日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

2015年のメッセージ




2015年のメッセージ

 

【アーメン主よ来りませ】 ヨハネ黙示録22章18~20節

2015年12月20日

 ヨハネ3章16「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」。クリスマスはキリストの誕生日を祝う日ではありません。聖書には誕生の事は述べられていますが、生年月日は見つけられません。XmasはキリストΧριστουハリストウ、Christmasプロテスタントではキリスト礼拝と訳します。Masは祝日の意味です。私たちは神の御子が人としてこの世においでになり、キリストを救い主と信じる者のために贖罪の十字架の死を選ばれたことを記念する日です。私たちは『主の民よ、おのが幸を祝わずや』(新聖歌75番)とクリスマスを感謝して讃美するのです。ピリピ2章6『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』

 救いの業を成就なさって父の神のもとにお帰りになった主は今度は神の御子としておいでになります。黙示録22章7『見よ、私は、すぐに来る。この書の預言を守る者は幸いである』17節『御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞くものも「きたりませ」と言いなさい。渇いている者は、ここに来るがよい。命の水が欲しい者は、値なしにそれを受けるがよい』

 18~19節『この預言の言葉を聞くすべての人々に対して私は警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の言葉を取り除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、取り除かれる』
20節『これらのことをあかしする方が仰せになる[しかり、わたしはすぐに来る]』。

 「アァメン、主イエスよ、来りませ」。クリスマスをおのが幸と祝うことのできる方は、聖書が述べる再臨の主を「アァメン、主イエス様よすぐ来て下さい」と心の底より叫びます。改めておのが幸を祝うものです。

 

【聖霊の働きと喜びに満たされる者】 ヨハネ16章4~24節

2015年12月6日

 ヨハネ伝の講解説教を続けてきました。ヨハネは当時のヘレニズム的(ギリシャ思想)非キリスト教世界の人々に、彼等に理解できる宗教的用語でキリストのご生涯を伝えようとして書かれたものです。旧約の知識がなくとも理解できる福音書です。特にイエス様の告別説教が14・15・16章とヨハネ福音書にのみあり、17章は長い主の執り成しの祈りが述べられています。

 14章15~~17節イエス様の要請によって、主が去られた後もう一人の助け主(パラクレイトスπαρακλητοσ弁護を必要とする者の相談手)が彼等に与えられる。特に告別説教において父なる神様と子なる神イエス様の関係が述べられ、また、聖霊の働きが主の言葉で語られ説明されている事は他の福音書には見られない事です。父・子・聖霊なる神の一体制が示され、三位一体の神様が、主によって語られている事は注目すべき事です。

 主イエス様はキリスト教神学の本質をこの告別説教で要約なさっておられます。15章のぶどうの木の譬えで父なる神様と教会のかしらなる子なる神イエス様、その木に繋がっておる弟子は実を豊かに結ぶことができます。『主が父の掟を守りその愛に留まっているように、私もあなた方を愛してきた。あなた方も私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる。これらの事を話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方が喜びに満たされるためである。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である』ここに豊かな父・子なる神と弟子達の関係が描かれています。

 主が父のもとから弟子達に遣わそうとしている助け主・真理の霊があなた方共に証をすると述べられ、聖霊は弟子達にすべてのことを教え、主が話されたことをことごとく思い起こさせて下さいます。主が今まで聖霊の働きなど弟子達に話されなかったのは、御自分が彼達と共にいて彼達の助け主であったからです。16章7節以下『今私は去って行くのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、助け主(弁護者・慰め主)はあなた方のところに来ないからです。・・・その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼等が私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪される事です。』

 主は翌日の十字架を意識されて弟子達に話し続けられます。20節『はっきり言っておくアーメン アーメン レゴー フミンαμην αμην λεγω υηινあなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。・・・22節今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い(復活)、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない』。

 イエス様の復活後の弟子達の喜びは、新しいのちの喜びです。それによって、弟子達と神様の関係は、これまでよりもいっそう直接的な、信頼に満ちたものとなります。23節『その日(主の復活それ以後)は疑問がなくなり質問する事は何もなくなる。アーメン、アーメンあなた方が私の名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今まではあなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びに満たされる。(文語訳・求めよ、さらば得べし、しかして汝らは喜びに満たさるべし)キリスト者のささげられる祈りは、主イエス様が十字架上で成し遂げられた贖いの業の故に『イエス・キリストのお名前よってお祈りします』とむすばれることは上記のみ言葉を信じている証でもあります。

 32節あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにするときが来る。いや、既に来ている。しかし、私は一人ではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのはあなた方が私によって平和を得る為である。あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。』

 私はイエス様の御遺言でどれだけ励まされ力づけられ助けられたことでしょうか。私はよくこの説教を読んで感謝しています。群馬にいる兄弟が私に遺言を書いてくださいと電話してきました。私はそれに礼拝説教が私の遺言だと答えましたら、その後の便りに教会のホームペイジのメッセイジを心して読みますとありました。私の説教よりイエス様の3年間胸にしまっておられた思いのたけを心・信仰で受け止めて下さい。そうすれば人生の勝利を自分のものにすることができます。

 

【この世の憎しみ】 ヨハネ14章18節~27節

2015年11月15日

 軍国主義の下に教育はありましたが、1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒を目指して、約1500名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクーデター事件があり、大臣など顕官を殺害、永田町一帯を占拠、政府は翌日戒厳令公布、29日に無血で鎮定、事件後粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は著しく強化されました。私が小学3年生の頃から学期初めに家庭の宗教を市教育局に報告するとて調査が行なわれました。次々と手を上げてゆき、キリスト教は私一人でした。昼の弁当が終わるや否や、アーメン・ソーメンの合唱になりました。私は黙ってそれを受けていましたが、友人の一人が人の嫌がることを言うなと怒鳴ったので止めました。私の弱さを実感しました。イエス様の告別説教を読みながら思いだした次第です。

 18節~やがて弟子達が十字架の福音を携えて、世界宣教に遣わされる時、いろいろな迫害に遭うであろうことに対して『世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい(十字架処刑)』19節『・・・だが、あなた方は世に属していない。私があなた方を世から選び出した。だから、世はあなた方を憎むのである。・・・23節私を憎む者は、私の父をも憎んでいる。・・・・』私たちは真のぶどうの木に繋がる枝です。主イエス様のからだの一部とされているので、この世から憎まれるのです。21節『しかし人々は、私の名の故に、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。・・・』主の弟子達を最初に迫害したのはユダヤ人です。神の民である彼等は神様を知っているので主や弟子達を迫害した罪について弁解の余地はないのです22節。

 イエス様のなされたわざと真理についての証しは、この世の激しい憎悪の迫害の中でも、主が去られた後も受け継がれて行きます。その証人になるのは、復活された主の要請で御父が遣わされる助け主と弟子達です。26~27節『わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている助け主παρακλητοσパラクレートス、即ち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずです。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである』

 主の弟子であるなら聖霊と共に、神様の愛・イエス様の教え・十字架の救いを、いかなる場所、嘲笑、迫害の中においても、証し続けるのです。私は小さな証しでしたが学寮の自習室の机の上に置かれている本立ての真ん中に旧新約聖書を納めていました。部屋に来る上級生等からお前は耶蘇かアーメンかなどからかわれましたが、それでも日曜日の当番などの時、お前教会だろう俺が代わってやるから行け、などと言われびっくりした事があります。おかげで日曜日の午前中は誘いがありませんでした。

 それもつかの間やがて、月月火水木金金と歌われたように、半ドンも全休もなくなりましたので礼拝出席は出来なくなりました。その間キリスト教は愛と交わりの宗教であることを痛感しました。聖書を読んでもキリスト教の書物を読んでも、礼拝に出た時の充実感はなかなか持てませんでした。祈りも一人では力が入りませんし賛美も小さな声でしかできません。イエス様が私の名によって2・3人が集まればその中に私もいると言われた事は真実であることを味わいました。戦争は懲り懲りです。

【主と共にいる所】 ヨハネ14章1~14、コリント1の15章50~58節

2015年11月1日

 BC2百年頃の中国、秦の始皇帝は戦国時代の列国を滅ぼして、天下を統一し匈奴を討って黄河以北に遂い、万里の長城を増築しました。そして、言い伝えに、東海中にある仙人が住み不老不死の薬が存在する霊山がある蓬莱島に皇帝は高官を遣わし、不老不死の薬を求めさせようとした。高官は台湾に至り、気候は温暖、米は一年に2度取れ、果物は多種大量に実っている。彼はこここそ蓬莱の島と確信して、仙人を探した。以上のことを皇帝に報告して、そのまま蓬莱の島にいついてしまいました。また皇帝は等身大の兵馬軍団の陶器を地下に作り(始皇帝兵馬俑)自分を守らせようとしたのではないか、この歴史上の出来事は、人間は死ぬことを恐れる存在であり、人間のできるだけ生きようとする姿を示すものでもあります。

 教会は礼拝を守る事において死を乗り越えたことを示しています。主イエス様が十字架で人類の罪の身代わりとして死なれ、墓に葬られ、その3日後に甦られたことを記念して二千年来主日礼拝を守り、永遠の命を与えられたことを憶えて感謝の礼拝をささげて来ました。イエス様は生前、弟子達と共に土曜日にシナゴゥグ(会堂)や神殿で礼拝をささげておられましたが、イエス様の復活に出会い、弟子達は日曜礼拝を守ることになりました。
パウロは15章の長い論述において真の礼拝を守るために、コリント教会が福音に立つ必要を述べています。その福音とはキリストの死と復活を信じる事であると述べています。主は十字架上で私たちの罪、患いを身に受けられて死なれ、復活の初穂となられました20節。アダムによってすべての人が死ぬことになったように,キリストによってすべての人が生かされることになるのです22節。

