日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

2009年のメッセージ

【マリヤは心に納めて思い巡らしていた】 ルカ2章8節〜20節(深佐 牧師)

 ㈵テサロニケ5章15節「いつも喜んでいなさい(現在)。絶えず祈りなさい(未来)。どんな事にも感謝しなさい(過去)。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」私達キリスト者は、過去の出来事に感謝し、感謝の上に喜びがあり、それ故に主のご約束は必ず実現すると信じて祈る事が出来ます。

マリヤは羊飼い達から天使の語った事、讃美を聞き、彼達が幼子を拝する様を見てそれを心に納めて、思い巡らせていました。私達はみ言葉を読んだだけではなく瞑想し考え巡らさねばなりません。私達は自分に起こった事どもを思い起こしそこに神様の御心があったこと知ると、どんな事にも感謝できます。その心で現在の自分を見ると喜ぶことができます。その信仰によりイエス様の名によって祈れば必ず成就し喜びで満たされます。(ヨハネ16章21節)。

マリヤは羊飼いの語る言葉を心に納めながら、この1年の間に自分の周りでおきた事どもを思い巡らせていました。親族のザカリヤ老夫婦に子供が与えられ6ヶ月になっているとマリヤは天使に促され訪問した時、(ルカ1章20節以下)エリサベツが聖霊に満たされ声高らかに言った預言の言葉、老祭司ザカリヤに起きた出来事、ヨハネの父になったそのザカリヤの預言(67節〜79節)、特に彼女に告げるガブリエル天使の語った言葉にその様な事がありえましょうかと答えるマリヤに天使は、「神に出来ない事は何一つ無い」彼女は「私は主のハシタメです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答え、聖霊によってイエス様を宿す事が出来た事など思いめぐらせていました。

夫ヨセフは正しい人であったので、マリヤのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。(結婚前に子供を宿すと掟では石で打ち殺す)このように考えていると、主の天使が現れていった「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。・・・男の子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。・・・・」彼は眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻として迎え入れました。イエス様がメシヤとして地上にお出でになるには、死を覚悟して主に従ったマリヤと神のお告げを信じてマリヤを受け入れたヨセフの愛と母子を保護する彼の信仰があればこそ、主の救いが全人類に及んだのです。

マリヤはこれ等の事を思い巡らし、神様のご計画の一端を担った事を感謝し、喜び、未来に対する希望を抱いた事でしょう。私はクリスマスの季節には、ヨセフとマリヤの信仰を思い出しています。自分の希望よりも神の御心を第一とする彼達の有りかたを模範にしなければならないと自戒しています。

過去を振り返る時すべてをよきにしてくださった事に感謝し、その感謝の心で現在を見つめると喜びが溢れてきます。感謝と喜びの心で将来を見ますと希望が持て、祈る事が出きるのです。お互い神様のみ言葉を心に納め、メディテイト瞑想しましょう。


【クリスマスの贈り物】 ルカ2章1節〜14節(深佐 牧師)

 クリスマスの期間には各地でにぎやかな商機を見ます。米国ではこの期間の経済状態が今年と来年の景気を示す指標とされています。東京銀座でも不景気と言われる中、町中賛美歌が流れておりました。又贈り物の売り場は人で溢れています。クリスマスは日本においても年末の行事として色々な催し物も行われ定着しました。

 クリスマスは英語でイエス様の降誕節の祝節をクライスト+マス(masまつり)キリストの祭りと言います。カソリックではmasをミサといいまして礼拝をさしています。私はキリスト礼拝と解釈しています。聖書にはイエス様の誕生の年月日は記されていません。当時の人々は誕生の事実のみが大切にされていたようです。Xマスはギリシャ語のキリストΧριστου+mas=Χマスとなったのです。

 羊飼い達が野宿して、羊の番をしている時に、主の天使が彼達に近づいたので、非常に恐れました。天使は彼達に「恐れるな、私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げます。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。・・・・・」天使達の讃美が終ると、彼達はベツレヘムに行こうと話し合って急いで行って、・・・飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。喜びのお知らせ、メシヤが生まれたこと、彼達はこの幼子について天使が告げた通りの光景を見てその事を人々に知らせました。それを聞いたものは皆、羊飼い達の話を不思議に思いました。しかし、羊飼い達は、見聞きした事がすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、讃美をしながら帰って行きました。この羊飼い達の喜びと讃美の心は私も同じように理解し讃美する事を71年の信仰生活の中で味わいました。牧師の説教を聞いても十分に理解できず、聖書も読んでもその意味を知る事が出来ませんでしたが、神のみ言葉と信じた時、喜びが心の内から湧き上がり讃美せざるをえずまた主に仕え奉仕せざるを得なくなりました。

イエス様の誕生は私にとってはヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えなさったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」イエス様を羊飼いは天使のみ告げで知ったように、私は聖霊の導きのうちに信じそれを伝えるものとされた事を感謝する者です。

主イエス様は神の子であられましたが人間にまで成り下って下さいました。日本やローマやエジプトでは偉人・豪傑・賢人や皇帝などが、神として祭り上げられました。人の中の優れ強いものが神に成り上がることが出来たが、人からなりあがった神であるなら私達と50歩百歩ではありませんか、人を救う力など持っていません。人が人を助けたつもりでいるとえてしてその人を傷つけている場合が多いのです。

ピリピ2章6節「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間とおなじ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」イエス様は私達と同じ立場に立たれ、飢えに寒さに凍える者、死と悩みに苦しんでいる者を見捨てず。自らを聖・永遠であると、はるか遠い所に、超越的世界に安住なさらなかったのです。そればかりか十字架の上に私達の罪や患いを負い、私達の病を担って下さったのです(マタイ8章17節。)

  この主こそクリスマスの神様からの最高の贈り物です。


【主は今私を心にかけて下さった】 ルカ1章24節〜38節(深佐 牧師)

 ルカの福音書が扱う内容は1節「私達の間に成就された出来事を、最初から見た人々であって、み言葉に仕えた人々が伝えたとおり・・・・すでにお聞きになっていることが確実である事を十分に知っていただきたい為であります」と「テオピロ閣下に書きつづって、献じる事にしました」この書は原始教会の福音書の公刊された証言です。

 ルカが文書化された伝承を入手し、主の使いの三顕現(一章11〜20節、26節二章9)、三告知(一章13〜17・26〜38ニ章9〜12)、三賛歌(一章46〜55:マリヤの賛歌マニフイカート、68〜79:ザカリヤの賛歌ベネディクトゥス、二章29〜39老シメオンの賛歌ヌンク・ディミィティス)が見られます。

 絶望的なザカリヤ(ヤーウエーは覚えておられたの意)・エリサベツ(我が神は誓い)老夫妻、ナザレの娘、老シメオン・老アンナなど当時の社会では忘れられたような人々が登場します。原始教会の霊感に満ちた人々の表現したものです。

 ザカリヤは祭司職の勤めとして聖所で香をたいていました。その間多くの民衆は皆外で祈っていました。天使が香壇の脇に立ち(一章13)「あなたの祈りが聞き入れられたのだ。あなたの妻エリサベツが男の子を産むであろう。その子をヨハネ(神は愛しみ深い)と名づけなさい・・・・母の胎内にいるときからすでに聖霊に満たされておりイスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち返らせるであろう・・・・」ザカリヤは祈っていたにも拘らず「私達は老人だから不可能です」答えています。彼は子供が与えられるように祈っていながらの答えです。天使は「この喜ばしい知らせをあなたに伝えたが、時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから・・・・」彼は口が利けなくなっていました。人々は聖所内で幻を見たのだと悟りました。妻エリサベツは五ヶ月目に「主は今私を心にかけて下さった・・・・・」と言いました。このエリサベツと並行的にマリヤのことが述べられます。

 マリヤに御使ガブエルが(30節以下)「・・あなたは男の子を産むであろう・・・」それに対してマリヤは「どうして、そんな事があり得ましょうか・・・」御使は「・・・神には何でも出来ない事はありません」と答えました。そこでマリヤが言いました「私は主のハシタメです。お言葉どおりこの身になりますように」彼女がそんな事があり得ましょうかと言ったのは、詳しく経過などを知ろうとしているのです。ザカリヤが「どうしてそんな事が私に分かるのでしょうか。・・・・」彼の不信がしるしを求めているのです。そのため子供が生まれるまで口が利けなくなったのです。

 御使に促されて6ヶ月になったエリサベツをマリヤは訪問しました。その時のマリヤの讃美(マニフィカート)一章48節「この卑しい女をさえ心にかけて下さいました。・・・」25節エリサベツは「主は、今私に心をかけて下さった、人々の間から私の恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言いました。マリヤは無条件で神に従っていますが、エリサベツは自分の恥を取り除くために神様が業をなしてくださったと信仰に質の違いを感じます。

 マリヤは天使ガブエルの言われた「神にはなんでもできないことはありません」お言葉を信じ何が起こるか分からない時私は主のしもべです。とすべてを主に委ねています。「お言葉どおりこの身に成りますように」これが神様を信じるという真の姿です。


【私の時はまだ来ていない】 ヨハネ7章1節〜9節(深佐 牧師)

 イエス様のガリラヤにての奇跡は、カナにおける婚宴の席で水をぶどう酒に代えられた事(二章1節以下)、カペナウムの役人の息子の癒し(四章46節以下)、パン五つと魚二ひきで五千人を養われた事(六章5節以下)などは多くの人々に知られていました。エルサレムにおいてはベテスダ池にての病弱な男の癒されたこと(五章2節以)は人々には知られていませんでした。主はその後ガリラヤを巡回されておられました。

 仮庵の祭りが近づいてきた時に、弟たちは主に向かい「あなたがしておられる業を弟子達に見せるため、また公にするため自分達と一緒にエルサレムに行っては如何でしょうか」と勧めました。それに対して主は『私の時はまだ来ていない。しかしあなた方の時はいつも備わっている』とお答えになっておられます。神様はご自身の働きのため、信じる者のために時を定めておられます。その時が来ますと、祈りもとめるものは応答として神様に従う事が出来るのです。

 私がいつも忘れる事のできないみ言葉に、伝道の書三章1節〜11節があります。天が下のすべての事には季節(χρονοσ)があり、すべてのわざには時(καιροσ)がある。「続けて・・・に時がある」が30続きます。ギリシャ語では時は前記の二つがあります。クロノス季節・時間・時代等と、カイロスその時・好機・定められた時・聖書では神様が定めた時を意味します。

 ヨハネ七6『私の時(神様が定めた十字架の時)は来ていない。・・・・・あなた方こそ祭りに行きなさい。私はこの祭りには行かない。私の時(カイロス)はまだ満ちていないから』と兄弟たちに主は言われましたが、兄弟達が祭りに行った後で、主は人目に立たぬように、ひそかに行かれました。主は常に行動をなさるときには祈りの中で父なる神様の御心を求めておられのですから、この時の祭りに行かれたのは神様の御心でした。14節祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められました。

 歴史の下に住む人間はクロノスの時間の下に置かれています。神様の定められた時があります。それが「恵みの時、救いの日」(㈼コリント六2)です。自然の世界に四季があり天体・宇宙に秩序があるように、信仰の世界にも神様の恩寵の秩序があります。神様の定められた時があります。私達は信仰の確信を持って神の時を見つめ、忍耐を持って、祈りつつ神の時を待つことが必要です。

 イエス様はキリストとしてのご自分の働きのために時を定めておられる事を知り、その時が近づくことを見つめながら、祈り待ち望んでおられました。それゆえに主は『私の時はまだ来ていない』ヨハネニ章4節、七章6節、八章20節と言っておられます。十三章1節で「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来た事を知り・・・・・・」と初めて述べられ、ゲッセマネでは『時が来た。人の子は罪人達の手に引き渡される。立て。行こう。見よ、私を裏切る者が来た』マルコ十四章41節・42節。主イエス様が見つめて祈られていた神様の時が来たのです。

 主の弟達はいつでも良いと言う中で生活していたが、主は神様が定められた唯一の時を見つめその時を逃さないよう生きておられたのです。『あなた方の時はいつも備えられている』と言われる待ち望みの無い生活から、神様の時を自分のものとするため目を覚まして祈りつつ備えして神様の時を待ち望みましょう。  


【私達は多くの証人に囲まれている】 ヘブル12章1節〜18節(深佐 牧師)

 十一章1節「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する事である」。神様の約束の言葉に生きる者は、未来の事がらを信仰によって現在のものとします。目に見えないものを信仰の心の目で見ています。4節に信仰によって、神の言葉でこの世界が無から創られたのであることを悟るのです。

 続いて旧約時代の信仰に生きた人々を列挙します。信仰によってと、文頭に18回述べられます。旧約の人物を順に挙げてその信仰を語る事は救済史(神様の救い)の一部です。冒頭に信仰によって神様の天地創造を私達は信じるのです。誰も天地創造を見たものは居りません。信じるより他、道はないのです。

信仰によって生け贄を献げアベルは義なるものと認められました。エノクは信仰を持つ事によって神様に喜ばれるものになりました。ノアはまだ見ていない事実を信じて箱船を造って救いと裁きを示しました。第四の信仰は、アブラハムとサラについて、続いてイサク・ヤコブ・ヨセフのことが述べられます。

 旧約の代表者モーセのことが語られます。モーセの生涯は、人物の中で6回も信仰によって、と述べられイスラエルの歴史の中で突出しています。出エジプト時の信仰、40年の荒野での困難を乗り越えた信仰、神様から十戒を与えられ旧約の規準を定めたこと。エリコ城壁が信仰によって七日にわたってまわったために、崩れ落ちました。その時に信仰を持って偵察に来た人たちをかくまった遊女ラハブの救出が述べられます。このラハブはイエス様の家系に入ります。ギデオン以下の人々の信仰を語りだすと時間が足りないと語ります。 

 十一章39節「さて、これらの人々はみな、信仰によって証しされたが、約束のものは受けなかった。40節」十二章1節「こういうわけで私達はこのような多くの証人に雲のように囲まれている」。この著者の時より、2千年間の聖徒も加わり、その中には私達の元住吉教会の聖徒たちの顔を見ることができ感謝です。その先輩達が私達を応援してくださっているのです。「この世の一切の重荷と絡みつく罪とをかなぐり捨てて、・・信仰に導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか、自分の前におかれている喜びの故に、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。・・・・」4節「あなた方は、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」11節「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず。むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」感謝です。

 今日ここに聖徒達の召天記念礼拝を守りながら11章の聖徒たちの続きに愛する信仰の先輩方の名が書き続けられ、神様の前にある命の書にその名前が書き記るされていることを信じ感謝します。その先輩がたの残されて足跡を辿りつつ、救い主、主を仰ぎ見つつ信仰の道を励ましあって歩みましょう。


【パンとさかなの奇跡】 ヨハネ6章1節〜15節(深佐 牧師)

 第四のしるしとしての奇跡を読んだ時、私は主の祈り(我らの日用の糧を、今日も与えたまえ)聖餐とペテロにまつわるうお(魚)の事、出エジプト後の荒野におけるマナなど思い出していました。五千人に主が食事を与えられた出来事は、マタイとマルコにも述べられています。エルサレムからガリラヤに移られたときのことです。多くの群集が病人になさった事を見たのでイエス様についてきた。また過越の祭りに上ってきた人々もその中にいました。旅で疲れ空腹の者達に同情された愛の奇跡でした。

 ベッサイダ出身のピリポにこれ等の人のためにパンを買ってきて欲しいと主は言われました。彼の信仰を試そうとされたのです(主はご自分のなさるべきことは承知なさっていた)。彼は「二百デナリ(約6ヶ月分以上の賃金)のパンがあっても、めいめいが少しずつ頂くにも足りますまい」と答えました。このときペテロの兄弟アンデレが登場します。彼は大麦のパン五つと、さかな二匹(料理されたギリシャ語でオファリア)(大きい魚はイクスゥスιχθυσ)とを持っている子供を見つけ、いつものようにアンデレは人をイエス様のもとに連れてきた。その子の持ち物は大麦パンで最も安いものと小さな焼き魚でした。

