【イエス様の御約束】 使徒1章1~14節

2017年6月4日

 著者はルカ福音書を書いたルカです。宛名のテオピロはBC3世紀頃から使われた文学形式で『神に愛された者』(キリスト者全員を指す)の意です。ルカ(光を与える)は医者であり、ポウロの同労者であり歴史家で神学者であった。

 イエス様は十字架刑の前夜ヨハネ14章~16章の告別説教の中で、14章16『助け主(パラクレイトスπαρακλητοσ)、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、全て思い起こさせるであろう』と言われました。

 ルカは復活なさったイエス様が40日間確かに生きておられることを確かな事を証拠によって示し、神の国のことを語られた主イエス様。そして食事を共にしている時、彼等にお命じになった。『エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているが良い。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』と言いなさった。ところが弟子達は旧約の思想から抜け切らず、イエス様に尋ねています。『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』との的外れの問いに『・・・ただ、聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』こう言い終わると、イエス様は彼等の見ている前で天にひきあげられました。彼等はオリブの丘から下ってエルサレムの屋上の間に上がった。

 14節彼等はみな婦人達、特にイエスの母マリヤ、及びイエス様の兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。2章1節「五旬節の日が来て。みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現われ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした」。(旧約では風・息は聖霊を表す場合が多い)

 6節「この物音に大勢の人が集まってきて、彼等の生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、誰も彼も聞いてあっけに取られた。驚き怪しんで言った、(見よ、今話している人たちは、皆ガリラヤ人ではないかそれだのに、私たちがそれぞれ、生まれ故郷の国語を彼等から聞かされるとは、一体どうしたことか。・・・・・・ユダヤ人と改宗者、クレネ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々が私達の国語で、神の大きな働きを述べるのをきくとは、どうゆうわけだろう)」

 14節ペテロが11人の者と共に立ち上がり、声を上げて人々にかたりかけた「ユダヤの人達、ならびにエルサレムに住むすべての方々、・・・・・32節このイエスを、神は甦らせた。私達は皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである。この事は、あなた方が現に見聞きしている通りである。・・・・・だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てに成ったのである。」

 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロや外の使徒達に、「兄弟達よ、私達は、どうしたらよいのですか」と言った。するとペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しに預かるすべてのもの、すなわちあなたがたと、あなた方の子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」ペテロは、ほかになお多くの言葉で証しをなし、ひとびとに「この曲がった時代から救われよ」といって勧めた。そこで、彼の勧めを受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わった者が三千人ほどあった。

 そして一同はひたすら、使徒達の教えを守り、信徒の交わりを成し、共にパンをさき、祈りをしていた。教会の誕生です。

 聖霊降臨で教会が誕生して約二千年になりますが。現在の教団・教会は初代教会のように聖霊に導かれ信徒の愛の交わりがあるでしょうか,組織は出来ましたがそれだけで良いのでしょうか。今私たちに必要なのは聖霊の賜物を受ける事です。それが愛に満ちた真実な元住吉キリスト教会を立て直す事になるのです。

【聖霊の働き聖化】 ピリピ2章1~11節

2017年5月21日

 三位一体の神様は私たちの歴史に臨まれました。旧約聖書の時代にはヤァウェの神として父なる神様が臨まれました。父なる神様は先を見通されて、モーセをパロ王の、娘の子として40年間最高の学問と訓練を施された。その後ミディアンの地のレウエルの羊を飼う仕事をして40年間自然の中で神様と出会い、神様の命によってエジプトで奴隷として苦しみ助けを求める神の選民イスラエルを奴隷から引き出さし、約束の地へと導かせなさった。ところが人類は罪の故に神様から離れる者が多くあった。それで、

 子なる神様を世に人間として遣わし彼を通して人類を救わんとなさった。ピリピ2章6節「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず。かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず。おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」イエス様を完全な人間としてこの世に送られました。ペテロ前1章15・16「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。『聖書に「私が聖なるものであるから、あなた方も聖なる者になるべきである。」と述べられ私たちキリストに倣う者は、主のように聖別(hαγιοσハギオス)されなければならないと言われているのです。

