新約聖書の最初に4福音書があります。福音とは良き訪れという意味です。その目的はイエス様こそ旧約聖書で預言されているメシヤ(ヘブル語)キリスト(ギリシャ語)救い主であることを語るものです。どの福音書もイエス様のご生涯と、ご活動を、その根源にさかのぼるように記述しています。マルコはバプテスマのヨハネの宣教と主イエス様のバプテスマから、マタイとルカは処女マリヤによるイエス様の誕生の出来事から、ヨハネは創世記の創造の業と、それを超える永遠の言葉ロゴスのそんざいから述べはじめています。
永遠の言葉から神のみ子への言及は、聖書全体の序言であり、結論でもあります。創造と救い、歴史と歴史を超えるもの、預言者と使徒達、時間と永遠、律法と恵み、信仰と不信仰、これらのものが闇と光の対象として述べられているのがヨハネ福音書です。永遠の言葉が肉体を取り、混沌としたこの世においでになりました。存在するすべてのものはこの言葉によって創造されました。とするとこの言葉によって命が与えられ、この命が人のうちに注ぎ込まれ、人間の人格的・霊的機能の源泉となりました。この命は光であった。光は闇の中で輝きます。現在の私たちはいろいろな人工的の光に遮られて、夜空を見上げても星が見えなくなりました。
人間はほんとの闇の世界、罪の世界にありながら人間の業に妨げられて、永遠の光、唯一の光が見えなくなっています。罪の闇を知る者は御子のまことの光を見ることができます。ヨハネをはじめ弟子達はこのことを伝える為に、生涯を捧げ命おも惜しまなかったのです。永遠の光・命を与えられた一人一人がクリスマスおめでとう。神の御子を礼拝できるお互いの幸いを祝いましょうとクリスマスを迎えたのです。メリー・クリスマス。クリスマスおめでとうは私たちに向けられたものです。
日本国憲法の前文に「・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのなようにすることを決意し、ここに主権が国民に存する事を宣言し、この憲法を確定する。・・・」第一章天皇。第一条[天皇の地位・国民主権]天皇は、日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。憲法草案が発表された頃法律を学んでいました。象徴とはいかなるものかシンボルとは一体なんだ大きな疑問でした。私は12節のしるしで本当の意味を知る事が出来ました。ギリシャ語「セーメイオン」サインとかシンボルとも言います。契約を結ぶとの意味があります。
ヨセフと身重のマリヤは登録す為、ダビデの町に到着したが、すでに彼たちを泊める宿屋はなかった。月が満ちて家畜小屋で初子を生み、布に包んで飼い葉おけの中に寝かせました。12節「あなた方は、幼子が布に包まって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなた方に与えられたしるしである」。と主の使いが羊飼い達に伝えた。飼い葉おけに寝ている幼子が神の愛を示すメシヤ(キリスト救い主)の象徴だと天使は語るのです。飼い葉おけに眠る幼子が何のしるしなのでしょう。それが理解できた時に、始めて天皇象徴説が分かりました。
この飼い葉おけほどキリストのご生涯を示すものは他にはありません。偶然に馬小屋で誕生せざるを得なかったのではありません。泊まる部屋がなかったからではありません。神の御心でした。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない』マタイ八20.定住の住まいも持たず、主を心の底から受け入れる人はおりません。弟子にさえ裏切られ捨てられ、孤独の中で十字架にその人達の為に血を流して死なれたキリストです。
万民の為の贖い・救い、心と肉体の癒し、人生の悩みの解決それからの開放、孤独な人に寄り添われる主、これが飼い葉おけから出発された主のご生涯であり教えそのものです。キリストの一生は神のお独り子にあられたが人の肉体をとられ馬小屋に生まれた。十字架の死は決して飼い葉おけから切り離す事の出来ない事です。十字架の死はキリストとしての神の御心・神の愛の実現です。飼い葉おけに生まれた使命の完成であり悪の勢力への勝利でもあります。
クリスマスはキリスト礼拝です。キリストの十字架のあがないの死は私とあなたの為であったと信じ、復活なさって父なる神の下に私達の行くべき場所を準備して、ヨハネ十四3。再び私たちを迎えに来てくださるその約束を信じ待つ時でもあります。
クリスマスおめでとうは、イエス様・父なる神様に向かってではなく、お互い神様に選ばれ、愛され、神の子とされ、兄弟姉妹の交わりに預かれた事を感謝のうちに祝い合うのです。心からの感謝を持って祝意を表します。クリスマスおめでとうございます。
マリヤは世界のどこにでもいる。目立たぬ家の、目立たぬ娘でした。イエス様が私達と同じように人生の苦しさ、惨めさを味わねばならならなかった。それで神様は、一人の平凡な庶民の娘を母として選ばれました。キリストがよくお会いになった女性は惨めで、孤独で、憐れで、弱さを持っていた。病気で苦しむ女、心ならずも性を売って生きていかねばならなかった女、子を失って泣く女、それらの女性達の中に母マリヤを思い浮かばれておられたのではないでしょうか。マリヤも彼女達のような平凡な女性として生まれ育ったのです。
マリヤは14才の時に、両親を失いましたが、ヨセフの許婚でした。当時、男性は25歳以上になるまでは婚約は出来ませんでした。ユダヤでは婚約は非常に厳しく殆ど結婚と同じでした。婚約した女性は夫婦生活をする以外相手の男性に絶対的服従を求められていました。二人で会うのも娘の両親の家だけと制限されていました。もしも婚約者を裏切るような事があれば、その娘は処刑される社会でした。その彼女に思いがけない出来事が起きると、天使ガブリエルが告げるのです。彼女にとって青天の霹靂です。彼女にとって悲劇的結果になるやも知れぬ事です。彼女は34「どうして、そんな事があり得ましょうか・・・・」そのことは理解も想像も出来ないことですので、抗議に近い質問をしました。今様に信じられないと言ったのです。私たちも神様の言葉に疑問があったのであれば、本心を申し上げなければなりません。天使はマリヤにエリサベツのことを伝え『・・・・・神には何でも出来ない事はありません』と答えました。彼女は神の言葉であると確信できた。「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と応答しました。この信仰ゆえに聖母マリヤと多くの人々に尊敬されてきたのです。
マリヤがザカリヤのうちに出かけて挨拶した時に、その子が胎内で踊った(後のバプテスマのヨハネ)エリサベツは聖霊に満たされて42〜45「・・・主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」と言った。マリヤも感動して感謝の祈りと、主を讃美する言葉がほとばしり出た。それがマリヤの讃歌といわれる美しい祈り、讃美です。私は全身全霊で主を崇め、讃美する。私のような小さいものに、力あるお方が大きなことをしてくださったと祈り歌うのです。2千年来、マリヤの讃歌は崇める(メガルネエイ)からマグネフィカト(マグネフィカート)といわれ多くの美しい歌が作曲されてきました。
なにか大きな業をした時自分を崇め、自分の努力を讃えますが、マリヤはわたしの魂・霊は主を崇めると言うのです。崇めるの原語はメガルノー、拡げる、大きくするという意味です。この語源からメガトンやメガフォンがあります。神の全知全能を広大なものとして、自分の小ささを強調しているのです。
この崇める心を示しているのがこの讃歌です。マリヤは聖書に親しんでいたようです。ハンナの祈りを(サムエル上2章)心に蓄えていたので、このような素晴らしい讃美・祈りがなされたのです。私達にも、もっと聖書に親しみなさいと、マリヤの讃歌は勧めているのではないでしょうか。
明治44年は大正元年、昭和元年は大正15年、平成1年は昭和64年。これは近代史の年代計算には閉口します。天皇の即位の度に変わるからです。明治以前は変わった出来事があると即位以外でも元号を変えました。ところが世界史ではクリスマス即ちイエス様の誕生年をゼロ年として(実は計算違いで6年前)それ以前をBC(紀元前)後をAD(主の年)としています。平成などの元号は日本にしか通用しません。国が興り、王が戴冠し、時には下克上が起こり支配者は廃せられます。とかく人間社会は移ろいやすいものです。BC、ADは人間存在の真中にイエス様がキリスト(救い主)としておいでになった事実が歴史の中心であるとの信仰告白から来ています。
イエス様の誕生は世界の何処にも知られず。誕生の地ベツレヘムでさえ天使のみ告げによってそれを知り、礼拝に駆けつけた羊飼いたち。誕生から時間がたってから東方の博士達が星を頼りにやってきて、ヘロデの所に救い主の誕生地を聞きに来た程です。不安にかられた王に呼ばれ祭司長と律法学者達が全部集まってきた。王は彼達にキリストはどこに生まれるか問いただした。彼達は預言者のミカが5章2それはベツレヘムと述べていると答えたが、礼拝に行ったのは東方の博士達のみでした。
ユダヤの寒村ベツレヘムに救い主が誕生された事を信じた人は、ほんの一握りの人々でした。神様のご計画は貧しい名も知られないマリヤが主の母として選ばれる事でした。そのことを天使ガブリエルがマリヤに告げた時、彼女はルカ1章34「どうしてそんな事があり得ましょうか・・・・」と答えた。彼女は理解しがたく想像も出来ないみ告げに戸惑うばかりでした。救い主の母になるには、なんら誇るものもない普通の田舎娘に何故、そのような不可能なことが起こるのでしょう。マリヤが反問するのは当然です。母となる好条件は一つも思い至らないのです。35〜37『・・・神には何でも出来ない事はありません』の天使の言葉の前にマリヤは言った「私は主のハシタメです。お言葉どおりこの身になりますように」
人間の中に起こりえないことが、神の恩寵として小さな何のとりえもないと自覚している自分を神様は選んでくださった。マリヤは神様をあがめ讃美せざるを得なかったのです。それが46〜55のマリヤの讃歌マニフィカトです。神をあがめるという意味です。崇めるは(メガルネイ)といいます。神を広げ大きくし自分を小さくするとの意味です。
彼女は自分を小さくして神を大きくすると讃美を始めるのです。神のときが満ちるに及んで、神の御子が人となられた。その母となったのです。彼女が神を崇め讃美したのは力ある神が彼女に大きなことをしてくださったからです。マリヤだけではありません。あなたも私も神様に選ばれて神の子となる大きなことを成して下さり、私たちを神の宮として下さったのです。このことを己が幸を祝わずやと感謝・讃美するのがクリスマスです。
人類の始祖/ダムとエバは巧みなサタンの誘いに欺かれて、神の命令を破り罪(原罪)を犯しました。神様の歩まれる音を聞いて、神様の顔を避け、楽園の木の間に身を隠す破目になりました。その/ダムたちに主なる神様は『あなたはどこにいるのか』と彼の心のあり方に問いかけられた。今も同じく主は外に立たれて、心の扉を叩いておられる。『誰でも私の声を聞いて戸をあけるなら、私はその中に入って彼と食を共にする・・・・』ヨハネ黙示録3章20節。主に心を閉ざしている者に悔い改めのお勧めと共に恵みを共有するようにとの呼びかけです。
神様の呼びかけに/ダムとエバは、罪の責任転嫁をしてそれを認めませんでした。エバを誘惑した罰として蛇を支配するサタン(悪魔)に対して地を這い、地の塵を食う、また二人に対して、神から与えられた自由の信仰による結婚関係が、本能的な支配に置き換えられてしまい、妻の権利が夫に支配されます。創世記の記者は男による支配を、罪の故とはっきりと悪と見ています。
15節には、蛇(サタン)と女(エバ)の間に恨みをおくと言明されています。しかしすぐに女の末がお前(サタン)のかしらを砕く、そのサタンがメシ/のかかとを砕くであろう(主の十字架)と主の贖いの死が暗示され原罪からの救いが預言されています。
/ダムもエバも神様の呼びかけに応答せず悔い改める事をしませんでした。エバは責任を蛇に、/ダムは神様が助け手と与えてくださったエバの責任だとお互いに責任転嫁をしました。彼たちの罪の結果、/ダムは今までは苦労もせずにエデンの楽園で主の備えられた果実の実で養われていましたが、いまや茨と/ザミに土地は妨げられて、収穫の為汗して労働に明け暮れ、エバは生みの苦しみが与えられそれでも夫に支配されなければならなくなりました。
蛇への裁きはその背後にあって人を神に反逆させようとするサタンに対するものでした。このサタンの裁きの中に、罪を犯した人間を救う方向性を示しています。聖霊が、主イエス様によって始祖いらいの罪の贖いをなされた事を預言なされています。神様は人間創造の時に選択の自由を与えてくださったのですが、その自由意志で自分自身の中に罪を招き入れたのです。神様の愛はそれを放置されず救いのご計画を直ちに持たれたのです。
『あなたはどこにいるのか』創世記3章9節の神様の呼びかけ、主イエス様が私達の心のド/をノックされて、声をかけておられます。内から閉ざされた心の扉を開けて主イエス様を私の心に招き、共に食卓につきましょう。そのことが私たちを全く聖い者として神の宮としてくださるのです。そして私達のために閉ざされない神の国の門が開かれていて、少ししか力がなかったにも拘らず、主の言葉に従い、主の名を拒まなかったので神の国の門に入ることが出来るのです(黙示録3章8節)。
旧約聖書の最初に人類の罪を赦される神様のご摂理が預言され、新約聖書の最後に主イエス様によって救われたものの姿が描かれています。私たちはこの旧新約聖書を通読し、時には精読して神様の恵みを十分にいただきましょう。
3章16節はヨハネ福音書の書かれた目的を表しています。20章31「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストであると信じる為であり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得る為である」。また聖書全体は、この1節に凝集されたといってもよく、キリスト教の本質を完全に表した中心聖句です。神の御独り子であるイエス様の死によって、罪と死の支配下にある全人類に、神の愛により永遠の命が与えられたのです。この神の愛によって罪に穢れた世の人々は、主イエス様の十字架の贖いを信じる者すべてに、永遠の命が与えられ、神の子とされるのです。
1節〜は、パリサイ人に属するニコデモとの対話が述べられます。はっきりしている事は、主が求められている完全な信仰とは、人の根本的な変革です。ニコデモはサンヘドリン(ユダヤの議会、裁判の権利も持つ)の議員でもありました。パリサイ人や指導者達の大部分の者はイエス様に敵意を持つ偽善的宗教家でした。ニコデモはイエス様の言行に深い感銘をうけていて、「ラビ(宗教教師)、私どもは、あなたが神から来られた教師である事は知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行う事はできないからです」と直接に教えを受けたいと夜イエス様を訪ねてきました。よく解釈するとお忙しいイエス様と個人的に話す機会は夜しかなかったのでしょう。暗闇にまぎれて人に見られないように忍んできたとの解釈もありますが、ヨハネは光と闇を対照的に多く述べますので、ニコデモのうちの暗黒を示し、その中からまことの光を求める求道心を見ることができます。富める青年が永遠の命を受けるにはとの質問(マルコ10章17)や、律法学者の最高の戒めとはと問われたときのお答とは違って(マルコ12章28)弟子達にも大事な事として話されておられます。
道徳的完全(律法遵守)役職、地位などでは神の国に入ることは出来ないと、彼の質問の本心に迫られ、『人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』との厳しいお言葉です。彼にはその意味が十分に伝わりませでした。これは多くの人々も同じです。自分の力、知恵などで生きたまま生まれ変わる事は不可能です。水と聖霊のバプテスマによって奇跡的といってもよい霊的誕生が必要なのです。水のバプテスマも本質において霊的バプテスマです。
奇跡的霊の新しい誕生は、独り子をこの世に遣わされた神の愛を信じる者に与えられる永遠の命に生まれることです。それを教会では、新生、再生(ボーン/ゲイン)と言います。死んで新しい存在になる(必ずしも人間になるとは限らない)という、輪廻とは異なります。生きているうちに180度転換した生き方に変わることです。この生きているうちの変革と、死んで生まれ変わるとの認識の違いが現在の命を軽視する出来事に繋がっています。人間には成し得ない生存中の生まれ変わりは聖霊の働きによってのみ可能なのです。
神のみ言葉を信じるとは、この3章16節に、/ーメン(その通りです。まことです)と信じ告白し、生まれ変わる(新生)ことです。そして永遠の命に与り、神の子とされることです。
神様はモーセを80年間教育・訓練なさってイスラエル民族をエジプトの奴隷から救いエジプトを脱出せしめられました。前半の40年間は不思議な方法でパロの娘の子として宮殿においてあらゆる学問を身に付けらされました。使徒行伝7章17〜29最初の殉教者ステパノがモーセはエジプトのあらゆる学問を教え込まれ、言葉にも業にも、力があったと述べています。そのモーセがヘブルを愛するあまり同胞を助けようとして、エジプト人を殺してしまいます。彼の正義感と愛国心は同胞に受け入れられていない事は翌日の事件で判明した。彼は愛国心と正義感に富んでいたが、自分の力に頼り激情を抑える事が出来ませんでした。そのうえ事実を知ったパロは怒り彼を殺そうとしたので、王の手の届かない荒野の果てミデ/ンに逃げ、その地で40年間羊飼いをしながら神様の霊的指導を受ける事となりました。
2章23、彼を殺そうとした王は死にました。それでもイスラエルの民は、その苦役のゆえにうめき、その叫びは神様に届きました。24・5神は彼らのうめきを聞き、神は/ブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らを心にとめられました。
イスラエルに対する迫害はますます激しくなっていき、その迫害の最中、指導者としてモーセを40年間王家の一員として、ハブラム法典やヒッタイトの契約文書、軍事指揮法等を学んだ。そのことは百万あまりの烏合の衆を導き、十戒など律法作成に大いなる力を発揮できました。今、彼に必要なのは自己を統御する霊的力です。神様はその為に荒野のエテロのもとで、羊飼いとしての自然の中での生活、人間の力、知恵ではどうしようもない中での神様との関係、運命を祈りによって神様のなさるご摂理の偉大さを学ばされたのです。その仕上げが3章におけるモーセの召命です。
神様は燃える芝の中から語られる、エジプトの同胞の救出命令です。40年前の激情的に愛国心に燃えていた時でしたら身の程も知らずに直ちにお受けした事でしょうが、羊飼いをしているうちに自分の本当の姿を知り、傲慢さが砕かれていた現在のモーセには大それた仕事として受けがたいものでした。しかし、主は、12節『私は必ずあなたと共にいる。これが、私のあなたをつかわしたしるしである。・・・・・私はあってあるもので、イスラエルの人々に言いなさい。私はあるというお方が私をつかわされました。・・・・17節あなた方をエジプトの悩みから導き出して(救い出して)乳と蜜の流れる地へと携え上ろうと決心した』と言われました。そして。
4章19主はミデ/ンでモーセに言われました。『エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々は皆死んだ』そこでモーセは妻と子供たちをとりロバに乗せてエジプトに帰った。その時モーセは神の杖を手に執っていました。
モーセは神様の召命を受けて立ち上がりましたが、厳密に言いますと信仰の決断は神様の導きによります。派遣の決断はモーセではなく神様が派遣の決意をなさったのです。その派遣に神様が責任をもたれるのです。12節『・・・私はあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう』神様は派遣するのであるならば、派遣された者の責任をお取りになるのです。そして、派遣したモーセと共にあられてイスラエルを奴隷から救われるのです。