 過越し祭りは春です。青草に座った男の数は五千人ほどでした。11節パンを取り感謝し祝福してから人々に分け与え、さかなも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられました。人々が十分に食べた後、主は弟子達に『少しでも無駄にならないように、パンくずのあまりを集めなさい』と命じられました。彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、12のかごにいっぱいになりました。パンくずは奴隷達の飢えの為にあげる物です。当時の人はかごをいつも携帯していたのです。12のかごは弟子達の所有したものでしょう。人々は主のなさったしるしを見て「本当に、この人こそ世に来るべき預言者であると言って、イエス様を捕らえて王としようとしたので弟子達を強いて船に乗せ、ご自分はただ独り、また山に退かれました。(祈る為に)

 22節から65節までは第四の奇跡の意味を説明されています。『モーセの荒野の40年間のマナはモーセが与えたものではなく、天からまことのパンをあなたがたに与えるのは、私の父なのである。私が命のパンである。私に来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者はかわくことはない(51節)』『私は天から降ってきた 生きたパンであるそれを食べるものはいつまでも生きるであろう。・・・(54節)』『私の肉を食べ、私の血を飲むものには、永遠の命があり・・・』弟子達の多くはこれを聞いて「これはひどい言葉だ。誰がそんな事聞いておられよう」と去って行きました(66節)。

出エジプトの出来事で奇跡を多く体験した民達は、食事が貧しくなった時(出エジプト16章)かの地では肉なべの傍に座していたその時に神の手にかかって死んでいたらよかったのです。全会衆をこの荒野で餓死させようとしています。とつぶやいた。それで神様は朝に天からパンを与えました。彼らは「これは何であろうマンフー」といったところからマンナと名づけられ、夕べになると、鶉が飛んできて宿営を覆いました。主イエス様のなさった給食はこのマナの出来事に比するものです。荒野の生活40年を経てヨルダン川をわたって約束の乳と蜜の流れる地に入った時、マナの供給は終わりました。

救われ主の恵のもとにある者は永遠の命にあずかるものであることを感謝しつつ、主を信じて生活をしなければなりません。


【キリストの癒しと律法の安息日】 ヨハネ5章2節〜18節(深佐 牧師)

ヨハネ四章46節〜64節王家の役人の息子の二回目のしるしとしての癒しと、5章のベテスダの三回目のしるしとしての癒しには、主の愛とみ言葉を信じて行動に移したとき主の奇跡の業がなされたことを見ることができます。

役人がイエス様のみもとに来て、カペナウムに下って、彼の死にかかっている息子をなおしていただきたいと願いました。主は『あなた方は、しるしと奇跡を見ない限り、決して信じないだろう』と冷たく彼の願いを拒絶なさいました。しかしこの役人は熱心に「主よ、どうぞ、子供が死なないうちに来てください」と、病気の子供を持つ父親は主の冷たい言葉にもひるむことなく切々と熱心に訴え続けた時、直ちに主は先の言葉を撤回されました。『帰って行きなさい、あなたの息子は助かるのだ』彼は自分に言われたイエス様の言葉を信じてすぐに帰って行いました。言葉を頂いたその時、息子が癒されたことを知り彼自身も家族一同も信じました。

人々はベテスダ(憐れみの家)の池における第三の奇跡を見ます。5つの回廊があって大勢の病気を患っている人たちが、身体を横たえていました。それは水が時々動く時に早く入った人は癒されるとの言い伝えを求めていたのです。そこに38年の間病気で悩んでいた人が居ました。(間欠泉で地下水が湧き上がるその時)、主はこの人に『なおりたいのかと』と言われました。誰も助けてくれないのでどうしようもないと諦めつつも直りたいとの一心でそこに横になっていました。初めてといってもよい自分に話しかけてくる暖かい言葉に接した時、7節のように訴えるのです。

この第二と、第三の奇跡は主の愛の働きかけで起きた業ですが、癒される側の熱烈な癒されたいと言う願いありました。その熱心さは不可能と思われる中で、主のいわれたことを信じて直ちに行動に移した事です。役人は離れたカペナウムに居る死にそうな息子について主の言葉を信じて直ちに帰路についた行動です。その瞬間息子の熱は引きました。

38年病んでいた人も、恐らく諦めようにも諦められない絶望的なその様を主は見られてご自分の方から『治りたいのか』と声をかけられ、彼に具体的な助けを求める気持ちを訴えさせたのです。祈りとは具体的に自分の気持ちを申し上げる事です。その時主のいわれる言葉を信じて直ちに行動することです。そこに主のみ業がなされます『起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩みなさい』すると、この人はすぐに癒され、床を取り上げて歩いていきました。

奇跡とは、イエス様に愛されその事を信じて行動に移すとき起きる神のみ業なのです。ところが共に喜ぶべき幸いでな出来事なのに、ユダヤ人たちは彼が安息日に床を取り上げて労働したといい、癒しをなさったイエス様を非難し、18節ますます主イエス様をモーセ五書の律法を犯すものとして殺そうと計るようになったのです。主のご愛に対する律法遵守の形式は、主が指摘なさるようにモーセの律法を信じていないのです(45・46節)。最後に39節『あなた方は聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、私について証をするのである』とあります。

信仰とはヘブル十一1「望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認する事である」役人と38年病んでいた男は信じ行動した。そこに奇跡が起きたのです。


【いける水を私に下さい】ヨハネ4章1節〜15節(深佐 牧師)

 パレスチナは南北に約190キロ、イエス様の時代はそこに3つの領土ありました。北にガリラヤがあり、南にユダヤがあり、その中間にサマリヤがありました。ユダヤ人とサマリヤ人は長い間反目していました。BC727年北王国の首都サマリヤはアッシリヤ人が占領、住人は殆どのものが捕虜としてメディヤの移されバビロンその他の民族が住まわされました。残された民はそれらの外国人と雑婚してユダヤ族の純粋さを失い、やがて彼らはエルサレムに対抗してゲリジム山に偶像の宮を建てた(列王下17章)その後南王国も侵略を受け(列王下25章)エルサレムの民も多くバビロンに連れて行かれましたが、彼達ユダヤ人の国民性は失われませんでした。エズラとネヘミヤの時代にペルシャ王によって捕囚から解放されエルサレムに帰還、神殿を再建しました。

 イエス様はユダヤにおけるパリサイ人たちとの論争を避けられてガリラヤへと行かれました。多くのユダヤ人はユダヤからガリラヤに行くにはヨルダン川を渡って渓谷沿いの険しい道を選び、またヨルダン川を渡って目的地に入りました。

 主はおそらく御霊に導かれ、平野を進まれサマリヤの女と出会い最初の宣教をなさったのでしょう。また主は偏見の無いお方であることも見て取る事が出来ます。スカル町郊外のヤコブの井戸近くで旅の疲れと喉の渇きで主は休んでおられました。時は昼の12時でした。一人のいわくありげなサマリヤの女性が、スカルの町にも井戸があるのにまた暑い真昼に水を汲みに来ました。主はご自分の方から彼女に近づかれ『水を飲ませてください』といわれた。井戸は深く階段を下り器が必要でした。イエス様のお言葉と行為は彼女にとって驚きでした。ユダヤ人がサマリヤ人に話しかける事は考えられなく特に女性に語りかける事は非難の対象になる時代でした。

 イエス様の対話の仕方は、ニコデモのときも、自分で考え納得するようになさる事です。人間は天邪鬼で正しい事も人から言われると消極的にしか受け取れませんが、自分で納得理解すれば積極的に行動するものです。主がいける水の事を述べられると、彼女は物質的満足と受け取りいける水を常識的に流れる水か、湧き出る水と解釈しました。そして「何時までも渇かない水を私に下さい」と言わしめ、真実の礼拝とは何かとの主のみ言葉24節『神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまことを持って礼拝すべきである』が彼女に告げられました。

 彼女は水がめを置いてスカルの町に行き29節「私のしたことを何もかも、言い当てた人が居ます。さあ、見に来て御覧なさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」これを聞いた人人は(30節)町を出て、続々とイエス様の所へ行きました。サマリヤの女はイエス様との対話で真理に触れ主こそキリスト(救い主)と信じ、人々に証をなし多くの人をイエス様に導いたのです。

 霊とまことをもって神様を礼拝する者は、祈りの中で主と対話が出来ます。そして真理を自分のものに出来ます。孫引きになりますが、カール・ヒルティが「神との交わりには特別の時刻や時期、姿勢、身振りなど全然必要としません。外的なものはかえって妨げになることが多いものです。最も大切な事はわれらの主と絶えず魂のつながりを持つことである」と述べています。イエス様と対話してください。祈ってください。ニコデモやサマリヤの女性のように素晴らしいみ言葉を頂き、恵に満たされます。


【神の愛とさばき】 ヨハネ3章16節〜21節 (深佐 牧師)

 ヨハネ福音書の書かれた目的は、二十章31節に「これ等の事を書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリスト(救い主)であると信じるためであり、また、そう信じて、「イエスの名によって命を得るためである」と述べらています。また三章16節「神はそのひとり子を賜ったほどに この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」聖書全体はこの1節に集約されています。キリスト教の本質はこの1節の聖句によって完全に表現されています。福音の要約でもあります。

 神様はイエス様を十字架の贖いのため、遣わされ罪に穢れた世界と人々即ち世を救われ永遠の命の賜物を罪と死の支配下にある全人類に神の愛の故に与えられました。この愛はどんな地域の、どのような人でも御子イエス様を信じ、その救いの業を受け入れることによって永遠の命を持ち、「神の子供とされる特権」をも与えられるのです。一章12節「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は、神の子となる力を与えたのである」

 このように、この世に“人となって”来られた神の御子イエス様の生・死の目的は先に述べたように、罪人である人間の救いです。しかしイエス様の御来臨は、真理を行うものはイエス様のもとに来たり救われ、ところが、罪にあるものは、光を避けてイエス様のもとにこようとはしません。そうする事によって、自分自身にさばきを招いています。そのさばきとは、光が世に来ているのに人々は光よりも闇を愛した事によっておきるのです。エデンの園でアダムたちが罪を犯してから、罪の現実はいつも神の光を避けて藪の暗さに身をゆだねています(創世記三章8節)。

 愛ゆえに何かを体験させても、その体験がその人のさばきになってしまう事があります。善意で考えやったことで相手が傷ついてしまう事があります。そこに人間存在そのものの中にある暗さを見ます。私達は人間性(じんかんせい)と言う関係の中に生活しています。暗闇になれた生活をしている人に光の中での素晴らしい美しさを知ってもらいたいと証をします。祈りながら工夫をしていかなければじんかんせいは独りよがりになります。 神の愛はヨハネ3章16節を信じた人にわかるものです。聖書を通読し、そして精読する時にこの一節を理解し、キリスト教の真髄を自分のものとすることが出来ます。


【神の国を見るには】 ヨハネ2章1節〜15節 (深佐 牧師)

 パリサイ人でユダヤ人の指導者であるニコデモが夜、イエス様のもとに来ました。パリサイ人はモーセ五書(律法)を厳格に守る貴族階級でした。イエス様は現代的に言うとユダヤ教の宗教改革者ですので、サンヒドリン(ユダヤの最高法院)の70人の一人であり財産家でもあるニコデモには大変な行動でした。その彼が人目を忍んで主を訪問したのです。おそらく律法遵守の不可能を日ごろ感じていたところ、イエス様の評判を聞いてひそかに主を訪ねてきたのでしょう。

 主は彼の心の底にある問いに対して『アーメン アーメン 誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』と答えられました。ニコデモは「・・・もう一度母の胎に入って生まれることが出来ましょうか」と言いました。アノーメンανωμεν   は上からとも再びとも訳せる言葉です。新しい誕生は霊から生まれると主が言われるように、神の恵み、力からおきることなのです。

 私達は四重の福音を旗印にしています。新生、聖化、再臨、神癒です。信仰の出発は新生です。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と教えを述べ、罪を告白する者にバプテスマを授けた(マタイ三章1〜12節。)

 使徒二章36〜39節。旧約聖書を引証しつつ、「あなた方が十字架につけて殺したイエス様を、主またキリストとしてお立てになったのである」とペテロが述べると、これを聞いた人々は強く心を刺され、使徒たちに「兄弟たちよ、私達は、どうしたら良いのでしょうか」と言いました。ペテロが答えました「㈰悔い改めなさい、㈪あなた方一人びとりが罪の赦しを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、㈫あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、我らの主なる神の召しに与るすべての者、・・・与えられているものである。」

 この聖霊の賜物は、聖めであり、再臨の主の前に招かれる者であり、神癒の恵に与る者とされるのです。そうして御霊の實を結ぶものとされるのです。それはガラテヤ五章32・33節に述べられます。そのためには、自分の肉を、その情と欲と共に(キリストの)十字架につけてしまったのです。これが罪の悔い改めとバプテスマを受ける事でして、そのことによって、新たに生まれることが出来るのです。

 新生したものは神の国を見ることができるのです。天国は主の祈りの中に見られます。天国は神のみ旨が天に行われるように、この地上に行われるような社会です。天国にあるとは神のみ旨に、徹底的に喜んで服従させる人生を生きることです。神のみ旨を知るには神のみ言葉・聖書を十分に受け入れることです。私達が神様の恵みによって再び生まれ、イエス様の十字架の血潮により、聖霊のバプテスマを受けて新しい人生を歩んでいるのです。その出発が新生です。


【水を汲んだ僕たちは知っていた】 ヨハネ2章1節〜12節(深佐牧師)

 ヨハネ福音書が書かれたのはAD百年頃エペソにてヨハネの口述を長老のヨハネが筆記したと思われます。個人的な著作と言うより教会、エペソ地域がその背後にあります。書かれた目的は「これ等の事を書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである(二十章31)。」その頃のメンバーはユダヤ人教会のものではなく、ヘレニズム(ギリシャ)世界に育った人々でしたので、キリスト教は新しく言い直さねばならなりませんでした。真理が変わったということではなく、言葉と表現を変える必要があったのです。

 主は最後の晩餐の席で語られたご遺言の中で「助け主、即ち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなた方にすべての事を教え、また私が話しておいた事を、ことごとく思い起こさせるであろう(十四章26」」ヨハネは約70年の間聖霊の導きにより、イエス様について、また語られた事について深い理解と解釈を持つことが出来ました。その証と話を聞いた人々がそれを記録にしたいと望み出来た福音書です。共観福音書と違ってイエス様のなさった事を述べるのではなく、自分の目で見、耳で聞き、肌で感じた事を聖霊によって示された事どもを書き記した福音書です。

 彼は先ず言葉としての主を語り、最初の奇跡としてカナの婚礼の出来事から始めるのです。他の福音書の奇跡は主の愛と苦しみに対する共感からなされていますが、もちろんそれらの事もありますがヨハネは主の奇跡はイエス様の栄光を現される事だと述べています。

 イエス様の母マリヤがその世話役のような立場であった。給仕役からぶどう酒がなくなってしまったと告げられた彼女は、その旨を主に伝えられた。主は4とぶっきらぼうのような調子に聞えますが、婦人はギリシャ語ではγυναιグナイ尊敬する女性に対する呼びかけです。意味するところは心配しないで下さい。この事態を私に任せてください。私のやり方で解決しますからと返事なさったのです。『私の時は、まだ来ていません』主イエス様はご自分の時を常に意識しておられた。それは十字架に繋がる神のときです。伝道の書三11「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」私達は自分の計画ではなく神様の示される時を求めて行動すべきです。

