です。マタイ18章20節「二人または三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである」と主は言明されています。イエスの霊が満ち、その霊に導かれる人々の集まりがエクレシア教会ですので、この元住吉教会を真のエクレシア教会にしていただかねばならないのです。
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旧約の歴史、又人物の一生は、それらと神様との関係は、新約時代の私達・教会の神様との関係のあり方を示しています。4章3節イスラエルがペリシテに敗れた。長老達は「なにゆえ、主は今日、われわれは敵軍に敗れたか」疑問を持ちつつも主に疑問を聞く事をせずに、主の契約の箱を携えて敵の手から救っていただこうと陣地に担ぎ込んだ。イスラエル人達は歓呼の声を上げて迎えた。それを聞いたペリシテは、8節「ああ、われわれは災いである。・・・強い神々(唯一の神を知らない故)の手から救い出す事が出来ようか、これらの神々は・・エジプト人を荒野で撃ったのだ・・」と破れかぶれで戦い、イスラエルを破って神の箱まで奪った。その箱と共に祭司エリの二人の息子もいてそこで死んだ。
長老達は神の民の軍勢が敗れたのかと言いつつも、サムエルを通して神に聞く事をしないで、神の臨在のしるしである神の箱を勝手に持ち出したのか、荒野では昼は雲の柱夜は火の柱となって、それが動くときに神の箱を先頭に民は動いて荒野の困難を乗り切ってきたのです。神の許可なしに勝手に動かしてならないことを忘れての行動に彼らの罪があったのです。神はイスラエルの罪を罰せられると共に、ペリシテは神の聖さを犯した罪ゆえに老若を問わず腫れ物で苦しみ彼らの偶像ダゴンは箱の前に分断された。災いを来たらせた箱に償いの金の腫れ物5つと金のねずみ5つを償いの供え物を添えて返す事にした。その時にも6章6節「何ゆえ、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように・・・」と、乳牛二頭に新しい車に箱などを載せ、子牛は離しておいた。乳牛は子牛を呼び鳴きつつ、右にも左にも曲がらずイスラエルに向かった。5人の君たちはついていって今までの災いは、ヤァウエーの神から来たった事を確認した。私達キリスト者は祝福の基となるべき存在です。災いの元にならないように聖霊に導かれて右にも左にも曲がらずに神の道を進むべきです。
20年を経てイスラエルの全家は主を求めた(7章2)。その時サムエルは3節「偶像をあなた方のうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はペリシテの手から救い出されるであろう」と告げたので、アシラロテを捨て、ただ神にのみ仕えた。続いてミヅバに民を集め、断食して「主に対して罪を犯した」とざんげ悔い改めた。最初にペリシテに敗れたとき何ゆえ主は・・と神の箱を携えださずにサムエルを通して神様に聞いたとするなら神の箱を奪われるような事もなくペリシテに敗れる事もなかったのです。私達も主に聞く事祈ることを忘れて自分でただしとすることを行いやすいものです。
ヤコブ4章13〜17「主の御心であれば、私は生きながらえもし、あの事この事もしよう」と述べられているように、自分の希望、自分の思いを神様に押し付けるのではなく、私達の望みの前に、主の御心であるならば、と謙虚に主の前に祈らなければならないのです。教会時代の今は、聖霊が臨んでおられる時です。キリスト者は自分の意思で行動する前に祈って、聖霊の導きを受けなければ、エリの息子達の祭司ホフニとピネハスのような惨めな結末を迎えます。
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11章までにパウロは、聖餐式などを通して、礼拝の本質を示してきました。次に礼拝のため、神様の備えられた聖霊の賜物について、コリント教会の現状に即して教えます。教会は聖霊の賜物を豊かに受けていて、それが公同礼拝で熱狂的になり、混乱をきたすほどであった。教会はイエスは主であるとの告白を基としていますが、それは聖霊なしには(3節)なしえない事です。その聖霊は多様性と統一性があります。またヘレニズム世界における熱狂的な宗教と、キリスト教会の聖霊の賜物は根本的相違を示しています。教会内においていろいろの現象を見ますが、イエスは主であるという信仰告白が判断の基準です。