モルデカイの伯父の娘はユダヤ名ハダッサを隠してペルシャ名のエステルを公に名のっていました。ギリシャ語の外典エステル記によるとモルデカイは孤児となった彼女を妻にしようと引き取っていたと述べています。王妃ワシテが多くの部下たちとの宴会の席に出るようにとの王の命令を拒否した為王妃から退けられ、新しい王妃を求める事となり全国から美しい乙女が数百人首都スサに携えられ、一夜の慰めものとされ次々と品定めされていました。モルデカイはエステルを隠していたがそれもかなわず、王の下に連れて行かれ三年余もたってしまいました。
王の重臣ハマンに多くの人はおもねって、彼を拝し敬う態度を見せていたが、王の門を守るモルデカイは単に敬礼をするのみでしたので、彼は怒りを感じ、ハマンは彼だけを殺す事潔くしないで、/ハシュエロスの国のうちいるモルデカイの属するユダヤ人の皆殺しを図ってその財産を王の金庫に銀一万タラントを入れるとして王の証書を発布させました。モルデカイは自分の行為ゆえに、ユダヤ人の虐殺(ゼェノサイド)の命令が出たので荒布を纏って座していました(神の前に悔い救いを祈った)。
そのことをエステルに告げるもの者がいました。彼女は彼に着物を贈ったがそれを拒絶したので理由を聞いたところハマンが同属を皆殺しにして王の金庫に入れる銀の量と詔勅の写しを渡し、このままではあなたも安全ではないと伝言しました。祈っているときモルデカイははじめて神さまのご摂理を知ったのです。今までは悪い運命で人にはどうしようもないと諦めていたのですが、神様のご計画を知ったのです。(この祈りはギリシャ語の外典4章にエステルの祈りと共にあります)彼はエステルに、この時のために王妃になったのだと伝えるのです。彼は何ゆえ彼女が王妃とされたか、この時の為ではなかったのか、彼は人間の考える運命と、神様のご摂理の深さ恵みに驚嘆して、この時のためだったのだと告げるのです。
ハマンによるユダヤ人ゼノサイド(皆殺し)の計画を知ったとき断食して祈り、かみさまのご摂理はっきりと知って4章3・4節「・・・あなたがもし、このようなときに黙っていたならば、外の所から、助けと救いがユダヤ人の為に起こるでしょう。・・・・このような時のためではなかったのでしょうか」と告げるのです。エステルは死を覚悟して立ち上がりました。16節「三日私のために断食してください。私も侍女たちもそうします。私がもし死なねばならないなら死にます」彼女には背後からの支えを必要としていたのです。
神様のなさろうとする事は分からない事が多いです。納得できない事が続いて神様のみ旨が分からない。そのときこそ分かるまで祈り続けるのです。すると、ついにこの時のためであったと信仰するものに示されるのです。そして死ぬべくば死ぬべしと決断して行動に移るのです。エステル記には断食したとはあるが祈ったとか、神という言葉もありません。が、信仰の極意が述べられています。
主イエス様こそ私のキリスト救い主と信じ、神様のみ旨を知る為祈り、決断して行動に移るのです。うなじの固い頑固なイスラエルの民もモーセの語る神様のみ言葉を信じたからこそ、奴隷から救われ出エジプトができたのです。祈って神様のみ旨を知り、神様の知恵と力によってこの世の生活に勝利を得る経験を致しましょう
いじめに遭って自殺したり、いとも簡単に人の命を奪ったりする事が続発しています。実に胸を痛める出来事です。何ゆえ命を粗末にするのだろうか、私は戦争中からそのことを考えていました。国の為に死ぬ事を、七生報国と表明して爆弾を抱えて死地に赴く、これは七度生まれ変わって国の為に死ぬとの決意を表しているのです。日本人には輪廻の思想から死んで生まれ変わるという考えが深層心理にある事を感じていました。人間は死んで生まれ変わるのではなく、生きている内に生まれ変わらねばならないのです。天国に結ぶ恋、死んで極楽で会いましょう。とロマンチックに言いますが、神様が共にいてくださる天国は地上の人間関係の延長ではありません。仏教ではガンジス河の砂の数より多いといわれる無数の仏の浄土(領地)があります。日本人が誰でも口にする極楽は、阿弥陀仏の浄土です。薬師仏は浄瑠璃浄土を持ちます。びる遮那仏(奈良の大仏)は宇宙の中心に浄土があるとしています。ちなみに極楽の住人は男のみです。
聖書の語るこの地上の人生は長い旅路のつかの間だと述べます。私達の国籍(故郷)は天にありそれを目指して旅をしているのです。13「この一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めている」パウロはそれぞれ人によって信仰の度合いの違いがあるから、現在与えられている信仰の光によって歩む事が、将来の完全(聖め)に至る道であり、聖められた者のみ天国に入れるとします。
16節までにキリスト者の生活がどのようなものか説明して、17節「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなた方と同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」自分が完全だから私に倣いなさいと言っているのではありません12節。完璧な模範ならばそれは主イエス・キリストです。私たちには不可能な事です。私に倣いなさいとは、彼自身の生き方、信仰生活、歩み方、悪との戦いのさまを言っているのです。今キリスト者としての完成の道筋にあっての信仰のあり方を模範として欲しいと語るのです。
十字架だけが人を救うという福音を否定して、律法おも守る必要があると説く人々は十字架に敵対している人々です。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは自分の腹を神とする。腹の足しになるもの、生活至上主義を誇りとしているのです。彼たちの思いは地上の事だけ、自分の欲望の飢えを満たすだけの事ではないか、キリストを愛する生活をやめて、キリストよりもこの世の事に大きな関心を持つ人は滅びへと直進するのです。
しかし、私達の国籍は天にあります。我らの思いはイエス・キリストが救いと聖めの完成者として再臨される事を待ち望むのです。そのとき先に召された方々ともどもに、病、苦痛、乏しきなどに制限されていたこの肉体から、主と同じ栄光の体とされて、あいま見えるのです。われわれの信仰の先輩者たちは主の再臨のときまで主の身元に憩うておられます。再臨の主の御前で懐かしい方々と再会できることは楽しみです。
ヨセフはなんらの野心などありませんのに、人間的には予期出来ない事が続けておきます。それもすべて神様の摂理によるものです。彼が兄たちに憎まれ、エジプトの奴隷に売られたことは、将来のイスラエルのためであるばかりか、その救いの器になる為でもありました。彼は父に特別に目をかけられていたので、いつの間にか兄たちを見下していました。それがエジプトの奴隷生活でまったく砕かれて、神様と共なる日々を送り、彼のすることをすべて上手く神様が計られ栄えさせてくださったのです。
ヨセフはイシマエルびとの手でパロの役人である侍衛長ポテパルに売られました。主が彼と共におられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせる事を主人は見て家の司とし、持ち物をすべて彼にゆだねられました。自分の食べる物のほかは、何をも省みなかったのです(7節)。
ヨセフは母ラケル譲りの姿かたちの美しい好青年に成長していました。それに目をつけた主人の妻が、「私の床に入りなさい」と彼に言い寄ってきました。しかし彼は8・9「・・・・あなたはご主人の妻ですから、私はどうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯す事が出来ましょう」といって彼女の要求を拒否しました。それでも彼女は毎日ヨセフに言い寄った。彼はそれを聞き入れず、共にいる事もしませんでした。
ある日、彼が仕事をしようと家に入ると、彼女はヨセフの着物をつかんで「私と寝なさい」と命令口調で言ったので、彼は着物を残して、逃げて外に出た。彼女の大声の叫びで家の人々が集まってきました。
彼女は主人が帰ってくると、その着物を傍らに置いて17・18「あなたが連れてきたヘブル人(蔑称)の奴隷が、私に暴行を働こうとしたのです。私が大声で叫んだものですから、着物を残して外に逃げ出していきました」主人は激しく怒って、彼を王の獄屋に投げ入れた。冤罪で入れられたその監獄にも主は彼と共におられ恵みを施し、看守長は監獄にいる囚人を皆ヨセフにゆだねて一切目を配りませんでした。主がヨセフと共におられ、彼のすることを上手く計らわれたからです。
39章には主が共におられたとの言葉が5回あります。それが彼の手の業が栄えさせた理由です。ヨセフが主人の妻の誘惑を退けることが出来たのは、第一、神に罪を犯す事は出来ない事です。第二は主人の妻に大きな悪を行う事は出来ないということです。人妻と不倫を犯す事は、おきてでは二人とも死刑です。しかし主が上手く計られたのです。
私はこの章を学んでいる間、心に響いていたみ言葉は、マタイ1章23『見よ、おとめが身ごもって男の子を産みます。その名はインマヌエルと呼ばれる』その名は「神は我々と共におられる」という意味です。ヨセフと共にあって高慢な彼を砕き、全き聖めに導かれイスラエル・神の選民を飢えから救う業をなさしめられました。主イエス様はインマヌエルの主として私たちと共にいてくださり、私たちを聖めて下さり、祝福してお用いくださいます。
キリスト者をぶどうの樹(キリスト)に繋がる枝と喩えられます。キリストに繋がっている限りその命・永遠の命を持ち、聖霊の実を結ぶことが出来ます。ヨハネはこの手紙を神の子の御名(人となり全てを表す)を信じるあなた方に書いたと13節で述べています。福音書は、未信者にイエス様は神の御子キリスト(救い主)である事を信じさせ、命を得させる為に書かれました(ヨハネ20章31節)。
キリスト者がキリストにありて永遠の命を賜った確信に11節、続いて祈りに関する確信が述べられます。14節「私たちが神に対して持っているか確信は、こうです。すなわち、私たちが何事でも神のみ旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れてくださる」人間は神様を自分の都合の良いロボットのように操る事は出来ません。神様のみ旨にかなう祈りのみ聞かれるのです。この神様のみ旨を知る為に主日の公の礼拝を守り、毎日個人的な礼拝をしなければなりません。この個人的礼拝の中で聖書通読を通して、神のみ旨を知りそれと合致した祈りをするのです。
このみ旨にかなう祈りでしたら、15節「・・・なんでも・・・神に願い求めた事はすでにかなえられている事を、知ります」そして祈りの聞かれる例として16節に執り成しの祈りがあげられます。「死に至らない罪を犯している現場を見たならば、執り成し祈りによって、命を賜る」救われて永遠の命を持ちながら、弱さゆえに、無知なるがために、罪を犯した者に対する執り成しの祈りは受け入れられるのです。
神によって新生した者は、罪のうちを歩みません。たとえ罪を犯したとしてもそれを悔いるとき、弁護してくださる方がおられます。それでは死に至る罪とは何でしょうカ、マタイ12章31『人が犯す罪や神に対する冒涜は、どんなものでも赦されるが・・・・聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない』と主は語られました。聖霊のみ業を悪魔の業とする霊的な盲目さ、聖霊をあがめ、聖霊に聞こうとしない傲慢さ、己を尊しとし、神の言葉による忠告も拒み続ける者は自分の罪で自滅します。祈りは大きな働きをしますが、知りつつ故意に御霊に逆らう者にはとりなしても無駄です。しかし、死に至る罪、死に至らぬ罪は私たち人間には区別しがたいものです。
祈りが必ず聞かれる道が、イエス様のご遺言に述べられています。ヨハネ16章23・24『父に求めるものは何でも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなた方はわたしの名によって求めた事はなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう』ヨハネ14・15・16章の遺言の中に三度も同じ約束が述べられています。私たちがイエス様の名によって祈るとき、それがみ旨にかうものとして主ご自身がご経験を通して執り成してくださいます(中保者)。時の経過の中で良い時期に何でも祈りが聞かれることを味わう事が出来ます。
祈祷会における聖書の学びは、毎回創世記を1章ずつ約20分間学びまして次週で50章を終わり、出エジプト記に入ります。私にとって信仰的によい学びが出来ました。特に私の気づかなかった質問等があり、感謝しています。
45章はヨセフの生涯の信仰の証として圧巻です。兄たちの会話は通訳を間においてなされていました。兄たちがヘブル語で語り合っている内容で、奴隷に売られた経緯を彼ははっきりと知る事が出来ました。弟ベニヤミンの身代わりとしてこれから後、一生涯奴隷になって良いと言う、兄のユダ、父ヤコブや弟、兄弟たちの家族に対する深い愛情を受け取った彼は、また兄たちに憎まれて殺されようとしたとき、ルベンが助けようと試みた事などを知りました。彼が奴隷の身分から王の次の位まで引き上げられたその間の嘆き苦しみを消し去る事は困難でしたが、その困難も、神様が家族の間になされた愛のみ手を知った今、もはや肉親としての愛情、懐かしさを隠し続ける事が出来ませんでした。そして進んで積極的に和解の行動をとりました。
1節ヨセフの言葉でエジプト人は一人残らずその場を去り、兄弟たちとの和解の時を家族だけで持つ事が出来ました。4・5節「私はあなた方が奴隷に売ったヨセフです。しかし、今は、私をここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救う為に、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです」7・8節「神が私を先にお遣わしになったのは、・・・あなたたちを生き永らえさせて大いなる救いに至らせる為です。私をここに遣わしたのは、あなた方ではなく、神です」ヨセフは神様のご計画を知って兄たちに語ったのです。兄たちは二回の食料購入の際の出来事を思い、ヨセフの復讐を恐れていました。が、彼の証を聞いてただ驚くのみでした。
私はヨセフの生涯に、主イエス様の雛形を見る感じです。主のご生涯は少年のときには家族を養う為、労働に明け暮れ、最後の3年間は、『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない』マタイ8章20。といわれる生活をなさって、私たちを救う十字架に死に、神の右に座して、神の子とされた私たちのために、執り成しの中保者となられました。その神様との間に座して、私たち救われた者を永遠に生き永らえさせて下さるのです。
50章20節「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救う為に、今日のようにして下さったのです」このとき飢えから救われた家族は70名でしたが、約二百年後には百万あまりの民族になりました。これは/ブラハムたち族長(イサク・イスラエル)に約束された祝福の実現です。
神のお一人子を人として、父なる神様がこの世にお遣わしになりました。そのイエス様こそ私のキリスト(救い主)と告白して信じる者を救い、神の子(養子)とせられ、永遠の命を授けてくださるのです。感謝せざるを得ません。
エジプトからカナンの地に行くには、地中海に沿った近道、その南に平行するように進むシュール(壁)の道、第三の道は、巡礼の道でスエズ湾の先端から/カバ湾の先端にいたる半島を横切りエラテから北上する道がありました。主はイスラエルが南西に向かって進んでいた彼らを、雲の柱火の柱をもって引きかえらしめて人のとった事のない道へと向かわしめました。「その報告を聞いたパロは『イスラエルの人々があわててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう』・・・私はパロの全軍を破って栄光をあらわす。・・・・」と主はモーセに語られました。1節〜4節。そのとおり神様はパロの心をかたくなにされたので、神様のご計画通り彼たちを追って、神様の罠にかかりました。
イスラエルの人々は意気揚々ととエジプトを出ました(8節)。道を進む彼たちが目を上げて見ると、エジプト軍がすでに襲いかかろうとしていました。彼達は非常に恐れました。パロは彼たちが逃げさったことを聞いて、多くの戦車と軍勢を率いて彼らに迫ってきたのです。民達は前には紅海、後ろはパロの軍勢進退窮まって、主に向かって叫びましだ。そして指導者モーセに言いました。「エジプトに墓がないので、荒野で死なせる為に、私たちを携えだしたのですか・・・(11・12節)。」モーセは「恐れてはならない。固くたって、主がきょう、あなた方になされる救いを見なさい。・・・」と言いました。イスラエルの人々は出エジプトのときになされた神様の奇跡の救出を思い出すべきでありましたが、現実の状況の前にパニックをおこし、神の代理者モーセを責めるのです。彼達は奴隷の重労働の中からどのようにして救い出されたのでしょう。神様が過去にみ業、恵みをもって彼たちを取り扱われたか、今から何をなしてくださるかと、神様に対する信頼する信仰が必要だったのです。
私達の前に展開される現実は、前には紅海、後ろは強大な敵軍という状況があります。そのときこそ神様にゆだねる信仰が揺らいではなりません。今まで私のために神様は多くの困難をいかようにして乗り越えさせてくださったか、その恵みの数々を思い出してください。モーセは神の言葉を語ります。『恐れるな』と。/ブラハムが困難を前にしたとき同じく神様は『恐れるな』と語られ15章1。イサクに対して26章24。ヤコブには46章3。困難の状況を前にする族長たちに神様は恐れるなといわれ困難を克服なさしめられました。
パウロがコリント第一の手紙10章13「あなた方の会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道を備えてくださるのである」と述べています。これは彼が過ぎ去った日々の困難を主にあって数多く乗り切った経験からの証です。キリスト者はパウロと同じように証が出来るはずです。現実の困難の前で、イスラエルの民のように神様の恵みを忘れ、もとの奴隷の生活に戻ろうとする動揺が心のうちに沸いてきた時、聖書のみ言葉に立って、信仰の道から脱落しないよう祈って行動するのです。
不信仰なイスラエルの民は、14章21〜31。神様の救出のみ業と、パロ軍の滅びを見て、『恐れるな』のみ言葉を信じたと述べられます。恵みに慣れたというか、うなじの固い民というか、この後も呟いたり、反抗しています。これは私たちに対する警告でもあります。『私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』と復活の主はおおせられました。見たことは理性で理解できますが、信仰とは見ないでも信じることができるのです。
使徒パウロはコリントに1年半滞在して教会開拓をしました。そこで語ったのは十字架上のイエス様こそキリスト(救い主)であることでした。彼は優れた言葉や知恵を用いない、十字架の言葉の愚かさに徹すると決意するのです。1章18「十字架の言葉は、滅び行く者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」
信仰によって生きるとはどのような事でしょう。それは遣わされた者であると知る事です。使徒とは遣わされた者という意味です。私たちキリスト者は神様の使徒として、自分の家庭に生き、職場に生き、学校等に生きているのです。主人である主の命令に従って生きている者がキリスト者なのです。
3章1「私はあなた方には、霊の人に語ることができず。肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対すように語りました。私はあなた方に乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。・・・・・・相変わらず肉の人だからです」お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、肉の人・ただの人として歩んでいます。自分の考えをよりどころとしてポウロ派とか/ポロ派などと争っているが、ポウロも/ポロもあなた方を信仰に導く為の僕なのではないかと、福音宣教者に対する彼たちの誤解を指摘し、宣教者の働きと、神の僕の本来の立場と役割を説明します。
この二人を主の僕として、主の目的に対応して、あなた方を信仰に入るようにとの道具としてお用いになったのです。その働きの原動力はすべて神様にあるのです。信仰の種を蒔き、移植し、水を与え、種まき、作物の世話、畑の管理などは私たちの役目であり、その作物を成長させなさるのは神様だと断言します。