 マリヤは主を信じていたので僕たちに主の命じられるとおり水がめに水を容れなさいといいました。彼達は口までいっぱい水を入れました。ユダヤ人のきよめの慣わしにしたがって、大きな石がめが六つ置いてありました。完全数は七です。これらはユダヤ人たちが形式的に守る律法を指します。その不完全さの中に料理頭がぶどう酒になった水をなめてよいぶどう酒である事に感心して花婿を呼んでほめています。しかし水を口いっぱい汲んだ僕たちは水が良いぶどう酒に変えられた経緯を知っていました。このみ業に接した5人の弟子たちは主の栄光を拝しイエス様を信じました。

 私が元住吉で開拓伝道を始めたとき、信仰に導いてくださった水口牧師が、伝道者の生活は大変な事が多いが、主の命じられたことをするので、水を汲んだ僕たちが主の奇跡を知ったことと同じような素晴らしい事を経験するので常に主のみ旨を問いつつ進みなさいと励ましてくださいました。その通り救われる多くの兄弟姉妹を見ました。天幕教会で何も無いところから、素晴らしい建物が与えられ、愛に満ちた兄弟姉妹と共に礼拝を守られる事を経験し感謝しています。


【見よ、世の罪を取り除く神の子羊】ヨハネ1章29節〜34節(深佐牧師)

 人類の始祖アダムの次男アベルは羊を飼う者で「その群れのういごと肥えたものとを神に供え物とした(創世記四章4節)。」牧羊の盛んなところでは、古くから人々は生後3・4ヵ月ぐらいの物を賞味していた。聖書では神との関係で子羊は大きな意味を持っている。出エジプトの奴隷から神が救出されようとした前夜、子羊の血を鴨居と入り口の2本の柱に塗り、おおいそぎでそのほふった子羊の肉を焼いて食べた。その夜天の使いは子羊の血の印のあるイスラエルの家を過ぎ越し、エジプトの長子のみ殺された。こうしてイスラエルはエジプトを脱出する事が出来た。今に至るまで過ぎ越しの祭りとして年毎に繰り返し守られている。子羊の血が彼達を救った事を覚え感謝して過ぎ越しの祭りを守り続けている。

 ヨハネが歩まれる主を見て、彼の弟子アンデレと他の一人に「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子達は主について行った。前日「世の罪を取り除く神の子羊」29節。『ある人の上に、御霊が下って留まるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授ける方である』私はそれを見たので、この方こそ神の子であると、あかししたのである」とヨハネが言ったことを弟子達は聞いていた。

 ヨハネは祭司ザカリヤの子でしたので、神殿のあらゆる祭儀と犠牲に通じていたと思われる。神殿では人々の罪の贖いの為毎朝毎晩、子羊が献げられていた。AD70年に神殿が破壊されるまで彼らは子羊を献げる事を怠らなかった。彼は「神殿で毎朝毎晩、人々の罪の為に子羊が献げられている。しかしこのイエス様こそまことの子羊、人々の罪を取り除く唯一の犠牲なのだ」と弟子達に語った。

 預言者エレミヤは十一19「しかし私は、ほふられに行く、おとなしい子羊のよう」またイザヤ53章全体に述べられていることが、イエス様についてのきわめて重要な預言です。五十三章7節「彼はしえたでられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほうり場に行く子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」ヨハネはこれらの預言が神の子羊イエス様であることを理解した最初の人物である。

 犠牲として神に献げられる羊は傷も無い健全なものでなくてはならなかった。それがやがて商売の対象になった。祭司の許可を受けた者達から購入したものは完全なものとして受け入れられて不正がはびこった。そこで二章14節以下のイエス様の宮清めがあった。イエス様が鞭を作り台をひっくり返されたこの出来事は普段の穏やかな主の行動かと驚かされるとともに神様に対するキリスト者のあり方にも大いに考えさせられることである。

きずも、しみもない子羊のようなキリストの尊い血(第一ペテロ19)。全く罪を知らない主イエス様の血が十字架上に犠牲として流された。主イエス様の十字架の死による尊い血によって、世の罪を取り除くのが神の子羊である。

黙示録には神の子羊が多く描かれる。五章12節「ほふられた子羊こそは、力と、富と、智恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、讃美を受けるにふさわしい」と述べ。神の子羊こそ神のすべての封印を解き得るお方だと言う。このように子羊はイエス・キリストを表す象徴として新約はのべる。


【洗礼者ヨハネの証言】 ヨハネ1章6節〜18節(深佐牧師)

 旧約の最後の預言者マラキは、民が神殿を省みず十一献金を怠りそのため神殿は傷み祭司達も自分の生活のため神殿を離れ、民の為の犠牲も献げられなくなり、神様と民の対話が出来ぬほどその間が広がってしまいました。その時預言者マラキが立って神様と民との間に中保者となって橋渡しをしました。そのマラキ以後約4百年間預言者は現れませんでした。

 神様から遣わされたヨハネが15節「主について証をし、叫んでいった。『私の後に来る方は、私よりも優れた方である。私より先におられたからである』ルカ三章3〜17「神の声が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。彼は罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。・・・・・・」

 マタイ三章2「悔い改めよ、天国は近づいた」とヨハネが宣べ伝えたので広い地方から人々が続々と集まってきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けました。続いてのヨハネの言葉を聴くと分かりますが、彼のバプテスマは身体を洗って清くなることではなく、この罪を告白するのは今後二度とこれまでの罪は繰り変えませんと告白する事でして、その行状も変わらねばなりません。その印としての洗礼です。これに対して教会のバプテスマは罪の赦しを得させるものです。なお誤解されていますが洗礼とは罪を洗い流す事ではなく、元の意味は身体を水に沈めるという言葉から出ています。洗うというより浸すので浸礼という事が良いのではないでしょうか。

 イエス様も宣教して『悔い改めよ、天国は近づいて』とヨハネとまったく同じ言葉を述べられました(マタイ四章17)。が内容は全く違います。天国・神の国と訳されたのは、字義どおりだと国よりも支配と言う意味になります。国土と言うのではありません。支配の対概念は服従です。神が支配しそれに服従すればよいのですが、服従しない場合が罪なのです。ヨハネはその事を知っているので、開口一番悔い改めよと言ったのです。神の支配が近づいているのに、天国が近づいているのに、神に服従しないで勝手なことをしているのを悔いて行状を改めなさいと言うのです。ルカ三16節みんなの者に向って「私は水でお前達にバプテスマを授けるが、私よりも力のある方がお出でになる。私には、その靴の紐を解く値打も無い。この方は、聖霊と火とによってお前達にバプテスマをお授けになるだろう。・・・・・・」と救い主を待ち望んでいる者達に語るのです。

 ヨハネはこの命人の光であるイエス様を証しするのです。神を見たものはまだ独りもいない。ただ父の懐にいる独り子なる神だけが神を現したのです。ヨハネ一章12「しかし彼(主イエス様)を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となるちからをあたえたのである」。

 今も「悔い改めよ、神の国は近づいた」と御霊は御一人お一人に語りかけておられます。イエス様は十字架に血を流され、主を信じるものに救いを与え、全ったき聖を与えられ永遠の命を授けてくださいました。バプテスマのヨハネはその備えの為、罪を人々に自覚させる為に遣わされた先導者です。彼こそキリスト(救い主)と信じた人々もいました。しかし彼は神様から『御霊が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と言われた。翌日歩いておられるイエス様を見て、自分の弟子二人に「見よ神の子羊だ」と言ってキリストとして紹介しました。ヨハネ一35節。これ等がヨハネの証です。


【わたしはあなたの名を呼ぶ】イザヤ43章1〜節(上中光枝牧師)

 今朝、私たちは共にここに集められています。「教会」は、召し集められたものという意味の言葉が使われています。ひとりひとりが、この時間のために時間を工面し、準備を整え、暑い中一所懸命足を運びました。神様を求める思いやがんばりがあったことでしょうが、呼び出してくださったのは、神様です。それぞれの生活の中から私たちは、神様に呼び出されてここに集められました。何のためでしょうか?それは、神様がご自分の言葉によって、大切な思いを伝えるためです。神様の思いとはどのようなものでしょうか?それは、「わたしは、あなたをこよなく愛しています。あなたは、わたしにとって大切な存在、イザヤ43:4『わが目に尊く、重んぜられるもの』です」と呼びかけられる愛です。

 礼拝において私たちは、神が神ー人が人 である関係を確かめます。神様は、私はあなたを創った神、初めであり終わりである永遠の主であるとご自身を顕されます。そのお方が「あなたはわたしが創ったわたしのもの。愛するために創りました。あなたを知っています。わたしはあなたとの特別な関係をキープしていたいのです。あなたは、わたしのものであり続けなさい。わたしは、存在をかけてあなたに呼びかけます。わたしのほうを向き、集中し、わたしの呼びかけに応えなさい」とわたしたちに向かってくださっています。

 1節には、「・・わたしはあなたの名を呼んだ・・」とあります。誰かから声をかけられるのは嬉しいものです。神は、「みなさん」ではなくあなたの名、個人的な全てに向かって呼びかけられるのです。マザーテレサは、愛の反対語は、無関心であると言いました。誰からも心に留められない、存在を顧みられないと感じることは「もう生きていけない」と思うほど辛いことです。神の愛は、わたしたちをひとりびとりを知っていてくださり、深い感心をもち、特別なものとして生かす愛です。私たちは自分が最も生かされている状態になりたいものです。存在が喜ばれていることを確かめ、与えられた使命を悟ってお役にたちたいと願います。

 私たちが在るべきところにないときには、自分の存在を見失ってしまいます。自分の価値がわからなくなるのです。正しい自尊心は自分で自分を認めるだけではなく、他者との関係でつくられます。私たちは神のかたちに創造されました。神のかたちとは、三位一体の神が別の位格でありながらひとつに交流し愛であられるように、その交わりに加わり共に交流できるように創られているということです。神と愛し合えるように創られているところに神に重要視されている自分を知ることが出来ます。神に尊いものとして創られていることをしっかりと受け止め、自分の尊厳を受け入れる時、同じく神より尊厳を与えられた他の人を認めることができます。あなたの〜がいいとか誰かと比べていいとかではなく、存在そのものがOKとされているのです。教会で、家庭で、職場で、学校で・・・どんな時でも自分がOKだと思えたらいいですね。「天のお父様、あなたの愛を感謝します」といつでも確かめられると嬉しいですね。

 しかし、現実には自分を見て、あるいは誰かと比べてどうして私はこうなんだろう・・〜だったらいいのにという思いはないでしょうか?自分の思いや誰かからの声で心がいっぱいになってしまうのです。あなたはダメだと直接言われた時にはもちろん、直接言われなくても様々な出来事に自分がダメだと言われているように思えて落ち込んだりします。〜でなくてはならないと小さい時から親に言われてきたこと、学校で要求されること、何点で合格、何点は失格などの評価、成績は点数だけではなく意欲が見られるかどうかまで評価されます。まじめにがんばっていてもがんばっていることを上手に表現できなければ、意欲・関心がないと評価されます。職場での評価はさらに厳しく、ノルマの達成度や営業実績・・人物評価・・・試されることばかりです。これでもかこれでもかとダメージを受けるようです。

 自分はダメ、いないほうがいい、自分だけが大変だと感じているなら、本当の私はどうなのだろう?と考えてみましょう。本当の私はどんなもので、何をしたくて、何をしたくなくて、どうあったら一番幸せなのか、何をすれば充実感を味わえるのか・・マックス・ルケード牧師の書いた「たいせつなきみ」という絵本があります。マックス・ルケード牧師は深い真理をわかりやく伝える優れた作家です。

 「たいせつなきみ」はエリという彫刻家が彫った木の小人たちのお話です。小人達は毎日金ぴかの星シールと灰色のダメ印シールをくっつけ合って暮らしていました。きれいな木でできていたり、歌が上手だと星シール、失敗や失言にはダメ印シール。主人公のパンチネロはダメ印だらけ。言い訳もうまくできず、失敗がこわくて家から出られなくなるほどです。ある日パンチネロはシールが1枚も貼られていないルシアに出会います。スゴイと感動して星シールをつけようとするとくっつかない。他の小人がシールがないとバカにしてシールを貼ろうとしてもくっつかない。「もう誰からもいいとか、悪いとか言われたくない」と思ったパンチネロはどうすればそうなるか尋ねます。答えは「毎日、エリに会いに行くから」でした。自分なんかに会ってくれるかなと心配しながら、パンチネロはある日エリに会いに行きます。エリは「パンンチネロ」と呼びかけます。「どうして自分を知っているの?」と戸惑うパンチネロにエリは「待っていたよ。おまえは私がつくったのだ。同じ木彫りの小人同士、どう思うかなんて気にしなくていい、わたしはおまえのことを大切に思っている」と伝えます。すんなりとそうなのかと思えないパンチネロに「おまえはわたしがつくったから、わたしのもの、だから大切。毎日待っていたんだよ」と語りかけます。そして「ルシアがシールなしなのは、みんながどう思うかよりわたしの思うことのほうが大事だと決めたから。おまえがわたしの愛を信じたならシールなんてどうでもよくなる」と教えてくれます。「とにかく毎日私のところにおいで。忘れちゃいけない。この手でつくったからおまえは大切、わたしは失敗しない」の言葉に「ありゃホントだ」と思ったとき、ダメ印がひとつ落ちました。シールは自分がつけさせていました。

 心にダメージを受けた人の回復プログラムについて学ぶチャンスがありました。自分がダメだと自己意識が低下してしまった時、人は他をあいつはこんなにダメだと下に押さえつけたり、逆に優れた人物と自分とのつながりによって自分を高めようと試みるそうです。うまく上がれた時には自分がよかったから、上がれなかった時には他のせいになり、あの人がこうしてくれなかったから、こう言ったから、あそこへ行かなければ、あの出来事がなければ・・もっといい家に生れていれば、いい人に出会っていれば・・ときりがありません。自分の思いでいっぱいになると周りは見えなくなり、自分だけが大変でかわいそうに思えてきます。心は硬くなり、自分自身は変わらないままです。自分が変わるには、言い訳を繰り返さず本当の自分としっかり向き合う必要があります。自分の本当の姿は、自分でわかっているようで、そうでないかもしれません。私たちを一番良く知っていてくださる御方がいますね。

 神様が私たちを愛してつくったのに、愛し続けているのにその思いが伝わらなかったらどんなにがっかりなさることでしょう。向かい合って思いを確かめ合いたいと思って待っているのに、いつまでも自分なんかダメだ、どこにも行くところがないと思っていたら、どんなに悲しまれることでしょう。神様は、あなたの名前を呼んでいます。あなたを知っている。あなたがいるべき場所はここだよ。ここで生きなさい。ここで歩みなさい。と呼んでくださっています。こっちだよ。ここに帰ったら大丈夫だからと。

 マタイによる福音書23:37には『ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえに遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうどめん鳥が翼の下にその雛を集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえは応じよとしなかった・・・』とあります。呼びかけられる神様と人の態度、神の嘆き、愛の思いが表された言葉です。イザヤ書43:1では「恐れるな わたしはあなたをあがなった・・」とあります。あがなうとは、お金を払って買い戻すことです。他の人の所有になってしまった土地を買いも戻して再び自分のものとしたり、奴隷が他の主人にお金を払ってもらって元の主人より解放される場面で使われます。しかし、お金で買い戻せない命の場合には、血で復讐する(申命記19:6、12)の復讐すると訳されています。お金で払えない命は、命で払わなくてはなりません。キリストが十字架の上に命を与えて、私たちをサタンの支配より買い戻してくださった姿が思い浮かびます。十字架上のキリストに命を投げ出しても私たちをご自分のものとして買い戻そうとされる愛の神の本当の姿が表されています。

 命がけで呼びかけてくださっている神に対する私たちの態度はどうでしょうか?イザヤ書43:21〜には「この民は、わが誉れを述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた・・・」とあります。どんなに呼ばれても神様…と呼ぶことができない。神の愛に心をかたくして立ち返ろうとしない、自分を変えようとしない私たちの姿です。私たちの背きの罪を負ってキリストは十字架にかかられました。どこまでもわたしたちを捜し求め呼びかけ続ける神の思いを感じることができますか?十字架を見上げてキリストのまなざしと目を合わせるなら、自分はダメだとか行き場がないとは言えません。自分で自分をあきらめたりどうにかしようとしたり誰かのせいにすることなく、神の呼びかけに応じて、立つべきところに立ち返りましょう。自分の本当の姿を知り、本心に立ち返り、「天のお父様、御名が崇められますように」と神様を呼び、御前で語られる御思いを聴きましょう。

 神を知っていても自分をOKだと思えないなら、自分や人の言葉を退けて神の言葉を絶対として聴きましょう。もし、神より自分が遠く感じるなら、招かれる場に帰りみそば近く帰りましょう。神がご自分を呼んでおられることがわかるなら、神がわたしたちの隣り人をまた呼んでおられることを覚え、キリストのあがないを証しし、伝えていきましょう。


【あなたがたはその枝】ヨハネ15章5〜13節 (上中光枝牧師)

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15:5)と聞くとどのように感じますか?

