【神に出来ない事は何一つない】 ルカ1章26~38節

2017年12月17日

 父なる神様は御独り子を人とし又全人類の救い主としてこの地上に御遣わしになられる時、御両親に選ばれたのは王候貴族ではなく、一介の大工に過ぎないヨセフと田舎娘のマリアでした。実に神様のその選びは適切でした。

 マタイ1章18~25節「イエスキリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、秘かに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。自分の民を罪から救うからである』この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現す為であった。・・・・・そして、その子をイエスと名付けた。マリアが身ごもっていることを知った時これを表ざたにすると旧約の掟ではマリアは死を覚悟しなければなかった。ヨセフはそれに耐えることが出来なったのでしょう。

 一方神様は,ザカリヤ老夫婦を通して準備をなされました。ルカ1章5~24節ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリヤという人がいた。その妻はアロン(祖先はモーセの兄祭司職の長)家の娘の一人で、エリサベトといった二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを全て守り、非の打ち所がなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼等には子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 さて、ザカリヤは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていた時、祭司職の仕来りによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことに成った。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現われ香壇の右に立った。ザカリヤはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなた妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くに人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、葡萄酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆ろう者に正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」そこで、ザカリヤは天使に言った。「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」天使は答えた。『私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝える為に遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことが出来なくなる。時がくれば実現する私の言葉を信じなかったからである』

 民衆はザカリヤを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリヤはやっと出てきたけれども、話すことが出来なかった。そこで、人々は聖所でまぼろしをみたのだと悟った。ザカリヤは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終って自分の家に帰ってきた。その後、妻エリサベトは身ごもって、5ヶ月の間身を隠していた。「主は今こそ、こうして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました」古来からユダヤ人の間では不妊の女は神の恵みをいただけないと考えていたから彼女は言ったのです。

 6ヶ月目に26~38節天使ガブリエルはナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は彼女のところに来て言った。『オメデトウ、恵まれた方、主があなたと共におられる』マリアはこのこと言葉に戸惑い、一体この挨拶は何のことかと考えこんだ。すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵をいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終ることはない。』マリアは天使に言った「どうしてそのような事がありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神に出来ない事は何一つない』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』(δουλη κυριου主の女奴隷.主を拝し服従する女奴隷。ドウレー キュウリオウ)天使は去って行った。

 39~45節。神様の温かい配慮により、マリアはユダの町にエリサベトを訪ねた。挨拶するとエリサベトの胎内の子がおどった。彼女は声たからかにに言った「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。・・・・・主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」46節以下そこでマリヤは言った。マグニフィカートといわれるマリアの歌が述べられます。

 57~80節この出来事がマリアの信仰を固め救い主イエス様の肉の母として心ぞなえをしました。神様が肉の両親としてヨセフとマリアを選ばれたのは実に正しく最善の道でした。

 聖書は正典(基準、カノンκανον)信仰生活の基準になるものです。音楽では基層的旋律と言われ、ある声部が歌いだした旋律を後続の声部が忠実に模倣しつつ進む曲で輪唱もその一つです。私達の人生も聖書にしたがって恵の旋律をあかしするものでありたいものです。

 ヨハネ15章16節『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた。あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残る為であり、また、あなた方が私の名によって求めるものは何でも,父が与えて下さるためである。』私たちも主に選ばれた者として、それに相応しい実を結び、その実が残るように、主の名によって祈りつつ信仰の道を歩み続けましょう。『神様にはできないことは何一つない』神様には出来ない事は何一つありません。

【霊の結ぶ実と肉の業】 ガラテヤ5章16~25節

2017年12月3日

 私達は自由に生きるために神様に召されています。5章1節「自由を得るために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、・・・」この自由から真実の良い行為と愛の働きが生まれてくるのです。自由とは主体的です。その時正しい決断が出来ます。キリスト者の自由とは「このことをしよう」「このことはすまい」と決断できる者とされた事です。

 5章13節「兄弟達、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。唯、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』と言う一句によって全うされるからです」主に召されて自由になった私達は、「肉の働き」をするのはよそう、「愛をもって互いに仕える」ことにしようと決断する自由を持った者とされたのです。

  肉の働きは、19節~21節に述べられたものです。これらの事は決断して行なうものではありません。畑の雑草のように、油断しているとか不決断の時に繁茂して来ます。「愛を持って互いに仕える」事とは反対です。隣人を心から愛し、これに仕える事は、決心を必要とします。祈りをもって決断しなければ出来ない事です。真実の自由とは自分行くべき道を行くことと何をするかについて決断する事です。

 道徳・:倫理の土台は自由です。戦後自由主義が浸透したが変質しました。自由と愛は表裏をなしているものです。多くの人は他人を愛すると自分が自由でなくなると考えています。14節で律法の全体は、自分を愛するように隣人を愛せよと言うことの一句尽きると述べますが、律法学者の活躍した時代の教師達は旧約の律法を細かく規定し、モーセの十戒を三百六十五の禁止令と二百四十八の命令に直しました。福音書を見てもパリサイ人が度々弟子達の行為を非難してい場面を見ます。

 私たちがキリストのよる自由を持った時お互いに細かいことに言い合わないで同じ方向に進むようになります。律法主義のキリスト者で口やかましい・小言の多い人は自分の生き方が律法学者のそれでないか反省する必要があります。

 19節以下に、肉の働きと御霊の実について具体的に述べています。肉の業は明らかです。ジョンウエスレーは「悪霊に動かされている人は自分は聖霊によって行動しているのだと主張する。そこで悪霊による行動と聖霊による行動とは、その当人らの言葉によって判別できない。それにも拘らず、昼と夜がはっきり分かるように聖霊による働きと、悪霊による業との区別は明らかである。」と言っています。つまり見せかけや言葉で、どんなに善い事らしく振舞っても(悪い事はいつも良いことのように見せ掛けで行なわれるものです)悪い事は自然に私たちに分かるのです。霊の力によって悪は化けの皮を被ったままおれなくなるからです。

 悪の働きは神様によって根こそぎ消滅されます。それに反して主の御霊は私たちを自由にし、その自由な生活を通して必ず実を実らせます。御霊の力は私達の生活の中に良い実を結ばせて下さいます。その良い実こそ律法の目標でもあります。自由なキリスト者はこれらの肉の働き退け、御霊の実を収穫することへと決断します。私たちがキリスト・イエスに属するものあるから十字架によって許され、導かれるものであればこそ出来るのです。私達の肉の思いは十字架の力によってコントロールされます。この福音の真理により、聖霊によって自由に歩むことが真のキリスト者の進む生きた道です。