【聖霊の働き聖化】 ピリピ2章1~11節

2017年5月21日

 三位一体の神様は私たちの歴史に臨まれました。旧約聖書の時代にはヤァウェの神として父なる神様が臨まれました。父なる神様は先を見通されて、モーセをパロ王の、娘の子として40年間最高の学問と訓練を施された。その後ミディアンの地のレウエルの羊を飼う仕事をして40年間自然の中で神様と出会い、神様の命によってエジプトで奴隷として苦しみ助けを求める神の選民イスラエルを奴隷から引き出さし、約束の地へと導かせなさった。ところが人類は罪の故に神様から離れる者が多くあった。それで、

 子なる神様を世に人間として遣わし彼を通して人類を救わんとなさった。ピリピ2章6節「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず。かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず。おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」イエス様を完全な人間としてこの世に送られました。ペテロ前1章15・16「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。『聖書に「私が聖なるものであるから、あなた方も聖なる者になるべきである。」と述べられ私たちキリストに倣う者は、主のように聖別(hαγιοσハギオス)されなければならないと言われているのです。

 このことについて、主イエス様が聖書の中で最長の告別説教をなさいました。(ヨハネ14章~16章)17章において主が去られた後の弟子達をご心配なさり、彼達のために執り成しのお祈りをなさいました。12節『私が彼等と一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護して、まいりました。・・・15節私がお願いするのは、彼等を世から取り去ることではなく、彼等を悪しきものから守って下さる事であります。私が世のものでないように、彼等も世のものではありません。真理によって彼等を聖別してください。あなたのみ言葉は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、私は彼等を世につかわしました。・・・

 又彼等が真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします。  {εγω}hαγιαζω εμαυτον。{エゴー}ハギアゾオ エパウトン。イエス様の愛の力が彼達のうちになければ、世に遣わされてもその使命を果たす事は彼達にはできません。彼たちが真理(神様のみ言葉即ちイエス様ご自身)によって聖別されるように、自らを大祭司として又世の罪を取り除く神の子羊として、その罪のない完全な人間を死に渡して、ご自身を聖別なされました。

 旧約において祭司は動物の犠牲の生け贄をささげる前に自分自身を聖別しました。しかし新しい契約は、罪のない大祭司イエス様が、人格的霊的な生け贄として、汚れのないご自身の命をささげご自身を聖別なさいました。それ故に弟子達が真理のみ言葉によって聖別されるのです。

 私たちホーリネスの信徒はこのことを心に焼き付けなければ成りません。『彼らが真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします』と主が私たちのためお祈りになってゴルゴダの丘の十字架に向って進まれたことは感謝の一言では済まされません。私自身が聖霊のバプテスマを拝領し聖別された私を、神様にささげるより他ありません。

【聖霊に教えられる私たち】 ヨハネ14頌15~31節

2017年5月7日

 教会学校の4年生の時でした。日ごろから疑問に感じていたことを、水口牧師に尋ねました。それは12弟子がイエス様と3年間も共にいたのに、イエス様の話された事もその御業の意味も分かっていなかったことと、十字架の主の前から逃げた弟子達が、急に弟子達の本来の奉仕に戻ったのはどうゆう事ですか。と問いかけたのです。「聖書にイエス様が語っておられるから聖書を読みなさい」がその答えです。聖書の疑問は聖書を読めば分かるが、常に質問に対することの答えでしたが、この度はイエス様が語られたと言われたので福音書に答えはあるなと読み始めました。

 早速マタイ伝の系図で引っ掛かりました。牧師から聖書は分からないところは飛ばして先を読みなさいと言われていたので、先に進みました。マタイ・マルコ・ルカ福音書と読み進みヨハネも読み始めてもなかなか出てきません。十字架前夜の弟子達に対する告別の遺言的説教にいたり、ここになければ何処にあるんだと不安を感じながら読みすすめるとありました。私は思わず『在った』と叫びました。そして夜の10時を過ぎていましたが、教会へと走りました。扉は開いていました。私は二階に向って「牧師さん分かりました」と叫ぶと、「上にあがって来なさい」と言われたのであがりますと、テイブルの上にヨハネ14章が開かれてありました。そこで解説して下さいました。煎餅と御茶と御言葉を味わい感謝して帰宅しました。(母が開いてあった聖書の箇所を水口牧師に連絡してあったのでした)

 歩きながら牧師は私に聖書のみ言葉に従う道を具体的に経験させて下さったのだと子供ながらも理解しました。これが私の生涯を神様の方へと導く道しるべとなりました。私は牧師になって以来、皆様に聖書の通読をお勧め続けました。その際分からない所で止まる事なく読み続けるようにと付け加えました。私が70数年実行した方法です。イエス様が聖霊について詳しくお話になったのは最後の説教です。

 14章15~17節『もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである。私は父にお願いしよう。そうすれば父は別に助け主パラクレイトスπαρακλητοσ(弁護者・慰め主・御霊・カウンセラーとも訳す)を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。これは真理の御霊である。・・・・・それはあなた方と共におり、またあなたがたのうちにいるからである。』26節『助け主、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。』弟子達がイエス様の御使命、御業、語られた深い意味など、聖霊が彼達に臨むまでは、十分に理解できていませんでした。

 15章26節『私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主、即ち、父のもとから来る真理の御霊が下る時、それは私について証しをするであろう。あなた方も、初めから私と一緒にいたのであるから、あかしをするのである』イエス様と3年も一緒にいた弟子達は聖霊に教えられなければ真理もイエス様のことも知ることができなかったのです。

 聖書もイエス様のみ言葉も人間の知恵では深く知る事は、不可能である事はよくわかりました。16章7~13節『私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところには助け主は来ないであろう。・・・・・』『真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう・・・・』

 主イエスのお招きに応じ、全てを捨てて従い、3年間も共に歩んだ12弟子達がイエス様のみ業、語られた意味も深く理解できなかったのは人間には無理からぬことでした。彼たちが聖霊に教えられ導かれて始めてイエス様の十字架・復活等御使命が分かったのです。聖霊降臨日を境として彼たちは変わり真理の道を歩み始めたのです。

 私は牧師からイエス様のことばを知るには聖書読むことだと示され、福音書を読み始めたとき、聖霊がヨハネ14章~17章を教示されました。それ以来聖書は自分の知恵で読むのではなく、祈りつつ御霊に導かれるように注意しています。(テモテ第二 3章16節~17節 (『聖書は、全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良い業に対して十分な準備が出来て、完全に整えられた者になるのである』)さもなければ、主の再臨のときキリストの前に立つことができません。歯噛みして悔しがっても手遅れです。私たちは聖霊を求め、聖霊に導かれた日々を送らねばなりません。