 イエス様の十字架は衆人の前で執行され、イエス様の十字架上での七つの言葉も彼等は聞いていたし、主の死は多数の人々が見ていた。確かに主は死なれて葬られました。

 3節「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、わたし(ポウロ)も受けたものです。即ち、キリストが聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと。ケファ(ペテロ)に現われ、その後12人(弟子達)に現われ事です。次いで、五百人以上もの兄弟達に同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」7節以下19節、・・・・・54節「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」イザヤ25章8・ホセア13章14の預言。主は復活によって死に勝利を得て、わたし達を迎える準備のため父のもとにお帰りなりました。{29節~31節の死者のためのバプテスマについて}は機会を見て取り上げます。

 ヨハネ14章2~3節『私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方の為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て(再臨)、あなた方をわたしのもとに迎える。こうして、私のいる所に(永遠の命を得て)あなた方もいることになる。』

 私たちの身代わりとして十字架に死に甦って下さった主は、私たちキリスト者も死に勝利して甦り永遠の命を頂き、共にいてくださると約束して下さいました。その故に、私たちは先に主の下で永眠した方々と会うことが出来ると喜びと希望を持つことができます。ハレルヤ主を讃美しましょう。

 

【真のぶどうの木イエス様】 ヨハネ15章1節~17節

2015年10月18日

 私たちの教会は四重の福音「新生・聖化・神癒・再臨」を掲げて伝道してきました。当然経験主義になるのは避けられません。そのためか私たちの教団は信仰に熱心になりました。それが仇となって知的信仰?の人々から聖霊派と敬遠されました。戦争中日本基督教団としてキリスト教は纏められましたが、私達は再臨問題で政府から弾圧を受けました。しかし孤立無援でした。再臨と聖霊の関係は密接なものです。

 キリスト教の神は唯一であると信じる事です。三位一体(さんいいったい)の用語は聖書には出てきませんが、主の遺言的説教のヨハネ14賞~16章でその内容が語られています。父なる神と主との関係、特に主が父のもとに行かれた後、16節『父は別の助け主(弁護者)パラクレイトスπαρακλητοσ(慰め主とも訳す)を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である』17節『・・・あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである』20節『かの日には、私が父の内のおり、私もあなた方の内にいることが、あなたがたに分かる』御霊とイエス様との一体性を主張なさっておられます。ルカは1章35節マリヤに対する御使いの言葉の中に「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それ故に、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう」とあってみ霊と父と子について同時に語られています。三位(三位のペルソナ)が一つである事を指しています。

 ヨハネ14章25・26節『わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者(助け主)、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い出させてくださる』

 三位一体の神様の、父なる神様は旧約の時代にすべてのものを司られ人と直接かかわりを持たれました。神の子は人の子として私たちの世界に住まわれ,十字架の上で人類の罪を贖われそれを信じる者に永遠の命を与えてくださった。主が父のもとにお帰りになって十字架の血を持って私たちの罪の弁護をして下さいます。主イエス様が父なる神様にお願いして、主イエス様の名によって聖霊を私たちのもとにお遣わしになられたのです。人間の知恵とか経験では神の御言葉は理解しがたいですが、聖霊に導かれると聖霊が教えて下さいます。直接主のみ言葉を聞いた弟子達も理解できなかったことが聖霊降臨によって理解できています。私たちのように聖書を通して語られる御言葉のみである現在は、直接導かれる聖霊を迎え入れなければ真実の意味を理解する事は出来ません。

 テモテ第二への手紙3章16節「聖書は神の霊の導きの下に(θεπνευστοσ神の息即ち聖霊による)書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行なうことができるように、十分に整えられるのです」とパウロは自分の導いた若い伝道者テモテに、示しています。よく聖書は難しいと言われますが、祈って聖霊の導きを受ければよく分かります。聖書を何回も通読することが導きを受ける秘訣です。

【弁護者なる聖霊を与える】 ヨハネ14章15~31節

2015年10月4日

 イエス様の公のご生涯は30歳~33歳で、なさった事は①諸会堂で教え(教育)②御国の福音を宣べ伝え(伝道)。③民衆のあらゆる病気や患いを癒された(神癒・社会奉仕)。の3つの御業でした(マタイ4章23節)。ぶどうの木の譬えを通して翌日に十字架の死を控え、弟子達に対して教えられた。イエス様の弟子達は、単なる個人の集まりではなく、神にある新しいイスラエルの共同体・教会であることを教育されておられるのです。

 神様はエジプトの奴隷であったイスラエルの民を、乳と蜜の流れる地に導かれ、神様の民としての共同体は約束された地へと到着した。しかし出発より約束の地に入ったのは40年後でしたその間、約束の地を目前にしてイスラエル共同体は荒野をさ迷う破目に陥った、そのわけが民数記13章・14章に述べられています。モーセは神様の命令によって民の指導者12人が選びカナンの地の偵察に遣わした。彼等は40日間偵察してエシュコルの谷で一房(エシュコル)のぶどうのついた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担ぎ、ざくろやイチジクも取った。偵察から帰ってきて、モーセや共同体の人々にそれらを見せ、神の約束どおりの乳と蜜の流れるところでした。しかし、そこに住む住民は強く且つ巨人で、その住む町々は城壁の囲まれて堅固であると報告した。

  民達はこれを聞いて、モーセに不平を言い「エジプトの国で死ぬか、この荒野で死ぬ方がましだ。・・・・」偵察してきたうちのヨシュアとカレブは「もし、我々が主の 心にかなうなら約束の地に導きいれて下さる。・・ただ主に叛いてはならない・・・」と言ったが、共同体全体は彼等を石で撃ち殺せと言った。その時主の栄光の臨在が現われた。『カレブとヨシュア以外の戸籍に登録された20歳以上の者は誰一人住まわせると言った土地に入ることはない・・・あの土地を偵察した40日の一日を一年として罪を負い荒野で死に絶える』彼たちはかくして荒野で40年間、訓練され、教育されることになった。

 ぶどうのたとえ話はこれを下敷きにしてみるとよく理解できます。イスラエルをよい土地とするため父なる神は、日当たりのよい所を選び、堆肥(作るには非常な手間が必要)を施し、また土は深く耕し、水はけがよい土であり、灌漑用水が十分でなければなりません。そこに植えられたぶどうの木(旧約ではイスラエル共同体を示す)を農夫(神様)が、枝の剪定をして枝葉に陽光が注がれるように細かい注意とお世話がなされます。新約ではイエス様が真のぶどうの木、父の神様は実のならない無駄な枝は取り除かれ、実を結ぶものは皆、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れして下さいます。

 イエス様の弟子達は、純良種のよいぶどうの木である主に繋がっているならば、単なる個人の集まりではなく、神様の新しいイスラエルの共同体・教会になるのです。イスカリオテのユダのように、イエス様に特別に目をかけられていたにも拘らず主を捨てて去った者は、木から切り離され焼かれてしまうのです。主に繋がっているものは豊かに実を結び弟子になるなら、それによって主の父は栄光をお受けになります。

 最後の晩餐の時弟子達は、人類のために流された血を象徴するぶどう酒を飲むことにより、彼等が新しいイスラエルとしてイエス・キリストをかしらとする一つの体・教会に結び合わされたのです。主の愛のうちに生きる事は、ぶどう畑の農夫の不断のご配慮のもとに生きる事です。それは10節『私が父の掟を守り、その愛に留まっているようにあなた方も、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる。』12節『私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である』

 私は3歳の頃から、母の仕事の関係で引退した鎌田牧師のお宅で夜寝て朝食事を頂き、そのまま夕方まで教会付属の幼稚園で過ごすような生活でした。私は当然キリスト者になるものと思っていました。しかしいわゆるギャングエイジといわれる9・10歳頃から献金をするといって受け取り、CSをさぼってメンコとかビー玉遊びに夢中になっていました。学校は宿題もせず遊びの計画で頭が一杯でした。1・2年生の時は全甲で級長をしていたのですが、3年の成績表は乙と丙ばかりでしたが母も先生も何も言わないので、遊びほほけていました。

 学年末、担任の坂本先生(三年生~六年まで持ち上がり)から「このままだったら落第だぞ、お母さんがあんなに一生懸命働いているのにお前は何だ。どうする」と詰問され、私は始めて自分を見つめることができました。先生は「お前がこれから真面目になるというなら進級させてやる。それにはお母さんから許しを得て来い」私は母に許しを請いました。すると母は「教会に行きましょう」と教会に行きました。そこで水口牧師の前で神様に謝りました。すると牧師と母が神様に執り成しの祈りをして下さいました。牧師は私に「あなたは神様に選ばれたのだからそれにふさわしい生活をしなさい」16節『あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ。・・・・・』と教示されました。私は家に帰るとその日に大事にしていたメンコ全部を燃しで風呂を沸かしました。

 先生も母も相談の上1年間黙って見ていてくださったことを後で聞かされて知りました。勿論牧師夫妻も教会の兄姉方も祈っておられたのです。それ以来人間失格の私は主に選ばれてキリスト者になり、牧師になったと、誇りに思ってきました。『私があなたを選んだ』との主のみ言葉は私の弱い信仰を励まし続けました。この元住吉の地で牧師として、小さな奉仕を60年近く用いていただいた事はただ感謝あるのみです。

 

【住む所がたくさんある父の家】 ヨハネ14章1~14節

2015年9月20日

 12歳の頃だと思いますが、ヨハネ3章16節「それ神はその独り子を賜ふほどに世を愛し賜へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の命を得んためなり。神その子を世に遣はしたまへるは、世を裁かん為にあらず、彼によりて世の救はれん為なり。」の聖句の説教を水口牧師より伺いました。永遠の命は抽象的には理解できるが具体的にはどのようなことだろうかと疑問を持ちました。その時ルターであったと思いますが聖書の疑問は聖書に聞けと読んだことを思い出し、聖書を読み続けました。アリマシタ。ヨハネ14章です。