 このことについて、主イエス様が聖書の中で最長の告別説教をなさいました。(ヨハネ14章~16章)17章において主が去られた後の弟子達をご心配なさり、彼達のために執り成しのお祈りをなさいました。12節『私が彼等と一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護して、まいりました。・・・15節私がお願いするのは、彼等を世から取り去ることではなく、彼等を悪しきものから守って下さる事であります。私が世のものでないように、彼等も世のものではありません。真理によって彼等を聖別してください。あなたのみ言葉は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、私は彼等を世につかわしました。・・・

 又彼等が真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします。  {εγω}hαγιαζω εμαυτον。{エゴー}ハギアゾオ エパウトン。イエス様の愛の力が彼達のうちになければ、世に遣わされてもその使命を果たす事は彼達にはできません。彼たちが真理(神様のみ言葉即ちイエス様ご自身)によって聖別されるように、自らを大祭司として又世の罪を取り除く神の子羊として、その罪のない完全な人間を死に渡して、ご自身を聖別なされました。

 旧約において祭司は動物の犠牲の生け贄をささげる前に自分自身を聖別しました。しかし新しい契約は、罪のない大祭司イエス様が、人格的霊的な生け贄として、汚れのないご自身の命をささげご自身を聖別なさいました。それ故に弟子達が真理のみ言葉によって聖別されるのです。

 私たちホーリネスの信徒はこのことを心に焼き付けなければ成りません。『彼らが真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします』と主が私たちのためお祈りになってゴルゴダの丘の十字架に向って進まれたことは感謝の一言では済まされません。私自身が聖霊のバプテスマを拝領し聖別された私を、神様にささげるより他ありません。

【聖霊に教えられる私たち】 ヨハネ14頌15~31節

2017年5月7日

 教会学校の4年生の時でした。日ごろから疑問に感じていたことを、水口牧師に尋ねました。それは12弟子がイエス様と3年間も共にいたのに、イエス様の話された事もその御業の意味も分かっていなかったことと、十字架の主の前から逃げた弟子達が、急に弟子達の本来の奉仕に戻ったのはどうゆう事ですか。と問いかけたのです。「聖書にイエス様が語っておられるから聖書を読みなさい」がその答えです。聖書の疑問は聖書を読めば分かるが、常に質問に対することの答えでしたが、この度はイエス様が語られたと言われたので福音書に答えはあるなと読み始めました。

 早速マタイ伝の系図で引っ掛かりました。牧師から聖書は分からないところは飛ばして先を読みなさいと言われていたので、先に進みました。マタイ・マルコ・ルカ福音書と読み進みヨハネも読み始めてもなかなか出てきません。十字架前夜の弟子達に対する告別の遺言的説教にいたり、ここになければ何処にあるんだと不安を感じながら読みすすめるとありました。私は思わず『在った』と叫びました。そして夜の10時を過ぎていましたが、教会へと走りました。扉は開いていました。私は二階に向って「牧師さん分かりました」と叫ぶと、「上にあがって来なさい」と言われたのであがりますと、テイブルの上にヨハネ14章が開かれてありました。そこで解説して下さいました。煎餅と御茶と御言葉を味わい感謝して帰宅しました。(母が開いてあった聖書の箇所を水口牧師に連絡してあったのでした)

 歩きながら牧師は私に聖書のみ言葉に従う道を具体的に経験させて下さったのだと子供ながらも理解しました。これが私の生涯を神様の方へと導く道しるべとなりました。私は牧師になって以来、皆様に聖書の通読をお勧め続けました。その際分からない所で止まる事なく読み続けるようにと付け加えました。私が70数年実行した方法です。イエス様が聖霊について詳しくお話になったのは最後の説教です。

 14章15~17節『もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである。私は父にお願いしよう。そうすれば父は別に助け主パラクレイトスπαρακλητοσ(弁護者・慰め主・御霊・カウンセラーとも訳す)を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。これは真理の御霊である。・・・・・それはあなた方と共におり、またあなたがたのうちにいるからである。』26節『助け主、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。』弟子達がイエス様の御使命、御業、語られた深い意味など、聖霊が彼達に臨むまでは、十分に理解できていませんでした。