作物がよく育つ為に、よく耕された畑、肥料を与え、種をまき、水を注ぐのは使徒たちのなすべき事であり、豊かな太陽と適当な気候によって神様は成長させてくださるのです。それを6「私は植え、/ポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのはかみです」とポウロは述べているのです。
10節以下では教会建設について建物の例を引いて説明します。「私は神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に家を建てています。・・・・イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰も外の土台を据える事は出来ません。その上に金属、木材等を使って建てますが、主の再臨のとき聖霊の火を浴びなければなりません。そのときに損害を受けないようキリストの土台に密着していなければ損傷を受けます。
続いて信仰者一人一人がキリストを土台として立てられた神殿である事を知らないのかと問いかけます。人は建物が火を潜り抜けてきたように救われます(聖霊の火によるバプテスマによる浄め)そして聖霊が自分の中に住んでくださるのです。私たちは自分自身が神の神殿である事を自覚して、聖なるものとして神殿である自分を破壊したり、傷つけてはならない。神の栄光をあらわす器として用いていただくのです。私たちの隣人も神の宮としていただくべく使徒としての働き、証をするのです。
イスラエルの民の前には、神の約束された乳と蜜の流れるカナンの地に至るに当時3つの道がありました。一番の近道は海の道とも、ペリシテの道とも言われた地中海に沿った道、第二の道は海の道の南にあるシュルへの道、これはかってハガルがイシマエルを連れて女主人サライから逃れたときたとき、天の使いがサライのところに帰るよう勧めた道です。(創世記16章7節。)第三の道は、現在巡礼の道といわれ、スエズ湾の先端から/カバ湾の先端にいたる半島を横切りエラテに至り、北上する道です。イスラエルの民は第一の近道を選びたかったが、神様はこの民の為に既成の道を選ばれませんでした。
選ばれた第四の道は今まで誰も通った事のない道です。しかも追われた場合袋のネズミになるような道でした。17節には「・・・戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである」とその理由が述べられます。近道を行けば、立ちはだかるペリシテ人はエーゲ海の海賊まがいの民で肥沃な地を占領していて、武器も鉄製で戦いなれた民です。奴隷生活を送っていたイスラエルには戦える状況ではありませんでした。神様は賢明にもその道を避けられ、奇跡的救いをなさる為に彼たちを葦の海に通じる荒れ野の道へ迂回させられたのです。そしでイスラエルの人々は武装して(隊列を整え)エジプトの国を、ヨセフに誓ったように彼のミイラを携えて出でて上ったのです。
私たちの生涯でも、祈って懇願しても、このような常識的に考えられない道を神様は変更してくださらない事を経験します。そのときは何故とつぶやきますが、後ほど神様の愛のみ手で導かれていた事に気づき、驚き感謝する事が多々あります。神様は神様を愛するもの者達、すなわち、ご計画に従って召された者達(神様の選民)と共に働いて万事を益として下さるのです。
その神様が出エジプトの民(私の民と宣言なさる)を、昼は雲の柱、夜は火の柱となって先立ち導かれるのです。昼は灼熱の太陽を遮り、夜は栄光の光が明るく彼たちを照らし守られるのです。
雲の柱は神が臨在されている事を旧約聖書は象徴的に表しています。敵から選民を守られ(葦の海での奇跡的救い)、主がモーセと語られるとき彼が幕屋の前に立つと雲の柱が下りその中から語られました。また常に幕屋の上に雲があってその雲が動くと民達は旅立ちました。雲と火は神様が語られるとき象徴的に見られます。シナイ山にて、神様はモーセに雲と火の中から語られ十戒をお授けになられた。/ブラハムと契約を結ばれたときにも彼が二つに裂いて並べた犠牲の間を火が通り過ぎられました。(創世記15章17節)
出エジプトのイスラエルの歴史に、私達一人一人の過ぎ去った神様との関係を見る思いです。私たちの経験はそれぞれに違います。神様のお取り扱いもそれに従ってさまざまです。聖歌に「数えてみよ主の恵み」とあります。何方でも信仰の目を持って振り返るときそこに主の恵みが驚くほど見るはずです。それゆえすべての事に感謝できます。感謝して現在を見ると喜んでおられます。それゆえに将来に希望を持って絶えず祈る事が出来るのです。(テサロニケへの第一の手紙5章16〜18)。
1節〜15節、主はパン5つと、魚二匹とで5千人ほどの人々に望むだけ与えられ、十分に食べさせられました。14節人々はイエス様のなさったこのしるしを見て、「本当に、この人こそ世に来るべき預言者である」といってローマの属国から独立を勝ち取る王にしようとしました。それで主はただ一人山に退かれました。(おそらくお祈りの為)
向こう岸のカペナウムまで追ってきた群衆に『あなた方は奇跡を見たので、尋ねてきたのではなく、パンを食べて満腹したからではないか』といわれ続けて『朽ちる食べ物の為ではなく、永遠の命にいたる朽ちない食べ物の為に働くがよい』・・・32節
『天からのパンを与えたのは、モーセではない。(40年の荒野の生活で毎日与えられたマナ)天からのまことのパンをあなた方に与えるのは、私の父なのである。・・・・』
『私が命のパンである』51節このことを聞いたユダヤ人は互いに論じ合った。弟子たちも55・56『・・・・私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もその人におる。・・・・私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるであろう』
60節.弟子たちの多くのものはこれらのことを聞いて「これはひどい言葉だ。誰がそんな事を聞いておれようか」。とつぶやき、66それ以来、多くの弟子達は去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。そこで主は12弟子に『あなた方も去ろうとするのか』といわれた。それに対して68・69ペテロは『主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命を持っているのはあなたです。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています』と答えました。
私たちキリスト者は、十字架刑の前夜、主イエス様のご遺言で述べられた聖餐を心に焼き付けています。十字架で流された血と、裂かれた肉が、私の罪の贖いであり、身代わりである事を信じ、かつ知り、その象徴としての聖餐の儀式に与るのです。
人はパンのみで生きるのではありません。肉体を持ってこの世で生活するからにはパン即ち物質生活は否定しません。しかし人間は霊的存在であるとともに、感情生活(心)と体を具有した存在です。霊的生活をする為には、主の肉と血を食し、霊に生きなければなりません。マタイ4章4節。40日40夜断食され、悪魔がこの石をパンに変えよと誘惑された時、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてあると悪魔を退けられました。
人間として完全に生きる為には、主を天からのパンとしていただくことです。聖餐式のたびごとにそのことを覚え感謝のうちに与っています。
祈りに祈ってもなかなか実現されない事があります。病気で苦しんでいる。失業して生活の糧が得られない。家族関係の複雑さ。その現実を受け入れるのが困難です。この状況には何か意味がある。神の御心であると分かっていても苦しく、また何故自分が孤独感に苛まれ心の痛みを感じるのか。これは人間の力では消し去ることができない事です。それを私たちは承知しなければなりません。その解決は神に祈る事です。自分の現在をありのまま主に申し上げすべてを打ち明ける事です。
10・11節にはハンナは心に深く悲しみ、主に祈って激しく泣いたと述べられます。彼女は周りの人の目など意識していません。神と1対1の関係で祈っています。自分に子供が与えられない事からおきるつらさ、当時の女性たちはそのことは神から見捨てられていると受け取っていたので、激情のあまり祈りが激しい嘆きとなったのです.激しいその感情がさった後、彼女は言葉にならない心の中での祈りとなり嘆きを神様に述べるより外なかったのです。
神殿の柱のかたわらに座していた祭司エリは、長く祈っている彼女の口に目を留めた。感情の波も収まりただ呟くように祈っているさまを見て、彼はハンナが酔っているのだと思って、14と咎めるように言った。彼女の答えは、15・16「・・・・ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。・・・・」エリはその言葉を了解して、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いをききとどけられるように」と答えた。彼女は「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」彼女は直ちに立ち上がり、さって食事をして、もはや悲しげではなかった。18節。彼女に何がおきたのでしょう。エリの「・・・願いが聞き届けられるように」の言葉を信じ確信して、直ちに立ち上がりました。
マルコ14章32〜42主イエス様は十字架刑の前夜、ゲッセマネの園で『/バ、父よ、あなたには、できない事はありません。どうか、この杯を私から取り除けてください。しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください』と三度も汗が血の滴りのように落ちるほど祈られた。そして42『・・・立て、さあ行こう・・・』祈られた後直ちに行動されました。祈った後何をなすべきでしょうか。祈るとはすべてを神様にお委ねする事ですが、私は何もしないで神様に解決を押し付け、神様にのみ行動してもらうのではありません。主は祈りの中で『父よ、あなたにはできない事はありません』といわれ直ちに行動に移られました。
私は祈りのときも困難に遭遇したときも、心を占めるみ言葉は、ピリピ4章13節『私を強くしてくださる方によって、なにごとでもすることができる』英訳『I can do all things who strengthens me』神様が強くしてくださっても、私が行動しなければ、神様の力は発揮できないのです。神様は愛する者たちと共に働いて、万事を益としてくださるのです。ローマ8章28節。
サムエルの母となったハンナ、イエス様の母となったマリヤも、また多くの信仰の先輩方も神様を信頼して祈りました。そして示された事を直ちに実行しました。祈りが聞かれた証が数多くなされました。祈りが聞かれる秘訣は、み言葉を信じて神様と共に行動することです。祈りは神様の知恵、力、勇気などを求め、ありのまま隠すことなく自分を主に打ち明けるのです。ハンナは泣きながら心を絞って祈りました。祭司エリの言葉を信じて、直ちに立ち上がり神殿を出でて次の行動に移りました。
コリント教会のある人々は、創立者であるポウロの使徒職を疑い否定していて教会は混乱していました。そこで彼は使徒としての資格などを自己推薦したり、あなた方に誰かの推薦状が必要なのかと問いかけました。
彼はその中でもしも推薦状が必要であるとするならその内容は、あなた方自身です。推薦状は私たちの心に、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。通常の推薦状は人が書いたものに過ぎないが、それに対してポウロは私の推薦状は、キリストが墨ではなく生ける神の霊によって、人の心の板に、書き付けられた手紙です。それはすべての人に知られ、読まれています。(普通の推薦状は特定の人に当てられている)しかも砕け散るような石に書かれたものではなく、朽ちない人の心の板に書かれたものですといいます。
何が書かれているのでしょう。それはコリント教会の兄弟達です。牧師・伝道者にとってその的確性は、その人が導いたキリスト者の生活そのものです。福音を聞いた人が命が与えられ、まったく変えられたその姿です。それは彼の成果だとは言いません。神が私達に力を与え契約に仕える者とされたからです。文字は人を殺しますが、霊は人を生かします(後コリント3章6節)。
人に読まれている墨で石に書かれたものはいずれ消えてしまいますが、心の板に生ける神の霊にて書かれたそれはいつまでも残り人々に常に読まれています。キリスト者の存在そのもの生活自体が、キリストの手紙として読まれているのです。私たちが生ける神のみ言葉を信じ、そのように生きなければ、キリストは誤解されて受け取られてしまいます。私達キリスト者が証をするのはキリストに生きている事を示すことなのです。
思想とか哲学、神学をいかに素晴らしく語っても、それを行わなければ絵に描いた餅です。少しも腹の足しにはなりません。周りの人からクリスチャンのくせに、愛がないとか、聖書に書かれているような事をしていないとか、日曜日礼拝を守らないでいるなど批判される事があります。人々はキリスト者を通して教会を経験し、キリストの十字架を見ているのです。「私たちの推薦状はあなた方自身です。・・・・あなた方はキリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書き付けられた手紙です」3節。
私達の生活は、人々に知られ、キリストの手紙として読まれ、見られている事を自覚して聖書に生きる生活をしなければならないのです。救われ潔められるとキリスト者は何ものにも束縛されず自由になります。それでも神の御心に反した生活ができなくなった自分自身にきづいて驚かされます。
聖書の中で最長の一章です。ヘブル語の/ルファベット22文字を頭に置いた各8節からなる、日本語で言われるいろは歌です。高度な技巧を施した大作といわれています。本篇の主題は律法でして、讃美の中で主の律法への讃美と分類されています。
41〜43節はそしる者に打ち勝ちその者たちに答えることができるようにと祈るのです。137編をみると、あざ笑う者がお前たちを救えなかった神をたたえる讃美を歌ってみよ、シオンの歌即ちエルサレム(当時破壊されていた)で歌われていた主の賛美歌を余興として歌えと強要される悔しさを119篇はそしるものというのです。そして祈った事を信じ4節以下に進みます。
後半は主のおきてを守る決意と、それができるとの確信を歌っています。神の慈しみと救いに与って、いつでも、誰の前でもあなたの約束されたみ言葉を証しする事ができるキリスト者ばかりではありません。細々と証しらしきことができるだけです。自分の心の貧しさ弱さに負けて何とか信仰を維持している存在だといわれても致し方ない、しかしその事をはっきりと意識した者にこそ、神の慈しみ(ヘセッド、新約の/ガペー)と救いのみ業の素晴らしさが体験できるのです。
/ルファベットのヴァヴで各節が始まりますが、まず私に臨むように、私を訪れるように、来ますようにと祈ります。その祈りは、あなた(主)の慈しみと救いがくるようにと求めています。それが来ていないという自覚があるのです。祈り求める自分自身の心の貧弱さを強く知るのです。
あなたの約束されたみ言葉に従って、み言葉どおりに、私に慈しみと救いがくるようにと祈るのです。そうすれば私を辱め、そしるものに答える事ができます。私はあなたのみ言葉(約束)を信じて信頼しています。続けて約束が実行されるのはあなたのおきて(律法)にあるからこれを私の口から、その真理の言葉を、ことごとく除かないでくださいと願うのです。
祈り終わって彼の決意が44節で述べられます。あなたに求めたさとしによって、自由に生活する事ができます。(新約のキリスト者の自由)さとしを得たので自由に生活しても律法から逸脱する事はないというのです。
その確信を持って王の前でも証しする事ができるのです。私は愛するあなたの戒めに自分自身の喜びを持つので証しする事が恥ずかしいのではなく、戒めに自分の喜びを見出すからです。
48節で彼は主の戒めを喜び、両手を挙げて祈った結果主の慈しみと救いをいただき、愛する主の戒めを尊び、それに深く思いをいたし瞑想するのです。
119篇のいろは歌は、先に述べたように高度な技巧を施した大作ですので、深い思想的な深みは望みえませんが、信仰的に自己の弱さ貧しさを知った時、祈り求める者に神の慈しみと救いが来ることを教えています。
大祭司/ナニヤは、長老たちと、ペリクス総督にパウロを訴え出ました。彼は裁判をしたが。2年間ユダヤ人の歓心を買おうと思って監禁したままにしておきました。ポルキオ・フェストが交代して総督になりました。そこに/グリッパ王が敬意を表する為に、カイザリヤに来ました。そこで総督は王に25章25「彼(ポウロ)は死に当たる事は何もしていないが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出しました。しかし上訴すべき材料を得ようと思うがないので王よ取り調べよう」と語り、26章で/グリッパ王がパウロの弁明を聞くことになりました(26章1節)。
パウロは「私は厳格なパリサイ人として生活していました。熱心に神に仕えて、先祖に神が約束された希望のためにユダヤ人に訴えられています。以前はナザレ人イエスの名に逆らって、反対の行動をとり、迫害しました。ついに外国の町々にまで迫害の手を伸ばすに至りました。祭司長達から権限と委任を受けてダマスコに出かけました。権限は行動の法律的な根拠であり、委任とは彼が行おうとしているキリスト者に対する迫害です。
そのダマスコ途上の出来事を13節以下に語ります。彼はユダヤ人に訴えられた弁明に、自分の回心の体験を語り、「今まで神に対する熱心さも純真さも根底において間違っていた。大きな思い違いをしていた。」と言います。この出来事は真昼に起きたことです。
13節「私は天からの光を見ました。私と同行者一同は打ち倒されました。その時へブル語で『サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけだ(ひどい目に遭う)』とそれは復活の主イエスの呼びかけだったのです。
その彼に『私はあなたが迫害しているイエスである。さあ起き上がって、自分の足で立ちなさい。・・・・』迫害者サウロに対する神の召命の言葉です。今までは人からの権限と委任で行動していたサウロ、この瞬間から使徒パウロとして主の復活を証し、語る主の証人となったのです。人間に支持されて行動していたサウロが主に軸足を置いた使徒パウロと変えられたのです。人からの行動は人を苦しめたのですが、神からの行動は人を救うのです。
福音に奉仕し、福音を証しするとは礼拝することなのです。礼拝は誰からの命令とか許可を得てするものではありません。神の招きがあり、それに応答するそれが礼拝です。キリスト者は、神の前に自分の足で立って、責任ある一信仰者として礼拝を捧げるのです。人の権威や後ろ盾として行動する者は、奉仕や礼拝が重荷になります。神に在る者は奉仕も礼拝も喜びであり、感謝を表すものなのです。61年前の戦時中には礼拝を捧げたくともささげる事ができませんでした。再びあのような状況が起きないよう目を覚ましていましょう。
/ッシリ/帝国は8世紀頃にはパレスチナを支配した。主なる神は正義を確立するために不信仰の国を討つ国として/ッシリ/を使われた。しかし,高慢になった/ッシリ/は神のように誇った。
預言者イザヤは言う,道具が使用者の立場と逆転できるか、と立場を自覚しない立場を断罪した。22節「あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残り者だけ帰ってくる」。
神を義とする、という聖書の核心が力強く語られる。イザヤは主の前でも、民間でも、お手あげのような極限状態の時でも,神の義を指し続ける。
そのような実存的格闘の中で/ッシリ/を超えて働く神の力と慰めは生命の危険や弾圧,迫害に苦闘する指導者,キリスト者に,学びと、生きる力の糧としたい。
夏が来ると思い出すのは、60年前の40度の中、鉄砲を担いで走り回っていた頃の事です。青春の前期は死の崖っぷちに立たせられていました。そのことが私にとっては主イエス様との出会いを経験する機会でもありました。水はなくいつも飢えている人生のどん底の中で、日曜学校において、苦しいとき嬉しいときに、聖書を読みなさい、讃美しなさい、祈りなさいと聞いたことを思い出して聖書を読みました。ローマ8章28に目が釘付けになりました。この最悪がどのようにして善に変えられるのか祈りつつ聖書を読み続けました。ガラテヤ2章20,5章24によって、キリストと共に死に、キリストを信じる事でキリストと共に生きる事になったことを実感、信仰が与えられました。あのどん底の生活がなかったならば,信仰はもてなかったでしょうし、現在肉体的にも生きてはいなかったと思い感謝しています。