 1節~4節。主イエス様が翌日の十字架の死を自覚なさって、弟子達が主の死によって動揺、恐れを感じることを心配なさいました。そして彼達に14章~16章のご遺言、17章の彼達のための執り成しのお祈りをなさいました。私は機会あるごとにこの箇所を拝読して喜びと感謝をしております。すべての弟子達は、殉教を含めてそれぞれの立場と境遇にあって、主に従うようになるであろうから、主イエス様の死から受ける衝撃に耐えこの世に残される不安と恐れを乗り切らねば成らないのです。それには『心を騒がせず、神を信じ[続け]πιστευετεそして私を信じ[続け](ピステユエテ)なさい』と主は弟子達を励まされたのです。

 弟子達が天にて完全に受け入れられることが主の十字架の死によってこの世を去られる第一の目的であり、彼等に与えられた永遠の命を完成させる事でもありました。イエス様は彼等が永遠に神様と共に住み、神様を讃美する喜びに満たされるために去って行かれるのです。神様の下には多くの住まいがあります。『わが父の家には住みか多し、しからずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝らの為に所を備えに行く、もし往きて汝らの為に所を備えば、また来りて汝らを我がもとに迎えん。我が居るところに汝らも居らんためなり、汝らは我が往くところに至る道を知る』特別に彼達のために場所を備えに行き、再臨の時『戻ってきて、あなた方を迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。』とおっしゃるのです。

 永遠の命に与るには、主が戻ってこられる即ち御約束の再臨を信じて待つ事です。そして主と共に永遠の住まいに往き、イエス様や主にある兄弟姉妹方と共に住むのです。黙示録21章その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼等の目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』そして6節『事は成就した・・・・・渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私はその者の神になり。その者は私の子となる』

 私はこれらのみ言葉から、永遠の命を具体的に知り、神様の深い愛と恵が豊かに私自身に注がれていることを知り、感謝し主に従ってゆくことを改めて決意しました。

【心を騒がせるな】 ヨハネ14章1~14節

2015年8月2日

 13章36節シモン・ペテロがイエスに言った。「主よどこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。『私の行く所に、あなたは今ついて、ついてくる事はできないが、後でついて来ることになる。』37・38節問答の後語られた。遺言的説教がなされた。

 14章1節『心を騒がせるな(ギリシャ語はあなたの心に問題が存在しないように)神を信じなさい。そして私をも信じなさいピスチューエテπιστευετε(信じ続けなさいと2回命じられた)弟子達が永遠に神とともに住み神に対する喜びに満ちる。父の家には住む所が沢山ある。私はあなた方のために場所を用意しに行く、そして用意ができたら戻ってきて、あなた方を私のもとに迎える。・・・・』トマスの問いに『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない。あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている。』

 それなのにピリポが8節「主よ、私たちに御父をお示し下さい。そうすれば満足できます」と訴えている。ピリポの不満はイエス様の仲介なしに、もっと直接的に御父を見ることが出来ないのかという疑問から出たのです。はっきり肉眼で神様を見ることができ、五感で神様を感じることができたなら、彼は満足できたのでしょう。長い間主と共にいて行動を共にしていながら理解していなかったのです。

 主は驚きを隠されず『ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。何故、{私に御父をお示し下さい}と言うのか、私が父の内におり、父が私の内に折られるのを信じないのか、・・・・私の言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。・・・・私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう』

 イエス様を信じる信仰は、イエス様の弟子である私たちの祈りを、イエス様ご自身の祈りまで高めて下さるのです。いつもイエス様の祈りが御父に聞かれるように私たちが主を信じて祈ることは、何でもかなえられます。こうして、父は子によって栄光をお受けになるのです。主は神様の右に座して私たちの祈りを執り成して下さいます。

 私達は祈り始める時、天のお父様御名を崇めます。そしてお願いを申し上げて。最後はイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。イエス様は神様のみ旨であれば聞いて下さり、とりなしをしてくださいます。

 私は77年の信仰生活の中でのお祈りは、すべてを善になされたことを経験してきて感謝しています。7・8月は戦争中に思いをいたし、あの惨めさを若い人々に味わって欲しくないと心から願っています。上中牧師のお勧めで教団の機関紙『りばいばる』に戦争を経験した牧師のことを千字にまとめ写真を添え、メールでとの事ですので添削と写真を送付することを足立兄弟にお頼みしました。私にとって軍隊生活が私の原点であることを確認しました。多くのことを思い出してあの生活が私に人生のどん底を見せてイエス様とのほんとの出会いをしたことを思い出すことができました。主はすべてを善きにしてくださいます。感謝です。

【私は道であり、真理であり、命である】 ヨハネ14章1~14節

2015年7月19日

 ヨハネ福音書の著者は、この福音書の目的を20章31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア(油注がれた者)であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と述べています。このヨハネ書の特徴的な用法に6章35・41・51「私は命のパンである」エゴー エイミεγω ειμι○○「私は○○である」が多く使われています。(英Iam)その一ッが本日の主題『私はエゴーであるエイミ道ホドス、真理アレーセイヤ、命ゾーエーである』です。

 最後の晩餐が終わって、イスカリオテのユダが、悪心を抱いて暗黒の中に去った後トマスとピリポとの問答をなされ、14章~16章まで最後の遺言的告別説教をなさいました。17章では、心騒がしくしている弟子達のために執り成しのお祈りを父なる神にお語りなさいました。私はこの最後の説教と執り成しのお祈りを度々拝読しいつも感謝しています。

 繰り返し、繰り返し、イエス様はご自身がどこへ行こうとしているかを弟子達にお語りになった。しかし弟子達は理解できなかった。7章33『今しばらくの間。私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになぅた方のもとに行く』と語られた。主が通ろうとしている道のために十字架があるなど彼達には理解できませんでした。分からないものを分かったふりをしない者が一人いました。そのトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言った。主はお答えられ『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。・・・・』トマスは信仰深げな表現で満足できず。彼には確信が必要でした。彼は主が[行く]また[道]と言われたことを空間的・物理的に理解したがそれには満足することが出来ずに主に質問したのです。それに対するご回答でした。

 私は道hΟδοσである。ユダヤ人は歩むべき神の道について色々述べています。神様はモーセに申命記5章32「あなたは左にも右にも曲がってはならない。あなたは、あなたの神、主があなたに命じた道を歩まなければ成らない」主イエス様はこの道を助言や忠告を持って示すのではなく、主ご自身が私たちを導き、私達と共に歩まれて示されました。イエス様は道についてお語りになるのではなく御自身が道であると言われます。

 私は真理αληθειαである。多くの人が道徳の真理を語るがそれを具現した人はいない。学問的、科学的真理は知識があれば教えられるが、道徳は言葉のみによって教えられない。人格の実例を示す事で教えられるのです。イエス様の愛の道徳的完全性の事実が主のうちに実現されて私たちに示しておられるのです。

 私は命ζωηである。ヨハネ書は永遠の命とそれを与えてくださる主イエス様の業を示した著書です。箴言10章17「教訓を守る者は命の道にある」人間が常に求めているものは命です。人は知識を求めているのではなく、人々の求めているものは人生を価値あらしめるものなのです。愛は命をもたらします。それを主は成されたのです。イエス様と共なる人生は価値ある真実の人生です。これらのすべてを与える道があります。6節『・・・・私を通らなければ誰も父のもとにいくことはできない』と主はトマスに語られました。イエス様のみが神様に至る道です。イエス様においてのみ神様がどのようなお方であるかを示して下さいます。私達は主イエス様の十字架のもとに憚らずして出でよと招かれています。そして愛なる主イエス様を通してのみ、永遠の命に至るのです。感謝の極みです。

【会堂建築59年目を感謝して祝う】 列王上6章1~14節

2015年7月9日

 サムエル記7章ダビデ王は預言者ナタンに言った「見なさい。私はレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」ナタンは王に答え「心にある事は実行なさるとよいでしょう。・・」しかしその夜、ナタンにダビデが神の家を建てる事をやめさせ、12節貴方が生涯を終え、先祖と共に眠るとき、・・・貴方の子が私の名の為に家を建てる・・と告げられた。

  列王6章1節ダビデ王の息子ソロモン王が主の神殿の建築に着手した。ソロモンは言った5章17節「父ダビデは、主が周囲の敵を彼の足の下に置かれるまで戦いに明け暮れ、その神なる主の御名の為に神殿を建てる事がるできませんでした。・・・」彼は父ダビデの意志をついで建築を完成させ、そして契約の箱を至聖所に安置した。

 私は会堂を建てるに当って小さな十坪の二階建てですが、ソロモンが建築を終えて全会集の前で両手を上げて祈ったあの気持ちと同じでした。8章22節

 私は1954年10月、台湾に帰る許可がでた林異来牧師の後をついで元住吉での家庭集会を初めました。集まる方々は遠藤夫妻と店で働く職人の二人と私の5人です。場所は遠藤靴店の二階の宿直室畳三畳に板間一畳ほどでした。下旬には東口のお店を借りて礼拝、伝道会、祈祷会、聖書研究会、路傍伝道を始めました。

 55年4月年会で深佐牧師任命され、元住吉教会として正式に開拓伝道開始。10月一同専用の会堂が欲しいとの望みを持った時、ヘブル書11章1節「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」の御言葉が与えられたので、全員でそれぞれに土地探しをすることになって散って行きました。そして現在地の73坪が良いのではないかという事になったが、手持ちは10万円です。約60万円必要です。個人的に借金して献金してもよいが教会としては借りる事はしないと決めていたので、一応地主に交渉して23坪を購入することにして11月1日契約30日に教団名義で登記しました。50坪はお金が入り次第購入するとしました。

