【信仰の証し】 ヤコブ2章14~26節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年3月18日

 ヤコブは主イエス様の肉の弟です。彼は最初イエス様を信じなかったが、主の復活後、主を信じました。パウロの手紙によると、彼は12使徒とも、弟子達全体とも区別される重要な地位にあったことを知ります。エルサレム会議では指導的役割を演じています。AD62年ごろ大祭司アンナスに捕らえられ律法を破ったかどで石で打たれて殉教しました。エルサレムの住人達からヤコブは”義人”と呼ばれていたと言われていました。ルターの聖書のヤコブ書の序言で、他の手紙と比べるなら軽い藁の手紙であると言っていますが、それは、ローマ教会が行いの義としてヤコブ書を取り上げたからでしょう。他の翻訳聖書の序言では信仰と行ないによる義認について、パウロとヤコブとの間に何ら矛盾がないと述べられています。

 私は現存された2人の信仰の行為の証しで信仰を持つことが出来ました。ガラテヤ2章20節「我キリストともに十字架に付けられたり《ガラテヤ5章24節キリスト・イエスに属する者は自分の肉とともにその情と欲とを十字架につけたり》」は救われた事で経験しましたが、「最早我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。今我肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり」が経験できませんでした。

 その時水口牧師がヤコブ書2章17~18節「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、[ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある]と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なる物を見せて欲しい。そうしたら、私の行いによって信仰を見せてあげよう]。」を示されて信仰は肉体の行いとしての生活において、キリストに内住していただく者にふさわしいものであるはずですと言われました。[何時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなた方に求めておられることである]このことが牧師には自然に出来ているのを見て信仰の極意を感じました。

 あと一人は母です。鹿児島県立病院で看護婦と助産婦の資格を得て、上京しました。そして妹の婚約者が警官になると法律を勉強していたその学費と生活費を出していました。知人の紹介で父当太郎と結婚、台湾台中の製糖会社の斡旋で産院を開業、落ち着くと親族の子供で中学に進んでいない子達を呼寄せ中学に進ませ卒業したら東京の大学に進学させました。母は教会に行くことは誰にも強制しませんでした。特別伝道会には全員参加でした。その頃には助産婦志願者の実地訓練をしていたので5・6名も参加していました。

 家の応接間には山村軍平の平民の福音が全巻、賀川豊彦の著書が多くあったのを覚えています。欄間には西郷隆盛の[敬天愛人]の額が掲げられ、床の間には掛け軸で西郷さんの詩がかけられていました。それらを読んでいたのでしょうか敗戦後あった彼等彼女達は殆どキリスト者になっていたことは驚きと共に母の信仰の証の素晴らしさを実感しました。

 母は実習生にも産婦にも先生と呼ばせずおばさんで通しました。台湾人の助産婦が少ないので取り上げる人がいない貧しい人々のところにも実習生を連れて行ってすべて費用は持たせず沐浴などさせていました。この人達も殆どキリスト者になり母のしたように働きました。その産婦たちが敗戦後子供をつれて米や野菜肉類を運んでくれて助かりました。

 ある日学校から帰ってくると、女中におばさんが応接間に来るようにと言っているよと言われ、入っていくとそこに4人の人が窮屈そうに座っていました。それは小作人と書類を書く公学校の先生でした。母は一応地主の名義は隆英になっているので呼びましたと言い。小作料の交渉になるとは母は税金を払ったら、後は時々野菜類を届けて貰えば良いですといいますと、先生が今までとあまりに条件がよすぎますと言いますが、母は将来農園をする予定で土地も増やすのでそれでよいのですと、契約書を作りました。

 万事がこの様な有様ですので、とばっちりは私の小遣いなどに影響して不自由でした。しかし食糧事情が悪くなった時届けられるもので助かりました。そのあまりを教会の方々に配り、私に母は言いました、できる時に人のために出来ることをすれば自分も助かるように神様が導いて下さるのだよと言われ信仰の行為を見ることができました。

 日本に帰ってきて驚きました、叔父が退職したら住むためにとの家があるのでそこに落ち着くようにと住まいは安心しました。一人前に成った者たちが次々と生活に必要なものや食料が届けられ生活が安定しました。

 後は特攻隊で何処にいるのか弟を探すことでした。その弟も高知の航空隊の隊長の勧めで開墾している時米軍の従軍牧師に出会い、いろいろのことがあって無事東京に来ました。学校問題も不思議に導かれて深沢の園芸高校に転入しました。私は法律を学んでいましたが、小学校の校長が免許状を持っているなら大学の学びに支障のないようにするからぜひ勤めて欲しいと言われたので神様と約束した牧師になることから逃げられると思って飛びつきました。

 時が立ってある時母と妻好恵が、青山学院大学をやめて聖書学院に行くことが早く牧師になることが出来るからと迫られ、私の欠点の情に対する弱さを衝かれ聖書学院にはいりました。そして牧師になるならゼロから始めようと決意しました。

 水口牧師と母の信仰による行いが、私のこの世に惹かれて主との約束を破り、従うことの出来ない私を牧師として64年間奉仕できるようにしてくださったのです。ロマ書8章28節「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡ての事相働きて益ととなるを我らは知る」私の前に真実の信仰にいたらしめんため2人の証人を与えてくださったことを神様に感謝すると共に、行いによって信仰を示した証人水口牧師と母に感謝し私も残されて日々証しをなして行きたく願っています。

【木にかけられた者】 ガラテヤ3章10~14節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年3月4日

 パウロは”信仰によって”を強調する為、律法の誤りを厳しく指摘します。10節以下で律法の行ないでは、義と認められないことを述べています。9節「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」10節「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています。(申命記27章26この律法の言葉を守り行わない者は呪われる)と書いてあるからです。」

 十戒を中心とした律法があります。私達は律法をすべて守っているとはいえません一つは守っていても他は犯しています。結局は全てを多少とも犯しています。その意味でも私達は皆呪いの下にあります。神様は私達をのろいの下に置くために律法を与えなさったのでしょうか、愛の神様が私達をのろいの下に置かれるはずではありません、11節「律法によっては誰も神の御前で義とされない事は、明らかです。なぜなら、ハバクク2章4節(正しい者は{信仰によってエク ピステオースεκ πισεωσ}生きる)からです。信仰が義人を生かすのですからです。

 12節「律法は、信仰を拠り所としていません。(律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる)のです。レビ18章5節(私の掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることが出来る)」旧約聖書では、罪が呪いをもたらせて不幸にするという信仰があります。創世記3章、エデンの園物語ではへびが罪を犯させたために呪われ、アダムの罪のため地は呪われました。前記の申命記27章には違反者に呪いをもたらせる罪が列記されています。しかし呪いは神様が人々に与えようとする恵に相対するものでして、人は神に従うべきか否かを自ら決定するのです。自らの意思決定して、神様からの祝福を受けるべきです(申命11章26~28節と30章1,15節~と比較する)

 新約聖書でも、のろいは罪を犯した者の裁きに関して述べられます。イチジクの呪い(マルコ11章12~14,20~)実の成らない時期であることをご存じのイエス様がなぜイチジクの木を呪われたのか不思議でしたが、神様への不従順から自分の上に不幸を招くユダヤ人について述べられた事を知り神様のさばきの厳しさを知りました。

 パウロはキリストを愛さない者は呪われる。また福音と偽った教えを説くものは呪われると言っています。申命記27章26節『この律法のことばを守り行わない者は呪われる』コリント前6章22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。[呪われよ]」イエスは主ですと告白して主イエスを愛することが、主イエス・キリストとの交わりに入れられている証拠です。主を愛さない者は自らをキリストとの交わりから切り離すことになります。

 律法による救いは不可能であり、信仰によらねば救いはありません。律法によって生きるものは、律法の支配下に生きる事であってそれは呪いのもとに生きることを意味します。

 13節ここで私達を律法の呪いから贖い出してくださるキリストの犠牲が取り上げられます。信仰により義人の道は人間が自由に選び取れる道ではなく、神様がキリストの死を通して与えてくださる恵の賜物です。キリストは私達の為に、呪われた者となって十字架の死をもって私達を救ってくださったのです。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。その死が、私たちを呪いから贖い出してくださったのです「贖いだす]エクサゴラゾーεξηγοραζωは代価を払って人を奴隷の身分から自由にする事です。