マルコはペテロのあなたはキリスト(救い主)という信仰告白の直後、主イエス様が31『・・・殺され、そして3日の後によみがえるべきことを』を弟子達にはっきりと教え始められました。よみがえるべきの「べき」はギリシャ語でデエイ英語でビフヴス、必要、当然としています。人の子の苦難と死、復活は必然的な神のご意志でありご計画である事の1回目の予告です。3回予告が述べられます。
長老、祭司長、律法学者はサンヒドリン(ユダヤ議会)を形成する社会を指導する立場の人たちです。イザヤ53章苦難の僕の姿が、議会の議員によって実行される事は神のご意志で、必ず当然のこととして起こることを弟子達にあからさまに教えられたのです。
その事を聞いたペテロは当時のユダヤ人が考えていたようにメシヤは神からの栄光の支配者であるから、苦難などを受け死ぬ方であってはならない、特にユダヤの指導者によって殺される事は許されてはならないとの立場から、主を脇きにお連れしていさめ始めたのです。
主はこのイエス様を案じるペテロの諌めにサタンの誘惑をお感じになり、弟子達を見ながら『サタンよ,引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている』とペテロを叱られた。他の弟子達もペテロと同じ思いであったのでしょう。主は弟子達を見ながら、叱られたのですから。イエス様を民衆と同じ考え方で見ると、イエス様はエリヤだとか、バプテスマのヨハネだとか、預言者の一人などとする23〜28.主のご使命は人間の考えを超えたところにあること、メシヤは栄光の主であると共に苦難の僕である事をペテロや弟子達に教えられたのです。
ガラテヤ2章19・20『私は神に対して生きる為に、律法に対して律法によって死んだのです。私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです』(共同訳)このみ言葉こそマルコが語る苦難の僕、栄光の主の十字架の働きを描くものです。ペテロはこの深い神様のご計画を考えずに、人間の愛情ゆえからの主に対しての戒めなのです。
愛を持って隣人に接し、それが人間的な愛情であるならば、時にはサタンの思いである事もあります。愛さえあればキリスト者だと安心してはならないのです。真実の愛/ガペーを主から頂かねばなりません。
/ブラハム、イサク、ヤコブの族長たちには、全能の神として現れなさったが(3節)、4百年後には、イスラエル民族といわれるほど、族長たちにご約束なされたように強大な存在になっていました。ヨセフの功績を忘れてしまったエジプト王は、彼たちの巨大さに恐れをなし苦役を強いました。2章23・24彼たちの苦役のうめきと叫びが神に届きました。その救出人として80年にわたって訓練されたモーセを召され派遣されるに当たって『わたしは主(ヤァウエー)である(6章2節)』と、族長たちに知らせなかったご自分を示されました。そして7節『あなた方を取って、わたしの民とし、わたしはあなた方の神となる』と述べられました。イスラエルは神の民、選民だと言われました。
この主は族長たちとの契約を思い出して、6節『わたしは主である。わたしはあなた方をエジプト人の労役の下から導き出し、奴隷の務めから救い、また・・・裁きをもってあなた方を贖う・・・』と言われますが、贖いによってエジプトよりの救出です。それは契約に基づいたものです。イスラエルの贖いは、/ブラハムたち族長との契約なのです。新約における主の贖いは、族長、モーセ、ダビデ契約を土台としてイエス・キリストが弟子達(新イスラエル)と結ばれた契約です。贖うとはヘブル語の“ガー/ル”失われたものを代価を払って買い戻す事です。
新約における贖いは、/ダムによって失われた神との関係が、イエス・キリストの十字架の贖いによって買い戻されたものです。この場合にも贖いには裁きが伴っている事は忘れてなりません。出エジプトの裁きは十の奇跡です。特に最後の裁きは過ぎ越しです。子羊の血を入り口の二本の柱と鴨居に塗る事で救われました。これは新約のキリストの血潮を指しています。新約の裁きはイエス様をキリスト(救い主)と信じない者が主の再臨のときに滅びに落とされる事です。
わたしは主であるとの宣言に挟まれて神の七つのご行為があります。1)連れ出す。2)救い出す。3)贖う。4)取って。5)神となる。6)連れて行く。7)与える。このようにして彼たちを自由にして、/ブラハムなど族長との約束の乳と蜜の流れる地を与えると手を上げて約束した事を実行するとモーセに言われました。
モーセが主の言葉をイスラエルに語って聞かせましたが、心の痛みと苦しい労役ゆえにその言葉に聞き従いませんでした(9節)。そのうえで主はモーセに命じられ『パロ王のところへ行き、イスラエルの人々を国から去らせよと話しなさい』と、モーセはその役を辞退しました(11節)。しかし主はモーセと/ロンに語られ、民の長老たちと共に王の下へと行かせられました。
選民のイスラエルにわたしはヤァウエーあると名のられた神は、族長たちには力あり恵みを与える神として顕現されたのですが、出エジプト以来イスラエルの民の神として彼たちを導き守られる事となりました。
私達は主イエス様の十字架の救いを信じて、神の民・新しいイスラエルとされた選民です。キリストの再臨のとき、まずキリストに贖われ救われ聖められたものが主の前にあり、古い契約の民イスラエルは後に続くのではないでしょうか。わたしはあなたの神、主であると宣言なさる方を信じ、従いましょう。
この出来事の物語は医師ルカの文学的手腕が遺憾なく発揮されています。同じ伝承がマルコ16章12イエス様は違った姿で二人にご自身をあらわされたと述べています。
ルカは「エマオに向かう二人の弟子が、エルサレムであった一切の出来事について語り合い論じ合っていると、イエス様ご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目が遮られていて、イエス様を認めることができなかった。弟子たちがエルサレムで起きた数日の出来事の解釈を、この見知らぬ人は聖書解釈によって次々と覆された。先に進まれようとする人を無理に引き止めて食卓につき、パンを裂かれるさまから主だと分かった瞬間、彼の姿が見えなくなった」と、今、目の前で展開されているように描き出しています。
マルコはイエス様は別の姿で現れたと栄光の復活の主を別人と見たと語ります。ルカは目が遮られていたクレオパ(クレオパトロス)と他の弟子は夢中でこの出来事を話し合い論じ合っていた故と述べます。クレオパたちが近づかれ一緒に歩かれる道中見破れなかったのは別の姿だったのではありません。目が遮られて真実を見ることができなかったのです。彼達はこの方こそユダヤをローマから救う方だと期待し、望みをかけていたが、十字架で死んでしまいました。それが三日たった今朝、婦人達にわたしたちは驚かされ、仲間の弟子達が墓に行って見るとあの方は見当たりませんでした。
見知らぬ旅人は『もの分かりの悪い、鈍い為に、預言者の言葉を信じられない者よ』といわれて、26『キリストは必ず、これらの苦難を受けて、栄光に入る筈ではなかったのか』と聖書全体にわたるメシヤ・キリストについて解き明かされました。彼達は主の十字架の死に失望して、復活の知らせも信じられんと論じ合っていたのです。そのことで目が遮られて、復活の主を見分けられなかったのです。
キリスト教の中心は十字架と復活にありますが、人間の知識・経験などではこれを信じ得ません。話し合い議論しても無理です。キリストご自身が語られるみ言葉・聖書全体に傾聴する事が必要です。「道で話しておられた時、また聖書を説明して下さった時、お互いの心が内に燃えたではないか」との経験が必要なのです。キリストのみ言葉の前に人間の考え議論は目を遮ってしまいます。理性を持って学問・真理の研究は必要ですがそれが主を見る目を遮る事も忘れてはなりません。
聖書に傾聴する事も大事ですが聖餐に与る恵みも忘れてはなりません。生きたキリストを味わう道なのです。30節一緒に夕食の席についた時、主はパンをとり、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてパンをお渡しになったとき二人の目が開き主だと分かりました。信仰を持って聖餐に与る者は、聖霊の助けによりキリストと一体になり、目が開かれ聖書を通し、聖霊の導きにより、神から愛が与えられ聖めにも与えられます。
29節彼達は無理に引き止めた。それでイエス様はクレオパの家に入られました。イエス様に出会う為には無理をしなければならないときもあります。主日礼拝も無理して守らねばなりません。忙しい時代ですので判断を誤ると目が遮られて真理を見損ない、人生に不満を感じ、恵みから落ちこぼれ感謝のない生活に陥ります。行きすぎようとなさる主を無理に引き止めてわが内に迎え入れなければなりません。そのとき心が内から燃えるような経験をなし、神の愛を宿す者となれます。
イスラエルの民は苦役に苦しみ叫んで祈りました(2章23〜25)。その声が神に届き、神は彼たちの父祖との契約を覚え、彼たちを顧み、御心に留められた。そこで水の中から引き出されパロ王の子として育てられ、教育訓練され、殺人者として荒野に逃亡したが、ミデヤンの祭司エテロのもとで羊飼いを40年せしめていたモーセを民の救出人として召されました。
その召しに戸惑うモーセに、民の救出を命じられました。そして3章12「『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである』モーセの『遣わせられたあなたの名を聞かれたら何と答えましょう』の問いかけに『わたしは有って有る者』『わたしは有るという方が、わたしをあなた方に遣わされました』と」
それでも彼は4章1に、しかし、彼らはわたしを信ぜず。主はあなたに現れなかったと聞き従わないでしょう。神は答え『あなたの手にあるものは何か』そのありふれた杖を地に投げる事を命じられそのようにしました。それは蛇になりました。またその尾を取りなさいと言われたので尾を取ると元の杖になりました。神は4百年の間、民に現れておられないので神のしるしが必要であったのです。それをご承知の主、またモーセはその不安を感じていたのです。
何の変哲もない杖を使っての第一のしるしです。蛇は/ダムを惑わし罪を犯させたサタンの代理です。イスラエルを苦しめる悪を示す者を支配し、モーセが神の使命を受けているだけでなく、サタンのような力を持つエジプトに勝つ力が与えられている事を示すものでもあります。
第二のしるしは懐に手を入れた手を出してみると、重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていました。再び懐に手を入れて出してみると元のよう肌になっていました。モーセの手はイスラエルの民を表し、懐は民を助けるところ、最初は飢饉から救ったエジプト。次は乳と蜜の流れるカナンの地を意味します。重い皮膚病は、イスラエルの状態を示します。しかし神はこの状態を癒すことを示されたのです。奴隷の苦役からの救出です。
第三のしるしは、ナイル川から汲んできた水を乾いた地に注ぐと血になったことです。ナイルはエジプトにとって繁栄の源です。人々の命を支えるものであるが、これも神の手の内にあることを示すのです。
それでもモーセは口が重く、舌も重いと辞退するのです。神はあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教え、雄弁なあなたの兄レビ人/ロンが居るではないかといわれました。12節『さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたの語るべきことを教えよう』(共同訳)と、同時に主は、27節『さあ、荒野へ言ってモーセに会いなさい』と/ロンに命じられました。モーセは/ロンに出会い、遣わされた主の言葉と与えられたしるしすべてを/ロンに告げました。モーセと/ロンは、民の長老たちを全員集め主の言葉をことごとく語り、しるしを見せたので、民は信じました。モーセの生涯を見るとき神様の計り知れないご計画に驚きを禁じ得ません。
わたしは60年前死より他には道がないと思った時、もし生きて帰りえたら一生献身して主にお仕えしますと誓ったのですが、いざ生きて帰ってくると安易な道を求め、神への献身から逃げ回っていました。結核で一年療養所に入る結果となり、改めて献身する事になりました。今思います。私は神様に愛されていたのだと。またそれまでの戦争経験、教師としての働きなどすべてが奉仕に生かされていることを知り、ご摂理の不思議さに圧倒されています。そしてモーセの経験の一部を味わっています。
キリスト者が維持し深め、キリストの体・教会の共同体の一員となるには、4つの事を守る必要があります。主日礼拝を守る事・聖書を学ぶ事・祈る事・献身の印として献金する事です。これは正しい事ですが、どのようなやり方でもよいというわけでもありません。
17章においては厳しい主の日の裁きが述べられ、18章8節までは正しい神の裁きが語られます。そしてその時、義とされる者はどのような人であるかを示されます。
エルサレムの神殿には主イエス様の話を聞く二種類の人々がいました。言葉尻を捕らえて主を陥しいれようと企む祭司長や学者たちと、熱心にイエス様の言葉に傾聴する民衆です(ルカ20章20。19章48)。
また神殿では二種類の人が祈っています。一人は18章11節『神よ、私は他の人たちのような貪欲な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもない事を感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』と祈るパリサイ人の傲慢な祈りと、胸を打ちながら(自分の喪のしるしのように)目を天に(神のほう)向けようともしないで、『罪人の私をお赦しください』と余分なことを一言もいえない取税人です。
21章1〜4。その神殿の賽銭箱に二種類の献げものがあります。金持ちたちが有り余る中からこれ見よがしに多くの献金を投げ入れています。一方レプタふたつをそっと差し入れる貧しいやもめのささげものです。金持ちは有り余る中からささげたがあの婦人は、乏しい中から、持っている生活費全部を入れた。誰よりも多く入れたのだと主は言われました。
主日礼拝を遵守する、み言葉を聞く、祈る、献げる、必ずしも同じでない事を主は指摘なさいます。信仰者は主に喜んでいただけるような行為をする。それは自分の義を見せようとする事ではありません。主の十字架は私の罪を赦さんがための愛のみ業あった事を信じ自身の罪を告白する事です。
パリサイ人は聖書が語る律法を真剣に守る事を努めた人々で決して悪人ではありません。貪欲でもありません。律法を守り、道徳的にも非難される事もなく、週に二度も断食し什一献金をなし、神殿で祈る。賞賛すべき宗教者です。それでも神に義とされたのは取税人であって真面目に律法を守ったパリサイ人ではなかったのです。
何故でしょう。取税人は神の前に罪人の頭である自分の胸を打つほどの懺悔をして、罪の赦しは神の恵みに頼る事しかないと告白したからです。パリサイ人は自己満足で、自分を褒め喜んで帰っていったのです。私たちは自己満足の信仰生活でなしに主に委ねたキリスト者にならねばなりません。形式的な信仰生活はやめましょう。
(16〜22節)パンは人を支えるものとして杖と呼ばれています。主は飢饉によって人を支えるそのパンの杖を砕かれました。神は彼たちの前に一人の人をエジプトに遣わせられました。それは兄たちが奴隷に売り渡したヨセフでした。ヨセフは導きにより王宮の頭に取り立てられ財産のすべてを管理させられました。彼は大臣たちを思いのままに戒め長老たちに知恵を授けました。イスラエルは飢饉を避けてエジプトに下りヤコブはハムの地に宿りました。神の恵みはイスラエルの繁栄でしたが、やがて奴隷として苦役を強いられました。主はモーセと/ロンを遣わして多くの奇跡をなさしめ、出エジプトの恵みを与えられました(26節以下)。
39節以下に荒野における神の恵みが述べられます。昼の激しい暑さを雲を広げて覆いとし、夜は火の柱が照らし暖め、雲の柱、火の柱が、神の臨在のしるしであり、彼たちを導き守られました。
彼たちが肉を求めたとき、風に運ばれて鶉(うずら)が陣営にもたらされ、天からのパン(糧、マナ)をもって満足させられました。パンという言葉は4百年前ザビエルらによって紹介されポルトガル語が現在に至っています。私たちは主の祈りに、きょうの糧を与えたまえと祈りますが、4百年前のキリシタンはきょうのパンをと祈ったそうです。
(ヨハネ6章26節)子供の持っていた大麦のパン5つと、さかな2ひきとで5千人ほどの男を満腹させられた主は、湖の向う岸に渡られて弟子たちに言われました。32『モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである』51『わたしは、天から降って来た命のパンである。あなた方の先祖は荒野でマナ(パン)を食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降って来た生きたパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来たパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしの与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉の事である』と語られました。
(出エジプト記16章)エジプトを出てまもなく、民はつぶやいて、『われわれはエジプトの地で、肉のなべの傍らに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいればよかった。・・・・』と言ったとき、鶉を与えマナを降らせて彼らを養われたが彼らは死にましだ。けれども、生きた主のパンを食するものは永遠の命を得る事ができるのだと主は語られます。十字架にかけられる前夜、パンを割きこれはわたしの肉です。ぶどう酒を分かち、お互いに飲み干したとき、これはわたしの血ですと、愛餐の席を聖餐式に変えられました。わたしたちは聖餐に預かるとき、このことを強く信仰を持って受け取るべきです。
主イエス様はまことの生けるパンとして、ベツレヘムに人間の姿を持っておいでになりました。ヘブル語でパンはレヘムといいます。生きた天よりのほんとのパン(レヘム)が、ベツレヘム(パンの家)に生まれなさったのです。わたしはベツレヘムと聞くときこのようなことなどを思い出して永遠の命に預かる事を感謝し、特に聖餐式に臨むときは、裂かれた主の肉と流された血の恵みをいただけることをまた深く感謝します。▲
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(共同訳)イスラエルの民は出エジプトをして、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼たちに先立って進まれ、彼たちを守り導かれました。それにもかかわらず神のみ言葉に従わず、その屍を荒野にさらし安息を得る事ができなかったのです。神は創造の業を六日で終え七日目は安息に入られました。しかし不柔順な者は安息日おも守る事ができないようにされました。詩篇95篇「きょう、み声を聞いたなら、あなた方の心を、かたくなにしてはいけない」彼たちに、否私たちに対する警告です。
出エジプトの荒野の生活で神の恵みが示され、モーセを通して福音(十戒)を与えこれを守って救われよと語られました。しかし彼達は不従順の故に神の準備された安息に入る事ができませんでした。青年に達していなかった者は、ヨシュ/(ギリシャ語のイエス)に率いられてヨルダン川を渡り、約束の乳と蜜の流れるカナンの地で安息を得ました。10・11節不従順の父たちの悪例に倣って同じように堕落する者が出るかもしれませんから、きょう、いま、あなたたちが神のみ声を聞くなら、心をかたくなにしてはなりません(頑固に)。