 そして十字軍(伝導隊)の使用済み天幕を貰って天幕教会を始めました。雨は漏るし垂れ幕は孔から寒い風が入る有様、6月になると天気のよい日は垂れ幕を上に跳ね上げても昼間は中に居れないほどの暑さです。屋根のある会堂が必要と感じ本気で祈り始めました。その時前に日曜学校の教師指導を頼まれて奉仕していた教会の役員が訪ねてきて何故私に相談しに来なかったのかと言われ急いで集会が出来る建物を作りましょう。本建築は後で、支払いはできる時にとバラックより少しましな会堂を建てて下さいました。そのときの十字架が会堂の上に今もあります。信じ行動すれば主も動いて下さいます。信仰のすばらしいところです。支払いは友人が必要な時は用立てるある時払いでよいといっていたことを思い出し、個人的に借用して支払いました。

 家族には不便をかけましたが、2年で返すことができました。床が2箇所抜けて園児が足を落としました。何とか本建築をと思いましたが、私の借金は残っています。家族で祈っている時、直子と信子が自分達の結婚費用の3百万を使って欲しいと言うのでそれを元手として教会で会堂建設を宣言しました。教会員と各地の教会に転会した方々、愛児園関係者方の献金2千が3百万余与えられて会堂が建設されました。

 その時会堂の上に掲げられた十字架を仰ぎ見た時の喜び感謝は忘れることができません。多くの方が一つになって祈って与えられた信仰の道をここに至ったことを感謝すると共に、主のみ言葉を信じることの素晴らしさを改めて知る事です。私は人一倍暑がりで寒がりやです。私はクーラーの前でまたストーブの前で天幕教会を思い出します。そして神様は何とおやさしい愛のお方かと感心します。7月は私にとって心身ともに支えて下さる神様に感謝する記念の月です。私自身の信仰の点検の時でもあります。

【裏切りの予告と新しい掟】 ヨハネ13章21~35節

2015年6月21日

 レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた最後の晩餐は、13人が椅子に座っていますが、聖書に述べられたものとは違います。24~27節では主の左にイスカリオテのユダ、主の右にはヨハネが横長の椅子に左ひじをついて左側を下に横になり、右手で食べ物を取っていました。これでは絵画にならないので、食卓を一線に全員を現在のような椅子に座らせたのでしょう。食卓は低く頑丈な台盤でUの型に並べられていた。主は片側の中央の主人の席に着かれておられた。

 以上のような席順だとヨハネの頭は、イエス様の胸あたりにあった。特に注意したいのはユダの位置です。主人の左は最も親しい友人に与えられる場であり。主と二人のみ話せる関係の場でした。主はユダに『ユダ、ここ私の側に座りなさい。特に貴方に話したいことがあるから』と話す場を作られたのではないでしょうか。
主はこの食卓に着かれる直前21節『はっきり言っておく、αμηνアーメンαμην私は貴方達に言う(λεγω υμιν)あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている』・・弟子達は顔を見合わせた。24節ペテロはヨハネに誰なのか尋ねる様に合図した。その弟子はイエス様の胸元に寄りかかったまま、「主よそれは誰のことですか」と言うと、イエス様は『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられて、パンきれを浸してユダにお与えになった。この会話はユダも聞いていた筈です。

 ユダは、いつでもこの様な愛を身に受けていました。イエス様は繰り返し彼の暗くなった心に呼びかけられたが、その愛の訴えに彼は無感動であった。彼がパンを受け取るとサタンが彼の中に入った。それでも主は『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と言われた。他の弟子達に悟られないように悪い計画をやめなさいと勧められたのです。11弟子には主のホントの心は分かりませんでした。ユダはパンを受け取ると、すぐ出て行った。彼が光の子から闇の子になった瞬間です。30節時は夜であった

 ユダが出て行くと、主は言われた『今や、神は人の子によって栄光を受けられた。・・であれば、神ご自身も人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる・・』翌日金曜日、この世に使わされた最大の目的、人類を贖う栄光の十字架を見つめておられます。3日後の日曜日の早朝に復活の栄光の姿を弟子達に現れなさった。私たちに与えてくださる救いと永遠の命を示された出来事です。

 そして主は誰もついてくることの出来ない旅に出ようとしておられた。主は十字架への道に進まれようとする前に、一つの戒めを弟子達に与えられた。34節『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる』と言われた。

 主は弟子達をどのように愛されたでしょうか。イエス様は御自分の事は顧みられず愛する人の為にご自身を与えられた。主は後自身を犠牲になさって愛された。イエス様は弟子達のすべてを知って愛された。主は彼達の過去、現在、未来にわたって犯す罪を赦す愛を注がれた。

 この主の愛がその後すぐ示されています。36~36節ペテロが「主よ、何故今ついて行けないのですか。貴方のためなら命を捨てます」言ったことにイエス様はお答えになった『私の為に命を捨てると言うのか。はっきり言っておく(アーメン アーメン)鶏が鳴くまでに、貴方は三度私のことを知らないと言うだろう』とおっしゃったがそのお言葉の中に主の温かい愛があったことを後でペテロは知ることになります。

 私達は主に愛されていることを経験して、キリスト者になります。そして主に従う決意をしバプテスマを受ければ、信仰をいただき弟子になれます。イエス様の弟子になる光栄に与りましょう。

【弟子の足を洗う主】 ヨハネ13章1節~20節

2015年6月8日

 いよいよ受難のときが来ました。13章から受難物語りが始まります。18章~20章までにイエス様の逮捕、裁判、十字架、復活が語られます。その前に長い告別説教が述べられます。(イエス様と弟子達との問答や対話が一部含まれる)この説教と、最後の晩餐は、主イエス様が弟子達の足を洗う光景によって始まります。

 この晩餐の席にで、弟子達の間で、誰が一番偉いだろうとの議論が起きた時に。イエス様は語られました。ルカ二二27『・・・食事の席に着く人と給仕をする者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなた方の中で、いわば給仕する者である。・・・』イエス様は屈辱が迫りその後神の王座の右に座する光栄の時が近いことを悟られ。

 ヨハネ十三4[・・・手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、盥に水をくんで弟子達の足を洗い、手ぬぐいで拭き始められた。ペテロは自分のところに来ると「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか」(足を洗うのは僕のなす事ですのでペテロは恐縮して)言った主は答えて、『私のしている事は、今貴方には分かるまいが、後で、わかるようになる』と言われた。ペテロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、主は『もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる』と応えられた。ペテロは言った「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言った。主はそれに対して言われた。『既に体を洗った者は。全身清いのだから、足だけ洗えばよい。・・・・』]

 ルカ二二の弟子達の争論によって、主イエス様の弟子達の足洗いがなされたのでしょう。当時の道路はほこりっぽい、乾燥の折には歩くと土が舞い上がり、雨季には泥濘だらけ、サンダルは皮底を2・3本紐で足に結びつけた物でした。そのようなわけで、各家の戸口には水がめがあり。客が入って来ると召使が盥で足を洗い、手ぬぐいふき取ったのです。イエス様の一行13人には召使がいなかったのです。それまでは招待されたところの召使がそれをしてくれたのですが、今誰が偉いかの争論でお互いの足を洗うことなど忘れていたのです。

 聖書の出来事には表面の目に見えることと、その奥に深い意味があることを忘れてはなりません。弟子達は競い合っていて誰一人足を洗う召使の役をしようとはしなかった。その役目をイエス様ご自身がなされたのです。私達は傲慢になり主イエス様の御好意に反することを仕出かしてしまいます。そのときこそ手ぬぐいを腰につけ弟子達の足元に膝をつかれる神の御子の姿を思いだせば、何をなせばよいか分かります。14節『・・・師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方もお互いの足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなた方もするようにと、模範を示したのである』と主はおっしゃいます。

 7節でペテロに『私のしている事は、今あなたには分かるまいが、後でわかるようになる』(聖霊降臨後聖霊に教えられて主の御行動・御言葉の意味を知った)8節ぺテロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエス様は『もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりのないことになる』答えられた。ペテロは「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言った。イエス様は言われた『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。・・・・・』

 主がペテロに言われた意味は、あなたにとって今必要なのは、体を洗う事ではない。それはあなた自身で出来る事です。あなたにとって必要なのは、信仰と言う家(教会)に入るしるしとなる洗浄です。もう一つイエス様がペテロの足を洗うことをお断りした時、主はもしそうするならば私と関係がなくなると言われたことです。

 それは教会に入る方法としての洗礼(バプテスマ)を指しています。洗礼は教会加入の洗浄と言っても良いでしょう。これは何も、洗礼を受けなければ救われないと言う意味ではない。そんなことはありえない事です。自己主張が強く傲慢でその大きさのため門を入れない、それが信仰の家から閉め出される結果となるのです。イエス様から関係はないと言われたペテロがあわてて、手も頭も洗ってほしいといったのは敬愛する主イエス様との関係が切れてしまうことを畏れたのです。

 洗礼は教会の入門式です。イエス様に従いますと言う宣誓式です。教会入門ができますと救われ、切に祈り求める者は聖霊の賜物をいただけるのです。アガペーの愛を頂いてお互い足を洗いあって愛し合うのです。それが主の体なる教会です。素晴らしい福音ではありませんか。

【ペテロの説教】 使徒2章14~36節

2015年5月17日

 イエス様がなさった初期の山上の説教マタイ-5-7章。十字架の死の前夜の告別説教と執成しのお祈りヨハネ14-17章。主の代表的な御教えと御約束です。その御約束通りに、五旬節の日に弟子達が一つになって集まっていると聖霊降臨があり、一同聖霊に満たされて、ほかの国々の言葉で話し出した。2-1~13節。ペテロは11人の弟子達と共にたって、声を張り上げ、話し始めた。他の聖霊に満たされて他国の言葉を話し始めた人々は今で言うところの同時通訳を始めたのでしょう。彼らの語る言葉を受け入れ洗礼を受けその日3千人ほどが仲間に加わった。