私はいつも神様につながっていて命にあふれています!と言えたら幸いです。

しかし、時に私たちは、枝なんだから神様に頑張ってつながっていなくてはと考えて疲れてしまったり、なんだか神様から遠く離れていて、ふさわしくないため捨てられるのではないかと不安を感じたりすることがあります。

以前からこのみ言葉は、私のために語られているみ言葉だと思い好きなみ言葉でした。わたしの名前の光枝のえは枝です。クリスチャンではない両親がつけてくれたのですが、聖書でこのみ言葉を知った時には、驚きました。嬉しい!と思いました。

しかし、最近新しくこのみ言葉が、神様からの強いメッセージとしてわたしに響いています。

「わたしはぶどうの木」は、エゴー エイミーという表現で書かれています。旧約聖書でモーセが神様に「あなたの名前はなんですか?」と尋ねたときの答え「私は在って在るものだ」の「在って在る」という神様がご自分を顕示される時に使われた表現です。

ヨハネによる福音書には、「わたしは〜である」というイエス・キリストの言葉が8つあります。全部わかりますか?今日テストはしませんが、実はわたしの受けた聖書学院入試には、“8つ答えてどんな意味か記しなさい”という問題が出ました。14章では、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語っています。6章では、「わたしは命の○○である」・・・2文字・・「パンである」ですね。8章では、「わたしは、世の○○○である・・・3文字・・「ひかりである」10章では、「わたしは良い○○○○○である・・・5文字・・「ひつじかいである」です。そして15章の5節では、「わたしはぶどうの○、あなたがたはその○である。」ぶどうの木とその枝がセットになっています。ここでは、ご自分をぶどうの木と顕されると同時にわたしたちを「その枝である」と高らかに宣言してくださっているのです。なんと嬉しいことでしょう。「わたしはぶどうの木だから、あなたはがんばって枝になりなさい」ではなく「あなたはその枝である」「わたしの枝である」イエス・キリストにつながる枝とされているということです。

ぶどうの木は、教会を指します。1節に語られているようにイエス・キリストは「まことのぶどうの木」です。あちこちにあるぶどうの木の内のひとつ のぶどうの木でなくて、ぶどうの木の中のぶどうの木、これぞぶどうの木!ぶどうの木そのもの!という“全く別の次元のぶどうの木”です。そしてわたしたちは「その枝」なのです。

わたしたちは、命そのものにつながれ、同じ命が通って、一緒に生きるものとされています。木の専門家ならわかるのかもしれませんが、ふつう木は木だけでは何の木なのかわかりません。実のつく木なら枝についた実によって何の木なのかを知ることができます。

わたしの家の近くに道路沿いに実のなる木をたくさん植えていらっしゃるお宅があります。冬の間何の木かなあと思っていると春に次々とピンクの美しい花が咲きます。桜かなあ梅かなあと思っていると、夏近くになるとある木には桃が、ある木にはさくらんぼが、白い花をつけた木には、夏みかんがなるのです。木に通う命が実によって枝に証明されます。わたしたちイエス・キリストにつながる枝には、キリストの命が通っていて、枝であるわたしたちの存在に、イエス・キリストの命を証明する実がなります。キリストの愛に生きる教会につながっていることを証明する“愛する”という実でしょう。

4節には「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしもあなたにつながっていよう」とあります。「あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。・・・・人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまう・・・」と続くので、離れたら大変、つながっていなければと焦りますが、つながる、とどまると繰り返されている言葉は、同じ言葉が使われています。別の訳、フランシスコ会訳では、「わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、あなたの内にとどまる」と訳されています。イエス・キリストの命がわたしにとどまって、わたしの内にある。命そのものである御方がわたしの内にいらっしゃるというのです。枝が木から離れて自分だけで生きることも、自分で実を結ぼうとがんばることも無理です。ですから、「わたしにつながっていなさい」は、わたしがあなたを生かすからあなたは、わたしにつながって生きなさい!という神様からの強いメッセージです。

そばにいても役に立たなければ、捨てられてしまうのではと不安になることもあります。しかし、13節には「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とあります。キリストは自分が捨てられて私たちを神につなげてくださった御方です。

キリストは、神から離れ背くもののために、ご自分が身代わりとなって命を捨ててくださいました。神より捨てられてくださったのです。わたしを愛し、罪を赦し、神につながり交われるものとしてくださった御方が、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」わたしの命につながっているから、あなたは生きなさいと語ってくださっています。全ての命、存在の元の元、根源であり中心である御方が、わたしたちの存在の底の底、中心に存在しなさい、生きなさいとメッセージを伝えてくださっています。口先だけではなく、命を捨てて愛を伝えてくださっています。この愛があなたの内にとどまっています。

わたしたちは、「あなたはいてもいい、愛しているよ、生きなさい」と伝えて欲しいと心の底で求めている、わたしの存在を強く肯定し中心より支えるものが欲しいと求めているのではないでしょうか?

キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語ってくださいます。キリストの命が私の内に流れてくるのを感じることが出来ますか?忙しく、いろいろなことでいっぱいいっぱいになって、自分ひとりでがんばっているように感じるなら、心を鎮めましょう。わたしの傷をキリストが知っていてくださり、十字架の御傷よりわたしの傷を通して命が注ぎ込まれます。キリストは痛みを覚え、命をかけてあなたを愛しているよ、あなたはここにいなさい、あなたを内側から生かしています。あなたのここがいいからとか、あの人と比べていいからではなく、あなたそのものがいいよと伝えてくださっています。あなたはわたしのものだ、生きなさい!その存在を喜んでいるからと伝えてくださっています。

私がキリストの愛の中で、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」この言葉を聴いたとき、新しく神よりのメッセージが心に響いてきました。本当に嬉しくて嬉しくて、じわじわじわじわと喜びが溢れてきました。今も喜びが溢れています。キリストの愛にとどまり、愛に生かされましょう。ぶどうの木である教会にキリストの愛があふれますように。キリストにつながっているなら、その枝には友のために命を投げ出す愛が、表れてきます。与える愛を知るものとなり、その愛をそばにいる人に伝えていきましょう。


【さいわいを告げる言葉】マタイ五章1〜12節(上中栄 牧師)

《イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた》。

今年は、日本開国後のプロテスタント宣教150年の年で、いろいろなイベントが催されています。日本でプロテスタント宣教を行ったのは、開国前後に来日した宣教師たちでした。その宣教師の多くは、いわゆる教職ではなく、医者であったり教師であったりしました。第一世代のキリスト者たちは、彼らの感化によって信仰をもちました。福音は、人から人へと伝わったのです。それは、「言葉」を通して福音が伝えられたということです。

私たちに与えられているのは、主イエスの言葉です。「さいわい」ではじまるこの説教は、「山上の説教」と呼ばれています。「山上の説教」には、よく知られた言葉が多く含まれており、世界に与えてきた影響も大きいと言われます。

例えば、あのマハトマ・ガンジーの非暴力抵抗運動は、「山上の説教」に啓発されたというのは有名な話です。また「山上の説教」で必ず引き合いに出されるトルストイは、「山上の説教」を実行しようと苦悩、努力しました。その一方で哲学者ニーチェのように、これは人間には実行不可能な倫理で、人間を苦しめるだけの「奴隷道徳」といって非難した人もいます。教会の中でも、修道院で生活する人のための教えであるとか、実行不可能な人間の愚かさをつきつけ、神にすがるための教えと理解されもしました。総じて「山上の説教」は、戒めであり、高い倫理を示すものと理解されてきたと言えるでしょう。これらいずれの考えも真実を含んでいると思います。

しかし「さいわい」ではじまるこの説教は、単に高い基準や戒めではないでしょう。

「山上の説教」は、主イエスが繰り返し語られ、弟子たちが聞き続けた言葉だと言われています。マタイ福音書を始めから読むと、第5章から第7章までの「山上の説教」の部分にすぐにさしかかります。すると、主は「山上の説教」を一気に語られたような印象を持ちますが、そうではないようです。

マタイ福音書は、既に書かれていたマルコ福音書と、主イエス「語録」のような資料と、マタイ独自の資料を用いて書かれたと考えられています。「語録」は、主が繰り返し教えられたことが、弟子たちなどによってまとめられたものですが、その中に「山上の説教」の一部が含まれていたと思われます。ルカ福音書第6章には、一般に「平野の説教」と呼ばれる主イエスの説教があります。その中に「山上の説教」との重複部分がありますが、それはこの「語録」が用いられたためと考えられます。

また旧約聖書を見ると、ユダヤの人々が神の言葉を学ぶ方法は、繰り返し繰り返しみ言を読んで覚えるというものです。このことからも、ラビ(教師)と呼ばれた主イエスは、繰り返し同じ教えを語られたと想像されます。

つまり、繰り返し語られた「山上の説教」は、私たちにとっても繰り返し耳を傾け、深く思い巡らしながら聞くべき神の言葉ということが出来ます。よく知られている言葉も多いために、分かったような気になる部分もあります。けれども、分かったように気になるのは、戒めや高い基準だと思うからではないでしょうか。主イエスが語られた「さいわい」を共に聞き取りたいと願わされます。

そこで注目したいのが、この「山上の説教」冒頭の、主イエスが《座につかれ》たという言葉です。日本語でも「講座」と言いますが、「座る」教師の周りに生徒が集まり、その教えに聞くのです。しかしそれだけではなく、この言葉は新約聖書では「即位」という意味を持っています。聞くものが、《座》につかれた主イエスは新しい生き方を説くにふさわしい御方であると、その権威を認めることを意味します。つまり、この言葉を聞くものが、主がどのような御方であると理解するかによって、「山上の説教」は福音にもなれば奴隷道徳や高すぎる倫理にもなります。

「さいわい」は誰もが望むことでしょう。しかし、その「さいわい」を告げた主イエスを、人々は十字架につけて殺してしまいました。それは、「さいわい」を望む人の心は、主イエスが《座》につかれることを拒み、どこまでも自分が中心であることを表しています。

主の山上の説教は、あのシナイ山で十戒を授かったモーセの物語に対応すると言われます。それは、イスラエルがエジプトから救い出されたように、人はイエス・キリストの十字架と復活によってのみ罪から救われるからです。救い主である主イエスの言葉として「山上の説教」に耳を傾ける時、それは私たちにとって福音となるのです。私たちにも主の「さいわい」を告げる言葉が響いてきます。そして、私たちもまた、主「さいわい」を語ることができるようになるのです。


【初めに言があった】 ヨハネ一章1節〜13節 (深佐牧師)

 “ロゴス”はキリスト教のメッセージを示す特色ある語として用いられています。ヨハネは福音書を述べるとき、創世記の一章1節で「初めに神は天と地とを創造された」と、イエス様ご自身をロゴスとして記述しました。このとき彼の念頭にはこの言葉の記事がありました。言葉によって混沌たる世界に創造の業が進められました。ヨハネは『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』と述べ、言葉は混沌に意味と命と光を与えた言葉であって、ヨハネはこれをロゴス(ことば)と言い換えました。

 西洋文化はヘレニズム(ギリシャ精神)とヘブライスム(ユダヤ教キリスト教の基をなす)を源流としています。両者にロゴス論があり、ヘブライに古くからあったロゴス論を哲学として見る人々もいます。ヘレニズムでは言葉と理性を意味し、世のすべてを決めるのは神のロゴスだとしています。ギリシャ、ローマにキリスト教を広げようとしていたヨハネはユダヤ的観念の衣を着せたままでは受け入れられない、そこで彼はイエス様にギリシャ的な衣を着せ、ロゴスが人となった神である事を伝えたのです。

 イエス様の語るロゴスは人を救い、命を与えます。『私の言葉(ロゴス)を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受ける(五章24節)。』神のロゴスは人間にはそれを聴くことが出来ず、ただ神に遣わされた者、イエス様に聴従する者のみがそれを聴くことが許されています。

『ロゴスは神と共にあった』ヘレニズムの語る宇宙の原理・人間内住の理性ではなく、ヨハネは人格的存在として主を描いています。神とロゴスの間には人格的関係が見られます。そのロゴスは神であり、命がありその命は人の光でした。このロゴスが肉体となり私達のうちに宿ったのです。ヨハネの語るロゴスは理性によって作り出されたものではなく、彼らが目で見、耳で聞き、手で触ったイエス・キリストの人格とその業、生活、十字架の死と復活との現実の出会いがヨハネのロゴス・イエス・キリスト論を生み出したのです。彼の語る何気ない言葉の背後には受肉して人となられたイエス様が立っておられます。

 ヨハネ、はこのように語ることによって主がナザレに育ち全き人間としてこの世に生活なされたことを、それは神様が私達に語られておられる事でして福音書を通して証言しているのです。

 ロゴスは神様の言葉です。キリストご自身が語られる言葉でもあります。イエス様の十字架を通して語られる神様のみ言葉でもあります。 

 文明開化といわれた明治初期に次々と宣教師達による伝道が始まりましたが、彼らは聖書を翻訳して神のみ言葉を広げようとしました。私はヨハネ1章を読むたびに、1846年に沖縄で伝道を初めたベテルハイムが上陸まもなくこの箇所を訳した『初めにかしこいものがござった。・・・・・』を読んで、その苦心を知りました。先輩方が苦労してこの聖書を神の言葉として与えてくださった事を忘れずに、先ず聖書を通読し、そして精読に勤めて行きたいと思います。

 江戸初期にキリシタンに対する激しい弾圧がありました。彼達は聖書を持っていませんでしたが、伴天連(宣教師?)の教えを覚え瞑想し弾圧に耐えました。60数年前私達の先輩は、聖書で養われた信仰を持って戦時中の弾圧と戦いました。その事を誇りとすると共に、聖書信仰を強めたいものです。


【何を求めているのか】 ヨハネ一章35節〜42節(深佐牧師)

 最初の弟子達がイエス様に出会ったときのことが述べられています。アンデレ、シモン・ペテロ、ピリポ、ナタナエル、アンデレと一緒にいたゼベダイの子ヨハネと思われる彼は、兄弟ヤコブを探しに行ったようです。三福音書にある彼らは使徒として招かれた時の事が記されています。

 洗礼者ヨハネはイエス様を見て彼の弟子たちに直接指差して、二九節「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言いました。これは弟子を含めて人々は聞いてすぐに出エジプトの過ぎ越しの子羊を連想した事でしょうし、エルサレム神殿の祭儀の子羊の犠牲を意味する事も理解しました。ヨハネ自身はイザヤ書五三章の苦難の僕との結びつきを考えていたようです。主は7節「ほふり場にひかれて行く子羊のように」12節「多くの人の罪を負い」4節「神に打たれ、神にたたかれ、苦しめられた」これらゆえにイエス様が世の罪を取り除く神の子羊である事は理解されたのです。