 15章26節『私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主、即ち、父のもとから来る真理の御霊が下る時、それは私について証しをするであろう。あなた方も、初めから私と一緒にいたのであるから、あかしをするのである』イエス様と3年も一緒にいた弟子達は聖霊に教えられなければ真理もイエス様のことも知ることができなかったのです。

 聖書もイエス様のみ言葉も人間の知恵では深く知る事は、不可能である事はよくわかりました。16章7~13節『私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところには助け主は来ないであろう。・・・・・』『真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう・・・・』

 主イエスのお招きに応じ、全てを捨てて従い、3年間も共に歩んだ12弟子達がイエス様のみ業、語られた意味も深く理解できなかったのは人間には無理からぬことでした。彼たちが聖霊に教えられ導かれて始めてイエス様の十字架・復活等御使命が分かったのです。聖霊降臨日を境として彼たちは変わり真理の道を歩み始めたのです。

 私は牧師からイエス様のことばを知るには聖書読むことだと示され、福音書を読み始めたとき、聖霊がヨハネ14章~17章を教示されました。それ以来聖書は自分の知恵で読むのではなく、祈りつつ御霊に導かれるように注意しています。(テモテ第二 3章16節~17節 (『聖書は、全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良い業に対して十分な準備が出来て、完全に整えられた者になるのである』)さもなければ、主の再臨のときキリストの前に立つことができません。歯噛みして悔しがっても手遅れです。私たちは聖霊を求め、聖霊に導かれた日々を送らねばなりません。

【私の名によって願いなさい】 ヨハネ14章13~31節

2017年4月2日

 生物の中で人間だけが祈る慣習を持っています。1テサロニケ5章23節「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全くきよめて下さるように、また、あなたがたの霊πνευμαプニュウマと心φυχηプシュケとからだσωμαソーマとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」。霊と心とからだについては機会をみて述べます。

 心の世界と体は動物のレベルです。人間は万物の霊長と言われているように霊的存在です。祈ることができるのは霊を備えている人間しか出来ない行為です。他の生物は心と体を持つのみです。蛇足ですが神の国には動物は一匹もいません。

 教会に何年通っても祈りは聞かれませんとの嘆きの声を、60年余りの牧会生活で数多く聞かされました。信仰生活は祈祷が中心ですよと答えることが多くありました。私はいつも祈りの模範・聞かれる祈りはゲッパセネにおける主のお祈りだと信じています。

 ルカ22章41~42節ひざまずいて、祈って言われた。『父よ、み心ならば、どうぞ、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の思いではなく、みこころが成るようにしてください』。43せつ・・・44節イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そしてその汗が血の滴りのように地に落ちた。45節イエスは祈りを終えて立ち上がられた。私達は汗をしたたせるほど切に祈ったでしょうか。祈って確信して立ったでしょうか。

 主は明日の十字架に対する人間としての苦痛を避けたいとの願いを祈られました。しかし、私の思いでではなく御心がなるようにしてくださいと祈っておられます。私たちは汗を滴り落とすほど祈ったでしょうか。自分の願いだけでなくそれ以上に神のみこころが成されるように祈ったしょうか、祈りの神聖な場で神様を召使のように自分の希望を押し付けていないでしょうか。

 主は最後の説教の中で三度も述べられている御言葉があります。ヨハネ14章13節『私の名によって願う事は、何でもかなえてあげよう』。15章16節。16章23~24節『・・・・よくよく(αμηνアーメン)あなた方に言っておく、あなた方が父に求めるものは何でも、私の名によって下さるであろう。今までは、私の名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば。与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう』。と、諭されています。

 イエス様を私の救い主キリストと真に信じているならば、イエス様の全人格・神性・全存在を認め信じるのです。それが主のみ名を信じ、その御名によって祈るいみです。以上のことによって神様に祈りが受け入れられる道が明らかになりました。

 切に祈り主を信じて御心を成し給えと主に申し上げた祈りは必ず受け入れていただけます。直ちに、その祈りが受け入れられることも在りますが、時間を隔てて祈りが聞かれることもあります。信じて待つことが大事です。信仰生活の大事なことはこの信じて待つ事です。この待つ事を主に訓練していただくことを忘れてはなりません。