 神様の御独り子罪のないお方を罪人の呪いの身代わりとして十字架の贖いの死をなさしめ、死の代価を払わなければならない私達を、律法の呪いから解放して下さり、罪から救い、神様の子としてくださったことを心に銘記してください。

【人を通してでもないガラテヤ書】 ガラテヤ1章1~5節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年2月18日

 12使徒たちは(キリストの福音を世に伝える人々の中の中心人物たちでキリストからの直弟子です)。パウロは異邦人伝道の弟子とされた人物で生前の主は知らずダマスコ途上での復活の主に出会ったのみです。そのために何か問題が起きるたびに周囲の人々から特にクリスチャンからも「彼は迫害者であって、本当の使徒ではない・・・」と冷笑されたり酷評されたりしました。

 パウロによって開拓され信仰に導かれたガラテヤ地方の諸教会の信徒達も同じでした。律法主義者の人々の言葉によって信仰がぐらつきだすと、パウロの教えを非難すると同時に、彼の使徒職を疑う者まで出てきました。使徒26章12~18節アグリッパ王の前で弁明をしながらダマスコ途上での復活の主との出会いを語っています。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴ると、ひどい目に会う』と私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て、私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にする為である。私は、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす』と主から異邦人の伝道者使徒とされたことを述べています。

 彼は王の前での証しで彼の使徒職は神によるとはっきり述べています。ガラテヤ、の手紙の挨拶で、1章1節「人々からでもなく、人を通しでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と述べています。使徒会議やエルサレム教会によって権威付けられた使徒職ではないと強く言明しています。

 キリストの福音がキリスト者の間で正しく受け取られている時には、パウロは使徒として重んじられていました。福音を間違って受け取られますと必ずパウロの使徒職に疑いが向けられました。パウロは常に福音の信仰の正しい方向を指し示していますが、その事をはっきり述べているのがガラテヤ書です。

 人々からでもなく人によってでもなく、私たちキリスト者の生活が映し出されます。学歴とか家柄など毛並みが良いとか悪いとかを、自分達の生活の基準にしています。つまり人々が作り上げたもの,人によって認められるものが、人生の基盤のようなものになりそれに支配されるとするのです。現在の社会は階層の分断化が進み富めるものと貧しさが、子供の将来まで決定する時代になってしまいました。人の作り出した基準に縛られて、人間同士の競争、対立のいがみ合い、これが私達の生活態度の病気ですが不快な病気とは感じず。むしろ人間に認められたと思い立派な正しいことだと見せかけています。これが聖書が語る偽り、偽善です。人の評価を大切にして、本物の福音をないがしろにしているのです。

 イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたように私達もキリスト者となり、主の体なる元住吉教会に加えられ兄弟姉妹の交わりに与る者とされたのは、決して人々や人を通してではありません。キリストの十字架でともに死に主と共に復活して救われた者たちです。

 6・7節ほ「キリストの恵に招いて下さった方から、あなた方がこんなにも早く離れてしまいほかの福音(別の福音ではなく教え)に乗り換えようとしていることにあきれ果てています。ほかの福音と言っても、もう一つの別の福音があるわけではなく、ある人々があなたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているに過ぎないのです。」

 千葉にいた兄弟ですが、暫く教会から離れているうちにキリスト教を名乗る集いに出ているとき、大学時代に元住吉教会での話と違うなと思い、友人に話したらそれは異端だと言われ彼が箱いっぱいの本を贈ってくれたのを読んで真実の福音に戻り60才すぎて受洗し、若いときに真実の福音に触れていたので遠回りをしましたがクリスチャンになれました。と感謝の言葉と共に香りよい味のよいコーヒーを欠かさず送ってくれました。目が見えないので連れ合いさんに書物を読んでもらい、毎週のように電話での質問がありましたが、昨年の元旦に突然召されました。後は彼女が引き受けて質問は続いています。また昨年のイースターには80過ぎた兄弟が、主の福音を受け入れバプテスマを受けられました。

 これらの事は人には出来ない事です。4節「キリストは、私達の神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私達を救い出そうとして、ご自身を私達の罪の為に献げて下さったのです」真実の福音と飾り立てた偽者を見分けなくてはなりません。そのためにキリスト者は礼拝を兄弟姉妹と守らねばなりません。サタンは私達を間違った教えへと連れて行こう虎視眈々と狙っています。油断してはなりません。

【新しく創造された者】 ガラテヤ6章11~18節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年2月4日

 パウロが聖霊に導かれて書いたローマの信徒への手紙・ガラテヤの信徒への手紙は、私が主イエス様との出会い、そして十字架の救い。2回目の回心聖めの経験をしたのもこの二つの手紙によります。ローマ書1章17「義人は信仰によって生くべし」ガラテヤ2章16節「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」私はイエス様をキリストと信じる信仰によって救われ聖められたのです。聖められたとは愛に満たされた事です。新しく再創造された者をいいます。 
 使徒パウロは、キリストの弟子の中で最大の人でした。教会とキリスト者はガラテヤ書でいつもその信仰生活の方向を正されてきました。マルチン・ルターは宗教改革の時にこの手紙を「自分の妻」とまで言ったと言われています。信仰の正しい方向を示しているからです。

  パウロの信仰・神学の深さは、一部の人にキリスト教と言うよりパウロ教と言われるほどでした。旧約の素養の上に立ってイエス様がキリストであることを、信じ証し続けたのが彼の書簡です。彼はキリストの生前には直接師事した事はありません。彼は長い間キリストを信じるどころか、1章13~14節キリスト者と教会は旧約聖書に違反しているやからであると迫害しました。この迫害者サウロがキリスト者になった出来事が 使徒9章1~22節に記されています。

 迫害者サウロがキリストの使徒となった証を22章ヘブル語で行なっています。「兄弟達、父たちよ、今申し上げる私の弁明を聞いていただきたい」パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこで彼は言葉をついで言った、「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、厳しい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛り上げて獄に投じ、彼等を死に至らせた。この事は、大祭司も長老達一同も、証明するところである。さらに私は、この人達からダマスコの同志たちにあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰する為、出かけて行った。

 旅を続けてダマスコの近くに来た時に、真昼頃,突然、強い光が天から私を巡り照した。わたしは地に倒れた。そして『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対して私は『主よ、あなたはどなたですか』といった。すると、その声が『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒いた者たちは、その光を見たが、私に語りかけた声は聞かなかった。私が『主よ、私は何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起き上がってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、全てそこで告げられるであろう』私は、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。

 すると、律法に忠実で、ダマスコ在住のユダヤ人全体に評判のよいアナニヤという人が、私の側に立ち、『兄弟サウロよ、見えるようになりなさい』と言った。その瞬間に(うろこのようなものが落ちて)、私の目が開いて、彼の姿が見えた。彼は言った『私達の先祖の神が、あなたを選んでみ旨を知らせ、かの義人を見させ、その口から声をお聞かせになった。それはあなたが見聞きした事につき、全ての人に対して彼の証人になるためである。そこで今、何のためらうことがあろうか。すぐ立って、み名を唱えてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい』」

 主が私に言われた、『行きなさい。私が、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』この様な経験を通って迫害者サウロが使徒パウロとして異邦人伝道から当時知られていた世界にキリスト教を広げ、現在の世界の隅々まで福音が述べ伝えられる切っ掛けを作ったのです。そればかりかガマリエルに教えられた旧約聖書の知識と教養によって、復活までの主のご活動を生前の主に接した弟子達から教えられ、その上聖霊の導きにより、キリストに関する教えを整理したのが彼の手紙です。それは新約聖書の大部分を占め学者の一部をしてキリスト教と言うよりパウロ教とまで言わしめました。しかし彼の証しは復活の主との出会いによって迫害者サウロが主の弟子パウロになったことを語り続けています。