 ヨハネは二人の弟子達と一緒に立っていましたが、イエス様が歩いておられるのに目をとめて言いました。「見よ、神の子羊」。昨日ヨハネの言うことを聞いていた彼達は、主イエス様について行きました。主は振り向き『何か願いがあるのか。何を求めているのか』と言われた。彼らは「ラビ何処にお泊りなのですか」と言いました。イエス様は『来てごらんなさい。そうしたら分かるでしょう』そこで彼らはついていって主の泊まっておられる所を見ました。

私はこの主との対話を読んだ時、話は上っ面の問題のみを聞くのでなく、その人の気持ち感情を聴かねばならないことを痛感しました。彼達は泊まる箇所を聞くようであるが、人に邪魔されずゆっくり主の話を聴きたいという彼達の感情、それを主は受け取っておられたのです。それゆえに何処に泊まっていると、お答えにならず、『来なさい。そうすれば分かる』彼らはついていって、主の。そして泊まっておられる所を見てその日はイエス様の所に泊まりました。時は午後四時ごろでした。ヨハネにとっては主との出会いが強烈なものであったのでしょう。ヨハネの弟子からきっぱりとイエス様の弟子と切り替えたのは師の「神の子羊」の言葉によってです。この一晩語ってくださって主の弟子となったことが心に焼き付いていたのでしょう。時間まで忘れる事が出来なかったのです。

主との出会いを経験した彼達は愛する兄弟を探して、アンデレは兄ペテロを主の所に連れてきたのです。ヨハネは兄弟のヤコブを探しに行ったのでしょう。その時のアンデレの言葉は「私達はメシア(油注がれた者・キリスト)に今出会った」そしてペテロを主の元に連れてきました。アンデレは個人伝道の模範です。神様に導くには難しい理論は必要ありません。自分の主との出会いを語ればよいのです。

翌日ピリポが主と出会い『私に従ってきなさい』と招かれ従いました。彼はアンデレたちの町ベッサイダの人でした。このピリポがナタナエルに出会って言いました。「私達は、モーセが律法の中に記しており、預言者達が記していた人、ヨセフの子、ナザレのイエスに今会った。来て見なさい」彼達は主の弟子になりました。

このような弟子になった関係で、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)に出てくる主の招きに応じて使徒となったことの前提でもあります。


【聖霊と導き】 第二テモテ3章10節〜17節(深佐牧師)

 日本だけとっても、世の中は非常に複雑で困難の中にあります。改革改革と国民は踊らされ気がついてみると持てるものと持たざるものとの格差が広がり、リストラに会い、リストラに怯え、住居を失い、家庭崩壊の波に何時飲まれるか不安の中に置かれています。残業で過労死する者、自殺者も多数に上っています。生きる為に選ばねばならない事も増えています。相談する人ももたずに悩む人が増えています。

 私達キリスト者は父なる神様に祈り、聖霊の導きにより聖書にある神の言葉を頂き、兄弟姉妹の交わりの中に、諸々の苦難を解決する道が与えられています。主イエス様はご遺言の中で(ヨハネ14章〜16章)『助けぬしすなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こされるであろう』と約束なさいました。

 伝道者テモテに対して、パウロは㈼テモテ三15「幼い時から、聖書に親しみ、それがキリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る智恵を、あなたに与えうる書物であることを知っています。16節聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」ここで述べられる聖書は旧約聖書です。27巻の新約聖書が信徒に与えられたのは50年ごろから百年後ぐらいでした。

三位一体の神は天地創造に創世記一章に見られますが、二章以下の旧約には父なる神が歴史の中に現れ、子なる神は十字架の贖い後復活昇天まで見え、それ以後は聖霊が私達に臨んでおられるのです。

 キリスト教は複雑な深いこの世の問題の根に解答を与えます。どれを選んで生きて行けばよいか当惑している者に導きを与えます。導きには二つの面があります。一つは祈りのうちにある時に、聖霊がみ言葉を通して与える指導、進むべき道を指示することです。このような導きは聖霊が直接的に関係してきます。二つ目は摂理的な導きです。皆様も多くの人々の中から、(特に日本人には教会は遠い存在です)神様に選ばれてキリスト者になって行くのです。

信仰が与えられて振り返った時に、私のために神様のご計画であったことを知り驚きます。神様は戦争の悲惨さの中で私を選び、み言葉を通して主との出会いを経験させてくださいました。牧師になることは救われたとき主と約束しました。生きて帰ってくると理屈をつけて逃げ回っていましたが、結婚してこれで家庭に責任を持ち、先に献身している弟を支えればよいと、安心しきっていた時、思いもしていなかった妻と母が協力するからと聖書学院行きを勧められました。元住吉に来た時も、台湾に帰るまでと家庭集会を持っていた林異来牧師の帰国が急に決まった時、卒業間際の私に後を引き受けるようにとの話しで開拓伝道を条件にその場で決断しました。思えばすべてが神様のご計画だったのです。私はご摂理の不思議さに圧倒されました。

聖霊による聖書の教えもそうですが、神様のご計画、その摂理の中で働かれる聖霊の導きを経験しつつ、信仰生活と54年の元住吉教会での牧会生活が出来た事を神様に感謝しています。


【聖霊の賜物を受けよ】 使徒行伝2章36節〜39節 (深佐牧師)

 イエス様はまことの葡萄の木、主の父は農夫。主に繋がっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれを取り除き、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせる為に手入れしてこれを綺麗になさるのです(ヨハネ十五章1・2節)。父が良く手入れなさったので栄養分が根から吸収されぶどうの木を通して枝まで行き渡り良き実を結びます。この栄養分が聖霊です。この三位一体の働きが主に繋がる枝である私達に良き実を結ばせるのです。

 このよき実が(ガラテヤ五章22・23節)聖霊の實として「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」これ等を否定する律法はないと述べられます。原文のギリシャ語ではο καρποσと実は単数の冠詞となっています。それは九つの徳目の代表は愛であり、続く八つの徳目は愛の具体的な現われといえます(19・20・21節)。これらはすべて自分の欲望(肉の)のままに歩み、御霊に逆らっていてそのままでは實のならない枝として切り落とされ外に捨てられ、火に焼かれてしまうものであったが、主は私たちに自由を与える為この世の奴隷から解放してくださいました(五章1節)。

 主はキリストとして十字架の死を迎える前夜、弟子達に遺言としてヨハネ十四章〜十六章を与えられました。その中において、この世を去って父の元に帰る時、助け主・聖霊をわたしの名によって父が遣わされる事を伝えられました。ヨハネ十五章24節『あなた方が父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めた事はなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ち溢れるであろう』この言葉はご遺言の中に三度も出てきます。イエス様の名によって先ず求めなければならないものは良き実を結ぶ事が出来るようにと祈るのです。そうすればアガペー(神の愛)が与えられ、奴隷の身分から自由な全きキリスト者と生まれ変わり(新生)、愛に含まれる聖霊の實を自分のものにすることができます。

 主の名によって祈ると共に、ガラテヤ五章24節に「キリスト・イエスに属するものは、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」そうすると清い喜びが満ち溢れるのです。二章19・20節「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」このキリストの十字架経験は聖霊の満たしによってのみ体験できます。これがペンテコステの出来事が(使途行伝2章1節以下)昔だけの事でなく現在もあることの証です。

 2千年前聖霊降臨のとき御霊に満たされてペテロは証をしました。心刺された人たちの『兄弟達よ、私達は、どうしたらよいのでしょうか』との質問に「悔い改めなさい。そしてあなた方一人びとりが罪の赦しをを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなた方は聖霊の賜物をうけるであろう」使徒行伝二章38節。とペテロが答えています。これがキリスト者になる秘訣です。


【父と母を敬いなさい】申命記第5章16節、エペソ人への手紙第6章1〜4節 (上中 栄牧師)

5月の第2主日は「母の日」です。母の日は、今では一般の行事のようになっていますが、もともとはアメリカの教会から始まりました。フィラデルフィアの教会で、アンナ・ジャーヴィスの母親は教会学校の教師をしていましたが、1905年に急な病気で亡くなりました。教会では、ジャーヴィス先生の記念会を催し、アンナを招きました。その時にアンナは、生前にもっと母親への感謝の気持ちを表せばよかったという思いから、カーネーションを飾りました。このことが話題となって、1913年にはアメリカの議会で「母の日」が定められました。

日本には、1915年に青山学院教授のアレクサンダー女史によって紹介されたと言われています。日本の教会でも、教会学校などで母の日の行事が行われるようになり、母親への感謝の気持ちを表す日として定着してきました。こうした経緯を、日本の教会はもっと覚えてもいいように思います。

さて、先月、新しい年度に神の業を期待しようという思いを与えられ、旧約聖書の出エジプト記を開きました。そして「紅海渡渉」と呼ばれる物語を共に読みました。長い奴隷生活から解放されたイスラエルの民の目的は、神を礼拝することでした。困難に直面して神を忘れ、生きる目的さえも見失うイスラエルの民でしたが、神は力ある業によって救いの道を開いてくださいました。私たちもまた、イエス・キリストによって開かれた救いの道を、信仰をもって歩みたいと願わされます。

こうしてエジプトを脱出した民は、シナイ山で「十戒」を与えられます。これは神の民の規範となる言葉で、現在の教会でも大切にされている言葉です。この十戒は、前半が神とのかかわりに関する戒め、後半は人とのかかわりに関する戒めです。そして、今日与えられている「父と母を敬いなさい」という戒めは、後半の最初、つまり人とのかかわりに関する最初の戒めです。

おそらくこの言葉は、母の日によく読まれる戒めとして知られていると思います。母の日は教会学校と関係が深いこともあり、「父と母を敬いなさい」という教えは、子どもに語られる機会が多いのではないかと思います。確かに、「今どき」の子どもに対する教え、さらには現代社会の父親像や母親像、また家庭の諸問題を考えるなら、この戒めもまた現代的な意味を持っていると言えるでしょう。

しかし、この戒めは子どもに語られたものではありません。十戒そのものは、基本的には成人に対して与えられたものです。すると、この戒めの「父と母」は、年老いた親ということになります。これもまた、高齢化社会や介護など現代的な課題にもかかわると言えます。

私たちキリスト者は、こうした現代社会の諸問題に直面する場合も、聖書の教えから知恵を与えられることができるのです。しかし、家庭観や結婚観、また家庭の様相が多様化する現代、教会学校でもこの戒めは、それほど単純に読まれるわけではありません。そもそも聖書は、諸問題に対する処方箋ではありません。

この戒めは、人とのかかわりに関する最初の戒めと申しました。それは、神を信じる者が人と共に生きるために、最も基本的な戒めであることを意味しています。ですから、親子や家庭のあり方といった事柄ではなく、人間の生そのものにかかわるのです。

親子の関係は、人それぞれでしょう。しかし、すべての人に共通していることがあります。それは、だれにでも「父と母」がいるということです。つまり、すべての人は、「父と母」がいるからこの世に生を受けて生きているのです。ですから、「父と母」を「敬う」というのは、突き詰めて言うなら、自分自身の「生」を受け入れることです。

両親との関係など幼少期の体験は、人格形成に影響を与えると言われます。特に、大人になって何か問題が起きた時に、幼少期の体験が取りざたされることが多く、分析なども必要になるでしょう。しかし、その問題の原因を幼少期のせいにしても何の意味もありません。誰でも、自分の問題は他人や環境のせいにしてはならず、自分で向き合わなければなりません。ですから、神に生かされているという確信と感謝が、人との関係の基礎になると、十戒は告げるのです。

神を信じる者が自分と向き合う時、明らかに示されるのは、自分の弱さや醜さ、そして罪です。しかし、自分のありのままの姿を隠さずに認める時、キリストによる救いが実現するのです。「主にあって」と書かれているように、主イエスのみ業によって罪赦されるならば、自分が神に受け入れられていることが明らかになるのです。そして「長く生きる」と約束されているように、私たちの生そのものが、意味あるものとなるのです。

もうひとつ、旧約聖書の十戒には、「主が賜る地」でさいわいを得るとあります。荒野を旅するイスラエルの民にとって、「主が賜る地」とは、自分たちの本当の住処、つまり「居場所」でした。その地を民は目指したのです。

私たちも、神に生かされていることを信じるならば、「居場所」が与えられていることに気づきます。真に自分と人を受け入れることができれば、そこに新しい共同体が生まれることでしょう。それが教会です。そして私たちは、教会から家庭、職場、学校など、それぞれの生活の場所へ遣わされます。そこで私たちはいろいろな人と会います。そして人間関係に苦しむこともあるでしょう。しかしそこで私たちは、神の約束を目指して歩みます。

母の日、母親や家族への感謝と共に、神に生かされている恵みと、人と共に歩む幸いを覚えたいと思います。


【あなた方を捨てて孤児とはせず】 ヨハネ十四章18節〜24節(深佐牧師)

 14章1節『あなた方は、心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい』から、16章33節『これ等の事をあなた方に話したのは、私にあって平安を得るためである。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている』まで、それを聞いていた時には11弟子達は翌日の主イエス様の十字架の死など想像もしていませんでした。イエス様のご遺言とは誰一人気づいていませんでした。

 イエス様の十字架に死なれた時の弟子達の混乱を気遣われての1節のお言葉です。トマスの5節の質問「主よ、何処にお出でになるのか、私たちには分かりません。どうしてその道がわかるでしょう」これが弟子達の考えです。主は『私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない・・・』と十字架の主を通しての道のみが、み神のみもとに行けることを語られたがまだそれを理解できる者はおりません。主は16節『・・・・父は別の助け主を送って、いつまでもあなた方と共に居らせて下さるであろう。・・・』ようやく弟子達は気づき始め動揺が見えたのでしょう。18節と語られるのです。

 『私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方の所に帰ってくる・・・もうしばらくしたら・・・あなた方は私を見る。・・・』去って行ってもすぐ帰ってくると言われるのです。復活の主に見えるだけではなく主を愛する者はその主の復活に与るのです。主を愛していない者は復活の主にあっても無関心無反応です。み言葉に服従しイエス様を愛する者は父なる神の戒めを守り、神の愛のうちにあり、主の友となるのです。十節『もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちに居るのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである』十二節『わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』

 人間イエス・神の子はこの世を去っていかれても、助け主・慰め主・聖霊を遣わされ弟子達と共に居られ、彼達を捨てて孤児とはしないと約束され、不安を除かれるのです。その方は平安を与えなさるだけではなく、すべてのことを教え、主が話しておいた事を、ことごとく思い起こさせ。また悲しみも喜びに変えてくださる神からの霊・聖霊なのです。

 神のみ言葉・聖書は人間の経験知識では、理解出来ません聖霊の導きによってのみ理解体験できます。それが救い(新生)であり聖化(聖霊のバプテスマ)です。聖霊の導きでなく人間の智恵で解釈しようとしたところにグノーシス派のような異端が教会を荒らすような事がおきます。グノーシスについては機会を見て触れます。

 私達は四重の福音を旗印としています。新生・聖化・神癒・再臨です。これらは知識や神学で知る事は出来ません。聖霊によってのみ経験し、信じうるものです。


【神に見捨てられた主】 詩篇22編1節〜19節 (深佐牧師)

 イエス様は十字架の上で七つの言葉を語られました。これ等の言葉を十分に理解されるならば、キリスト教のことを殆ど知らない方々も、十字架の中心的な意味を理解する事が出来ます。キリスト教を知るには聖書全体を読むことが大事ですが、聖書は66巻の本を一冊に纏めたものです。それでまず新約聖書の初めの四福音書のそれぞれの終わりの付近に十字架の場面がありますので、この十字架上の七つの言葉を見てください。そこに聖書の真髄を見ます。その上で新約・旧約聖書お読み下さい。