 異言を語って導いたピリポのことが9章20-39節に述べられています。エチオピアの高官がイザヤ53章を読んでいて理解できないでいるところ聖霊に導かれてピリポが同じ馬車に乗って座り、主イエス様のことを告げ知らせました。水のあるところで高官の求めに応じて洗礼を授けた。キリストに従うことを決意したからでしょう。水から上がると、主の霊がピリポを連れ去った。これらの事から異言は他の人々に理解できる言葉なのです。

 聖霊降臨は神様の御約束の成就した奇跡です。人間の視覚にも聴覚にも現実に響き渡り、聖霊が炎のように現われ各人の上に留まったのを見たのです。この奇跡を見た人々はエルサレム定住の人達のみではなく、世界各地に散らされたユダヤ人(ディアスポラδιασποr)は世界各地から来ていた。彼等の中にはユダヤ教に改宗した異邦人もいた彼らはユダヤ人と見なされていた。彼等はヘブル語にも常用されていたアラム語も十分には理解できなかった。バベルの出来事以来言葉が通じなかった人々が聖霊の働きによりガリラヤの無学な弟子達が、世界中から集まった信心深いユダヤ教徒に彼達の国の言葉で福音を語りかけた。このキリストにある福音こそ、世界を統一する唯一の言葉です。

 教会は聖霊降臨によって、世界に伝達すべき豊かな内容を持った福音を委ねられたのです。主イエス様が言われたように聖霊に満たされた弟子達は証人としての使命に踏み出して行くのです。これが聖霊のバプテスマです。彼達の群れはユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて潜んでいましたが、今や彼たちは聖霊の導き力によって神殿にて声を張り上げて証をするのです。彼達に与えられた異言は意味の分からない言葉ではなく、[イエス様はキリスト・メシア救い主]と語り証する事でした。

 そこでペテロが11人の弟子達と共に立つて声を張り上げて話し始めたのです。旧約聖書からの引証が非常に多いのが特徴です。信心深い聴衆はそれを良く理解しました。それぞれの言葉に同時通訳?された他国語の人達も理解し信じたのでしょう。その日に信じ仲間に3千人加わったと言うのです。ラウドスピーカのない時代にこれだけ大勢の人がペテロの説教を聞いたとは思われません。ペテロが最後に語った「・・だからイスラエルの全家は、はっきり知らなければなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 37節人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(心を刺され)、ペテロとほかの使徒達に、「兄弟達、私たちはどうしたらよいのですか」と言った。するとペテロは彼等に言った。「①悔い改めなさい。めいめい、②イエス・キリストの名によって洗礼を受け、③罪を赦していただきなさい。そうすれば、④賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」このペテロと弟子達の言葉を信じて洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わり教会が成長確立されました。

  ペテロやステパノの説教―使徒7章―を通しての証は主キリストが神の御子であり救い主であると述べているのです。弟子達が聖霊を受けたとき以上の証を始めたのです。私たちの証しもかくありたいものです。

 

【法治国家と憲法】 イザヤ11章1~10、イザヤ2章1~22節

2015年5月3日

 日本国憲法は三権分立の立憲主義です。律法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)、の三つの権力は独立していて、相互に行き過ぎを抑制し合う関係です。四一条「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と規定しています。国会議員は憲法から逸脱しない法律をつくる人たちです(英語ではLawmaker )。しかし日本では殆どの場合各官庁が法案を作り、内閣で決定して国会で議決され法案になっています。憲法から逸脱しないことが法治・立憲国家なのです。九九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」英国のマグナカルタ(大憲章)以来各国の憲法は強者(権力者・政府)が弱者(国民の権利)を犯さないことを義務として来ました。

 旧約時代はカナン占領から王国成立までの期間,「裁きづかさなる士師」がイスラエルの軍事的政治的指導者として12人が立てられました。彼らはカリスマ的指導者であった。いずれもイスラエルの部族が外敵の襲撃を受けた時、神様の召命を受けて立ち、部族を勝利に導き、その後数年か数十年の間民を裁いた(おさめた)。それまでのイスラエルはモーセ以来、預言者や神様に召された人々がイスラエルを導き治め裁いた(これには士師たちも含まれる)。預言者(ナービー)神様に代わって語るもので、神様の口とも言われます。彼達が預言する時には通常”主はこう言われる“と語り始めます。預言に従い裁きがなされました。この時代のことを神権政治(史家ヨセフスの言)と言います。

 サムエル上8章サムエルは年老い、イスラエルの為に裁きを行なう者として息子達を任命した。彼は“さばきづかさ”として長男と次男を当てた。サムエルは士師が神様の召命によらねばならないのにも拘らず。世襲制に変えようとしたのです。この息子達は父サムエルの道を歩まず不正と賄賂によって裁きを曲げた。それでイスラエルの長老達は彼に申し入れた。4・5節。「・・・ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行なう王をたててください」6節サムエルが主に祈った。7節主は言われた『民の言うままに、彼らの声に従うが良い。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。8節。9節今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい』。
サムエルは王を要求するする民に、主の言葉をことごとく伝えた。11~18節王を立てるとどのように物質的な支出、徴兵制等・・「あなた方は王の奴隷になる。その日あなたたちは、自分で選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちには答えては下さらない」と強い警告を伝えたが、19節民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。・・・王が陣頭に立って進み、我々の戦い(今までは主の戦いであった)を戦うのです」

 かくして王政国家となり、イスラエルは人権も自由その他のものを失い。それだけではなく大国の侵略を受ける破目に陥りました.王の独裁の災いはついに国が滅亡するに至りました。

 各国の王政は中世期まで続き、王の一存で税は多く、闘いがあり、生殺与奪の件も一方的であった。ついに貴族連合から王の権力を縛るマグナカルタが王に渡された。それ以来先進国は国の憲法を定め権力者・政府に対して義務を課した。憲法は国民の権利を認め、義務は義務教育を受けること、納税の義務等極めて少なく定められています。

 日本国憲法の世界に誇るべき条項は、前文と第九条にあります。世界の憲法学者がどの国の憲法にも必要なものと述べています。これは明らかにイザヤの預言の影響を受けています。敗戦の年の十月の初め頃だったと思いますが、東国邇宮内閣の平和宣言を台湾の新聞で読んで趣旨に大賛成非常に感激しました。一面は華文、裏面は日文でした。華文の見出しは敗戦にあたってとなっていたが、日文のほうは終戦となっているのには武装解除されて敗残を経験した私にはほんとに戦争をしたことに対する。国民の総懺悔と言う言葉だけのことかと残念な思いをしました。その宣言の中にイザヤの2章の預言が述べられていました。

 第九条は永遠に歴史に残るものです。イザヤ2章4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」憲法九条『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は、閣祭紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』(侵略に対する自衛権は認める)また九十九条『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』

 九十九条が厳格に守られるなら現在起きている解釈改憲はあってならないものです。四十一条『国会が国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である』。内閣が憲法を超える決定はなしてならないものです。

 私たちキリスト者は、日本を愛するものとして間違いには立ち向かわなければ成りません。勿論憲法による立法府の定めた法律内においてです。日本憲法は十分余で読めますのでこの際目を通して下さい。何が正しいか分かるはずです 。

 

【ロバの子に乗ってエルサレム入城】 ヨハネ12章12~26節

2015年4月19日

 過越の祭り、ペンテコステ、仮庵の祭りの三つはユダヤ人には強制的な祭りです。彼達は世界のどこにいてもエルサレムに集まってきた。ユダや人の願いは一度でも良いから過越の祭りをエルサレムで守りたいということでした。その日彼達は道々イエス様がラザロを死人の中から甦らされたという噂をしていた。そのイエス様がエルサレムにお出でになると大きな期待を持っていたのです。

 主イエス様は御自分の使命を果たすべく過越の六日前ベタニアに入られ、マルタ達の住まいでの夕食に招かれた。そこにはラザロも同席し、マルタは給仕をしていた。その時マリアが非常に高価なナルドの香油を持ってきてその石膏の壺を壊しマタイ14章3節イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。イスカリオテのユダは「何故、この香油を三百デナリ(だいたいの人の一年の収入)で売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言った。・・・・主は言われた『この人のするままにさせておきなさい。私の葬り日の為に、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない』

 マリアは女性の誇りである髪の毛でもって愛で注いだナルドの香油を拭い取りました。マリアは主の愛に応えて自分の大事にしていたナルドの香油を、主がおおせられた様に葬りの準備のために注がれたのですが、本人は唯主を愛する感謝の気持ちで一杯だったのです。マタイは主のお言葉としてこのことをマタイ26章13『世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』と述べられておられます。主に対しての愛はどのような犠牲でも払い行為するのです。その愛の香りはキリストの体なる教会に満ち溢れます。一方ユダのものの見方のいびつさを感じます。愛の素晴らしい行為を目の当りにしていたにも拘らず主に対する献身を浪費と見る彼のうちにあるものを表しています。愛の目で隣人を見ないとユダと同じ裁きの非難になります。

 さて、祭りに集まって来た礼拝者たちは神殿のきよめの儀式の後、手に手にルラブ(棕櫚・ぎんばいか・柳の枝を束ねたもの)を持って詩篇113~118篇のハレル(神をほめよの意)を讃美しつつ祭りの続く間、毎日大きな祭壇の周りを行進した。(初めは一日に1回づつ、七日目は七回まわった)過越祭の六日前、主は前記のようにラザロ達と食事をしていた。そこにユダヤ人の大群衆がイエスさまだけが目当てでなく、イエス様がよみがえらされたラザロを見るために集まって来た。祭司長達はラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロの事で離れて行って、イエス様を信じるようになったからです。