 私たちが祈祷の最後に主の名前で祈る事はキリスト教の仕来りではありません。『私の名によって、求めなさい、そうすれば与えられるであろう、そして喜びが満ち溢れるであろう』とのご遺言を信じてお祈りをしめるのです。

【私は道であり 真理であり 命である】 ヨハネ14章1~14節

2017年3月26日

 私は受難節のときに、特別に強く迫る御言葉があります。ヨハネ14章~17章の最後の説教、弟子達にたいしての執り成しのお祈りと、ルカ22章39~46節のゲッセマネのお祈りです。

 14章5節トマスはイエスに言った、「主よ何処においでになるのか、私達にはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、『私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない』

 ウイルダマス師のヨハネ伝の講義の中で、この書の特徴は『私は・・・である』との主のみ言葉が多いことだとその数を言われました。これが米国流の聖書を学ぶ方法かと感心したこと鮮やかに覚えています。Εγω ειμι hη hδοσ και hη αληθεια και hη ζωη、エゴ エイミ ヘー ホドス カイ へー アレーセイア カイ へー ゾーエー。私は・・・である。道であり、真理であり、命である。エイミである。このエゴ エイミが70余りヨハネ伝にあると聞いておどろきました。

 日本では神々・仏教の御本尊に至る道は幾つかあります。修行・難行苦行・善行・念仏を唱える等等。例えれば富士山頂に至るには登山口が幾つかあるが到着するのは一つそこに至るには幾つかの道があるのです。普通に言う道路はすべての道はローマに通じると言われるが、ローマ人は古代世界の土木工事の大仕事人達でした。帝国の首都ローマは四通発達の道路によって属州と繋がる一大帝国を作りました。キリスト教が急発展したのはローマ人の道路管理によること大であったと言っても良いほどです。

 聖書の示す道は生活の仕方、慣習、行為、態度などに用いられています。悪の者の道、正しい者の道、平和の道、命の道、人の道、即ち人の究極の道は神を目標としていると言うのです。主は私を通して以外には誰も父にいたる事はできないと言われ、主御自身が神に至る道であると言われているのです。キリスト教は全生涯をかけて神の方向に進むのであるからその教えを唯一の道と言われているのです。ヘブル書10章19・20節「私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることが出来、彼の肉体なる幕をとおり、私たちのために開いて下さった新しい生きた道を通って、入ってゆくことができるのである」。とイエス様の死と復活なさったことによって開かれた神に至る道について語っています。

 神に至る道を歩むものは、イエス様の十字架の道、復活の道を歩む者です。真理をいただき永遠の命に預かるのです。

【正しい者は信仰によりて生きる】 ガラテヤ3章1~14節

2017年3月5日

 「アブラハムは神を信じた。それで彼は義とみとめられた。」と旧新約聖書が語っていることを述べました。本日は聖書には登場していない人物、信仰によって義とされた宗教改革者マルチン・ルターを取り上げます。

 彼は1483年鉱山業を営む、ハンス・ルターの次男として出生。父は鉱夫から身をおこし上昇志向深く、炭鉱主になった。子供達にも上を目指すよう常に要求していました。マルチンは父の願いにそって勉学に励み、1501年父の希望通りなるべくエアフルト大学に入学、哲学を学びエリトコースに乗るように見えた。父の望みは彼が法律家になることでしたのでロースクル法学校に入った。1505年家から大学に向う途中、草原で激しい雷雨に打たれ、神様に助けを求め修道士になることを誓った。彼は両親の反対にあったが大学を離れエアフルトのアウグスチヌス修道会に入った。

 修道生活の中で聖書を深く読むようになり、自分の弱く小さな人間であることを自覚しました。彼は熱心に修道生活を送り祈りをささげても平安が得られず悩みの中にありました。エルフルトで神学・哲学を教えていたが、出来たばかりのウイッテンブルク大学に移って哲学と神学・聖書を教えました。彼を離れない悩みは学問・理性では神を知ることが困難であることの理解しました。

