【霊の結ぶ実と肉の業】 ガラテヤ5章16~25節

2017年12月3日

 私達は自由に生きるために神様に召されています。5章1節「自由を得るために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、・・・」この自由から真実の良い行為と愛の働きが生まれてくるのです。自由とは主体的です。その時正しい決断が出来ます。キリスト者の自由とは「このことをしよう」「このことはすまい」と決断できる者とされた事です。

 5章13節「兄弟達、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。唯、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』と言う一句によって全うされるからです」主に召されて自由になった私達は、「肉の働き」をするのはよそう、「愛をもって互いに仕える」ことにしようと決断する自由を持った者とされたのです。

  肉の働きは、19節~21節に述べられたものです。これらの事は決断して行なうものではありません。畑の雑草のように、油断しているとか不決断の時に繁茂して来ます。「愛を持って互いに仕える」事とは反対です。隣人を心から愛し、これに仕える事は、決心を必要とします。祈りをもって決断しなければ出来ない事です。真実の自由とは自分行くべき道を行くことと何をするかについて決断する事です。

 道徳・:倫理の土台は自由です。戦後自由主義が浸透したが変質しました。自由と愛は表裏をなしているものです。多くの人は他人を愛すると自分が自由でなくなると考えています。14節で律法の全体は、自分を愛するように隣人を愛せよと言うことの一句尽きると述べますが、律法学者の活躍した時代の教師達は旧約の律法を細かく規定し、モーセの十戒を三百六十五の禁止令と二百四十八の命令に直しました。福音書を見てもパリサイ人が度々弟子達の行為を非難してい場面を見ます。

 私たちがキリストのよる自由を持った時お互いに細かいことに言い合わないで同じ方向に進むようになります。律法主義のキリスト者で口やかましい・小言の多い人は自分の生き方が律法学者のそれでないか反省する必要があります。

 19節以下に、肉の働きと御霊の実について具体的に述べています。肉の業は明らかです。ジョンウエスレーは「悪霊に動かされている人は自分は聖霊によって行動しているのだと主張する。そこで悪霊による行動と聖霊による行動とは、その当人らの言葉によって判別できない。それにも拘らず、昼と夜がはっきり分かるように聖霊による働きと、悪霊による業との区別は明らかである。」と言っています。つまり見せかけや言葉で、どんなに善い事らしく振舞っても(悪い事はいつも良いことのように見せ掛けで行なわれるものです)悪い事は自然に私たちに分かるのです。霊の力によって悪は化けの皮を被ったままおれなくなるからです。

 悪の働きは神様によって根こそぎ消滅されます。それに反して主の御霊は私たちを自由にし、その自由な生活を通して必ず実を実らせます。御霊の力は私達の生活の中に良い実を結ばせて下さいます。その良い実こそ律法の目標でもあります。自由なキリスト者はこれらの肉の働き退け、御霊の実を収穫することへと決断します。私たちがキリスト・イエスに属するものあるから十字架によって許され、導かれるものであればこそ出来るのです。私達の肉の思いは十字架の力によってコントロールされます。この福音の真理により、聖霊によって自由に歩むことが真のキリスト者の進む生きた道です。