偶像礼拝でエクスタシー状態に陥る事がありますが、これと同じような現象が教会内でもおきている事に注目したい。パウロは賜物を私物化してそれを誇り、悪用して躓きにならないように、賜物の源が神にあること、7節賜物は教会(全体)の益の為である事を強く訴えるのです。
プロテスタントの神学の流れの大本を遡ると、マルチン・ルターの十字架の神学、ジャン・カルヴァンの栄光の神学、ジョン・ウエスレーの聖霊の神学です。このいずれも聖書中心主義です。特にカルヴァンによって礼拝の中心に神のみ言葉がおかれた事です。
私達はウエスレーの神学の系譜です。12章では聖霊の働きの多様性が語られますが、賜物の源は一つの御霊であると強調されています。聖霊の働きの原則を神のみ言葉によって理解しないと、脱線が起こり教会に混乱が起こります。私達の教団は百十年余聖書から大事な教理として四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)を強調してきました。私達は情感も大事ですがそれだけでは信仰の道を踏み外します。私達には理性が与えられていますので、熱心さの中にも理性による冷静さが必要です。それは陥りがちな恍惚状態から聖書よりの逸脱を防ぐものです。
ある時、あなたは聖霊を信じますか、その聖霊に導かれているなら異言を語る筈です。癒しが出来ますか、聖霊の働きは力ですがそれを持っていますかと、矢継ぎ早の質問を浴びせられた事があります。私は簡単に聖霊に満たされている事がそのような現象で証明されると、安心して祈れなくなります。私はいつも御霊に導かれて右にも左にも曲がることなく神様の示される道を歩めるようにと祈らなければ脱線する恐れがありますから、それでも聖霊によって多くの愛が与えられた事は実感し感謝しています。私は傲慢な姿勢こそ御霊のお嫌いになることではないでしょうかという意味のお答えをした事があります。7節賜物は全体の益の為のもので、癒しの賜物でも伝道に使用されてはならないものです。いわんや会衆に分からない異言など通訳者がいなくて語る事は、つまずきの石です。
信仰の賜物は教会を立て上げるために与えられています。預言、癒し、愛の行為などの賜物はそのために与えられているのです。大事な事は聖霊の働き賜物が、教会の祝福になるか否かです。いかに素晴しく雄弁であっても聖書が語る以上のことを語ってはならないのです。私達は神のみ言葉に従って歩むのです。いかに優れた人が語る言葉は参考にはしますが、神の言葉ではありません。
聖霊の働きは、人間の体がそれぞれの機能を発揮する事で保たれているように、教会全体のためバランスの取れたものです。キリスト者が祈り求めるとき、その人にあった賜物を与えてくださいます。それは自分の誇りのために使うのではなく、キリストの体なる教会のために使うときその人も神の恵みに預かれます。
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ダビデへの密かな油注ぎが王への任職であることは、神とサムエルとの会話と、サムエルの心中の独り言ですので、油注ぎの真意は誰にも知らされていません。この後もサウルが王であり続けた事実。サムエルが預言者達を養成していたので、ダビデも預言者として油注ぎされたと受け取ったのではないでしょうか。ダビデが王への野心を持っていない事実は、彼の宮廷入りも、王の娘婿となる事、王子ヨナタンとの深い友情等も、ダビデ自身が王と任じられたとの自覚の計算づくでの政治的判断の場合と、主の召しの御用としての献身とは大きな相違です。民は人並み優れた体格のサウルを王と認めたことと、主は心を見られてダビデを選ばれたことが次から次と起こる出来事に神様の目を見る思いです。
ペリシテ人の侵略があったので、サウル王がイスラエルの民衆を集めて彼達と対陣していました。ペリシテは、海の向こうから来た人との意味です。エーゲ海のクレタ島などから来た海洋民(海賊)です。彼達は豊かなユダヤの海岸地方を占拠して、士師記以来イスラエルは特に収穫期に、その侵略に脅かされ続けました。因みに現在のパレスチナの語源はペリシテです。
ペリシテのゴリアテは、4〜7に見るような武装をした身の丈2メートル余の巨人です。彼は40日の間、朝夕出てきて、8〜10負けた者は家来になれと挑戦した。サウル王とイスラエルの人はこの言葉に驚き、非常に恐れた。
そのとき父の命令で兄達の安否を問いにやって来たダビデが聞いたのは挑戦の言葉です。彼はこれを聞いて26節というのです。サウル王は全軍に告げて25彼を殺す者には、富と娘を与えると約束したのです。
