【互いに重荷を担いなさい】 ガラテヤ6章1~19節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年1月21日

 1節のみ言葉が強く迫ってきます。「兄弟達、万一誰かが不注意にも何かの罪に陥ったなら、『霊』に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい」ここを読んだ時主イエス様が十字架の前夜弟子達に語られた。ヨハネ15勝2節『私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』を思い出しました。

 互いに重荷を担うには、主に愛された経験が必要です。私達は人の間違い罪汚れなどよく分かります。その時私の取る行動がどのようなものかによって『霊』に生きているか否かが分かります。キリストが私を愛して下さったように隣人を愛して正しい道に立ち帰ることが出来るように務め励むことが隣人の重荷を担う事です。そうすれば隣人も私の気がつかなかった罪汚れを見分けてそれを自分の重荷として担ってくださるのです。そして、お互い主の愛に満たされるのです。

 ジョン・ウエスレーのジョージア伝道は完全な失敗でありました。野呂教授は失敗の原因を3つ挙げています。その第一はウエスレーの品性や教養の高さが、粗野な植民地の人々に理解されなかった事です。ウエスレーのような人の心の裏に、自分と同じような汚れた動機を想像し、きれいなものを汚してしまわなければ生きていけない人々がいることに、ウエスレーは気がつかなかった事でした。彼は自分の信仰と善行の足りなさを攻め続けていましたが、その事を憂えた友人達の手引きで植民地を脱出しました。第2第3は又の機会にします。

 1738年5月24日の彼の日誌に記されています。ロンドンのアルダスゲイト街のモラヴィア派の雰囲気の強い会合で、ある人が、ルターの書いた「ローマ人への手紙の為の序文」を読んでいた。丁度、ルターが、信仰とは何であり、そして信仰のみが人を義とすると書いてあるあたりに来た時、9時15分前頃第二の回心の経験をしました。彼は続けて日誌に述べます。「私は私の心が不思議に温まるのを覚えた。私は、救われる為に、唯きりストのみに信頼した、と感じた。そして、私の罪をキリストが取り去って下さり、罪と死との律法から私を救って下さったと言う確信が与えられた。・・・そこで、私は、初めて、今、私の心に感じた事柄を、公にそこにいる全ての人々に証ししたのである」この第二の回心が高教会的な教理即ち十字架上の主の贖罪の死と、神によって与えられ神の恵みによって支えられた良い行為によって救われるということから解放されました。

 その確信から、ジョウジアでの失敗を乗り越えて、大酒飲みや荒れた生活をしている人々の生活をウエスレー自身の重荷とした彼の伝道生活が始まり、メソジスト活動が本格化しました。やがてお互いの重荷を担い合う人々が起きてイギリスに魂の大覚醒がおきました。

 6章1~2節。「兄弟達よ、もしある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなた方は、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなた方はキリストの律法を全うするであろう。」かくしてメソジスト運動がおこなわれたのです。

 5節「めいめいが自分の重荷を担うべきです。7節思い違いをしてはいけません。神は、人に侮られる事はありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8節自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9節「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10節ですから、今、時のある間に、全ての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」

 4節「各自で、自分の行いを吟味して見なさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇れないでしょう」ウエスレーが高教会主義の教えに縛られた時には、低い身分の人を愛しているつもりでも良い行いをしていても、自分自身が救われた確信が持てずに苦しみました。しかし第二の回心きよめの経験をしたときすべてを主に委ねた。その時隣人の重荷を担うことができました。

 私たちホーリネスを標榜するからには自分の重荷を担いその上お互いの重荷をも担わなければなりません。隣人の罪穢れを見たときそれを責めるのではなく自分の重荷として取り組むものが、キリスト者でありホーリネス信徒です。