【私は道であり 真理であり 命である】 ヨハネ14章1~14節

2017年3月26日

 私は受難節のときに、特別に強く迫る御言葉があります。ヨハネ14章~17章の最後の説教、弟子達にたいしての執り成しのお祈りと、ルカ22章39~46節のゲッセマネのお祈りです。

 14章5節トマスはイエスに言った、「主よ何処においでになるのか、私達にはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、『私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない』

 ウイルダマス師のヨハネ伝の講義の中で、この書の特徴は『私は・・・である』との主のみ言葉が多いことだとその数を言われました。これが米国流の聖書を学ぶ方法かと感心したこと鮮やかに覚えています。Εγω ειμι hη hδοσ και hη αληθεια και hη ζωη、エゴ エイミ ヘー ホドス カイ へー アレーセイア カイ へー ゾーエー。私は・・・である。道であり、真理であり、命である。エイミである。このエゴ エイミが70余りヨハネ伝にあると聞いておどろきました。

 日本では神々・仏教の御本尊に至る道は幾つかあります。修行・難行苦行・善行・念仏を唱える等等。例えれば富士山頂に至るには登山口が幾つかあるが到着するのは一つそこに至るには幾つかの道があるのです。普通に言う道路はすべての道はローマに通じると言われるが、ローマ人は古代世界の土木工事の大仕事人達でした。帝国の首都ローマは四通発達の道路によって属州と繋がる一大帝国を作りました。キリスト教が急発展したのはローマ人の道路管理によること大であったと言っても良いほどです。

 聖書の示す道は生活の仕方、慣習、行為、態度などに用いられています。悪の者の道、正しい者の道、平和の道、命の道、人の道、即ち人の究極の道は神を目標としていると言うのです。主は私を通して以外には誰も父にいたる事はできないと言われ、主御自身が神に至る道であると言われているのです。キリスト教は全生涯をかけて神の方向に進むのであるからその教えを唯一の道と言われているのです。ヘブル書10章19・20節「私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることが出来、彼の肉体なる幕をとおり、私たちのために開いて下さった新しい生きた道を通って、入ってゆくことができるのである」。とイエス様の死と復活なさったことによって開かれた神に至る道について語っています。

 神に至る道を歩むものは、イエス様の十字架の道、復活の道を歩む者です。真理をいただき永遠の命に預かるのです。

【正しい者は信仰によりて生きる】 ガラテヤ3章1~14節

2017年3月5日

 「アブラハムは神を信じた。それで彼は義とみとめられた。」と旧新約聖書が語っていることを述べました。本日は聖書には登場していない人物、信仰によって義とされた宗教改革者マルチン・ルターを取り上げます。

 彼は1483年鉱山業を営む、ハンス・ルターの次男として出生。父は鉱夫から身をおこし上昇志向深く、炭鉱主になった。子供達にも上を目指すよう常に要求していました。マルチンは父の願いにそって勉学に励み、1501年父の希望通りなるべくエアフルト大学に入学、哲学を学びエリトコースに乗るように見えた。父の望みは彼が法律家になることでしたのでロースクル法学校に入った。1505年家から大学に向う途中、草原で激しい雷雨に打たれ、神様に助けを求め修道士になることを誓った。彼は両親の反対にあったが大学を離れエアフルトのアウグスチヌス修道会に入った。

 修道生活の中で聖書を深く読むようになり、自分の弱く小さな人間であることを自覚しました。彼は熱心に修道生活を送り祈りをささげても平安が得られず悩みの中にありました。エルフルトで神学・哲学を教えていたが、出来たばかりのウイッテンブルク大学に移って哲学と神学・聖書を教えました。彼を離れない悩みは学問・理性では神を知ることが困難であることの理解しました。

 ルターの心を捉えて離さなかったのは『神の義』の思想でした。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力しできるだけの善功を行なったとしても、神の前で義である正しいと確実に言うことが出来ない自分を見たのです。そのとき突如、光を受けたように聖書が述べる信仰によってのみ義とされる。あのハバクク2章4節・ローマ1章17節ガラテヤ3章6節『義人は信仰によって生くべし』『正しい者は信仰によって生きる』人間を義とするのは神の恵みであるとの知り信じたのです。