「神のメシヤ救い主であるならば、十字架から降りるが良い。それを見たら信じてやろう」祭司長たちや律法学者達、通りかかった人々、ついに一緒に十字架につけられた者達までもイエス様をののしる中で、第一の言葉『父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ二三34』。』主イエス様は祈りの人でした。このようなひどい目に遭い、侮辱され、どんな時でも天のお父様と祈られました。祈りがイエス様の力の根源です。しかも侮辱され釘づけられてもその人々の為取り成しの祈りをなさるのです。私たちもどうしようもない時祈らねばなりません。取り成しの祈りをしなければなりません。

第四の祈りは『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』マタイニ七46(ヘブル語)、詩篇二二篇1。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』マルコ十五34(アラム語当時使用され主も日用語として使用)これらは『我が神、我が神、何故私をお見捨てになつたのですか』と言う意味です。詩篇二二6『私は虫けら、とても人とはいえない、人間の屑、民の恥』主が私の罪を負われ、謙遜に身を低くしておられ、サタンは全力を尽くして贖いの業を阻止する為誘惑しますが、人として、サタンの攻撃の前に立たれ、神からは私の罪故に支えられず、サタンはこの無実の子羊に襲い掛かり、噛み付き食い尽くそうとしました。この真の人イエス様は、哀れで惨めな罪人のように慄き震え、罪に対する神の怒りと裁きを受けられ、私たちに代わって、永遠の死と罪人が受けるすべての刑罰報いを受けねばならなかったのです。

永遠の死に至るべきものが神のお一人子の犠牲によって救われ神の子とされ主の復活の力まで与えられました。この十字架の奥義を聖霊の助けによって知ったキリスト者は父に見捨てられた主、最愛の子を犠牲として屠られた父の悲通な心。すべてが私の救いの為、罪の贖いの為であった事を知り感謝と共に私は何をもってそれにお応えできましょうか。ピリピ二6・7「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず。かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず。おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」のです。

十字架上で『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』『我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになったのですか』これは私自身の罪のため私が叫ぶべきものです。父のご愛、主の十字架の前に跪き私は虫けら、人間のくずと告白し、滅びより救い出され、永遠の命を頂いた事を心から感謝せざるを得ません。


【初めの愛】 ローマ人への手紙第5章6〜11節 (上中光枝牧師)

教会は、新年度を大きな変化と共にスタートしました。変化はまた受難週、イースターと重なりました。様々な出来事の中に、主のお苦しみの意味を深く思い、よみがえりの命に生きるとはどのようなことなのかを問いました。

十字架の死を目の当たりに、イエスを囲む人々はショックを受けたことでしょう。当てが外れてこれからどうなってしまうのか・・これまでは何だったのか・・先のわからぬ不安に身動きがとれませんでした。墓を探しても「イエスはここにはおられない。よみがえられた」と伝えられます。更に混乱します。

けれども天の使いは「ガリラヤでお目にかかれる」イエスは「先にガリラヤへ行く・・・そこでわたしに会う」と告げるのです。

エルサレムで十字架の出来事に遭遇した弟子達は、恐れのためみんな逃げてしまいました。女達も恐れの中にいました。心も行動もバラバラになろうとしていた人々が、エルサレムでペンテコステの出来事に出会った時には、「彼らはみな・・・心を合わせてひたすら祈りをしていた」「みんなの者が一緒に集まっていると・・・」と一つになってひたすら約束の聖霊を待ち望んでいるのです。

この中間に何があったのでしょう。エルサレムよりガリラヤへ。ガリラヤよりエルサレムへの道がありました。ガリラヤへ行き、イエスに出会い、エルサレムに向かったのです。

ガリラヤは、イエスが宣教を始められた地でした。弟子達が初めてイエスと出会った場所、イエスに召されて従うものとなった場所でした。

ガリラヤで原点に帰って、イエスの言、イエスの御業を思い起こしました。

そこにイエスの指し示される道がありました。十字架と復活に続く道が開けていました。

私たちは、先が見えない不安の中で、今ある恵みを見失ってしまうことがあります。先を急ぎ何かしなくてはと焦りますが、わたしたちはまずキリストとの出会い、キリストの言、キリストの御業に帰る、初めの愛に帰り御心を改めて知るところから再スタートするのです。

私たちそれぞれに「ガリラヤ」があります。

ローマ人への手紙には、「私たちがまだ弱かったころ・・不信心なものたちのために死んでくださった・・」「まだ罪人であった時、・・キリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された・・」「敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた・・・」とあります。神を信じる力もなく、神に背き、怒りを受けるはずだったわたしたちのためにキリストは命を投げ出してくださったのです。

 弟子達は、ガリラヤの地で病いや患いを癒され、罪の中から呼び出され、イエスの言を聞きました。イエスは十字架にかかり、3日めによみがえり、救いは全世界に伝えられると語られていました。そこからエルサレムへエルサレムへと顔を向けられたイエスの御思いをたどるように、世界の救いの始まりの地を目指したのです。キリストがわたしを用い、わたしを通して救いの業を進められる。全世界の救いのために自分達を通して働かれるのだと約束の力を待ち望みました。

 エルサレム近くのオリブ山で天に挙げられたイエスを見上げていた人々は、「ガリラヤの人たちよ・・このイエスは天に上って行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様でまたおいでになるだろう」と聞きます。福音がエルサレム、サマリヤ、ユダの全土、地の果てへと広がるその前にガリヤラがあった・・まずガリラヤの人たちが全世界の救いの始まりを体験したのです。

共に初めの愛に帰りましょう。イエスとどこで出会ったか。わたしたちはどのようなところから救い出されたのか。そこで示された愛がどんなに大きかったのかを思い起こしましょう。イエスの言、御業が新しく捉え直されるでことでしょう。ここまで導かれた主は、今も生きて働かれ、これからも共に歩んで御業を進められます。救いを完成してわたしたちを迎えてくださる「再び来られる主」を共に待ち望みましょう。主に期待し、恵みによって「初めの愛」に応える歩みを続けていきましょう。


【神の業を期待する】 出エジプト記第14章15〜25節、ヘブル人への手紙第11章29節 (上中栄牧師)

春、新しい年度の歩みが始まりました。この4月から、私ども夫婦が元住吉教会と鵠沼教会の兼任牧師として遣わされることになりました。これは私どもにとっても、それぞれの教会にとっても、思いがけないことでした。しかし、これを神のご計画と信じ、今年度の歩みを進めていきたいと願っています。

新しい年度を迎えるにあたって与えられた聖書の言葉は、旧約聖書の出エジプトの物語です。長い奴隷生活を強いられてきたイスラエルの民は、指導者モーセによってエジプトを脱出します。脱出の目的は、奴隷生活からの解放と共に、神を礼拝することでした。

しかし、「意気揚々」とエジプトを出発したイスラエルの民は、すぐに困難に直面します。行く手を紅海に阻まれ、背後からはエジプト軍が迫って来たのです。「紅海渡渉」と呼ばれる物語です。彼らの前に横たわる海は、私たちも直面するさまざまな困難を象徴しているかのようです。イスラエルの人々は、「一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」と、モーセに向かってつぶやきます。

「何をするために・・・」。困難に直面し、神を忘れた人間は、その生きる目的をも見失います。それは、旧新約聖書に繰り返し記されていることです。後のイエス・キリストの時代にも、人々は何をすればよいのかと問いました。しかし、主イエスを受け入れることを拒み、自分たちが正しいと思うことに邁進した結果、彼らはイエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。イエス・キリストは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しくださし。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。イエス・キリストの十字架の死と復活は、神を拒む人間の罪を赦し、目的を見失った人間に救いの道を示す神の業でした。

さて、紅海渡渉の物語に戻ります。聖書をよく読むと、イスラエルの人々が紅海のほとりに宿営したのは、神の命令によるものであったことが分かります。つまり、イスラエルの人々が直面した危機は、神のご計画のうちにあったのです。

そして、モーセが海に向かって手をさしのべると、強い風が吹いて海が分かれ、乾いた地が表れるという奇跡が起きたのでした。この現象は、潮の干満で海底が表れる「トンボロ」であるとか、遠方で起きた地震の影響で潮が引いたものだという説明もあります。はっきりとしたことは分かりません。仮にそうであっても、それが神の業として起きたと言えるでしょう。

さらにここで注意したいのは、この神の業である海が分かれるという出来事は、イスラエルの人の前でも、エジプトの人の前でも起きていることです。神の奇跡というと、自分に都合の良いことのように思われがちですが、そうではありません。イスラエルの人々は、海の中の道を通り、エジプトの軍もイスラエルを追って同じ道を進みました。しかし、イスラエルが渡り終えると海は元に戻り、エジプトの軍は滅びてしまいました。海が分かれて表れたその同じ道は、イスラエルにとっては救いの道であり、エジプトにとっては滅びの道となったのです。この違いは何か。それはヘブル人への手紙によれば、「信仰によって」渡ったかどうかです。

神の業、神の奇跡は、今日も起きるのです。それは、私たちにとって都合のいいことばかりではありません。神のご計画が実現するのです。私たちに求められるのは、「信仰」です。主イエスによって明らかにされた救いの道を、私たちも信仰をもって進むとき、神の業が私たちにも実現するのです。

最後に、元住吉教会に使わされることになった、私の思いを述べさせていただきます。これまで私は、教区長として元住吉教会を愛し関わってきましたが、これからは一牧師として教会を愛し関わりたいと願っています。

宗教改革者のルターは、「たとえ明日が終わりの日でも、私は今日リンゴの木を植える」と言ったと伝えられています。終わりの日が明日かもしれないという危機感と、リンゴの収穫までの時間を見通す目を兼ね備えるのです。それは主イエスの再臨を待ち望むキリスト者の歩みを支える、大切な信仰の目でもあります。

私どもの教団では、牧師の任期は一年です。長く同じ教会に遣わされている牧師も、毎年更新しているのです。私ども夫婦の元住吉教会での任期も、原則的には一年であり、それが更新されるのかどうかは、今の時点では分かりません。しかし私自身は、次の牧師が決まるまでの仮の牧師という思いではなく、任期が一年であっても、複数年であっても、変わることなく主と教会に仕えたいと願っています。

ここに至るまでの元住吉教会の歩みも、神のご計画のうちにありました。そうであれば、これからも元住吉教会を通じて、神ご自身が神の業を明らかにしてくださるでしょう。そのような神の業を期待しつつ、信仰をもって歩みだしてまいりましょう。


【共に歩まれる主】 ルカ24章13節〜32節(深佐牧師)

 マルコ十五章12節にイエス様は違った姿でご自身をエマオ途上の二人の弟子に表されたと述べます。クレオパ達が栄光に入られた主を道中に見破られなかったのは、彼らの目が遮られていたからです(ルカ二四章16)。彼達はエルサレムから西に向って太陽を背にして歩んでいました。二人の旅は私達の人生の歩みようなものです。積極的に日の出の方向に進むのと、とぼとぼと日暮れの方へ歩む消極的な人生そのものです。

 道中の徒次道連れが一人加わります。現在の私達は復活された主であることは分かっています。それに気づかない二人に『歩きながら互いに語り合っているのは何のことなのか』彼らは悲しそうな顔をして立ち止まり「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことをあなたはご存じないのですか?」彼らは続けてイエス様に抱いていた希望、十字架刑について話します。同伴者はモーセや預言者について教えられますが、自分の関心・思い・失望・不満に満ちた彼らにはイエス様に気が付きません。

 夕刻エマオに近づいても同伴者は先に進まれようとします。二人は強いて引き止め一緒に同宿する事を勧めます。主がパンを裂かれ彼らに渡された時目が開かれ復活の主であることが分かりました。すると、み姿が見えなくなった。彼達は32節「・・・聖書を解き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか。」そしてすぐにエルサレムへと夜の危険おも省みずこの復活の主との出会いの喜びを他の弟子達と分かち合いたいと道を急ぎました。帰ってみると11弟子とその仲間が集まっていて、ほんとに主は甦ってシモンに現れなさったと言っていました。そこで二人は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエス様だとわかった事などを話しました。マルコはその事を一同は信じなかったと述べています。

 クレオパらがこう話している時、復活のイエス様が彼らの中にお立ちになりました。そして安かれ(シャローム)と言われました。キリストの福音は十字架で共に死ぬだけではなく主と共に復活して永遠に生きることが与えられる宗教です。ガラテヤ二20『わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはやわたしではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』

 エマオ途上に見られるように 1)復活のイエス様が、聖書の意味を判りやすく説明して下さいます。イエス様のご遺言によりますと、主が父の元にお帰りになった後遣わされた主の霊、聖霊がすべての事を教え、また主が話された事をことごとく思い出ださせ、あなた方をあらゆる真理に導くと弟子達に語られました。(ヨハネ14節16章)

2)パンがさかれたとき、復活の主を彼達は体験した。聖餐式に与る大事さを語ります。3)私たちが気づいていない時にも、復活の主は私達の人生の歩みを共にされておられます。4)聖霊に導かれ主を信じるものは誰でも復活の主が分かったという体験ができます。

 私はエマオ途上の出来事を人生の節目ふしめに学び多くの恵を頂いています。

 ジョン・ウェスレーは第二の回心(きよめ)について1738年5月24日アルダスゲイト街の小さな教会の祈祷会での席で午後8時45分ごろクレオパら二人が証しする主の臨在により心が内に燃えたと言う経験をしたと、彼はきよめの経験をその日の日記にしたためています。


【油を注がれた主】第二コリント1章15〜22節(石塚牧師)

1章15節「この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、」

1章16節「それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。」

パウロはコリント教会のキリスト者に教会訪問の計画を説明しています。パウロは以前コリント教会を訪問する予定(㈵コリ16:5)にしていましたが、その約束を中止にしました。そのことでコリント教会内にパウロに対する不満が生じ、パウロの使徒職への疑問へとつながっていきました。

パウロはこの手紙でコリント教会への新しい訪問の計画を話すと同時に、以前に変更した事に対して弁明し、教会の理解を得ようとしています。

1章17節「この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。」

前の約束を変えたのは自分勝手な理由や思いつきではない。私の言葉は不誠実な、一貫性のない言葉ではない、と釈明しています。

1章19節「なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。」

そして、パウロは自分が真実にコリント教会と向かい合っている根拠を示そうとしています。その初めとして、自分たちがコリントの教会に述べ伝えたイエス・キリストついて話し始めます。

私たちの宣教によってあなた方が受け入れたイエス・キリストは、状況に応じて態度を変える事をする方ではないし、その発言を翻すような方ではない。いつも変わらない信実をもっておられる方である。

そして、イエスは神の真実の結実である。なぜならば、神は旧約聖書においてイスラエルの民に約束されたことをイエスにおいてことごとく成就された。そこに神の変わらない真実が示された、とパウロは言います。

その神の真実はイエス・キリストに引きつがれ、イエス・キリストの真実はイエスを信じ仕えているキリスト者に受け継がれている。パウロは自分の真実はキリストを信じている事にあると述べました。

キリストへの信仰は不誠実な事をしない。真実なキリストに自分の心は支配されているからであると、キリストにあるキリスト者のあり方を示しました。

私たちもイエス・キリストの真実にあって、お互いに真実な隣人としてお互いに仕えあいましょう。


【神のみを神とせよ】 マルコ12章13節〜17節(深佐牧師)

 前の節を見るとユダヤの祭司長、律法学者、長老達はイエス様の葡萄園の例え話によって自分達の罪が指摘されたと知って主を捕らえようとしたが、群衆を恐れて捕らえる事を断念して去って行きました。そして次に彼らは悪意を持って言葉尻を捕らえ、イエス様を陥れようとしました。受難週の火曜日の事です。