 ガラテヤ書は信仰とキリスト者の自由について書かれたものです。律法主義者の掟に縛られた奴隷から十字架によってその奴隷から自由なキリスト者となった自分の経験から、証しした書簡です。私はこのパウロの経験を追体験した者です。

【互いに重荷を担いなさい】 ガラテヤ6章1~19節

説教者 深佐 隆英 名誉牧師
2018年1月21日

 1節のみ言葉が強く迫ってきます。「兄弟達、万一誰かが不注意にも何かの罪に陥ったなら、『霊』に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい」ここを読んだ時主イエス様が十字架の前夜弟子達に語られた。ヨハネ15勝2節『私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』を思い出しました。

 互いに重荷を担うには、主に愛された経験が必要です。私達は人の間違い罪汚れなどよく分かります。その時私の取る行動がどのようなものかによって『霊』に生きているか否かが分かります。キリストが私を愛して下さったように隣人を愛して正しい道に立ち帰ることが出来るように務め励むことが隣人の重荷を担う事です。そうすれば隣人も私の気がつかなかった罪汚れを見分けてそれを自分の重荷として担ってくださるのです。そして、お互い主の愛に満たされるのです。

 ジョン・ウエスレーのジョージア伝道は完全な失敗でありました。野呂教授は失敗の原因を3つ挙げています。その第一はウエスレーの品性や教養の高さが、粗野な植民地の人々に理解されなかった事です。ウエスレーのような人の心の裏に、自分と同じような汚れた動機を想像し、きれいなものを汚してしまわなければ生きていけない人々がいることに、ウエスレーは気がつかなかった事でした。彼は自分の信仰と善行の足りなさを攻め続けていましたが、その事を憂えた友人達の手引きで植民地を脱出しました。第2第3は又の機会にします。

 1738年5月24日の彼の日誌に記されています。ロンドンのアルダスゲイト街のモラヴィア派の雰囲気の強い会合で、ある人が、ルターの書いた「ローマ人への手紙の為の序文」を読んでいた。丁度、ルターが、信仰とは何であり、そして信仰のみが人を義とすると書いてあるあたりに来た時、9時15分前頃第二の回心の経験をしました。彼は続けて日誌に述べます。「私は私の心が不思議に温まるのを覚えた。私は、救われる為に、唯きりストのみに信頼した、と感じた。そして、私の罪をキリストが取り去って下さり、罪と死との律法から私を救って下さったと言う確信が与えられた。・・・そこで、私は、初めて、今、私の心に感じた事柄を、公にそこにいる全ての人々に証ししたのである」この第二の回心が高教会的な教理即ち十字架上の主の贖罪の死と、神によって与えられ神の恵みによって支えられた良い行為によって救われるということから解放されました。

 その確信から、ジョウジアでの失敗を乗り越えて、大酒飲みや荒れた生活をしている人々の生活をウエスレー自身の重荷とした彼の伝道生活が始まり、メソジスト活動が本格化しました。やがてお互いの重荷を担い合う人々が起きてイギリスに魂の大覚醒がおきました。

 6章1~2節。「兄弟達よ、もしある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなた方は、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなた方はキリストの律法を全うするであろう。」かくしてメソジスト運動がおこなわれたのです。

 5節「めいめいが自分の重荷を担うべきです。7節思い違いをしてはいけません。神は、人に侮られる事はありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8節自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9節「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10節ですから、今、時のある間に、全ての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」

 4節「各自で、自分の行いを吟味して見なさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇れないでしょう」ウエスレーが高教会主義の教えに縛られた時には、低い身分の人を愛しているつもりでも良い行いをしていても、自分自身が救われた確信が持てずに苦しみました。しかし第二の回心きよめの経験をしたときすべてを主に委ねた。その時隣人の重荷を担うことができました。

 私たちホーリネスを標榜するからには自分の重荷を担いその上お互いの重荷をも担わなければなりません。隣人の罪穢れを見たときそれを責めるのではなく自分の重荷として取り組むものが、キリスト者でありホーリネス信徒です。

【神に出来ない事は何一つない】 ルカ1章26~38節

2017年12月17日

 父なる神様は御独り子を人とし又全人類の救い主としてこの地上に御遣わしになられる時、御両親に選ばれたのは王候貴族ではなく、一介の大工に過ぎないヨセフと田舎娘のマリアでした。実に神様のその選びは適切でした。

 マタイ1章18~25節「イエスキリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、秘かに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。自分の民を罪から救うからである』この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現す為であった。・・・・・そして、その子をイエスと名付けた。マリアが身ごもっていることを知った時これを表ざたにすると旧約の掟ではマリアは死を覚悟しなければなかった。ヨセフはそれに耐えることが出来なったのでしょう。

 一方神様は,ザカリヤ老夫婦を通して準備をなされました。ルカ1章5~24節ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリヤという人がいた。その妻はアロン(祖先はモーセの兄祭司職の長)家の娘の一人で、エリサベトといった二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを全て守り、非の打ち所がなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼等には子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 さて、ザカリヤは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていた時、祭司職の仕来りによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことに成った。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現われ香壇の右に立った。ザカリヤはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなた妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くに人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、葡萄酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆ろう者に正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」そこで、ザカリヤは天使に言った。「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」天使は答えた。『私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝える為に遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことが出来なくなる。時がくれば実現する私の言葉を信じなかったからである』

 民衆はザカリヤを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリヤはやっと出てきたけれども、話すことが出来なかった。そこで、人々は聖所でまぼろしをみたのだと悟った。ザカリヤは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終って自分の家に帰ってきた。その後、妻エリサベトは身ごもって、5ヶ月の間身を隠していた。「主は今こそ、こうして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました」古来からユダヤ人の間では不妊の女は神の恵みをいただけないと考えていたから彼女は言ったのです。

 6ヶ月目に26~38節天使ガブリエルはナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は彼女のところに来て言った。『オメデトウ、恵まれた方、主があなたと共におられる』マリアはこのこと言葉に戸惑い、一体この挨拶は何のことかと考えこんだ。すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵をいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終ることはない。』マリアは天使に言った「どうしてそのような事がありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神に出来ない事は何一つない』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』(δουλη κυριου主の女奴隷.主を拝し服従する女奴隷。ドウレー キュウリオウ)天使は去って行った。

 39~45節。神様の温かい配慮により、マリアはユダの町にエリサベトを訪ねた。挨拶するとエリサベトの胎内の子がおどった。彼女は声たからかにに言った「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。・・・・・主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」46節以下そこでマリヤは言った。マグニフィカートといわれるマリアの歌が述べられます。

 57~80節この出来事がマリアの信仰を固め救い主イエス様の肉の母として心ぞなえをしました。神様が肉の両親としてヨセフとマリアを選ばれたのは実に正しく最善の道でした。

 聖書は正典(基準、カノンκανον)信仰生活の基準になるものです。音楽では基層的旋律と言われ、ある声部が歌いだした旋律を後続の声部が忠実に模倣しつつ進む曲で輪唱もその一つです。私達の人生も聖書にしたがって恵の旋律をあかしするものでありたいものです。

 ヨハネ15章16節『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた。あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残る為であり、また、あなた方が私の名によって求めるものは何でも,父が与えて下さるためである。』私たちも主に選ばれた者として、それに相応しい実を結び、その実が残るように、主の名によって祈りつつ信仰の道を歩み続けましょう。『神様にはできないことは何一つない』神様には出来ない事は何一つありません。

【霊の結ぶ実と肉の業】 ガラテヤ5章16~25節

2017年12月3日

 私達は自由に生きるために神様に召されています。5章1節「自由を得るために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、・・・」この自由から真実の良い行為と愛の働きが生まれてくるのです。自由とは主体的です。その時正しい決断が出来ます。キリスト者の自由とは「このことをしよう」「このことはすまい」と決断できる者とされた事です。

 5章13節「兄弟達、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。唯、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』と言う一句によって全うされるからです」主に召されて自由になった私達は、「肉の働き」をするのはよそう、「愛をもって互いに仕える」ことにしようと決断する自由を持った者とされたのです。