 ルターは新しい光にあって福音・聖書を読み直す事によって、人間は義とされることを信じました。『正しいものは信仰によって生きる』かってあれほど彼を苦しめた『神の義』を見直したことによって神による平安をうることが出来たのです。

 そのときイタリヤの金融業メヂイチ家の番頭テェチェルがサン・ペェトロ大聖堂建設献金として免罪符を大々的に売り込んでいました。ドイツの大衆は彼の献金箱に金貨がチャリンと音を立てた瞬間魂は天国にはいるとの弁舌さわやかに説く言葉に、民衆は大金を叩いていた。ルターはそれに反対して人間が善功によって神に義とされるという発想は間違いであるとしました。

 彼は大学でガラテヤ書の講義が終った直後、1517年10月31日、95ヵ条の論題を発表して、ここに宗教改革の幕が切って落とされました。丁度そのときグーテンベルクが鋳型によって活字を鋳造し活版印刷を考案しました。最初の作品がルター訳42行聖書でした。それまではラテン語の聖書でしたので一般の人は聖書を読むことが出来ませんでした。ドイツ語での聖書を一般の人々が読めるようになったので、ルターの「信仰によってのみ人は神に義と認められる」ことを大衆は知りました。

 プロテスタントの聖書による信仰がその中心となり現在に至ったのです。律法によらず信仰によった神から与えられる恵みはアブラハムの生涯だけでなく、神を信じる者すべて与えられることをルターは聖書を通して自分の経験によって証ししたのです。

【信仰の人アブラハムと共に祝福される人々】 ガラテヤ3章1~14節

2017年2月26日

 パウロは、律法を理解させる為にアブラハムを登場させます.アブラハムは諸国民の父であり、その子イサクを通してしてイスラエルの祖先です。また、子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされています。ユダヤ人はアブラハムを父と仰ぎ先祖としているので彼を通して、ユダヤ人の律法主義者やそれに追従するガリラヤの律法主義者に影響が強さによって語っているのです。

 このアブラハムは個人的信仰に生きた人です。7節『だから信仰によって生きる人こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8節『聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたの故に異邦人(諸国民とも訳す)は皆祝福される』と予告されたのです。彼は個人的信仰に生きた人でしたが、また、創世記22章22章17~18節『あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。』と主はアブラハムに言われた。

 さらにガラテヤ3章14節「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ為であり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によってうけるためでした。6節『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。アブラハムが神を信じた事は多くありますが、二つ上げて彼が信仰の父と言われる理由を述べます。

 創世記12章1~4節主はアブラムに言われた。『あなた生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたが祝福する人を私は祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。これは大変な旅です。数千の羊を中心とした家畜とその世話をする牧童と家族、ロトの家畜と家族など、しかも何処に行くかわからづの旅です。神様の示す地へと山越え、大河を渡るのです。アブラムは神を信じていたからこそカナンの地に到着したのです。7節主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』アブラムは、彼に現れた主の為に、そこに祭壇を築いた。

 22章1~19節神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つのやまにのぼり、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向って行った。三日目にその場所に到着した。この間のアブラハムの心の中の葛藤を、キルケゴールが著書の中で述べているのを20代の時読んで、実存哲学にはまり込みました。(当時カウンセリングはロージャスの理論が中心でしたがカウンセリングを行い、実施して見ますと表面的な解決しか出来ず根本的な問題の解決に悩んでいた時、ヴィクトル・フランクルのロゴセラピー{実存分析}出会いこれを中心としてカウンセリングを行い良い結果を得ました。)

 アブラハムは自問自答を繰り返すのです。人間を犠牲にささげよと命じたのは神様でなくサタンではないか、しかし確かに神様の言葉であった。神様は私の子孫を祝福すると言われたがイサクを犠牲にささげたら、神様の御約束はどうなるのだ。イサクを愛するが故に神様の心が理解できない。いや神様の御約束は間違いない等々悩んでいる内にモリヤの山に着いてしまった。