 ルターの心を捉えて離さなかったのは『神の義』の思想でした。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力しできるだけの善功を行なったとしても、神の前で義である正しいと確実に言うことが出来ない自分を見たのです。そのとき突如、光を受けたように聖書が述べる信仰によってのみ義とされる。あのハバクク2章4節・ローマ1章17節ガラテヤ3章6節『義人は信仰によって生くべし』『正しい者は信仰によって生きる』人間を義とするのは神の恵みであるとの知り信じたのです。

 ルターは新しい光にあって福音・聖書を読み直す事によって、人間は義とされることを信じました。『正しいものは信仰によって生きる』かってあれほど彼を苦しめた『神の義』を見直したことによって神による平安をうることが出来たのです。

 そのときイタリヤの金融業メヂイチ家の番頭テェチェルがサン・ペェトロ大聖堂建設献金として免罪符を大々的に売り込んでいました。ドイツの大衆は彼の献金箱に金貨がチャリンと音を立てた瞬間魂は天国にはいるとの弁舌さわやかに説く言葉に、民衆は大金を叩いていた。ルターはそれに反対して人間が善功によって神に義とされるという発想は間違いであるとしました。

 彼は大学でガラテヤ書の講義が終った直後、1517年10月31日、95ヵ条の論題を発表して、ここに宗教改革の幕が切って落とされました。丁度そのときグーテンベルクが鋳型によって活字を鋳造し活版印刷を考案しました。最初の作品がルター訳42行聖書でした。それまではラテン語の聖書でしたので一般の人は聖書を読むことが出来ませんでした。ドイツ語での聖書を一般の人々が読めるようになったので、ルターの「信仰によってのみ人は神に義と認められる」ことを大衆は知りました。

 プロテスタントの聖書による信仰がその中心となり現在に至ったのです。律法によらず信仰によった神から与えられる恵みはアブラハムの生涯だけでなく、神を信じる者すべて与えられることをルターは聖書を通して自分の経験によって証ししたのです。

【信仰の人アブラハムと共に祝福される人々】 ガラテヤ3章1~14節

2017年2月26日

 パウロは、律法を理解させる為にアブラハムを登場させます.アブラハムは諸国民の父であり、その子イサクを通してしてイスラエルの祖先です。また、子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされています。ユダヤ人はアブラハムを父と仰ぎ先祖としているので彼を通して、ユダヤ人の律法主義者やそれに追従するガリラヤの律法主義者に影響が強さによって語っているのです。

 このアブラハムは個人的信仰に生きた人です。7節『だから信仰によって生きる人こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8節『聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたの故に異邦人(諸国民とも訳す)は皆祝福される』と予告されたのです。彼は個人的信仰に生きた人でしたが、また、創世記22章22章17~18節『あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。』と主はアブラハムに言われた。

 さらにガラテヤ3章14節「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ為であり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によってうけるためでした。6節『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。アブラハムが神を信じた事は多くありますが、二つ上げて彼が信仰の父と言われる理由を述べます。

 創世記12章1~4節主はアブラムに言われた。『あなた生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたが祝福する人を私は祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。これは大変な旅です。数千の羊を中心とした家畜とその世話をする牧童と家族、ロトの家畜と家族など、しかも何処に行くかわからづの旅です。神様の示す地へと山越え、大河を渡るのです。アブラムは神を信じていたからこそカナンの地に到着したのです。7節主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』アブラムは、彼に現れた主の為に、そこに祭壇を築いた。

 22章1~19節神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つのやまにのぼり、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向って行った。三日目にその場所に到着した。この間のアブラハムの心の中の葛藤を、キルケゴールが著書の中で述べているのを20代の時読んで、実存哲学にはまり込みました。(当時カウンセリングはロージャスの理論が中心でしたがカウンセリングを行い、実施して見ますと表面的な解決しか出来ず根本的な問題の解決に悩んでいた時、ヴィクトル・フランクルのロゴセラピー{実存分析}出会いこれを中心としてカウンセリングを行い良い結果を得ました。)

 アブラハムは自問自答を繰り返すのです。人間を犠牲にささげよと命じたのは神様でなくサタンではないか、しかし確かに神様の言葉であった。神様は私の子孫を祝福すると言われたがイサクを犠牲にささげたら、神様の御約束はどうなるのだ。イサクを愛するが故に神様の心が理解できない。いや神様の御約束は間違いない等々悩んでいる内にモリヤの山に着いてしまった。