 その翌日(5日前)祭りに来ていた大勢の群衆はイエス様がエルサレムに来られると聞き、ルハブ即ち棕櫚ナツメヤシ等の枝を持って迎えに出た。そして叫び続けた。「ホサナ(今救ってください)主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」イエス様はろばの子に乗ってゼカリヤ9章9節エルサレムに入られた。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者高ぶることなく、ろばに乗ってくる雌ろばの子であるろばに乗って、私はエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民は平和を告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」16節弟子達は最初これらの事はわからなかっが、イエス様が栄光を受けられた時、それがイエス様について書かれたものであり、人々がそのとおりにイエス様にしたと言うことを思い出しました。

 20節さて祭りの時礼拝をするためにエルサレムに上ってきた何人かのギリシャ人がピリポに「お願いです。イエス様にお目にかかりたいのです」と頼んだ。彼はアンデレと共に行ってイエス様に話した。イエス様はお答えになった『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり{アーメンαμην αμην}言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従え・・・・・』アンデレは兄のペテロをイエス様の下に連れて行き、他にも隣人をイエス様のもとに連れて行った。アンデレの働きで、ギリシャにキリスト教が広がったのです。今私たちの教会にはアンデレの働きが必要です。今までを返り見ますと、兄弟姉妹がアンデレの働きをなさった場合、殆どの方に信仰が与えられました。勿論執り成しのお祈りはしたはずです。

【私は復活であり命である】 ヨハネ11章17~37節

2015年4月5日

 私は出撃前の特別攻撃隊員で、日の丸を中心にして七生報国と書かれた鉢巻をした飛行将校を見ました。齢は私より3・4歳上の学徒出身の予備学生たちでした。日本古来からの人は死んでまた人に生まれる思想と、仏教の輪廻の信仰(死んだ衆生が善悪の業によって赴き住む六つの冥界即ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)が絡み合って、今死んでも国のために命を捧げるのだから人に生まれ変わって七度国に命を捧げるという意味です。私はそれ以来、組合運動などで鉢巻はしませんでした。鉢巻にはひとつになるとのいみもふくまれているのです。

  キリスト教が2千年、世界の多くの人に信じられてきたのは、キリスト・イエスの十字架の死により救われ、三日後に復活され弟子達や他の多くの人たちに、栄光のお姿をお見せになったという事実が、語り告げられ証されてきたからです。

 さてイエス様はヨハネが最初に洗礼を授けたところに滞在されておられた。多くの人が主のもとに来てヨハネが主のことについて証ししたことがすべて本当であったのを知って、多くの人が主を信じた。

 ベタニアにはマリアと姉妹マルタと弟ラザロが住んでいた。イエス様は御自分の家をもたれず。枕するところもなかったがこの三人の愛に満たされた家庭が、主の張り詰めた生活に心身ともに休息を与える家庭でありました。ラザロ(神は私の助け手あるとの意味)の病が重くなったので、主のもとに人をやって事態を知らせた。彼女達はイエス様にベタニアに来て欲しいとは言っていません。イエス様には困っている事実をお伝えすれば、主は必ずお出でになり良きになさると信じる信仰を持っていたのです。

 6節イエス様はマリアたちの知らせを聞かれ『この病気は死で終わるのではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』と言われてからなおその地で多くの人たちを導くため2日滞在され、その後弟子達に『もう一度ユダヤに行こう』と主は言われた。弟子達は8節「石で打たれようとしたばかりではありませんか」と言った。『・・・昼のうちに歩けば、躓く事はない。この世の光を見ているからだ。しかし夜歩けば、躓く。その人の内に光がないからである』と主は話され続けて11~16節と言われた。トマスは仲間の弟子達に「私達も行って一緒に死のうではないか」と言った。

 主がベタニアに行かれると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていた。マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになる事は何でも神はかなえて下さると、私は今でも承知しています」と言うと、イエス様は『あなたの兄弟は復活する』・・・『私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか』マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じております」と信仰告白をした。

 主がラザロの墓に来られると、墓の洞穴は石でふさがれていた。35節主は涙を流されたεδακρνσεν (h)ο Ιησουσエダクリュウセン・ホ・イエースースこの涙を流された事は人間の死に対する深い人間的な同情を感じられたからです。主が『石を取り除きなさい』と言われるとマルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエス様は『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。人々が石を取り除けると、イエス様は天を仰いで言われた『父よ、私の願いをいつも聞いてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです』と祈られ、そして『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔の覆い包まれているのが解かれてマリア達の所に帰って行った。イエス様のなさった事を目撃したユダヤ人の多くは主を信じた。

 しかし中にはその出来事をパリサイ派の人々に告げに行った者もいた。その年の大祭司であるカヤパが最高法院で50節「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむ方があなたがたに好都合だとは考えないのか」の発言でイエス様を殺す企みを始めた。ラザロを見に多くの人が集まって来たので彼をも殺そうと計った。

 ラザロの復活は主イエス様の復活の予表です。前コリント15章全体は復活について詳しく述べられています。14節には「キリストが復活しなったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。・・・・・・・・」

 主を信じる者は永遠の命を頂き、永遠に生きて行くことを意味します。この信仰は死に打ち勝つことが出来るのです。54~55節死は主に在りて勝利に飲み込まれたのです。主の復活ゆえに私たちキリスト者も復活の恵みに預かるのです。

 

 

【良い羊飼いとその羊】 ヨハネ10章1~21節

2015年3月15日

 創世記13章を見るとアブラムと甥のロトは多くの家畜を所有していた。ネゲム地方は彼らが一緒に住むには十分でなかった。それでアブラムはロトに先に住む場所を選ばせた。ロトは目を上げて眺めるとヨルダン川流域は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ゾアルまで主の園(エデンの園)のように、すみずみまでよく潤っていた。ロとはその低地を選んで、移って行った。14節以下アブラムに神が彼を祝福すると約束されたその地は荒野でわずかな草があるのみでした。

 彼はこの地で家畜を飼う事に成った。羊は草を求めて遠くまでさ迷い歩きます。狭い高地の両側は落ち込んで、岩だらけの砂漠が続きます。羊はその中に迷い込む恐れがありました。そこには狼がいるし、またいつも羊を狙う盗人もいます。羊飼いは絶えざる警戒心と,猛獣から羊を守る勇敢さと、そして油断すると迷いでてしまう群れへの忍耐心と愛情が必要でした。

 旧約には神様が牧者であり、民は羊の群れとして、イザヤ・エレミヤ・エゼキエル等の預言者が語り、特に詩篇には多く見られます。私たちが親しんでいる詩篇23篇はその事を美しく描いています。「主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われる。・・・・・」

 モーセが40年間羊飼いをして神様の訓練を受けた事は注目すべき事です。彼はパロの娘の子として当時の最高の教育を受け、恐らく陸軍最高司令官として軍勢を率いて遠征を数多くなして、大いなる軍の指揮者であった様です。自分の能力に自信を持っていました。ある日、出2章11「・・・エジプト人が同胞のヘブル人を打つのを見たので・・・そのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した」これを聞いて、パロはモーセを殺そうとした。モーセを王座を狙うものとして警戒していたのでしょう。

 モーセはパロを恐れてシナイ半島の荒野のミデアンの地に逃れ、祭司エテロの羊飼いをしていた。そこで彼は羊飼いとしての特質である警戒心・群れに対する忍耐心・それに対する深い愛情を身につけることが出来たと共に自分の無力さを痛感した。そのとき燃えるしばの中から語られる。『イスラエルの民をエジプトから導き出しなさい』との命令です、『私は、有ってある者エヒエー・アシェル・エヒエー』と名のられる神様の命令に従いました。イスラエルの民を40年間導いて約束の乳と蜜の流れる地へと向うのには40年間の王子の生活、特に後半の40年間の羊飼いがどれほど彼を助けたでしょうか、神様の愛を忘れて暴走する民を導くよき羊飼い・牧者であればこそ神様の助けを得てなしえた業なのです。

 私は10章のよき羊飼いのイエス様と羊の関係などを考えながら、以上の事を思い出していました。イエス様の時代には、雨季の夜は外敵を防ぐ木の柵の中に村の多くの羊飼いの羊を囲って門番が守っていました。羊飼い達は朝自分の羊を呼び集めて(羊は自分の羊飼いの声を覚えている)草のあるところへと導いていく仕来りでした。

 10章7節『αμην アーメン私は羊の門である』9節『私は門である。私を通って入るものは救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける』10節『・・・私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる』と述べられています。

 あたたかい時には牧場の近くに村の羊の柵が作られます。そして夜は柵の中で羊は休み羊飼いらは入り口に横になって夜を過ごします。羊達は安心して眠られます。イエス様が言われる羊の門とはこの事です。命を張って羊を守る門なのです。

 イエス様の門を入るものは皆救われる(十字架がその門です。)受洗した人は羊達キリスト者です。羊は羊飼いの声を知っています。また羊飼いは羊をよく知っています。私達はイエス様によく知っていただくために良く祈り、イエス様のみ声を忘れないようにいたしましょう。そのために礼拝(奉仕)聖書通読をして御言葉を通して主のみ声を聞きましょう。忘れないために。