 アブラハムは若者二人を残して、薪をイサクに背負わせ、自分は火と刃物を持って二人は歩いて行った。7~12節イサクは「私のお父さん」と呼びかけ「火と薪はここにありますが、犠牲の子羊は何処にいるのですか」との問いに父は「私の子よささげ物の子羊はきっと神がそえてくださる」と三日間悩み苦しんだその信仰を告白し神に従う決心を伝えたのでしょう。イサクも父の信仰と同じように神様を信じたのです。恐らく百十歳を越えたアブラハムには少年イサクを縛り薪の上に乗せる事は不可能な事です。イサクは神様が必ずよきにして下さると、自分自身で薪の上に横たわったのでしょう。アブラハムが刃物を取り息子を屠ろうとした時。

 天から主のみ使いが「その子に手を下すな、何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」彼の後ろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。彼は雄羊を息子の代わりに焼き尽くす献げものとしてささげた。 
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備え下さる)と名付けた。そこで人々とは今日でも「主の山に備えあり(イスラエル)と言っている。

 アブラハムは神様の命によってハランの地を信仰を持って神の示す地に、出発したのが75歳、イサクをモリヤの山でささげる信仰の行為、そして百75年の生涯を終え、マクベラの洞穴に妻サラと共にイサクとイシマエルによって葬られた。

 アブラハムは常に神様の声に従った。それ故に信仰によって儀とされた模範なのですパウロは律法主義者に。律法では救われないと、我らの父祖アブラハムは信仰によって義とされたと述べているのです。

 私達は幸いなことに聖書が在り、聖霊の導きにより神様の御声を聞くことが出来ます。その御言葉を信じて従うものを、その信仰にとって義とされるのです。

【我キリストと共に十字架につけられたり】 ガラテヤ2章15~21節

2017年2月5日

 小学1年生の修身の教科書に「キグチコヘイハ シンデモ クチカラ ラッパヲハナシマセンデシタ」当時1年生はカタカナ2年生でひらがなを習いました。勅語・公文書・六法全書はすべて片仮名でした。2・3年後には 国語の教科書の1頁は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」私たちのときに国定国語の教科書が改訂されて「サイタ サイタ サクラガサイタ」1年生から全学科、桜の花のように美しく潔く散れと、国の為に死ぬことが正しい生き方だと洗脳され、国のそして天皇の為に死ぬことが人生の目的とされました。当時の日本人の平均寿命は50歳でした。私たちは20・2・3歳が死ぬ時だから太く短く生きようと、お互い話し合ったものです。

 20歳が徴兵年齢でしたが1944年昭和19年に18歳まで引き下げられ、私たちは卒業まで徴兵延期でしたが、それも取り消され、軍隊に入隊、トンネル陣地を補強守備していました。フィリピンのクラーク基地から日曜日以外の日には定期的に戦闘機が来て陣地を機銃掃射し、時には小型爆弾を落としますのでいつも死と隣り合わせている感じでした。脳裏の片隅にはいつも死がありました。その時でした。

 「我は神に生きんために、おきてによりておきてに死にたり。我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは、我を愛してわがために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」このみ言葉を読みました。これは日曜学校2年生の時覚えた豆カードの御言葉です。意味は山里牧師の奥様の説明でなんとなく分かりました。私は陣地でポケット聖書を読んでいる時にこのみ言葉に再び出会い、私の死に対する疑問は解けました。パウロは自分の経験をはっきり語るために『我は』εγωエゴを使用しています。通常は動詞にωをつけます例えばアガパオー セオス私は神を愛すαγαπω σεοσです。

 イエス様が十字架の贖いを成就なさるまでは、ガラテヤ3章23~25節「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、最早、この様な養育係の下にはいません。」旧約のおきてを完全に守った人のみが救われるのですが、人間には律法を完全に守ることは不可能に近い事です。

