【キリスト者の自由】 ガラテヤ5章1~15節

2017年10月15日

 マルティン・ルターの1520年の著書”キリスト者の自由“は、宗教改革の3大著書の一つと言われています。その冒頭に、一見すると矛盾するような命題が提示されています。「キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何者にも隷属していない。キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、全てのものに隷属している」とあります。簡単に言いますと信仰による律法からの自由と、その自由から行なう隣人への愛の自由な奉仕のことを述べているのです。

 パウロはキリスト者の自由を述べるに当って、キリスト者は自由の女の子であることを前提として、5章1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」とキリスト者の自由がキリストから与えられた恵であると述べ、再び律法主義の罠にかかって自由を失い、女奴隷の子供のように奴隷のクビキを負わされてしまう事のないようにと述べるのです。ガラテヤの人々が、現にそのような問題に直面していました。彼等がそうならないよう「しっかり立って・・・」自分の意志ではなく、自由を与えてくださったキリストを信じて信仰によって立つ事です。

 自由は孤立的に得られるものではなく、他者との共鳴的・調和的生活によって得られるものです。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」直訳すると「自由へと我々をキリストは自由にした」となります。キリストと共に生きるところにこそ自由があると強調されています。キリストの愛と理解に包まれて、私達の自由な生活があるのです。

 自由とは本当の自分らしく生活する事です。キリストの十字架の贖いと復活に出会うことによって、本当の自分と言うものが発見されそれによって自由な生活を営むことが出来たのです。だから再び奴隷の子にならないようしっかりしなさいと勧告するのです。自由とはこれらの意味においても、われらは与えられた自由の道を歩く事です。でたらめな勝手気ままな生活をする事ではありません。この自由をコリント前6章12節「わたしたちには、全ての事が許されている。しかし、全ての事が益になるわけではない。」我が道を行くのですから、何を行なうべきか真剣に考えて行動するのです。自由で主体性を確立して自分の意志で行動するのです。

 割礼はキリスト出現以前旧約時代の神の民の目印でした。キリストがおいでになったので割礼の役目は終ったのです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」信仰は愛によって働くものだと言う意味です。中世期のロマ・カトリック教会はこれを「愛によって形成された信仰」となし信仰だけでは駄目だ、善行を私たちが行なうことを加えた信仰でなければならないと唱えました。この節は愛によって働くが主語です。カトリックの言う事は律法主義と同じです。「義人は信仰によって立つべし」のみ言葉に立ったルターがカトリックを改革しなければと聖書に準拠したのは当然です。

 救いと義と自由は同じ意味に取れます。これらをまとめるのが愛です。ルターの「キリスト者の自由」においては、信仰による律法からの自由と、その自由から行なう隣人への愛の自由な奉仕を説きました。それが宗教改革を多くの人々に影響を与えた信仰の書物なのです。グーテンベルクの活版印刷が実用化されて、42行聖書やルターの書物などがドイツ語で出版されて宗教改革に大きな働きをしました。一般民衆が自分達の国語で読むことが出来た事は、今までラテン語のみで筆写されていて一部の人が独占していた書物特に聖書が解放された事は革命的発見でした。このことがプロテスタント信仰の広がりに多いに貢献しました。

【律法の言うことに】 ガラテヤ4章21~31節

2017年10月1日

 「律法の下にいたいと思っている人達、あなた方は律法の言うことに耳を貸さないのですか」とガラテヤの信徒の中のそういう人々に呼びかけます。モーセを通して与えられた律法は、「何々なせ」「何何してはならない」と命じるものです。律法の命令に従うものは「私はそのようにしています」「はい、私はそのような事はしません」と得意になっているのです。律法を守る事よりも、それを行なっている自分自身、神の律法を、自分がいい気持ちにする材料としているだけです。真剣に聖書を読み、祈っておれば律法の下にはいません。

 当時のユダヤ人にとって聖書とは、旧約聖書であり、特に創世記から申命記までをモーセ5書として重んじていました。パウロはここで律法の中でユダヤ人が誇りにしている信仰の父であるアブラハムを引用して、律法主義者のキリスト者にその誤りを指摘するのです。

 神様はアブラハムに『私はあなたに子供を与えその子孫は空の星のように多くなり、その子を通して人々の祝福の基とすると約束されました。』(創世記16章~21章に彼の生涯が書かれています。)

 周りの人々は思ったでしょう。80過ぎたアブラハムと70の妻サラの間に子が生まれるはずがない。アブラハム自身の中にも不安の気持ちに揺れていました。そのときサラの提案で彼女の奴隷ハガルを通して子を設けよと言う事で、息子イシマエルが与えられた。そして14年後にサラに息子イサクが与えられました。

 22節「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビヤではシナイ山の事で、今のエルサレムに当ります。なぜなら今のエルサレムは、その子供達と共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私達の母です。

 パウロはハガル・シナイ山・今のエルサレムと同じように定めている。これから考えると、今のエルサレムは、ユダヤ教の大本山、律法主義の本拠を指しています。今は新しいに対応してやがて過ぎ行くべきと言う意味になります。

 27節「なぜなら、次のように書いてあるからです。イザヤ54章1節28節「喜べ、子を生まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから、」「ところで、兄弟達、あなた方はイサクの場合のように、約束の子です。29節「けれどもあのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行なわれています。」30節『しかし、聖書には何とかいてありますか・《女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由の身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである》と書いてあります。要するに、兄弟達、私達は、女奴隷の子ではなく。自由の身の女から生まれた子なのです。

 5章1節「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

 アブラハムは現実を見て、サラの意見を入れハガルによってイシマエルを得たのです。これは肉の思いであって、神様ガ約束なさった子ではありません。14年後サラに生まれたイサクが神様の約束の子で神の相続人です。創世記22章15節~18節御使いは言った『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたはこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなた子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである』

 人は大きな心配事があると現世的な考えに支配されやすいものです。普段は何時も神様に導きを信じていたアブラハムですが、86歳になっても子が与えられないので妻サラの言葉に従い、ハガルによってイシマエルを得ました。その結果家庭の平和が崩されました。アブラハムはその事を通して悔い改めたのでしょう。神様は約束を実行なさいました、アブラハムが百歳、サラが90歳の時、イサク《笑い》が与えられたのです。

 旧約の深い意味をパウロは述べています。私たちも聖書の深い意味を知るため、旧約を読むときには新約即ちキリストの光で読み、新約を読むとき旧約の神様の語られる言葉と預言をとおしてよむのです。アブラハムの肉の思いが律法主義として教会に紛れ込みました。その彼が神様のみ言葉を信じて義とされ信仰の父とされたことを教訓として信仰生活を送りたいものです。