人間は神に創造された存在です。それなのに、人は自分で独立し、好きなように行動し、自分の考えなどを自然や、人に押し付けます。私たちの頭脳・精神・心の中は誰にも分かりません。その意味で人は自分に対して王であり、神であり、創造者でもあると言えます。自分の事は自分が一番知っているし、自分のうちにあるものは自分しか知りえないと自負しています。もっとも邪悪な心を持ち、考えても、誰にも気づかれないと涼しい顔で生活しています。心の中にのみあるだけで行動に移していないから私は正しいとしています。
しかし、理性的に正しとしない魂が、肉体の中でうめいています。それが認罪、罪を認めようと心の中で働き出します。その時です。12節のみ言葉が迫ってくるのです。十字架の言葉が、生きて、神の力を発揮するのです。神のみ言葉は諸刃の剣よりも鋭く、一見正しそうな生活をしている自分のうちに、誰にも見せたくない見られたくない暗部を、神のみ言葉の前にさらけ出され、その鋭い剣は心と思いの中にあるものを、刺し通し切り分け、見分ける事ができるようになるのです。
この恥ずべき人間のところにイエス様が神の言葉としてこられました。あらゆる隠された部分まで明らかにされ、私のすべてを知られる神の力に私のすべてを明け渡し十字架に受け取っていただくのです。ヨシュ/はカナンの地に導いて安息を与えたが、我らの主イエス様は救いの道から永遠の命へと導かれます。滅びいく者には愚かな言葉が、救われるわれわれには神の力として働くのです(コリント前1章18節)。
救われたものに対して15・16節「この大祭司(主イエス様)は、私達の弱さを思いやる事のできない方ではありません。罪は犯さなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(共同訳)のみ言葉が与えられています。
私達のホーリネス教団は、聖書を基盤とした四重の福音を教義としています。新生・神癒・聖化・再臨です。その中で誤解されやすく、注意しないとゆがんだ信仰、異端的なものに陥ります。それは神癒です。旧約の預言から新約の主の癒しを見る時、正しい神癒を知りそのみ業に感謝せざるを得ません。
この53章は約千年前に主イエス様のご生涯を預言(神様から預かった言葉)しています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼が担ったのは、私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに。私達は思っていた。神の手にかかり、打たれたから苦しんでいるのだ、と。」イエス様の癒しの業は、この預言の通りであったと述べ、続けて5節「彼が刺し貫かれ(十字架上でわき腹をやりで刺された。)打ち砕かれたのは・・・・・彼の受けた傷によって、私達は癒された」と主イエス様の十字架の救いは、体の癒しおも含めての預言が実現したのです。
またイザヤは35章5・6「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口が利けなかった人が喜び歌う。」と言っています。この詩は歓喜に満ちていますが、直接的にはバビロン捕囚の救出に神の介入を述べています。自分達では、どうしようもない時の解放者としての、神様の救いを具体的に示し、癒された大地のさまも描かれています。これは神様の約束の慰めの言葉であり、彼たちの信仰の表現でもありました。これによって捕囚による傷は癒され、悲しみ(トラウマ)も取り去られました。
彼たちの希望は、主イエス様により現実となり、それぞれの体験となりました。洗礼者(バプテスマ)のヨハネは獄中より弟子に訊ねさせました。主は『行って、見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私に躓かない人は幸いである。』とお答えになられました。イザヤの預言が主にあって成就したのです(マタイ11章)。
主が癒しの手を伸べられたのは、愛ゆえです。また主の愛による癒しを信じる信仰によって奇跡の業が行われたのです。ご自身の力、業を見せたり、自己宣伝に使おうなど毛頭お考えではありません。癒しの業をなさってもそれを人に告げることを禁じておられましたが、見ていた人々が口伝えに広ろげたようです。この点一部の人々が聖霊に満たされると癒しの賜物を頂き、異言(感情の高揚によって意味の分からない言葉を語る)を話す等と伝道に用いています。確かに御霊によって分かる言葉で預言を語り、癒しの賜物をいただいている人はいます。聖霊の賜物は愛に根ざしています。それを人集めや伝道の手段として使用する事は主がお許しになりません。
マタイ8章5節以下で主は多くの病人をお癒やしになっておられます。百人隊長には、あなたの信じた通りになるようにといわれました。そのとき彼の信じるように僕は癒された。これらはすべて預言の成就だったのです。
神様は医学の知恵を人類に与え、その上神癒おも、信じるものに与えてくださるのです。主は十字架で血を流し、その痛みと傷で、私達の病、痛み、すべての悩みを負われた事を信じましょう。
ピリポ・カイザリヤはBC20年に、ヘロデ大王が皇帝/ウグストよりこの地を拝領して、皇帝の像を安置した大理石の神殿を建てました。彼の息子ピリポはこの町を拡張して、ピリポ・カイザリヤと改名しました。この自然崇拝・人間崇拝の場所においてイエス様と弟子達の会話が展開されています。異教の神々と皇帝礼拝に対して、人の子を(イエス様)を誰と人々は言っているかとの問いから、ご自身をメシ/(キリスト・油注がれた者・救い主)として弟子達にお示しになられました。
当時の人々は主を4人の人物だろうとしました。第一は洗礼者ヨハネだろうと。しかし彼は神の国を受け入れる準備をさせる務めでした。次はエリヤ、彼は預言者の中で最大の人物でしたが。旧約最後の預言者マラキはメシ/来臨の先駆者としてエリヤをさしています。また預言者エレミヤはユダヤの危機時に現れる救護者と考えられていた。あるいは預言者の一人だと、人々はそれぞれにこのように言っていると弟子達は主に答えています。
『それでは、あなた方は私を何者と言うのか』と主は問われました。シモン・ペテロが「あなたはメシ/(キリスト)、生ける神の子です」と信仰告白として答えました。すると、主はお答えになった。『バルヨナ(漁夫ヨナの子)・シモンあなたは幸いだ。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉(バルヨナのような人間)ではなく、天にいます私の父なのだ。18節あなたはペテロ(ペトゥロス割れた岩)私はこの岩(ペトゥラ岩盤)の上に私の教会を建てる(共同訳)』もしペテロの割れた細かい岩の上に建てると言われたのであれば、あなたの上にと言われたはずです。主がペテロの上に教会を建てると言われたのだから、ペテロの首位権は彼の後継者であるローマ教皇にあると解釈していますが、主は明らかにペテロの信仰告白を指しておられます。弟子達は誰がわれわれのうちで一番偉いかなど議論している点でも分かります。19節天国の鍵(クレイダス複数)を授ける。と言われた。ペテロ一人に授けるのであればこの鍵(エークレイス単数)のはずです。この鍵は、使徒達、使徒団、主に従うすべての人に与えられたものです。その鍵の機能は、つなぐは禁止する。解く事は許可する。天国に入る事を禁じ、あるいは入る事を許す権限です。
ペンテコステにおいて、弟子達は多くの他国の人々にも主の十字架の救いと死に打ち勝たられてよみがえりの証をしました。それによりて天国の扉は開かれ(鍵の機能)伝えられた福音を受け入れ信じたすべての人に神の国が開かれ、信じないものの前にはその扉が閉ざされるのです。この地上でつながれる事は、神の国で、この地上で解く事も神の国に通用すると主は言われるのです。
私たちの福音の宣教、即ち主イエス様は神の子、神のキリストですと信仰告白するもの、その証をなす何方にでも主は天国の鍵を与えてくださるのです(信徒皆祭司)主はキリスト、生ける神の子ですとの信仰告白の岩盤ペトゥラの上に建てると言われた教会が、(主が私の教会)と言われた教会が、この元住吉教会です。この元住吉教会の上にキチンと足をおろした信仰生活をしましょう。
ノ/の洪水後(6章 ̄9章)人類の文明文化が発展し、今まで天日で乾かしていたレンガを焼き固め、石の代わりとし、しっくいの代わりに/スファルトを得て、頑丈な高い建物を建てられるようになりました。それで人間たちは傲慢にも天に届く塔と町を建て始めました。それは全地に(その当時知られていた範囲)散るのを免れようとしたためです。天まで届く塔を建てることにおいて神のようなものとして名を天下に知らしめようとしました。神に反する文明の拡大が、偶像へと向かう恐れがありました。神はそれを阻止するために彼たちの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにとされた。結果としてバベルの塔は建築中止になり、彼達は全地に散らされました。
時代が下って12使徒達が主のご約束を信じてエルサレムで宿っていた二階の部屋で心を一つにして祈っていた時、約束された聖霊が彼たちの上に降りました。すると彼達は多くの他国の言葉(異言)で主イエス様の十字架の死、死よりの甦りと、その主を神はキリスト(救い主)としてお立てになられたことを、証しました。それを聞いて悔い改めた三千人の人々が日々心を一つにして、信徒の交わりをしました。ここにキリストの体である教会が誕生したのです。使徒2章37以下。
バベルにおいて言葉が乱されるまでは誰とでも話ができて意思疎通ができたのですが、突然特定の人たちとのみしか話ができなくなって、工事は中断され、それぞれの言葉の集団が散っていくこととなりました。そしてその地は混乱(バベル)と名づけられました。
バベルによってそれまでより拡大された地方へと散らされた民が、イエス様の弟子達に対する約束の成就の聖霊降臨によって、このばらばらにされた、ユダヤ人、デ/スポラ(散らされたユダヤ人)異邦人が一つになりました。弟子達が聖霊に満たされ導かれて各国語で福音が語られ、聞いた人々は悔い改め、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受け、罪を赦していただきました。かくしてペンテコステ(50日祭)の日に三千人ほどの人が仲間に加わり一つの体なる教会が誕生しました。
このようにしてバベルによって意思が通じなくなって、散らされた人々がイエスは主でありキリストと告白する事によって意思が統一され、一つの新しいイスラエルの民(キリスト者の集いエクレシ/)となったのです。
私達は聖霊に満たされ、聖霊の実を(ガラテヤ5章22・23)を結び、愛の共同体をこの地に作らねばなりません。そのため共通の聖霊による言葉によって統一されなければなりません。異端分派によって教会が乱されてはなりません。感情に支配され意味の分からない異言を語るのではなく、理性に訴える意味の通じる預言(神の言葉)福音を語り証しなければならないのです。教会の歴史を見ますと異端分派との戦いの中から正当な信仰を守り伝えられてきたことが分かります。
主イエス様は、十字架にかけられる前夜ご遺言を弟子たちに語られました。(ヨハネ14章〜16章)その中で聖霊をお遣わしになることを約束なさいました。復活後40日間弟子達にお会いになり、父のもとにお帰りになるとき『あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして・・・また、地の果てに至るまで、私の証人になる』使徒1章8。と話されました。弟子達は約束を信じ、エルサレムの二階の部屋で祈っていると聖霊が彼らの上に降りました。人々は激しい風の吹くような音に集まってきました。すると御霊が語らせるままにいろいろの国の言葉で語りだしました。彼らは地元のユダヤ人と、ディ/スポラ(散らされたユダヤ人)の信仰深い人々たちが祭りのために天下のあらゆる国から来ていたのです。彼達はガリラヤ育ちの無学な使徒達が、自分達の定住している国言葉で語ることに驚き怪しみましだ。
聖霊に満たされると異言を語ると言う派があります。聖書は異言に2種類あることを述べています。ペンテコステの日に弟子たちが多くの国言葉で、聖霊の賜物として理解できる言葉で語った異言と、無我の境地で感情的に語るもので人に理解されない場合が多いです。理性活動を伴っていないため、自己陶酔に陥る危険性があった。最近この思想が教会内に入ってくることに注意してください。
酔っているなどと言うあざけりの中ペテロは11弟子たちとともに立ち上り、声を張り上げて、初代教会最初の説教を始めました。彼は朝の9時(敬虔なユダヤ人はこの祈りの前には食事をしない)ですから酔っているのではありませんと前置きをしてから、これこそ偶然な出来事ではなく預言者ヨエルが2章28 ̄32より聖霊が注がれるとき息子・娘は預言をし、男女の僕たちも預言(神の言葉)を語り、主の名を呼ぶものは皆救われるのです。今私たちは御霊の注ぎによって神の恵みを語り主の証人なのだと述べます。
ペテロはナザレ人イエスこそ神がお遣わしなつたお方ですと、証を始めます。あなた方も知っているように、神はこのイエスを通して、数々の力ある業と奇跡によって証明なさいました。23・24神のお定めになったご計画によりあらかじめご存知の上で、あなた方に引き渡されたのですが・・・・十字架につけて殺してしまったのです。このイエスを神は甦らせたのです。そして詩篇16篇・89篇で主は死に支配されるようなお方ではないと証しします。次にダビデの預言で誓われたことを述べます。主が神の右に座する王座を示します(サムエル後7章)私達弟子はこのイエスの甦ったことの証人なのです。ダビデ自身が主のすべてに対する勝利を詩篇110篇を通して語ったのです。ペテロの説教の締めくくりは36節です。「だから、イスラエルの全家はしかと知っておくが良い。あなた方が十字架につけたイエスを、神は、主またメシヤとなさったのです。これを聞いている民たちに罪の悔い改めを勧める言葉です。ペテロは人々に良く知られているヨエル・ダビデの預言を引用し、彼らの愛唱する詩篇を語りました。ペテロは確かに御霊の語らせるように語ったことが分かります。
旧約聖書を注意深く読むと、イエスさまこそメシヤ・キリストであることを指し示していることに気がつきます。旧約聖書から新約を、新約聖書から旧約を見ると聖書の語るイエス様こそ神よりのキリストであることが良く分かります。
主イエス様はこの地上を去られるにあたって、弟子達のことを心配なさって、14章〜16章のご遺言を残されました。15章において弟子達が孤立せずに教会を形作るようにと、ぶどうの木の比喩を語られました。イエス様はまことのぶどうの木であり父は農夫です。そして弟子達はぶどうの枝であると述べられます。
沃土は農夫に十分に管理され、純良のぶどうの木が植えられ、その無駄な枝は剪定によって切り落とされていました。肥料も必要分が施され、日当たりも申し分のない状態です。この純良なぶどうの木は主イエス様で肥料(聖霊)が父によって施され、必要な太陽は神の愛です。弟子たちがイエス様に枝として結びついておれば、聖霊の栄養を十分に頂き、豊かに実を結ぶことができるのです。
弟子達にとって大事なことはぶどうの木につながって実を結ぶことです。実を結ばない枝は父が取り除かれその枯れた枝は集められ焼かれてしまうのです。枝が木につながっていなければ自分で実を結ぶことはできません。弟子達はキリストの体である教会に結びつき、主のみ言葉によってすでに綺麗に(清くなる)なっている実を結ぶのです。
続けて主は(9・10節)父が御子を愛されたように、私もあなた方を愛してきました。その愛のうちにとどまりなさい。私が、父の掟を守りその愛にとどまっているように、あなた方も、私の掟を守るなら私の愛にとどまっていることになります。主の戒めは12節です。私があなた方を愛したように、あなた方もお互いに愛し合いなさい。人が友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。私の命じることを行うならば、私の友です。私はあなた方を友と呼びます(15節)。実を結ばせるためにあなた方を選びました。そしてその実がいつまでも残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのです。互いに愛し合いなさい。これが私の命令であると言われました。(共同訳)
弟子達の集まりは、単なる個人の集まりではなく、神の新しいイスラエルとしての教会を形成する一員です。旧約時代イスラエルは神のぶどう畑に譬えられました。善良なるぶどうの木は、エジプトから携え出され、乳と蜜の流れる沃土に植えられたが、神に反逆し偶像に走り、腐った実を結ぶにいたりました。神が農夫(預言者)を遣わして世話をさせようとなさったが、殺してしまいました。腐った実を結ぶままでした。
そこで神の一人子をお遣わしになられた。その主イエス様は、み国の福音をのべ伝え、聖書を教えられ、病気、あらゆるわずらいをお癒しになって(マタイ4章23)愛をお示しになりました。そして弟子たちを訓練なさって、お互い愛し合って共同体を作るよう促されました。弟子達は愛の主に結びついていました。主の約束の聖霊降臨によってまことの主にある共同体、教会が誕生したのです。
私達はまことのぶどうの木・イエス様につながる枝として、豊かに聖霊の実(ガラテヤ5章22・23)を結びましょう。私は良い実を結ぶため兄弟姉妹の交わりを大切にし、主の愛のみ手にすべてをゆだねられるよう祈りつつ生活します。
この章には神と人・夫婦・人と人・親子の関係など学ばされます。特に祈るという事はどのような事であるかを深く考えさせられます。キルケゴールは祈るということは奇跡を信じることに踏み込むことだと述べています。この信仰はありそうもないことの中に神を信頼して踏み込むことなのです。ハンナのように自分の十字架を背負い、祈る度毎に主による奇跡を信じることができるのが、キリスト者の祈りです。
夫エルカナ(神が所有されたの意)二人の妻ペニンナ(豊かな髪の女、サンゴ)ハンナ(いつくしみ)です。旧約時代の産業(仕事)は神から与えられたものです。これを子孫に残すことは義務のように考えられていました。それで子供は神の祝福のしるしとしました。近東付近では一夫多妻は合法的でした。しかしそのために夫は家族関係に悩まされています。エルカナも同じです.毎日の生活の中で二人の妻の反目、特に祭日の宮もうでのときの犠牲を挟んでの二人の取り扱いに心悩ましています。やはり神は旧約時代にも一夫一妻を認めておられるようです。/ブラハムも年老いて、イシマエルとハガルを追放せざるを得なかった。ヤコブも4人の妻とその子供たちゆえの苦しみを味わっています。
ハンナに戻りましょう。彼女は心に悲しみ泣いて11と祈りました。自分自身を何回もハシタメ(召し使いの女、下女)をとへりくだり、男の子が与えられるならばその子を一生ナジル人(神に仕える者)とすると誓っています。その祈るとき自分が辱めを受けている事を一言も訴えません。夫に関しても、子供が与えられない十字架の苦しみを常に悩ませるペニンナについても、特に胎を閉ざされている神に恨み言も言っていません。12長く祈っていたので、唇が動くだけで声が聞こえていません。心の中で祈るのみではなく口に出して祈ることが大事です。
おそらく熱心に祈るうちに顔が赤く、体を揺らしていたのでしょう。祭司エリに酔いを醒ましなさいと言われるほどでした。彼女は15・16と答えている。エリの神が求める願いが聞き届けられるようにとの答えで18と安心して神を礼拝して帰った。
彼女の男の子が欲しいとの祈りが聞かれ、与えられたので、その子の名前をシェムーエール(神に聞き届けられた)と呼びました。
次の年、宮詣に行くこととなったが、22乳離れをしてから連れて行き、いつまでもそこにおらせますと同行を断りました。彼女は子供を宿す前に神に誓ったことを実行すると言うのです。当時神に仕えるレビ人は25才 ̄50才まで神に仕えたが、時には休職することが許されていた。ところがハンナは乳離れしたら一生神に捧げるというのです。しかもようやく与えられた一人子をです。エルカナは23と警告している。日がたてばたつほど別離はつらいです。時と愛情の関係は難しいです。
しかし神の時が来たとき彼女はためらいませんでした。ハンナの心は2章の祈りに表れています。この祈りは讃美と感謝に満ちています。またハンナはサムエルを神に捧げたのみではなく彼のためにできるだけのことはしています。2章18 ̄20。
祈るときには具体的に、声にして祈るのです。黙祷は心の中のみではなく声を出さない無声の祈りもあることを忘れてはなりません。電車の中などでも祈れるのです。
ハンナの祈りのようなものは多く見ることができます。教会の歴史の中で大きな働きをした/ウガスチヌスの母モニカの祈りは、彼がグノーシス派の一派マニ教に入り不道徳な生活をしていたとき、母が毎日教会で涙を流して祈り続けた。その母の祈りが聞かれ、孫ともどもに救われた。祈りの涙の子は救われます。
