【律法と約束】 ガラテヤ3章15~29節

2017年7月2日

 ここでは律法とイエス・キリストの対照が述べられます。アブラハムは、イスラエル民族の父祖として、ユダヤ教では重要視しています。それは彼が義とされたのは信仰によれる業即ちアブラハムの信仰の功績としての業に対する報酬と考えています。しかしパウロは功績を信仰に対立する概念であると述べています。神から与えられた律法はそれを完全に守った者が義とされるとユダヤ教は考えていますが、律法を完全に守り得る者は一人もいないのでそれは呪いをもたらすものです。12節「律法の定めを果たす者はその定めによって生きる」のです。13節キリストは,わたし達のために呪いとなって私たちを律法の呪いから購いだして下さいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。律法は神様ガイスラエルを愛して正しい道をお示しになったのですが、人々は神の愛は無駄になし律法は呪いとなってしまったのです。

 15節人の作った遺言《διαθηκηディアセーケー契約と訳す場合もある》でさえ、法律的に有効と成ったら、誰も無効にしたり、それに追加したりは出来ません。ところで、神様はアブラハムとその子孫に対して約束を告げられましたが、その際、多くの人を指して、子孫達(σπερηασινスペレアシン複数)にとは言われず一人の人をさして、「あなたの子孫σπερηατιスペレーティ単数」とにと言われています。キリストの事です。神様ガアブラハムに約束なさった恵みと祝福は、キリストに与えられ、イエス様をキリストと告白した者に、その信仰の故に与えられ義と認められるのです。

 私達はこの主からの恵と祝福が与えられたとの信仰によって天幕教会から屋根のある会堂を目指して立ち上がったのです。そのとき与えられた信仰は、ヘブル書11章1節以下です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。~40節。12章「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者又完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこの様な反抗を忍耐された方のことを、良く考えなさい」

 以上のみ言葉の前に、中田兄弟を中心にして、小さくとも先ず屋根のある会堂を建てるか、それとも隣の空き地を手に入れるべきか、祈りながら激しい議論がなされました。最後に私の意見をと言うことになり皆で祈って、私の意見を申し上げました。梅雨に入り天幕教会は限界に来た。隣の土地は欲しい,しかし今は小さくとも会堂が必要です。小さな2階を建てましょう。第二段階として礼拝堂を敷地いっぱい立てましょう。第三段階として主が必要となさるなら隣の土地を与えてくださるでしょう。と述べたところそれを決定として。行動に移ることになりました。1956年6月の事です。

 早速心配して下さっていた、雪谷教会の役員の望月工務店の社長に相談したところ、その資金では本建築どころか仮小屋も無理だがやれるだけやりましょう、不足分は出来た時に支払ってくださいとの言葉を感謝を持って受け取り、7月に着工9月初めには礼拝が守れました。好恵の公立学校の基金からと私の友人からのできたときに返す事と無利息での借用で、工務店の支払いを済ませ、11月にお世話になったシェルトン宣教師の出席を得て、献堂式をおこないました。

 それから61年になります。会堂も狭く感じるようになりました。隣の土地を与えていただき会堂を広げなければ成らないと第三段階になったと感じています。私は60年前の信仰に立ち返らねばならないと強く思っています。主が建てて下さったのですから、私達の信じるとおりになしてくださいます。61年前と同じように。