 14節に「私達はあなたが真実な方で、誰もはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」先ずは媚びる社交辞令から始め、次に罠を仕掛けます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と、パリサイ人は税金(人頭税)に反対であり、ヘロデ党は賛成でした。一般のユダヤ人はローマに隷属する印として反対です。イエス様がいずれの答えをしても、足元をすくえると考えたのです。否と答えればローマに反抗する者として訴えられます。賛成と言えばローマ皇帝支配に反対の群衆の失望を買うことになる。イエス様のお答えは彼達の質問以上に巧妙でした。

 主は彼達の偽善を見抜かれて『何故私を試そうとするのかデナリを持ってきて見せなさい』銀貨を見せると主は『誰の肖像か』とお尋になります。答えは当然「皇帝のものです」彼達はデナリ銀貨を所持していた。ユダヤ人は人や動物の像が彫られた硬貨は常日頃持ちません。ここで主は『皇帝のものは皇帝に。神のものは神に。』と言う言葉で何が皇帝に属し、何が神に属するかと言う問題に目を向けさせたのです。神様がすべてを支配しすべてを治めている事を示されようとするのです。

 このみ言葉が聖・俗権力、政治と宗教、人間社会には宗教的そして政治の領域があると解釈され、この世においては権力者に従えと国家に絶対的服従を強いる事になり強力な近代国家が成立しました。あまりに強い権力から弱い国民を守る為憲法を制定しその基本法に基づいて諸法律が出来近代法治国家となったのです。そして政教分離が出来ました。誤ってキリスト者も、神様に従うように、政府にも絶対的に従わなければならないとの人も増えています。

 戦後マルキシズムが青年達の心を捉えました。それに対してこのみ言葉を持って社会の矛盾は政治で、心の平安はキリスト教にとか、また政治は俗世界の事だから教会は聖なる世界を求め福音を述べ伝えることが使命だとされました。そのことが教会活動を日曜日に閉じ込める事となりました。その主の日も守る事が困難になってきたことは、この世の事には力を尽くすが、神のものは神様に返す生活が出来なくなってきた事を意味しています。そこで主日礼拝厳守が主張されるのです。

 マルコが述べる「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい。」のみ言葉は神第一の生活をしなさいと語られたことです。旧約聖書に親しんでいたユダヤ人たちには理解できた事です。彼らはイエス様に感嘆したと述べ17節は終わっています。

 キリスト者はこの世の政治・生活・物質等は否定しません。神様から与えられた才能(タラント)・物質を神様から信託されたものとして、神様のみ旨に沿うように用いていくのです。神様は万物を創造され、すべてのものをご支配なさっておられるのです。カイザルのものをも。


【誘惑を退ける主】マタイ4章1節〜11節 (石塚牧師)

4章3節「すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。」

4章4節「イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。」

サタンの最初の試みは肉体的必要に関することでした。肉の欲です。40日間の断食の後ですから、その空腹は容易に想像できます。そこにサタンはまず目を付けました。それに対してイエスは申命記8章(申命記8:3)のみ言葉をもって、その誘惑を退けられました。

4章5節「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて」

4章6節「言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。」

4章7節「イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。」

サタンの二度目の誘惑は、目の欲の誘惑です。

イエスは聖なる都エルサレムの神殿の一番高い所に立たせられます。もしここから飛び降りてみ使いによってその命が守られるのならば、それこそ神の子、救い主だと誰もが疑うことなく認めるだろう、という誘惑でした。しかも詩篇の91篇のみ言葉を使ったものでした。

しかしそのみ言葉は完全ではありません。不完全でした。サタンは聖書の言葉を自分に都合の悪いところを省きながら、あたかもそれが神の言葉であるようにイエスに迫ったのです。

それに対し、イエスは完全なるみ言葉(申命記6:16)によってこの誘惑を退けられました。

4章8節「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて」

4章9節「言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」」

4章10節「するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。」

最後にイエスは高い山に連れて行かれ、世界のすべての繁栄、富を見せ、サタンは誘惑しました。

「持ち物の誇り」、新改訳聖書では、「暮らし向きの自慢」、新共同訳では、「生活のおごり」となっています。名誉欲や、権力欲も、この中の一部でしょう。しかしこれらの物に対してイエスは即座に申命記のみ言葉(申命記6:13)によって退けられました

イエスはサタンの誘惑に繰り返しみ言葉をもって対処しました。霊的な存在であるサタンに、肉的な存在である私たちが勝つことはできません。しかし私たちが神様に向かい、イエスの御霊を心のうちに宿しているならば、サタンのどんな誘惑に対しても内なる方が勝利を取って下さる。これがキリスト者の戦いです。


【スミルナ教会の御使いへの手紙】 黙示録2章8節〜11節 (深佐牧師)

 エペソ教会が七つの教会の筆頭ならばそれに劣らないスミルナ教会が次にくるのは当然です。町は海に突出した陸地の端にあり、中央部が陸地に囲まれた小湾になっていて、商業が盛んな豊かな自由都市でした。ローマの異教の神殿が多くキリスト者は迫害され常に略奪され貧しい生活を強いられていたが主に対して忠実でした。

 七つの教会への手紙を見ますと、それぞれの教会の良い点が述べられますが、問題点が指摘されています。スミルナとヒラデルヒヤの二つの教会には非難する言葉がありません。スミルナについては復活の主が『私は、あなた方の苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなた方は富んでいるのだ)。サタン(ヘブル語では敵対する者の意)に属する者達にそしられ、悪魔(訴える者)が、あなた方のうちのある者達を、獄に入れようとしている。苦難に会うであろうがそれは十日の間(しばらくの間)だから死に至るまで忠実であれ、そうすれば命の冠を与えよう(永遠の命を保障される)・・・・勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない(第一の死は肉体の死、主は復活で第一の死に勝利された、キリスト者も同じ)』

 年一回行われる競技場に多くの民衆が集まっていました。AD155年2月23日土曜日の事、ユダヤ人(安息日にかかわらず競技見物を楽しんでいた)が「無神論者のポリカルブを葬れ」と扇動し逮捕し競技場にて民衆の前でローマ総督が、「キリストの名を呪ってシーザーに犠牲を捧げるか、死のどちらかを選べ」と命じました。ポリカルブは「86年間、私はキリストに仕えましたが、キリストは一度も私を裏切られませんでした。私を救ってくださった主なる王を辱める事が、どうして私に出来ましょうか」と答え、火あぶりの刑に処せられました。ユダヤ人達は安息日に禁じられている(労働である)薪を運んできたと言われます。

 キリスト者に向けられた中傷の幾つかをあげてみましょう。

1)『これは私の体であり、私の血である』との聖餐式から、彼達は人間の血を飲む。

2)一緒にする食事をアガペー愛餐と言うのでその集会は肉欲と不品行の酒宴とした。3)キリスト者になると家族関係を破壊すると言う。礼拝を守る事を第一とした故に。

4)彼達は刻まれた神々を持たず、皇帝礼拝を拒否する無神論者である。

5)皇帝は主であると言わなかったため、反逆の民、政治的暴動を起こすと非難する。6)終わりに日にこの世が火で焼かれると言ったとのことで放火狂とした。

 悪意を持てばキリスト教会は容易に流言や誹謗の的にされます。太平洋戦争時には西洋の宗教を信じ、現人神天皇を礼拝しない、神社参拝をしない非国民と非難されました。日本ほど反キリストの国は今でも他にはないとされます。

 スミルナ教会の信徒はこのような苦難、貧しさにもひるむことなくポリカルブに続いて死に至るまで忠実であり勝利の人生を送り命の冠を受け永遠の命に与ったのです。

黙示録は真実の勝利を得る者の道が述べられた書簡でもあります。私たちも真実の人生の勝利を得て、命の冠を受けましょう。


【試練の意味】ヤコブの手紙 1章2節〜4節 (石塚牧師)

1章2節・前半「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、」ここに、「いろいろな試練」とあります。私たちはキリストに従うほど、数多くの様々な試みに遭遇します。

出エジプト記に、モーセがエジプトから神の民であるイスラエルを導き出す記事があります。

モーセはパロに犠牲を捧げるために荒野に行かせてくれるように願い出ます。心頑ななパロはこれを拒否し、その為、神はモーセを通して10の災いをエジプトの上に下します。

アブや雹の災いなどにおいて、神はエジプト人とイスラエル人を区別され、イスラエルの民は主の災いに巻き込まれることはありませんでした。言葉を代えるならば、ご自身の事を信じる神の民と神に背を向けた民とを区別されたのでした。

この事は私たちにも当てはまります。本当の神を知らないこの世界にあって、イエス・キリストを信じ、神の民になった。この世の住人から区別され神の国の住人になった。ですから罪の世界から引き出され、区別されたキリスト者の私たちに、この世からの様々な試練があるのは当たり前の事です。

1章3節「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」

試練にあった時、各自の信仰が試され、それによって忍耐が生じるとあります。試練にあった時に、信仰の何が試されるのでしょうか。

試練が私たちを押しつぶそうとすればするほど、神への疑問が心の中に湧き上がり、打ち消しても次から次へと湧き出してきます。ついに、神はいるのだろうか、神なんかいない、とつぶやいてしまいます。

この時、試されているのは「あなたの神はいるのか」「あなたの神はどこにいるのか」と言う事です。

私たちは、目の前にある具体的な事柄にのみに目が向いてしまい、神をその問題の解決の外においてしまい、神の存在を忘れ、何とか自分の力、知恵、経験で、この状況を乗り越えようとします。ついに、神の存在をなきものと、してしまうのです。

本当に大切な事はどんな困難が自分に降りかかろうとも、「神はいる」「神は自分のそばにいる」と信じる事、「今は信じられない」けれども「信じます」という決心を、何度も何度もすることではないでしょうか。


【エペソ教会の御使いへの手紙】 黙示録2章1節〜7節(深佐牧師)

手紙の内容はエペソ教会の信徒に書かれているのに、何故教会の御使いにイエス様はヨハネに命じて書き送らせたのでしょう。注意してください。この手紙を受け取ったのは教会の信徒達より先に、教会の天使です。16節で主が右の手に握り締めておられるのは七つの星即ち天使であり、七つの燭台は教会です。直接に教会宛でなく天使に送られたのは直接送ってもきちんと受け取らない、受け取ってもよく読まない、場合によっては封も切らないからです。しかし天使なら確実にこの言葉を受け止めます。「牧者の言葉が伝える神の言葉に、耳を傾けなくなる」そこに教会の病があり、罪が見られるのです。

エンジェルとは何でしょう。マタイ十八10『彼等の御使たちは天にあって、天にいます私達の父のみ顔をいつも仰いでいるのである。・・・・14その様に、これ等の小さい者の一人が滅びることは、天にいますあなた方の父のみ心ではない』エンジェルの語源はギリシャ語ではアンゲロスで、ヘブル語はマルアーク、共に使い・使者の意味です。次にそれを神から遣わされた超自然的な存在としました。この時代精神を主も弟子達もそのまま呼吸しています。しかし、一つの新しい思想が彼らの中に芽生えました。神と子羊に奉仕し、讃美する事においてのみ崇高なものとして、神の主権を侵すことなく、存在するようになりました。

マタイに見るように小さいもの一人一人に、天使がついていて、その天使はいつも神の方を向いていると教えられました。一つ一つの教会にもその天使がついて、たとえその教会を造っている者達が、神の方をきちんと向いていなくとも、いつも神の方を向いています。そうして自分の担当する教会の為に取り成しをします。取り成しをする天使は教会の代理として、神のみ言葉を受け取っているのです。

教会にあてた手紙には、ほめ言葉が数多く出てきます。厳しく戒められ、警告を受けるだけの教会もあります。神の方をきちんと向くことが出来なくなり、礼拝の姿勢が危なくなっています。しかしその教会の天使は神の方を向き続けています。それは神ご自身がいつもその教会を向いておられたと言うことです。天使は決して守護天使ではありません。守られるのは三位一体の神様のみです。

主が小さな者一人一人に天使がついていると言われたとき、それはどんな小さな者にも神様の愛のまなざしが注がれています。それゆえに二7『耳のある者は、御霊が諸教会に言う事を聞くが良い』イエス様は私の語ること分かって欲しいといわれます。私自身の事を私以上に知っておられる主が指摘なさるのです。

二章2節に『私は、あなたの業と労苦と忍耐とを知っている。』とあります。彼達が異教の地にあり内部にキリスト者の自由と放縦を主張する者(ニコライ宗)と戦い、主にある希望を持って忍耐した事を知っているが、あなた方は信仰を持ったときの喜び兄弟姉妹との愛の交わり主に対する愛を忘れてしまったと責められます。しかし最初の愛に帰る道を示されます。

1)神から離れていてどのような所から神に帰ったか思い起こし。2)悔い改めて。3)初めの愛の業を行いなさい とお勧めになるのです。そうしないとあなた方から燭台即ち教会を取り除くと宣言なさいます。戦時中目に見える教会は弾圧てなくなりました。しかし教会の姉妹方(兄弟達は皆戦争に駆り出されていた。牧師は獄中)は弁当を持ち寄って当局の目を盗んで祈りあっていました。教会の天使と祈りを合わせていたのです。私たちホーリネスの先輩はそのようにして、私達にパラダイスにある命の木の實を食べさせる教会を存続させて下さったのです。


【霊妙なる議士イエス様】 イザヤ9章1節〜7節(深佐牧師)

1859年に日本開国に伴ってジェムス・ヘボンは伝道が許されないので、医師として横浜に来ました。幕府の子弟が英語を学ぼうと彼の元に集まってきました。彼は聖書を教え多くのキリスト者が生まれました。ヘボンの望みは日本語の聖書を翻訳する事でした。弟子達は漢文の素養があるので、中国語の聖書を日本語に訳し始めた。名訳として学のある人々の心を引きました。霊妙なる議士とは実に傑作な訳です。議士とは議論し物事を決定する人です。衆参議員を代議士と言います。国民を代表して議論し物事を決定する人を指します。メサイヤのこの所はワンダフル・カウンセラー(驚くべき助言者)となっているので。漢訳聖書とあわせてみると意味がはっきりします。新約のイエス様の御言葉を二つ拾ってその意味を汲みたいと思います。

 マタイ15章イエス様はユダヤに居られると何時も群衆に囲まれておられました。主は静かなところ求めパレスチナの地域外に出られました。それは最後の時を前にして心備えの為、静かな時を持とうとされたのです。しかしこの外国の地においても主の助けを求める切なる婦人の願いから逃れる事が出来ませんでした。イエス様はユダヤ人に対する伝道とご自分の行動を制限されておられました。ところが異邦人の婦人が憐れみを求めて叫び続けています。弟子達はこの女の叫びを聞いて追い払ってください、体裁が悪いからと言うのです。主は助けを求める異邦の女から逃げる事は出来ません。今の主はこの女のうちに真実の信仰を目ざめさせる事でした。彼女は跪いて主を拝した。

 主はと言われました(26節)。すると彼女は(27節)「愛玩犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と切なる願いを初めは癒しをなす偉大な人に願ったが、主の温かい眼差し愛の姿、そのお言葉に今は生ける神に対する祈りに変わったのです。主は外面を見られるのではなく心の動きを見ておられるのです。女に主は言われた『あなたの願いどおりなるように』その時娘は癒されました。彼女のはっきりした信仰を認められたのです。