ダビデが挑戦に応じる事となった。ソウルは自分の戦衣を彼に着せたが少年には大きすぎた。彼は谷から滑らかな石5個と羊飼いの杖と、石投げを持って挑戦者の前に
立って、45〜47「・・・・イスラエルの神の名によって、お前に立ち向かう・・・この戦いは主の戦いである・・」と石を石投げで投げた。ゴリアテの額を突き破り彼は倒れ、ダビデはゴリアテの剣で殺した。
ゴリアテは、ペリシテ人が熱狂的に自分を信頼している事に喜びと誇りを感じていた。国民にとっても彼は誇りであった。彼はペリシテ人の歓呼のうちに堂々と乗り出したのです。歓呼の声はますます自信を深め奢り高ぶるのです。一方ダビデは誰が見ても空の鳥、野の獣の餌食です。しかしこの戦いは、ダビデの言うとおり彼の戦いではなく、神がゴリアテに対陣していたのです。彼らの好戦的武装は、彼達の武装標準では満足した事でしょうが、それも神の前には空中楼閣で見せ掛けです。それは崩壊しました。私は50数年前の戦争中又戦前のこと思いだします。ダビデとゴリアテも証明しています。私達は歴史に学ばねばなりません。旧約聖書があっての新約聖書ですし、新約ありて、旧約が生きるのです。旧新約聖書を通読して歴史に学んでください。
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日本における多神教の立場から、一神教の理解は難しい事です。一神教には、ユダヤ教、とキリスト教、それらの影響の下に生まれた、イスラム教があります。そのユダヤ教とキリスト教は、唯一の神の前に罪を意識する特徴を持っています。その神が聖であり義であるからです。
イスラエルの民がエジプトの奴隷からの救出を願った時、その為に40年パロの宮殿で王子として、その後ミデヤンの荒野で羊飼いによって、前後80年間神は訓練されていたモーセを遣わされてエジプトから救出された。(出エジプト)この救出された民は頑固で強情な民です。聖書の表現ではうなじの硬い民という事です。この民を約束の乳と蜜の流れる地で、平和に暮らすためには彼達を訓練しなければなりませんでした。それも40年間荒野での訓練ですので、彼達の生活の基準として十戒を中心とした必要であるとなされた神は、モーセを通してそれらを与えられました。そして民と律法を守ることによって祝福を与えるとの契約を結ばれた。これが旧約です。それに対してイエス様をキリスト(救い主)と信じた者を神の子とし永遠の命を与えるとの契約が新約です。この旧約、新約66冊を纏めたものが旧新約聖書、簡単に聖書といいまして、・・・・のバイブルなどといわれ基準の意味にも使われます。
知識人が、知識の能力を発達させて、あれこれ考えるようになり、何が正しいかを人間が知るようになって、発見されたおきてが神に正とされれば、人間は神にではなく、その掟に従えば良しとして、神の前に自己を正当化するようになりました。そうして自分の発見した善悪の原理に完璧に従っているのだから、自分は神の前に正しいとする態度をとるようになった。主イエス様が指摘なさったパリサイ人・学者達です。
ポウロはこのような人たちを律法主義者と呼んでユダヤ教を堕落させたと言いまして、キリスト者の中にも潜む律法主義に警告をしています。この律法主義の第一の機能は、私達に罪の自覚を与える事です。7節「律法によらなければ、私は罪を知らなかったであろう。即ち、もし律法が『むさぼるな』といわなかったら、私はむさぼりなるものを知らなかったであろう」むさぼりは、人間の根源的な欲望です。この欲望は禁止されるまで自覚し意識される事はなかった。第二の機能は、私のうちに罪を生み出させる事です。罪は巧妙です。本来は善である律法の具体的命令規定を通して、私のうちに収拾のつかないほどの貪りの心を起こしてしまい、律法がなかったら罪に死んでいたのです。第三の律法の機能は、私達を死に導く事です。多くの人は律法なしで、罪の快楽に楽しく日々を送っています。しかし律法が来たった時、罪を意識してそのままでは永遠の死である事を知る事が出来ます。そもそも律法は生きる事を約束したものですが、現実には死です。律法が罪ではなく、私のうちに生きて働く罪が問題です。律法の本質は、神の本質の反映と表現です。それは聖で義です。罪は生きて働く人格的な力です。善である律法を利用して、霊的・倫理的視をもたらします。律法の機能が働くときそこに死がきたりますが、そのときキリストの救いが来るのです。(17〜23)
