2017年10月1日
「律法の下にいたいと思っている人達、あなた方は律法の言うことに耳を貸さないのですか」とガラテヤの信徒の中のそういう人々に呼びかけます。モーセを通して与えられた律法は、「何々なせ」「何何してはならない」と命じるものです。律法の命令に従うものは「私はそのようにしています」「はい、私はそのような事はしません」と得意になっているのです。律法を守る事よりも、それを行なっている自分自身、神の律法を、自分がいい気持ちにする材料としているだけです。真剣に聖書を読み、祈っておれば律法の下にはいません。
当時のユダヤ人にとって聖書とは、旧約聖書であり、特に創世記から申命記までをモーセ5書として重んじていました。パウロはここで律法の中でユダヤ人が誇りにしている信仰の父であるアブラハムを引用して、律法主義者のキリスト者にその誤りを指摘するのです。
神様はアブラハムに『私はあなたに子供を与えその子孫は空の星のように多くなり、その子を通して人々の祝福の基とすると約束されました。』(創世記16章~21章に彼の生涯が書かれています。)
周りの人々は思ったでしょう。80過ぎたアブラハムと70の妻サラの間に子が生まれるはずがない。アブラハム自身の中にも不安の気持ちに揺れていました。そのときサラの提案で彼女の奴隷ハガルを通して子を設けよと言う事で、息子イシマエルが与えられた。そして14年後にサラに息子イサクが与えられました。
22節「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビヤではシナイ山の事で、今のエルサレムに当ります。なぜなら今のエルサレムは、その子供達と共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私達の母です。
パウロはハガル・シナイ山・今のエルサレムと同じように定めている。これから考えると、今のエルサレムは、ユダヤ教の大本山、律法主義の本拠を指しています。今は新しいに対応してやがて過ぎ行くべきと言う意味になります。
27節「なぜなら、次のように書いてあるからです。イザヤ54章1節28節「喜べ、子を生まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから、」「ところで、兄弟達、あなた方はイサクの場合のように、約束の子です。29節「けれどもあのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行なわれています。」30節『しかし、聖書には何とかいてありますか・《女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由の身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである》と書いてあります。要するに、兄弟達、私達は、女奴隷の子ではなく。自由の身の女から生まれた子なのです。
5章1節「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
アブラハムは現実を見て、サラの意見を入れハガルによってイシマエルを得たのです。これは肉の思いであって、神様ガ約束なさった子ではありません。14年後サラに生まれたイサクが神様の約束の子で神の相続人です。創世記22章15節~18節御使いは言った『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたはこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなた子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである』
人は大きな心配事があると現世的な考えに支配されやすいものです。普段は何時も神様に導きを信じていたアブラハムですが、86歳になっても子が与えられないので妻サラの言葉に従い、ハガルによってイシマエルを得ました。その結果家庭の平和が崩されました。アブラハムはその事を通して悔い改めたのでしょう。神様は約束を実行なさいました、アブラハムが百歳、サラが90歳の時、イサク《笑い》が与えられたのです。
旧約の深い意味をパウロは述べています。私たちも聖書の深い意味を知るため、旧約を読むときには新約即ちキリストの光で読み、新約を読むとき旧約の神様の語られる言葉と預言をとおしてよむのです。アブラハムの肉の思いが律法主義として教会に紛れ込みました。その彼が神様のみ言葉を信じて義とされ信仰の父とされたことを教訓として信仰生活を送りたいものです。