 第二に.マタイ26章イスカリオテのユダは祭司長たちに主を銀30枚で売り渡し何食わぬ顔で食卓に着きました。主が裏切る者がいると言われました。するとユダは他の弟子達が次々と「主よ、まさか、私ではないでしょうと」と言い出したので自分も「先生、まさか、私ではないでしょう」と真似ました。主は言われました『いや、あなた自身が言った』。これは次に続きます。ヨハネ13章イエス様はユダの足も洗っておられます。まだ引き返す事が出来るよと足を洗われるのです。そして『みんながきれいなのではない』と言われ互いに足を洗い合うべきだと言明されるのです。イエス様は早く弟子達から離れ祭司長のところへ行こうと隙を窺うユダをご覧になって最後の忠告をなさいます。27節『しようとしている事を、今すぐにするがよい』と言われました。28節で、誰もユダの裏切りは知りませんし、知ったら11人に八つ裂きにされたでしょう。主は誰にも悟られぬように彼に裏切る事をやめるよう促されているのです。私達は言葉に表されている感情を読み取らないと多くの誤解をします。

 主は人が罪を犯すのを止めさせようとする時人間の自由意志を尊重されます。第一その人に罪を示す事です。自分が今何をしようとしているか考えさせます。第二はイエス様が自ら人と対決されます。主は自分を見つめよと命じます。あなたは私の顔を私の目を見つめられますか、主は愛の故にそれを止めさせようとします。愛のまなざしを受けながらあえて犯す罪の恐ろしさをユダに見ます。故意の罪は許されません。


【神の神殿を築く】第一コリント3章10節〜17節 (石塚牧師)

コリント教会はその成長過程で教会内に分派が生じて、教会が混乱しました。この混乱を収めるために、パウロはこの手紙を書く必要に迫られました。

3章10節「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。」

3章11節「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」

私たちは様々なきっかけを通して教会に導かれました。自分の意志で教会に来て、信仰の世界へと入ってきたかのように思いますが、聖書は私たちが神を自覚する前からすでに神のみ手が私たちの上に置かれ、そうなるようにと神は絶えず働きかけ、導いてきた、といっています。

教会に通い、聖書に触れるごとに、心や生活に変化が現れてきました。イエス・キリストを心の中心に置いた人生へと、価値観へと少しずつ変わってきました。

そして聖霊の導きの中でイエス・キリストの十字架の赦しを受け入れ、神の子として新しく生まれ、キリスト者としての歩みを始めていきました。

3章10節「そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。」

イエス・キリストという土台の上に据える、信仰の成長という家は自分で建てなければなりません。自分で建てるように各自が神から任せられています。

どのような信仰の家を建てたいのかを考えることが必要になってきます。漠然としていてはよい家は建ちません。はっきりと自分の理想とする家をイメージすることが大切です。はっきりとした目標を持てるか、理想を掲げることができるのかが、その後の信仰の歩みを決定します。理想を持たない信仰者はその歩みも遅々としたもの、弱々しいものになってしまいます。

はっきりと自分の理想の信仰の家の姿を掲げ、それを目指すことで地上での信仰の歩みを確かなものと致しましょう。


【教会はキリストの体です】 ローマ12章3節〜18節(深佐牧師)

出エジプトのときイスラエル(ヤコブ)の子達を祖としてうまれた者を父祖とする氏族(最小の共同体)、それが集まって部族を構成しこれが基本的な共同体となります。12部族でイスラエル民族全体の共同体となっていました。戦争に出る事の出来る20才以上の者で戦いうる人は合せて60万3千5百5十人でした。レビ族はあかしの幕屋の務めを守らなければならないのでこの数には入れられていません(民数紀2章)。部族の共同体で生活に必要な職業はすべて整えられていました。

 イスラエルの民はこのような共同体意識が刷り込まれていたので、教会がキリストの体・共同体であるとパウロが説く時彼達は受け入れることが容易でした。1・2節神への献身と聖霊による変革は、キリストをかしらとする教会の一部とされる事を意味します。キリスト者は一人で生きるのではなく、キリストとキリスト者の霊的共同体の一員として、それらとの生命的・有機的な交わりの中に生き、共に仕え、共に成長して行くのです。

 神様は質量共に多種多様な霊の賜物を分け与えておられます。それを活用して他のキリスト者の徳を高めるのです。そのために先ず重要なことは教会に対する認識です。それは教会がキリストの体である事を知り、キリストとの一体性の自覚を持つのです。身体が生きている限り多くの部分がそれぞれの働きをしています。

パウロは人間の身体が生きていると同じように教会は生きていると説きます。キリスト者は世界に16億おります。日本には率からいえば世界の最低でしょうが百万弱居ります。この教会も少数の方々がおられます。私たちに限って言いましても、実に素晴らしい賜物をそれぞれが持っておられます。それらは私たちに恵に従って与えられた異なった賜物、その人固有の優れた才能・能力です。これは生まれた時から持っている才能ではなく神様から与えられたものです。すべてのキリスト者は神から与えられた異なった賜物を生かし活用してお互いに仕えあっていかねばなりません。

第一の賜物は預言です。御霊に示されたみ言葉を語ることです。信仰に応じて証をすることです。説教でも自分の思想を語るのでしたら間違いです。証もみ言葉に生きていることを御霊によって述べるのです。その事において兄弟姉妹に仕えるのです。第二の賜物は奉仕・教会の管理と援助です。神の共同体の管理運営と共に心身の貧しい聖徒たちに対する配慮の必要性です。第三は教える奉仕です。キリスト者として如何にみ言葉に生きるかをお互いに教えあう事が教会の成長には欠かせません。第四の賜物、信仰の弱さに悩むもの、生きる気力まで失っている人を慰め力づける特殊な才能です。第五余力のある者はそれを持って共同体を支える奉仕。第六の賜物は指導する事。霊的に実践的におこなう。第七の奉仕の賜物は慈善をする。憐れみを持った人が困っている人の援助を喜んで積極的に明るくなさねばなりません。

これ等の賜物を生かすには愛を持ってお互いに尊敬していなければなりません。共同体の心は喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣き、互いに思う事を一つにし、真実の愛を祈り求めるのです。愛は観念でなく、現実の生活の中にあります。愛は希望を生み出し、困難に耐え、喜びに満ち溢れさせます。暗い教会は人を拒みます。

イスラエルの現在の繁栄はキブツという共同体による事大です。キブツは次の機会に述べます。


【キリスト者の身分】 ガラテヤ書4章1節〜7節(深佐牧師)

 伝道の書三章1節に「すべての業には時がある」11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされる業を初めから終わりまで見極める事は出来ない。」 何故主イエス様はナザレの片田舎のマリヤを母として、神のお独り子が人としてお生まれになられたのか、それは神の時が(ご計画が)満ちたからです。ガラテヤ四章4節に「時が満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ・・・・・」    (υιοθεσιαν養子)

 5・6節「律法の下にあるものを贖いだす為、私たちに子たる身分(養子)を授ける為であった。あなた方が子であることは、神が、「アッパ、父よαββα πατηρ」と叫ぶ御子の霊を、私たちに送ってくださった事実から分かります」(新共同訳)イエス様がマリヤを母として人間の歴史(律法の下にある)の中に誕生されたのは、神様のなされた時にかなって美しい業です。

 世界の歴史はキリストのご降誕を中心としてBC(キリスト誕生前)とAD(Anno Domini主の年)とします。平成・昭和は天皇の即位を基準としているので日本しか通用しません。ADを用いるのは人間存在の中にキリストがおいでになったという信仰告白から来ています。

 キリスト者自身の個人の歴史即ち人生もBCとADのようなマイナスの時とプラスの歩みがあります。キリストに出会うまでは人生のマイナスを歩んでいる事に気が付かずにいました。あのベツレヘムの家畜小屋に御子が生まれたことは羊飼い等のほかは村人さえ気が付かないほどでした。

 しかしこの幼子の誕生を一大変革と捕らえる人々、キリスト者が出てきました。四章4・5「時の満ちるに及んで・・・・私たちに子たる身分を授ける為でした」主にお会いしたとき主の御霊が私達のうちに送られました。その御霊が主と同じように「アッパ、父よ」と呼びうる身分とされたのです。マルコ十四章32ゲッセマネの祈りの中で主は十字架を前にしての苦しみの中で『アパ、父よ、あなたには出来ない事はありません・・・』とお祈りになっています。御子の御霊が送られていない時には、「天にまします我らの父よ」と教えられましたが、十字架の救いに与り御霊を送られた私達はイエス様と同じく「アバ、父よ」お父ちゃん、お父さん、お父様と呼び祈る事が出来るイエス様の妹、弟とされたのです。ハレルヤ。

 そのためには御霊を頂かねばなりません。聖霊を祈り求めましょう。そうしてお父様と神様を呼び、お互いほんとの兄弟姉妹にしていただきましょう。


【イエスの弟子】 ヨハネ福音書1章35節〜42節 (石塚牧師)

 

ここには三人の人がイエスの弟子になっていく過程が記されています。バプテスマのヨハネの弟子、アンデレと恐らく使徒ヨハネ、そしてもう一人はアンデレの兄弟シモン・ペテロです。

1章36節「イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。」

37節「そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、」

1章41節「彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。」

アンデレとヨハネがバプテスマのヨハネの弟子からイエスの弟子へとなる大転換のきっかけは、彼らの先生であるヨハネのイエスに対する証言でした。同じ様に、シモン・ペテロは自分の兄弟のアンデレの告白によってイエスの元に来るようになりました。

三人とも、先にイエスに出会った者、先にイエスを知った者の告白が彼らのイエスとの出会いの出発点になっています。

バプテスマのヨハネの告白はただ一言、「見よ、神の子羊」でした。彼は自分の事やイエスの評価ではなく、まして、弟子たちを自分の元に留める言葉ではなく、「イエスは神である」とはっきりと宣言しました。アンデレにおいても、それは変わりませんでした。「メシアに会った」、メシアなる神イエスに出会った、イエスは我らイスラエル民族が待ち望んだお方である、と伝えるのみでした。

「イエスは神である」、この真実を語ることがとても大切であることを、この記事は私たちに教えています。

ともすると、自分の証し、人生相談や世間話などが話しの中心になってしまいがちです。しかし、私たちが一番に語らなければならないことは、イエスは神である、と確信を持って言うことです。その事によって、イエスにまだ出会っていない魂は振るわされて、信仰の世界への魂の扉が開いていきます。

イエスの事を語る者がいなくて、どうして福音に接することができるのでしょうか。ヨハネとアンデレはヨハネの言葉を聞きました。シモンはアンデレの言葉を聞きました。イエスを語ることのできる者はイエスを信じ受け入れた者に他なりません。だからこそ、「イエスは神である」と言う言葉は私たちがしなければならない尊い使命になるのです。


【神は命を救う為に私を遣わされた】 創世記45章1節〜15節 (深佐牧師)

 私はCSの幼稚科、小学科、CS教師、牧師として約百回以上ヨセフについて話をしたり聞いたりしまして、ヨセフの事は特別に印象深いものがあります。処方面から研究もしました。ヨセフの生涯を特にイエス様のご活動と平行して見ると非常に意味深いものを感じました。

 ヨセフは父ヤコブの偏愛ゆえに10人の兄達から疎外されている事も知らずして、その兄達に銀20シケルで奴隷に売られてしまいました。主が共にいてくださったので大いなる祝福を受け(三九・四十・四一章)、不思議な導きのうちに、パロによってエジプト国のつかさに任命され、王の次の位につけられ、王の指輪を彼の手にはめ(署名し指輪の印を押す事で王の命令とする)しめしました。時に7年間の豊作がありヨセフは町中にすべての食糧を蓄えさせました。8年目から7年間中近東一帯に飢饉が起こり諸国民は食料を求めヨセフの下に集まってきた。それで王の金蔵は大いに潤いました。

 カナンの地にも飢饉があり父ヤコブはベニヤミンを残し十人の兄達にエジプトへの食料(家族全部で約七十人分)の買出しを命じました。彼達は多くの人々に混じってヨセフの下へとやってきました。彼は兄弟達だと分かったが、兄達には想像もつかない事で気が付きません。通訳を介して彼達の目的や家族の様子などを聞いたが、ヨセフが彼達に国をうかがう回し者と疑いをかけ、難題を持ち出しました。その時彼らは互いに言いました(四二章21節)「確かに我々は弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、我々は聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」ルベンが彼らに答えて「・・・・あなた方は聞き入れなかった。それで彼の血の報いを受けるのです」。通訳を交えていたが兄達の罪の告白を聞いた彼は、兄達の懺悔の気持ちにいたたまれなく別室に入り泣いました。帰ってくるとベニヤミンを連れてくるまでとシメオンを捕らえて、彼らの目の前で縛りました。

 帰国してからやがて食料もそこをつきました。またエジプトへ行かねばならないが今度はベニヤミンを連れて行かねばなりません。父も覚悟しました。色々の出来事があったが、ヨセフは貴方たちの弟だと告げた。彼達は驚きました。年月の経過が兄達も悔いる生活をなし、ヨセフの兄達に対する怒りも消えていました(四五章4・5節)。ヨセフは「奴隷に売られたが神は命を救うために、あなた方より先につかわされたのです。・・・」と一族が飢えから逃れるようにエジプトに来なさいと勧めるのです。

 父ヤコブと家族はエジプトで飢饉から救われたのです。やがて年老いたヤコブは子らを呼んで、後に起こることを告げましょうと四九章で一人一人に語り、12部族の祖先になる彼らを祝福して息絶えました。

兄達は父がいなくなったのでヨセフが報復するのではないかと恐れました。五十章彼達はヨセフの前に伏して「この通り私達はあなたの僕(奴隷)です」と言いました。ヨセフは言った19・20「恐れる事はいりません私が神に代わることが出来ましょうか。あなた方は私に対して悪を企んだが神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。・・・」

これらの節は神のみ業の本質を表します。兄達のヨセフに対する憎悪、その結果としてのヨセフの苦悩、もっとも忌まわしい彼達の肉親相克からの出発が、ヨセフが神から遣わされた出発となる。人の罪が不問にふされたわけでないが神の恵みは自らの罪に苦しむ者の救いになることを示します。ロマ八章28節「・・・・ご計画に従って召された者達と共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・」と私個人のお証が続きます。


【弱い者の神】 詩篇103編:6〜14節 (石塚 牧師)

この聖書箇所の前半は神のご性質が記されています。そして後半は罪を赦す神の姿が描かれています。神の約束の地から罪ゆえに引き抜かれ、捕囚としてバビロンへと連れて行かれたイスラエルの民がバビロン捕囚から帰還した時、その過去を振り返り、捕囚の経験を通して知った神の真実について記しています。

詩篇の記者は捕囚の経験を通して、神の義、神の愛の姿を見ます。

103編6節「主はすべてしえたげられる者のために/正義と公正とを行われる。」

義は神のご性質の一つです。ここでは正義と公正と記されています。

神の義は律法の中に完全に現されています。つまり、神のご性質、すなわち律法と言うことができます。ですから、神は律法に従って全てのことの善悪を取り扱われることになります。

103篇8節「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。」

義、同様に、愛も神のご性質の一つです。憐れみ、恵み、慈しみ、です。

人間的な愛は愛する対象からの愛の返りみを求めている愛に他なりません。しかし、神の愛は愛する者に一切の条件を付けず、無条件に与えられるものです。川の水が海に注ぎ込むように、とどまらず、絶えず海に向かって流れ続けるのが神の愛です。

そのようなご性質を持たれる神は、ご自身の私たちに対する憐れみゆえに、滅びに向かって突き進んでいる私たちに救いの手を差し伸べることがしたいのにもかかわらず、ご自身の義ゆえに、汚れに染まっている私たちに手を伸ばして触れることができない。

その神の自己矛盾を解決したのがイエス・キリストの十字架でした。父なる神は御子イエス・キリストに私たちの全ての罪を背おわせ、イエス・キリストを十字架によって罰することで、聖なるゆえに、罪を憎むご自身の義を満足させました。そして同時に、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちに神に近づく道を開いて下さり、永遠の命を与えて下さり、ご自身の愛を満足させました。

私たちは神の憐れみにもっと預かる者、神の憐れみにもっと感謝する者にさせて頂きたいと願います。