【なぜ逆戻りするのか】 ガラテヤ4章8~20節

2017年9月17日

 キリスト者は信仰によって義とされ、神の子とされていることを信じていても、激しい試みに打ちのめされ、この自分が神の子であると思えなくなることもあります。神に祈ることさえ出来なくなります。ローマ書8章26節「同様に、“霊”も弱い私たちを助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが”霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです」キリスト者が苦しむ時祈ることも出来ず、うめくだけです、だがそのうめきは「アバ、父よαββ hο πατηρパーテェール」と言う意味のうめきだと。マルチン・ルターは言っています。

 ガラテヤ4章7節「あなた方が子である事は、神が[アッパ、父よ]と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実から分かります」私達は苦しみの極みに、お父様と囁くだけです。主はこの自分に呼びかけている哀れな者、彼の子供であるキリスト者を助けて下さるのです。なぜなら、「アバ、父よ」と我々に祈らしめ助けて下さる事は、聖霊による主ご自身のみ旨であり、御業であるからです。妻の好恵が意識を失う寸前にお父様と祈って召されました。私たちキリスト者は祈る言葉がなくとも、お父様と神様を呼びそれに応えてくださる神様の下にあります。

 8節「あなた方はかって、神を知らず、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」とキリスト・真の神を知らないときの状態を述べます。日本の知識人の多くは無宗教・無神論者であると公言しています。しかし彼達には神があります。それは大学の卒業免状です。出来るだけ有名な大学卒業の肩書き、それがあればこの世をうまく渡って行かれると母親たちは教育に目の色を変えています。教育を重んじているのではありません、免状が神様になっているだけです。形の上では無神論でも、こうゆう神々《家柄、学歴、地位、財産等》にひれ伏しています。そのために神仏を拝み自分の希望が聞き入れられるようにと金銭などをささげ熱心に祈るのです。

 しかし人間が生きるにはそれらのものは必要ではありません。あれば便利ですが、真実の神様によってこそ真実に生きることができるのです。学歴や財産がなくとも人生の海の難破はありません。これらのものを絶対視するのは神でない者を神にする事です。それが偶像です。偶像は目に見えるものだけではありません。私たちに心の中にあり、神でない者を絶対化してそれに支配されている事でもあります。それが偶像です。そのことがマルクスをして、「宗教はアヘン」であると言わしめた理由の一つです。

 ガラテヤの信徒に対して今は神を知り神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りに成らない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めてそれらの奴隷として仕えようとしているのですか、あなた方は、色々な日、月、時節、年などを守っています。又律法主義に戻ろうとしていることに対して強い警告をしています。11節「あなた方のために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなた方のことが心配です。」

 17節「あの者たちがあなた方に対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分達に対して熱心にならせようとしてあなた方をキリストから引き離したいのです。」19節「私の子供達、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」パウロは「アバ、父よ」と叫ぶ苦しみを味わい、そして祈りながらガラテヤの人々にもう一度キリストの下に戻りなさいと強く勧めているのです。