ガラテヤ3章19節〜29節。律法によって罪が知らされた人には、2章19節・20節「律法によって律法に死んだ。私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きているのである。しかし、私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」が実現されます。律法はキリストの救いに至らせる養育掛のようなものです。ガラテヤ3章24節。
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幕屋とその内部に納めるアカシヤ材で作った十戒を収める箱を中心としたそれらに付属した什器などを規定どおりに作る事を、神はイスラエルの人々にモーセを通して告げられた。そしてささげ物を喜んでする者から受け取るように、命じられた。
そのささげ物は、3節〜7節に記されています。金以外は聖所や幕屋などを作る資材ですが、金属の中で金は十戒の箱やその他の什器に使用されるものです。特に十戒を収めた箱と、燭台などを置く机は純金で覆わねばなりません。箱の上には贖罪所とケルビムを純金で作らねばなりませんでした。彼達はそれらの純金を準備しなければなりません。鉱物を高熱で熱し浮いた不純物取り除き純金を得るのです。わずかしか得られない純金は多くの犠牲を払い、手にするもので彼達にとっては貴重なものでした。イスラエルの民は神のご命令でその準備に最善を尽くしました。
高壇は証しの箱です。献金台は純金で覆われた契約の箱の前に置かれた香をたく机です。契約の箱の上に贖罪所がありまして、犠牲の血がそそがれ、そのケルビムの間から主は語り給いました。新約の私達にとって高壇は講演をする所ではありません。神の言葉が告げられ、命令が与えられ、私達の犠牲の血がささげられる所です。即ち主イエス様の十字架の救いが宣言され実行される象徴的なところです。
それ故に私達はこの高講と献金台(香壇)を純金で覆わねばならないのです。旧約の時代には、一年に一度大贖罪日に、大祭司が至聖所に入り、自分の罪の為に犠牲の血を贖罪所に注ぎ、次いでイスラエルの民の罪のために犠牲の血を贖罪所にふりかけ贖いをしました。血を振りかける大祭司自身、民達が自分の罪のため死なねばならないところを、生贄が代わって殺され、命のシンボルである血を振り掛けるのです。罪に汚れた人の代わりに、罪のない命が贖いとしてささげられその結果として罪が赦され救われるのです。これはイエス・キリストの贖罪の象徴です。
私達は幕屋である教会堂を主のご命令によって建てるために、心から喜んで聖いささげものをいたしました2節。贖罪所を内に宿すために私達は純金でなければなりません。神は恵み深い御臨在の条件として最善の純金の信仰を求めておられます。そのため私達に試練を与え訓練し練り清めてくださいます。
神様が祈りの中でお会いくださるのであれば、その祈りは聖く、正しく、誠実なもの、純金で覆われていなければならない。教会での礼拝も純金の聖い心と信仰で守らねばなりません。主が各々の生活の場である家庭でお会いくださるとすれば、私達の家庭が純金でなければならない、自己のみを喜ばせるような、趣味、経済生活などが満ちている過程の食卓に、見えざる客として同席してくださるでしょうか。
私達は純粋な、純金の心、信仰をささげなければなりません。その純金で教会の贖罪所(高壇)その前の机(献金台)を覆うのです。そして毎週の主日礼拝で恵みをいただき、喜びと感謝を携えて生活に戻っていくのです。
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12章は人間の財産、お金に対する執着、虚栄、悪意などと、主にゆだねる姿が描かれています。41節は金持ちの献金と、貧しいやもめの献金に見られることを、対照的に主イエス様は語られています。前者は、人にも認められるように投げ入れていますが後者はそっと献金箱に入れている。主はやもめの献金に目を留められ、その行為の中に全てを神にゆだねる信仰をご覧になって賞賛されました。
受難週の三日目、主は神殿の婦人の庭に行っていかれた。婦人の庭は、神殿の回廊で囲まれた内庭で美しの門を入ってすぐの所にあり、その奥にはさらに高くなった男子の庭(イスラエルの庭とも言われる)続いて祭司の庭がある。婦人が入れるのはここまでであった。婦人の庭には、ラッパの形をした十三の受け口のある献金箱があった。主はその賽銭箱に向かって座っておられ、群衆がその箱に金を投げ入れられるのを見ておられた。
