【人を通してでもないガラテヤ書】 ガラテヤ1章1~5節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年2月18日

 12使徒たちは(キリストの福音を世に伝える人々の中の中心人物たちでキリストからの直弟子です)。パウロは異邦人伝道の弟子とされた人物で生前の主は知らずダマスコ途上での復活の主に出会ったのみです。そのために何か問題が起きるたびに周囲の人々から特にクリスチャンからも「彼は迫害者であって、本当の使徒ではない・・・」と冷笑されたり酷評されたりしました。

 パウロによって開拓され信仰に導かれたガラテヤ地方の諸教会の信徒達も同じでした。律法主義者の人々の言葉によって信仰がぐらつきだすと、パウロの教えを非難すると同時に、彼の使徒職を疑う者まで出てきました。使徒26章12~18節アグリッパ王の前で弁明をしながらダマスコ途上での復活の主との出会いを語っています。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴ると、ひどい目に会う』と私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て、私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にする為である。私は、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす』と主から異邦人の伝道者使徒とされたことを述べています。

 彼は王の前での証しで彼の使徒職は神によるとはっきり述べています。ガラテヤ、の手紙の挨拶で、1章1節「人々からでもなく、人を通しでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と述べています。使徒会議やエルサレム教会によって権威付けられた使徒職ではないと強く言明しています。

 キリストの福音がキリスト者の間で正しく受け取られている時には、パウロは使徒として重んじられていました。福音を間違って受け取られますと必ずパウロの使徒職に疑いが向けられました。パウロは常に福音の信仰の正しい方向を指し示していますが、その事をはっきり述べているのがガラテヤ書です。

 人々からでもなく人によってでもなく、私たちキリスト者の生活が映し出されます。学歴とか家柄など毛並みが良いとか悪いとかを、自分達の生活の基準にしています。つまり人々が作り上げたもの,人によって認められるものが、人生の基盤のようなものになりそれに支配されるとするのです。現在の社会は階層の分断化が進み富めるものと貧しさが、子供の将来まで決定する時代になってしまいました。人の作り出した基準に縛られて、人間同士の競争、対立のいがみ合い、これが私達の生活態度の病気ですが不快な病気とは感じず。むしろ人間に認められたと思い立派な正しいことだと見せかけています。これが聖書が語る偽り、偽善です。人の評価を大切にして、本物の福音をないがしろにしているのです。

 イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたように私達もキリスト者となり、主の体なる元住吉教会に加えられ兄弟姉妹の交わりに与る者とされたのは、決して人々や人を通してではありません。キリストの十字架でともに死に主と共に復活して救われた者たちです。

 6・7節ほ「キリストの恵に招いて下さった方から、あなた方がこんなにも早く離れてしまいほかの福音(別の福音ではなく教え)に乗り換えようとしていることにあきれ果てています。ほかの福音と言っても、もう一つの別の福音があるわけではなく、ある人々があなたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているに過ぎないのです。」

 千葉にいた兄弟ですが、暫く教会から離れているうちにキリスト教を名乗る集いに出ているとき、大学時代に元住吉教会での話と違うなと思い、友人に話したらそれは異端だと言われ彼が箱いっぱいの本を贈ってくれたのを読んで真実の福音に戻り60才すぎて受洗し、若いときに真実の福音に触れていたので遠回りをしましたがクリスチャンになれました。と感謝の言葉と共に香りよい味のよいコーヒーを欠かさず送ってくれました。目が見えないので連れ合いさんに書物を読んでもらい、毎週のように電話での質問がありましたが、昨年の元旦に突然召されました。後は彼女が引き受けて質問は続いています。また昨年のイースターには80過ぎた兄弟が、主の福音を受け入れバプテスマを受けられました。

 これらの事は人には出来ない事です。4節「キリストは、私達の神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私達を救い出そうとして、ご自身を私達の罪の為に献げて下さったのです」真実の福音と飾り立てた偽者を見分けなくてはなりません。そのためにキリスト者は礼拝を兄弟姉妹と守らねばなりません。サタンは私達を間違った教えへと連れて行こう虎視眈々と狙っています。油断してはなりません。

