【信仰の人アブラハムと共に祝福される人々】 ガラテヤ3章1~14節

2017年2月26日

 パウロは、律法を理解させる為にアブラハムを登場させます.アブラハムは諸国民の父であり、その子イサクを通してしてイスラエルの祖先です。また、子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされています。ユダヤ人はアブラハムを父と仰ぎ先祖としているので彼を通して、ユダヤ人の律法主義者やそれに追従するガリラヤの律法主義者に影響が強さによって語っているのです。

 このアブラハムは個人的信仰に生きた人です。7節『だから信仰によって生きる人こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8節『聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたの故に異邦人(諸国民とも訳す)は皆祝福される』と予告されたのです。彼は個人的信仰に生きた人でしたが、また、創世記22章22章17~18節『あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。』と主はアブラハムに言われた。

 さらにガラテヤ3章14節「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ為であり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によってうけるためでした。6節『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。アブラハムが神を信じた事は多くありますが、二つ上げて彼が信仰の父と言われる理由を述べます。

 創世記12章1~4節主はアブラムに言われた。『あなた生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたが祝福する人を私は祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。これは大変な旅です。数千の羊を中心とした家畜とその世話をする牧童と家族、ロトの家畜と家族など、しかも何処に行くかわからづの旅です。神様の示す地へと山越え、大河を渡るのです。アブラムは神を信じていたからこそカナンの地に到着したのです。7節主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』アブラムは、彼に現れた主の為に、そこに祭壇を築いた。

 22章1~19節神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つのやまにのぼり、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向って行った。三日目にその場所に到着した。この間のアブラハムの心の中の葛藤を、キルケゴールが著書の中で述べているのを20代の時読んで、実存哲学にはまり込みました。(当時カウンセリングはロージャスの理論が中心でしたがカウンセリングを行い、実施して見ますと表面的な解決しか出来ず根本的な問題の解決に悩んでいた時、ヴィクトル・フランクルのロゴセラピー{実存分析}出会いこれを中心としてカウンセリングを行い良い結果を得ました。)

 アブラハムは自問自答を繰り返すのです。人間を犠牲にささげよと命じたのは神様でなくサタンではないか、しかし確かに神様の言葉であった。神様は私の子孫を祝福すると言われたがイサクを犠牲にささげたら、神様の御約束はどうなるのだ。イサクを愛するが故に神様の心が理解できない。いや神様の御約束は間違いない等々悩んでいる内にモリヤの山に着いてしまった。

 アブラハムは若者二人を残して、薪をイサクに背負わせ、自分は火と刃物を持って二人は歩いて行った。7~12節イサクは「私のお父さん」と呼びかけ「火と薪はここにありますが、犠牲の子羊は何処にいるのですか」との問いに父は「私の子よささげ物の子羊はきっと神がそえてくださる」と三日間悩み苦しんだその信仰を告白し神に従う決心を伝えたのでしょう。イサクも父の信仰と同じように神様を信じたのです。恐らく百十歳を越えたアブラハムには少年イサクを縛り薪の上に乗せる事は不可能な事です。イサクは神様が必ずよきにして下さると、自分自身で薪の上に横たわったのでしょう。アブラハムが刃物を取り息子を屠ろうとした時。

 天から主のみ使いが「その子に手を下すな、何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」彼の後ろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。彼は雄羊を息子の代わりに焼き尽くす献げものとしてささげた。 
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備え下さる)と名付けた。そこで人々とは今日でも「主の山に備えあり(イスラエル)と言っている。

 アブラハムは神様の命によってハランの地を信仰を持って神の示す地に、出発したのが75歳、イサクをモリヤの山でささげる信仰の行為、そして百75年の生涯を終え、マクベラの洞穴に妻サラと共にイサクとイシマエルによって葬られた。

 アブラハムは常に神様の声に従った。それ故に信仰によって儀とされた模範なのですパウロは律法主義者に。律法では救われないと、我らの父祖アブラハムは信仰によって義とされたと述べているのです。

 私達は幸いなことに聖書が在り、聖霊の導きにより神様の御声を聞くことが出来ます。その御言葉を信じて従うものを、その信仰にとって義とされるのです。

【我キリストと共に十字架につけられたり】 ガラテヤ2章15~21節

2017年2月5日

 小学1年生の修身の教科書に「キグチコヘイハ シンデモ クチカラ ラッパヲハナシマセンデシタ」当時1年生はカタカナ2年生でひらがなを習いました。勅語・公文書・六法全書はすべて片仮名でした。2・3年後には 国語の教科書の1頁は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」私たちのときに国定国語の教科書が改訂されて「サイタ サイタ サクラガサイタ」1年生から全学科、桜の花のように美しく潔く散れと、国の為に死ぬことが正しい生き方だと洗脳され、国のそして天皇の為に死ぬことが人生の目的とされました。当時の日本人の平均寿命は50歳でした。私たちは20・2・3歳が死ぬ時だから太く短く生きようと、お互い話し合ったものです。

 20歳が徴兵年齢でしたが1944年昭和19年に18歳まで引き下げられ、私たちは卒業まで徴兵延期でしたが、それも取り消され、軍隊に入隊、トンネル陣地を補強守備していました。フィリピンのクラーク基地から日曜日以外の日には定期的に戦闘機が来て陣地を機銃掃射し、時には小型爆弾を落としますのでいつも死と隣り合わせている感じでした。脳裏の片隅にはいつも死がありました。その時でした。

 「我は神に生きんために、おきてによりておきてに死にたり。我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは、我を愛してわがために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」このみ言葉を読みました。これは日曜学校2年生の時覚えた豆カードの御言葉です。意味は山里牧師の奥様の説明でなんとなく分かりました。私は陣地でポケット聖書を読んでいる時にこのみ言葉に再び出会い、私の死に対する疑問は解けました。パウロは自分の経験をはっきり語るために『我は』εγωエゴを使用しています。通常は動詞にωをつけます例えばアガパオー セオス私は神を愛すαγαπω σεοσです。

 イエス様が十字架の贖いを成就なさるまでは、ガラテヤ3章23~25節「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、最早、この様な養育係の下にはいません。」旧約のおきてを完全に守った人のみが救われるのですが、人間には律法を完全に守ることは不可能に近い事です。

 父なる神様は私たち人類を愛して御子を遣わされ、十字架の主をキリスト救い主と信じる者をお救いになったのです。パウロはその事を、『我はεγωエゴ神に生きんために、律法によって律法に死んだ』律法はキリストが来られるまでは養育係りでした。キリストが来られるまで私達の養育者であった律法に死んだ。そのことによって律法との関係がなくなり、律法の支配から離れられ、神様の支配下に置かれたことが神に生きることでした。律法によって死んだことは、キリストと共に十字架につけられた事です。私は死に直面して十字架で死んで、主と共に甦ってこのどん底の中でも生きているんだと信じることが出来たのです。

 あの状態の中で神がすべてをよきになしたもう(ローマ8章20節)とはと祈りの中で問いかけた時、このみ言葉で主との出会いが出来ました。洗礼の恵にあずかった時雨上がりの濁った川の中に沈められ引き上げられた肉体の経験が信仰として生きたのです。今私が生きているのは神様の御一人子が私の為に十字架の上で血を流され肉を裂かれた。その主が私のうちで生きておられるのだと信じた時の感謝は忘れることはありません。私は死のそして今生きている意味を実感しました。

 私はこのことを忘れないように毎年のように皆様に証しすると共に、兄弟姉妹が自分εγωの証しをしていただきたいと切に願っているのです。