そこでは金持ちがたくさんの金を投げ入れていた。私達は金持ちが多くの献金をするのは当然の事だと思いがちですが、財産は増えるほど多く求めそれに執着し、献金はもったいないと思いがちです。ここの金持ち達は有り余る中から大金を投げ入れたのですから褒められるべきです。それでもおそらく人々の賞賛を得ようとして、目立つようにジャラジャラと投げ入れていたのではないでしょうか、ところが一人のみすぼらしいやもめが、ひそやかにレプタ二つをそっと音を立てずに献金箱に入れているのを主は見ておられたのです。一レプタは当時の一日の労働者の収入の一二八分の一に相当します。たぶん彼女のその日の食費であったでしょう。女性の仕事のない時代です。旧約時代から聖書は、貧しいやもめに対する血縁の者や、共同体が支えるように規定していますが、十分ではありませんでした。
主は自分の力、財産に基盤を置く金持ちに対して、神様に全てを委ねているこのやもめの信仰に目を留めておられるのです。私は旧約の列王紀上十七1以下のザレバテのやもめをこれに重ねて思いました。預言者エリヤに愛の行為をしたやもめに神の祝福が在りました。(、甕の粉は尽きず、びんの油は絶えない。重病の息子が主に祈るエリヤに応えて癒された)おそらく主が認められたこのやもめも主の恵みに預かったと確信します。このやもめは生活費の全部をささげたとは、感謝と共に神をまったく信頼して、必ず善きにしてくださると委ねた信仰告白です。それに対して金持ちは有り余る中からささげたのです。
主に委ねるという事を誤解しないで下さい。神様は人間を創造されたとき、自由意志と知恵を与え自分で計画行動する能力を持たせられたのです。私達は与えられた能力を生かして行動します。その結果はどうなるか思い煩う必要はありません。結果を含めて主のご計画がなるのです。私達は自分の最善を尽くして、後は主に委ねるのです。キリスト者この世に執着するのではなく、やもめのようにすべてをささげて、主に従うのです。キリスト者は献身して神の子とされた者だからです。
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使徒パウロは異邦人伝道に専念して、コリント・アンテオケ・ガラテヤ等諸教会を開拓設立した。AD49年エルサレム教会会議が開かれる事になったので、これらの諸教会から、エルサレム教会の貧しい信徒達への援助金を託されて、ポウロは会議に出席した。その際彼の割礼を受けていない異邦人に対しての伝道が、教会の指導者であるペテロ・ヤコブ・ヨハネ達によって承認された。しかしエルサレム教会の律法主義者達は、パウロが律法主義を打ち砕き、キリスト信仰を持つ者は、誰でも救われるという自由主義の福音を伝える彼の信仰に反対するユダヤ教的な律法主義者達は、異邦人の教会で律法主義の伝道をして教会を撹乱したので、多くの教会員が福音から離れて、律法主義に移って行った。律法を救いの条件とするユダヤ主義に教会はまさに消滅の危機に瀕していた。サタンの働き半福音のために熱心に仲間作りをします。キリスト教の異端は一般の人を誑かしますが、特にキリスト者を大きな目標としています。自分だけ教会から離れるだけではなく兄弟姉妹を自分と同じ行動をとらせようとするのです。
ポウロはイエスをキリスト(救い主)として礼拝する事について14章までに長々と論じてきましたが、教会を教会たらしめる真の礼拝を、コリント教会に奨めるのです。そのために真の福音を知らなければならないと15章で述べます。復員の内容はキリストの死と復活です。死が現実のものとして取り上げられないと、復活も現実味を失います。
キリストの復活は、眠っている者の初穂(20節)です。キリストの復活は、キリストに属する者全てに臨むものです。(22・23)ポウロはキリストの死と復活を、自ら体験したキリスト者がキリストと共に死そして復活を描き、キリストによってもたらされた奥義(51)であり、キリストの死に対する勝利も私達のものだと語られるのです。1〜3最も大事な事は、キリストが、聖書に書いてあるとおり、私達の罪のために死んだ事、そして葬られたこと、聖書の書いてあるとおり、三日目によみがえったことです。復活の主は、弟子達に、5百人以上の兄弟達(姉妹達を加えると千人以上)に現れなさった。その大多数は今も生存している。神の教会を迫害したポウロ自身にも現われ使徒とされ、恵みによって今日あるを得ている。11節あなた方もそのように信じたのです。