  肉の働きは、19節~21節に述べられたものです。これらの事は決断して行なうものではありません。畑の雑草のように、油断しているとか不決断の時に繁茂して来ます。「愛を持って互いに仕える」事とは反対です。隣人を心から愛し、これに仕える事は、決心を必要とします。祈りをもって決断しなければ出来ない事です。真実の自由とは自分行くべき道を行くことと何をするかについて決断する事です。

 道徳・:倫理の土台は自由です。戦後自由主義が浸透したが変質しました。自由と愛は表裏をなしているものです。多くの人は他人を愛すると自分が自由でなくなると考えています。14節で律法の全体は、自分を愛するように隣人を愛せよと言うことの一句尽きると述べますが、律法学者の活躍した時代の教師達は旧約の律法を細かく規定し、モーセの十戒を三百六十五の禁止令と二百四十八の命令に直しました。福音書を見てもパリサイ人が度々弟子達の行為を非難してい場面を見ます。

 私たちがキリストのよる自由を持った時お互いに細かいことに言い合わないで同じ方向に進むようになります。律法主義のキリスト者で口やかましい・小言の多い人は自分の生き方が律法学者のそれでないか反省する必要があります。

 19節以下に、肉の働きと御霊の実について具体的に述べています。肉の業は明らかです。ジョンウエスレーは「悪霊に動かされている人は自分は聖霊によって行動しているのだと主張する。そこで悪霊による行動と聖霊による行動とは、その当人らの言葉によって判別できない。それにも拘らず、昼と夜がはっきり分かるように聖霊による働きと、悪霊による業との区別は明らかである。」と言っています。つまり見せかけや言葉で、どんなに善い事らしく振舞っても(悪い事はいつも良いことのように見せ掛けで行なわれるものです)悪い事は自然に私たちに分かるのです。霊の力によって悪は化けの皮を被ったままおれなくなるからです。

 悪の働きは神様によって根こそぎ消滅されます。それに反して主の御霊は私たちを自由にし、その自由な生活を通して必ず実を実らせます。御霊の力は私達の生活の中に良い実を結ばせて下さいます。その良い実こそ律法の目標でもあります。自由なキリスト者はこれらの肉の働き退け、御霊の実を収穫することへと決断します。私たちがキリスト・イエスに属するものあるから十字架によって許され、導かれるものであればこそ出来るのです。私達の肉の思いは十字架の力によってコントロールされます。この福音の真理により、聖霊によって自由に歩むことが真のキリスト者の進む生きた道です。

【律法による献児】 ルカ2章22~40節

2017年11月19日

 出エジプト1章6~9[ヨセフもその兄弟達も、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプト支配し、国民に警告した。・・・そこでエジプト人は、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。22節「ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め、女の子は皆生かしておけ」レビ族の家に男の子が産まれた。家族は彼をパピルスの籠に入れ葦の茂みに隠したが、皇女がその子を見つけてモーセと名付け自分の子として母親に育てさせた。

 モーセは王子として最高の教育を受け、軍の司令官として多くの兵士を動かしていた。40歳の時ヘブル人を助けようとして殺人を犯し、追求を避けて、ミデアンの地に逃れた。その地でエテロの娘と結婚して、エテロの羊飼いをしていた。それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働の故にうめき、叫んだ。その助けを求める叫びを、神は聞きアブラハム、イサク、ヤコブとの契約によってイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。

 彼達を助ける指導者として80年間訓練しておられたモーセを預言者ナービーとして遣わされ兄のアロンが彼に代わって語ることになりました。ファラオの前に立ちイスラエルを奴隷から救わんとして語り始めたが、王は頑なに拒みました。

 神様に命により、アロンの杖を蛇とする。彼等に災いを与えイスラエルを奴隷の身より救い出す事となりました。その災いは、①7章14~23節ナイル川の水が血に変わる。②蛙の災い。③蚋の災い。④アブの災い。⑤疫病の災い。⑥腫れ物の患い。⑦雹の患い。8章26節王は「今度ばかりは間違っていた正しいのは主である、恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。祈ってくれ、あなたたちを去らせよう」モーセが町を出て両手を広げて主に祈った。すると雷や雹もやんだ。王は又もや心をかたくなにして、イスラエルを去らせなかった。⑧イナゴの災い。王の願いで、モーセが祈ると強い西風で海に吹き飛ばされた。王は再び心を頑なにした。⑨暗闇の災い。三日間互いに見ることも出来なかった。彼たちが太陽神を信じていたことに対しての挑戦。王は心を頑なにして、またもや去らせなかった。10章28節、ヘブル人の地には光があった。王が「引き下がれ。二度と私の前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしておかない」と言うと、モーセは答えた。「良くぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません」。

 最後の災い。11章1~3主はモーセに言われた『私は、なおもう一つの災いをパロとエジプトに下す。その後、王はあなた方を去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるが良い』。主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もパロの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。

 モーセは言った。主はこう言われた『真夜中頃、私はエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女の初子まで。又家畜の初子も全て死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることはない』7節「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら人にも家畜にも、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。あなたの家臣はすべて私のもとに下ってきて、《あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください》とひれ伏して頼むでしょう。その後で私は出て行きます」そして、モーセは憤然として王のもとから退出した。

 12章主はモーセとアロンに言われた2~51節。イスラエルの民を神様の命令どおり、聖別された子羊を屠り、その血をヒソプの束を浸して、鴨居と入り口の柱に塗り翌朝まで誰も外に出てはならなかった。私は若いときここを読んでいて入り口の敷居に血を塗らなかった事は、聖なる血を土足で汚してはならないと気づき、私は主の十字架に流された血を汚していないかと慄然とした事は忘れることが出来ません。

 29節真夜中になって主はエジプトの全ての初子を撃たれたが、鴨居に聖なる血が塗られているところは過ぎ越され害はなかった。エジプト中大いなる叫びが起きたので、パロハモーセとアロンを呼び出して言った。「さあ、私の民の中から出てゆくがよい、あなたたちもイスラエルの人々も、あなたたちが願っていたように行って主に仕えるがよい。・・・・・・・36節エジプト人のものを分捕り物とした。

 13章1節主はモーセに仰せられた『全ての初子は聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間では初めに胎を開くものは全て主にささげなければならない・・』

 ルカ2章22節~39節・40親子は主の律法で定められたことを皆終えたので、自分達の町ガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、神の恵みに包まれていた。

 出エジプトの出来事の中でイスラエルが奴隷から救い出される恵に預かったのは聖別された子羊が必要でした。鴨居と柱に塗られた血によって主の使いがその家を過ぎ越して長子を救われた。そして神様のご命令で長子は神にささげることになりました。この鴨居と二本のl柱に塗られた血は十字架に流された主の血の象徴です。これらの事が献児式の謂れです。

【信仰者が進む目標】 ヘブル11章39~12章13節

2017年11月5日

 10月31日は何の日でしょう、多くの方はハロー・ウインとお答えになります。キリスト者でも宗教改革記念日と知らない人もおられます。1517年ルターがウインテンベルグの城教会の扉に95条の論題を張り出して、ローマの教皇の免罪符販売を攻撃し、人は功績によらず信仰のみによって救われると主張して聖書を正しい信仰の唯一の基礎として信仰改革を打ち出した5百年記念日です。これを契機としてヨウロッパが近代化した事はご存知のとおりです。

 ヘブル11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」この信仰は人には本来ないものですが神様に求めると与えられるものです。イエス様は『求めなさい。そうすれば与えられます』とおっしゃいました。さらにヨハネ16章23~24節『・・・はっきり言っておく。(アーメン アーメン αμην αμην)あなた方が私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。ねがいなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる』と具体的に言われました。

 旧約の人々はその信仰の故に神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。彼たちは預言者が語る約束のメシヤ救い主を求めていたが手に入れることが出来ませんでした。11章39~40節「この人たちは全て、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は私達の為に、さらに勝ったものを計画して下さったので、わたしたちを除いては、彼等は完全な状態に達しなかったのです。

