日本ホーリネス教団
元住吉キリスト教会

 

2016年のメッセージ

ヨセフの信仰とイエス様の誕生 もはやわたしではない
律法主義の役目 イエス様を見つめながら走ろう
信仰によって義とされる パウロ、ケパを非難する

 

12使徒とパウロの分担 教会に忍び込むもの
啓示によって示された福音 平和への道
母の胎内に在る時から選び分けられた 信仰によって建てられた教会堂


人によってでなく ヨハネ伝の書かれた目的
私の子羊を飼いなさい 三度目に弟子達に会われた復活の主
見ないで信ずる者は幸いである すべてが終わった


御心が成りますように 永遠の命とは
私の名によって求めよ 聖霊について
あなたは神の神殿です 新しく創造された者
2016年のメッセージ

 

【ヨセフの信仰とイエス様の誕生】 マタイ1章18~25節

2016年12月18日

 マタイは、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図をイエス様の養父ヨセフのものとして述べ、ヨセフの立場から処女降誕の出来事を語り、イエス様をマリアの不貞の子とする汚名を晴らし2章28節ナザレの人と呼ばれるまでのことを述べています。

 系図を見ますと、アブラハムはイサクをもうけεγεννησενエゲネーセン・・・・6節エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけた。・・・・・・16節ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれεγεννηθηエゲネーセーが用いられ、関係代名詞ηhσヘースが女性であることから、マリアからイエス様がお生まれになった。18節以下から分かるようにヨセフはイエス様の誕生に、父親として関係していない、律法のよっての父親です。少年イエス様が大工の業を身につけ、マリアや兄弟姉妹を30歳に達するまで養っておられたことでもヨセフが父として役目の大工仕事を伝授したことが分かります。

 ヨセフは敬虔なユダヤ人で、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを行なっていた。イエス様の母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正し人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず。(旧約の掟では死刑)秘かに縁を切ろうと決心した。彼がそれを実行する前に神様ガ介入なさった。神様はよいときを選んで天使を彼の夢の中に送り言わしめた。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』このすべてのことが起こったのは、主が預言者イザヤを通して言われていたことが実現する為であった。イザヤ7章14節『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる』ヨセフは眠りから覚めると、主の使いが命じたとおり、妻を迎え入れた。

 神様の時と、ヨセフの信仰には改めて感じ入ります。マリアは何故疑問を抱いて悩んでいる彼に真実を話さなかったのでしょう。彼女自身も天使から告げられて信じられない時、「神に出来ないことは何一つない」と言われ主のお告げを信じてマリアは言った「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」マリアはすべて主に委ねたので神様ガすべてよきにしたもうこととヨセフを信頼していたからでしょう。イエス様の誕生にはヨセフとマリアの信仰がなくてはならないものでした。

 2章13節「占星術の学者達が帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れていった。『おきて、子供とその母を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは直ちに起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。『私は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者ホセアを通して(ホセア11章1節)言われていたことが成就する為であった。ヘロデは学者達に騙されたと知って、ベツレヘム(パン家の意)とその周辺にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現われて、言った。『起きて、子供とその母親を連れて、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者共は、死んでしまった。』そこでヨセフは起きて幼子とその母を連れてイスラエルの地へ帰って来た。そこには凶暴なヘロデの息子アルケラオがユダヤを支配していると聞き恐れていた。夢でお告げがあったので、ガリラヤのナザレに行ってそこに住んだ。「かれはナザレ人とよばれる」との予言が実現するためであった。このようにしてイエス様は信仰深い両親のもと神と人に愛せられる少年となられた。

 神様のみ旨がなるには、人の協力が必要であることはヨセフとマリアのような信仰者が証しています。マリアは「私は主のはしためです。おことばどおり、このみになりますように」と主に従うことを述べています。そのマリアに年老いて身ごもったエリサベツを訪問させる事で彼女の信仰を強めてくださった。ヨセフについても神様のよい時を選んで彼に介入なされた事によっで、神様のみ旨がなるようにと信仰が強められました。私はヨセフとマリアのような信仰によって神様の協力者となって、主のみ旨がなるような信仰者になりたく願っています。



【もはやわたしではない】 ガラテヤ2章15~21節

2016年11月20日

 イエス様はパリサイ人々と律法学者達に、あなた方は、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にし、偽善者であると言われた。マルコ七章。パウロはガラテヤ二章律法の実行によっては、誰一人義とされない。キリストによって義とされるのです。一九節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」といっていることを前回学びました。

 二十節では「生きているのは、もはや私ではない」と語ります。私が、わたしは、私の、私に、私を。私を中心として、私を見せびらかす生活すなわち律法主義に終始します。しかしキリスト信仰は、このを克服するのです。そうするとまことのわたしが、真実の自己誕生そしてそれが確立するのです。キリスト・イエスを信じる信仰、信仰とはπιστισピスティス真実ともいえます。これは1)キリスト・イエスの真実。2)キリスト・イエス自身の信仰。3)キリスト・イエスに対する信仰と三通りあります。日本語聖書は③を採っていますが①を含めると意味が大きくなります。

 この神の真実はキリストの十字架に現れています。この十字架の前ではわたしは消え去ります。そこから義とされることが始まるのです。信仰とは、イエス・キリストの真実に結合される事です。この私がキリストに現れている神の真実に結び付けられることが信仰です。その時このわたしが義とされるとパウロは主張します。私のよい点も悪い点もまるまる自分を主に投げかけ委ねる事です。

 私たちは自分の本当の姿を気にしています。自分についての他人の言葉を気にします。そしてうぬぼれたり絶望的になったり、空想や妄想を描いています。しかし、信仰とは、キリストに注目する事であり、キリストのうちに自分を見出す事です。十字架には、人間の罪と、この罪人に対しての赦しがあります。復活には十字架を基礎にする永遠の命があります。

 また信仰は、キリストの言葉に耳を傾ける事です。キリストの十字架と復活は神様の診断です。病気の時自己判断をせずに医師の判断に従えば健康になるように。神様の診断を真剣に聞いて、それに従う時に義とされるのです。義とされるとは万事が良くなってゆくと言う事です。

 「われキリストと共に十字架につけられたり」と過去形になっていますが共同訳は「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と現在形です。ギリシャ語原典は進行形です。私は文語訳のみ言葉で救いを経験しました。共同訳は生々しい私と十字架を味わっているのです。

 「我キリストと共に十字架につけられたり、最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり、今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」このみ言葉が与えられた時激しい飢餓のもと、死よりほかになんの望みも耐えた軍隊生活の中で初めて希望の火が見えました。キリストともに十字架に死ぬことはとの心の問いに五章二四節「キリスト・イエスに属する者は,肉と共にその情と欲とを十字架につけたり。もし我ら御霊に由りて生きなば、御霊に由りて歩むべし」私のうちに喜びと希望がわきあがってきました。感謝のあまり、もし生きて帰る事が出来たらこのことを若者に伝える牧師になりますと誓いました。

 しかし生きて日本に帰って生活が落ち着くと、牧師になることから逃げました。牧師の生活の大変さとそれがこの世にあって報われないことを見ていたからです。ある日。母と妻好恵が改まって私に問いかけてきました。今青山学院大学で学んでいることは、牧師になるためなのか、聖書の教師になろうとしているのかどちらですか。私は答えようがありませんでした。牧師になるなら最短期間は聖書学院でしょうと言われ、私は少し時間が欲しいと、彼女達から離れ自分の書斎?にはいつて祈り考えました。

 祈りの答えは「我キリストと共に十字架につけられたり・・・・・・」のみ言葉を頂き感激して牧師になりますと主に誓ったあの時のことでした。わたしは母と妻のもとに戻り救われたガラテヤ2章20節に再び戻り聖書学院に入ることにしたと祈りの結果を伝えました。二人は協力するから目的に向って下さいと言われ私の迷いは消えました。

 わたしはキリストと共に死んで、最早私に生きているのではない、キリストが私のうちに生きておられるのだ。私を愛して私の為に十字架の苦しみを受けられた神の子を信じる信仰によって肉体に生きているのだ。(わたしは結核という爆弾を抱えていた)わたしは肉体で生きている限り主と共に牧師といて生きることを決意したのです。このため自分の体ではないと健康には注意して生きてきました。後どれだけ奉仕をさせていただけるか判りませんが許される限り主に仕えていきたく願っています。

 

【律法主義の役目】 ガラテヤ2章15~21節

2016年11月20日

 今までユダヤ人も異邦人の信者と主の晩餐(愛餐)を共にしていたのに、エルサレムからユダヤ人信者が来るに及んで、その人々に気兼ねして異邦人クリスチャンとの食事をしないようになったのでパウロはケパ(ペテロ)を非難したのです。この食事についてルターはユダヤ人に伝統的に禁止されている酒や肉を飲食したと推測しています。聖餐を共にしないとは礼拝も別にしたのです。ユダヤ人の伝統に従って異邦人と交わりをしない事です。パウロはペテロを批判したのはパリサイ的律法者を恐れて行動を変えた出来事に対してです。決して自分を正しいとして裁いたのではありません。律法の本来の役目から批判したので、私たちキリスト者は自分の判断で隣人の善悪を決めてはなりません。

 マルコ7章1~13節この箇所でイエス様が、パリサイ人や律法学者達に、昔の人の言い伝えや,十戒とその細則を適当に解釈して弟子達を非難したことに対して彼等の偽善を指摘されました。彼たちは弟子達が汚れた手で食事をすることを咎めたのです。それに対して主は言われました。6節『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に予言したものだ。彼はこう書いている。(イザヤ29章13節)“この民は口先では私を敬うが、その心はわたしから遠くはなれている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。”あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』

