【確かに主は復活された】 ガラテヤ2章15~21節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年4月1日(イースター)

 復活祭オメデトウございます。私はトマスと同じで主の復活がなかなか信じられませんでした。ヨハネ20章24節~29節「12弟子の一人で、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられた時、彼等と一緒にいなかった。ほかの弟子達が、彼に[私達は主にお目にかかった]と言うと、トマスは彼等に言った[私は、その手に釘跡をみ、私の指をその釘跡に差し入れ、また、私の手をその脇にさし入れてみなければ、決してしんじない]八日ののち、イエスの弟子達はまた家のうちにおり、トマスも一諸にいた。戸はみな閉ざされてが、イエスは入って来られ、中に立って『安かれ』と言われた。それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』トマスはイエスに答えて言った、「我が主よ、我が神よ」イエスは彼に言われた『あなたはわたしを見たので信じたのか、見ないで信ずる者は、幸いである』トマスは主を見て信じたが、私はパウロが主の復活について的確なお証しをしている。コリントへの第一の手紙15章1節~11節出来うるなら15章全体を読むとよいのですが。このパウロのあかしで主の復活を信じ救われました。「兄弟たちよ。私が以前あなた方に福音、あなた方が受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もし、あなたがたが、いたずらに信じないで、私の宣ベ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。私が最も大事なこととしてあなた方に伝えたのは、私自身も受けたことであった。即ちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私達の罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。その後、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中には既に眠った者たちもいるが、大多数は今なお生存している。その後、ヤコブ(主の肉親の弟)に現れ、次に、全ての使徒達に現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたような私にも、現れたのである。実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒達の中で一番小さい者であって、使徒と呼ばれる値打のない者である。しかし、神の恵みによって、私は今日あるを得ているのである。そして、私に賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、私は彼等の中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、私と共にあった神の恵みである。とにかく、私にせよ彼等にせよ、そのように私達は宣べ伝えており、そのように、あなた方は信じたのである。」

 4福音書にイエス様の十字架の死、墓への葬り、3日後のよみがえりに出会った人々が語っています。使徒行伝1章3節には「イエスは苦難を受けた後、自分が生きていることを数々の証拠によって示し、40日にわたってたびたび彼等に現れて、神の国のことを語られた」4・5節を含めて具体的に述べられています。

 そして、これらの人々の実際に経験したことを、パウロは簡潔に復活の事実を詳しく述べています。聖書で主の復活を詳しく述べたのは、コリント人への第一の手紙の長い章です。そして彼は言います。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、私達の宣教はむなしく、あなた方の信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく儀証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、私達は神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなた方の信仰は空虚なものとなり、あなた方は、今なお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みを抱いているだけとすれば、わたしたちは、全ての人の中で最もあわれむべき存在となる。」

 15章全体でパウロの立てた証しは、十字架の上の主によって罪ゆるされたキリスト者であればアーメンαμηνと感謝の声を上げ、イースターを喜びオメデトウの言葉を交わします。

 私は64年前に、急に台湾にお帰りになる林異来牧師から遠藤兄弟の家庭集会を継続して欲しいとの事でした。教会開拓として受け入れました。家庭集会を3度ほどして元パチンコ屋を敷金9万円、月5千円でお借りして開拓を始めました。最初の礼拝で私は救われたとき生きて帰れば牧師になりますと神様に約束しました。私は生きて広島の大竹港に上陸した時から、生活を軌道に乗せてからとか大学で教養を修めてから等勝手な理屈を述べて牧師になることから逃げ回っていました。が、牧師にならざるを得なくなりました。それならゼロから始める開拓伝道者になると心にきめました。神様はそれを認めてくださったのでしょう、1ヶ月余に路傍伝道などで十数名の青年たちが与えられ、教会活動が始まり62年を経て現在に至りました.嬉しい楽しいこともありましたが常に経済的に苦しめられていました。

 今年の1月1日、お祈りしていると今年で説教者の勤めを辞めよと示されるのですが、元住吉教会を自分の命のように愛しているその気持ちを抑えるのが大変でした。が、1月11日思いがけなく40数年前に田舎に帰った兄弟から、今後の活動にお使いくださいと、献金が送られてきました。神様ガ兄弟を遣ってハッキリしない私の信仰に活を入れられと感じ礼拝説教を今期でやめる決心が出来ました。翌日教文館で賛美歌のプレイヤーを申し込んできました。14日の役員会で礼拝説教をやめて、神様との約束どおり家庭集会の奉仕に向かうことと報告しました。なぜ急にそのようになったのかとあるかたから質問を受けましたが、以上のような事で元住吉教会での説教は終りますが、頼まれた方の家庭集会は続けます。これが開拓伝道者として召された者の続けて行く道です。

 長い間教会を支えて下さり苦闘する私を励まし助けて下さった兄弟姉妹方に感謝いたします。どのような状況におかれても温かく見守り恵を与えてくださった主イエス様に心の底よりお礼申し上げます。私を愛し育てて下さった元住吉教会が真の教会として用いられますよう。愛する兄弟姉妹方に上よりの豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

 深佐隆英牧師は本日のイースター礼拝説教で62年間の説教、その他の教会でのご奉仕は終了します。私のつたない説教概要を読まれ励まして下さった兄弟姉妹方に感謝します。特に忙しい中ホームページに転載して下さった先に主の下にいかれた本田姉妹に感謝します、10数年私を励まして継続させて下さった足立兄弟に心よりお礼を申し上げます。私は残された時を神様のご命令に従ってご希望者の家庭集会をいたします。交通費、謝礼など既に与えられていますので。お心ずかいはご無用です。

 なお許されますならば家庭集会でのおはなしも掲載していただければとねがっています。

 長い間交わりを頂き有難うございました。愛兄姉方に豊かなる神様の祝福をお祈りいたします。