 神の一人子を人としてこの世に遣わされ、万人を救うため贖罪の十字架を信じる者に与えてくださった。その流された血によって旧約で約束された救いが実現したのです。12章1節「こういうわけで、わたしたちもまた、この様なおびただしい証人の群れに囲まれて(ネフォウス パプテュローンνεφυσ μαρτνρων証人が雲のように)私たちを囲んでいると述べています。

 私達は多くの主イエス様の救いに預かった信仰の先輩たちに囲まれて見ている前で、一切の重荷と絡みつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの人生の競争を、耐え忍んで走りぬかねばなりません。その目標は信仰の導きてであり、その完成者であるイエス様です。彼は自分の前に置かれている喜びの故に、恥をもいとわないで十字架を忍び・・・

 2~7節 私達は主の十字架によって現在約束を成就していただき完成を目指して先輩方の励ましを受けて人生の荒海を乗り越えてイエス様を目標として歩み続けるのです。この先輩方の中に懐かしい人人を見出します。私達はその方々を記念してここに集まりました。先輩方との主にある交わりと信仰を覚えて感謝します。

【キリスト者の自由】 ガラテヤ5章1~15節

2017年10月15日

 マルティン・ルターの1520年の著書”キリスト者の自由“は、宗教改革の3大著書の一つと言われています。その冒頭に、一見すると矛盾するような命題が提示されています。「キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何者にも隷属していない。キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、全てのものに隷属している」とあります。簡単に言いますと信仰による律法からの自由と、その自由から行なう隣人への愛の自由な奉仕のことを述べているのです。

 パウロはキリスト者の自由を述べるに当って、キリスト者は自由の女の子であることを前提として、5章1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」とキリスト者の自由がキリストから与えられた恵であると述べ、再び律法主義の罠にかかって自由を失い、女奴隷の子供のように奴隷のクビキを負わされてしまう事のないようにと述べるのです。ガラテヤの人々が、現にそのような問題に直面していました。彼等がそうならないよう「しっかり立って・・・」自分の意志ではなく、自由を与えてくださったキリストを信じて信仰によって立つ事です。

 自由は孤立的に得られるものではなく、他者との共鳴的・調和的生活によって得られるものです。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」直訳すると「自由へと我々をキリストは自由にした」となります。キリストと共に生きるところにこそ自由があると強調されています。キリストの愛と理解に包まれて、私達の自由な生活があるのです。

 自由とは本当の自分らしく生活する事です。キリストの十字架の贖いと復活に出会うことによって、本当の自分と言うものが発見されそれによって自由な生活を営むことが出来たのです。だから再び奴隷の子にならないようしっかりしなさいと勧告するのです。自由とはこれらの意味においても、われらは与えられた自由の道を歩く事です。でたらめな勝手気ままな生活をする事ではありません。この自由をコリント前6章12節「わたしたちには、全ての事が許されている。しかし、全ての事が益になるわけではない。」我が道を行くのですから、何を行なうべきか真剣に考えて行動するのです。自由で主体性を確立して自分の意志で行動するのです。

 割礼はキリスト出現以前旧約時代の神の民の目印でした。キリストがおいでになったので割礼の役目は終ったのです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」信仰は愛によって働くものだと言う意味です。中世期のロマ・カトリック教会はこれを「愛によって形成された信仰」となし信仰だけでは駄目だ、善行を私たちが行なうことを加えた信仰でなければならないと唱えました。この節は愛によって働くが主語です。カトリックの言う事は律法主義と同じです。「義人は信仰によって立つべし」のみ言葉に立ったルターがカトリックを改革しなければと聖書に準拠したのは当然です。

 救いと義と自由は同じ意味に取れます。これらをまとめるのが愛です。ルターの「キリスト者の自由」においては、信仰による律法からの自由と、その自由から行なう隣人への愛の自由な奉仕を説きました。それが宗教改革を多くの人々に影響を与えた信仰の書物なのです。グーテンベルクの活版印刷が実用化されて、42行聖書やルターの書物などがドイツ語で出版されて宗教改革に大きな働きをしました。一般民衆が自分達の国語で読むことが出来た事は、今までラテン語のみで筆写されていて一部の人が独占していた書物特に聖書が解放された事は革命的発見でした。このことがプロテスタント信仰の広がりに多いに貢献しました。

【律法の言うことに】 ガラテヤ4章21~31節

2017年10月1日

 「律法の下にいたいと思っている人達、あなた方は律法の言うことに耳を貸さないのですか」とガラテヤの信徒の中のそういう人々に呼びかけます。モーセを通して与えられた律法は、「何々なせ」「何何してはならない」と命じるものです。律法の命令に従うものは「私はそのようにしています」「はい、私はそのような事はしません」と得意になっているのです。律法を守る事よりも、それを行なっている自分自身、神の律法を、自分がいい気持ちにする材料としているだけです。真剣に聖書を読み、祈っておれば律法の下にはいません。

 当時のユダヤ人にとって聖書とは、旧約聖書であり、特に創世記から申命記までをモーセ5書として重んじていました。パウロはここで律法の中でユダヤ人が誇りにしている信仰の父であるアブラハムを引用して、律法主義者のキリスト者にその誤りを指摘するのです。

 神様はアブラハムに『私はあなたに子供を与えその子孫は空の星のように多くなり、その子を通して人々の祝福の基とすると約束されました。』(創世記16章~21章に彼の生涯が書かれています。)

 周りの人々は思ったでしょう。80過ぎたアブラハムと70の妻サラの間に子が生まれるはずがない。アブラハム自身の中にも不安の気持ちに揺れていました。そのときサラの提案で彼女の奴隷ハガルを通して子を設けよと言う事で、息子イシマエルが与えられた。そして14年後にサラに息子イサクが与えられました。

 22節「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビヤではシナイ山の事で、今のエルサレムに当ります。なぜなら今のエルサレムは、その子供達と共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私達の母です。

 パウロはハガル・シナイ山・今のエルサレムと同じように定めている。これから考えると、今のエルサレムは、ユダヤ教の大本山、律法主義の本拠を指しています。今は新しいに対応してやがて過ぎ行くべきと言う意味になります。

 27節「なぜなら、次のように書いてあるからです。イザヤ54章1節28節「喜べ、子を生まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから、」「ところで、兄弟達、あなた方はイサクの場合のように、約束の子です。29節「けれどもあのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行なわれています。」30節『しかし、聖書には何とかいてありますか・《女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由の身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである》と書いてあります。要するに、兄弟達、私達は、女奴隷の子ではなく。自由の身の女から生まれた子なのです。

 5章1節「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

 アブラハムは現実を見て、サラの意見を入れハガルによってイシマエルを得たのです。これは肉の思いであって、神様ガ約束なさった子ではありません。14年後サラに生まれたイサクが神様の約束の子で神の相続人です。創世記22章15節~18節御使いは言った『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたはこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなた子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである』

 人は大きな心配事があると現世的な考えに支配されやすいものです。普段は何時も神様に導きを信じていたアブラハムですが、86歳になっても子が与えられないので妻サラの言葉に従い、ハガルによってイシマエルを得ました。その結果家庭の平和が崩されました。アブラハムはその事を通して悔い改めたのでしょう。神様は約束を実行なさいました、アブラハムが百歳、サラが90歳の時、イサク《笑い》が与えられたのです。

 旧約の深い意味をパウロは述べています。私たちも聖書の深い意味を知るため、旧約を読むときには新約即ちキリストの光で読み、新約を読むとき旧約の神様の語られる言葉と預言をとおしてよむのです。アブラハムの肉の思いが律法主義として教会に紛れ込みました。その彼が神様のみ言葉を信じて義とされ信仰の父とされたことを教訓として信仰生活を送りたいものです。

【なぜ逆戻りするのか】 ガラテヤ4章8~20節

2017年9月17日

 キリスト者は信仰によって義とされ、神の子とされていることを信じていても、激しい試みに打ちのめされ、この自分が神の子であると思えなくなることもあります。神に祈ることさえ出来なくなります。ローマ書8章26節「同様に、“霊”も弱い私たちを助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが”霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです」キリスト者が苦しむ時祈ることも出来ず、うめくだけです、だがそのうめきは「アバ、父よαββ hο πατηρパーテェール」と言う意味のうめきだと。マルチン・ルターは言っています。