 9節更に、イエスは言われた『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは「父と母を敬え」と言い「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。「もし、だれかが父または母に対して、“あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です”と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行なっている』主はパリサイ人達の律法主義が偽善であり、言い伝えを固く守ることは神の言葉を無にすると言われたのです。

 さてパウロはその事について、ガラテヤ2章16「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私達もキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」彼は自分の経験をもととして、律法主義を否定しているのです。

 彼は続けて19節「私は、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。・・・・」とあかしを述べています。律法は神様の命令です。命令は何としても実行しなければなりません。言い訳は出来ないのです。実行できないときは処罰されても苦情は言えないのです。人は律法を実行しようとしても行ない得ない存在なのです。

 それが罪です。ローマ7章21節「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。”内なる人”としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。ああ我悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者はたれぞ。われらの主イエス・キリストによりて神に感謝す。されば我みづから心にては神の掟に仕え、肉にては罪の法につかふるなり。このゆえに今やキリスト・イエスにある者は罪に定めらるる事なし」6章23節「それ罪の払う値は死なり、されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くるとこしえのの生命なり」(文語体は私が、日曜学校尋常科2年生で覚えさせられた御言葉です)信仰と律法についての御言葉を並べました。

 当時のユダヤ人は自分達は神の子で、異邦人は犬のようなもので罪人だと見下していました。この様な優越感は自分達は神から与えられた律法を持っているが、異邦人は律法を知らない罪人だとしていたからです。パウロは異邦人でもキリスト信仰によって律法を行なうようになり、ユダヤ人との差別はなくなり、バプテスマを受けてキリストに結ばれたものは皆キリスト・イエスにおいて一つだからですと述べます。(3章28節)私たちはイエス様をキリスト救い主と信じることにおいて義とされるのであって律法を実行することではないのです。2千年のキリスト教の歴史もそのことをはっきり示しています。律法主義から主が禁じられた裁きが始まります。

 

【イエス様を見つめながら走ろう】 ヘブル12章1~13節

2016年11月6日

 11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。昔の人たちは、この信仰の故に神に認められました。」そして続けて旧約の人々の信仰の証が述べられます。永眠者は続きとして主の前で11章に書き加えられています。私達も、信仰によっての前提でそのあとに加えていただきたいものです。

  12章1節「こういうわけで、私たちは、この様な多くの証人μαρτυρων(殉教者とも訳す)パルチュローンに雲のように囲まれているのであるから、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者αρχηγοσアルケーゴスまた完成者τελειωτηνテライオーテーンであるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」証人である彼等は単に競技を見る見物人、応援団ではありません。彼等の信仰は、その生と死とを通して、キリストが実現されるものを目指して歩む生活が可能である事を証ししたのです。

 徒競走やマラソンなどの競技をする場合、先ず身軽になること、第二は目標を見極めそれに向って忍耐強く走り抜く事です。私たちの人生は多くの信仰を持っての証人が走りぬいた先達の群れに囲まれ走り抜くことができると示されています。それで私たちは人生の馳せ場を走る時には、1節「・・すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分の定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」目標は信仰の創始者また完成者イエス・キリストです。その主イエス様を見つめながら走り抜く事です。

 私達の教会の関係者なる信仰の先達者永眠者・聖徒たちを記念して主日礼拝を守っています。彼たちが多くの証人に雲のように囲まれ励まされ人生の馳せ場を馳せ抜かれた事を私たちは見てきました。私達も彼達に倣ってすべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうと決意する日でもあります。

 

【信仰によって義とされる】 ガラテヤ2章11~16節

2016年10月16日

 義については、宗教改革者マルチン・ルターの体験をもって説明すると理解しやすいのです。彼は小さな鉱山主の子として生を受け、父は優秀な彼を法律家としたくてエリフルト大学に入学させました。彼は文学得業士となり、更に法学部に進学します。ある時旅行中に雷雨に突然襲われ、死の恐怖を覚え修道士になる誓願を立てました。父の意思に反して修道院に入ります。やがてウィッテンベルグ大学で聖書学を担当するようになります。この間、彼は自己の善行をもってしても心に平和を得る事が出来ずに、おのれの罪に絶望するが、唯「信仰によってのみ」神から与えられる神の義ディカイオスδικαιοσを発見します。これが改革的神学の出発点となり、免罪符が売り出されたので行動を起こしました。ルターの思想はプロテスタントの三原理と言われます。それは「信仰によるのみ」「聖書のみ」「万人祭司性」です。その中でも「信仰によるのみ」の原理こそルターの義認論を表明する重要なものです。

 彼はローマ書特にガラテヤ書を学ぶうちに「信仰のみ」によって義とされることを知って初めて心に平安を得ました。当時のユダヤ人は自分たちは神の子であり、異邦人は犬のようなもので罪人だと見下していました。この様な優越感の原因は律法でした。彼等は神から与えられた律法を持っている民族であり、異邦人は律法を知らない罪人だと断じていた。

 ルターは義認の為に諸々の準備をしました。良い業の功績を積んで救済に達しようと苦闘したが、「神の義」というのは、神が私たちに求める正しさではなく、信仰によって神が授与したもう正しさであることを知り、それがキリストの恩恵として与えられていることを理解し、こうした行為による義認に対する「信仰によるのみ」が説かれた。もはや教会の授ける「免罪」は全く不要で、「悔い改め」は儀式でなく、「心の転換」と主張し、聖書を最高の権威と見なしました、したがって聖書に反する儀式は洗礼と聖餐のほかは聖書的根拠を欠くものとして否定された。

 ここに至って聖書の御言葉がキリスト教の中心におかれ、人間的な善功で人は救われ義とされるのではなくキリストの十字架の血によってのみ救われ、そのことを信じる信仰のみによって義とされることが明らかにされた。人は律法を守ることにおいて救われるのではないのです。ローマ1章17にハバクク2章4節「正しい者は信仰によって生きる」が引証されています。ガラテヤ2章16「人は律法の実行ではなく、唯イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。・・・・」

 ガラテヤ3章28節「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなた方は、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず。アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」このみ言葉が信仰による義認であってパウロが強調したものでしょう。

 結論「神の義」は律法遵守でも善行を積む事ではなく。イエス様をキリスト救い主と信じることのみです。

 

【パウロ、ケパを非難する】 ガラテヤ2章11~14節

2016年10月2日

 パウロ達は異邦人に、ペテロ達は割礼を受けたユダヤの人々へと使徒の働きを分担しました。使徒行10章9節~45節ヨッパに滞在していたペテロは昼の12時の祈りをするため屋上に登った。人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。すると、天が開け、大きな布のような入れ物が四隅をつるされて、地上に降りてくるのを見た。その中には、地上の四足や這うもの、また空の鳥など、各種の生き物が入っていた。そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。たって、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それは出来ません。私は今までに、(レビ11章)清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことはありません」。すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、聖くないなどと言ってはならない」。こんなことが三度も会ってから、その入れ物はすぐに天に引き上げられた。

 17節丁度その時カイザリヤのイタリヤ隊の百卒長コルネリオの使いが三人ペテロを訪ねてきた。ペテロは幻について、思いをめぐらせていると、御霊が言った。『ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねて来ている。さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼等と一緒に出かけるが良い。私が彼等をよこしたのである』。ペテロが彼達に用件を尋ねると、彼等は答えた「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好意を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使いから受けましたので、参りました」かれはヨッパの兄弟達も連れ立って出発し、カイザリヤに着くと、コルネリオは親族と親しい友人達を呼び集めて待っていた。幻で見たことは異邦人に福音を述べよとの神様のお示しだったのです。

 28節ペテロは彼等に言った「あなた方が知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りすることは、禁じられています。ところが、神はどんな人間をも聖くないとか、汚れているとか言ってはならないと、私にお示しになりました。お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためです。・・・・」ペテロはまた口を開いて言った「神は人を偏り見ない方で、神を敬い義を行う者はどの国民でも受け入れてくださることがよく分かりました・・・・」と異邦人がユダヤ人と同じように神様が受け入れてくださることを知ったと言明しています。

 そのペテロが、ガラテヤ2章11節以下で、ケパがアンテオケに来たときパウロは彼に非難すべきことがあったので面と向ってなじった。ケパは異邦人と食を共にしていたのに、ヤコブのもとからある人々来てからは割礼の者どもを恐れ、次第に身を引いて離れて行ったのである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をなし、しかもバルナバまでがそのように偽善に引き込まれた。ペテロの使徒行伝の出来事はなんとしたことでしょう。パウロはそれを指してなじったのです。

 パウロが使徒達の代表者・指導者であるペテロを衆人の面前でなじった。ペテロが異邦人の中で伝統的律法を破る生活をしていたのだが、エルサレムからから来た律法主義者を恐れて、彼等の気にいるような態度をとったのです。律法主義的クリスチャンは異邦人クリスチャンと交際しなかった。その結果主の晩餐を共にしなかったことをパウロは問題視したのです。ルターはガラテヤ注解で、このペテロの失敗は私たちを慰めると言います。信仰の大先輩達が何も失敗しない人ばかりなら、私たちは惨めさを覚えるばかりだが、ペテロのような人でも失敗した。しかもその人を主は十分に用いたもうそう考えれば大きな励ましでも在ると述べています。

 この律法主義的差別は、ペテロでさえもうっかりしてつい乗ってしまう危険が潜んでいます。私たちの大事な交わりの中でも秘かに忍び込んできます。この世にある私達の教会は、この差別を十字架の福音で乗り越えていかねば成りません。畑は耕され肥料が施されると作物と共に雑草が育ち作物を覆い隠すほどになります。真理の福音の手で教会の中の雑草を引き抜かねばなりません。サタンは美しい所作で忍び込みます。巧みなサタンに惑わされては成りません。

 