【神の業がこの人に現われる】 ヨハネ9章1~|7節

2015年3月1日

 私が23歳の時、結核で療養所にいました。水口牧師から今癒しの賜物を持った牧師が牧師館にお出でになっているので、祈っていただきなさいと薦められたのでその牧師にお会いしました。病気になった事は罪が原因だからまず悔い改めなさいといわれました。私はヨブに対して友人達が愛をもって忠告したことと同じだと思いましたので、私は洗礼後牧師立会いのもと罪を告白し罪赦されたと確信し、毎日のお祈りでも罪咎について祈りの中で覚えています。と申し上げたところ分かりました。そして油を頭に注ぎ癒しのお祈りをして頂きました。未だに旧約時代の考えがあることに驚きました。その後も、病弱がちでしたので数回同じようなことを言われました。

 生まれつき目を病んでいる者が癒されたのは四福音書でこの箇所が唯一の奇跡です。使徒行伝には、生まれつき体の不自由な者について二度語られています(3章2のうつくしの門における足のきかない男と、14章8節のルステラに住む足の不自由な男)前者はペテロとヨハネの癒し。後者はポウロによる癒しです。旧約では目の見えない人の癒しは神様にしか出来ないと述べています。出エジプト4章11節、詩篇14篇6節。聖書には多くの奇跡が述べられていますが、新約には8つの開眼が主によってなされていると記します。イエス様が神であると旧約の語るとおりです。

 ユダヤ人達は霊的盲目のため、主イエス様が神から遣わされたお方であり、また世の光であることを認めなかった。そのため旧来の考えで苦難と罪とを関連させ苦難のあるところ罪もある、という旧約の基本的な発想から離れることが出来なかったのです。主と弟子達は通りすがりに道端で物乞いをしている。生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時弟子達は長い間心にあった疑問をイエス様に尋ねました。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」ラビという呼びかけは通常律法の教師に呼びかけに用いますので、弟子達がイエス様に呼びかける事は異例な事です。彼達はこの場合律法では何と答えるのですか。この不幸の原因はどこにあるのですか。この苦難は誰のせいですか。何故こんな目に合っているのか。誰の罪か先祖のせいかと主に尋ねているのです。イエス様はそれに答えられた。『本人や両親のせいではない。御神の業がこの人に現われるためである。私達は私を遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行なわねばならない』

 『私は、世にいる間、世の光である』主は苦難を前向きに受け取ることと答えておられるのです。病、挫折は終わりではなく、神様は病めるこの現実から御業を開始して下さるのです。霊的闇の中にいる者を光の世界へと導いて下さるのです。5節唾で土をこねてその人の目にお塗りになって、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われた。主の言葉に従ったとき目が見えるようになった。主の御言葉に従えば霊的暗黒から光の世界・主の光のもとに生活が出来るようになるのです。

 この癒された人は自分の上に起こって奇跡を11節、15~17節、25節では「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。唯ひとつ知っているのは、眼の見えなかった私が、今は見えるという事です」私も彼と同じように、キリストと共に十字架で死んで、主と共に復活し全く新しい人間とされた事実を他人が認めなくても、私自身の経験を証せざるを得ないのです。

 26節~34節彼は権力者の前で両親でさえ恐れて事実を語らなかったのですが彼は、「あの方が神の下から来られたのでなければ、何もできなかったはずです」と証をしたので外に追い出された。彼の勇気は褒めるべきです。

 35節~41節外に追いだれた彼に主は話しかけられた。彼はイエス様に答えて「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」主は『・・・あなたと話しているのが、その人だ』17節で預言者といった方を、彼は「主よ、信じます」と神の子と認め信仰告白をしています。

 祈りながら聖書を拝読すればするほどイエス様こそまことの神。子であることがよく分かり、この主によって神の子とされた光栄を深く感謝する者です。

【私は神のまことの子、あなたは】 ヨハネ8章39~47節

2015年2月22日

 ヨハネ3章16節「神は、その独り子τον υιον τον μονογενη トン フィオン トン モノゲネーをお与えになったほどに、世を愛された。独り子(かれ)を信じる者がπιστευων εισ αυτον一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」イエス様ご自身で8章28節『・・・あなたたちは人の子を上げた時に始めて{わたしはあるということと・・父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。出エジプト3章14節モーセに『私はある私はあるという者だエヒエー・アシェル・エヒエー』と神御自身が述べられています。}一方マタイ5章9節『幸いなるかな、平和をつくる人、彼らは神の子υιοι θεουと呼ばれる』との山上の説教では、人間が神の子と呼ばれています。主イエス様と人が神の子と呼ばれる矛盾を感じてギリシャ語や文語訳・英語の訳2・3冊、ドイツ語の聖書など読み続けました。通読をした時のことを色々思い出していました。見つけることが出来ました。50年ほど前のことでした。その時の嬉しさは忘れることが出来ません。

 それはローマ8章15節「・・・・子たる身分υιοθεσιασフィオテシアス(養子)を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたし達は『アバ、父よ』と呼ぶのである」私の疑問は解けました。天地創造に関れた神の御独り子(υιον θεοσ)と、わたし達主の十字架の血で贖われた神の子たちとの違いがハッキリしました。私達キリスト者は神の養子(猶子)とされキリストともに神の世継ぎとなり、神の国を頂いた者であり、イエス様の妹となり、弟になったのです。つまりイエス様ときょうだいになったので聖書は私たちを神の子と呼んでいるのです。

 ここでヨハネ8章において私たちはアブラハムの子孫だと主張するユダヤ人と主との会話の食い違いを詳しく知ることが出来ます。37節『私は、あなた方がアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなた方は私を殺そうとしている。私の言葉が、あなた方のうちに根を下ろしていないからである。私は私の父のもとで見たことを語っているが、あなた方は自分の父(サタン)から聞いたことを行なっている・・もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなた方に語ってきたこの私を殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。あなた方は、あなた方の父(悪魔)のわざをおこなっているのである』と主は言われた。続けて、

 42~47節と語られる。イエス様はアブラハムのまことの子孫とは、アブラハムが行なったように行なう者であると断言された。それは、バプテスマのヨハネが、裁きの日は近づいている。神は、もし望まれるなら、石ころからでさえアブラハムの子孫を起こすことができる。(ルカ3章8節)と言った。彼らは主イエス様を殺す口実を探していたのです。これは、アブラハムのしたことに反するものです。

 創世記18章1~8アブラハムは神の使者を歓待した。ところが彼達ユダヤ人は神の使い(神の子・主)を殺そうとしている。あなた方は、あなた方の父のわざをおこなっている。44節あなた方の父は悪魔であると主は言明なさいます。この事などを聞いたユダヤ人達は48節「あなたはサマリヤ人(ユダヤ人に敵対していた偶像崇拝者)で、悪霊に取り付かれていると、私たちが言うのは、当然ではないか」と言った。主は答えられて『わたしは、悪霊に取り付かれているのではなくて、私の父を重んじているのだが、あなた方は私を軽んじている。・・・』そして最後に『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から私はいるのである』とイエス様こそまことの神の子であるとの宣言をなさった。59節これを聞いたユダヤ人はそこで石を取って、イエス様に投げつけようとした。主は身を隠して、宮から出て行かれた。

 ヨハネ1章1~51節特にバプテスマのヨハネは33~34節「・・・・・私は御霊が下るのを見たので、この方こそ神の子であるとあかしをしたのである」イエス様ご自身もご自分こそまことの神の子と言われた。バプテスマのヨハネは預言どおり主がバプテスマを受けられた時御霊が鳩のように下ったのを見ただけではなく、マルコ1章11節天から声があった「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と聞いてこの方こそまことの神の子であるとあかししたのです。

 私たちもイエス様こそ私の救い主と信じたとき、神の〔猶子(養子)文語訳〕とされ実子の身分が与えられました。それで神の子としてイエス様の兄弟・姉妹にされたのです。感謝あるのみです。

【罪の奴隷から自由を得る】 ヨハネ8章31~47節

2015年2月1日

 敗戦の翌年46年2月中旬台湾の基隆キールンで子供連れの女性達の荷物を船に載せる作業をしていました。出発に間に合わせなければならないとのあせりと私も母も残留命令が出ていて、母は弟が特攻隊員として飛行機待ちをしていると聞いていたので早く帰国して探さなければとやきもきしていました。その時、私は上官から「米軍に渡すので至急翻訳せよと」と引揚者の名簿を渡されました。目を通すと母と私の名はありませんでしたので、日本の名簿に書き入れそれを翻訳して渡して、逃げるところでした。船が出るまでは何時MPに捕まるかとひやひやしながら作業をしていました。その船は弾薬など運ぶために大量生産されたリバテイ型で船名はフリーダムです。私は天皇の名による命令に縛られて死を待つ立場でした。戦後は占領軍の命令に縛られた奴隷のような存在が、このリバテイ型のフリーダムで脱出自由を得たのです。私は十日余の船旅でほんとの自由とは何だと考え続けました。

 自由には物質などに対する欲望から自由にされる一般的なものと、聖書の見る自由とに大きく分けられることに気がつきました。前者は誰でも理解できますが、後者は主の弟子に成ったものに与えられる真実の自由です。ヨハネ8章34~36『アーメンαμηνアーメン。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷である。奴隷は家に何時までもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなた達を自由にすれば、あなた達は本当に自由になる』聖書の述べる自由エリューセリアελευθελιαは十字架による贖罪によって罪の奴隷・僕ハマルティアン ドゥロスαμαρτιαν δουλοσから解放される事です。前コリント7章22「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金(十字架の死)を払って買い取られたのです。人の奴隷になってはいけません」