 ガラテヤ4章7節「あなた方が子である事は、神が[アッパ、父よ]と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実から分かります」私達は苦しみの極みに、お父様と囁くだけです。主はこの自分に呼びかけている哀れな者、彼の子供であるキリスト者を助けて下さるのです。なぜなら、「アバ、父よ」と我々に祈らしめ助けて下さる事は、聖霊による主ご自身のみ旨であり、御業であるからです。妻の好恵が意識を失う寸前にお父様と祈って召されました。私たちキリスト者は祈る言葉がなくとも、お父様と神様を呼びそれに応えてくださる神様の下にあります。

 8節「あなた方はかって、神を知らず、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」とキリスト・真の神を知らないときの状態を述べます。日本の知識人の多くは無宗教・無神論者であると公言しています。しかし彼達には神があります。それは大学の卒業免状です。出来るだけ有名な大学卒業の肩書き、それがあればこの世をうまく渡って行かれると母親たちは教育に目の色を変えています。教育を重んじているのではありません、免状が神様になっているだけです。形の上では無神論でも、こうゆう神々《家柄、学歴、地位、財産等》にひれ伏しています。そのために神仏を拝み自分の希望が聞き入れられるようにと金銭などをささげ熱心に祈るのです。

 しかし人間が生きるにはそれらのものは必要ではありません。あれば便利ですが、真実の神様によってこそ真実に生きることができるのです。学歴や財産がなくとも人生の海の難破はありません。これらのものを絶対視するのは神でない者を神にする事です。それが偶像です。偶像は目に見えるものだけではありません。私たちに心の中にあり、神でない者を絶対化してそれに支配されている事でもあります。それが偶像です。そのことがマルクスをして、「宗教はアヘン」であると言わしめた理由の一つです。

 ガラテヤの信徒に対して今は神を知り神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りに成らない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めてそれらの奴隷として仕えようとしているのですか、あなた方は、色々な日、月、時節、年などを守っています。又律法主義に戻ろうとしていることに対して強い警告をしています。11節「あなた方のために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなた方のことが心配です。」

 17節「あの者たちがあなた方に対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分達に対して熱心にならせようとしてあなた方をキリストから引き離したいのです。」19節「私の子供達、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」パウロは「アバ、父よ」と叫ぶ苦しみを味わい、そして祈りながらガラテヤの人々にもう一度キリストの下に戻りなさいと強く勧めているのです。

【アッパ、父よ】 ガラテヤ4章1~9節

2017年8月6日

 1954年《昭和20年》8月6日午前8時15分。広島に原子爆弾が投下され、広島全壊、続いて長崎にも投下され、多くの死傷者が出ました。大本営発表では特殊爆弾でしたが私は原子爆弾だと思いました。それは翌日出撃する学徒出身の特攻隊員から仁科研究所で試作中の原子爆弾だが、一発でロスアンジェルスを壊滅できるんだ、自分達はその時間稼ぎだと語っていたので原子爆弾だと直勘したのです。改めて戦争の悲惨さを覚え、70年守ってきた平和を護持しなければならないと決意するものです。この戦いで3百数十万の日本人の犠牲と、侵略した国の数千万人の犠牲によって得た平和であることを忘れてはなりません。

 ガラテヤ書の講解説教を続けています。3章23~24節「信仰が現れる前には、私達は律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係(訓練係。教育係パイダゴーゴスπαιδαγωγοσ)となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。25~26節「しかし、信仰が現れたので、もはや、私達はこの様な養育係の下にはいません。あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。」

 29節[あなた方は、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です]未成年の相続人は相続した全財産を所有していても、元所有者の父親が指定した期日までは、後見人に管理され、または成人した時初めて相続財産を自分の所有とすることが法律で決められています。4章3~5節[同様に私たちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした]

 6節「あなた方が子である事は、神が、『アッパ、父よ』〈Αββ hο πατηρアバ ホ パテール〉と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実からわかります。」アッパはアラム語でイスラエルの人々が社会や家庭で使っていたわが父よと言う意味です、お父さんという普通の言葉です。十字架の前夜ゲッセマネの祈りで主はマルコ14章36節『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください.しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように』子として親しく祈られ時に、アッパは使われています。父よは改まった時に遣うギリシャ語です。叫ぶ〈κραοονクラオン〉は旧約・新約共に神様に声をあげて祈る時に使います。

 9節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」キリストへの信仰が現れるまでは私達は律法の下で監視されこの信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係になったのです。信仰が現れたので養育係の下から離れて、私達は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされたのです。そしてキリストの祝福に預かるものとされました。

 私達は皆、イエス様と同じく『アッパ、父よ』と祈ることが出来るようになったのです。私達は祈る時に、「天のお父様、御名を崇めます」と祈り始めることが出来るように神の子とせられたのです。そして最後に主の名によって祈りを終えるのです。ヨハネ16章23~24節 『はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすればあたえられ、あなたがたは喜びに満たされる』

 「わが父よ、天のお父様」と神様に祈られるのは神の子とせられ神様の相続人とされたキリスト者私達の特権でり。イエス・キリストのみなで祈りを受け入れてもらえるのもキリスト者の特権です。感謝します。

【律法と約束】 ガラテヤ3章15~29節

2017年7月2日

 ここでは律法とイエス・キリストの対照が述べられます。アブラハムは、イスラエル民族の父祖として、ユダヤ教では重要視しています。それは彼が義とされたのは信仰によれる業即ちアブラハムの信仰の功績としての業に対する報酬と考えています。しかしパウロは功績を信仰に対立する概念であると述べています。神から与えられた律法はそれを完全に守った者が義とされるとユダヤ教は考えていますが、律法を完全に守り得る者は一人もいないのでそれは呪いをもたらすものです。12節「律法の定めを果たす者はその定めによって生きる」のです。13節キリストは,わたし達のために呪いとなって私たちを律法の呪いから購いだして下さいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。律法は神様ガイスラエルを愛して正しい道をお示しになったのですが、人々は神の愛は無駄になし律法は呪いとなってしまったのです。

 15節人の作った遺言《διαθηκηディアセーケー契約と訳す場合もある》でさえ、法律的に有効と成ったら、誰も無効にしたり、それに追加したりは出来ません。ところで、神様はアブラハムとその子孫に対して約束を告げられましたが、その際、多くの人を指して、子孫達(σπερηασινスペレアシン複数)にとは言われず一人の人をさして、「あなたの子孫σπερηατιスペレーティ単数」とにと言われています。キリストの事です。神様ガアブラハムに約束なさった恵みと祝福は、キリストに与えられ、イエス様をキリストと告白した者に、その信仰の故に与えられ義と認められるのです。

 私達はこの主からの恵と祝福が与えられたとの信仰によって天幕教会から屋根のある会堂を目指して立ち上がったのです。そのとき与えられた信仰は、ヘブル書11章1節以下です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。~40節。12章「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者又完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこの様な反抗を忍耐された方のことを、良く考えなさい」

 以上のみ言葉の前に、中田兄弟を中心にして、小さくとも先ず屋根のある会堂を建てるか、それとも隣の空き地を手に入れるべきか、祈りながら激しい議論がなされました。最後に私の意見をと言うことになり皆で祈って、私の意見を申し上げました。梅雨に入り天幕教会は限界に来た。隣の土地は欲しい,しかし今は小さくとも会堂が必要です。小さな2階を建てましょう。第二段階として礼拝堂を敷地いっぱい立てましょう。第三段階として主が必要となさるなら隣の土地を与えてくださるでしょう。と述べたところそれを決定として。行動に移ることになりました。1956年6月の事です。

 早速心配して下さっていた、雪谷教会の役員の望月工務店の社長に相談したところ、その資金では本建築どころか仮小屋も無理だがやれるだけやりましょう、不足分は出来た時に支払ってくださいとの言葉を感謝を持って受け取り、7月に着工9月初めには礼拝が守れました。好恵の公立学校の基金からと私の友人からのできたときに返す事と無利息での借用で、工務店の支払いを済ませ、11月にお世話になったシェルトン宣教師の出席を得て、献堂式をおこないました。