【12使徒とパウロの分担】 ガラテヤ2章1~10節

2016年9月18日

 コリント前12章4~11「霊的賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めには色々ありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益になるためです。ある人には”霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ”霊“によって知識の言葉があたえられ、ある人にはその同じ”霊”によって信仰、ある人この唯一の”霊”によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の”霊”の働きであって、”霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです」三位一体の神様が賜物を求めるものに聖霊をとおしてあたえくださることをパウロは述べているのです。

 パウロは主の啓示によって、再びエルサレムに上りました。彼は「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちに個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」それはガラテヤ教会に、偽兄弟たちがもぐりこんできて割礼を強制し私たちを言い伝えと律法の奴隷にしようとして、私たちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらったのですが、私たちは福音の真理にとどまって、片時もそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。と使徒達に報告しました。

 その報告を聞いた使徒達は、パウロの異邦人伝道について9節「彼等は私に与えられた恵を認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルバナに一致のしるしとして右手を差し出しました」。それでパウロ達は異邦人へ、彼等は割礼を受けたユダヤの人々のところへ行くことになりました。ただエルサレム教会が世話をしている貧しい人達のことを忘れないようにとの事でパウロのエルサレム上京の目的を果たしました。

 このエルサレム会議に見られます様に、聖霊はそれぞれに与えられている賜物を用いて奉仕をすることを望んでおられます。元住吉教会にも聖霊の賜物を戴いている方が多くおられます。賜物を生かす奉仕はいろいろあります。細かいことなど数えれば数多くあります。礼拝の準備だけでも、看板を書く、花を生ける、掃除をする、週報の準備、礼拝堂の整備、教会ホーム頁、集会案内、等々、礼拝に当って司式者、奏楽者、受付、祈祷者、聖書朗読者、証人、新しく来られた方の接待、温度管理、照明の点検、コーラス隊等々、賜物を活用することはでしゃばりではありません。賜物をもちいないことは謙遜ではありません、用いることは傲慢でもありません。主の慶びたもうことは与えられている賜物が小さくとも生かす事です。最後にコリント前12章12節~31節を読みましょう。

 21節~31節「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人ほその部分です。神は、教会にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。

 皆が教師であろうか。皆が奇跡を行なう者であろうか。皆が病気を癒す賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなた方は、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。そして13章の愛の教えが述べられます。

 今まで述べてきました与えられた賜物を生かすにはこの最高の愛が与えられてこそなしうるのです。どなたでもイエスをキリストと信じて聖霊の賜物を祈り求めれば、与えられます。その賜物を用いればそれが育ちます。皆様に与えられている賜物を生かして用いて下さい。賜物は生かさなければ消えてしまいます。賜物を用いる時、教会の頭なるイエス・キリストから必ず恵みがあなたに注がれます。

 

【教会に忍び込むもの】 ガラテヤ1章11~24節

2016年9月4日

 1章18節「その後3年たってから、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに15日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。・・・その後、わたしはシリヤとキリキヤとの地に行った。・・・・彼等は、『かって自分達を迫害した者が、いぜんには撲滅しようとしていたその信仰を、今は述べ伝えている』と聞き、私の事で、神を褒め称えた。」使徒とされ回心し復活の主に召された彼の行動はアラビヤで瞑想と祈りをなしつつ宣教の業をなしたのです。その後ダマスコに帰ったが彼の身に危険が迫ったのでダマスコを脱出した。コリント後11章33節「・・・その時私は窓から町の城壁伝いに、籠でつり下ろされて、敵の手から逃れた」。

 ペテロとの15日間またヤコブとの会見は教会の一大変革をもたらした出来事です。パウロがケパをたずねた(ヒストレオーhιστορηο知り合いになるための訪問)儀礼的訪問がパウロのダマスコ途上での復活の主との出会い、アナニアが主の命令でサウロ(後のパウロ)の主の光で見えなくなった目に手を当てて祈ると目からうろこのようなものが落ちて元通り見えるようになり、聖霊に満たされた証しをしたことでしょう。ペテロと回心したポウロとの話題は当然イエス・キリストです。

 パウロはペテロとヤコブから主イエス・キリストとの出会いそして招きに応じて従ったことから初め、3年間御側近く仕えていて主の愛の御行動・弟子達に諭された御言葉・民衆に対しての御説話(説教)などの細かい見聞がどれほど大きくパウロの信仰に影響を与えた15日間のペテロとの生活だったことでしょう.この主にある交わりとその後の異邦人伝導の経験とペテロ達から伝えられた主イエス様の教えが新約聖書の大部分を埋めるパウロの手紙となり初期教会の神学の確立となりました。

 2章1節からはエルサレムでの使徒会議の報告です。これまで、パウロは、自分の召命と使徒職がエルサレムの権威に従属しない独自のものであることを述べてきたが、ここでは、それがエルサレムの使徒達に確認されたことを伝えています。それが行われたのは、異邦人伝道の問題が論議されたエルサレムの使徒会議でした。

 1章18節の第一回エルサレム訪問から14年たってから、第二回の訪問にはバルナバ(キプロス島出身で、エルサレム教会のギリシャ語を使うヘレニストの群れに属人望が深かった。アンテオオケ教会で奉仕する)とテトス(ギリシャ人)を伴っていた。エルサレムに再び上ったのは神様の啓示によってです。パウロは異邦人伝道について重だった人々に示すためであった。テトスは信仰者でありアンテオケで宣教に当っているが、割礼は受けていない3節と言明している。

 パウロがガラテヤ教会に、エルサレムから来たパリサイ派的キリスト者(パリサイ派は特別、熱心と言う意味で神の律法を自分たちは特別、熱心に守っていると自負していた)この「律法主義的キリスト者」または「キリスト教的律法主義」が忍び込んできて教会を真実の福音から離し、教会に混乱を起こしているのを見て、彼等に強く警告した。4節「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたのでーー彼等が忍び込んできたのはキリスト・イエスにあって持っている私たちの自由を狙って、私たちを奴隷にするためであった」罪の奴隷から解放されて自由とされた者を再び今度は律法の奴隷としようとしていたのです。

 彼たちはエルサレムの12使徒を自分達に都合のよいように利用して、自分達の主義信仰が使徒達の後ろ盾があるかのように、また彼達をボスとしている彼たちが異邦人にモーセの慣習である割礼を強い、律法を完全に守らなければ、キリスト者でないと勧めたのです。パウロのように十字架の血によってのみ救われるといっているのは、彼が使徒ではないからだと彼の説かれた福音を否定したためそれに惑わされる者が多くなったのです。

 それで再び14年目エルサレムに上った。エルサレムの使徒会議にて、12使徒たちは割礼のあるユダヤ人伝道とパウロ達との異邦人伝道へと行くことが決定されました6~9節。10節「ただ一つ、私たちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、(エルサレム教会は貧しい人々を助けていた)私はもとより、このことの為にも大いにつとめてきたのである」

 教会は注意しないと律法主義的になって兄弟姉妹を裁きやすい弱さを持っています。歴史的に見ますと米国のピュウリタンが清教徒的生活を自己に適用すると素晴らしい事でしたが、外部の人々を裁き禁酒法など制定したため闇の酒類の販売などで逆効果になった例があります。

 

【啓示によって示された福音】 ガラテヤ1章11~24節

2016年8月21日

 現代の教会は、真の福音から離れ日本にキリスト教を定着させなければならないとする土着化への誘惑と危険が見られます。そのような時この手紙を学ぶことはルターの宗教改革の状態へと再改革に導くのではないでしょうか、パウロが天からの光で打ち倒され復活の主からの啓示を受けて迫害者が回心して主の僕・使徒とされた彼の伝えるそれに立脚した福音の真理とキリスト者の自由が今私たちに必要なのではないでしょうか。 註啓示は後部で述べます。

 パウロが伝えた真理からの離反が、ガラテヤ諸教会に起ころうとしていた。そのようにガラテヤ諸教会を扇動した者たちは(偽教師達)ポウロの使徒職に疑問を呈し非難した。それで1・2章の大部分はその弁明をしています。それは自分の使徒職は11節。「兄弟達よ。あなた方に、はっきり言っておく。私が宣べ伝えた福音は人間によるものではない。私は、それを人間から受けたものでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。」13節「ユダヤ教を信じていた頃の私の行動については、あなたがたはすでによく聞いている。私は激しく神の教会を迫害し、また荒らしまわっていた。そして、同国人の中で私と同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精通し、先祖達の言伝えに対して誰よりもはるかに熱心であった。ところが、母の胎内に在る時から私を聖別し、み恵みをもって私をお召しになった方が、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子を私の内に啓示して下さった時。私は直ちに、血肉に相談もせず、また先輩の使徒達に会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。」

 パウロのダマスコ途上での復活の主との出会いで回心したと同時に御子の啓示により使徒として召されたのです(16節)。17節では先輩の使徒達に会うためにエルサレムに上らず、アラビヤに出て行った。と述べられているように、イエス様が彼に啓示した救いと共に使徒として召されたことを語っています。アラビヤに行ったことは救いの恵と使徒として召されたことについての瞑想と祈りのためであったと思われます。

 私は聖書を読みお祈りをして瞑想の時を持つことが恵を実感できると大事にしています。今時のキリスト者は瞑想を大事にしないようですが、キリシタンたちは徳川幕府の寺請制度により檀那寺から証明して貰わなければならなくなった時、禅寺の檀家になった。座禅を組むとき彼たちは、主の教えを瞑想できたからです。キリシタンが明治6年ごろまで弾圧に耐えた方法の一つです。

 2章の前部まではパウロが人によって使徒職についたのではなく、イエス・キリストの啓示によることを強調しています。それはパリサイ派からキリスト者になった者たちがエルサレムからがらやってきて、ガリラヤの諸教会で異邦人達に律法を守り、割礼を強要して真実の福音を伝えたパウロを非難したのです。彼は混乱が起きたので使徒職はイエス様から受けたものとまず証明したのです。次回から福音の真実を受け取りたいと望んでいます。