祈るときハンナのこと、モニカのことなどを通して祈りは神を信頼して奇跡を信じることを忘れてはなりません。
イエスを熱心に求める二つのグループがありました。一つは救い主として、主を求める者達、他の一つは、祭司長や民の長老達です。特に後者は、民衆に評判の良い主を彼たちの前で貶めようと何回も試みたが、いずれも失敗したので、民衆を恐れて弟子たちだけがいるところで捕らえようともくろみ、弟子達の会計係りのイスカリオテのユダに働きかけたのでしょう。彼は14・15節銀貨30枚でその場所、主を示すことを約束その機会を覗っていました。
イスカリオテはカリオテの人の意味です。12人の弟子達はこの北部出身のユダを除いて皆ガリラヤ出身です。なんとなく彼は弟子達の中で疎外感を感じていたのではないかと思います。しかし、主は彼の才能を認められ会計を任すほど彼を信用なさっていたのです。ヨハネは彼にサタンが入ったと言います。マリヤが香油を主の頭に注いだ時、弟子達は憤って、香油を3百ゲナリ以上で売って貧しい人たちに施すことができたのだと言ってこの女を厳しく咎めたと他の福音書の記者は言いますが、ヨハネはこの言葉はユダが言ったと述べ財布の中身をごまかしていた盗人と断じています(12章)。ユダはこのイエスこそユダヤをローマ占領軍から救い出すお方だと信じていたがその期待はずれで失望した末の行動であったのでしょう。しかし、弟子達は主の十字架の前に彼を裏切り者と憤りを持って言っているのです。
つい最近見つかったと言われる「ユダの福音書」は、グノーシス派の影響下に書かれたと言われ聖書の内容を確定する時には新約外典にも採用されていません。グノーシス派は聖書を合理的に解釈しようとして、人間として生まれたイエスがバプテスマを受けられたとき聖霊が降って神の子が宿られました。その人間イエスが十字架で死に甦って神の子に戻ったと言い初代教会はこの分派活動に警戒すべきとポウロもヨハネも警告しています。主が早く人間生活から神の子に戻るために、ユダはその主の依頼を受けての行動であると言うのです。ユダの福音書が解読されると、グノーシス派とその福音書が同じ内容であろうと思います。
マタイによると、兵卒や下役達はユダに導かれて、いつもの祈りの場、ゲッセマネの園に松明をかざし、剣とこん棒とを持ってきました。打ち合わせ通り、主に接吻をしました。原語では何回も何回も接吻したとなっています。実に念の入ったやり方です。主は『友よ、ユダよ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか』とまだ大丈夫だよと最後の警告をなさいました。その前の最後の晩餐の席でも『この中に私を裏切ろうとしている者がいる』と主が言われると、弟子達は次々と「主よ、まさか、私ではないでしょう」と言い出しました。ユダもそれを真似て「先生、まさか、私ではないでしょう」と言いました。主は答えて『シュ・エイバスあなた自身が言った』と答えられ他の弟子達に知られないように警告なさいました。また食事中に『しようとしていることを、今すぐにするがよい』と言われ彼だけに分かる忠告をなさった。弟子達は29・・・・・貧しい者に施しをなさせようとしたと思うほどでした。
ユダ達は、光の主であり平和の君を求め探すのに、たいまつの明かりを持ち出し武器まで携えてきました。真理であり、光である主を、科学の光や合理的解釈をしようとて哲学・学問などの武器を持ち出してキリストを見つけようとしても無駄に終わります。
キリストを自分の救いとする(捕らえようとする)には『私はそれである』と進み出られる主の光の前に出て、自分のほんとの姿を見、悔い改め主に従うことがキリストを見出す最善の道です。
ヨブ記を読んだ時、神が認める正しくかつ全きヨブを、サタンをして苦しめなさったのが不思議でした。C・G・ユング「ヨブの答え」の中に「神は我々を善と悪とで満たします。そうでなければ恐れられることはないでしょう。神(神のお一人子)が人間になろうとするのだから、神の二律背反の調和は人間のうちで実現するに違いない」と書かれているのを読んで、その疑問が解けました。神は善の世界だけではなく悪の世界おもご支配なさっておられるのです。
ヨブを襲った災難を聞き、彼と親しい三人の友人が、見舞い慰めようと相談してそれぞれの国からやってきた。しかしヨブのあまりに醜い、激しい苦痛を見ると、七日七晩、話しかけることすらできず、ヨブと共に地面に座っていました。口を開いて彼達はヨブが神に罪を犯したので災いを受けているのだからそれを認めよと諭します。それに対して、ヨブは自分は正しいと主張する問答の中で19章25「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれます。・・・・私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう」と言っています。
途中から加わったエリフの弁論、彼たち4人の問答を聞いておられた神が嵐の中からヨブに答えて仰せになられた38章 ̄41章.そのお言葉を聴いてヨブは主に答えました。42章2「あなたにはできないことはなく、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」神の話された真意を、私は知りましたと神の全知全能を告白しました。神にはできないことは何一つないと理解してはいたが、悪の世界おも支配なさっておられること、御心を妨げることは何者にもできない事どもを悟ったと告白するのです。
3節では38章2神の言葉を繰り返して、そのとおりです、私には理解できず、私の知識を超えた驚くべき神のみ業をあげつらっていました。友人達との論争で彼達には神に対する真の知識がないと攻撃したけれども、神様から親しく諭されて、初めて神の測りがたいことなども知らず語っていた。正しいと信じることを語ったつもりであったが神の経綸御業を覆い隠すようなことをしてしまったと、恐縮するのです。
4節は3節と違った方向からの問いかけです.ヨブは二度神を見ると告白しています。肉の目で見ることではなく嵐の中からの声を聞くに対比されます。感覚を通して神を知るのではなく、自身の苦難また信仰生活を通し、友人達との問答などを通して、神について学ばされ、教えられ知恵知識を得たが、彼の困難は解決されなかったのですが。
嵐の中から語られる主のみ言葉によって、彼の苦しい体験の上に神の愛のみ手が置かれ、神にはできない事はないとの確信を持ったのです。
自分を退け、自分の立場、自分自身を否定して、塵灰の上に今座していますが、外面だけではなくそれは自身の内面をさしています。今までの生き方を悔い改める。自分自身を無にして心を変えると述べ、自分中心の生活を捨てて神の方向に向かうと神に答えるのです。
ルカ8章23『私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい』と主は言われました。イエス様について行く事、従う事、弟子になることはみな同じです。
まず主の弟子になろうとするならば、主イエス様と同じ道を歩まねばなりません。まず「自分を捨てること事」これを間違ってはなりません。日本人であることまで捨てるのではありません。私は日本文化の中で育った日本のキリスト者である事を誇りとしています。自分を捨てるとは、自分中心の生活を徹底的に捨て去って、私のうちに生きておられるイエス様を主とする事です。次に日々、自分の十字架を背負って進まねばなりません。当時は十字架につけられる者は、処刑場まで自分の十字架を背負って、行かなければなりませんでした。私自身も磔にされて殺されねばならない罪があります。不信仰から出たその罪を、私は日々負って進まねばならないのです。
私の罪の身代わりの主の十字架を負って、文字通り、実行せざるを得なかったクレネ人シモンがいました。ローマ兵に強制的に死刑囚の代わりとして十字架を背負わされたのです。頭に茨の冠をかぶせられ、体は鞭打たれ、頭からつま先まで血まみれでふらふらと歩くこの死刑囚を見物していただけなので、助けようなどの気持ちは毛頭ないのにと、不平不満に満ちてはいるが占領軍兵士に逆らえません。しかしイエス様の後を十字架を負って従っていくうちに、不平は収まり、強いて負わされたその十字架は自分の負うべきものであったのを、血だらけな主イエス様が負ってくださっていたことを知り、十字架をともに負う光栄に与っていることに気がついたのです。
シモンがその光栄を感じた瞬間から彼は変わりました。彼は自分の十字架を生涯背負って主に従うことを決心したのです。21節/レキサンデルとルポスとの父シモンとある。ルポスはローマ教会の中心人物となり、シモンの妻はパウロに母のように慕われ、彼自身も/ンテオケ教会の教師として奉仕しています(使徒13章1節)。
私自身救われたとき感激のあまり、戦争のさなかトンネル陣地の中で、もし生きて帰る事ができたのであれば、牧師になり、子供のため青年のために自分のこの信仰体験を伝えると献身を誓ったのですが、いざ生きて広島郊外の大竹に上陸してからはその決意も薄れかけました。結婚することとなり、これからは家族のため働くんだと、ホッとしたのはつかの間。母と妻が牧師になるんだと言っていたのだから、自分たちが協力するから神学校に行ったらどうかと、やんわりと強制されて、牧師になったのが真実な私の姿です。シモンの気持ちが私には痛いほど分かります。自分の信仰の弱さをよく承知していますので、ゼロから小さくとも本物のキリスト者の集まる教会を立てさせていただこうとこの元住吉の地で、主の十字架を背負って主の後に従ったシモンのようにと願いつつ、50年私自身の十字架を背負って従わせていただきました。そうして多くのまことのキリスト者が生み出されたことに驚嘆の目を見開いている現在です。
何方でも、礼拝が、奉仕が、献金などが重荷で十字架のように感じることが多々あるはずです。そのとき強制されて恥ずかしい死刑囚の十字架を無理に負わされたシモンを思い出してください。強制された十字架ゆえに、彼だけではなく、家族全体が恵みに与ったことを覚えてください。自分を捨て自分の十字架を背負って主の後をふらふらしたり躓いて転んだりしながらでも主に従っていけば主の恵みをいただけます.その証拠がこの私です。
イエス様の復活は、キリスト教信仰の中心であり基礎です。聖霊の生命の息吹とキリストのみ言葉にオリエンテーションしていただき復活の主にお会いしましょう。
復活については2千年の間、いろいろと議論されてきました。弟子達は主の幻を見たのだとか、主の弟子達に対する人格的影響が強力であったので、復活信仰が生じたなどと主の復活を合理化させようなどとの試みがなされてきました。しかし使徒行伝・パウロやほかの弟子たちの手紙は、主の復活の事実を中心としてキリスト信仰を述べています。
その復活も、聖書を精読したから、教会生活をしたり説教を聞いたからとて、簡単に信じられるものではありません。弟子達さえそれを聞き信じられず恐れさえ感じています。よみがえられた日曜日の早朝、香油を塗ろうと訪れた女性達は空虚の墓の中に立ち惑うていたその時、天使が「驚くことはない、十字架につけられた主を捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。・・・・・」と告げられましたが、恐れおののいて、逃げさりましたが、誰にもそれは告げませんでした。6・7・8節。主にお会いしたマグダラのマリヤが、そのことを弟子達に話したが、彼たちは信じませんでした。11節。二人の弟子がエマオ途上での主との出会いを話しても信じませんでした。12節。現代の人々が信じ得ないのも無理からぬことです。
福音書は、復活の出来事をばらばらに不統一に述べています。この出来事がうそであり後ででっち上げたのであれば、統一されたおとぎ話風に仕上げられているはずです。弟子達の書いた福音書が不統一なのはそれだけ彼達の受けた印象が、強烈で、焼きついた体験を語っているからではないでしょうか。
空虚な墓の中で途方にくれる婦人達に「何ゆえ生きた方を、死人の中に尋ねるのか」と天使はこの婦人達だけではなく、復活を信じがたい現代人にも語っているのです。
天使たちが復活してと語るギリシャ語は、エーゲルセーです。受身で甦がえらされたと訳せます。主の復活は実に神のみ業であることを示しています。神のなさった業を空虚な墓に訪ねても無駄です。信仰を死んだものに求めてもありません。主が十字架で死んだままであったら、多くのキリスト者が、二千年もの間、殉教したり、苦難を忍び、世界の果てまで福音を述べ伝えることができたでしょうか。コリント第一15章全体は復活について書かれています。特に14・15節「キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、私達は神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証をしたことになるからです」(共同訳)
私達はキリストとともに十字架に死に、キリストと共に甦ったその儀式としてバプテスマを拝領してキリスト者になりました。『私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。しかし、私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである』ガラテヤ2章20節.復活の信仰なしでは、キリスト信仰ではありません。
ゲッセマネの園では、血の滴りのような汗を流して人間イエスは「苦い杯(十字架刑)を私から取り除いてください。しかしそれが御心であるならばお受けします」と真剣にお祈りになりました。それでも神の御心である十字架の上で『エリ、エリ、ラマ、サバクタニ、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と恐れと肉体の痛みの極みから人間として叫ばれておられます。六番目のお言葉は『すべて成し遂げた。テテレスタイ』と一言で、首をたれて息を引き取ったと述べています。息を引き取られる前に呟くように『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』との祈りの言葉には『すべてを成し遂げた』との主の言葉に圧倒されて聞き逃している福音記者もおります。この最後の言葉を新改訳聖書は『霊を渡した』と直訳しています。
十字架の御受難には、渡す用語が多く使われています。ユダが裏切って律法学者達に主を渡す。他の弟子達も恐ろしさと命惜しさに主を大祭司達に渡す。ユダヤの指導者達・宗教者達は主を総督ピラトに渡す。ピラトは保身のため、主を十字架に渡した、これらはみな主を見捨てたのです。神が主を十字架に見捨てたのは、人類を罪から救うためでした。
四福音書は父なる神が人々を救うために御子イエス様を渡した(捧げられた)と述べ、今度は主ご自身が十字架上で息を引き取られる時、人間イエスの霊を神にお渡しになったのです。
創世記2章7『主なる神は土(/ダマ)のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き込まれた。そこで人(/ダム)は生きた者となった』神の聖霊が吹き込まれて人となったのです。霊は一般的に、目には見えないけれど命の存在を支え動かす力と解釈されています。特に聖書は霊について多く語ります。特別に人に対して働く神の聖霊は、神よりの贈り物賜物として述べています。
テサロニケ5章23節、人間は霊・心・体(プニュウマ・プシュケ・ソーマ)からなり分かち難いものと示します。哲学も科学も思想・宗教も肉体と霊魂の二元論を説きます。特に肉体は純粋な霊魂(精神)を閉じかめる牢獄のようなものとします。それで修養や難行苦行や学問などで肉体の牢獄を無力なものとして霊魂を自由にする、すると人は善良な霊魂に支配されて善人になるとします。そこから道徳教育が必要とされ、優れた人の言葉・行為が強調されるのです。これで確かに体と心は良くなるでしょうが、人間を人間たらしめる霊は取り残されます。聖書は霊・心・体の分かちがたい一体の人間を全きものとするにはキリストの十字架の犠牲をもって変えるもの他にはないと説きます。
穢れているのは肉体だけであり霊魂は清らかで、死後も永遠不滅であって死ねば清い存在とするに対して、聖書において三者は罪の全体性の故に罪人は肉体霊魂心の一体の堕落により死とともに朽ち果てるのです。罪によって理性は曇り感情も罪の欲望に支配され、肉体も穢れます。人間を善化聖化できるのは聖霊が人に臨むときのみです。聖化される時聖霊の実(人格)を結ぶことができます。ガラテヤ5章22・23。
キリスト信仰は人間存在のすべてを罪から開放し、神の御心にかなう方向へと向かわしめるのですが、これは本来、人間に備わった魂や知恵の力ではなく、神が賜る聖霊の力よって罪を悔い改め、十字架の血潮で洗われるその力によるのです。
イエス様はすべてのご使命を果たされた後、人間としての霊を父なる神に渡され、よみ(地獄ではなく死者の永眠しているところ)に下られ土曜日はそこに留まられ日曜日の早朝、神の御子として甦られたのです。そして40日の間、弟子達に現れ父の元へとお帰りになり、約束なさったとおり五旬節に聖霊を弟子達に遣わされました。
十字架上の七番目のみ言葉こそ肉体をもたれ世においでになった神のお一人子が人としての霊を父なる神にお渡しなさったときのお言葉です。
主こそ人間の苦しみ悩み痛み等、身を持ってご経験なさった神の御子です。私たちはこの主の名によって祈る特権を与えられた者達なのです。
十字架上での主の第五番目のお言葉は『私はかわく(ディフオー)』との一言でした。また第六番目も一言『すべてを成し遂げた(テテレスタイ)』と発しられて首をたれて息を引き取られました。(その前に上を見上げて言われた言葉は来週学びます)このテテレスタイはギリシャ語の辞書によると、「まったく成就する。満たす。終える」との訳があります。共同訳聖書が近い訳であろうと思います。
ヨハネが『すべてを成し遂げた』とのみ言葉を聴きとどけたのは、主の生前何度もご自分の使命を述べられた事を承知していたので理解しえたのです。14章1・32『今や人の子は栄光を受けました。神もまた彼によって栄光をお受けになりました。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をすぐにもお授けになるでしょう。』十字架刑の前夜、最後の晩餐後、14・15・16章のご遺言の後、17章のお祈りをなさったが、それらと十字架上の言葉を合わせて考える必要があります。
神が御一人子をこの世に遣わされたのは、『神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。主ご自身も『人がその友のために、自分の命を捨てること、これより大いなる愛はない』と言われていました。
旧約聖書には始祖/ダム以来、人間の神に対する反逆のため、即ち罪ゆえに数千年来、その罪の贖いのために動物の犠牲を神に捧げてきました。レビ記など実に驚くほどこまごまと述べているその儀式は、その動物の血に、人間の罪の悔い改めをこめるためにその犠牲の動物に手を置きました。それがいつの間にかその犠牲の意味が疎かにされ形式化されました。それを改めるかのように、洗礼者ヨハネが、一度限りの悔い改めの儀式としてバプテスマをほどこしました。その彼が自分の後に来るイエス様が聖霊によるバプテスマを施し、自己を犠牲にすることによって人間の罪を除く方だと預言して「見よ、世の罪を除く神の子羊」と言いました。
神の子が罪の贖いのため、ご自身の命を犠牲として十字架に死なれたのです。旧約の犠牲の動物の血による贖いが神の子によってなされた事が、新約の福音です。ヘブル7章27,9章12,10章9・10。こうして動物の血では神に対する反逆の罪の贖い、律法による罪の贖いは十字架の主の死によって廃せられたのです。旧約におけるユダヤ教の犠牲の儀式が十字架の救いへと変わりました。
神様が予定され、御子が実行なさった人類の救いの業は、ここに一つとなって、その十字架の力を信じる者に永遠の命を与えなさったのです。この成し遂げられた業において父と御子は栄光を受けられたのです。このように『まったく成し遂げられた。テテロスタイ』はイエス様の死を神の勝利と見るのです。これはイエス様がご自身のご使命の完成のお言葉です。人類の救いの業の完成の宣言です。