 それから61年になります。会堂も狭く感じるようになりました。隣の土地を与えていただき会堂を広げなければ成らないと第三段階になったと感じています。私は60年前の信仰に立ち返らねばならないと強く思っています。主が建てて下さったのですから、私達の信じるとおりになしてくださいます。61年前と同じように。

【キリストに導く養育係とは】 ガラテヤ3章21~29節

2017年7月16日

 22節「しかし、聖書は全ての者を罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」主に対する信仰が現れる前には、律法の下に監視されていたとパウロは言うのです。これは当時の一般のユダヤ人特に律法主義者にとっては思いがけない言葉でした。

 イエス様はルカ18章9節以下に自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、たとえ話をなさった。一人のパリサイ人は「自分を義人と自認して他人を見下していた。自分は律法を守り行なっていたからです。神殿に行って彼は得意になって心の中で祈った。「神様、私はほかの人達のように、奪い取る者、不正な者,姦通を犯す者、又この徴税人のような人間でもないことを感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一を献げています」パウロはこの様な律法主義者は、わたしは他の人間と違うと考えるわたしは自慢するほどきよい者でしょうかと問うのです。イエス様はマルコ12章20~31節[『あなたは隣人を自分のように愛しなさい』この二つに勝る掟は他にはない]と律法学者に答えておられます。パリサイ人は傲慢に他人を見下す罪に陥っています。律法の中の最大のものを破っていることも知らずに、私は義人だなど思っているとは、人事ではありません、私も陥ってしまいます。

 パウロは律法と私達の関係を、牢獄の監視者と囚人のようなものだと言うのです。囚人は法律を守りませんでした。監視人は、この法律の代表者として、囚人を見張っているのです。日本語では法律も律法も違う言葉ですが、聖書では両者共ノモスνομοσです。律法に対して私達はこの囚人と同じです。

 私達は律法に違反している。それを逆用までしている。主の前のパリサイ人のように姦淫しないとか、献金しているとか律法の幾つかを守っているとその形を守っている事で他人を見下し、傷つけ自分は傲慢・高ぶりの罪を犯しているのです.律法は神様が与えてくださった神聖なものです。牢獄に閉じ込められても仕方ないのです。律法の刑罰ですから。

 この牢獄から、監視人の見張りから自由にしてくれるものがあります。信仰がやってきて、私たちを牢獄から出してくれるのです。囚人に恩赦を与えてくれるのです。信仰と言う私達の精神状態ではありません。信仰とは牢獄の扉にお立ちになっておられるイエス・キリストに注目仰ぎ見る事です。このイエス様が罪のくびきから解き離してくださるのです。律法は監視人でなくなり律法は私達の出獄を手をとってよろこんでくれます。

 23~24節「こうして律法の下で監視され、この信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係《παιδαγωγοσパイダゴーゴス》となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。25・26節「しかし、信仰が現れたので、最早、私達はこの様な養育係のもとにはいません。あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」

 民主主義国家の法律は、国民を悪人の悪の手から守るためにあります。刑法で罰する理念は教育刑です。聖書の律法は囚人を牢獄に入れて罪を自覚させ、自由を求める心を与える為に律法が監視人の役目を負うとパウロが言いますが、当時の養育係は、時には鞭を使うことも許されていて、青少年を間違った方向に行かせないように見張っていることが大きな役目でした。彼等が成人すれば養育係は必要がなくなります。

 22節「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」私達は律法を自分に適応させて、イエス様を私の主であると告白する信仰を頂きましょう。

【神を信じて義とされた】 ガラテヤ3章1~14節

2017年6月18日

 ドイツのアウグスティヌス修道院の司祭でヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルチン・ルターは神の義を求めて、聖書を詳しく学び、院長の指導により修行に励んだが疑問が増すばかりでした。ガラテヤ書の講義が終った時、「義人は信仰によって生くべし」と旧約のハバククから引照されている御言葉によって今までの疑問が解決され「95箇条の提題」をヴィッテンベルグ城教会の扉に張り出して宗教改革の運動が1517年10月31日に始まりました。

 ヘブル語のセデクは旧約では正義、公義などと訳されていますが、神学的概念では、旧新約とも”義”です。神の義は旧約時代には、律法によって示されましたが、人間は誰一人、律法の遵守によって救われる者は全くないのです。新約における義は、旧約の”義“を前提とし、特にユダヤ教の〈律法による義〉に対して新しい展開を成しました。それは、イエス・キリストと十字架です。旧約の律法の行為による報いの義に対して、信仰による、神様の賜物としての義が強調されました。神様は義なるδικαοσディカイオス神様であって《神の義》は律法のうちに現れ、人間にその遵守を要求しました。もし律法を行なえば、神の恵みを頂き背反すれば罰を受けるところに神の義がありました。

 《義人》Hο δικαιοσホ・ディカイオスとは、神の意思に従って行為をする者であり、その結果救いが与えられる。それは神様の賜物として与えられるのであって、自分の功績として獲得したものではありません。人間の義は神意に沿った行為により、神様から受ける恵みです。又同時に人の心の中を見て裁く義です。神様は義の神、裁く神です。

 そこで神様は新しい方法、新しい義の啓示によって人を裁くのではなく、救おうとされた。それがイエス・キリストと十字架によって示された神の義です。それは人間の側の行為や功績ではなく、神の一方的な恵によって与えられるものです。キリストが人間の罪を負い、人間に代わって、自らを贖いの犠牲として献げることによって救いを成就されました。

 人間は唯キリストを私の救い主と信じる信仰を持って、恵を戴くことによって、神の義、神の願いが全うされます。義なるキリストを信じることによって、人は義とせられ信仰の義認となるのです。ガラテヤ3章6節《アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。》といわれているとおりです。)

 マルチン・ルターはローマ書、ガラテヤ書、預言者ハバククにより。《義人は信仰によりて生くべし》の御言葉で救われた自覚と義認を認めました。故に乱れた当時の宗教を改革すべく立ち上がったのです。彼はローマ教会を改革しようとしたのですが受け入れられず。プロテスタント教会を発展させたのです。彼の礼拝形式も殆どカトリックと同じです。

 私達一同聖書のみ言葉によって与えられる信仰を見直しましょう。そのため聖書通読を実行しましょう。ローマ1章16節~17節。『私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。《正しい者は(義人)信仰によって生きる》と書いてあるとおりです。』御言葉の力を信じましょう。

【イエス様の御約束】 使徒1章1~14節

2017年6月4日

 著者はルカ福音書を書いたルカです。宛名のテオピロはBC3世紀頃から使われた文学形式で『神に愛された者』(キリスト者全員を指す)の意です。ルカ(光を与える)は医者であり、ポウロの同労者であり歴史家で神学者であった。

 イエス様は十字架刑の前夜ヨハネ14章~16章の告別説教の中で、14章16『助け主(パラクレイトスπαρακλητοσ)、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、全て思い起こさせるであろう』と言われました。

 ルカは復活なさったイエス様が40日間確かに生きておられることを確かな事を証拠によって示し、神の国のことを語られた主イエス様。そして食事を共にしている時、彼等にお命じになった。『エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているが良い。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』と言いなさった。ところが弟子達は旧約の思想から抜け切らず、イエス様に尋ねています。『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』との的外れの問いに『・・・ただ、聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』こう言い終わると、イエス様は彼等の見ている前で天にひきあげられました。彼等はオリブの丘から下ってエルサレムの屋上の間に上がった。

 14節彼等はみな婦人達、特にイエスの母マリヤ、及びイエス様の兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。2章1節「五旬節の日が来て。みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現われ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした」。(旧約では風・息は聖霊を表す場合が多い)

 6節「この物音に大勢の人が集まってきて、彼等の生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、誰も彼も聞いてあっけに取られた。驚き怪しんで言った、(見よ、今話している人たちは、皆ガリラヤ人ではないかそれだのに、私たちがそれぞれ、生まれ故郷の国語を彼等から聞かされるとは、一体どうしたことか。・・・・・・ユダヤ人と改宗者、クレネ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々が私達の国語で、神の大きな働きを述べるのをきくとは、どうゆうわけだろう)」