 父なる神様は私たち人類を愛して御子を遣わされ、十字架の主をキリスト救い主と信じる者をお救いになったのです。パウロはその事を、『我はεγωエゴ神に生きんために、律法によって律法に死んだ』律法はキリストが来られるまでは養育係りでした。キリストが来られるまで私達の養育者であった律法に死んだ。そのことによって律法との関係がなくなり、律法の支配から離れられ、神様の支配下に置かれたことが神に生きることでした。律法によって死んだことは、キリストと共に十字架につけられた事です。私は死に直面して十字架で死んで、主と共に甦ってこのどん底の中でも生きているんだと信じることが出来たのです。

 あの状態の中で神がすべてをよきになしたもう(ローマ8章20節)とはと祈りの中で問いかけた時、このみ言葉で主との出会いが出来ました。洗礼の恵にあずかった時雨上がりの濁った川の中に沈められ引き上げられた肉体の経験が信仰として生きたのです。今私が生きているのは神様の御一人子が私の為に十字架の上で血を流され肉を裂かれた。その主が私のうちで生きておられるのだと信じた時の感謝は忘れることはありません。私は死のそして今生きている意味を実感しました。

 私はこのことを忘れないように毎年のように皆様に証しすると共に、兄弟姉妹が自分εγωの証しをしていただきたいと切に願っているのです。

【初めに神は天地を創造された】 創世記1章1~5節

2017年1月1日

 神の時は初めがあり終わりがあります。それを聖書は創世記に初めをヨハネ黙示録が時の終わりとして述べています。歴史は神の業であることを語るその出発点としてこの1節があるのです。歴史の序論として神がご自身の計画に従って秩序ある世界の創造を、創世記が書かれた時代の考えかたとして述べたものです。この初めと終わりは時間的なものではなく、すべての出来事の出発点を神様の御業として語っているのです。

 一昨年だったと思いますが、科学者達(日本人も含まれた)が実験装置の中でヒッグス粒子が見つかったというニュースがありました。それは宇宙の誕生の時、ビックバン(大爆発)によって膨張を続ける宇宙の切つ掛けになったとする説の中です。理論物理学者達はその時多くの素粒子(17種類といわれる)が飛び出した。その素粒子の一つヒックス粒子が飛び回る質量のない素粒子を次々と捉え、質量を持った原子核となり原子・分子となり質量を持ち、やがて星が出来宇宙が出来たとする説でした。そのヒックス粒子が見つかったというのです。このヒックス粒子がなかったらあらゆる粒子は光速で飛んでしまい宇宙は存在していないのです。それゆえか学者達はヒックス粒子を神の手と呼んでいます。私はこのビックバン説を神の創造と結びつけようとは思いませんが、科学者が宇宙論から神の手といわれるヒックス粒子を発見したことに深い興味を持ちました。

 理論物理学から離れ、ユダヤの祝日を述べます。ロシ・ハシ祭九月、新年を記念する。ヨム・キップール祭 贖罪の為に断食と祈りの日。スコット仮庵祭、3~4月、荒野の放浪を偲ぶ。パサハ過越祭、エジプト脱出を記念する。シャブオット五旬節パサハの50日後、モーセの十戒を祝う。ハネカ光の祭り、ギリシャに対する勝利を祝う。プリム祭エステル記に述べられている。エステルが民族を救うために命をかけた記念日です。

 ロシ・ハシ祭。新年祭には十戒を収めた神の箱を先頭にして行進行列が行なわれました。来る一年を通じて、神様ガイスラエルを統治することを表す儀式が行なわれ、その儀式の式文として創世記1章と詩篇104篇が読まれました。新年祭は時間的な新しさではなく無から世界創造がなされたその創造の新しさを祝ったのです。

 新年も新聞も時間の経過で古くなります。一時的な新しさですぐ古くなります。νεοσネオス。ニュースの語源です。いつまでも変わらない新しさは、καινοσカイノス。新約聖書は新しい約束です。新年によく引用されますコリント第二の5章17節「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」もこの変わらざる新しさです。

 ユダヤでの新年祭に、創世記1章が式文として読まれるのも無から創造されたものでも時間の経過で古くなっていく事を語っているのです。私たちが主によって救われ聖くされるのはキリストに在りていつまでも聖さが古びないからです。新年に当ってカイノスの信仰を確立しましょう。