14・15・17キリストの復活がなかったら宣教も信仰もむなしい。そのために労苦し、死の苦しみを味わったものは愚か者です。その上いまだに罪の中にいるばかりでなく、キリストにあって眠った者達は、永遠に滅びるのです。それだけではなく神にそむく偽証人になり、全ての人の中で最も哀れむべき存在になるのです。
弟子たちは十字架の死の三日目に集まっている時に、復活の主にお目にかかった。トマスは不在ゆえにお会いできなかった。それまでは土曜日礼拝を律法によって遵守していたが、この日から主の復活を覚えて日曜日を主の日として礼拝をささげ現在に至りました。これは律法による強制ではありません。自発的に信仰を持っての奉仕です。私達も主の復活の預かれる事を感謝と喜びをもって礼拝をささげます。十字架の死、復活に対する応答として感謝として、時間も、自分の楽しみなども捨て、大事なものをささげて、主の御前にひざまずくのです。
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今日の棕櫚の主日は受難週の第一日目で、主イエス様がロバの子に乗られてエルサレムに入場なされた日です。集まってきた民衆は、しゅろの枝を手に取り、「ホサナ(ヘブル語いま救ってください)主の御名によって来る者に祝福あれ、イスラエルの王に」
主を迎えて、叫んだ。その同じ群集が5日後には、主を十字架につけよと同じ口々が叫んだのです。私はこの群集にダブらせてイスカリオテのユダを見ます。又このユダと対比してマリヤを福音記者達は述べております。
福音の中心はキリストの十字架による贖罪の死とそれよりの復活です。このことをはっきりと認識していないと、マリヤを非難した弟子達やユダと同列になってしまいます。マタイ・マルコは「この女はできる限りの事をしたのだ。即ち、私の体に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこでも、福音の宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念として語られるであろう」又6節では私に良い事(カロス美しい善)をしてくれたのだと言われている。弟子達を代表するかのようにユダが「なぜこの香油を三百デナリ(当時の一日の収入は一デナリ)に売って、貧しい人達に、施さなかったか」との言葉とマリヤの行為とが対照的に述べられています。マリヤの弟ラザロが主によって死より甦らせていただいたこと(11章41)自身も主によって救われた事などに対する感謝と、示された主の愛に対する応答としての油注ぎでした。それが主の十字架死の準備になったのです。
マリヤはこの時を待っていたかのように、ナルドの壷を割って(マタイ・マルコ)
主の足に注ぎ、女にとって大切な髪の毛で足を拭いた。すると、香油の香が家いっぱいになった。彼女の謙虚で深い感謝がこのように具体的に表されたのです。ラザロが復活させられた事に対する感謝である事は勿論の事ですが、全てのキリスト者の献身的行為がそうであるように、イエス様の死において示された愛を知った事にも由るのです。その打算を超えた愛の行為によって、純粋なナルドの良い香りが家いっぱいに満ちた。彼女のあり方は、真の礼拝をするキリスト者の姿です。よき香は旧約では、神にのみささげるものです。新約ではキリスト者の感謝の祈りをよき香としています。
マタイ達は、マリヤとユダの行為を鋭く対比している。イスカリオテのユダは主が選ばれた12弟子の一人です。他の弟子11人はガリラヤ出身ですが、彼一人違う地の出です。マタイなどをさておいて主は彼を弟子集団の会計に抜擢重要視されていた人物です。愛国者でイエスこそユダヤをローマ帝国より救うお方だと人一番感じていたようです。それだけに無抵抗で死に向かわれようとする主に絶望したのではないでしょうか。
マリヤとユダを見ますと私達の信仰生活に励ましと、警告を感じます。マリヤのように感謝し、よき香をささげつつ献身しているだろうか、打算抜きに主に従っているだろうか、ユダのように自分の希望、欲望、好みを主に押し付けていないだろうか。ご利益を求め、カリスマ派的な信仰を求めていないだろうか、イエス様の癒しの業は純粋の愛のご好意です。伝道などの宣伝には避けられました。そのような事どもを誤解しますと、ユダの行為が自他共に認められるキリスト者にもおこります。
マリヤと同じように救われた感謝、永遠の命に生かされ、常に愛を持って私達を見守られる主に、具体的な献身と感謝の生活をいたしたく祈っています。
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