2017年4月2日
生物の中で人間だけが祈る慣習を持っています。1テサロニケ5章23節「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全くきよめて下さるように、また、あなたがたの霊πνευμαプニュウマと心φυχηプシュケとからだσωμαソーマとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」。霊と心とからだについては機会をみて述べます。
心の世界と体は動物のレベルです。人間は万物の霊長と言われているように霊的存在です。祈ることができるのは霊を備えている人間しか出来ない行為です。他の生物は心と体を持つのみです。蛇足ですが神の国には動物は一匹もいません。
教会に何年通っても祈りは聞かれませんとの嘆きの声を、60年余りの牧会生活で数多く聞かされました。信仰生活は祈祷が中心ですよと答えることが多くありました。私はいつも祈りの模範・聞かれる祈りはゲッパセネにおける主のお祈りだと信じています。
ルカ22章41~42節ひざまずいて、祈って言われた。『父よ、み心ならば、どうぞ、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の思いではなく、みこころが成るようにしてください』。43せつ・・・44節イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そしてその汗が血の滴りのように地に落ちた。45節イエスは祈りを終えて立ち上がられた。私達は汗をしたたせるほど切に祈ったでしょうか。祈って確信して立ったでしょうか。
主は明日の十字架に対する人間としての苦痛を避けたいとの願いを祈られました。しかし、私の思いでではなく御心がなるようにしてくださいと祈っておられます。私たちは汗を滴り落とすほど祈ったでしょうか。自分の願いだけでなくそれ以上に神のみこころが成されるように祈ったしょうか、祈りの神聖な場で神様を召使のように自分の希望を押し付けていないでしょうか。
主は最後の説教の中で三度も述べられている御言葉があります。ヨハネ14章13節『私の名によって願う事は、何でもかなえてあげよう』。15章16節。16章23~24節『・・・・よくよく(αμηνアーメン)あなた方に言っておく、あなた方が父に求めるものは何でも、私の名によって下さるであろう。今までは、私の名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば。与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう』。と、諭されています。
イエス様を私の救い主キリストと真に信じているならば、イエス様の全人格・神性・全存在を認め信じるのです。それが主のみ名を信じ、その御名によって祈るいみです。以上のことによって神様に祈りが受け入れられる道が明らかになりました。
切に祈り主を信じて御心を成し給えと主に申し上げた祈りは必ず受け入れていただけます。直ちに、その祈りが受け入れられることも在りますが、時間を隔てて祈りが聞かれることもあります。信じて待つことが大事です。信仰生活の大事なことはこの信じて待つ事です。この待つ事を主に訓練していただくことを忘れてはなりません。
私たちが祈祷の最後に主の名前で祈る事はキリスト教の仕来りではありません。『私の名によって、求めなさい、そうすれば与えられるであろう、そして喜びが満ち溢れるであろう』とのご遺言を信じてお祈りをしめるのです。