【新しく創造された者】 ガラテヤ6章11~18節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年2月4日

 パウロが聖霊に導かれて書いたローマの信徒への手紙・ガラテヤの信徒への手紙は、私が主イエス様との出会い、そして十字架の救い。2回目の回心聖めの経験をしたのもこの二つの手紙によります。ローマ書1章17「義人は信仰によって生くべし」ガラテヤ2章16節「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」私はイエス様をキリストと信じる信仰によって救われ聖められたのです。聖められたとは愛に満たされた事です。新しく再創造された者をいいます。 
 使徒パウロは、キリストの弟子の中で最大の人でした。教会とキリスト者はガラテヤ書でいつもその信仰生活の方向を正されてきました。マルチン・ルターは宗教改革の時にこの手紙を「自分の妻」とまで言ったと言われています。信仰の正しい方向を示しているからです。

  パウロの信仰・神学の深さは、一部の人にキリスト教と言うよりパウロ教と言われるほどでした。旧約の素養の上に立ってイエス様がキリストであることを、信じ証し続けたのが彼の書簡です。彼はキリストの生前には直接師事した事はありません。彼は長い間キリストを信じるどころか、1章13~14節キリスト者と教会は旧約聖書に違反しているやからであると迫害しました。この迫害者サウロがキリスト者になった出来事が 使徒9章1~22節に記されています。

 迫害者サウロがキリストの使徒となった証を22章ヘブル語で行なっています。「兄弟達、父たちよ、今申し上げる私の弁明を聞いていただきたい」パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこで彼は言葉をついで言った、「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、厳しい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛り上げて獄に投じ、彼等を死に至らせた。この事は、大祭司も長老達一同も、証明するところである。さらに私は、この人達からダマスコの同志たちにあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰する為、出かけて行った。

 旅を続けてダマスコの近くに来た時に、真昼頃,突然、強い光が天から私を巡り照した。わたしは地に倒れた。そして『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対して私は『主よ、あなたはどなたですか』といった。すると、その声が『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒いた者たちは、その光を見たが、私に語りかけた声は聞かなかった。私が『主よ、私は何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起き上がってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、全てそこで告げられるであろう』私は、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。

 すると、律法に忠実で、ダマスコ在住のユダヤ人全体に評判のよいアナニヤという人が、私の側に立ち、『兄弟サウロよ、見えるようになりなさい』と言った。その瞬間に(うろこのようなものが落ちて)、私の目が開いて、彼の姿が見えた。彼は言った『私達の先祖の神が、あなたを選んでみ旨を知らせ、かの義人を見させ、その口から声をお聞かせになった。それはあなたが見聞きした事につき、全ての人に対して彼の証人になるためである。そこで今、何のためらうことがあろうか。すぐ立って、み名を唱えてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい』」

 主が私に言われた、『行きなさい。私が、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』この様な経験を通って迫害者サウロが使徒パウロとして異邦人伝道から当時知られていた世界にキリスト教を広げ、現在の世界の隅々まで福音が述べ伝えられる切っ掛けを作ったのです。そればかりかガマリエルに教えられた旧約聖書の知識と教養によって、復活までの主のご活動を生前の主に接した弟子達から教えられ、その上聖霊の導きにより、キリストに関する教えを整理したのが彼の手紙です。それは新約聖書の大部分を占め学者の一部をしてキリスト教と言うよりパウロ教とまで言わしめました。しかし彼の証しは復活の主との出会いによって迫害者サウロが主の弟子パウロになったことを語り続けています。

 ガラテヤ書は信仰とキリスト者の自由について書かれたものです。律法主義者の掟に縛られた奴隷から十字架によってその奴隷から自由なキリスト者となった自分の経験から、証しした書簡です。私はこのパウロの経験を追体験した者です。