 14節ペテロが11人の者と共に立ち上がり、声を上げて人々にかたりかけた「ユダヤの人達、ならびにエルサレムに住むすべての方々、・・・・・32節このイエスを、神は甦らせた。私達は皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである。この事は、あなた方が現に見聞きしている通りである。・・・・・だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てに成ったのである。」

 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロや外の使徒達に、「兄弟達よ、私達は、どうしたらよいのですか」と言った。するとペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しに預かるすべてのもの、すなわちあなたがたと、あなた方の子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」ペテロは、ほかになお多くの言葉で証しをなし、ひとびとに「この曲がった時代から救われよ」といって勧めた。そこで、彼の勧めを受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わった者が三千人ほどあった。

 そして一同はひたすら、使徒達の教えを守り、信徒の交わりを成し、共にパンをさき、祈りをしていた。教会の誕生です。

 聖霊降臨で教会が誕生して約二千年になりますが。現在の教団・教会は初代教会のように聖霊に導かれ信徒の愛の交わりがあるでしょうか,組織は出来ましたがそれだけで良いのでしょうか。今私たちに必要なのは聖霊の賜物を受ける事です。それが愛に満ちた真実な元住吉キリスト教会を立て直す事になるのです。

【聖霊の働き聖化】 ピリピ2章1~11節

2017年5月21日

 三位一体の神様は私たちの歴史に臨まれました。旧約聖書の時代にはヤァウェの神として父なる神様が臨まれました。父なる神様は先を見通されて、モーセをパロ王の、娘の子として40年間最高の学問と訓練を施された。その後ミディアンの地のレウエルの羊を飼う仕事をして40年間自然の中で神様と出会い、神様の命によってエジプトで奴隷として苦しみ助けを求める神の選民イスラエルを奴隷から引き出さし、約束の地へと導かせなさった。ところが人類は罪の故に神様から離れる者が多くあった。それで、

 子なる神様を世に人間として遣わし彼を通して人類を救わんとなさった。ピリピ2章6節「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず。かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず。おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」イエス様を完全な人間としてこの世に送られました。ペテロ前1章15・16「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。『聖書に「私が聖なるものであるから、あなた方も聖なる者になるべきである。」と述べられ私たちキリストに倣う者は、主のように聖別(hαγιοσハギオス)されなければならないと言われているのです。

 このことについて、主イエス様が聖書の中で最長の告別説教をなさいました。(ヨハネ14章~16章)17章において主が去られた後の弟子達をご心配なさり、彼達のために執り成しのお祈りをなさいました。12節『私が彼等と一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護して、まいりました。・・・15節私がお願いするのは、彼等を世から取り去ることではなく、彼等を悪しきものから守って下さる事であります。私が世のものでないように、彼等も世のものではありません。真理によって彼等を聖別してください。あなたのみ言葉は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、私は彼等を世につかわしました。・・・

 又彼等が真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします。  {εγω}hαγιαζω εμαυτον。{エゴー}ハギアゾオ エパウトン。イエス様の愛の力が彼達のうちになければ、世に遣わされてもその使命を果たす事は彼達にはできません。彼たちが真理(神様のみ言葉即ちイエス様ご自身)によって聖別されるように、自らを大祭司として又世の罪を取り除く神の子羊として、その罪のない完全な人間を死に渡して、ご自身を聖別なされました。

 旧約において祭司は動物の犠牲の生け贄をささげる前に自分自身を聖別しました。しかし新しい契約は、罪のない大祭司イエス様が、人格的霊的な生け贄として、汚れのないご自身の命をささげご自身を聖別なさいました。それ故に弟子達が真理のみ言葉によって聖別されるのです。

 私たちホーリネスの信徒はこのことを心に焼き付けなければ成りません。『彼らが真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします』と主が私たちのためお祈りになってゴルゴダの丘の十字架に向って進まれたことは感謝の一言では済まされません。私自身が聖霊のバプテスマを拝領し聖別された私を、神様にささげるより他ありません。

【聖霊に教えられる私たち】 ヨハネ14頌15~31節

2017年5月7日

 教会学校の4年生の時でした。日ごろから疑問に感じていたことを、水口牧師に尋ねました。それは12弟子がイエス様と3年間も共にいたのに、イエス様の話された事もその御業の意味も分かっていなかったことと、十字架の主の前から逃げた弟子達が、急に弟子達の本来の奉仕に戻ったのはどうゆう事ですか。と問いかけたのです。「聖書にイエス様が語っておられるから聖書を読みなさい」がその答えです。聖書の疑問は聖書を読めば分かるが、常に質問に対することの答えでしたが、この度はイエス様が語られたと言われたので福音書に答えはあるなと読み始めました。

 早速マタイ伝の系図で引っ掛かりました。牧師から聖書は分からないところは飛ばして先を読みなさいと言われていたので、先に進みました。マタイ・マルコ・ルカ福音書と読み進みヨハネも読み始めてもなかなか出てきません。十字架前夜の弟子達に対する告別の遺言的説教にいたり、ここになければ何処にあるんだと不安を感じながら読みすすめるとありました。私は思わず『在った』と叫びました。そして夜の10時を過ぎていましたが、教会へと走りました。扉は開いていました。私は二階に向って「牧師さん分かりました」と叫ぶと、「上にあがって来なさい」と言われたのであがりますと、テイブルの上にヨハネ14章が開かれてありました。そこで解説して下さいました。煎餅と御茶と御言葉を味わい感謝して帰宅しました。(母が開いてあった聖書の箇所を水口牧師に連絡してあったのでした)

 歩きながら牧師は私に聖書のみ言葉に従う道を具体的に経験させて下さったのだと子供ながらも理解しました。これが私の生涯を神様の方へと導く道しるべとなりました。私は牧師になって以来、皆様に聖書の通読をお勧め続けました。その際分からない所で止まる事なく読み続けるようにと付け加えました。私が70数年実行した方法です。イエス様が聖霊について詳しくお話になったのは最後の説教です。

 14章15~17節『もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである。私は父にお願いしよう。そうすれば父は別に助け主パラクレイトスπαρακλητοσ(弁護者・慰め主・御霊・カウンセラーとも訳す)を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。これは真理の御霊である。・・・・・それはあなた方と共におり、またあなたがたのうちにいるからである。』26節『助け主、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。』弟子達がイエス様の御使命、御業、語られた深い意味など、聖霊が彼達に臨むまでは、十分に理解できていませんでした。

 15章26節『私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主、即ち、父のもとから来る真理の御霊が下る時、それは私について証しをするであろう。あなた方も、初めから私と一緒にいたのであるから、あかしをするのである』イエス様と3年も一緒にいた弟子達は聖霊に教えられなければ真理もイエス様のことも知ることができなかったのです。

 聖書もイエス様のみ言葉も人間の知恵では深く知る事は、不可能である事はよくわかりました。16章7~13節『私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところには助け主は来ないであろう。・・・・・』『真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう・・・・』

 主イエスのお招きに応じ、全てを捨てて従い、3年間も共に歩んだ12弟子達がイエス様のみ業、語られた意味も深く理解できなかったのは人間には無理からぬことでした。彼たちが聖霊に教えられ導かれて始めてイエス様の十字架・復活等御使命が分かったのです。聖霊降臨日を境として彼たちは変わり真理の道を歩み始めたのです。

 私は牧師からイエス様のことばを知るには聖書読むことだと示され、福音書を読み始めたとき、聖霊がヨハネ14章~17章を教示されました。それ以来聖書は自分の知恵で読むのではなく、祈りつつ御霊に導かれるように注意しています。(テモテ第二 3章16節~17節 (『聖書は、全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良い業に対して十分な準備が出来て、完全に整えられた者になるのである』)さもなければ、主の再臨のときキリストの前に立つことができません。歯噛みして悔しがっても手遅れです。私たちは聖霊を求め、聖霊に導かれた日々を送らねばなりません。