 註 啓示αποκαλυψισアポカリュプシス

 新聖書大辞典の要約。啓示の主体は神御自身である。神がご自身を我々に啓示される時、われわれは初めて神を知ることができる。なぜならば聖書の神は超越的な存在であり、人間の側からはこれに近づく手段はないからである。神の知識は神御自身によってのみ我々に与えられる。神の啓示は歴史の行為としてなされる。その究極的な形態がイエス・キリストにおける啓示、即ち神の言葉の受肉である。(後略)

 ブリタニカによる

 啓示revelation 人間の力では不可知の真理や神秘が、神などの超越者によって開示されること、ギリシャ語の意味は隠されているものの覆いが取り除かれることを意味しているように、啓示とは、人間の目には隠されている神的な神秘が覆いを取り去られて示される宗教的な出来事を意味する用語である。この様な啓示の出来事に基づく宗教を啓示宗教といい、人間の自然的本性に基づいて宗教的神秘ないし神を認識しうると主張する自然宗教、理性宗教と対比される。宗教学の対象として取り上げられる実証的宗教、すなわち歴史的現象として対象化される啓示に基づく宗教であって、教祖、経典、教団組織などは、いずれも歴史的な出来事としての啓示抜きしては考えられない。例えばセム的唯一神は、イスラム教では預言者マホメットに啓示され、旧約聖書ではモシェー(モーセ)にアブラハム、イサク、ヤコブの神として啓示され、更に各時代の預言者を通して啓示される歴史の神である。キリスト教においては、更に歴史的な存在であったイエス・キリストを通して神の啓示が与えられだけではなく、イエス・キリストが啓示そのものである、いう形で明瞭な啓示宗教が成立する。特にイエス・キリストが神の啓示といわれる場合、それは単なる知識の伝達に留まらず、罪によって破れた関係の和解を求める意志の伝達として、主体的応答を求める招きの性格を持ち、啓示が信仰によって対応されるべきことが明らかにされている。

 

【平和への道】 ミカ書4章1~8節

2016年8月7日

 1945年の6月頃だと思いますが、私は部下8名を連れて師団4千人の食料を備蓄した地下倉庫を守備する衛兵司令として、海軍航空隊の基地の端に設けられた四方に銃口の付いたコンクリト製のドーム形のトーチカにいました。部下は暗くなると一時間交代で、周りを動哨(歩哨警備する)します。勿論銃弾120発と手榴弾2個銃剣で武装し、剣は光に反射しないように薬品で黒くしてあり、刃先の3分の1はナイフのように鋭くなっています。

 とつぜん「誰か」と誰何する声が聞えました。私達も一瞬叉銃を解いて構えました。『陸さん、俺たちは予備学生出身の特攻隊員だ、学生隊と聞いたので話に来た』と言うので、鍵を開けて中に入れました。一升瓶を2本抱えていましたが、私たちは警備勤務中ですから飲むことはできないので下から牛缶を持ってこさせました。彼たちは飲みながら自己紹介をして、話し始めました。2・3日中に出撃予定との事で、話し相手を探してきたのでした。話の中で「極秘なのだが」と前置きして、今日本のある研究所で新型兵器を研究中だが近いうちに完成する。その大きさは縦。横15cm、幅10cmの長方形で、その威力はサンフランシスコを一発で破壊してしまう。それで日本の勝利になる。われわれはその研究の時間稼ぎのため出撃するのだ。陸さん後は頼んだよ、楽しかった、と言って去っていきました。私たちは彼達の表面的な明るさに用件以外は口が利けませんでした。

 71年前の8月6日新型爆弾が落とされたとの報道に、話していた原子爆弾だとは知りませんでした。敗戦後占領軍が仁科研究所の原子炉を破壊したと知ったときは驚くと共に、上官の語る夢物語を信じて七生報国の鉢巻をして特攻出撃した若者達を思い出して日本の指導者に憤りを深くしました。ソ連と不可侵条約を結んでいるからと連合国との和平を依頼すると言う政治感覚のにぶさで、日本の真意が連合国に伝えられずポツダム宣言が7月26日に発せられソ連もそれに何食わぬ顔で加わり多くの苦難をいまだに日本は負わせられました。

 引き上げ先の港の宇品にて体中DDTで真っ白にされガラス代わりの板を打ちつけた客車で広島に着きました。占領軍の列車が通るのを待つ間、ホームから見た町は建物はなく木もなく雪で真っ白な平野でした。戦争の結果を広島で実感しました。

 敗戦の悔しさ情けなさを広島のプラットホームで改めて感じ、イザヤ書2章1~5節・ミカ書4章1~4節『終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい多くの国々から来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼等は剣を打ちなおして鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下 いちじくの木の下に座り 脅かすものは何もないと 万軍の主の口が語られた。』(下線の部分はイザヤ書にはない)を思い出していました。

 イザヤとミカは同時代の預言者です。預言は神様から与えられそれを神の民に伝えるものですから、同じ言葉であってもそれは各預言者に直接神様が与えられたものです。イザヤもミカも別々の場所で、異なった時に与えられた啓示であることはユダヤ教の旧約学者もキリスト教の学者も同じ解釈です。私もそのように思います。

 ミカの時代は、北王国も南王国も神の契約の民として全くふさわしくない生き方をしていました。神様が彼達の不信仰と不従順に対して厳しい裁きをもって臨まれると1~3章で述べ、義をもって臨まれ審判なさる神様は、選民イスラエルの祝福を約束をなさるお方でもあります。主が御自分の決められた時と方法によって成就されるのは終わりの日であります。主が再臨なさった時に5節の完全な世界平和が来るのです。人間たちにはでき得ない事ですが、それに向って力を尽くすことが主の再臨に備えして待つ者のなすべき義務でもあります。

 主はこの乱れた世界を裁かれます。5節「はるか遠くまでも、強い国々を戒められます。彼等は剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず もはや戦うことを学ばない」主の再臨こそ、またそれを祈りつつ準備して待ち、平和の方向に向って進むことが、平和に至たらせる道です。

 私たちは3百数十万の命と数千万の異国の人の命を奪った事で得た、この71年間の平和の意味を、原爆の日、敗戦の日にもう一度キリスト者として祈りつつ、心に刻み付けて生きていかなければならないと思います。

 

【母の胎内に在る時から選び分けられた】 ガラテヤ1章13~23節

2016年7月17日

 私が青山学院大学キリスト学科を中退して、聖書学院に入学することを決意して水口牧師に報告した際、牧師は祈られてそのあとでエレミヤ1章5節「主の言葉が私に望んだ『わたしはあなたを母の胎内に造る前から知っていた。母の胎から生まれる前に私はあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた』」を示して「隆英兄弟の決意は主の選びであるからそのことを忘れないように」とお言葉をくださいました。また元住吉での開拓伝道の時も祈られてイザヤ49章1節「・・・主は母の胎にある私を呼び母の腹にある私の名を呼ばれた」と主のなされることだから必ず教会を建てて下さると信じて進みなさいと励まして下さいました。私はそれ以来牧師であることを誇りとして、いかなる困難も乗り越えてきました。主の前に立つまで牧師として奉仕したく願っています。

 ガラテヤ1章12~14節「あなた方は、私がかつてユダヤ教徒としてどのように振舞っていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くのものよりもユダヤ教に徹しようとしていました」この言葉の出来事はポウロがアグリッパ王の前で弁明した中で使徒26章パリサイ人としてのパウロの行動が述べています。

 使徒26章12節以下「こうして、私は祭司長達から権限を委任されて、ダマスコへ向ったのですが、その途中、真昼の事です。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、わたしと同行していた者との周りを照らしました。わたし達が皆地に倒れた時、『サウル、サウル、何故、わたしを迫害するのか、とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て、わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人するためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼等のもとに遣わす。それは、彼等の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼等がわたしへの信仰によって罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵の分け前にあずかるようになるためである。』と彼自身の言葉で復活の主との出会いと使徒として召されたことを語りアグリッパ王の前で証しています。

 使徒9章には光に打たれて目が見えなくなった彼に、主がアナニアを送り彼がサウルの手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここに来る途中に現われてくださった主イエスは、あなたが元通り目が見えるようになりまた、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、ソウロは元通り見えるようになった。(これが目からうろことの譬えとして全世界に広がった)そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

 この様な経験と、キリストを迫害したサウロを、主は使徒ポウロとして多くの人々の中から聖別して用いられたのです。彼は感謝の中から「わたしを母の胎内に在る時から選び分け、恵によって召しだしてくださった神が、御心のままに、御子を私に示してその(主の啓示された)福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」と語り証しして彼は当時知られている全世界に向って使徒としての神様の召しに応じたのです。

 ポウロを母の胎内に在る時から選び分けられていることをキリスト者はどなった自分もそうだそのとおりですとあかしするはずです。イエス様の告別説教ヨハネ15章16節『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように』とお語りになった御言葉を心に刻みつけてください。

【信仰によって建てられた教会堂】 ヘブル11章8~12節

2016年7月3日

 1954年(昭和29年)10月元住吉駅前の遠藤善教靴店二階での家庭集会を指導されていた林異来牧師に台湾へ帰る許可が出ました。そのあとを私にと水口牧師から話がありました。私は開拓伝道の一環として始めることを教団本部が認める条件で引き受けました。集会は遠藤兄姉と店の職人2人と私でした。

 路傍伝道を始めると4・5名の青年が来ましたので、労災病院(建設中)に行く曲がり角の店を月5千円で借りて、日曜学校・礼拝・教師会・伝道会(その前に路傍伝道)木曜日は祈祷会・金曜日は聖書研究会を持ちました。日曜学校の子供が7・80名集まりましたので、青年達は聖書研究、教師会で学んで次の週は子供の前に立って話したり司会をしたり、祈祷会聖書研究会での証と忙しさを楽しそうにこなしていました。