 ヨハネ8章31『私の言葉に留まっているならば、あなた達は本当に私の弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた方を自由にする』あなたは本当に自由になるには、主の弟子にならなければなりません。1)主の言われることを真理として、受け入れた時に、イエス様の弟子となったのです。2)弟子であることは主の言葉の内に常に留まる事です。それは①キリストの言われることに耳を傾け、それまでは決定を下さない。②キリストから絶えず学ぶのです。弟子はμαθητησマセーテス学ぶ者です。③主が語られる言葉が自分のものになるまで学び考えるのです。④主の言葉に従う。神様があなたに何をするように望んでおられるかを知る事です。主のもたらした真理は、行動へと導くものです。3)主がもたらす真理は、私達の価値観を正しくさせる。これで人生に何が重要であるかを知ることが出来る。4)弟子である事は自由をもたらす。①恐れからの自由。②自我からの自由。③他の人々からの自由、他人はどう思うか、何と言うかが気になること、神様の声よりも周りの人の声が大きくなることからの自由。④罪からの自由、ロマ7章24『ああ我悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者はたれぞ。これ我等の主イエス・キリストなるが故に神に感謝す・・』

 罪を犯すのは自ら欲するのではなく、せざるを得なくする原罪(的外れの性格)によります。努力しても人はそれから離れる事は出来ないが、主の弟子である事はこの罪の束縛から解き離されて、私が正しいと考えそれを実行出来るようにされるのです。

 私はここに至って、69年前に基隆港でのリバテイ型のフリーダムで敗戦後の束縛から解放され、大竹港に上陸した時の自由感の意味をしかと知りました。戦争で死の下に置かれた者が、敗戦により戦死の鎖から解き放たれたその自由を何としても守り、日本人が戦争で死にまた隣人を殺すような国にしてはならないと深く決意するものです。70年間戦争しなかった国とは、世界の歴史でも稀有な国であることを誇りとします。

【主イエス様は世の光】 ヨハネ8章12~20節

2015年1月11日

 人々とは7章で、語られたユダヤ人たちです。語られたのは同じ神殿のさいせん箱の側です。20節さいせん箱は神殿の婦人お庭にあった。仮庵の祭り(出エジプトの40年間の荒野の放浪を偲ぶスコット祭)では、最初の夜、この婦人の庭に配置された四つの金の大燭台に火がともされ、祭りの間、毎晩ずっとともされていた。その照らす強い光は、エルサレムの町中を明るくしたと言われます。

  『私は世の光である。私に従ってくる者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう』と主が語られたのは、仮庵の祭りの象徴を背景として語られるのです。このシンポルはイスラエルの民が荒野を放浪していた時、行く手を照らし導いた火の柱を指し示しています。肉の命の光はやがて消えます。キリストともにある者は永遠に光を持つことの二通りの道があります。永遠の命の光を持つ事は、主に従う者のみ与えられます。

  従うアコルーステインακολσθεινには五つの違った意味があります。1)軍隊では上官の命令に従うのは当然の事です。私たちは命令に従って爆弾を戦車の下に投げ込む訓練をしました。訓練自体でも戦車にひき殺されることもあります。命令があれば爆弾ともども戦車の下に飛び込むという従い方です。キリスト者は兵士であり上官はキリストです。最も主はこの様な理不尽な命令はなされませんが、私達は主の命令御言葉を遵守し主に従う道をとります。2)奴隷が主人に従い奴隷は主人の行くところにいつも同行し、その言いつけを即座に実行に移す従い方。3)問題があった時、賢明な人の助言や意見を聞いて判断に従う。キリスト者は祈りのうちに主の助言をうけて判断行動をします。4)法律に従う、いかなる悪法でも自己判断で従う。キリスト者は神の国の市民です。御国の律法とキリストの掟を自分の人生を導くものとして受け入れて従うのです。5)キリストの教えをいい加減に聞いたりはしない。福音を受け入れ理解し、記憶にとどめ、更に心に蓄え、それを行なうのです。従うとはこの五つが関連しています。

 キリストに従う者とは、体と精神と霊とを献げて主について行く者の事です。従う者になるには、まず光に歩まねばなりません。一人で歩けば躓いたり暗中模索に陥ります。矢継ぎ早に襲う人生の諸問題を下手に自分で処理しようとすると過ちに陥らざるを得ません。私達は信頼できる人生の地図を持っていません。この世の旅をするには神様の導きが必要です。確かな道案内と正確な地図を持つ者が安全な道を歩めるのです。イエス・キリストがそのガイドであり人生の地図を持っておられるのです。

 キリストに従うことが人生の安全な道を歩むことが出来ます。そしてイエス様の栄光に預かることが出来るのです。

 20節イエスが宮のうち教えていた時、これらの言葉を賽銭箱の側で語られたのですが、イエスの時がまだ来ていなかったので、誰も捕らえる者がなかった。ユダや人達は光の主の従うどころか主を捉え、59節そこで彼らは石をとって撃ち殺そうとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。私達はユダヤ人のように闇の中にいるのではなく、光の主に従い行きましょう。

【天地創造】 創世記1章1~31節

2015年1月4日

 小学生の4年生の頃でしょうか。創世記1章を通して聞きました。神様の業としての宇宙の創造が6日でなされるなんてあり得ないと質問というより詰問したのですが、あっさりと神様には出来ない事はありませんと聖書に書いてあります。との答えに、それ以上反論すると日曜学校の集まりに迷惑をかけると引っ込みましたが。それ以来聖書と科学の関係に注意を向けてきました。

 創世記は歴史学が対象にできない時代に及んでいます。単に歴史的な時間による隔たりではなく、この創造の出来事は唯一人の目撃者もおらず。人間の観察や経験自体不可能な領域が記されているので歴史学の問題にはなりません。私たちは聖書信仰の立場からこの創世記それは記事を歴史的なものと信じています。それは独断的な考え方、宗教的な教義とかを当てはめて理解しようとしている訳ではありません。創造が6日にわたって行なわれたと述べますが、最初の3日は24時間制では考えられません。一日と訳されて入るヨム(ヘブル語では時代とも訳し長期間を表す)1章の記事が年代的順序に従っている事は現代の学問とかなり類似しているといえます。古の人の科学知識に驚きます。

 創世記は詩的表現が多く見られますがそれは事実でないことを事実らしく仕組んだものではありません。その中には歴史的要素が含まれていることを知らなければなりません。歴史学が対象としないものを歴史的と信じることが聖書信仰です。聖書の真理を問うものは肯定、否定に関らずそれに直面しなければなりません。
目撃者のありえない原始の時代にも歴史の事実があった事は事実です。ここで聖書は神の言を語ることが特徴です。神が宇宙の創造者であるなら、神以外にこの歴史の事実を語ることはできません。神の啓示以外に人が知る方法はないのです。

 一方科学は宇宙の初めを。ビック・バン(宇宙の初めに起こったとされる大爆発)そして宇宙は膨張し続けるという説。ビックバンの際、17種類の素粒子が飛び散り光速で飛び回っていたこのままでは素粒子は光速で飛び散ってしまう。その中の一つ、ヒックス粒子(欧米の学者は神の粒子・神の手と言う)が宇宙に満ちて飛び回っている粒子を次々と捕らえそれで原子核が出来ました。質量を持つようになり、原子・分子ができて、星や銀河などが出来ました。ヒックス粒子がなかったならば、粒子が光速で飛び出し物質も出来ず現在の宇宙は存在していないと言われています。いまも宇宙は光速で膨張し続けていますが、やがて膨張が止まりもとの方向に収縮が始まり宇宙は消滅すると言うのが現在の科学が語ることです。

 その理論でさえも爆発を起こした元の物質は何か、生命はどうして物質に与えられたか等等、進化についてもいくつかの疑問点に創造者のみ手を見る事が出来ます。31日N響楽団と国立大学のベートーベンの第九の合唱を聞いていて、創造者に対する歓喜の合唱に胸躍るような気持ちを抱きました、科学の世界でさえ神様の御手が必要であることを思い、改めて創世記1章を読みなおして神様の創造の業に感謝をささげ、救われたこの身を神様に献げる奉仕をしなければと決意しました。

【私を強くして下さる方によって、何事でもすることが出来る】 ピリピ4章10~14節

2015年1月1日

 10節~14節このみ言葉は苦しい思いをしている時、いつも励まされ私の力の源を呼び覚ましてくれます。パウロは主にあってとエン・キュリオーεν κυριωという言葉とキリストにあってエン・ハリストオーεν Χριστωはパウロの手紙に数多く書かれている言葉です。これは主イエス・キリストとの人格的な結びつきにおいという意味でして、ぶどうの幹にしっかりと結びついた枝によって表される関係です。生けるキリストとの生きた人格的交わりがキリスト者なのです。

 10節さて、パウロが主にあって喜んでいると述べます。それは今まで彼の宣教伝道を支えてくれていたピリピ教会からの献金がとどかなくなり、その届ける機会がなかったのだが今一度献金が届けてもらえるようになったことを喜んでいると感謝の気持ちを表しているのです。14節「あなたがたは、よくもわたしと艱難をともにしてくれた」続けて彼の伝道を最初に支えてくれたのはピリピ教会であると述べ、乏しい時に贈り物を頂いた。それはかんばしいかおりであり、神の喜んでくださる供え物でもある18節あなた方の贈り物で飽き足りていると言っています。献金は神にささげる芳しい香りであり供え物である。別のところで祈りは神に捧げる香ばしいかおりであると言っています。両者に共通するのは愛です。

 彼は乏しいので贈り物に感謝しているのではない。その愛の業に対して神の栄光の富の中からあなた方の一切の必要を、キリスト・イエスあって満たしてくださるであろう。と自分の経験を証しています。12節「私は貧に処する道を知っており、富にいる道も知っている。飽くことにも飢えることにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」なぜか13節「私を強くして方によって、何事でもすることができる」からです。仏の精神科の医者がこの言葉を何かすごとに3回唱えると力が与えられるとクライエントに実行してもらったら非常に良い結果を得たと勧めている本を読んで私のカウンセリングの経験と一致しているのに驚きました。

 このみ言葉を今年も経験したく願っています。実に不思議な力と知恵が与えられます。