【キリストに導く養育係とは】 ガラテヤ3章21~29節

2017年7月16日

 22節「しかし、聖書は全ての者を罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」主に対する信仰が現れる前には、律法の下に監視されていたとパウロは言うのです。これは当時の一般のユダヤ人特に律法主義者にとっては思いがけない言葉でした。

 イエス様はルカ18章9節以下に自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、たとえ話をなさった。一人のパリサイ人は「自分を義人と自認して他人を見下していた。自分は律法を守り行なっていたからです。神殿に行って彼は得意になって心の中で祈った。「神様、私はほかの人達のように、奪い取る者、不正な者,姦通を犯す者、又この徴税人のような人間でもないことを感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一を献げています」パウロはこの様な律法主義者は、わたしは他の人間と違うと考えるわたしは自慢するほどきよい者でしょうかと問うのです。イエス様はマルコ12章20~31節[『あなたは隣人を自分のように愛しなさい』この二つに勝る掟は他にはない]と律法学者に答えておられます。パリサイ人は傲慢に他人を見下す罪に陥っています。律法の中の最大のものを破っていることも知らずに、私は義人だなど思っているとは、人事ではありません、私も陥ってしまいます。

 パウロは律法と私達の関係を、牢獄の監視者と囚人のようなものだと言うのです。囚人は法律を守りませんでした。監視人は、この法律の代表者として、囚人を見張っているのです。日本語では法律も律法も違う言葉ですが、聖書では両者共ノモスνομοσです。律法に対して私達はこの囚人と同じです。

 私達は律法に違反している。それを逆用までしている。主の前のパリサイ人のように姦淫しないとか、献金しているとか律法の幾つかを守っているとその形を守っている事で他人を見下し、傷つけ自分は傲慢・高ぶりの罪を犯しているのです.律法は神様が与えてくださった神聖なものです。牢獄に閉じ込められても仕方ないのです。律法の刑罰ですから。

 この牢獄から、監視人の見張りから自由にしてくれるものがあります。信仰がやってきて、私たちを牢獄から出してくれるのです。囚人に恩赦を与えてくれるのです。信仰と言う私達の精神状態ではありません。信仰とは牢獄の扉にお立ちになっておられるイエス・キリストに注目仰ぎ見る事です。このイエス様が罪のくびきから解き離してくださるのです。律法は監視人でなくなり律法は私達の出獄を手をとってよろこんでくれます。

 23~24節「こうして律法の下で監視され、この信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係《παιδαγωγοσパイダゴーゴス》となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。25・26節「しかし、信仰が現れたので、最早、私達はこの様な養育係のもとにはいません。あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」

 民主主義国家の法律は、国民を悪人の悪の手から守るためにあります。刑法で罰する理念は教育刑です。聖書の律法は囚人を牢獄に入れて罪を自覚させ、自由を求める心を与える為に律法が監視人の役目を負うとパウロが言いますが、当時の養育係は、時には鞭を使うことも許されていて、青少年を間違った方向に行かせないように見張っていることが大きな役目でした。彼等が成人すれば養育係は必要がなくなります。

 22節「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」私達は律法を自分に適応させて、イエス様を私の主であると告白する信仰を頂きましょう。