 お借りして店との契約では朝8時半から夜10時までということでした。路傍伝道で20名近い青年たちが集まるようになり、夜集会が終っても話が続き、10時になって鍵をかけた後、二人三人と元住吉の町を歩きながら交わりを持っていました。その中から教会堂が欲しいとの希望が出て祈り始めました。狭いですが23坪の土地があると青年の一人が見つけてきました。そこを手に入れようと店から敷金5万円を受け取り、それを頭金として残額の19万余は31日正午に登記所で払うとの契約をしました。手元にはお金は一銭もありません。契約の日は11月1日でした。

 このとき私はアブラハムの事を思い出していました。ヘブル11章8節「信仰によってアブラハムは自分が財産として受け継ぐことになる土地に出てゆくように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」前に土地探しを始めたのには、一同にヘブル11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」が与えられていたこともあります。

 OMSが全国の各地で使った十字軍の天幕をお借りして天幕教会を始めようとしました。宣教師のシェルトン師が倉庫から探し出して下さったのをトラックで現在地に運んでもらい、青年たちが指導を受けながら天幕を張り、穴がいくつも開いていますが立派な?天幕会堂が出来ました。私たちは会堂に一歩踏み出したと感謝と喜びに満たされました。

 資金の不足分もシェルトン師夫人の父様が献げられ、31日の正午前中田兄弟と地主の待つ登記所に届けることが出来ました。心の底からエホバ・エレと感謝しました。

 天幕教会は雨が降るとあちらこちら雨漏り、ひどい時は傘を差しての礼拝や伝道会です。足元は元水田ですので、長靴がすっぽり沈み込みます。丁度労災病院の基礎工事をしていた時でしたので掘り出された砂を貰って30センチ近くかさ上げしたので足元の心配はなくなりました。唯風が吹くと砂が舞い上がって大変でした。寒さが来てもストーブを買うことが出来ず。天幕の中央に囲炉裏のように堀り、周りには藁屑木屑が落ちていたのでそれで暖を取って集会をしました。やがてだるまストーブが置かれたときにはその温かさに感激しました。

 東調布教会の役員の望月工務店社長が、天幕を訪ねてこられ何故早く私に相談しないのだと言われ代金は出来た時でよいからと、まず9坪の礼拝堂と同じ9坪の二階を建てて下さいました。そのあとは支払いを済ませ。私の友人が利息なしで出来た時に返す約束で用立て下さったもので望月社長が礼拝堂23坪に二階は8畳2間とお勝手のバラック建ての会堂を建てて下さいました。それが7月の第1週でした。その日を覚えて会堂建設記念日としたのです。

 ヘブル11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」アブラハムの信仰に倣って前進、正面に十字架を掲げた会堂を見ることが出来ました。本建築には少し時間が必要でした。

 会堂が狭く感じられるようになりました現在。今度はもっと大きな使いやすい会堂を与えてくださるように祈りつつ信仰を前進させたく願っています。必ず主は与えてくださると信じ祈っています。皆様もお祈りのうちに覚えてください。

 

【人によってでなく】 ガラテヤ1章1~10節

2016年6月19日

 1517年10月31日マルチン・ルターがヴィッテンベルク大学でガラテヤ書の第一回の講義を終了直後、「95か条論題」を発表され宗教改革の幕が切って落とされました。そしてこの手紙は16世紀の宗教改革が推進される原動力になりました。ルターはこの手紙を「自分の妻」とさえ言いました。キリスト教会がこの世の嵐の中を航海する時、この手紙によっていつもその信仰生活が正しい方向へと導かれたのです。

 パウロはガラテヤ書を書くに当って1~5節の長い挨拶を述べています。それは彼の使徒職を疑う人々がおきたので、人間によって使徒の勤めをしているのではなく神様によることを強調しています。確かに彼は12弟子のように十字架に架けられる前のイエス様に師事した訳でもなく、むしろかなりの期間キリストを信じないばかりか、キリスト教徒と教会を迫害することがヤァウエーの神への正しいことだと熱心に活動していましたが、復活の主にお会いして弟子とされたことで人々から弟子にされたではないと強調します。

 1節「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と述べ「私の父である神と、主イエス・キリストの恵み(カリスχαρισ福音の全内容を意味する、4節が簡潔に説明している)と平和(エイレーネーειρηνη主にある心の安らかさ、旧約のシャロームにあたる)が彼達にあるようにと祈ります。そして5節に4節の「ご自身を私たちの罪の為に献げてくださったのです」を受けて、「私たちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」と頌栄を祈って挨拶を終わり本論に入ります。

 パウロは福音(ユアンゲエリオンευαγγελιονよきおとずれ、イエス・キリストにおいて実現された神の救い)を述べ伝えました。キリスト者とは日ごとに告げ知らされるよい知らせ聴いて信じることを、いつも生活の出発点、土台にして生きている人を言います。彼の福音は自身の経験により上から神からいなずまのように強烈な光として来ったもので、人が考えたものではありませんでした。彼は復活の主の啓示によって福音を知ってそれをガラテヤ人達に伝え教会が誕生したのです。

 然るにユダヤの言い伝えや律法主義を伝える教師が来るとそれに言い包まれてしまう、それを真実の福音だと信じてしまった、6節「キリストの恵に招いて下さった方から、あなた方がこんなに早く離れて、ほかの福音?に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています」初代教会はこの律法主義との内部の戦いに力をそがれています。キェルケゴールが19世紀の教会が新約のキリスト教会と全然違ったものになっていることに教会が気づかずにいることに、真剣に憂い、激しく警告していますが、現代の教会も似たようなもので神様の前に悔いて真実の教会に戻るべきです。

 私たちキリスト者は神様によってこの世から聖別された者たちで、その者達が集まってキリストを頭としてたて上げられたのが教会です。ローマカトリック教会やギリシャ正教会のように教理的に、教会の言い伝え、伝統を固定化して変えられないものとしています。それに対してプロテスタント教会は、キリストのみ言葉による改革から出発しています。そうしてキリストのみ言葉によっていつも正され、常に改革されて行きます。

 私たちはこのガラテヤ書を鏡として教会、自分自身がどこに立っているか、神様のみ言葉に対して忠実であるかどうかと点検しなければなりません。私たちが神様のみ言葉に忠実に従っていなければ、パウロだけでなく、イエス様があきれ果てられます。

 

【ヨハネ伝の書かれた目的】 ヨハネ20章30~31節

2016年6月5日

 4福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を指しています。キリストによって人類が救われると言う喜ばしい知らせ、またその教えを福音と言います。新約聖書の中で、キリストの生涯とその教えを記したのが4つの文書です。最初の3つを共観福音書と言います。内容、叙述など共通点が多いので第四の福音書と区別してこのように呼ばれます。

 この第4福音書の書かれた目的をヨハネ自身の言葉として20章31節「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じてイエスの名によって命を得るためである。」と述べています。それも21章24~25節「これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを。私たちは知っている。イエスのなさったことは、このほかにもまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」とこの書を書き終えています。その多くの中から選び出し、このヨハネ福音書は前記の目的にそって書かれたのです。

 そのほかヨハネ福音書の目的と特色を見てみましょう。この書は①キリストを十字架に付け、キリスト教徒を迫害するユダヤ人達は終始イエス様に敵対しています。主はそれに対して旧約聖書を用いて論破されておられます。②ヨハネは手紙と共にグノーシス主義と戦っています。彼が問題にしているのは仮現説とも言われるそれは、キリスト・メシヤが悪の世に来るはずはない。キリストが人として世に来られた受肉を否定した。したがって十字架につけられたのはキリストではない、キリストの目的は啓示的使命を果たすためで、贖罪的使命ではないと主張したが、ヨハネは受肉と贖罪において神の子そして完全な人間性を強調しています.③ヘレニズム的キリスト教と捉えられるようなロゴス論が劈頭に述べられています。が、死海写本の発見でギリシャ哲学的特色がユダヤ的背景としてイエス様をメシヤと描いている事で分かりました。④バプテスマのヨハネに対する評価が大きいのでイエス様が彼より勝る方であると実証しました。⑤初代教会の終末観を訂正しました。主の再臨の遅延が素朴な再臨待望を持つた信徒に対してヨハネ黙示録と相俟って正しています。

 以上のような特色のもとに21章25節「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」と言う中から、ヨハネは20章30節「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子達の前で行なわれた」それらの多くのしるし、また教えから目的に沿って選び出して書かれたのが第4福音書です。その目的は先に述べたように31節「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストと信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」他の共観福音書はイエス様の教えとご生涯になさったことを述べていますが、ヨハネのそれははっきりと書かれた目的に沿って述べられています。

 今一度この目的を念頭において読み直して下さい。そして主の名によって永遠の命に与りましょう。

 

【私の子羊を飼いなさい】 ヨハネ21章15~35節

2016年5月15日

 14章26節『助け主、即ち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう』。弟子達は甦られた主にお会いしても、イエス様の約束命令を守ることが出来ませんでした。しかし使徒1章5節イエス様がお命じになった『エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父のやくそくをまっているがよい。・・・・・』13~14節心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。2章1~4節一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で証しを語りだした。

 聖霊から教えられ、主が話されたことをことごとく思い出した。そしてペテロが11人の者と共に立ち上がり、声を上げて人々に証しを語り始めた。今までユダヤ人を恐れて、自分達のおる所の戸をみなしめているほどの弟子達が聖霊に満たされると、大勢の人々の前で御霊に導かれるままに、いろいろの他国の言葉で証しをした。ペテロたちの勧めを受け入れて、仲間に加わった者が3千人ほどあった。