 アブラハムは若者二人を残して、薪をイサクに背負わせ、自分は火と刃物を持って二人は歩いて行った。7~12節イサクは「私のお父さん」と呼びかけ「火と薪はここにありますが、犠牲の子羊は何処にいるのですか」との問いに父は「私の子よささげ物の子羊はきっと神がそえてくださる」と三日間悩み苦しんだその信仰を告白し神に従う決心を伝えたのでしょう。イサクも父の信仰と同じように神様を信じたのです。恐らく百十歳を越えたアブラハムには少年イサクを縛り薪の上に乗せる事は不可能な事です。イサクは神様が必ずよきにして下さると、自分自身で薪の上に横たわったのでしょう。アブラハムが刃物を取り息子を屠ろうとした時。

 天から主のみ使いが「その子に手を下すな、何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」彼の後ろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。彼は雄羊を息子の代わりに焼き尽くす献げものとしてささげた。 
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備え下さる)と名付けた。そこで人々とは今日でも「主の山に備えあり(イスラエル)と言っている。

 アブラハムは神様の命によってハランの地を信仰を持って神の示す地に、出発したのが75歳、イサクをモリヤの山でささげる信仰の行為、そして百75年の生涯を終え、マクベラの洞穴に妻サラと共にイサクとイシマエルによって葬られた。

 アブラハムは常に神様の声に従った。それ故に信仰によって儀とされた模範なのですパウロは律法主義者に。律法では救われないと、我らの父祖アブラハムは信仰によって義とされたと述べているのです。

 私達は幸いなことに聖書が在り、聖霊の導きにより神様の御声を聞くことが出来ます。その御言葉を信じて従うものを、その信仰にとって義とされるのです。

【我キリストと共に十字架につけられたり】 ガラテヤ2章15~21節

2017年2月5日

 小学1年生の修身の教科書に「キグチコヘイハ シンデモ クチカラ ラッパヲハナシマセンデシタ」当時1年生はカタカナ2年生でひらがなを習いました。勅語・公文書・六法全書はすべて片仮名でした。2・3年後には 国語の教科書の1頁は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」私たちのときに国定国語の教科書が改訂されて「サイタ サイタ サクラガサイタ」1年生から全学科、桜の花のように美しく潔く散れと、国の為に死ぬことが正しい生き方だと洗脳され、国のそして天皇の為に死ぬことが人生の目的とされました。当時の日本人の平均寿命は50歳でした。私たちは20・2・3歳が死ぬ時だから太く短く生きようと、お互い話し合ったものです。

 20歳が徴兵年齢でしたが1944年昭和19年に18歳まで引き下げられ、私たちは卒業まで徴兵延期でしたが、それも取り消され、軍隊に入隊、トンネル陣地を補強守備していました。フィリピンのクラーク基地から日曜日以外の日には定期的に戦闘機が来て陣地を機銃掃射し、時には小型爆弾を落としますのでいつも死と隣り合わせている感じでした。脳裏の片隅にはいつも死がありました。その時でした。

 「我は神に生きんために、おきてによりておきてに死にたり。我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは、我を愛してわがために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」このみ言葉を読みました。これは日曜学校2年生の時覚えた豆カードの御言葉です。意味は山里牧師の奥様の説明でなんとなく分かりました。私は陣地でポケット聖書を読んでいる時にこのみ言葉に再び出会い、私の死に対する疑問は解けました。パウロは自分の経験をはっきり語るために『我は』εγωエゴを使用しています。通常は動詞にωをつけます例えばアガパオー セオス私は神を愛すαγαπω σεοσです。

 イエス様が十字架の贖いを成就なさるまでは、ガラテヤ3章23~25節「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、最早、この様な養育係の下にはいません。」旧約のおきてを完全に守った人のみが救われるのですが、人間には律法を完全に守ることは不可能に近い事です。