『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と大声で叫ばれましたが、次の第五番目のお言葉は周りの人に聞こえる程度の低いそして一言の短いお言葉でした。ギリシャ語で『ドウフオー』との一語です。その意味は『わたしは(オー)かわく』です。釘付けられ、わき腹を槍で突き刺され出血多量で肉体的にもお渇きになられていたのです。このお言葉に悲痛なものを感じますが、主は全く私達と同じ人間として最後をお迎えなさったのだと感銘深く感じます。
それを聞いた人が酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの棒に結び付けて、イエスの口元に差し出して飲ませました。詩篇69篇21・22「望んでいる同情は得られず・・人は苦いものを食べさせようとし、渇く私に、酢を飲ませようとします」(共同訳)と述べられていることがここで現実に起きています。主は死の間際にある犯罪人に与えられる酸いぶどう酒を飲み干されました。私は聖餐式でぶどう酒を主のお飲みになった酸いぶどう酒であり、十字架に流された血であると覚え感謝して受けます。そして、いつまでも渇くことのない永遠の命の水を頂く恵みに預かります。
現代はものが溢れ、富やレジャーなど、人間の欲望は尽きないものです。そのなかで多くの人は欲求不満の飢えと渇きの中にあります。主は人間としてこの世の欲望の極みまで味わい尽くされましたが、それらに飲みつくされず罪を犯されませんでした。主は罪との戦いで血を流され勝利を得られたお方です。私たちは誘惑などとの戦いで血を流すほどの抵抗をしたことは殆どありません。主はそれを私たちの身代わりとして受けられました。その主のみ言葉に応答するには鹿の谷川を慕い喘ぐように、生ける神を慕うことです。真実の渇きを経験して、神の国と義とを求めるのです。
それは最も小さい者に水一杯与えることです。自己を喜ばせる事に集中して、ほんとの自己を失ってしまっています。周りの人々は自分に都合のよい利用する存在としています。傷ついた同胞を避けていったレビ人達のようになってしまうのです。普段は見下して相手にしていないサマリヤ人が隣人として救いの手を伸べました。この小さい者に水一杯を与えた事は主になしたことだとおっしゃいました。トルストイの靴屋のマルチン物語の中で、家族を失い独りになって生きる望みを失った彼にある老人が聖書を読むことを薦めました。彼は読んでいるうちにイエス様にお会いしたくなりました。夜夢の中で枕辺にお立ちになった主が、明日あなたに会いに行くと言われました。飢えた年寄りが店の前を通り過ぎようとしました。彼は店に招きいれ暖かい食べ物を振舞いました。感謝して去りました。次に赤子を抱いた凍えそうにした若い母親が現れました。これも同じようにもてなしました。今度はりんごを盗んでおかみさんに追われる少年、事情を聞くと身寄りはなく飢えたので盗んだとのこと、少年の代わりに代金を払って許してもらいました。ついに主は彼のところにおいでになりませんでした。がっかりした彼の枕辺に主が現れました。今日あなたにお会いすることができなかったという彼に、『あの年寄り、母親、少年が私だったのだよ』と語られました。
主がかわき、ほんとに求められたのは、このような隣人愛なのです。『私はかわく』とつぶやかれる主に酸いぶどう酒差し出す者ではなく、主が真実に求められておられるのは何か悟らねばなりません。もしそれが分からないのであれば主にお聞きする(祈る、或は聖書のみ言葉を学ぶ)のです。
飢え渇き、病み裸の人に物質の支えも必要ですが、最もその人々に必要としている『永遠の命の水』を私たちは分け与えるのです。まず自分自身のうちから永遠にいたる水がコンコンと湧きでなければなりません。ヨハネ4章14節『私が与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』。
残酷な十字架刑、その痛み悔しさの中で、神も仏もあるものかと八つ当たりに全てを呪うのが誰にあっても普通のことです。しかし、十字架上の主の第一の言葉は『父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです』ルカ22章34節と執り成しのお祈りをなさっておられます。また第四の十字架上のお言葉は『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』ですが、これは詩篇22篇1節『エリ、エリ、ラマ、アザヴタニ』の引用で旧約聖書の用語へブル語です。レマ、サバクタニは当時使われていたアラム語です。その意味は『わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか』です。
救い主・神の子といわれながら、このような弱虫の言葉を吐くなんて、キリストは見せかけの存在だときって捨てる人々がいます。2千年前あの十字架の周りにいた人々と変わりはありません。この叫びこそが主イエス様のご生涯そのものなのです。お生まれになって33年余の人間としての歩み、最後の3年余りの公生活のすべてのお働き、ご行動はこの一句に尽きるといってもよいのです。
この悲痛な叫びこそ主のご生涯の凝集されたものです。このお言葉の前で主に出会えることが信仰の出発点でもあります。なぜなら自分のうちに罪を認めるものが、詩篇の22篇の作者ダビデと同じ叫びを上げるからです。罪のはらう値は死です。聖書が語るように死をもって贖う他はありません。十字架上の主の叫びは、見捨てた神と見捨てられたイエス様とが一つになって、罪人の身代わりとなられ贖いのみ業をなしてくださったのです。私達がキリスト者になれたのは、キリストとともに、十字架につけられ、ともに苦しみ、神に見捨てられたのではないでしょうか。それが十字架を主とともに負うことでありましょう。
われわれは神に見捨てられたという経験のないまま、信仰生活をしていないでしょうか。神様に従うことが苦痛であり、キリスト者としての礼拝、奉仕が重荷に感じるのは何故でしょうか。神に見捨てられる主の痛みに共感して、それでも主は父なる神様を信頼なさって『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』ルカ23章46節と言われて息を引き取られました。私たちも主と同じように神様を信頼するのです。
詩篇22篇は神から見捨てられた叫びを上げながら、その苦しみがやがて祈りとなり、23節以下では神を讃美する姿となりますが、主の『レマ、サバクタニ』の叫びが神への信頼、そして讃美となったダビデのような心の動きを、十字架上の七つのみ言葉に見ることができます。私たちが神から見捨てられる苦痛を、身代わりとして味わわれた主を見上げるときどのように感謝をお捧げしましょうか。
頭で十字架の贖いを知っていても、心の底からの感謝をもって主を仰ぎ見なければ、救いの信仰に達することはできません。それにはヨハネ14章26節の主のご遺言にありますように、主の名によって遣わされた聖霊に私たちは教え示していただかねば到着できません。
主の十字架の下に、寂しく涙を流して佇む母マリヤ。胸に去来するのはイエス様の誕生前の天使のみ告げ等です。「・・・恵まれた女よ、生まれた子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。・・・神には、何でもできないことはありません」との言葉を聴いた。羊飼いや博士たちが来た時、神殿にてシメオンやアンナが幼子を抱いて救い主と語ったとき、イエス様の奇跡を人づてに聞いた時。天使に告げられた通り私はなんと恵まれたものだと感謝していたのに、我が子の十字架の足元にいなければならないとは。そのとき十字架の上から第三のみ声が聞こえてきました。
『婦人よ』との主の呼びかけです。私はこのとき何故、母よと呼びかけられなかったか、お祈りのときいつも父よと呼びかけておられたのだがと、非常に不思議でしたので、ギリシャ語・英・独の数種類の聖書また辞書などを調べました。ギ語ではグナイ、英独は女、聖書のギ語では丁寧な言葉です。日本語聖書の、婦人よが一番近い感じです。多くの人々は自分を愛してくれる人、親族は愛するという血縁地縁の道徳に縛られています。そこから民族主義・国家主義が対外的におき、国内的には階級性の差別が起きるのです。主はそれらを乗り越えられる愛の実践者でした。敵を愛することは不可能だと断定される中で敵おも愛するアガペーを示されたのです。
主は肉の母マリヤの将来を十字架の上で心配されました。肉の父ヨセフを少年のとき失ってからは、30歳になるまで家族のため汗を流されて生活の責任を負われた主です。弟妹が自立できるようになって初めてご自分のご使命のため公の活動に進まれほどの肉親愛に満ちたお方です。その主が母よと呼びかけずに、他人行儀的な貴婦人よといわんばかりの呼びかけをなさったのです。母を、家族愛を超えて愛することに徹しられたのです。そして愛弟子ヨハネを眼で指し示して『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』と言われた。ギ語では息子となっています。私の代わりに彼を息子としてよいのですよ。また弟子に言われた『これはあなたの母です』イエス様のご愛を痛く感じたヨハネはそのとき以来、イエス様の母を自分の家に引き取った。
主は十字架の上で敵を赦し、彼たちのために執り成しのお祈りをなさいました。悔いた犯罪人にパラダイス・天国入りを約束なさり、母マリヤと弟子ヨハネに新しい救いの道をお示しになりました。
マリヤは人間的な血縁から解放されました。イエス様を自分が生んだ子としてみることを止めなければ神に出会うことができないのです。マリヤは今から後、使徒の家で、使徒達の母として仕える新しい家族関係を作るのです。マリヤは崇められ礼拝されるべき存在ではなく、キリストに従う使徒達、信徒達の母として、彼たちに奉仕する新しい道が与えられたのです。ヨハネをはじめとする弟子達も主のご命令に従って、マリヤを母とし、自分達はその息子としてお互いに仕えあい愛し合っていくのです。
実の平和を作り出し得るのです。敵を愛するアガペーは実行不可能ではない事を、マリヤを中心とする家族構成で初代教会が証明するのです。主が、母よと呼びかけず婦人よと言われた深い意味を知って、わたしは救われ、牧師として召されたことを改めて感謝しました。
使徒行伝9章。キリストの迫害者サウロがキリスト者を逮捕すべくダマスコの近くに来たとき突然天から光が差してきて、地に倒れ、復活の主のみ言葉に接して回心し180度の転回をして、使徒パウロとなりました。このような大変化があれば救われたとの実感を持てて羨ましいと言われることを何回も聞きました。これは内面の回心が外部の変化として現れたものでして、救われ新生した人は同じ経験をしているのです。両親ももてあますような大酒のみ荒れて他人を困らせていた兄弟が、救われ別人のように変化したことは周りの人を驚かせました。牧師になった彼は救われたということが目に見えて、うらやましいと青年たちに言われて、中田甫弘牧師はあまり穢れないうちに救いに預かった君たちが私はうらやましいよと答えていました。
新生すれば何方も心が新たにされ行動も生活も変化しているのです。十字架に釘づけられた主の両側の極悪人達は、取り囲んでいる人々と同じようにイエス様に悪口を言い続けていたのですが、34節『父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と執り成しの祈りをなさる主の言葉、優しい眼差しに、この方は犯罪人でないと感じ始めていた犯罪者の一人は、十字架上の片割れが「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、われわれを救ってみよ」と、イエスに悪口を言い続けました。主はその人にも温かい眼を向けられていました。もう一人は彼をたしなめて言いました。これは彼の悔い改めの言葉でもあります。自分の罪は十字架に値していると告白しているのです。「おまえは・・・・・神を恐れないのか、お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしたのではない」十字架の死の直前に、罪を認め悔い改めたのです。そして改めて主に「イエスよ、あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、私を思い出してください」と主イエス様をキリストと告白しているのです。自分の大罪を認めるがゆえに、救ってくださいと厚かましいとて言い得なかったのです。彼はみすぼらしく十字架につけられている主を神の御子と見分ける心の目を持っていたのです。
主はこの犯罪人の信仰告白を四面楚歌の中で聴かれ、この人を受け入れられたのです。今まさにこの人のためにも、贖罪の死を遂げられようとなさっておられるのです。十字架上の第一の言葉は、すべての人に対する執り成しのお祈りでした。第二番目のお言葉は信仰告白をした者に対する十字架上からの救いのお約束です。彼は主と偕に甦って平和な楽園である天国に永遠の住人となって主と偕にあるのです。
ピリピ2章4節 ̄11節。
神の御子が僕のかたちをとり、人間となられ、罪を除いて人としてのすべての悩み痛み苦しみなどを味わい尽くされ、十字架の死に至るまで従順に神に従われ、すべての人の罪の贖いの犠牲としてご自身をおささげになったのです。道徳家と自認する人から十字架刑を受けるほどの極悪人にいたるまで、血の滴る手を広げて受け入れようとなさっておられるのです。人間の歴史の中で、罪を告白して救いに預かった人が多くある一方、罪を認めずして滅びにいたった人が如何ほどいるでしょう。死の瀬戸際で罪を認め、主を私のキリスト(救い主)と告白した罪びと、私自身、この人にダブらせてみています。
66巻の旧新約聖書は十字架における主イエス様の犠牲が、人間を救う為であることを中心として書かれています。またキリスト教徒は、このイエス様を私のキリスト(救い主)と告白、信じています。主イエス様は十字架上で七つの言葉を語られています。この七つの言葉を十分に理解できるならば、聖書の中心である十字架の主の死、その犠牲があなたの為、私の為であったことがわかります。この七つのみ言葉は新約聖書のはじめの四福音書に述べられています。各福音書は、それぞれの観点から十字架の出来事を書いていますので、語られた言葉の順序は総合的に見なければなりません。
先ずルカは主の両側に一人ずつ犯罪人が十字架につけられたことを伝えています。主が十字架に釘付けされたその時、主の第一の言葉が発せられました。主の口から出た言葉はお祈りでした。しかも驚くべきことに、自分を4日前にエルサレム城門にて「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声で迎えた同じ民が、十字架につけよと叫んでいたのです。その人々と、現に今、釘付けをしている役人達に対するとりなしの祈りでした。人間の深淵をご承知の主なればこそ、深いご愛が悪意、憎しみに満ちた人々に注がれているのです。人々も役人も兵士たちもあざ笑い、嬲者(なぶりもの)にしています。役人はあざ笑って言いました。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれたものであるなら、自分自身を救うがよい」兵士どももイエスをののしり、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」と言いました。十字架にかけられた犯罪人の一人も「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、われわれを救ってみよ」と、イエスに悪口を言い続けました。
このような状況の中で誰が祈ることができましょう。この状況に耐えて、祈ることができましょうか、主は執り成しのお祈りなさっておられるのです。主はアガペー(神の愛)で愛しておられたからですし、常日頃から何事でもお祈りなさっておられたからです。
私は戦時中盲腸炎の手術を受けました、薬が乏しいこともありましたがいつ空襲があるか知れませんので急いで事を進めなければなりません、両手両足、体も手術台に縛り付けられ局部麻酔でしたので、その痛さと喉の渇きに、水を飲ませろ、飲んだら死ぬぞ、死んでもいい、と執刀者とやり取りしているうちに終わりました。そのせいでしょうか、半年間1センチばかりの腹の穴にガーゼを毎日取り替え続けました。落ち着いてから極限状態になったら祈ることもできないその情けなさに、医師の前で顔を上げることもできませんでした。そしていつもの祈りがいい加減であったことを悔やんだことでした。むしろ自分の限界を知ったればこそ本気で祈ることができるはず、祈らねばならないのです。自分ではどうすることもできないどん底で祈るときに神から限界を超える力があたえられるのです。
主のゲッセマネ(油絞り機の意味)で主は祈られた事で極限の十字架の贖罪の死を乗り切られた。ルカ22章39以下。『御心ならばこの杯を取り除けてください(人間イエスなら当然)しかし、私の思いではなく、みこころが成るようにしてください』この祈りの続編が十字架上の主の第一言です。とりなしの祈りです。
あの苦痛と辱めの中で主は『父よ』と呼びかけられるのです。信頼しきった姿ではないでしょうか、私たちが形式ではなく、信頼しきって私のお父様と呼びかけることができる幸いを、祈るたびごとに味わうのです。
祈りの極意は執り成しです。主イエス様の私たちのための犠牲は、主の執り成しの祈りが十字架へと向かわれたのだと思います。
父に愛を求めましょう。そして愛する者の為、隣人のため、執り成しの祈りをいたしましょう。
ツロの王ヒラムがダビデのために香柏をもって家を建てました5章11節。ペリシテ人はダビデが油注がれてイスラエルの王になったこと聞き、レバイムの谷に布陣した。ダビデは「ペリシテ人に向かって上るべきでしょうか、あなたは彼らを私の手に渡されるでしょうか」と問いました。神は『上るがよい・・・・』と答えられました。ダビデは命令どおりにして、敵を撃ち破ったその地をバアル・ペラジム(神が破る)と呼びましだ。ペリシテが再び侵入しレバイムの谷に布陣しました。ダビデは主にお聞きしました。主は『上ってはならない、彼らの後ろに回り、・・・・・・・』いわれるとおり行動してまたも大勝利を得ました。このダビデの祈りが神との対話であることに注目してください。私たちにも祈りは神様との対話であることを示唆しています。
7章1節ダビデはヒラム王の建てた家に住み、神が敵をことごとく打ち退けてダビデに安息を賜りました。ダビデは預言者ナタンに「今私は、香柏の家に住んでいるが、神の箱は幕屋の内にある」といって、自分だけ良い思いをしているのではないかと心のうちを訴えています。神はナタンを通して5節 ̄と語られダビデ契約をなさいました。ダビデの治世の間は、神の箱の家は必要ないと答えられ、彼の子孫の祝福を約束されました。
神は出エジプト以来今に至るまで、家に住まわず、天幕を住まいとして歩んでこられました。それは奴隷であった民の生活そのものでした。土着のカナン人は、木造や石造りの家に住んでいるのを、砂漠の放浪時と同じ天幕住まいから彼たちはうらやましい気持ちで見ていたことでしょう。
民の生活の格差も広がって本格的な家に住むものもいたでしょうが、多数の民はいまだに天幕暮らしを強いられているのです。この民たちとともにおられるご自身をダビデに語っておられるのです。ツロの王ヒラムが使わした大工と石工によってこれも提供されたレバノン杉で建てられた家に住むダビデは心痛むのです。神はダビデが心いためる心を、良しと認めつつも、主は天幕で生活をする人々とともにあることを示されているのです。
主イエス様の地上でのご生活は、ご自身でもお語りになったように、『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない』ような生涯を送られ、最後は盗人たちとともに十字架に上げられました。主ご自身は罪を犯されませんでしたが、罪人をお赦しになるため身代わりとしての犠牲を払ってくださったのです。天幕を住まいとして歩まれた神様のご生活そのものが、主イエス様のご生涯です。その故にイエス様の名によって祈るとき、ご自身のご経験から執り成しくださるのです。
ヨハネ16章23・24節『・・・・今までは、あなた方は私の名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう』そうです。私たちの苦しみ、生きる悩み、痛みも主はご経験済みです。人生のすべてをご承知の主を仰ぎ見ましょう。
若いときレビ記を読みまして、しつこいほど犠牲のことが書かれているのは何の意味があるのだろうと頭を傾げました。それでも一字も逃さずに通読しました。後でその事によって、イエス様が十字架の上で血を流された犠牲の贖いの意味が、よく理解できました。特にヘブル7・9章とレビ16章を対照してみたときに、人間としての大祭司と、十字架の血を携えての主イエス様の違いに気づかされ、聖書のみ言葉には意味のないことはないのだと改めて知らされました。