 ペテロはヨハネ21章15~19節の言葉を思い出した。「イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人達が愛する以上に、私を愛するか(αγαπασ μεアガパス メ神の人間に対する愛)ペテロは言った[私があなたを愛する事は(φιλω σεフイロ セ 友愛)あなたがご存じです]イエスは彼に『私の子羊を養いなさい』と言われた。またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、私を愛するか(アガパス メー)彼はイエスに言った[主よ、そうです。私があなたを愛する事は、フイロあなたがご存じです]イエスは彼に言われた、『私の羊を飼いなさい』イエスは三度目に言われた。『ヨハネの子シモンよ。私を愛すか(φιλεισ ηεフイレス メー)』』イエス様が二度も私を愛(アガパス メー)るかと言われ、三度目は(フイレス メー)と言われたので彼は心を痛めて、彼はイエスに言った[主よ、あなたはすべてご存じです。(αγαπαω私は人が神を愛する愛)でなく、(フイロー友愛での愛)私の愛は、おわかりになっています]イエスは彼に言われた『私の羊を養いなさい』。

 13章38節イエスは答えられた『私に為に命を捨てると言うのか。よくよくαμηνアーメン アーメンあなたに言っておく、鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう』ルカ22章54~62節大祭司の庭で女中や他のひとびとから「あなたはあのなかまのひとりだ」と言われ3回目にはほかの人も言い張った「確かにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」69節ペテロは言った「あなたの言っている事は、私に分からない」すると、彼が言い終わらぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。その時ペテロは、『きょう、鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう』といわれた主の言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。彼はそれでも他の弟子達とユダヤ人を恐れて、エルサレムの二階で戸を締め切っていたのでした。

 使徒1章14節大勢の弟子達と婦人達、特にイエスの母マリヤ、及びイエスの兄弟達と共に、心を合わせて、祈りをしていた。5旬節に一同が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした。今までユダヤ人を恐れて隠れていた弟子達は御霊が各人の上に留まり満ちたとき、イエス様の語られた言葉の数々を思い出した。

 特にペテロ三回知らないといったことを、三回主を愛すると言わされ三回も私の羊を飼いなさいと命じられた事などを心に刻みつけてはいたがに聖霊満たされるまでは実行できなかったが、御霊に促され2章14節ペテロが11人の者と共に立ち上がり、声を上げて人々に語りかけ36節「・・・・だからイスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。と御霊の語らせるまま旧約から今に至るまでを語りあかしをしました。

 人々は語られる御言葉証しを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒達に、「兄弟達よ、私たちは、どうしたらよいのでしょう(文語訳では我何をなすべきや)」と言った。すると、ペテロが答えた「①悔い改めなさい。そして、②あなた方ひとりびとりが罪の赦しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、③あなたがたは聖霊の賜物をうけるであろう。・・・・」

 42節彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わった者が三千人ほどあった。イエス様が遺言的説教で、『聖霊はすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう』ペテロ初め弟子達は御霊に満たされた時ペンテコステの日全く新しいことを経験しました。特にペテロは私の羊を飼いなさいとのみ言葉を思い起こし、殉教に至るまで守り従いました。

註 ギリシャ語に見る愛
αγαπη  アガペー  神の人に対する愛  αγαπαω 私は愛す
ψιλια  フイリア  友愛        ψιλω   私は愛す
στοργη ストルゲー 肉親間の愛     στοργω 私は愛す
ερωσ  エーロス  求める愛 性愛 聖書には一つもありません。

 

【三度目に弟子達に会われた復活の主】 ヨハネ21章1~14節

2016年5月1日

 弟子達はエルサレムで復活の主イエス様に二回お会いして、イエス様から命じられたガリラヤに帰ったマタイ28章7節。シモン・ペテロと6名の弟子達が一緒にいた時ペテロが漁に行くと言うので、彼等も出て行って船に乗った。しかしその夜は何の獲物もなかった。その時岸辺に立つ人物が『船の右の方に網を下ろして見なさい。・・』彼等が網を下ろすと、引き上げる事が出来ないほど魚が多く取れた。三年前の事を思い出したヨハネがペテロに「あれは主だ」と言った。ルカ5章4節弟子に召された時の主のいわれる通り網をおろすと網が破れそうになる大魚があった。思い出したヨハネの言葉にすぐ行動を起こすペテロです。

 一晩中漁をしたけれど何の獲物もなかった時、三年前と同じ状況が展開されたのです。主だと聞いたペテロは、裸であった彼は上着をまとって海に飛び込んだ早く主の傍にという彼らしい行動です。
主は炭火を起こして、その上に魚がのせてあり、パンがあった。主は言われた『今とった魚を少し持ってきなさい』11節(ペテロが行って、網を陸に引き上げると大きな魚{複数ιχθυεσイクスース}153匹が網に一杯になっていたが、網{το δικτυονディクトゥオン}はさけないでいた。何故大きな魚が153匹と細かい数字があり、網が裂けないとは私には考えられない事です。

 ギリシャ語のアルファベットにはそれぞれに数値があります。例えばα=1、β=2・・・ο=70・・ρ=100・・χ=600・・・ω=800等です。ヘブル語ではアレフ=1、ベート=2、ヌン=700などです。魚のギリシャ語・網の数値のそれぞれの合計は153であり、イエス様が弟子を招かれた時マタイ4章19節『あなた方を、人間をとる漁師にしてあげよう』弟子達を伝道者にしようとの意味であり、魚は神様を信じて救われる人々を象徴しています。

 初代教会のキリスト者は、ローマの迫害下で十字架を使うとキリスト教徒と分かってしまうので魚のマークをを用いたわけです。実はギリシャ語の前記した魚は「イエス・キリスト・神の子・救い主」の各語の頭文字になっています。魚はキリスト教徒の信仰を表すのにとても相応しい物です。

 153はすべての数の三分の一を表している。ゼカリヤ書13章8~9節「主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀を吹き分けるように、これを吹き分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼等は私の名を呼び、私は彼等に答える。私は『彼等は我が民である』と言い。彼等は『主は我が神である』と言う」終末の裁きの日に、最終的に神の民として残るのは、全人類の三分の一です。ほかのものは神様に背を向けて罪の中に留まる。人間には自由意志があって、神様に従うか否かは、本人の意志によります。弟子達の網にかかった153匹の魚は、この神の民を象徴する数でした。

 12節『さあ、朝の食事をしなさい』弟子達は,主であることが分かっていたので誰かと問うものはいなかった。主はパンを彼等に与え、また魚も同じようにされた。弟子達にあらわれたのは、これで三度目である。弟子に召された時と、このときの奇跡は彼達を伝道者として召される為だったのです。

註 ギリシャ語アルファベットと数値
α=1  アルファ    ι=10  イオタ    ρ=100 ロー 
β=2  ベータ    κ=20  カッパ    σ=200 シグマ
γ=3  ガンマ    λ=30  ラムダ    τ=300 タウ
δ=4  デルタ    μ=40  ミュー    υ=400 ユプシロン
ε=5  エプシロン  ν=50  ニュー    φ=500 ファイ
σ=6  スティグマ  ξ=60  クシー    χ=600 カイ
ζ=7  ゼータ    ο=70  オミクロン  ψ=700 プシー 
η=8  エータ    π=80  パイ     ω=800 オメガ
θ=9  シータ    ο=90  コッパ    サンプシィ=900

 スティグマ、はアルファベットにないがシグマを数値につかっている。コッパも同じです。サンプシイはありません。

ヘブル語のアルファベット(私のPCにはヘブル語はありませんので日本語表記です)
アレフ=1     ヨッド=10      クフ =100
ベート=2     カフ =20      レーシュ=200
ギメル=3     ラメド=30      シン =300
ダレット=4    メム =40      タウ =400
へー =5     ヌン =50      カフ =500
バァブ=6     サメフ=60      メム =600
ザイン=7     アイン=70      ヌン =700
ヘット=8     ペー =80      ペー =800
テット=9     ツァディ=90     ツァディ=900

 ヘブル語のアルファベットは22文字です。タウが最後であり、最後の5文字は500以上の数字を表すことがあります。文字を数値変換し、それらを合計してその数字に深い意味を見出そうとします。聖書には数字で表す意味があります。預言や黙示録には数字で理解しなければならない場合もあります。間違った数理解は信仰の妨げにもなります。(学習研究社発行“ゲマトリア数秘術”著者久保有政)を参考にしました。

 

【見ないで信ずる者は幸いである】 ヨハネ20章19~31節

2016年4月17日

 復活日から50日間は特別に主の復活を覚える復活節の期間です。従って4・5年に一回は同じ題の説教をいたします。しかし見る方向を変えてきました。主イエス様の十字架の死が、私たちの贖いの成就でありましたが、永遠の命を私たちに与えることをご自身の復活をもって示されたことをしかと胸に刻み付けて下さい。

 16節~18節。19節「その日一週の初めの日の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて、自分達のおる所の戸をみなしめていると、イエスが入ってきて、彼等の中に立ち、『やすかれ』ειρηνη υηινエイレネーと言われた。そう言って、手とわきとを、彼等にお見せになった。」十字架の釘跡のきずと刺されたわき腹の傷跡のある復活のイエス様を見て、彼達の悲しみ恐れが喜びに変えられました。主は十字架の傷跡をお見せになる前後に繰り返して『安かれ』あなた方にシャロームと言われ、続けて『父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』と言われました。

 25節(デドモ{双子の意}と呼ばれるトマスは、イエスがこられた時彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子達が、かれに「私たちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼等に言った、「私は、その手に釘跡を見、私の指を釘あとに差し入れ、また、私の手を脇に差し入れてみなければ“主が死んでいるのを確かめるためにロマ兵がやりで突き刺すと、すぐに水と血が流れ出た.これは流れた血によって象徴される聖餐、水によって象徴される洗礼の二つの聖礼典を指す“)けっして信じない」