 父なる神様は私たち人類を愛して御子を遣わされ、十字架の主をキリスト救い主と信じる者をお救いになったのです。パウロはその事を、『我はεγωエゴ神に生きんために、律法によって律法に死んだ』律法はキリストが来られるまでは養育係りでした。キリストが来られるまで私達の養育者であった律法に死んだ。そのことによって律法との関係がなくなり、律法の支配から離れられ、神様の支配下に置かれたことが神に生きることでした。律法によって死んだことは、キリストと共に十字架につけられた事です。私は死に直面して十字架で死んで、主と共に甦ってこのどん底の中でも生きているんだと信じることが出来たのです。

 あの状態の中で神がすべてをよきになしたもう(ローマ8章20節)とはと祈りの中で問いかけた時、このみ言葉で主との出会いが出来ました。洗礼の恵にあずかった時雨上がりの濁った川の中に沈められ引き上げられた肉体の経験が信仰として生きたのです。今私が生きているのは神様の御一人子が私の為に十字架の上で血を流され肉を裂かれた。その主が私のうちで生きておられるのだと信じた時の感謝は忘れることはありません。私は死のそして今生きている意味を実感しました。

 私はこのことを忘れないように毎年のように皆様に証しすると共に、兄弟姉妹が自分εγωの証しをしていただきたいと切に願っているのです。

【初めに神は天地を創造された】 創世記1章1~5節

2017年1月1日

 神の時は初めがあり終わりがあります。それを聖書は創世記に初めをヨハネ黙示録が時の終わりとして述べています。歴史は神の業であることを語るその出発点としてこの1節があるのです。歴史の序論として神がご自身の計画に従って秩序ある世界の創造を、創世記が書かれた時代の考えかたとして述べたものです。この初めと終わりは時間的なものではなく、すべての出来事の出発点を神様の御業として語っているのです。

 一昨年だったと思いますが、科学者達(日本人も含まれた)が実験装置の中でヒッグス粒子が見つかったというニュースがありました。それは宇宙の誕生の時、ビックバン(大爆発)によって膨張を続ける宇宙の切つ掛けになったとする説の中です。理論物理学者達はその時多くの素粒子(17種類といわれる)が飛び出した。その素粒子の一つヒックス粒子が飛び回る質量のない素粒子を次々と捉え、質量を持った原子核となり原子・分子となり質量を持ち、やがて星が出来宇宙が出来たとする説でした。そのヒックス粒子が見つかったというのです。このヒックス粒子がなかったらあらゆる粒子は光速で飛んでしまい宇宙は存在していないのです。それゆえか学者達はヒックス粒子を神の手と呼んでいます。私はこのビックバン説を神の創造と結びつけようとは思いませんが、科学者が宇宙論から神の手といわれるヒックス粒子を発見したことに深い興味を持ちました。

 理論物理学から離れ、ユダヤの祝日を述べます。ロシ・ハシ祭九月、新年を記念する。ヨム・キップール祭 贖罪の為に断食と祈りの日。スコット仮庵祭、3~4月、荒野の放浪を偲ぶ。パサハ過越祭、エジプト脱出を記念する。シャブオット五旬節パサハの50日後、モーセの十戒を祝う。ハネカ光の祭り、ギリシャに対する勝利を祝う。プリム祭エステル記に述べられている。エステルが民族を救うために命をかけた記念日です。

 ロシ・ハシ祭。新年祭には十戒を収めた神の箱を先頭にして行進行列が行なわれました。来る一年を通じて、神様ガイスラエルを統治することを表す儀式が行なわれ、その儀式の式文として創世記1章と詩篇104篇が読まれました。新年祭は時間的な新しさではなく無から世界創造がなされたその創造の新しさを祝ったのです。

 新年も新聞も時間の経過で古くなります。一時的な新しさですぐ古くなります。νεοσネオス。ニュースの語源です。いつまでも変わらない新しさは、καινοσカイノス。新約聖書は新しい約束です。新年によく引用されますコリント第二の5章17節「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」もこの変わらざる新しさです。

 ユダヤでの新年祭に、創世記1章が式文として読まれるのも無から創造されたものでも時間の経過で古くなっていく事を語っているのです。私たちが主によって救われ聖くされるのはキリストに在りていつまでも聖さが古びないからです。新年に当ってカイノスの信仰を確立しましょう。