7月10日の贖いの日に、アロン(大祭司)はレビ16章6「自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と家族のためにあがないをしなければならない」そして垂れ幕の中の贖罪所(至聖所)に入り33・34「・・・・祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。・・・・イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである。」モーセはこのように神の命令をアロンに告げています。アロンはこれを守り、祭司達も毎日犠牲をささげ、自分達と民のための罪祭としました。
ヘブル7章24「彼(主イエス)は永遠にいます方であるので、変わらない祭司の務めを持ち続けておられ、いつまでも生きていて彼らのためにとりなしをしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」また27節「彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。」十字架で流された主の血は一度のみの罪祭なのです。主は十字架上で七つの言葉を語られておられますが、最後の7番目は『事終わりぬ』と大声で叫んで息を引き取られました。「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたマタイ27章50・51、ヨハネ19章30、マルコ15章38。
ヘブル9章12節「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠の贖いを全うされたのである。」10章19「兄弟たちよ。こういうわけで、私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ、彼の肉なる幕をとおり、私たちのために開いてくださった新しい生きた道を通って、入っていくことができる」。旧約と新約の深い切る事のできない関係、この両者を十分に理解することで私たちの信仰にいかに反映させるか。通読しているときに意味が分からなくとも、旧約の光で新約を、新約の光で旧約を見ますとそこに神の真理がはっきり見えてきます。そのようなわけで、本日はあえて説明よりも、旧新約聖書の聖句を多く引照したのです。
1517年10月31日、ヴィッテンベルク大学の掲示板代わりに使用されていた「城教会」の扉に、ラテン文の論題が貼り出されました。これは大学関係者等に学問的な討論を要請する論題を箇条書きにしたものです。ルターはこの95か条を書きましたが、これが宗教改革という世界史的な出来事の糸口となりました。当時ドイツでは、テッツエルが免罪符を悪辣なやり方で売り歩いていました。それに彼は憤激しての事です。論題の第27条「箱の中へ投げ込まれたお金がチリンと鳴るや否や魂が天に昇るという人々は、人間の教えを説いているのである」と述べています。この免罪符はヴァチカン宮殿の聖ペテロ礼拝堂を新築するために、イタリヤの金融財閥メディチ家から多額の融資を受けその返済のために売り出されたものでした。この事に対してルターは罪の赦しは、聖書の言葉(神の言葉)による信仰の立場からこれを批判したのです。
申命記4章2,12章32『あなた方に命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これに付け加えてはならない。また減らしてはならない』と述べています。また新約の預言書といわれる黙示録を閉じるに当たって、22章18・19『・・・・もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉を取り除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、取り除かれる』とも述べられます。聖書はテモテが言うように『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である』キリスト教の経典は旧新約聖書のみです。私は哲学、神学、その他多くの本を読んできましたが、より深く聖書を理解するために用いてきました。しかし私はどのように優れた人の言葉も、聖書と並べては51年間説教をしてきませんでした。聖書講解に徹してきました。
私は物事を決断しなければならないときなど、まず聖書はなんと語っているだろうか、今ここに主がおられるならば、私になんと言われるだろうか、主イエスさまだったらどのように行動なさるだろうかと、祈りのうちに進むべき道を決めることにしてきました。先輩たちの信仰者がみ言葉によって導かれた証しも大事にします。
いかにすばらしい信仰をもち道徳家であっても、主の弟子です。神や教祖にはなれません。このことを心にしかと留めておかなければ、異端の信仰に惹かれます。神の言葉に人の言葉を付け加え、自分の考えでみ言葉を取り除く異端は非常に熱心に、キリスト者に迫ってきます。聖書を読んで理解していないと、彼たちに言い包められ虜にされ洗脳されます。異端の人々は熱心で、生ぬるいクリスチャンはしてやられます。聖書中心の信仰こそ神の喜ばれるものです。
37章には神という言葉が1回も現れていません。しかしこの文学作品といってもよい物語のこの箇所を1節1節、注意深く読みますと、隠された形で神がおられることに気づきます。背景に、人物の背後に気づかれないように覆われて神はおられます。このヨセフの一生は、神の偉大な御業を私達に語っています。それに対して人間の赤裸々な姿が浮かび上がり、また注意すべき親としてまた肉親の欠点が目につきます。ここから始まり、一族が飢餓から救い出されるまで、神が一貫して動かれていることを知り、本気で神を求めているのであれば、何方にでも神を見出すことができることを知ります。
年寄りっ子であるゆえの偏愛から、高位高官の着る労働をしなくてよいような贅沢な長袖の衣服を着せた事です。4節、兄達はそれを見て憎みました。愛されている事が彼を増長させたのでしょうか、兄達の気持ちを逆なでするような二つの夢の話をするのです。さすがに2回目には父イスラエルはそれを咎めていますが10節、父はそれらの言葉を心に留めました。ヤコブはこの背後に神がおられること、神の預言であることを少しく知ることができたのでしょう。偏愛に対して、兄達の怒りはヨセフに向けられました。またヨセフは兄達の行状をも父に告げています。
父の命により、羊を飼っている兄達の安否を問いに出かけました。兄たちは遠くからその派手な姿を見て、彼を亡き者にしようと相談しますが18 ̄20.長兄のルベンがこれを助けようと、水のかれた古井戸に投げ入れることを提案、受け入れられます。彼は後でひそかに助け出そうと考えたのです。ルベンが出かけた後彼達は、おそらくヨセフが届けたであろう弁当をその穴のそばで食べていたとき、エジプトに向かう隊商が通りかかったので、ユダが肉親を殺すのはよくない、彼達に売り渡そうというので銀20シケルで売りました。ルベンが帰ってきて穴を見るといないので驚き嘆きました。
神はヨセフとともにおられたので、兄達の悪い計画を45章7・8.『神はあなた方のすえを地に残すため、また大いなる救いをもってあなた方の命を助ける為に、私をあなた方より先に遣わされたのです。それゆえ私をここに遣わしたのはあなた方でなく、神です。・・・・』50章20節『あなた方は私に対して悪をたくらんだが、神はそれをよきに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られた・・・・・・』と神のご愛のご計画を証しています。ヨセフはすべての出来事の背後に神様がおられ、自分は神のご計画の中にあった事を知って兄たちを赦したのです(37章 ̄50章)。
私は日曜学校以来、このヨセフ物語はよく知っていました。それが戦時中のトンネル陣地で、ロマ8章28『・・・・神は私とともに働いて万事を益にして下さる・・・・』がどん底の、絶望、死より他にないとの無念の中で、希望の主と出会い喜びを見出しました。このヨセフ物語が私の主との出会いの下敷きになっていたのです。私はヨセフ物語を昔の出来事だけではなく、私に主が与えて下さった福音だと感謝の気持ちで拝読しています。
皆様の人生をヨセフの生涯に重ねてみてください。神様を見出し、その愛に包まれているご自身を発見するはずです。感謝の限りです。
2・3節神の使いが生ける神の印を持って、イスラエルの子らの額に印を押すと述べられています。また9節にはあらゆる国民など、数えきれないほどの大勢の群集が、白い衣を身にまとい・・・御座と子羊の前に立ち讃美しています。現在はキリストの名によってバプテスマを拝領し十字架 の印が霊の額に押された多くの人が、主のその血によって罪と咎が赦されまったく聖くされ神様の前に立っているキリスト者です。イザヤ1章15〜18.血まみれの手が自分の衣を汚している。主の血は汚れたその人、衣を雪のように白くしてくださるのです。
主は兄弟を憎むものは兄弟を殺すものであり、人を愛することのできない人は、その人を生かしえないといわれています。人を生かすことのできない人はその人を殺していることです。
主の贖いが、自分で洗っても落ちない緋のような罪も雪のように白くして下さるのです。神の愛は御独り子の犠牲によって罪で隔てられた神と人の間の隔ての幕を取り払い白い衣を身にまとうものを至聖所に聖い者として招き入れて下さいます。
聖書の語る血は命を現します。ヘブル人は血のついたものは決して食べません。血は命であり、命は神のものであるからです。それゆえに犠牲の血は神に捧げるものです。血を失うと命を落とします。イエス・キリストの血というとき、キリストの死のみではなく、生と死によって主が成し遂げられたすべてのことを意味します。われわれのための主の生と死とは切り離すことができません。主イエス様の地上での生があったればこそ、十字架の死が血によって救いとなったのです。
神は人に律法を与えられた。しかしその律法を守りえず、罪のため聖い神との関係が途絶してしまった。この関係の修復のため祭司は毎日犠牲を捧げ、大祭司は一年に一度自分の罪のための犠牲を捧げた後民のための犠牲を携えて至聖所に入って赦しを願った。主イエス様は神と人との関係を回復させ神と人との和解の為に、一度だけ十字架に命を捧げ犠牲の血を流された。その上その血潮は人を聖くし、神の前に立つことが赦され、父なる神と親しく交わることが赦されたのです。
僕は汚れた衣を洗って雪のように白くなって、それを身に纏う事ができました。私達が自分の神と隔てている罪を認め、悔い改め、主こそ私のキリスト(救い主)と信じ告白すると神はキリストの血の故に、過去の犯した罪を赦し、罪の束縛、罪の支配から人を解放して下さり、罪の刑罰を取り消し、罪の力を打ち破って下さいます。
13節長老の一人がヨハネに尋ねる「この白い衣を着た人々は誰か、どこから来たのか」それに14節と答える。困難を通過してくることと衣を洗って白く、自身は聖くされることは一つです。イエス様の血が私を救って下さる事を知って、悔い改め、十字架の贖罪を信じる信仰を受け入れるのです。私たちを血潮で洗って雪のように白くしてくださる方は、悔い改めた者がそれを信じる信仰おも準備してくださるのです。
この救いの恵みに与った者は、聖所で神に仕える(礼拝する)のです。そのとき主は幕屋で私達を覆って保護してくださいます。そして16・17節詩篇23篇のような恵みの中で11節「救いは、御座にいますわれらの神と、子羊から来る」と讃美しつつ、主を拝し、栄光の中にいるのです。
ヨハネは手紙を読む者を、三種類の言葉で呼びかけ、キリスト者のあり方、態度などを示し彼達の信仰をより強固なものにしようとしています。神に属している者はこの世とこの世のものとを愛することはできない。なぜなら神と相反するものを同時に愛することはできないからです。
三種類とは、子供たちよ、父達よ、若者たちよとの呼びかけです。これは年齢的区分というよりも、キリスト者の霊的状態による区分です。子供達はキリストに救われ新生したばかりの人達、若い人達は訓練されもっと成長して強くなったキリスト者、父たちは人格的に円熟し安定した信仰生活をしている人々を指します。彼達に対する語りかけは繰り返されています。罪が許された12節。初めからいます方を知った13節。悪しきものに打ち勝ったから13節。と三つの表現がなされ、過去の出来事が現在に持続していることを述べています。
13節父達は年齢的にも信仰者としての先輩らしく、円熟し、初めからおられる父なる神を知り、人は変わり世は移ろうとも、変わることのない神との深い交わりの長い信仰生活を味わってきた。若い者たちは、子供たちと父達の中間にいた人々で、日々のキリスト者生活の中で多くの活動をしながら誘惑と戦い品性の確立に奮闘していて、罪赦され、神・兄弟姉妹達との交わりを楽しむのみではなく、悪との戦いに打ち勝った者達です。子供達は躾・訓練を受けなければなりません。彼達はイエスキリストの名によって罪赦され、そして神を父として知る関係に入ります。若い者達が悪に対する勝利者となったのは、彼たちが強かったこともありますが、神のみ言葉が彼たちのうちに宿っていて信仰が与えられていたからです。
15節以下ではキリスト者とこの世との関係を述べ警告しています。ここで言う世とは神から離れ神に敵対する組織です。その組織はサタンの支配下にあります。信徒に神の命令を伝えるヨハネは厳しい口調です。世と世にあるものを愛してはなりません。私たちは神を愛し兄弟姉妹を愛しているゆえに世を愛することはできないのです。世は父から出たものではないからです。
世にあるものは肉の欲、目の欲、持ち物の誇りです。肉は肉体を指すものではなく、人間が本来所有する罪を意味しますが、それは肉体を通して現れるために、混同が起こります。肉の欲は目を媒介として大きな誘惑の働きでおきやすい、表面だけを見て美しさに幻惑され実体を見逃しがちです。そして、むなしい誇りです。虚飾、見栄を張り、持ち物を誇るのです。
世と世の欲は過ぎ去りつつあるものです。光が闇の中に輝き始め、闇とともにこの世も過ぎ去って行きます。サタンから出た欲もさって行きます。何故おろかにも去り行くものを愛するのでしょうか。
ヨハネは対照的に永遠にながらえるものを示します。神のみ旨を語るのではなく、行う事が大事です。神と世、世の欲と神のみ旨、滅びるものといつまでもながらえるもの、そのどちらを選ぶか、本物の知者であったらどちらを選ぶでしょうか。
ヘブル書11章1節『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである』この信仰を実践したのが、信仰の父といわれるアブラハムです。『信仰がなくては、神に喜ばれることは出来ない。なぜなら、神にくる者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである』との信仰に生きていたのです。
年の初めの主日礼拝で学びましたが、神はアブラムに言われた『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい』と命じられました。その上で、2・3に七つの祝福を述べられました。1)大いなる国民とする。2)あなたを祝福する。3)名を大きくする。4)祝福の基となる。5)あなたを祝福するものを私は祝福する。6)あなたを呪うものを私は呪う。7)地の全てのやからは、あなたによって祝福される。と約束なさいました。彼は弟の子甥のロトを伴ってハランを出た、時に彼は75歳でした。彼は父テラに従ってカナンへ行こうとカルデヤのウルを出たが、父と共にハランに留まっていたのです。テラがその地で死んだ後、12章1節とアブラムは神に言われたのです。
神の命令に対して彼の行動は単純明快、素直でした。彼は故郷を離れ、親族との関係を絶ったばかりか、老齢であり、自分がどこに到着しどのように住むかまったく知らないで、家畜や奴隷を引き連れての出発は彼には大変なことであったでしょう。今後何が起こるか分からない情況で出発したのです。ふみ出した一歩、彼は過去を全て断ち切ったのです。老齢で新しいことに踏み出すにはさぞかし足が重かったことでしょう。全てを神に委ねて神のみ旨を直ちに実行するのが信仰者のなすべきことを彼は心得ていたのです。信仰とは一切を神に委ね、進む方向も任せきって、神に従うことです。彼はそのようにしました。
信仰生活は周りがいかに波立とうとも、静かに、穏やかに、平安の内に進んで行きます。アブラムは75年の大半をハランで過ごしたでしょうから、持ち物の始末でも普通でしたら大騒ぎしそうなものですが、5節に簡単に述べられています。神様に委ねての生活は単純で、平安(シャローム)そのものです。過ぎ去ったことは全て感謝です。その気持ちで現在を見れば全ての事に喜びを見出します。感謝の過去と、現在の喜びとを持って、将来を見ると希望が生まれてきますテサロニケ前5章16〜18.讃美と祈りが湧き出てきます。
信仰生活を楽しむには(エンジョイ)、神様がわたしと共に働いて万事を最善にして下さることを信じて主に従うことです。そうすればアブラムに約束された7つの祝福に何方でも与ることが出来ます。2006年がお一人お一人にとられて神の祝福に満ち溢れた1年であることを信じ、感謝してお祈りいたします。
アブラハムは神様から12章『親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし・・・・祝福の基とする』と約束なさいました。彼は命令どおりに、ハランを75歳のとき出で立ちました。15章〜17章はその約束が契約として確認する過程が述べられています。
跡継ぎの事など天幕の中で頭を抱えて考えているとき、主の言葉が彼に臨んだ。幻のように、『恐れてはならない・・・あなたの報いは、はなはだ大きいであろう』と。アブラムはそれに対して、今考えていたのですが、いかに良いものを頂いても世継ぎが与えられていないのではと、不満を神様に申し立てています。神様の約束を信じているが故の言葉です。『エリエゼルが跡継ぎになるのではなく、あなたの子が跡継ぎとなるべきです』神は狭い天幕の中でうつむいて考えている彼を連れ出して、『天を仰いで、星を数えてみなさい。あなたの子孫は星の数のようになるでしょう』といわれました。アブラムは主を信じました。主の約束ことばを信じたので、主はこの神を信頼する信仰によって彼の義を認めました。彼は主の約束を信じたので神との正しい関係にある義と認められたのです。信じたはアーメンを語源とするアーマン(信頼した)です。主のみ言葉に対しての無条件の信頼を表している。主の言葉以外に何も信じ得ない情況の中での、み言葉に対しての信頼によって彼は義と認められたのです。
私達の人生では行き詰るときがあり、どこにその不満をぶつけてよいか分からない事があります。常日頃聖書を読み、祈っているのであればそのような時、主は私たちを狭い自分の悩みの中に閉じこもるのではなく、仰げ主をと交わりの共同体、共に祈る教会へと引き出してくださいます。これはアブラムだけではありません。私のような小さい者にもそのようなことを何回もなしてくださいました。私は問題にぶつかると、自分の考えに捕われずに聖歌の「仰げ主を」口ずさみつつ主を仰ぐことで解決してきました。神様は私と共に働いて、万事を善きにしてくださると約束して下さったのに、それを信じるがゆえに、今、目の前に展開されていることは最悪だと主に不満を述べることは始終起こります。ローマ8章28節を信じているから、なぜですかとお聞きするのです。主はそのたびごとにお答えくださいました。あるときは聖書のみ言葉をもって、時には具体的な出来事を通して摂理の内にあることを悟らせてくださいました。
アブラハムは神の命じる不思議な犠牲の捧げ方を通して、主との具体的な契約が結ばれました。神様が最善をなさるという条件で契約されたのです。アブラハムは何の条件も出さず、主の約束に信頼して契約に臨んだのです。私たちキリスト者も最善を私のためになしてくださる約束を信じ、バプテスマという儀式を経て、主との契約を結んだのです。契約の内容は旧新約聖書(契約書)に述べられています。私達は神との正しい関係をつくって、義と認めていただきキリスト者になったのです。
どのような情況のときでもアブラハムに主がなさったように、天を仰ぐことです。主を見上げて祈ることです。幻の中で主のみ言葉を聴くのではなく、主を仰ぎ見つつみ言葉に聴き入るのです。仰げ主を。