 26節次の主日弟子達10人にトマスも加わり、11人の弟子達が、ユダヤ人を恐れ戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立って『やすかれシャローム』と言われた。それからトマスに言われた『あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』トマスはイエスに答えて言った、「我が主よ、我が神よ」と信仰告白をした。恐らくキリスト者のイエス様を神としての最初の告白でしょう。29節イエスは彼に『あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、幸いである』といわれた。

 私は1838年12月23日に洗礼の恵に与りました。それから約一年復活を信じることが出来ず。聖書を精読しました。私の心の琴線に触れる御言葉に会いました。コリント前15章です。それから7年後どん底生活、死よりほか考えられない、軍隊生活の中で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」この信仰が与えられ、ガラテヤ2章20節『私は神に生きるために、律法によって律法に死んだ。私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私にうちに生きておられるのである。しかし、私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである』私は見ないでキリストと出合った幸いを経験しました。

 コリント前15章 実際に主が復活され、彼達の前に主が現われ喜びに満たされましたが、その末端に私も加えられたのです。それで私の信仰は空虚なものと成りませんでした。無駄にはなりませんでした。

 私はこの元住吉に遣わされた時、神様と約束(契約)しました。それは生ける限り、ボケない限り元住吉の頭なるキリストに忠誠を尽くし従って行くと言う事です。私は教会における奉仕をすることが神様との約束を守ることだと信じています。残された時間は余りありませんが、皆様のお祈りの中に私が教会の負担にならないようにとお加え下さい。またご一同が復活を信じてご生活なさるようお祈りします。イエス様は十字架で贖いの死を遂げただけではなく、復活なさって私たちの先がけとなられたのです。死に勝利を得られ私たちにも復活の希望を与えて下さいました。

 弟子達は土曜日に礼拝をしていましたが、その日から主の復活を記念して日曜日を主日として守り続け、2千年後も教会は日曜日を主日礼拝を遵守してきました。

 

【すべてが終わった】 ヨハネ19章17~30節

2016年4月3日

 イエス様の十字架上での七つのみ言葉は、苦痛の中で語られたにも拘らず他者に対する愛に満ちたものです。釘付ける人嘲る人のために執り成し、隣に磔になっている極悪人が悔い改めたときに温かい救いの言葉を述べられ、十字架の下で悲しむ肉の母マリヤの今後のことを心配して、愛弟子に委ねられる主、私たちが父なる神様に叫ぶべき言葉を主は口にされ、私たちの罪を負ってくださり贖いの死をもってすべての地上での救いの業を成就したと宣言された主キリストを感謝を持って見上げるのみです。

 これまで主の愛は信じる者に注がれましたが、母マリヤの悲しみをご覧になって語りかけられる人間イエス様の思いやりのある御言葉『婦人よ(ギュナイγυναι貴婦人の意通常女性に対する敬意を持っての呼びかけ)これはあなたの子です(hο υιοσフイオス息子の意)』短い御言葉の中にストルゲーστολυγη肉親間の愛とアガペーαγαπηの母子間にあり、ヨハネとの3年間の間に培われた愛の故に説明抜きで通じる言葉なのです、『御覧なさい。これはあなたの母です。イデ へ メーテール スーιδε hη μητηρ σου』そのとき以来、この弟子はイエス様の母を自分の家に引き取ったとヨハネは述べています。

 「その後、イエスは今や万事が終ったことを知って、『わたしは、かわく』と言われた。それは聖書が全うされるためである(詩篇69篇私のかわいた時に酢を飲ませました)マタイ27章45」さて、昼の12時から地上の全面が暗くなって3時に及んだ。そして3時ごろに、イエスは大声て叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですが』と言う意味です。これは私たちが叫ぶべき言葉です。そしてヨハネ19章30節「イエスは酸いぶどう酒を受けて、『すべてが終わった』テテレスタイτετελεσταιと言われ、首をたれ息を引き取られた」。地上での父なる神に命じられたすべてのわざがおわられたとの宣言です。

 このテテレスタイの叫びは、主をキリスト、私の救い主と告白する者の為に身代わりとして犠牲となられた。その贖いを信じる者と父なる神様を結びつける業を成就なさったのです。

 イエス様が十字架上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃でした。この日は過越のための備えの日です。この年は安息日の備えの日と重なっていた。それで神殿では、過越の祭りを迎える夕べの礼拝がいつもより早く、午後1時半後から始まっていた。そして神殿で過越の子羊が屠られる午後3時頃、真の過越の子羊であるイエス様が『テテレスタイ』すべてが終わったと言葉を発せられ贖いの業を成就され息を引き取られたのです。
イエス様の十字架上での御七言は、両手を広げられ釘打たれ両足も釘ずけられ、頭には茨の冠をかぶせられ顔は真っ赤に色どられる中で発された主の愛のみ言葉です。私は黒人霊歌聖歌113番を歌う時ほんとに心が震えます。

註 十字架上の御七言

 ①ルカ23章34節『父よ、彼らをおゆるしください。彼等は何をしているのか、わからずにいるのです』

 ②ルカ23章43節『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』

 ③ヨハネ19章26節母に言われた『婦人よ(ギュナイ)御覧なさいあなたの子です』弟子に対して言われた。『ごらんなさい。これはあなたの母です。』

 ④マタイ27章46節『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』それは『我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てに成ったのですか』と言う意味です。

 ⑤ヨハネ19章28節『わたしは、かわく』

 ⑥ルカ23章46節『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』

 ⑦ヨハネ19章30節『すべてが終わった』

【御心が成りますように】 ルカ22章39~53節

2016年3月20日

 主イエス様は、山上の説教の中で祈りについて教えられました。マタイ6章8~13節『あなた方の父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存じなのである。だから、あなた方はこう祈りなさい、[天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。私たちの日ごとの食物を、きょうもお与え下さい。私たちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債おもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください]』と主の祈りを示されました。これがわれわれキリスト者のお祈りの原型です。

  ヨハネ14章~16章の弟子達に対する最後の説教。17章の執り成しのお祈りを、終えられて、いつものようにオリブ山に弟子達と行かれ、いつもの場所に着かれた。そこはマルコの母マリヤの所有するゲッセマネ(ヘブル語でガス・シェマーネー油絞りの意)です。弟子達に『誘惑に陥らないように祈りなさい。私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい』

 そして主は、石をなげて届くほど離れところへ退き、ひざまずいて祈られた。『父よ、みこころならば、どうぞ、この杯(明日の十字架刑)をわたしから取り除けて下さい。しかし、私の思いではなく、みこころが成るようにしてください』その時御使が天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血の滴りのように地に落ちた。祈りを終えて立ち上がられた。その時父の御心に従われて十字架に向う決意をなされたのです。

 私自身毎日3・4回の祈りの時を持っていますが、汗が血の滴りのように落ちるほどに真剣にお祈りした事は、残念ながらありません。主イエス様は私の救いのためこれほど心を尽くして祈っておられるのに、私の証の生活は一体なんだと主の前に悔いるものです。

 短いゲッセマネのお祈りですが、父なる神様に受け入れていただける秘訣が示されています。私の思いではなく、御心が成るようにと言う事です。神様に従順に従う意志を持って祈ることが重要です。

 ピリピへの手紙2章6~8節「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」この様なお姿を私たちは模範として信仰生活をなせば、父なる神様に受け入れられるお祈りが出来るはずですが、恥ずかしい自分の姿を聖書の鏡を通して見ている有様です。

註 ゲッセマネの祈り

 ①マタイ26章39節『父よ、できることなら、この杯をわたしからすぎさらせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。』

 ②マルコ14章36節『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように』

 ①②ともに三回、同じお言葉でお祈りになっておられます。

【永遠の命とは】 ヨハネ17章1~19

2016年3月6日

 ヨハネ福音書を続けて学んでいます。「永遠の命」はヨハネ福音書の中心的主題です。彼は来るべき世における「永遠の命」について述べます。また信仰者がこの世の終わりにおいて復活すると言うユダヤ的、原始キリスト教的信仰についても語っています。6章40『私の父の御心は、子を見て信じる者が、ことごとく「永遠の命」を得ることなのである。そして、私はその人々を終わりの日によみがえらせるであろう』と語っておられる。しかし最も重要な事はイエス様の贖いの死によって救われた者は、今ここですでに「永遠の命」を与えられているという真理です。3章15節「それは彼を信じる者が、すべて「永遠の命」を得るためである」16節「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった、それは御子を信じる者が一人も滅びないで、「永遠の命」を得るためである」

 11章に、ラザロの復活物語があります。25節イエス様はマルタに言われた『私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』マルタはイエス様に言った、「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子であると信じております」この信仰告白が弟ラザロの復活をよび、生きているうちに「永遠の命」を得る証になったのです。25節のイエス様のお答えで2つのことが言い表されています。①イエス様に対する信仰は、死後の復活に確証を与える。②イエス様を信じる者は、今ここで「永遠の命」与えられていることを語り、このラザロの復活の奇跡は、イエス様がキリスト者を復活させ真の命をお与えになさる力をお持ちであることのしるしです。

 以上のことを念頭において、17章の弟子達のための最後のとりなしを見てみますと、2~3節『あなたは、子に賜ったすべての者に、「永遠の命」授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。「永遠の命」とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知る事であります。・・・』

 十字架の受難は人間であり神の独り子であるイエス様にとっても全人類にとっても何にも変えることのできない重要なときです。イエス様は高く上げられ神の右の座に着かれ、万民を支配する権威を持たれた。これは人間の究極の運命の決定を行使されるのですが、それは十字架の死をとおしてのみ行われるのです。

 この十字架の受難の時は、信じない者にとっては審判の時でありますが、すべて信じる者・キリスト者にとっては「永遠の命」の賜物が与えられる時です。「その永遠の命」賜物とは唯一のまことの神をいよいよ深く知ることです。唯一の真の神を知る知識は、神が遣わされたイエス・キリストを通してでなければ得られません。イエス・キリストを知ることが唯一の真の神をいよいよ深く知る道です(それは絶えず増大して行く)イエス様の地上の全生涯は、神様の愛の展開でした。3章16節『神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』私たちは主の十字架を通して永遠の命の賜物を戴いていることを信じ、感謝してキリスト者生活をしなければなりません。

 

【私の名によって求めよ】 ヨハネ16章16~24節

2016年2月28日

 エルサレムの神殿は神様を祭る所ではありません。旧約の神礼拝の行われる聖所は神様がご自身の名を書きとどめ、その名を置く為に選んだ場所(申命12章11節)です。名はいわば神格の代役です。モーセに与えられた十戒の三戒『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱ええるものを、罰しないででは置かないであろう。』ユダヤ人達は、厳格に守って神は口の中で唱えているうちに発音が出来なくなったのです。

 ヘブル語の書は子音だけで構成されているからです。ユダヤ人以外は読めませんので母音が発明されたが、エホバの本当の発音は分からないので研究してほぼ間違いないだろうとヤハウエに落ち着きました。
新約では御名が崇められますように、或は主の名を呼び求めるともちいます。『ふたりまたは三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである』(マタイ18章20節)ヨハネ3章18節には「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」と言うように表現されています。

 多くの場合「神の御名によって」「イエスの御名によって」と言う表現は神様・イエス様に行動を求めたり、神様・イエス様の助けを請うということに結びついています。キリスト者の祈りは、常にイエス様の御名によって祈ります。すなわちイエス様の人格(位格)、霊、態度にそって祈らなければならないのです。主に応えて頂ける祈りはこの様な立場で祈るのです。

 イエス様の十字架の前夜の告別説教ヨハネ14章~16章と17章の弟子達に対する執り成しのお祈りに主の御名が私達の祈りに必要なことが述べられています。14章13~15節『私の名によって願がう事は、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でも私の名によって願うならば、私はそれをかなえてあげよう。もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである』

 15章16~17節『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた。それは、あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたが私の名によって父に求めるものはなんでも、父が与えてくださるためである。これらのことを命じるのは、あなた方が互いに愛し合うためである。』

 16章13節『・・・よくよくあなた方に言っておく。あなた方が父に求めるものはなんでも、私の名によって下さるであろう。今までは、あなた方は私の名によって求める事はなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう』

 弟子達の祈りが「イエスの御名によって」ささげられるのは、主イエス様が十字架上で成し遂げられた贖いの業を信じるからです。それ故に、キリスト者のささげる祈りが「イエス・キリストのお名前によってお祈りします」と述べる事は、主イエス様が『私の名によって求めると父が必ず与えてくださる』との御約束を信じる事です。そしてイエス様のゲッマセネのお祈りが模範であることを覚えて祈って下さい。

【聖霊について】 ヨハネ16章1~15節

2016年2月7日

 マリヤは聖霊によって身ごもり、完全なまことの人間イエス様をお産みになりました。(ピリピ2章6~8節)「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられた」)イエス様は全き人間であり神の御子です。

 少年イエス様は、信仰の父ヨセフと大工仕事をなしつつ大工の業を身につけられた。ヨセフ亡き後は、少年イエス様は母マリヤと弟妹達を養うため額に汗してお働きになりました。弟妹達が自立したので30歳のとき父なる神様から受けられた使命に立ち上がれました。

 マルコ1章9~11節「イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である』この時から完全な人間イエス様の神の御子としてのご活躍が始まりました。

 それから三年後、父なる神様から与えられ最後の使命、それは人類の贖いの十字架の死に向かうことでした。その前夜、『私は新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、すべての者が認めるであろう』と命じられその後。主は弟子達に遺言的告別説教を、ヨハネ14頌~16章なさいました。

 イエス様が弟子達と共に過ごされた時には、彼達の助け主でした。(17章12節)『私が彼等と一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼等を守り、また保護してまいりました。彼等のうち、誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした』主がこの世を去るにあたり14章16節『私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け主(παρακλητοσパラクレエートス慰め主・カウンセラー・弁護者とも訳す)を送って、いつまでも共におらせて下さるであろう・・・・あなた方はそれを知っている。なぜなら、それはあなた方と共におり、またあなた方のうちにいるからである』そして『わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。』
聖霊について詳しい話は主によって述べられているこの箇所のほかにはみられません。この中での御約束どおり5旬節に聖霊降臨があり教会が成立されました。

 聖霊の働きについて①14章16節私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主送られる。②26節カウンセラー(相談を受ける方)すなはち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。③15章26節たすけぬし、すなはち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私についてあかしをするであろう。あなた方も、初めから私と一緒にいたのであるから、あかしをするのである。④16章7節私が去って行く事は、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、・・助け主は来ないであろう。8~11節それが来たら罪と義とさばきとについて、世の目を開くだろう。⑤あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう。

 17章の最後の弟子達に対する執り成しのお祈りの中にもいくつかあります。

 主は弟子達に対する説教ですべてを終られ。御自身についてのお祈りのために、いつもの静まりの時をもたれるゲッセマネの園に入られました。ルカ22章39~46節・・「42節『父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにして下さい』イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血の滴りのように地に落ちた。祈り終えて立ち上がられた。」

 私はヨハネ14頌~17章を拝読するたびに、イエス様の温かい愛を戴き、どのような状況でも希望を持って立ち上がることができました。私にはあまり残されている時間はありませんが。私の命である元住吉教会のため何をなすべきか祈っています。

 

【あなたは神の神殿です】 前コリント3章10~17節

2016年1月3日

 パウロは、神様から頂いた恵に生かされる使徒の使命として、教会を建てる土台を熟練した建築家のように据えました。その上に他の人によって家が建てられています。その土台は彼が据えたが、パウロの福音宣教を通して神様ご自身が据えられたものです。その土台とはイエス・キリストです。その上に金、銀、宝石、木、草、藁、などで建てました、が、終末が来ると、再臨の主による裁きの火で燃え尽きるものも出てきます。

 ヨハネ2章19~22節[イエスは答えて言われた『この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる』それでユダヤ人たちは、「この神殿を建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で立て直すのか」イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエス様が復活された時、弟子達は、イエス様がこう言われたのを思い出し、聖書とイエス様の語られた言葉とを信じた]。

 パウロはイエスキリストを土台として、その上に金、銀、木、藁などで教会を立てるが終末に火によって試みられる、それは信仰を指し示している。前コリント章13節「かの日が火と共に現われ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味されるからです。木や藁のような信仰は焼けてなくなります。・・・・15節火の中をくぐり抜けてきた者の様に純粋の金や銀のような信仰者は。救われます。

 16~17節「あなた方は、自分が神の神殿あり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ばされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです」。

 教会は主イエス・キリストの体です。私達は教会を構成する一部分です。教会は生きた存在です。イエス・キリストを土台として建てられた三位一体の神様が住まわれるところです。私たちキリスト者は神さまに従う存在であることを深く自覚しなければなりません。神様が教会という共同体の絶対的支配者なのですが、その教会を内部から破壊する分派行動があります。形式化され本質的なことを見あやまっているのです。何が教会・神殿を壊すことでしょうか。

 それは教会の絶対的主権者は神と認めず、人、権力に頼り人を誇る事です。すなわち、人間が神に変わって教会内に支配を振るう事です。神がその人を滅ぼされます。ここでは具体的な裁きの内容は述べられていませんが、旧約の時代幕屋や神殿のときの裁きより霊の神殿に関する裁きは更に恐ろしいものであるとの警告がなされています。この様な厳しい裁きの理由は、神殿は聖なるものがからです。聖ハギオスαγιοσは神にささげられ、分けられたものの意味で神様の絶対的所有権を表します。神殿は聖なる者と宣言して続けてあなた方はその神殿ですと強調するのです。

 今から20年ほど前のこと教会が分裂して残されたものは少数でした。再建するに当り役員会を中心とした牧会をすることに決めて心を一つにして事に当たることにしました。自分を押し出すことなしに教会中心に頭なるキリストの御心がなされんことをと取り組んで下さいました。そしてようやく分裂前の状態に戻ることができましたことを感謝しています。

 今年は一人一人が神の神殿であり神の霊が自分達の内に住まわれていることを自覚信じてて聖なる教会を確立する年としましょう。

 

【新しく創造された者】 後コリント5章16~21節

2016年1月1日

 17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出る事であって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解の為に奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」創世記1章26~27節『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう・・・』神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。創造されたは、κτισισクティシスcreationクリエションです。新しいはκαινοσカイノス(造られたばかりの)質の新しいとの意味です。日本ではνεοσネオス(年代的に)新しいneu,youngと混同されて使われています。聖書ははっきりと区別しています。

 創世記2章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。命の息とは前テサロニケ5章23節「どうか、平和の神御自身が、あなた方を全く聖なる者としてくださいますように。また、あなた方の霊πνευμαプニュウマーφυχηプシュケーも体σωμαソーマも何一つ欠けたところのない者として守り、私たちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのない者としてくださいます」神の息は霊と魂を指します。

 つまり、新しく創造されるとは、私たちの前人格、霊と魂と肉体が、キリストと結ばれるεν Χριστωエン ハリストー 人は誰でも新しくされ何一つ欠けたところのない聖められたものとして再臨の主が招かれるのです。

 2016年の元旦に新しく創造され、全くきよめられた自身を改めて見直し、この新しい年が一人ひとりにとって主よりの恵をいただく年であるようにお祈りします。